キース・アウト
(キースの逸脱)

2004年1月

by   キース・T・沢木

サルは木から落ちてもサルだが、選挙に落ちた議員は議員ではない。
政治的な理想や政治的野心を持つ者は、したがってどのような手段を使っても当選しておかなければならない。
落ちてしまえば、理想も何もあったものではない。

ニュースは商品である。
どんなすばらしい思想や理念も、人々の目に届かなければ何の意味もない。
ましてメディアが大衆に受け入れられない情報を流し続ければ、伝達の手段そのものを失ってしまう。

かくして商店が人々の喜ぶものだけを店先に並べるように、 メディアはさまざまな商品を並べ始めた。
甘いもの・優しいもの・受け入れやすいもの本物そっくりのまがい物のダイヤ
人々の妬みや個人的な怒りを一身に集めてくれる生贄
そこに問題が生まれれば、今度はそれをまた売ればいいだけのことだ。













  


2004.01.02

学校見学いつでもどうぞ 県教委が開放推進

[毎日新聞 1月2日]


 子どもたちの普段の生活を見てもらおうと、兵庫県教委は二〇〇四年度から公立学校を一週間、地域の人に開放する「オープンスクール」を推進する。不審者の侵入事件で学校の安全が揺らぐ中、「地域と教育課題を共有し、一緒に見守る態勢をつくりたい」と県教委。〇四年度は高校を対象にし、〇五年度以降、県内すべての小中学校での実施を目指す。

 保護者が授業を一、二時間見学する参観日は多くの学校が設けている。だが、県内すべての公立学校で保護者と地域住民が一週間、いつでも見学できるよう試みるのは全国的にも珍しいという。

 丹波地域では昨年、小中学校の十五校が一日中―五日間の参観日を設定。「仕事の都合がつきやすい」「放課後の部活動で、生き生きした生徒の姿に感激した」「茶髪の子ほど積極的に話してくれた。見て見ぬふりをしていたことを反省した」などと好評だった。

 県教委はこうした実績を踏まえ、全県的に一週間の学校開放を進める。ただ、地域の実情に応じ、開放する日数や方法は学校ごとに判断する。

 一方、昨年は不審者が学校に侵入し、児童を襲う事件が相次いだ。このため、校門で入校者のチェックを徹底。名札を付けてもらうなど、安全管理を徹底させる。

 県教委は「いいことも悪いことも見てもらいたい。学校を開くことで地域の教育力向上につなげたい」としている。



悪い試みではない。
一日1、2時間といった従来の参観授業では保護者も来るのが大変だ。それが5日間(一週間というのはそういう意味だと思うが)いつでもどうぞということになれば、ずっと参加しやすくなるだろう。
もちろん教員にとっては大変なストレスになるが、これも授業に対する良い刺激と考えればむしろ歓迎すべきことである。同様に、生徒が5日間も緊張を持続させなければならないといった状況も悪くはない。
だがこの試み、実際には3〜4年しか持たないだろう。
現実の保護者や地域住民は、それほど学校教育に興味を持っているわけではないのだ。


最初の年は物珍しさもあって確実に盛況であろう。
熱心な保護者の中には5日間ぶっ続けで参加などという人も出て来ようし、児童民生委員といった方々だって立場上、一度は学校に行ってみようという気にもなる。
しかし日常の学校など、そんなに楽しいものではないのだ。それが分かったとたん、参観者は激減する。

「放課後の部活動で、生き生きした生徒の姿に感激した」
「茶髪の子ほど積極的に話してくれた。見て見ぬふりをしていたことを反省した」

それはそうだろうが、同じ感激を味わったり反省したりするために、ひとが何度も学校を訪問することはない。


5日間いつでもといったって、結局学級行事(学級PTA・学級レクなど)や学年行事が予定されている日は必ず行かなければならないのだから、残り4日間はあまり意味のあるものではない。そうなると、結局保護者が参観する日は自然に偏ってしまう。

3年目には教室に入ることすら躊躇われるようになる。うっかり入ると参観者が一人しかいない、ということもありうるからだ。
校内は閑散としてくる。その中を数人の参観者が行き来する(もしかしたら、それは別の目的で学校に入り込んだ人なのかもしれない)。何か事件が起こらなければいいのだが。
学校に限らず、公共の組織が一度決めたこと、特に地域住民のためにという名目で始めたことを中止するのは非常に困難である。事件が起こるまで、この制度は見直されない。


ただし、そんなめったに起こらない確信的犯罪者の侵入より、もっと単純でより可能性の高い問題もある。
ひとつは、
 
一方、昨年は不審者が学校に侵入し、児童を襲う事件が相次いだ。このため、校門で入校者のチェックを徹底。名札を付けてもらうなど、安全管理を徹底させる。
というとき、
誰が入校者をチェックし名札をつけるかということである。5日間ぶっ続けで校門に誰かを貼り付けておけるほど、学校職員は暇なわけではない。

もうひとつは、
参観日を拡大すると保護者はかえって来なくなる、ということである。
参観授業が1日1時間だけとなると、保護者は相当無理をしても学校に来てくれる。なぜならほとんど全員の保護者が来る中で、ウチだけが行かないとなると子どもが不憫だ、と考えるからである。
しかしいつ行っても2〜3人しかいないとなると、無理していく必要もなくなる。一週間いつでもいいということは、来なくてもいいということなのだ。
(5日も用意すればどこかに暇な日もあるだろうというのは机上の考えで、普通の職場はどこも毎日、同じように忙しい)
結局この制度、怠ける保護者を徹底的に怠けさせるという意味でも、保護者の支持を得やすいものである。

しかし、それでいいのだろうか?







