キース・アウト
(キースの逸脱)

2004年2月

by   キース・T・沢木

サルは木から落ちてもサルだが、選挙に落ちた議員は議員ではない。
政治的な理想や政治的野心を持つ者は、したがってどのような手段を使っても当選しておかなければならない。
落ちてしまえば、理想も何もあったものではない。

ニュースは商品である。
どんなすばらしい思想や理念も、人々の目に届かなければ何の意味もない。
ましてメディアが大衆に受け入れられない情報を流し続ければ、伝達の手段そのものを失ってしまう。

かくして商店が人々の喜ぶものだけを店先に並べるように、 メディアはさまざまな商品を並べ始めた。
甘いもの・優しいもの・受け入れやすいもの本物そっくりのまがい物のダイヤ
人々の妬みや個人的な怒りを一身に集めてくれる生贄
そこに問題が生まれれば、今度はそれをまた売ればいいだけのことだ。













  


2004.02.04

<傷害>修学旅行中、生徒が暴行 教諭「PTSD」に 兵庫

[毎日新聞 2月3日]


 兵庫県猪名川町の県立猪名川高(関保校長、659人)の男性教諭(39)が先月末、修学旅行先で複数の男子生徒に取り囲まれ、うち1人に2時間にわたり暴行されていたことが分かった。教諭は首に5日間のけがを負い、PTSD(心的外傷後ストレス障害)と診断され、学校を休んでいる。教諭の被害届を受けた県警伊丹署が傷害容疑で調べている。

 この教諭らによると、2年生が1月27日から3泊4日の日程で山形県・蔵王温泉スキー場を訪れた。29日夜、ホテルでゲームなどのレクリエーションが終わった後、男子生徒約10人が「カラオケを歌わせる約束やろう」と教諭に詰め寄り、約2時間、土下座させたうえ生徒の1人が頭をけったり、馬乗りになるなどした。他の生徒は周りではやしたて、写真を撮るなどした。別の教諭2人が近くにいたが、制止できなかったという。

 教諭は「生徒を恐れて暴行を制止できない学校の体質が問題」と話している。学校側は「生徒の暴行があったのは事実だが、詳細な事実関係を把握して対応を考えたい」としている。

いくら10人に詰め寄られたとはいえ、教員が2時間も土下座させられるということがあるだろうか?
別の教諭2人が近くにいたが、制止できなかったというが2時間もの間、二人の担任は何を眺めていたのだろう?
他の生徒は周りではやしたて、写真を撮るなどしたというが、それは2時間も楽しめる楽しいものだったのか(なにしろ修学旅行だ、他の楽しみを犠牲にして教師いじめにつきあうほど、それは楽しいものだったのか)?
2時間に渡って引率担任のうちの3名もが行方不明になっているというのに、他の教師は何をしていたのか?
2時間に渡る暴力の結果が、5日間のけがというのは異常に軽くはないか?

しかし一番の疑問は、
これほど疑問の多い事件なのに、なぜそれがそのまま記事になるのか、ということである。
面白ければいいのか?








2004.02.09

<入学試験>会場間違えた! 受験生をパトカーで送る 九条署

[毎日新聞 2月8日]


 京都府警九条署が、大学の受験会場を間違えた女性を正しい会場までパトカーで送り届けていたことが7日、分かった。パトカーはサイレンを鳴らし赤色灯を点灯させて“緊急”走行していた。

 同署の説明では7日午前10時ごろ、京都市南区の同署山王交番に「試験会場を間違えた。何とかしてほしい」と女性が泣きながら駆け込んだ。試験は午前10時からで、女性の試験会場は京都府京田辺市の同志社大京田辺キャンパスだった。

 しかし、女性は間違えて京都市上京区の今出川キャンパスに向かっていたといい、同署は「女性の人生にかかわる緊急事態」として、桐村富男署長が口頭で許可し、特別にパトカーを出動。女性を乗せ、交番から南へ約20キロ離れた京田辺キャンパスまで送り届けたという。女性は10時25分ごろにキャンパスに到着。あと5分遅いと受験資格を失うところだった。同署は「警察として妥当な判断だった」と話している。


これはどういう記事なのだろう?
市民の税金で動かすパトカーを個人のために使うなんてとんでもないことだ
ということなのか?
それとも
庶民の味方になって動いてくれる素敵なおまわりさん
という話なのだろうか?

パトカーはサイレンを鳴らし赤色灯を点灯させて“緊急”走行していた。
と書くからには、あまりいい話とは考えていないのかもしれない。

いずれにしろこういうことが(肯定的なコメントなしに)記事になるとなると、今後、同様のケースでパトカーを出すことは躊躇われるだろう。
そのために受験できなかった受験生は「まったく当てにならない警察だ」となじり、一部のマスコミが「なぜ、その程度の配慮をしてやらなかったのだ」とあおる。そして警察はやる気をなくす。

しかしそれでもなお、マスコミは「警察はその使命を考え、国民のために身を粉にして働かなければならない」などといって、さらに警察を無力感で満たす。

なにか、他人事でないような話だ。






2004.02.11

夏休みを2週間短縮へ 東京・葛飾の区立中学校

[毎日新聞 2月10日]



 東京都葛飾区は10日までに、現在6週間ある区立中学校の夏休みを、2週間程度短縮する方針を固めた。学校週5日制導入で減少した授業時間数を確保するためで、早ければ2005年度以降に実施する。
 短縮する2週間のうち、土、日曜日を除いた約10日間を通常授業に充てる。これにより現在980時間の年間授業時間数を最大で60時間程度増やすことができ、旧学習指導要領で定められた年1050時間に近づくという。
 学校現場では、週5日制の導入により、毎年開催していた文化祭を隔年にするなど行事がやりにくくなっているところもあるという。
 葛飾区では、学力が十分に身に付いていない生徒を対象に、夏休み中に希望制で学習教室を開いているが、区教委は「夏休みの短縮で、さらに行事や授業にゆとりを持てるようにしたい」と説明している。



さて、
「学校」が家庭にまで侵食している。学校での評価が子どもの評価のすべてとなり、学校で「できない子」は家庭や地域でも「できない子」として扱われるようになった。「学校」は校内ばかりでなく,家庭生活にまで口ばしをはさみ、家庭や地域から教育の機会を奪っている。こうした「学校の拡大」に抵抗し、今こそ「学校」の縮小を果たさなければならない――「学校のスリム化」

子どもは学校の厳しい管理のもとに置かれ、今や窒息死しようとしている。子どもを救うためには、まず学校から子どもを引き離さなければならない。

子どもを学校に預けている限り、子どもは個性を失ってしまう。教師は一斉指導の中で子どもをみな同じようなものにしてしまう。21世紀を見据えた日本を考える上で、そうした学校の画一化教育から子どもを救うには、今や学校を変えるだけでは不足だ。まず学校の機能を減らし、家庭や地域が子どもを育てるところから始めなければならない。

前世紀の末(と言っても数年前だが)に盛んに叫ばれたことである。
教師と学校を徹底的にこき下ろしたこうした概念はどこへ行ってしまったのだろう?


