キース・アウト
(キースの逸脱)

2004年4月

by   キース・T・沢木

サルは木から落ちてもサルだが、選挙に落ちた議員は議員ではない。
政治的な理想や政治的野心を持つ者は、したがってどのような手段を使っても当選しておかなければならない。
落ちてしまえば、理想も何もあったものではない。

ニュースは商品である。
どんなすばらしい思想や理念も、人々の目に届かなければ何の意味もない。
ましてメディアが大衆に受け入れられない情報を流し続ければ、伝達の手段そのものを失ってしまう。

かくして商店が人々の喜ぶものだけを店先に並べるように、 メディアはさまざまな商品を並べ始めた。
甘いもの・優しいもの・受け入れやすいもの本物そっくりのまがい物のダイヤ
人々の妬みや個人的な怒りを一身に集めてくれる生贄
そこに問題が生まれれば、今度はそれをまた売ればいいだけのことだ。













  


2004.04.02

教科書検定・教え方、教室改革も必要だ

[琉球新報 4月1日]


 来春から使用される小学校教科書のページ数が増量されそうだ。学習指導要領の域を超える教科内容を盛り込んだ教科書が、文部科学省検定で合格したからだ。文科省の期待通りに、学ぶ楽しみと意欲を引き出す「改革」になるのか行方に注目したい。

 文科省が三月三十日に発表した小学校教科書の検定結果、学習指導要領の範囲を超える「発展的内容」が、全教科で採用された。

 子どもたちの学力低下は、各種調査で指摘されている。その原因の一つが学習内容を大幅に削減した現行の新指導要領との批判に、文科省は「指導要領の範囲内」とした検定基準を「指導要領は最低基準」と方針を変更し、規制を緩和した。その結果、「発展」の記述増につながった。

 例えば「三けた同士の掛け算」(三年)「兆より大きい数」(四年)「月の表面の観察」(四年理科)などが「発展」の中身だ。

 定理や法則、社会の仕組みを学ぶ上で、理解を助ける具体的な事例、本来は高学年で学ぶべきだとされるものを低学年に前倒しもできる。

 ただ、大半は前回の二〇〇〇年度検定で削除された内容の「復活」が多い。教師から「朝令暮改」的な検定方針のゆらぎは現場に混乱をもたらすとの批判もある。

 人づくりは「百年の大計」であるべきだ。これでは教育方針を示す側の質すら問われかねない。

 今回の「発展」導入の利点は、教育現場が、学ぶことの面白みや学ぶ意欲を引き出す工夫を独自にこらせるようになったことだ。

 課題もある。中身の濃い「発展」の教授には手間と時間と教師の力が必要。だが、教育現場からは人も時間も足りないとの声が出ている。

 すぐ分かる子と分かるのに時間がかかる子、習熟度による「輪切り」が広がることの是非もある。

 教える「中身」の論議だけでなく、教え方、教える側の支援も大切だ。少人数学級や教員の複数配置、定員増など教育改革や教室改革も、急ぎ取り組むべき課題であろう。



 子どもたちの学力低下は、各種調査で指摘されている。その原因の一つが学習内容を大幅に削減した現行の新指導要領
そんなことはないだろう。
各種調査で指摘されたのは、指導要領改定以前からの深刻な学力低下である。

学力が低下しているにもかかわらず、なぜ学習内容をここまで減らしてしまったのかというのが、新指導要領批判の骨子であったはずだ。
ここにまず嘘がある。

 そして学力が低下していたにもかかわらず「指導内容を減らせ!」「子どもにゆとりを!」と叫び続け、結局2000年指導要領を引き出したのはマスコミだった、そのことに関する説明も反省も一切ない。

 人づくりは「百年の大計」であるべきだ。これでは教育方針を示す側の質すら問われかねない。
 それを言うなら、強力な「ゆとり教育」の論陣を張ったマスメディアの質こそ、まず問われるべきだろう。