2004.01.05

キーワードは「企業感覚」

[東奥日報 1月4日]


 穏やかな天気の三が日だった。申(さる)年は「(魔が)去る年」とも言われる。平和な年になってほしい。しかし、改革が去る年にしてはならない。

 小泉首相は、二年七カ月前の就任演説で、「米百俵物語」を例にとり、教育の大切さを訴えた。その後どう変わっただろうか。
 学級崩壊、「普通の子ども」による殺人など心の荒れを示す現象が目立つ一方で、登校拒否や高校中退が増加している。学力が低下したという指摘もある。
 文部科学省の理念なきゆとり教育によって、学校教育の混迷は、さらに深まったのではないか。もはや国任せにはできない。

 ここに注目すべき二つの試みがある。来年度から、京都市教委がはじめる教員の「FA(フリーエージェント)制度」と、東京都で全面導入される、高校生による「教員の評価制度」である。
 自治体からの教育改革ののろしといっていいだろう。

 京都市のFA制度は、教員が自分の専門性や得意分野をアピールして不特定の学校長からの“引き”を待つというものだ。
 FA制度は、プロ野球ではおなじみで、一定期間一つの球団に在籍した選手が、自由に希望する球団に移籍できる資格をもつ。
 巨人の松井秀樹選手が宣言し、大リーグで活躍している。教員の中にも、松井級の能力をもつ人もいるだろうから、大いに期待したい。
 十年以上の教員経験者で、いまの学校に三年以上勤務していることが条件である。自己アピール書を市教委に提出して「FA宣言」することで、市教委が希望者のリストを公表する。
 何校からも声がかかると、逆指名もできるというから、意欲と情熱ある教員には願ってもない制度だろう。イチローや松井のような人気者になるかもしれない。

 一方、都教委の「教員評価」は、約二百十ある都立高校すべての教員が対象となる。
 来年度から、教員は五−三段階の「通信簿」を高校生からもらうことになる。
 実験的な例は全国各地にあるが、都の場合は評価項目が細かいだけでなく、それを参考に、教員の「力量」を数値化する方針というから、注目したい。

 FA制度も、教員評価も、キーワードは「企業感覚」だと思う。企業と学校は風土が違う、教育に市場原理はなじまないという意見をよく聞くが、それは間違いである。
 倒産も、リストラもない学校現場だからこそ、厳しい評価と、実績に見合った処遇が必要なのだ。
 教員は、人を教育するという神聖な職業であり、常に教育者として知識と品格を求められている。

 また、教育には“引き出す”という意味がある。何よりも大事なのは、子どもたちに君臨する王様ではなく、一人ひとりの個性を見分け、最も良いところを引き出す導き手になることである。
 大阪府では、指導力不足の高校教員が分限処分となった。高校入試問題の半分も解けなかったというから驚きだ。教員の学力に厳しい視線が注がれている。

 多くの教員は使命感を失わず、子どもを丁寧に指導し、大切にしている。しかし、たとえ一部であっても、資質に欠ける教員がいることが問題なのだ。
 子どもが個性を伸ばし、真の学力を養うためには、教員が意識改革し、質を高めることが欠かせない。
 教員への能力主義導入は、教育改革の前途に大きな意味を持つ。競争原理がテコになって、教員が切磋琢磨(せっさたくま)すれば、学校の活性化にもつながる。
 京都市と東京都の先進的な姿勢に学びたい。



京都市のFA宣言についてはかつて一度注目し、ここに書こうか迷って結局はやめた経緯がある。
その意味がわからなかったのだ。
確かに、それぞれの教師が何を「売り」にしているかを知ることは、各校に教員を振り分ける上で教委や校長にとってメリットはある。しかし教員本人にとってどういう良さがあるのか、それが分からなかった。
公立学校の教員給与は、各校が自由に決めているわけではない。「ぼくはコンピュータに長けています」「私は教科指導に自信を持っています」などと手を挙げて、その上で給与が上がるわけでもなく、何のメリットもないとしたら、誰がFA宣言などするものか、「口ほどにもない」と責任を問われるだけじゃないか、そんな思いだった(そのときは「逆指名」の話はなかった)。

しかし「逆指名」となると話は別である。
これは大いなるメリットだ。
FA宣言をして一校でも指名してくれたら、そこから赴任校を比較考量することができる。
自分の行きたい学校であれば行けばいいし、いやなら現任校に留まればいい。プロ野球とは違い、
まさか現任校が指名してくれなかったからクビということにはならないだろう。毎年FA制度を活用して、気に入った学校が指名してくれるまで、ひたすら待ち続ければいい。

ところで、普通の教員が行きたがる学校、というのはどんなものであろう?
山間僻地・離島にあるような学校だろうか、それとも都市部の学校だろうか。
荒れすさんだ、ある意味「やりがいのある学校」だろうか、それとも「落ち着いた学校」だろうか。
新興住宅街の真ん中に位置するマンモス校だろうか、それとも適正規模の学校だろうか。
そう考えると、教員FA制度の未来が見えてくる。

収益率の高い店舗は増強し、低い店舗は縮小撤退するというのはまさに企業感覚である。同様に、
都市部の、落ち着いた、適正規模の学校には「自分には能力がある」と宣言してはばからないほど優秀な人材を入れ、僻地や荒れた学校には意欲にかける教員を残すというこの制度、教育全体にとってどういう意味があるのだろう。

プロ野球では今年、読売巨人がピッチャーを除く1番から8番までホームランバッターを並べる勢いだという。大リーグでもヤンキースが異常に選手層を厚くしている。
そうしたFA制度から、なぜ学ばないのだろう。


東奥日報には直接リンクをつけていただいている関係上義理もあり、普段は穏当な記事が多いだけに悪くは言いたくないのだが、それにしてもセンスが悪くはないか。









2004.01.13

あの手この手にも騒動やまず…2004成人式

[読売新聞 1月12日]


 父母や恩師がお目付け役になったり、1席置きに着席させられたり――。12日の成人の日にあわせて各地で式典が行われたが、「荒れる成人式」を防ごうと、あの手この手の対策が取られた。しかし、今年も騒動は相次ぎ、見直しや意義を問う声も高まっている。

 ◆「議員紹介が長い」◆

 「議員紹介が長い。選挙アピールみたいで、新成人を励ます趣旨が伝わらない」。12日、川崎市で開かれた式典。企画運営を手伝う「成人式サポーターグループ」代表の男子学生(19)がステージの演台に土足で上がった後、不満をぶちまけた。

 会場から拍手も起きたが、市議、県議らは苦い顔。阿部孝夫市長は演台に残された男子学生のあいさつ文をステージ下に投げ捨てた。式典後、阿部市長は「若いからいろんなことを言ってもいいが、土足で神聖な演台に上がるのは非常識」と怒る。

 ディズニーリゾートのペアチケットなどが当たる抽選会を開いた静岡県伊東市。当選番号を聞き逃さないよう新成人は静かになるはず――だったが、11日の開会早々、数人が壇上に上がり騒然となった。鈴木藤一郎市長は、騒ぎを起こした新成人の刑事告訴も検討していることを明らかにした。