ともあれ、私は授業日数の増加には賛成である。
ゆとり教育とは本来学習内容を削減することではなく、授業時間を増加することによって果たされるべきものだからである。
この際、学校を全室冷房完備にし、夏休みも企業並に縮小してしまえばいいと思っている。

もともと生徒の夏休み期間中も登校していているのだ、暇を持て余しながら学校にいるより、授業をした方がどれほどいいか知れない。そうすれば「教師は遊んでばかりいる」といった無用な非難を避けることもできる。どうせ指導要領は最低基準なのだから、授業日数などいくら増やしてもかまわないはずである。
保護者も、夏休み中子どもが家庭でフラフラしているよりよほどありがたいに違いない。

「学校のスリム化」なんて、本当はだれも望んでなどいなかったのだ。







2004.02.11

警察見直した」「厳しさ教えて」
=反響相次ぐ−パトカー受験生搬送・京都


[時事通信 2月11日]


 今月7日、京都で大学入試会場を間違えた受験生を、京都府警がサイレンを鳴らし、赤色灯をつけたパトカーで送り届けた対応について(*)、同府警には市民から賛否両論のメールが来ている。「同じ受験生として感謝したくなる」など賛成論が86%ほど。残りが「甘過ぎる」などの批判。「再び同じことがあれば送ってくれるの?」の質問もあり、府警内でも今後の対応について戸惑いがみられる。
 この件が翌日報道されて以降、市民などから450件を超すメールが府警に寄せられた。パトカーを出動させた九条署にも数十件の電話、手紙などがあった。

(*2月9日 毎日新聞記事を参照)


ホラ御覧なさい!
痛快である。
庶民感覚は狂っていない。
私もメールを打っておけばよかった・・・。

それにしても
86%もの支持メールがありながら、それを
賛否両論のメールが来ている
とは!

未練たらしくはないか時事通信!






2004.02.12

合否情報、公立1081校が無断提供 7割が金品受ける

[朝日新聞 2月11日]



 大学受験の合否情報提供問題で、本人の了解を得ずに生徒の合否を予備校側に伝えていた公立高が約1100校近くにのぼることが10日、朝日新聞の集計でわかった。このうち7割以上が手数料などとして金品を受け取っていた。

 全国の都道府県教育委員会に取材、「調査中」「調査予定なし」と回答した大阪、静岡、和歌山、岡山、広島、沖縄の計6府県を除く41都道府県の状況をまとめた。

 このうち神奈川以外の40都道府県で無断提供があり、高校数は計1081校に上った。秋田、山形、宮城、栃木、山梨、富山、愛知、島根、山口、愛媛、大分、佐賀、長崎の13県では、調査対象の半数以上が無断提供していた。

 福岡は93年に無断提供と手数料の授受が問題化し、県教委が現金の授受を禁じて「予備校との情報交換は慎重に」と指導していたのに、今回も12校の無断提供が判明。うち8校は手数料を受け取っていた。

 手数料などとして金品を受け取っていた高校は全国で795校。1校あたりの額で最も多かったのは愛媛のある高校の年間15万1千円(図書券を含む)。使途の大半は進学指導資料の購入費だったが、「入試壮行式のだるま代」(青森)、「校内警備の嘱託職員への歳暮代」(島根)などもあった。

 この問題で東京都教委は生徒の同意の有無にかかわらず、個別の合否情報を予備校に提供しないよう各校に通知した。学校が高校生に同意を求めるのは強制につながりかねず、保護者一人ひとりから同意を得るのも実務上難しいと判断したという。

 一方、青森、岐阜、山口など多くの県は、高校生か高校生本人とその保護者の同意を取り、手数料は受け取らないように指導している。合否情報は進路指導に使う偏差値算定に欠かせず、同意さえ得れば問題ないという考え方だ

合否情報提供問題、案の定、全国的な問題となり、一部の都道府県では情報を出さないことになった。
個別の情報を一切出さないという東京都教委の判断も、同意を得ればよいとする青森県などの判断もともに間違っていない。違いは単に、予備校に頼らなくても大量の情報が手に入る東京とそうでない地方との差に過ぎない。

そもそもこれを取り上げたとき、マスメディアは何を問題と考えたのだろう。
個人のプライバシーの問題だったのか
金品の授受の問題だったのか?
それとも受験指導を民間に頼るという公立学校の主体性のなさの問題だったのだろうか?

いずれにしろ、
正義は勝った。
個人のプライバシーは守られ、金品の授受という怪しい慣習は廃され、受験生は正確な情報を失った。

これまで予備校から受け取った金でまかなわれていたものが、税金か家庭の負担で購入され、あるいは購入自体が見送られるようになった。

人間個人の幸福より正義を貫く態度は原理主義である。
それに従えば、子どもの幸福など、鴻毛より軽い。







2004.02.12

80×40=? 小4正答は半数 授業時間減少のせい?