 
他者を律しようとする論理で自己を律しない態度を不誠実という。


 中身の濃い「発展」の教授には手間と時間と教師の力が必要。
 まったくその通りだが、それは人数学級や教員の複数配置、定員増で果たされるものではない。

 ゆとりを持って学ぶためには、まず時間が必要なのだ。「ゆとり」と「学力」の双方を獲得する決め手は、時間でしかない。もし両方を望むとしたら、それしかないのだ。

しかしそれにもかかわらず、メディアはついに「学校五日制」の見直しや「長期休業の削減」については触れようとしない。

子どもには努力させない、親にも苦労をかけない、教育とは行政と教員の努力によって完璧になされるべきだという態度は、絶対に崩そうとしない。







2004.04.03

退職辞令の直前「1日校長」 京都市教委で慣行

[京都新聞 4月3日]



 校長としての勤務実態はないのに、教頭らが退職当日だけ「市立学校長」の肩書をもらう。こんな「1日校長」の慣行が京都市で続いている。市教委は「退職金は教頭らのままで、あくまで労をねぎらうため」と名誉的な地位を強調する。近畿では同様の慣行はほとんどなく、「名前だけの校長は不要」と最近、廃止した教委もある。

 今年、市立学校長として退職したのは、高校の教頭と指導主事の計2人。3月31日に、校名の入っていない市立学校長の辞令をもらい、約3時間後に退職辞令を受けた。昨年は小中学校の教頭3人、一昨年は小学校の教頭3人だった。

 市教委によると、校長になるには通常、面接などの昇任試験を受けなければならない。1日だけの校長は、市教委が勤務年数や実績を勘案、校長を通じて教頭本人に打診して決定するという。

 市教委の説明では、教頭ではなく市立学校長として退職すると、校長経験者でつくる退職校長会の入会資格が得られ、講演や執筆活動でも校長の肩書が使える。しかし、退職金が上がることも再就職への利点もない。少なくとも約30年以上は続いており、教職員課は「信賞必罰の一つ」としている。

 現職の教頭からは「功績があるのに校長にならずに辞める先生もおり、現場のことをよく理解していただいていると思う」と慣行を評価する一方、「校長の肩書は最大の名誉。でも評価すると言うのなら、1日校長ではなく、ちゃんと校長にすればいいのに」との声もある。

 近畿の6府県と3政令指定都市で京都市と同様の慣行があるのは、大阪市教委のみで「労をねぎらう」との理由という。

 大阪府教委は「表彰制度を簡素化する中で、実態の伴わない名前だけの校長は必要ない」として2年前に同様の慣行を廃止した。従来から慣行のない滋賀県教委は「校長は学校の数だけ。どこの校長をやっていたのと聞かれたら、どう答えるのだろう」としている。


本当にやりきれない。
教員について叩けることは何でも叩いておこうという、それ以外に何の意味もない記事だ。

評価すると言うのなら、1日校長ではなく、ちゃんと校長にすればいいのに
それができなかったからこその一日校長ではないか。
そんな言い方をした人も記事を書いた人間も、教頭や主事という職がどれほどの激務か知らないのだろう。

職業人としての最後に、そうした激務に耐えて無事終えたというだけでも、大変なことである。
その労に報いたいものだ。

校名の入っていない市立学校長の辞令をもらい、約3時間後に退職辞令

それがどれほどいけないものか。
市教委の心温まる配慮として、微笑んで見てやることはできないのか。
日本という国は、そこまで冷淡な国になってしまったのか









2004.04.05

〈「ゆとり」の陰〉学力差は親の懐次第?