 ◆防止策に悩む自治体◆

 自治体は「荒れる成人式」の防止策に頭を悩ます。

 2002年に男性2人がマヨネーズを盛った皿をぶつけ合う騒ぎがあった青森県五所川原市。用意された父母席で、100席の半分ほどを埋めた保護者らが目を光らせた。出席した新成人男性は「信用してほしいのが本音だが、騒ぎを起こす新成人がいるのも事実で、お目付け役は仕方ない」。

 「新成人がおとなしくなるはず」と、長崎県諫早市は中学3年時の恩師を3年続けて招待した。座席配置で私語防止を図った茨城県瓜連町は、1席置きに着席させる念の入れよう。静岡県清水町は、中学3年時の出席番号順に座席を決めたうえ、来賓で囲んだ。

 「厳粛な式を望む人にだけ来てほしい」。騒がしい式が続いた大阪府守口市は、2年前から事前申し込み制にしている。2001年から事前申し込みを導入した静岡市では、合併前の旧静岡市地区で受け付けた。申込者の出席率は61%。市教委担当者は「せめて申し込んだら、責任を持って参加してほしい」と苦り切る。

 ◆見直しの一方で思惑も◆

 式を見直す動きも、広がりを見せている。

 全国最大規模の2万2000人が集まった横浜市の横浜アリーナを、学識経験者らでつくる「『成人の日』記念行事あり方検討委員会」が視察した。成人式が「単なる同窓会になっている」との意見もあり、式の必要性や分散開催を検討している。

 その一方で、関連する業界側の思惑もある。旧静岡市が2000年に廃止を含めて見直しを打ち出したところ、市呉服商組合などから存続を求める要望書が出された。「呉服商、写真館、美容院など関連業界は多い。地域経済活性化のため、大勢の参加が期待できる以前の式を復活させてほしい」と、市呉服商組合の平野順三組合長(66)は訴える。

 23区最多の新成人がいる東京都世田谷区。大学2年の男子(20)は「友達と会う目的で来ており、式はどうでもいい」と、休息所で友人と話し込む。「荒れない」新成人からも、冷めた声が聞かれるが……。



成人の日は「キース・アウト」の誕生日である。
4年前のこの日、「荒れる成人式」の記事に切れて、このページをつくった。それが初めである。

それから4年。今年の全国の成人式は読売新聞の言うような
あの手この手にも騒動やまずだったのだろうか? 私は疑問に思う。

成人式の分散化は今年も進み、私の住む地方でも各自治体の成人式は10日、11日、12日と三日間に分かれて行われ、報道も三日連続となった。しかしテレビを見る限り、「騒動のなりやまない」状況はなかったように見える。

読売の取り上げた
企画運営を手伝う「成人式サポーターグループ」代表の男子学生(19)がステージの演台に土足で上がった後、不満をぶちまけた。
という事件についても、
毎日新聞だと
 男性は演台に上がり「あいさつを用意してきたけど、やめた。社会で生きるために自立し、励ます式とか言ってるけど、そんな趣旨は伝わってこない」と宣言。降りた後もマイクを離さず、「これから日本を背負っていくのは確実におれらなんで、テンション上げていこう」などと訴えた。会場は笑い声とやじに包まれたが、大きな混乱にはならなかった。
となる。
本人にしてみれば気合の入ったパフォーマンスのつもりだったろうが、そんなスタンドプレーに同調し支える若者などいない。
会場は笑い声とやじに包まれたは、実にありそうな反応であり、その方が自然だろう。代表の男子学生(19)は自分たちの仲間の感情を見誤っている。

読売は最後に、成人式を地域活性化の道具のように考える意見を記し、荒れなくても無意味と匂わせる発言で閉じる。

全国の成人式が比較的平穏に行われたため、十分に面白い記事が書けなかった腹いせに、こうした記事が出来上がったとしか思えないが、いかがか。









2004.01.13

仕事熱心、行き過ぎた?救命士が互いの腕で注射訓練

[読売新聞 1月12日]


 茨城県ひたちなか市消防本部の救急救命士9人が、医師の指示を受けずに、互いの腕に注射針を刺す訓練を繰り返していたことが12日、わかった。

 同本部によると、9人は24―45歳の救急救命士で、1997年から昨年10月ごろまでの間、複数回にわたり、互いに静脈注射用の針を刺す訓練を行うなどしていた。また、救急隊員1人が、救急救命士から注射針を刺され、腕の一部にしこりが生じているという。

 救急救命士法では、救急救命士が、搬送中の患者に、心臓の循環機能を促進する薬などを注射することを認めているが、医師の指示がなければ、行ってはならないと定められている。

 同本部では、「薬液を注射していないので違法ではないが、医師の指示を受けないで注射針を刺したことは問題」として、すでに9人に厳重注意している。

 同本部の川上隆幸次長(56)は「生身の人間に注射する機会が少ないので、その不安を取り除くために仲間内で訓練したのではないか。訓練の機会を増やすよう、提携関係の病院に協力を要請した」と話している。



新米消防士が「互いに静脈注射用の針を刺す」という訓練にビビッて「そんなのヤダ」とばかりにマスコミにチクッた、そういう話だろうか?
この消防士たち、私には誠実で立派な人たちに見えるが、マスメディアから見ると厳重注意に値するのだろう。

ところで、私はこの記事を読ん震え上がった人々が、日本中に相当数いたと思う。
全国の消防学校・看護学校の生徒たちである。
というのは、彼らが誠実である限り、この種の訓練・練習は必ず行われていると考えるからである。そしておそらく教師も教官もそれを黙認する。そうしないと現場で多大な問題が発生する可能性があるからだ。

どんな教育も全員が同じレベルに同時に達するということはない。「注射をする」という学習についても、さっぱりうまくいかない生徒もいればいつまでも自信のもてない生徒だっている。しかしその一番遅い生徒に合わせてカリキュラムを組んでいては、何年経っても卒業生を送り出すことはできないだろう。一定の速さで授業は進め、積み残しは生徒の自学自習に任せる、それが「学校」の普通の姿である。

消防本部の救急救命士9人が、医師の指示を受けずに、互いの腕に注射針を刺す訓練を繰り返していたというこの事件、たとえばこんな記事にはできなかったものだろうか?