[信濃毎日新聞 2月11日]



 県内の小学四年生の約半数が「80×40」の計算ができない―。県教委が十日の定例会で報告した二〇〇三年度学力実態調査で、こんな結果が明らかになった。県教委は「学習指導要領の改定で繰り返し学ぶ機会が減ったことが要因」(教学指導課)と分析。小中高を通じ、応用問題の正答率は落ちる傾向があり、こうした部分的な基礎のつまずきが学力低下につながるとの懸念も出ている。

 対象は小学四年―高校三年で、小学生と中一は国語と算数・数学、中二―高二は国、数、英、高三は国語のみ。主に前の学年で学んだ内容の出題で、各学年とも千三百人が受けた。前回二〇〇〇年度の結果と比較できるようほぼ同水準とし、同一問題も含めた。

 顕著な傾向が出たのは、小学四年の二けた同士のかけ算。「80×40」の正答率は、前回を18・7ポイント下回る48・2%。「320」と位取りを誤った回答が全体の38・8%に上った。「47×64」の正答率は39・9%と、前回(66・2%)を26・3ポイント下回り、基本的計算方法の誤りが目立った。

 県教委によると、旧学習指導要領では、小学三年生がかけ算を学ぶ授業時間は十七時間だったのに対し、改定後の〇二年度以降は十三時間に。〇二年度から完全学校週五日制となり、繰り返し教える余裕がないことも理由に挙げている。

 算数のつまずきの代表的な例は、小五の分数計算とされてきたが、県教委は、より早まる可能性を指摘している。

 調査は一九九一年度から実施、九七年度からは三年に一回行っている。

 漢字の読み書きや英語のリスニングなど基礎力が伸びていることを示す結果も見られたが、計算のつまずきに県教委は、ドリル練習や、教師対象の指導法研修を充実させる考えだ。

新聞、特に教育記事を読みなれた人間なら、まず見出しの「?」に疑問をもつことだろう。学力低下が明らかなれば、マスメディアはもっと喜んでいいはずだからである。それこそ鬼の首を取ったかのように雀躍して記事にしなければならない。
見出しは「やはり学力低下」とか「児童生徒の学力低下 裏付けられる」となるべきで、それが「授業時間削減のせい?」は解せないのである。


不思議に思って長野県教委のサイトに行き、調べてみると次のようなことが分かった。

平成15年度学力実態調査結果の概要について

算数・数学の成績について言えば
三年前に比べて平均点は、小4・小5で前回を下回ったものの(それぞれ4.6ポイント、3.8ポイント)
小6では前回を9.3ポイントも上回り、
中1で横ばい、中2・中3でも前回を上回わっている。
つまり
算数は三勝二敗一引き分け。ほぼ横ばいか、やや上昇しているというのが適当である。
国語についても二勝四引き分けで、これも学力低下を示唆していない。

たしかに算数で80×40の正答率は大きく下がったが、18+12÷3の計算などはぐんと伸びているのである。

報告書を見る限り、
 県教委によると、旧学習指導要領では、小学三年生がかけ算を学ぶ授業時間は十七時間だったのに対し、改定後の〇二年度以降は十三時間に。〇二年度から完全学校週五日制となり、繰り返し教える余裕がないことも理由に挙げている。
 算数のつまずきの代表的な例は、小五の分数計算とされてきたが、県教委は、より早まる可能性を指摘している。
などと言っている箇所もない。

40×80についても、信濃毎日新聞の記事よりもっと納得のできる妥当な説明が報告書には書かれているのだ。


全体としては横ばいか上昇機運にあるものを、あえて一部を取り出してあたかも全体が下がったかのように印象づける。
なぜかくほどに曲解しなくてはならないのか?


信濃毎日新聞が虚偽報道をしてまで果たそうとしていることが何なのか?
それが見えない。









2004.02.14

<性的行為>教員の45分休憩が盲点に

[琉球新報 2月13日]


 本島内の中学校で昼休み中に男子生徒が特殊学級に在籍する女生徒に性的行為をした問題で、45分間の昼休みが安全管理、生徒指導上の盲点となっていることが浮き彫りとなった。同時間は教員の休憩時間として設定され、校長など管理職が校内巡視などで対応しているが、以前から「いじめ」「金銭せびり」の温床と問題視する声が上がっていた。
 同校の校長も「校内の見回りを実施していたが、常時ではなかった」「目が届かないところもある」など、管理上の限界があることを認めた。
 問題が起きたのは、昼休み中の教室のベランダで、教室からは死角になっていた場所。当時、その教室に教員はいなかったという。
 同校では管理職のみでの見回りでは限界があるとして、校長は「当番制で職員に見回ってもらっていたが、それも常時ではなかった」などと説明した。
 今後の対応については「本来、休憩時間は自由に使っていいが、生徒の安全管理を徹底するため、教員には教室や生徒の近くで休憩するようお願いしていく」と教員へ協力を要請する考えを示した。また「性教育や人権教育をさらに強化するとともに、休憩時間の遊び方などの指導も行う」としている。
 同中学校のある自治体の教育委員会は「生徒や教員と違う時間帯に休憩を取っている学校の事務職員が、昼休み中に校内巡回できないか検討したい」などと再発防止策を挙げた。



ここでは扱わなかったが沖縄県の沖縄本島内で
今年1月に3年生の男子生徒が特殊学級に在籍する1年生の知的障害のある女子生徒に対し、性的な行為をしていた(*1)という事件があり、これはその続報である。

記事は
45分間の昼休みが安全管理、生徒指導上の盲点となっていることが浮き彫りとなった。
と、45分間に渡って教員が教育活動から手を引いていたことに焦点を当て問題としているが、その45分間に教員が何をしていたか、その点は明らかにしていない。

沖縄県の実情については知らないが、私のところではこの時間、通常教員は生徒とともに給食を食べている。熱心な先生であれば配膳下膳の指導もするから、昼休みは休みどころではない。実際この時間が休憩にならないと言う事情は全国共通らしく、したがって「労働基準法に定められた昼食時間を正規の時間にとれないから後ろに回してしまおう」ということになり、休憩時間を放課後に集め、職員の退勤時間を午後4時前後にしてしまう都府県もある(これを東京方式という)。

ではなぜ同じ時間に管理職が暇なのかということになるが、これは彼らが給食を先に食べてしまうからである。別に腹が減って早弁をしているわけではない。一種の試食、つまり毒見である。事務職員も一緒に食べている。
生徒や教員と違う時間帯に休憩を取っている学校の事務職員というのはそういう事情による。