[京都新聞 4月4日]


 医師や大手企業幹部などの「高所得職業群」の子どもは、そうでない子どもの17倍、名門ソウル大社会科学部の門をくぐる可能性がある。

 同大教授4人が1月に発表した報告書「ソウル大に誰が入るのか」は、韓国の最高学府の入学状況に、親の経済力という視点で光を当てた。新聞各紙は「貧困の世襲が続く」(東亜日報)、「上昇街道の閉ざされた社会」(朝鮮日報)とする社説を掲げた。

 韓国は74年から高校入試を廃止する「平準化」政策をとった。受験競争の過熱を冷まし、経済的に余裕のある家の子どもが塾や家庭教師を利用できる分だけ高校入試で有利になる状況を変える狙いだった。

 現実は、高校入試の競争が大学に移り、格差が縮まるどころか開いただけ――。報告書はそう言っている。

□    ■

 日本でも「ゆとり教育」をきっかけに、格差の開く兆候が見られる。

 大手進学塾「四谷大塚」によると、この春、首都圏で4万3200人が中学受験に挑んだ。小学6年生の7人に1人で、少子化の中で、受験率は過去最高を記録した。同塾の分析では、受験熱の大きな原因になっているのが「ゆとり教育」だ。

 文部科学省が02年からの学習指導要領で教科内容を3割削減したのは、知識の詰め込みをやめ、「生きる力」を育むためだった。それが公立学校に通う自分の子どもの学力低下の不安を親に呼び起こし、「ゆとり」に縛られない私学や塾へ、お金をかけて子どもを向かわせている。

 だが、教育費を増やす親ばかりではない。

 ベネッセ未来教育センターが実施した小中学生の母親調査によると、習い事や塾に通わせないと「とても不安」「まあ不安」という親が98年12月には合わせて43%だったのが、現指導要領が実施された後の02年秋には48%に増えた。「とても不安」層は、塾などにかける教育費を02年には98年より月に約1300円増やした。「まあ不安」を含むそれ以外の層は、逆に約1千円切りつめた。

 「経済的な余裕のない親に、一種のあきらめがあるのでは。放置すれば、余裕のある家庭の子とそうでない子の学力格差が、広がりかねない」と同センターの木村治生・主任研究員は分析する。

□    ■

 「ゆとり」が親の経済力による学力格差を生む可能性について、現指導要領の方針を検討した教育課程審議会(当時)で目立った議論があった形跡はない。

 一昨年夏、全国一斉の学力テストのあり方について検討するため、研究者を招いた文科省の非公式の懇談会で、招かれた1人が「教育政策を進めるうえで、階層間格差の視点を入れる必要がある」と主張した。

 だが、「国の調査で親の収入を尋ねるのは、プライバシーの問題があって難しい」と同省教育課程課は説明する。 
 「ゆとり」をきっかけとした格差について「調査していないので、格差が開くかどうかわからない」というのが同省の立場だ。

 東京都世田谷区の主婦(42)は「今の指導要領では当たり前の学力が身につかない」と小学6年と4年の娘の中学受験を決め、進学塾に通わせている。「余裕のある家はいいが、ゆとりのない家は塾や私学への道が閉ざされる。こんな不平等があっていいのか」。主婦は疑問を口にする。

 子ども2人の塾代は、月に計10万円になる。


 ソウル大学の例を取るまでもなく、日本でも東大生の親たちが高収入であることは昔から知られている

 ただ、それが高い収入を塾や予備校につぎ込んだからとは必ずしも言えないのであり、さまざまな見方があるだろう。

 例えば、そもそも高収入と高学歴とは結びつきやすく、高収入の親は高学歴であるという例は少なくない。親が高学歴なら、遺伝的に有利だろうし、親が東大卒なら「東大」というものが身近で目標として立てやすいということもある。親がそうした高学歴を築いてきた環境、例えば家の中に大量の蔵書があるとか、比較的テレビはみない習慣とか、両親がしばしば英語で会話
しているとか、日常の会話に歴史や科学が出てくるとかは、それだけでも受験に有利だろう。
 それらは『家庭の個性』であり、そこから育てられてくるのが『子どもの個性』なのだ。


 最近トンと聞かれなくなった言葉に「個性教育」がある。
 日本中の子どもたちに同質の教育を施す一斉教育を廃し、子どもたち一人ひとりの個性を尊重し、その子にあった教育を行うとともに、その子の個性を伸ばしていこうという教育である。