こうした消防士たちの姿はすばらしいものである。しかしその誠実さに甘えることなく、消防士たちが自主的に訓練をしなくてもすむよう、もっと適切な機会を多く設けることはできなかったのか、そのための予算ならふんだんにつけてほしい。

それができないにしても、この事実を無視する余裕はなかったものだろうか?

この記事のおかげで、全国のかなりの数の消防士・看護士の卵たちが自主的訓練の機会を放棄するだろう。そして「自主的訓練の放棄」は注射針を刺すという活動のみに限定されるのではなく、もっと広い範囲で行われるかもしれない。何しろ自分自身が痛い思いをし、友に刺すという辛さに耐えて行ってきたことすら否定されるのであれば、ほかの活動だって馬鹿らしくてやってられない。

私たちはやがて、不安そうな表情で震える針先をこちらに向ける新米看護士や、瀕死の自分の腕に何度も注射を試みるマジメな救急隊員に出会うことになるかもしれない。。









2004.01.14

茶髪生徒に授業受けさせず 松山市の中学、別室で自習

[共同通信 1月14日]


 松山市の市立中学校で、髪を茶色や金色に染めた3年男子生徒(14)に対し「ほかの生徒に影響を与える」として、学校側が昨年4月から教室で授業を受けさせず、会議室で自習させていることが14日分かった。
 また同校は、現在作成中の卒業アルバムにこの生徒の写真を載せずに編集作業を進めていた。
 同市教育委員会によると、生徒が昨年春ごろに髪を茶色に染めたため、学校側は新学年が始まった昨年4月から会議室でプリントによる自習を命じた。生徒は欠席することが多かったという。
 生徒は、教諭の指導を受けて丸刈りにした昨年6月ごろには教室で授業を受けることができたが、その後また髪を染めたため、再び会議室で自習をさせられた。教室に入った生徒を教諭が外に連れ出したこともあったという。
 卒業アルバムに生徒の写真を載せずに編集作業を進めていたことについて、学校側は指摘を受けてミスを認め、生徒が丸刈りにしていた時期の写真を載せることを決めた。



たとえどんなことがあろうと教室で授業を受けさせないということはあってはならない、というのは一種の原理主義である。
たとえどんなことがあろうとも、卒業アルバムに生徒の写真を載せないというのはあってはならないとだいうのも原理主義である。

いやそうではない、すでに社会的に認知を受けた茶髪程度のことで授業を受けさせなかったり卒業アルバムに写真が載せられないのは可愛そうだ、というなら考えてみよう。

結論からいうと、
校内にそうした規約があるなら(茶髪の禁止は、まず間違いなくあると思うが)、それに違反した生徒を教室から遠ざけたり、卒業アルバムに写真を載せないと脅して実行に移すことに、なんら問題はないと思う。

なぜなら問題の生徒はそうした校則や通達を熟知しているのであり、それにもかかわらず再三茶髪で通そうとするのは、学校に対する明らかな挑戦だからである。
問題はそうした挑戦に対して、学校が屈するか戦うかということだ。

この問題で学校が生徒に屈するとなると、他の多くの校則において生徒に屈服しなくてはならなくなる。茶髪はいいがピアスはいけない。スカートを短くするのはいいが制服を着ないのはいけないといったことに明確な説明などできはしない。あの子はいいがこの子はダメだというのはなおいけないことである。だとしたら、生徒が挑戦するたびに、私たちは譲歩を余儀なくされるだろう。

その結果、茶髪・ピアス・ミニスカートといった本質的でない問題での闘争は完全に終了され、妊娠・薬物乱用・恐喝といった子どもたちの成長にとってかなり危機的な問題が闘争の場となる。
もちろんそうした戦場でも教師の勝つ場合が多いだろうが、それでも何回かは敗れる。

それでもいいなら、私たちも考えよう(ただし、私自身の子については、「本質的でない問題での闘争」を放棄し、「危機的な問題での闘争」にシフトするような愚かなことはしない)。

だが、この子に勝たなければほかの子にも勝てない、というのは二次的な問題でしかない。
より重要なことは、この子の挑戦に対して教師が簡単に屈服するということは、この子を自身を放棄することに他ならないということだ。
違反をしても叱ってもらえない子、道を逸れ始めても止めてもらえない子、「どんな手を使ってもお前を悪い子にはしない」と立ち向かってもらえない子、そんな子が幸せであるはずはない。









2004.01.14

乱れた睡眠、幼児の脳発達に悪影響?…5歳児調査

[読売新聞 1月14日]


 寝起きの時間がバラバラで睡眠リズムが乱れた幼児ほど、問題行動を起こしやすく、三角形の模写なども苦手なことが聖徳短期大学の鈴木みゆき助教授らの調査で分かった。

 睡眠リズムの乱れが、脳の発育に悪影響を与えている可能性がある。鈴木助教授は、幼稚園や保育所で無表情だったり、急にパニックになったりする子供たちが増えているのに注目。13か所の幼稚園・保育所、計348人の5歳児を対象に、2週間の睡眠日誌を記録してもらい、保育者との面談調査の結果と比較した。

 寝起きの時間に1時間半以上のばらつきがあり、睡眠リズムが乱れていると思われたのは50人。そのうち38人(76%)は、保育者が「ボーッとして無気力」「自己主張が強く、通らないとパニック」「理由のない攻撃性を示す」――などとして、「気になる子」に挙げていた。また、三角形の模写では、18人(36%)が斜線などを上手に描くことができなかった。

 一方、睡眠リズムが正常な298人では、「気になる子」と指摘されたのは35人(12%)。三角形の模写ができない子も32人(11%)だけだった。

 斜線の知覚や描写は、水平や垂直な線に比べて難しく、能力は4歳半から5歳半ごろに大きく発達する。脳機能の発達を調べる1つの指標になると考えられている。さらに、96人の5歳児を対象に「+」「\」「△」「□」などを模写する認知と運動の統合検査を行ったところ、睡眠リズムが乱れたグループ(14人)は、正常なグループに比べ、平均点(12点満点)で1・3点低かった。

 研究は科学技術振興機構の「脳科学と教育」プログラムの一環で、研究班の瀬川昌也・瀬川小児神経学クリニック院長は「脳の正しい発達には、睡眠と覚醒(かくせい)のリズム確立が欠かせない。リズムの乱れが、情緒や社会性の発達、認知機能に障害を与えている」と指摘する。