さて、事件はどの時点で起こったのだろう?
給食中ということも考えられないから配膳の時間だったのだろうか? それとも「ごちそうさま」と言って生徒が散り、当番は後片付け、他の生徒は校内のあちこちで休んでいる、そういう時間帯だったのか? いずれにしろ短時間の間に起こったことには違いない(何しろ食べる時間も含めて45分だから本当の休み時間はごく短い。純粋に遊んでいる時間を45分も取れるほど、中学校の日課に余裕があるはずがない)。その間隙をつかれたのであって、教師はのんびりと呆けていたはずはないのだ。

この記事の示唆するところは、生徒が深刻な事件に巻き込まれている最中、のんびりと45分間もの休憩をとっていた教員の無神経さである。
しかし同業者の私が感じるのは、マスメディアの意地悪な視線でしかない。
確かに事件は深刻だが、どうせ問題にするなら45分間の休み時間に職員が見回りをしなかったことではなく、昼休みに教員が見回りをしなければならないという異常さの方に焦点を当てるべきではないか。すくなくとも現在、私は見回りの必要などまったく感じず生活できる学校に勤務している。


*沖縄に特殊な事情があり、本当に教員がのんびりと休憩をとっているというようなことであれば、誰か知らせてほしい。
(*1)<本島内中学校>中3男子、特殊学級女子に性的行為

 本島内の中学校で今年1月に3年生の男子生徒が特殊学級に在籍する1年生の知的障害のある女子生徒に対し、性的な行為をしていたことが12日、分かった。性的行為があったのは平日の45分の昼休みで、教室のベランダだった。学校側は、「性行為に近い行為があった」と認めたが、「強制だったか分からない」と説明している。
 性的行為があったのは、教室の中から死角になった場所で、校外に向かったベランダ。問題行為のあった後、女子生徒のそぶりがおかしいのに同級生が気づき、担任に報告したことで発覚した。学校側によると、設置者の教育委員会には「生徒による不適切な異性交遊」があった旨報告したという。
 既に数回、男子生徒と女子生徒の保護者を学校に呼び、事情を説明するなど話し合いを持った。
 学校によると、「性行為が最後まであったのか確認していない。中学生の年代では、異性を好きになるという感情を持つことはよくある。被害、加害など白黒はっきりさせずに指導した方が教育的と判断した」と説明した。
 女子生徒は、スクールカウンセラーがカウンセリングに当たるなど、精神的なケアをしている。
 45分の休憩時間中に今回の問題が発生したことに対し校長は、「あってはならないこと。再発防止のため職員には、生徒がどのようにその時間を過ごすかなど遊び方を工夫するよう指示した。職員が休憩するため、学校内で目が届かないところもある。週に数回、校内を見回っている」などと話した。(琉球新報)[
04.02.12]









2004.02.16

学校から鳥が消える!鳥インフルエンザ過剰反応?

[読売新聞 2月15日]



 鳥インフルエンザによる死者がアジアで増え続ける中、各地の幼稚園や小学校で、飼育小屋の鳥を子供たちから“隔離”しようという動きが相次いでいる。

 児童に代わって先生が世話をしている学校が目立つが、中には鳥を農家に引き取ってもらったり、行政機関に依頼して「処分」したりしたケースもある。生き物との触れ合いは、文部科学省の学習指導要領でも生命への理解を深めるために欠かせない学習と位置づけられており、そうした機会を奪う措置に、教育関係者などからは「過剰な反応では」と批判する声も出ている。

 「100%安全と言えない以上、子供と接触しない場所に鳥を移動させてほしい」。今月初め、奈良県大和郡山市の市立幼稚園で、保護者の1人が園長にそう要望した。この幼稚園では、チャボとウコッケイ計4羽を飼っていた。

 獣医師の診断で、4羽が鳥インフルエンザに感染していないことは確認されていたが、保護者は翌日から子供を休ませた。同市教委は「不安を取り除くことが最優先」として、4羽を園外に移すことを決め、農家などに預かってもらった。園では子供たちに「コッコさんは暖かいところに旅に出た」と説明している。

 14日には、山口県で発生した鳥インフルエンザについて農水省が事実上の「終息宣言」をしたが、同市教委では「すぐに鳥を戻すわけにはいかない。不安を訴えている保護者から了承が得られないことには」と話している。関係者によると、奈良県内では、県家畜保健衛生所に鳥を持ち込んで処分を依頼した小学校も2校あったという。

 チャボ2羽を飼っている東京都杉並区の区立小学校では、先月末から飼育委員の5、6年生に代わり、教諭が飼育小屋の掃除をしている。やはり感染を心配する保護者の声を受けての措置で、掃除は児童の下校後に限って実施。エサやりも教諭だけで行っており、3月末までは児童を鳥に接触させないことにしている。

 一方、神奈川県鎌倉市の市立小学校では、保護者から声が上がる前に対応しようと、先月中旬から、教諭がウコッケイ4羽の世話をしている。日ごろ子供と接触する時間の少ない校長や教頭、事務員だけで行うという念の入れようだ。

 小学校低学年を対象とした生活科の学習指導要領では、動物の飼育を通じて生き物が命を持っていることなどに気づかせる学習を教育現場に課しており、文科省は、昨年春に飼育マニュアルを作成して全国の小学校に配布するなど、「命の学習」の充実を図ってきた。また、厚生労働省では、学校で飼育されている鳥が鳥インフルエンザに感染する可能性について、「極めて低く、過剰な対応は必要ない」(健康局獣医衛生係)と強調している。

 文科省の島野道弘・視学官(生活科担当)は「こういう時こそ、正しい情報をもとに思慮深く対処することの大切さを教えるべきではないか」と訴えている。



ため息の出るような話である。
しかしストレス耐性(ストレスに対する強さ)には個人差があるから、学校の「鳥」に不安を覚える人がいても不思議ではない。
そうした人々の不安を取り除くのは「人権尊重」の立場から、また「生徒保護者は顧客である」という立場からも支持されるべきだろう。
学校の教育活動よりこれらの考えを優先してきた人々は、この件についても積極的に支持を表明してほしい(私は違うが)。

ところで、 文科省の島野道弘・視学官(生活科担当)の言葉
「こういう時こそ、正しい情報をもとに思慮深く対処することの大切さを教えるべきではないか」
は、だれがだれに教えることなのだろう?
子どもは別に不安に思っていないのだから、「子どもに」ではない。
ここはやはり「教師が保護者に教えるべき」と読むのが妥当だろう。僭越な話だ。