 そもそも「ゆとり教育」はそのための手段であって、子どもたちを自由にしてやろうということで始まったものではなかった。
 
授業削減によって浮いた時間を、その子自身の個性を伸ばす時間として、その子とその子の家庭に返す、それが本来の目的なのだ。
 当時の政府・文部省(当時)も、それを後押しする財界も、数十人を同じ場所に集めておおなう現行制度で教育を学級担任に任せれば、必ず一斉授業になってしまう仕組みを熟知していたのである。

 個性教育は子どもを学校から遠ざけ、親の手に戻さなければならない。さらに過激に言えば、日本の学校教育制度から子どもの個性を守ることこそ、個性教育の中心的課題である。

 そして教育改革としては極めて珍しいことであるが、この件に関して、政府はかなりうまくことを運ぶことができた。


 「〈「ゆとり」の陰〉学力差は親の懐次第?」はかなり挑発的な表現だが、本質的にはまったくその通りである。学力だって個性、収入はその家庭の個性の基盤である。

 「余裕のある家はいいが、ゆとりのない家は塾や私学への道が閉ざされる。こんな不平等があっていいのか」 

 「個性教育」を熱烈に支持したマスコミの一員として、こんな発言を無批判に掲載してよいものだろうか? 不平等がいやなら、子どもをできるだけ長時間学校に縛りつけ、全国一律の教育を行うしかない。それはかつての日本が行ってきたことであり、そのおかげで日本全体の教育レベルは保障されてきた。
 しかしそれは時代に合わない、もはや一律平等であってはいけない、それがメディアの主張であったはずだ。

 メディア諸氏の見識を問う。









2004.04.07

〈見えぬ責任〉協議前から「3割削減」

[朝日新聞 4月6日]



 「なぜ日本海側には大雪が降るのかな?」。3月上旬、雪の積もる山形県高畠町。町立第三中学校2年生の理科の授業で、安藤淳教諭(43)は語りかけた。生徒たちの手元の本には「検定外」の帯が巻かれている。

 文部科学省の現学習指導要領(02年から実施)では「日本の天気」を扱わない。安藤教諭は納得できない。「豪雪地帯なのに、地元に雪が降る理由すら教えられない」

 校長にかけあい、指導要領で削られた「日本の天気」を含む検定外の市販の教科書を、副教材として使う。

■  ■

 「学力低下を招く」と批判を受ける現行教科書の基となる指導要領は、98年に全面改訂された。

 指導要領で、教科ごとに教えるべき基礎、基本の内容を示したのは、教育課程審議会(当時)だ。文部省(現文科省)の指導要領づくりにかかわったのは「協力者会議」のメンバーだった。中心は現場の教師。メンバーは公表されず、同省がどのように選んだのかもはっきりしない。

 あるメンバーは98年2月の初会合の驚きを振り返る。当時実施中の指導要領を配られ、削除する項目を文部省の事務方に挙げられた。そこに、斜線を引くよう言われた。

 中学の理科で「イオン」や「遺伝」が削除対象となったときは「削りすぎでは」と思った。しかし、「親委員会」と呼ばれ、絶対視された教育課程審議会が中間まとめで例示した内容が、ほぼそのまま削られた。

 その親委員会が出した答申には、下敷きの原案があった。文部省の「教科調査官」らがつくった。現場の教師らが文部省の職員として雇われる。

 教科調査官は、協力者会議を束ねる位置にもいる。ある元調査官は、それまで必修だった高校数学の1分野を、文部省の幹部に「全員が学ぶ必要はあるのか」と言われて泣く泣く削った。「とにかく削減」のおぜん立てはできていた、と別の調査官も言う。

 当時「ゆとり重視」が時流だった。親委員会の副会長だった西澤潤一・岩手県立大学長は削減に反対したが、ほとんど反映されなかった。

 当時決まった指導要領に基づく教科書が批判を受けるいま、西澤さんは「審議会は責任を回避するためにある。官僚たちが作っているのに、結局だれがやったか分からなくする」と話す。

■  ■

 一方、指導要領を担当した当時の事務方トップ、辻村哲夫・元初等中等教育局長(現東京国立近代美術館長)は言う。「当時は審議会の委員も、学校週5日制と総合学習の導入に燃えていた。省が勝手にやったわけではない」

