キース・アウト
(キースの逸脱)

2004年6月

by   キース・T・沢木

サルは木から落ちてもサルだが、選挙に落ちた議員は議員ではない。
政治的な理想や政治的野心を持つ者は、したがってどのような手段を使っても当選しておかなければならない。
落ちてしまえば、理想も何もあったものではない。

ニュースは商品である。
どんなすばらしい思想や理念も、人々の目に届かなければ何の意味もない。
ましてメディアが大衆に受け入れられない情報を流し続ければ、伝達の手段そのものを失ってしまう。

かくして商店が人々の喜ぶものだけを店先に並べるように、 メディアはさまざまな商品を並べ始めた。
甘いもの・優しいもの・受け入れやすいもの本物そっくりのまがい物のダイヤ
人々の妬みや個人的な怒りを一身に集めてくれる生贄
そこに問題が生まれれば、今度はそれをまた売ればいいだけのことだ。













  


2004.06.02

小6女児、校内で同級女児に首切られ死亡…佐世保

[読売新聞 6月2日]


 1日午後、長崎県佐世保市東大久保町、市立大久保小(出崎睿子=えいこ=校長、187人)で、同市天満町、毎日新聞佐世保支局長、御手洗(みたらい)恭二さん(45)の長女で同小6年、怜美(さとみ)さん(12)が、同級生の女児(11)にカッターナイフで首を切りつけられ、死亡した。

 県警佐世保署が女児から事情を聞いたところ、切り付けた事実を認めたため、同署は女児を補導し、非行事実を県佐世保児童相談所に通告した。女児は「態度が生意気だと言って呼び出した。ごめんね、ごめんね」と謝罪の言葉を繰り返し、涙ぐんでいるという。引き続き動機について調べている。

 同日午後0時45分ごろ、同校から「女児がけがをし、出血がひどい」と119番があり、市消防局の救急隊が駆けつけたが、怜美さんは同2時20分、死亡が確認された。

 同署の調べでは、女児は午後0時20分ごろ、校舎3階の学習ルームで、怜美さんの首をカッターナイフで切りつけたという。

 長崎大医学部で司法解剖した結果、怜美さんは右頸部(けいぶ)を切られたことによる失血死と判明。吉野多実男・県警捜査1課長は「頸動脈が切られている点、凶器の種類、現場の状況などを総合的に判断して、殺人事件とみている」と話した。通告を受けた児童相談所は、同署に女児の一時保護を委託した。

 県教委や市教委などによると、同校では午後零時15分から給食の準備が始まった。同35分、3階の6年生の教室で配ぜんが終わった際、担任教諭が怜美さんと女児がいないことに気付いた。直後にカッターナイフを持った女児が血まみれで教室に戻り、「私の血じゃない」などと話したため、教諭がカッターナイフを取り上げた。その後、調べたところ、学習ルームで怜美さんがうつぶせで倒れていた。

 怜美さんは父親の転勤で2002年4月、長崎市から同校に転校してきた。同級生の母親によると、怜美さんは積極的で明るい子だったといい、また近所の人の話によると、女児も教育熱心な家庭に育ち、優秀な子として評判だった。2人は同じバスケットボール部に所属していた。5月30日に運動会があったばかりで、2人に変わった様子はなかったという。

 市教委によると、学習ルームは約60平方メートル。少人数の習熟度別授業などを目的に設置されたが、実際の利用法は各学校に任せており、大久保小では教材の保管場所に使用、児童の出入りを制限していた。

 同校は午後1時20分、1―5年生を集団下校させ、6年生は午後6時ごろまで学校に残り、同署から事情聴取を受けた。同校は2日朝、緊急の全校朝会を開き、事件を説明することにしている。