いや、待て。
もしかしたらこれはやはり、教師が子どもに教え、親の愚かさを知らしめよという意味かもしれない。








2004.02.17

「男らしさ・女らしさ」日本の高校生は意識希薄

[読売新聞 2月17日]


 日米中韓で行われた「高校生の生活と意識に関する調査」で、日本の高校生は「男は男らしく」「女は女らしく」といった性差意識が突出して低いことが16日、教育研究機関のまとめで分かった。

 近年の男女共同参画社会の推進により、日本の若者意識が影響を受けたと見られる。

 調査は、文部科学省所管の財団法人「一ツ橋文芸教育振興会」と「日本青少年研究所」が昨秋、4か国の各1000人余りの高校生を対象にアンケートをした。

 日本が特異な値を示したのは「女は女らしくすべきだ」との設問で、肯定した人が28・4%しかいなかった。同じ問いかけを米国は58・0%、中国は71・6%、韓国は47・7%が肯定した。「男は男らしく」も、日本で肯定したのは43・4%(米63・5%、中81・1%、韓54・9%)で、4か国で唯一半数を割り込んだ。

 また、「結婚前は純潔を守るべき」との設問に対する肯定も、日本は33・3%(米52・0%、中75・0%、韓73・8%)と著しく低くなっている。

 さらに、各国の高校生の規範意識を探るため、14の行動を挙げて評価を求めたところ、日本は「学校のずる休み」を「よくない」と答えたのは27・4%しかなく、「親に反抗する」(よくない=19・9%)、「先生に反抗する」(同25・1%)も、批判は他の3か国より少なかった。(読売新聞)


まさに「育てられた通り子は育つ」ということだろう。

私たちは今日まで社会から性差をなくすことに真剣に取り組んできたし、混合名簿(並び順を男女別にしない名簿簿)といった厄介なものにまで耐えて努力してきた。
「男らしく」「女らしく」は差別語であり、男女は限りなく同じに扱ってきた。

なぜそのようにしてきたのか。
それは社会がそう望んだからだ。マスコミがそう言って激しく突き上げてきたからである。


「結婚前は純潔を守るべき」という考えは日本では女性にのみ適用されたものだったから、これも当然廃さなければならない考え方である。

「学校はもはや子どものためのものではなく、子どもを規格化されたロボットに仕立てるための機関と成り果てた」といった考えは、二十数年前からつい最近まで叫ばれ続けてきたことである。そうである以上「造反有理」―「学校のずる休み」も「先生に反抗する」ことも、か弱い児童・生徒にとってはやむをえない対抗策なのであろう。
そういうこともマスメディアは教えてきた。

見よ、アメリカを!
かの国は常に男女差別解消に取り組んできた。かの国こそ理想であり、遅れた日本はアメリカのようにならなければならない。

そういわれて努力してきた結果が、上記のような記事なのである。


私たちは合衆国がどれほど女性を大切にしているか、いやになるほど聞かされてきた。
しかしアメリカの人々がこれほどまでに保守的な考え方をしているということは、殆ど知らされてこなかった。
男女平等社会のアメリカで、毎年1500人もの女性が夫や元夫に殺されているということも、それは女性が他の人間によって殺される確率よりはるかに高いということも、私たちは知らされてこなかった。
共稼ぎでない限り、妻は1ドルの買い物にも夫の許可を受け、夫の財布から金をもらって買い物をする国だということも、マスコミが伝えることはない。


アメリカは男女平等についても理想の国であり続けた。

しかし今やこの点でも、 日本の子どもたちはついにアメリカを大きく越えたのだ。
マスコミ各社がこの成果を、もろ手をあげて喜ぶ姿が見たいものである。








2004.02.20

金髪生徒を黒髪に強制染髪
「就職にマイナス」 名古屋


[朝日新聞 2月19日]



 名古屋市内の県立商業高校で、生徒指導担当の男性教諭(46)が、金色に染めた3年生の女子生徒3人の頭髪を、黒い染髪スプレーで強制的に染め直していたことが分かった。同校の校長は「就職活動のマイナスになると判断した処置で、体罰の感覚はなかった」と説明している。

 同校によると、男性教諭は1月中旬、髪を金色や茶色に染めていた生徒らに、約2週間の期限を設け黒く染め直すよう指導した。しかし3人の染髪が不十分だったことから、この教諭が校内で生徒の頭髪にスプレーをかけて黒く染めたという

 同校では校則で染髪を禁止しているが、染める生徒が後を絶たず、卒業を間近に控え指導を強化していた。学校側は、この3人にも約1年間にわたって黒く染め直すよう指導を続け、保護者にも注意するよう求めていた、としている。

 今回の処置について、同校の校長は「担当教諭はスプレーをかける際に生徒本人に了解を得ており、指導方法に問題はなかったと思う」と話している。

 これに対し、愛知県教育委員会は「学校側から詳しく事情を聞いている。生活指導の徹底は大切だが、行き過ぎがないよう生徒と粘り強く話し合って指導してほしい」としている。


教師の側は「よき就職を」と願って髪を黒くしたがり、本人はそんなことよりファッションの方が大事だと主張する。
ここには一種の倒錯がある。

メディアは成熟した個人しか想定しないから、本人の意思に反してまで髪を黒くしたがる教師の意思が分からない。
「本人がいやだ」と言っているからそれでいいじゃないかというのが基本的スタンスである。人は自ら決定し、その責任を取るべきだと彼らは考える。

教師はそうではない。
現実の子どもたちは成熟などしていないと考える。成熟しているとすれば教育などそもそも必要ないとさえ考えている。
子どもは未熟であり、常に良き選択をするわけではない。したがって強制をもっても良き道に進めなければならない時がある、と彼らは考える。

メディアももちろん、全面的に子どもの決定に信頼を置いているわけではない。しかし、時間をかけて説得すれば、子どもは必ず良き道を選ぶはずだという絶対の自信を持っている。