 ゆとり重視の世の流れに乗り、3割削減の指導要領が決まった途端、学力低下への不安が頭をもたげた。新指導要領にのっとった教科書は「系統立って教えられない」という批判さえ招いた。

 いま、削られた教科書の項目が次々復活している。指導要領外の「発展的な内容」を載せても構わないと、文科省は方向転換を図った。

 「あの時、悩みながら削ったのは何だったんだろう」。協力者会議のメンバーだったある教師は自問する。

 2月下旬、東京都内で開かれた教科書を考えるシンポジウムで、小学校4年生の母親は言った。「指導要領がころころ変わっても、子どもが出会う教科書は1年に1冊だけ。子どもはモルモットではないんです」


 込み入った事情なので整理してみよう。

  1. 実際の指導要領を作ったのは、現場の教師からなる「協力者会議」だった。
  2. ところが、その段階ですでに内容は「親委員会」と呼ばれ、絶対視された教育課程審議会が中間まとめで例示していた。
  3. その教育課程審議会中間答申には下敷きの原案があり、それは文部省の職員として雇われた「教科調査官」らがつくった。
  4. ところが「教科調査官」は自由に原案をつくったのではなく、「とにかく削減」のおぜん立てはできていたという状況で、文部省の幹部に脅されるようにして泣く泣く削っていたのである。
  5. つまり内容削減の元凶は文部官僚であり、そのことは教育課程審議会の副会長だった西澤潤一・岩手県立大学長も証言している。
  6. しかし当時の事務方トップ、辻村哲夫・元初等中等教育局長(現東京国立近代美術館長)「当時は審議会の委員も、学校週5日制と総合学習の導入に燃えていた。省が勝手にやったわけではない」と言っている。
 誰が悪いのだろう?

 しかし私は知っている。
 記事の中にある通り、当時の日本には
ゆとり重視の世の流れが流れていた。「当時は審議会の委員も、学校週5日制と総合学習の導入に燃えていた。という辻村元中等教育課長の言葉は、まったく間違っていない。
 まさにそういう時代だったのであり、
そうした時代の要請を考えなければ、内容削減に対する文部官僚の情熱は理解できない

 学習内容を十分に減らしてゆとりを生み出し、総合的な学習という魔法の教育を導入しなければ猛烈なバッシングに合う、そうした状況が文部官僚の周囲に満ちていた。それは現在ある、削減した内容を復活させなければ絶対に許さないという状況の、正確な裏返しだったのである。


 ゆとり重視の世の流れを生み出し、3割削減の指導要領が決まった途端、学力低下への不安を掻き立てたのは誰だったのか。
 新指導要領にのっとった教科書は「系統立って教えられない」という批判を煽ったのは誰だったのか。
今一度検証していただきたい。

 ちなみに98年改定に責任のある教育課程審議会メンバーは次の通りである。

  荒  井       桂        埼玉県教育委員会教育長
      安  藤  和  津        エッセイスト
      安  藤  駿  英        東京都中央区立京橋築地小学校長(平成9年5月27日より)
      川  合  眞  紀        理化学研究所主任研究員
      河  野  重  男        東京家政学院大学長
      小  林  陽太郎       富士ゼロックス株式会社代表取締役会長
      今  野  由  梨        株式会社生活科学研究所長
      坂  元  弘  直        国立科学博物館長
      薩日内 信  一        前東京都渋谷区立大向小学校長(平成9年5月26日まで)
      里 中  満智子        漫画家
      佐  野  金  吾        東京都新宿区立西戸山中学校長
      塩      美佐枝        東京都江東区立つばめ幼稚園長
      鈴  木     仁          社団法人日本PTA全国協議会専務理事
      高  木     剛          ゼンセン同盟会長
      田  村  哲  夫        学校法人渋谷教育学園理事長、幕張中・高等学校長
      永  井  順  國        読売新聞社論説委員
   ○西  澤  潤  一        東北大学名誉教授、前東北大学長
      服  部  祥  子        大阪府立看護大学教授
      細  村  迪  夫        群馬大学教授
      堀  田     力          弁護士、財団法人さわやか福祉財団理事長
   ◎三  浦  朱  門        日本芸術文化振興会会長、作家
      宮 本  美沙子        日本女子大学長
      無  藤     隆          お茶の水女子大学教授
      山  極     隆          富山大学教授
      山  下  泰  裕        東海大学教授
      和  田  征  士        東京都立戸山高等学校長