私たちが当然と考えていることを科学的に証明する。心理学はまだその程度のレベルにあるともいえる。
実際、睡眠の不安定自体が問題行動の原因なのか、幼児の睡眠の管理すらできない親の養育態度が原因なのかそれも定かではない。あるいはそもそも問題行動を起こしやすい生来の気質というものがあって、そういう子は同時に睡眠が不安定になる気質を持っている、そういった可能性だってある。
しかし睡眠と性格の間に統計的な裏づけがなされたことは、確かに重要なことであろう。


それぞれの数値のもつ意味は重い。
しかしそれ以上に、
睡眠リズムが乱れていると思われたのは50人、というこの数字自体に私は驚く。母集団が348人だから、実に14%以上の子がの睡眠が乱れているのである。

たまに出かける飲み会の2次会で、居酒屋の隅に幼児の姿を見ることがある。夜も10時過ぎだというのに、子どもたちは楽しく飲み交わす親の横で、所在なく遊んでいる。
先の14%の内の一人なのだろう。
やがてその子は「難しい子」となって親に迷惑をかけることになるかもしれない。
親は楽しく飲み交わしたツケを何年もたってから払うことになる。
自業自得だからそれもいい。

しかしその子自身は何の罪もないのに、長く親のツケを払い続けることになる。
ツケはその子の人生で購われる。









2004.01.18

一昨年の卒業式のしおり、不登校児の名を載せず−−紫雲寺町立藤塚小 /新潟

毎日新聞 1月17日]


 ◇「不平等」と両親
 紫雲寺町の町立藤塚小で02年3月に行われた卒業式をめぐり、学校側が、当時不登校だった男子児童の名前を、卒業式のしおりに記載しなかったことが16日、分かった。町内に住む両親らが同日、県庁で会見し、明らかにした。町教育委員会は「保護者の要望があったためだが、結果として申し訳なかった」とコメントした。【小畑英介】

 両親らによると、児童は卒業認定を受けたにもかかわらず、保護者らに配る卒業式のしおりに名前が載っていなかった。また、町立紫雲寺中学への入学通知書が送付されなかったり、同中の入学式のしおりでも名簿から氏名が落ちるなどしていた。両親は会見で「不平等な扱いを繰り返してほしくない」などと語った。

 これに対し、紫雲寺町の長谷川孝志・教育長は「児童の卒業認定に関する両親との話し合いなどでトラブルがあった」と説明している。両親に卒業認定することを伝え、式への出席も呼びかけたが「卒業するかどうかは決めていない」などと議論が平行線をたどり、名前の記載も断られたという。

 長谷川教育長は「名前を載せなかったのは、保護者の強い要望が理由。入学通知書も受け取ってもらえなかった」と反論した。一方で「結果としては、あってはならないことをして、生徒に申し訳なかった。保護者の意向を尊重しないと、また違う混乱が起きたと思う」とも話した。

 この日、両親らの申し入れを受けた県教委義務教育課の渡辺伸栄課長は「結果的には、教育的配慮の欠けた不適切な対応だった」と話している。

 また、この問題をめぐっては、人権救済申し立てを受けた県弁護士会が昨年12月、町教委と両小中学校に対し、名簿への記載がなかったことなど4点について、今後、不適切な処置を取らないよう要望・勧告を行っている。

人はこの記事をどう読むのだろう?
私には謎だらけなのだが・・・・。

  1. 2002年3月の事件が、なぜ2004年1月に問題となるのか。
  2. しおり作成や中学校入学通知書の配布は本来機械的な作業のはずだが、なぜ学校や教委はその子の分だけを外すという厄介な作業を選んだのか。
  3. 他紙によると、当該の児童の保護者は卒業記念アルバムへの写真掲載を拒否している(この点については双方意見の相違はないので事実なのだろう)。しかし写真の掲載を拒否しながら、保護者はなぜ「しおり」への氏名掲載にこだわるのか? しおりへの氏名掲載について、学校・保護者双方にどういった合意があったのか?
  4. 中学校もなぜ、しおりから氏名を削るという面倒なことを繰り返したのか。
  5. 県弁護士会は、(少なくとも記事上は)これほどあいまいな話であるにもかかわらず、なぜ要望・勧告を行ったのか。
  6. なぜ、毎日新聞はこのあいまいな事件を報道したのか。毎日新聞の立場はどこにあるのか。
  7. なぜ教育長は謝らなければならなかったのか。長谷川教育長は「名前を載せなかったのは、保護者の強い要望が理由。入学通知書も受け取ってもらえなかった」と反論した。一方で「結果としては、あってはならないことをして、生徒に申し訳なかった。保護者の意向を尊重しないと、また違う混乱が起きたと思う」とも話した。は国語的意味においてすら理解できない。







2004.01.21

「違法な超勤を放置」教員が提訴 京都市に賠償求め

[京都新聞 1月20日]


 学校現場で違法な超過勤務を強いられているのに、改善せずに放置し続けているとして、京都市立の小、中学校に勤務する教員9人が20日にも、市を相手に慰謝料など総額約3300万円を求める訴えを京都地裁に起こした。原告側弁護団によると、超勤を放置した違法性を争点に、教員が損害賠償を求める訴訟は全国でも珍しいという。
 原告の9人はいずれも市教職員組合の組合員。訴状によると、右京区内の中学校に勤務する男性教員は、昨年6月に自身の超勤時間を調べたところ、授業の準備やクラブ活動のために、1カ月に換算して計約91時間の超勤があった。他の8人も約109−66時間の超勤をした。
 公立学校の教員については、特別措置法や条例が▽原則として時間外勤務は命じない▽時間外勤務を命じる場合は実習や学校行事に関する業務のうち、やむを得ない時に限る−と定めている。
 しかし、原告の教員側は「『時間外勤務をさせない』という原則は現場で機能せずに、違法状態がまん延し、行政はこれを防止する義務を怠っている」とした上で、「過酷な状況がゆとりある教育を進める上で障害になり、子どもの学習権を侵害している。超勤はサービス残業で処理している」と指摘。近年は「新教育課程や学校週5日制の導入が教員の仕事量を増加させている」と主張し、慰謝料や未払いの残業代を求めている。
▽訴え理解できない
 市教委は「教員の超勤手当は、国の法制度で全国どこでも支給されず、代わって教職調整額が一律に支給されている。義務教育の教員給与は、法で国と都道府県が負担する制度となっており、市への訴えの趣旨は理解できない」としている。


一義的には京都市教委の主張が正しい。

教職員はその仕事の性質上、どこまでが残業か見分けがたいため、教職調整額という一律の支給をもって残業手当に当てている。その額は法令で給与の100分の4と決められており、それを基準に地方自治体が独自に決めていいいことなっている(ちなみに京都市の場合も100分の4である)。

ではその元となる給与であるが、どれくらいになるだろう。

京都市の給与モデルが見つからなかったので、ここでは別のある県のモデルを利用するが、それによると教員の本給は25歳で210995円、35歳で315652円、45歳で384554円となる。教職調整額はその4%であるからそれぞれ7600円(25歳)、12100円(35歳)、15400円(45歳)ということになる。

提訴した9人は何歳くらいの人だろう?