その点でも教師は異なる。
教師は、子どもには頭では分かっていても、絶対にその通りにはできない人間関係や社会関係があると考えている。
両者の違いはそこにある。








2004.02.21

教諭の差別的発言で女児不登校、校長が自殺…奈良

[朝日新聞 2月20日]




 奈良県天理市の市立小学校の男性校長(60)が20日、市内の自宅近くで首をつって死亡した。遺書などは見つかっていないが、自殺とみられる。

 この小学校では昨年5月、3年生担任の男性教諭(47)がクラスの女児の姉が養護学校に通っていることに触れて差別的な発言をし、ショックを受けた女児が不登校になっている。校長は最近、この問題の対応に追われていた。

 天理署の調べによると、校長はこの日午前、自宅研修中の担任教諭宅を訪れた。学校に戻った後、「しんどい。頭を冷やしてくる」と言って午後3時ごろ外出。その後の会議に姿を見せなかったため、教頭が自宅に連絡、まもなく妻が、近くの墓地で首をつっているのを見つけた。

 この日の夜には、女児のクラスの担任交代などについて保護者らと話し合うことになっていた。その保護者会で、吉岡溥教育長が校長の死を告げると、約30人の出席者の間にどよめきが広がったという。

 校長は2002年4月に同校校長に就任、今春に定年退職の予定だった。



前提となるニュースを扱ってなかったので、ここに掲げておく。

<差別発言>担任教諭が小3女児に 半年以上も不登校 奈良

 奈良県天理市の市立小学校の男性教諭(47)が昨年5月、担任する3年生の授業でクラスの女児(9)の姉が養護学校に通っていることに触れたり、障害者を差別するような発言をし、ショックで女児が半年以上も不登校になっていることが分かった。この教諭は「女児が学校に来れば謝る」との姿勢を変えず、家庭訪問もしていない。学校と市教委も、事実を把握しながら打開策を講じていない異常事態となっている。

 学校などによると、教諭は昨年5月、養護学校との交流授業に向けた事前学習で、女児に「お姉ちゃんが(養護学校に)行ってるよね」と発言。「養護学校の生徒にはよだれがついていることもあるが、犬や猫のよだれに比べてまし」「手をつながなくてもいいが、つないだ方がいい」などと話した。

 女児の保護者の抗議に教諭は「姉の話は女児が出した」と主張。後に校長や母親らに「自分から言った」と認めたが、「場を収めるために言っただけ」と発言。女児は母親に「『うそはいけない』と言う先生がうそをついた。先生が怖い」と訴え、6月上旬から登校しなくなった。

 学校側は直後に、別室に登校してもらう措置をとり、校長が女児に「昼食時は別の教諭を充てるので、クラスに戻って一緒に食べられるようにする」と約束した。しかし教諭が「担任は教室を空けられない」と拒んで実現しなかったため、女児は「校長先生もうそをついた」と7月上旬から再び欠席。以後は数回登校しただけ。

 学校によると、教諭に女児への謝罪を求めたが、自分から出向くことを拒否するなどしたという。学校は「教諭への指導に限界を感じる」と市教委に相談した。

 市教委は「保護者と教諭が歩み寄る努力をしてきたが、ことごとくうまくいかなかった」とこれまでの対応の不十分さを認めたが、「他の児童とは良好な関係。資質は不十分だが粘り強く指導したい。年度途中に担任を代える考えはない」としている。

 教諭は取材に「以前よだれを気にする児童がいたので話をした。犬や猫の例は失言だった」としながらも、「女児が学校に来れば謝る」との姿勢を崩していない。

 女児の保護者は「担任が謝って誠意も示せば登校させたいと市教委に言っている。しかし状況は何ら変わらず、『先生が怖い』という娘を通わせられない」と訴えている。【阿部浩之、野村和史】

 ◇教育評論家・尾木直樹さんの話 こんなひどい例は聞いたことがない。市教委は登校を最優先し、担任を外すなどの措置を早急にとるべきだ。子どもの立場に立ち切れておらず、教育行政の責任を果たせていない。(02/13 毎日新聞)

最初の事件自体が分かりにくい。
担任教師の不用意な発言があったことは事実だろう。
しかしそれで学校に来れなくなるということが、ずっと昔に小学生をやっていた私ような古い人間には分からない。
自分が小学校の低学年のころはもっと幼く、「正義」は親や担任の中にあるのであり、それを相対化するほどの強い倫理観と言うものはなかった。また、プライバシーといったものにもほとんど気をとめていなかったと思う。

もっとも「教師の発言で不登校」というところまでなら、「現代の子どもだから」ということで納得しないわけでもない。しかし、
「『うそはいけない』と言う先生がうそをついた。先生が怖い」となると、まったく理解できない。

校長が約束を果たせなかった。
そういうことはあるだろう。私も教員として、また自分自身の子の親として、いくつもの場面で約束を果たせず終わったことがある。それを
「校長先生もうそをついた」と責められるようなら進退は窮まってしまう。


記事からは問題の担任教師も理解しがたい。
発言に問題があり、問題のあったことを自ら認めた以上、なぜ家庭訪問し謝ることを躊躇うのだろう。
「女児が学校に来れば謝る」との姿勢を崩していないというのは、いかなる信念の故だろうか? そうまでして彼が実現しようとしていることは何なのだろう?


いずれにしろ市教委は当該の担任を外し、学校にカウンセラーを送るという処置を取った(21日共同通信)。
つまり、ウソをついた教師は担任を外されるという形で責任の一部をとった。
校長は自らの誤りを命で購った。
このままの状況を、次期校長に引き継ぐことができなかったのだろう。

しかしそれでも、当該の女児が気持ち良く生き生きと登校することは今後もないと思う。
何人もの同級生と保護者がいれば、全員がその子に同情的であるとは限らないからだ。
したがって、この家の家族も傷ついた。

校長の自殺は小さな記事のまま終わり、マスコミはこの問題に対する興味を失った。






2004.02.24

県内の公立小中高 女性管理職わずか6.7%
進出度 全国37位に低迷


[山梨日日新聞 2月22日]