    ◎  会長  、  ○  副会長

 今再び、この人たちの意見もうかがいたい。






2004.04.16

〈会えない長期欠席者1万人 小中学生 教師拒否の親も

[朝日新聞 4月15日]



 30日間連続して休んだ公立小中学校の子どもは約5万人に上り、2割に当たる約1万人については、教師や児童相談所の職員らが直接本人に会えていないことが15日、文部科学省の調査で分かった。
 大阪府岸和田市で1月、中3の男子生徒が餓死寸前まで虐待される事件が発覚。生徒が不登校だったため文科省は「長期欠席の理由として、虐待を視野に入れる必要がある」と判断、学校の接触状況を初めて調査した。
 文科省は「1万人という数を重く受け止めている」として、全国の教育委員会に対し、本人に会えない場合は継続的に家庭訪問をしたり、関係機関の協力を得たりして状況把握に努めるよう、通知を出した。
 調査は1月末から30日間連続して欠席した4万9352人を対象に実施。このうち、学校や児童相談所などの関係機関が接触できていなかったのは9945人だった。(共同通信)


深刻な事態である。

もともと学校教育は、教師が手を差し伸べる手を生徒や保護者が拒否する、ということを考えていない。しかし今後はこうした層に対しても、真剣に取り組むことを考えていかなければならないだろう。

むろん、学校教育の枠を超えているとの考えもあるだろう。しかし学校と児童相談所以外に、子どものことを実際に行える専門家はいない。どれほど加重であろうと、不登校や虐待のための巨大組織ができるまでは、私たちの守備範囲としておいて置くしかない。








2004.04.29

県立高校、全面禁煙へ−−「健康ふくしま21推進協」も要望書 /福島

[毎日新聞(福島版) 4月28日]


 学校の分煙・禁煙化が進むなか、県は全県立高校の校長に対し学校敷地内の全面禁煙への協力を呼び掛けている。また、医師を中心に各分野の代表者で構成する「健康ふくしま21推進協議会」(会長・加藤清司県立医大教授)も、県教育委員会に県内の小中高、盲・ろう・養護学校の全面禁煙化などを求める要望書を提出している。達成されるかどうかめどはたっていないが、学校での喫煙はいっそう厳しいものとなりそうだ。
 県教委県立学校グループによると、県立学校の分煙化は100%終了しているものの、禁煙の実施は今のところ石川高、塙工高など5校5分校のみ。これに対し、県教委は今月12日に開かれた高校長の集会で禁煙化を訴えた。今後、校長らを中心に具体的な方策などを検討していくという。
 この動きは、「健康ふくしま21推進協」が、たばこの害について訴えてきた運動にも後押しされている。23日に提出された要望書では「学校での指導は喫煙問題解決に極めて重要な役割を果たす」としたうえで、敷地内の禁煙は「喫煙防止教育の効果を高める」と主張している。


 煙草が有害であることは周知である。
 
学校での指導は喫煙問題解決に極めて重要な役割を果たすそれも当然である。
 そしてこの二つが合体すると、敷地内の禁煙となる。
 ここが分からない。
 
敷地内の禁煙は「喫煙防止教育の効果を高める」と主張しているその根拠はどこにあるのだろう?  
 いずれにしろ禁煙が正しいことである以上、仮に校長会が抵抗しても、遅かれ少なかれ敷地内の禁煙は実行に移されるだろう。その結果、勤務時間内に特定の教師が敷地外に出て煙草を吸うようなら、勤務時間内に職場を離れるとは何事か、という問題に変えればいいだけのことである。