 真ん中をとって35歳くらいと考えると12100円。約109−66時間の超勤をした、ということであるからこれを時給に直すと、111円〜183円である。

不満はここにある。

いったい今の時代、時給111円〜183円で働いている人が何人いるだろう?

いや民間のオレのところは一銭ももらわないサービス残業だと言ってはいけない。残業に対して一銭も払わないのは明らかに違法なのであって、そちらがまず正すべきことだからだ。

私は年もいっているから状況ははるかにこれよりいい。しかしそれでも時給換算で200円程度。持ち帰りの仕事については、無論、時間の中に含めていない。

こうした状況だから、校長も「教職調整額があるから文句を言わずに残業しろ」とは絶対に言わない。言った瞬間に、調整額を一般公務員の残業手当に換算し、その時間だけ残業をしてあとは一切やらないといった態度に出る教員だって出かねないからだ。

さて、学校現場で違法な超過勤務を強いられているのに、改善せずに放置し続けているとして、京都市立の小、中学校に勤務する教員9人が20日にも、市を相手に慰謝料など総額約3300万円を求める訴えを京都地裁に起こした。
というこの記事、人はどのような思いを持って読むのだろう?









2004.01.23

教員の心の健康どう守る

[奥羽日報 1月22日]


 今月十八日、静岡市の中学校長が自宅で自殺した。その五日前、同中では昼休み中、痛ましい事故が起きた。校庭のサッカーゴールが突風で倒れ、遊んでいた三年生男子が下敷きになって死亡したのである。
 校長は事故後に開かれた保護者に対する説明会で土下座して陳謝、葬儀の弔辞でも繰り返し謝罪していた。
 生徒の母親や市教育長らにあてておよそ十通の遺書を書いた。「自分の力が足りず、こういうことになり、大変申し訳ない」とつづっていたという。
 事故の責任について深く悩んだ末のことと思われるが、実に痛ましい限りである。

 教育現場を取り巻く環境は厳しい。校内暴力、いじめ、不登校、学級崩壊、学力低下、不審者の校内乱入、児童殺傷など殺伐としている。
 また、新学習指導要領の導入や学校完全週五日制など、指導方法や制度の変更もある。教育の現場で管理職や教職員の肉体的・精神的負担は計り知れない。
 このような事情を背景に、心の病で休職を余儀なくされる教員が増加しており、気懸かりである。

 文科省のデータによると、精神性の疾患で休職した公立学校の教員は一九八九年度千三十七人。それが、二〇〇二年度には過去最多の二千六百八十七人に上った。
 病気で休んでいる教員は毎年五千人を超えるが、この半分以上が精神性疾患だ。しかも、統計に表れるのは氷山の一画とされる。

 教育界に限らず昨今の社会はストレスに満ちている。リストラの増加、成果主義の普及、仕事量の増大など職場の環境は厳しい。
 厚労省のまとめでは、うつ病など精神障害の労災認定請求が年々増加している。
 九八年度四十二件だった請求件数は、〇二年度に三百四十一件に増加。同じ年度の比較で、認定件数は四件から百件に増えた。この中に自殺未遂と自殺が四十三件含まれている。

 教育現場での心の不健康状態の要因・背景として主に四つが指摘される。
 一つは児童・生徒の問題行動などの対応に追われ、心身ともに疲労する、といった生徒指導上の問題。次に、受験指導で保護者が求める高度な期待に対応できない指導力不足など教科指導上の問題。
 三つ目は学校や教員に対する強い批判など学校教育への過度の期待。そして最後に、不適切な校務分担など特定教員への過重な負担…である。

 本県の教育現場はどうなっているのだろう。データはあるはずだが明らかでない。しかし、全国的なすう勢と異ならない、と思われる。
 本県では教員のメンタルヘルス(心の健康)対策がどこまで進んでいるのだろうか。

 東京都の場合、都教職員互助会の三楽病院が、心の病で休職中の教員に職場復帰訓練をしている。都教委が選んだ約三十人を対象に病院内での模擬授業、体験を語る集団精神療法などで訓練する。
 病院の訓練が終われば、回復状況をみて、次の段階の学校訓練に移る。所属校に出向き、職員室への出勤から始め、少しずつ勤務時間を延ばし、通常に近い授業へと進む。

 都教委によると、九九年度にこの復帰訓練をした三十二人のうち二十三人が職場に復帰した。〇〇年度は三十人中、十五人が完全に復職したという。
 同病院の医師は、念入りな復帰訓練の重要性を説き、地方自治体も積極的に訓練制度を導入すべきだ、と指摘している。

 働きやすい職場環境づくりのため、校長のリーダーシップ、教員同士の協力・連携が問われる。


静岡の中学校長の自殺は実に痛ましい限りである。
しかしあえて言えば、命の大切さを教えるべき学校の校長が自らの命をこのように扱ったことについて、非難されるべき面もあったのではないか。
死者を鞭打たないという美風もあるが、日ごろから「命の大切さを教える教育」と口を酸くして言っているマスコミは、この点について、一言あってしかるべきだったと思う。

さて、それは別にして「教員の心の健康」である。

 文科省のデータによると、精神性の疾患で休職した公立学校の教員は一九八九年度千三十七人。それが、二〇〇二年度には過去最多の二千六百八十七人に上った。
 病気で休んでいる教員は毎年五千人を超えるが、この半分以上が精神性疾患だ。しかも、統計に表れるのは氷山の一画とされる

これは昨年12月24日に発表された文部科学省の統計によるが、このときは猥褻行為で懲戒を受けた148人の法が大きくクローズアップされ、「心の病」の2687人はほとんど無視された状態だった。それを取り上げた奥羽日報はなかなか偉いといえる。
しかしこの記事、2つの点で問題はないか。

一つは、
本県の教育現場はどうなっているのだろう。データはあるはずだが明らかでない。しかし、全国的なすう勢と異ならない、と思われる。
本県では教員のメンタルヘルス(心の健康)対策がどこまで進んでいるのだろうか。

新聞記者がこんな悠長なことを言っていてのだろうか。この程度のこと、電話一本で教育委員会から情報が引き出せるはずだ。もしそれが叶わないにしても、「学校基本調査」一冊をデンと机の上におけばいいだけのことだ。
なぜ調べなかったのか?