 山梨県内の本年度公立小中高校の女性管理職率の平均値は6・7%だったことが、日本橋学館大(千葉県柏市)の池木清教授がまとめた二○○三年度の「公立学校女性管理職進出度ランキング」で二十一日までに分かった。前年度と比べ0・1ポイント低下。全国平均は9・9%で、山梨県は四十七都道府県で三十七位。前年度よりも順位を二つ下げた。最高は栃木県の21・0%だった。山梨県は池木教授が調査を始めた一九九六年度よりも2・5ポイント伸びているものの、“先進県”にはほど遠い実態が明らかになった。

 同ランキングは、昨年五月一日を基準日とする文部科学省の学校基本調査報告書を基に、公立の小中高校ごとに各女性校長率、女性教頭率をそれぞれ算出。平均値を都道府県別に示した。都道府県別の順位を明確にすることで、各自治体に課題としての認識を促し、女性の進出を求める狙いがある。

 統計によると、山梨は、小学校の女性校長率が11・1%(全国平均17・7%)、同教頭率が14・2%(同22・0%)、中学校の校長率が3・0%(同4・3%)、同教頭率が5・4%(同7・3%)、高校の校長率は2・9%(同3・4%)、同教頭率は3・3%(同4・6%)。いずれも全国平均を下回った。

 前年度と比べると、小学校校長率が2・8ポイント低下、同教頭率が1・0ポイント上昇、中学校の校長率は前年度と同じで、同教頭率が0・9ポイント上昇、高校校長率は2・9ポイント上昇、同教頭率は3・0ポイント低下した。

 池木教授が統計を取り始めた九六年度から年度別にみると、山梨は九六年度が4・2%で三十七位、九七年度が4・1%で四十位、九八年度が4・4%で四十位、九九年度が5・0%で三十七位、二○○○年度が5・9%で三十六位、○一年度が6・2%で三十八位、○二年度が6・8%で三十五位。

 女性管理職の割合は次第に増えているが、全国ワースト10になった年度も多く、三十五位以下とこれまで下位に低迷している状況。

 本年度調査で最高だった栃木のほか、上位は富山が20・9%、秋田が16・8%などの順。最下位は鹿児島の3・8%だった。

 池木教授は「教育界は女性進出が比較的進んでいるという印象を持たれがちだが、管理職はまだ圧倒的に男性が多い。県教委が考え方を転換することで、数値はすぐに上昇する」と話している。

 山梨県教委は「学校現場の校長、教頭に限らず、さまざまな教育関係機関で管理職相当の職務に当たる女性は増えている。男女の区別なく、個々の能力に応じて起用していく」としている。


この記事、男女の公平性の高いと思われていた教職においても、実は古い不公平体質が残っていた、そういった方向で読まれるのだろうか?
そうだとしたら非常に不満である。

女性の校長、教頭が少ない最大の理由は、それが大変な激務だからである。
教頭の前段階である教務主任もしかり。とにかく学校にいる時間が長すぎる。
特に教頭は朝7時前に登校し、午後9時を回らないと帰宅できないという人が大部分であり、教務主任もこれに準ずる。休日も出勤して仕事に当たる人も少なくない。

教員は一般に晩婚であり、教務主任は40代半ば、教頭は50代前後という年齢を考えると、まだ子育ても完全に終わっていない教員には大変な負担になる。
おまけにその時期、夫の方が一足先に社会的に重要な立場にたっており(何しろ年齢差があるので男の方が先に重要な年になってしまう)、家庭の仕事の多くが女性の方にシフトしている。
そうした状況で無理に女性の管理職を増やそうとすると、異常な負担が女性にのみかかってしまうだろう。

しかしたとえそうであっても男女平等という理想は実現されなければならず、それはまず学校において行われなければならい。
たぶん、そうであろう。








2004.02.25

〈不登校〉「来ない子」に歩み寄って 試行錯誤の教師たち

[朝日新聞 2月23日]



 13万人以上の子どもたちが不登校状態にある。国は学校復帰のための様々な施策を打ち出しているが、なかなか目に見える成果にはつながらない。不登校対策はどうあるべきなのか。試行錯誤が続くなか、子どもの目線に歩み寄り、親の声に耳を傾けようとする先生たちの地道な取り組みをみた。

●親と車座、柔軟さ学ぶ

 神奈川県鎌倉市の小学校に昨年12月の土曜日、教師と親約20人が集まった。丸くなって座り、親たちが順番に語り始めた。「娘が学校に行かなくなって、ほっとした。ずっと無理していたから」「学校には放っておいてほしい」――。教師たちは黙って耳を傾けた。

 同県の湘南教職員組合と、「藤沢まわり道の会」など不登校の子どもを持つ三つの親の会が、学期に1回、同県内で開いている「『登校拒否』を考える交流会」だ。スタートは15年前。不登校をめぐって、教師と親の会合が定期的にこれほど長く続いているケースは珍しいという。

 「学校の論理から離れて、親の声を聞きたかった」。交流会を始めた一人、同県茅ケ崎市立松林中の矢定(やさだ)洋一郎先生(54)が振り返る。

 矢定先生によれば、子どもが不登校になった時、親と子はそのうち学校に期待を抱かなくなるが、教師は「学校に来させなくては」という考えに固執してしまう。職員室での会話は「あの子は生活が乱れているから」といった子ども批判に終始する。だから、子や親と気持ちが離れていってしまう。矢定先生は、そんな悪循環を打破したかったという。

 「子どもは千差万別。『来ない子もいるんだ』と柔軟に構えることが必要と気づかされた。僕の周囲では『絶対に学校に戻さないといけない』と考える教師は少なくなってきている」と話す。

 交流会のメンバーで、小学校で教える小田島仁先生(55)は、かつて担任したクラスに不登校の子がいたが、学校復帰は強要しなかった。この子は今、中学校に毎日通っているという。

 「交流会でいろんな親の話を聞いていたことが役立った。交流会では自分を相対化できる。15年間やっていても、毎回新しい発見がある」

 「まわり道の会」の代表、橋本由記子さん(55)は交流会が始まった当時、他の親の会から「よく学校の先生なんかと一緒にやれますね」と驚かれたという。それでも、教師と接点を持ち続けてきたのは「不登校は子どもの個人的な問題ではない。先生たちにそれを理解し、変わってほしかった」からだ。