 私は煙草を吸わないからいいようなものの、つまらないことだが、次は校内で菓子を食べたり喫茶をしているのはいかがなものかという話になるのではないかと心配している。
 生徒は休み時間に菓子を食べたり飲み物を飲んだりするのを禁止されているというのに、いかに休憩時間とはいえ、禁止する側が同じことをしているのはまずいのではないか、ということである。

 巷では生徒に制服を強要しながら教師は私服で登校していることを問題とする向きもある(私としては、個人的に教師の制服は賛成である。年二回ほど、刑務官のような制服を貸与してくれれば、学校の雰囲気もぐっとしまったものに変わり、私たちの態度も服装にふさわしいものとなると思う)。

 心配なのは、こうした有形無形の正義にさらされながら、なおかつ若い教師たちがやる気を失わず、がんばってくれるかということである。

 






2004.04.30

環境教育 身近な素材で体験学習を

[沖縄タイムス 4月28日]


 環境を学ぶ大切さは学校、地域で十分、認識されている。しかし、環境教育を実践しようとすると、具体的な方法、人材の活用などで戸惑うのが現状ではないだろうか。

 
学校でのカリキュラムは確立されておらず、環境教育が定着しているとは言い難い。

 県は体験型の学習を実践してもらおうと「環境教育プログラム小学校編」の冊子をまとめた。

 特徴は、身近な環境の素材を生活科、総合学習で取り上げ、環境教育に取り組む民間非営利団体(NPO)の情報を網羅していることだ。

 例えば、ごみを調べるプログラムは実際に、学校周辺のごみを回収・分別し、量をはかってみる。減量、再資源化はどうするか、などをワークシート方式で楽しみながら学ぶ。

 新しい環境教育に期待したい。成功の鍵は現場教師が実践に活用できるかにある、というのは言うまでもない。

 県内初の民間校長となった横山芳春氏もまた環境教育を重視している。那覇市立宇栄原小学校の生活科、総合学習で専門的な知識をもつNPOをアドバイザーに招き、体験型の授業を進めていく。「エコ・キャンパス宣言」をしている沖縄大学と、那覇市環境部も六年生の授業を受け持つという。

 横山氏の専門だった環境NPOを生かす試みである。外部団体との連携を図ることで、教師も子どもも環境、自然への関心を喚起できるよう工夫している。

 環境教育は、自然のありようを学ぶだけでなく、保全とは対立するような社会の仕組みや多様な価値観に触れることに意義がある。身近な環境問題から学ぶことによって、限りある資源を知り、同時に自然の素晴らしさを実感できるに違いない。

 米軍基地から派生する騒音や公共事業による埋め立てなども環境の視点から問題点が指摘されており、沖縄の現状を学ぶことも、また大切である。

 体験型をキーワードにした、新しい環境教育が定着することを望みたい。


 環境を学ぶ大切さは学校、地域で十分、認識されている。しかし、環境教育を実践しようとすると、具体的な方法、人材の活用などで戸惑うのが現状ではないだろうか。

 
学校でのカリキュラムは確立されておらず、環境教育が定着しているとは言い難い。
これは事実だろうか。
全国的には非常に進んだ分野と思うが、沖縄県のみが異常に遅れてしまったのかもしれない、そう考えれば納得できることである。


 環境教育は確かに重要である。カリキュラムをつくり、体験型という極めて時間のかかる学習法をもって学ぶべき事柄である。
 しかし翻って「平和教育」はどうだろう? これも重要であり、カリキュラムをつくり、体験的に学ぶべき事柄であろう。

 ところで情報教育はどうか? コンピュータを中心とする情報の処理・管理は緊急の問題であろう。これにもカリキュラムは必要だ。

 人権教育はどうか?
 金銭教育は?
 性教育の問題もあるだろう。
 
 消費者教育
 カード教育
 エイズ教育
 マルチメディア教育・・・・・・・・・・

 そう考えてきてふと思うのだが、
 国語・数学といった教科教育はどうしたらいいのだろう?