二つ目は「教員の心の健康をどう守るのか」という、まさにその点に関する発言である。
教育現場での心の不健康状態の要因・背景として主に四つが指摘される。
一つは児童・生徒の問題行動などの対応に追われ、心身ともに疲労する、といった生徒指導上の問題。次に、受験指導で保護者が求める高度な期待に対応できない指導力不足など教科指導上の問題。
三つ目は学校や教員に対する強い批判など学校教育への過度の期待。そして最後に、不適切な校務分担など特定教員への過重な負担…である。

はよくまとめられている。
まったくその通りと思う。
だとしたら「心の病」に対する対応も、原因にふさわしいものでなければならにはずだ。
それを
働きやすい職場環境づくりのため、校長のリーダーシップ、教員同士の協力・連携が問われる。
と学校に丸投げしてしまうのはどういうものか。

メディアは時として、明らかな結論からも目をそらすときがある。









2004.01.24

<学力テスト>理数科目で学力不足 高3対象に文科省

[毎日新聞 1月23日]

 文部科学省は23日、全国の高校3年生約10万5000人を対象にした教育課程実施状況調査(学力テスト)の結果を発表した。国語1は事前に想定した正答率を上回ったが、数学1と理科は大きく下回り、理数の学力不足が裏付けられた。同時に実施したアンケートで、約4割は授業で分からない部分を放置し、授業以外にほとんど勉強していないことも分かった。高校生の学力テストは40年ぶり。

 テストは02年11月、全国の国公私立の約1400校を抽出し、国語1、数学1、理科、英語1の4教科7科目で実施。各設問ごとに、正答するとみられる生徒の割合を想定した。

 国語1は想定通過率を約5ポイント上回り、英語1はほぼ想定通りの結果だった。しかし、数学1は想定正答率11ポイント、理科(4教科)も約6〜13ポイント低かった。

 個別の問題をみると、数学1では高校で初めて学習する三角関数の6問中4問で無回答が3割を超え、三角形の証明問題も無回答が6割に上った。数学1の全30問中、正答率が想定を上回ったのは1問だけだった。理科の化学1Bでは、水溶液の濃度を計算する問題で4割以上が無回答だった。国語1でも、話の流れや文章の主題をつかみ、自分の考えをまとめる力が不十分なことが分かった。

 一方、アンケートによると、5割近い生徒の授業以外での学習時間は1日30分未満。41%は授業以外の勉強を「まったく、またはほとんどしない」と答えた。36%の生徒は授業で分からないことがあっても教師や友人に尋ねず、そのままにしておくと回答した。

 設問が違うことなどから、1956〜62年度に行われた高校生の学力テストとは単純に比較できないが、当時も数学と理科は出題者の想定より低かった。



学力問題は2000年9月3日付けの朝日新聞「ルート49が分からない〜京大教授ら、理工系学生の学力調査」に端を発したと考えてよい。
それまでのマスコミは児童生徒の学習過剰を愁うる記事で一色だったから、突然の方向変換は国民は呆然とし、そして怖れた。

上の記事のテストは2002年のものだから、2000年の主張「学力は落ちている」は、この調査でも裏付けられていることになる。
メディアにしてみると、「ホラ見たことか」ということになるのだろう。

しかし私たちからすると何をいまさらという話である。
有名私立小中学校に進学を目指す都会の一部の子たちを除けば、子どもたちは一貫して不勉強の道を歩み続けていた。それが私たちの実感だからだ。

さらに、記事によれば
設問が違うことなどから、1956〜62年度に行われた高校生の学力テストとは単純に比較できないが、当時も数学と理科は出題者の想定より低かった。
そうだとなると、私たちが子どもだったさらに以前から、理数の学力は低かったことになる。だとしたら、あの「ゆとり教育」希求の大合唱は何だったのだろう?


さらにNHKによるとこんな話も出ているという。
今回の調査では、学習意識についても調査していますが、正答率が目標にほぼ達した▽国語と英語は、「実生活に役立つ」と思っている生徒がそれぞれ74パーセントと62パーセントに上りました。これに対して正答率が目標を下回った▽数学は33パーセントにとどまったほか、▽生物と地学が35パーセントなどいずれも実生活に役立たないと思っている生徒の方が多いことがわかりました。これについて、理科教育に詳しい東京都立八王子北高校の土方敏行教諭は「生物の教員として、この結果にはショックを受けています。授業では、今勉強していることは一見、単調で難しいかもしれないけれど、無駄にならないと伝えているが実験や観察にあまり時間をかけられず、現場の教師にもジレンマがあります」と話してます。文部科学省は、今回の結果を受けて、数学と理科を中心に指導の改善をはかり、日常生活と関連づけた指導方法について、検討を進めることにしています

数学や理科が「実生活に役立つもの」に限定されたらさっぱり面白くない。
鮮やかな化学反応の美しさも星座のきらめきも、あんなものがどう生活に役立つというのか。生物の名前や生活・習性を知っていたところで、特殊な職業につくか趣味で生き物を飼わない限りは、とても役立ちそうにない。

いや国語だって、小学校程度の最低の読み書きは実生活に役立つにしても、源氏物語や枕草子、いわんや長恨歌だの史記だのを読んだところでどう「役に立つ」というのか。
英語ができずに困った経験など、ほとんど皆無に等しい。

有名な科学者フレミングは自らの名前のついた電流の法則を発見したとき、弟子に「ところでこれが何の役に立つのか」の問われて激怒したという。もしこのとき、フレミングの発見した法則が役に立ちそうにないと放棄されていたら、今の科学はどうなっていたのか?
学問とはそういうものだ。

子どもたちは本気で生活に役立つ学習を欲しているわけではない(もし欲しているなら、商業高校や工業高校こそ難関校になっているはずだ)