 当初、交流会では親からは学校批判、教員からは家庭への疑問が噴出していた。だが、最近は「自分の立場で引き受けるべき問題は何か」と双方が考えるようになってきた。これまでに参加した教師は計約100人、親は計約400人。今後は、教師個人が変わるだけでなく、学校全体の意識改革につなげていくことが課題だという。


●校長に指導迫られ板挟み

 「昔は『学校に戻そう』の一辺倒だったが、一部の教師は『学校だけが道じゃない』と考えるようになってきた」

 フリースクールの草分け「東京シューレ」(東京都)を85年に設立した奥地圭子理事長が言う。

 変化の兆しを感じたのは、旧文部省の有識者会議が「登校拒否はどの子にも起こりうる」とした92年以降だ。各地の教育委員会がシューレに見学に訪れるようになった。多い時で月に100人前後にのぼった。

 だが、不登校の子が増加を続けるなか、昨年4月、同会議は「早期の働きかけが重要」などと新たな提言をした。

 このころから「見守ってくれていた校長が突然、自宅に来るようになった」「『子どもが無理なら親が学校に来て』と担任に言われた」と奥地さんに不安を訴える親が増えた。

 シューレに見学に来る先生は、こうこぼした。「子どもの目線に立ち、見守ろうと思っていても、校長から『どんな学校復帰指導をしているのか』と言われ、つい自宅を訪ねてしまう。板挟みになり、迷う」

 奥地さんは、不登校の子や親、NPO(非営利組織)などの生の声に教師が触れる機会をもっと増やすべきだ、と訴える。「学校に行く行かないではなく、子どもにとって安心できる居場所はどこか、ということが第一。子どもや親の声を聞き、ともに考えること抜きに、その居場所がどこかわかるはずがない」


●13万人、「受け皿」多様に
 不登校の小中学生は02年度、文部科学省の調査で初めて減少に転じたが、なお13万人を超えている。同省は「憂慮すべき状況は続いている」とみる。

 不登校の小中学生が増え始めたのは75年ごろからだ。当初、不登校は「限定された特別な子どもの問題」ととらえられていた。
 だが、旧文部省が設置した有識者による調査研究協力者会議は92年、不登校を「どの子にも起こりうること」ととらえるよう提言した。

 この後、学校外の機関で教育を受けた場合、校長の裁量で出席扱いにできる▽教育委員会が設置・運営する適応指導教室(教育支援センター)の整備▽スクールカウンセラーの配置――などの対策が講じられた。

 しかし、不登校は減らず、「(92年報告の)不登校を容認するような風潮を改善すべきだ」との声も出始めた。このため、文部科学省は10年ぶりに同会議を設置。早期の働きかけ▽保護者と共通の課題意識▽民間施設やNPOとの連携強化――などが昨年4月に提言された。

 学校外の「受け皿」は、90年代から急増し、多様化している。民間のフリースクールやサポート校、インターネットを活用して家庭で学ぶホームスクーリングなどだ。「教育特区」を活用し、学習ボランティアの自宅派遣や不登校者を対象にした小中一貫校などの試みも各自治体で進む。

 同会議のメンバーで、大阪市立大学大学院の森田洋司教授(社会学)は「不登校の形態や背景は多様だ。教師は民間とも協力しながら、一人ひとりの子どもや親に寄り添ってニーズをくみ取るとともに、学校をそれぞれの子にとって意味のある場所に整えることが重要だ」と指摘する。


難解な文である。
 13万人以上の子どもたちが不登校状態にある。国は学校復帰のための様々な施策を打ち出しているが、なかなか目に見える成果にはつながらない。不登校対策はどうあるべきなのか。
という以上、不登校は減らすべき何ものかであることは間違いないと思っていたが、
 
「子どもは千差万別。『来ない子もいるんだ』と柔軟に構えることが必要と気づかされた。僕の周囲では『絶対に学校に戻さないといけない』と考える教師は少なくなってきている」と話す。

となるとわけが分からなくなる。
子どもは学校に来なくてもいいのか?

そうだ、
教師と親約20人が集まった。丸くなって座り、親たちが順番に語り始めた。「娘が学校に行かなくなって、ほっとした。ずっと無理していたから」「学校には放っておいてほしい」――。教師たちは黙って耳を傾けた。
という文がある以上、やはり不登校の子どもは学校に来なくてもいいし、学校は子どもを呼び寄せてはいけないのだ。

そう思っていると、締めくくりは

不登校の形態や背景は多様だ。教師は民間とも協力しながら、一人ひとりの子どもや親に寄り添ってニーズをくみ取るとともに、学校をそれぞれの子にとって意味のある場所に整えることが重要だ


個人のニーズに応える多様な場のある学校を、大変なコストを使ってつくってどうしようというのだろう? 社会には学校外の受け皿が急速に増加している(記事にはそう書いてある)のに・・・・・。









2004.02.25

巡査長、社会科学習で児童に銃を持たせ手錠かける 埼玉

[朝日新聞 2月24日]


 埼玉県警寄居署の駐在所勤務の男性巡査長(34)が、管内の小学校での学習会に講師として出席した際、児童に本物の手錠をかけたり拳銃を持たせたりしていたことが分かった。

 県警監察官室によると、学習会は18日午後、同県花園町の花園小学校体育館で社会科の一環として「警察の仕事」と題し開かれ、巡査長と防犯協会の女性職員が講師に招かれた。

 3年生122人が出席し、巡査長は自ら希望した女子児童2人に実際に手錠を数分間かけ、実弾を抜いた拳銃を約10人に持たせた。その際巡査長は「手錠や拳銃の要らない世の中になればいいね」などと児童に話しかけた。

 拳銃の取り扱いに関する警察内部の規則では、職務上必要のない者に拳銃を渡すことは禁じられているという。秋葉勝監察官室長は「一般の人に拳銃を触らせたり手錠をかけたりするのは問題がある。詳細を調査したうえで、厳正に対処する」としている。

「巡査長、いい教育をしてくれるじゃないか」

そう思ってはいけないのか?

「手錠や拳銃の要らない世の中になればいいね」
いい言葉じゃないか。

日ごろから体験的な学習の重要さをウンザリするほど言い立てるマスコミが、なぜこの程度のことを問題にする?

お話だけの授業なんてウンザリだ。子どもはそう言っているぞ。

アホらしい。