メディアは世論を動かして、ついに社会的愚行「ゆとり教育」を成就した。
そして今やまた、新たな愚行を推し進めようとしている。










2004.01.26

虐待の中3搬送直後、内妻が「訴える」と教諭追い返す

読売新聞 1月25日]


 大阪府岸和田市で中学3年生の長男(15)が食事を与えられないなどの虐待を受けていた事件で、こん睡状態になった長男が病院へ運ばれた直後、駆けつけた中学の担任教諭らに対し、父親のトラック運転手烏野(からすの)康信容疑者(40)の内縁の妻、川口奈津代容疑者(38)が「勝手なことをすると名誉棄損で裁判を起こす」と追い返していたことが26日、わかった。

 それまでも、長男を心配して教諭や同級生らが訪ねてくるたびに、同校に「虐待を疑っているのか」などと執ように抗議しており、府警は、虐待の可能性を感じていた学校側を威圧し、犯行を隠そうとしたと判断。同日、自宅を捜索し、虐待に至る経緯などを詳しく調べている。

 調べなどによると、川口容疑者が昨年11月に119番した時には、長男は餓死寸前の状態で、救急隊員から通報を受けた岸和田署が同校に連絡。間もなく教諭らが病院を訪ねたところ、川口容疑者は「先生に来られたら子供の命が危なくなる」といい、さらに容体などを尋ねられると、プライバシーの侵害を理由に「裁判所に訴える」などと一方的にまくしたてたという。

 長男が急にやせ細った後、約1年半、登校しなかったため、学校側は虐待の可能性を認識していた。府警は、学校側から警察への通報を恐れたとみている。

 同校によると、不登校になる直前に、担任教諭が「やせたが、大丈夫か」などと長男に声をかけたところ、「何もない。お母さんには言わないで」とおびえた表情で訴えた。その後、川口容疑者から同校に「うちで虐待があるというのか」と抗議の電話があった。

 川口容疑者は不登校中の家庭訪問に「ドアをノックするな」「インターホンを鳴らすな」とどなり散らし、同級生が訪ねても、同校に「子供を使って手を回しているのか」「ただではすまさんぞ」などと電話をかけてきたという。

 このため、同校は虐待の事実を確認できず、同市の児童相談所「岸和田子ども家庭センター」に口頭で伝えただけで、正式な通告措置を取らなかった。(読売新聞)


各紙で学校の対応のまずさが指摘されている。
岸和田の事件いついては言いたいこともたくさんあるが、ここでは一つのことに限定しよう。
それは、

これほどの悪態をつかれ、裁判に訴えるぞと脅されてもなお、教員は家庭内の関係に踏み込むこまなくてはならないのか、ということである。

たしかに、そうしなかったからこそ事件の子は救ってもらえなかった。
だとしたら、
私たちはどの時点でどのように家庭に侵入すべきなのか。
今後、深刻に繰り返される問題である。








2004.01.29

<卒業生合否情報>青森など5県でも、県立高が予備校に提供

毎日新聞 1月29日]


 高校卒業生の受験情報が外部に提供された問題で、青森、秋田、岩手、栃木、山梨の5県の県立高校でも大学入試の合否情報が予備校に伝えられていたことが、29日新たに分かった。多くの高校が現金や図書券の形で謝礼を受け取っていた。

 青森県では、県教委が県立高3校に確認したところ、それぞれが大手予備校3校に合否結果の情報を提供していた。個人を特定できる方法だった。謝礼は1件あたり10〜30円で、1校は総額約7万円を受け取っていたらしい。図書券で受領した学校もあったという。

 このほか、▽秋田県の30校▽岩手県の数校▽栃木県の数校▽山梨県の5校――がそれぞれ予備校に合否情報を提供していた。栃木、山梨県では個人名を伏せていた。

 秋田県では、予備校側から模擬試験やセンター試験を受けた生徒の名簿を送付された高校側が、受験した大学名と合否を書き込んで送り返すなどしていたという。県教委高校教育課の根岸均課長は「謝礼金は返すよう指導する。しかし地方では予備校の全国データがなければ進路指導出来ないのも事実で、情報の取り扱い方は、今後PTAなどと相談したい」と話している。


問題のポイントは
地方では予備校の全国データがなければ進路指導出来ないのも事実
という点である。
もちろん高校から受ける情報を希望者だけのものにしても、あるいは模試を受験した生徒に後日アンケートを送ったりしてもよいことではある。しかしそれでどれほどの生徒が自分の情報を提供するだろうか。
人間は終わってしまったことに対しては冷淡なものだ。ましてや不合格となれば、出したくないのが人情だろう。

情報量が下がれば分析の精度も下がる。その結果、多くの受験生が無駄に受験料を費やしたり、無駄に浪人生活を送るようになる・・・。


もうひとつ。
謝礼として受け取った金は、ほとんどの高校で教材費やテスト代に使われ、私用に用いられた形跡はない。したがってこの金がなくなると、それを生徒から徴収するか、税金でかまかなうか、あるいは教材やテストを減らすことで解消するしかないだろう。

だが、
そうしたディメリットを甘受しても、合否情報というプライバシーは守られるべきなのだ。


話は変わるが、これと似たことが10年前(1992年)の埼玉であった。
この年突然、埼玉県のほとんどの中学校が参加していた業者テストが問題とされ、業者と学校の癒着(=ワイロ)を疑ったマスメディア各社が、腕利きの事件記者を埼玉県に送り込んだ。
いうまでもなく、裏金の流れなどというものはなかったが、進路指導を民間企業のテストに頼っていたという事実が非難され(メディアの『振り上げた腕』の落とし所はここにしかなかった)、公立王国埼玉から業者テスト、偏差値による進路指導が追放されてしまった。
その結果どうなったか?

某有名進学塾はすかさず「埼玉の公教育は死んだ」という広告を打って出したが、その目論見どおり、埼玉は有名進学塾の激戦地となってしまったのだ。
精度の低い公立テストに信頼を置けない担任教師はそれとなく民間模試を受けるように指示し、保護者たちは公立中学に愛想をつかして私立に流れようとする。業者テスト廃止後の10年で、埼玉の私立中学受験率は倍増し9.3%となる。



高校が大手進学塾に個人情報を流していたというこの問題、
受験情報が全国区である以上、たちまち全国に広がるだろう。

そして正義が勝ち、受験生の保護者たちは自前で受験情報を買ったり有名予備校に子どもを送り込もうとするようなる。

私は時々、本当に正義が嫌いになるときがある。