 鶴崎耕一・市教育長は「怜美さんと女児の仲が悪かったとか、2人に問題があったとは聞いていない」と話している。

 同校は市中心部の高台の住宅地にある。各学年1学級と養護学級の計7クラスで、6年生は男子18人、女子20人の計38人。



第一報だけではなんとも言えないが、やりきれない事件である。

「小学生が小学生を殺す、しかも女の子が」という思いは誰しも共通のものだろう。

ただし、ある種のパニック状態の中ではどんなことでも起こると、私は思っている。

それはいわば精神の正当防衛であり、相手を傷つけるか殺さない限り自分の心は守れないと感じれば、被害者意識に囚われ思いつめた人間は何でもするものだ。

多くの大人はそこまで思い詰めない。しかし特定の子どもたち驚くべき速さで、最悪の決断をしてしまう。そういうことではないかと思う。








2004.06.03

「4日前に犯行決意」 同級生殺害の小6 
手で目隠し 切る 怜美さん 両手に複数の傷


[西日本新聞 6月3日]


 長崎県佐世保市の大久保小学校で、同小六年の御手洗怜美(さとみ)さん(12)がカッターナイフで首などを切られ殺害された事件で、補導された同級生の女児(11)が県警の調べに対し「事件の四日前に殺そうと決意し、殺す方法を考えていた」などと話していることが三日、分かった。同県警は計画性をうかがわせる証言として、裏付け捜査を進めている。

 調べでは、補導された女児は、五月下旬ごろに自分のインターネットの掲示板に御手洗さんから容姿や性格についての悪口を書かれた、と証言。その後、五月二十八日ごろに殺そうと決意したと話しているという。

 女児は、長崎県佐世保児童相談所の面談に「掲示板に嫌なことを書かれ、やめてほしいと言ったが、やめてもらえず、いやになった」と話したとされ、県警では掲示板の書き込み履歴の確認を進めている。

 これまでの調べで、補導された女児は、事件当日の一日正午すぎの給食準備中に「ちょっとおいで」と御手洗さんに声を掛け、教室と同じ三階にある学習ルームに連れ出し、いすに座らせて部屋のカーテンを閉めたうえで、背後から手で目隠しする形で右の頚(けい)動脈を切った、と殺害状況を話していることも新たに判明した。御手洗さんの両手には複数のかばい傷があった。

 女児は、事件に使ったカッターナイフを普段から筆箱などに入れており、御手洗さんを連れ出す際は服のポケットに隠し持っていたと証言。事件前に、特に購入したものではないという。


 ふと,この子は違うのではないか、という気がする。

 人は「殺すぞ!」と叫んでも実際には殺したりしない。
 「殺してやる」と思い詰めても、その意志を4日間も持続できるものではない。
 大人であってもそうである。ましてや子どもというのはかなり気まぐれで、意志の持続しにくいのが普通だ。
いすに座らせて部屋のカーテンを閉めたうえで、背後から手で目隠しする形で右の頚(けい)動脈を切った
というある種の冷静さも私にはなじまない。

 
もしかしたらこの子は、私の知らないタイプの子なのかもしれない。







2004.06.03

社説=小六女児殺害 冷静に多角的に解明を

[信濃毎日新聞 6月3日]



 痛ましく、やりきれない事件である。長崎県佐世保市の小学校で六年女児が、同級生の女児にカッターナイフで切りつけ、命を奪っている。仲良しだった友達関係がなぜ最悪の展開に陥ったのか。揺れ動く年ごろの心模様を冷静に解明したい。
 不審者が校舎内に侵入したのではない。まさか、の思いを打ち消しづらい。被害者本人と遺族の悲しみ、無念は察するに余りある。

 補導された女児は十一歳のため刑事責任を問えない。児童相談所から家庭裁判所へ送致された。詳しい調査の後、処分が決まる。

 悲劇は給食の準備中、教室とは離れた場所で起きている。これまでの調べでは、女児は殺すつもりで被害者を呼び出したという。

 二人は五年生の時、交換日記をしていた。最近はほかの一人を含め、インターネット上で文字による会話を楽しむ「チャット」の仲間でもある。女児はそこでのトラブルに言及しており、感情を害する何らかの事情があったと考えられる。

 それでもなお、凶器を手にし、相手の殺傷をいとわない行動に出るのはただごとではない。二人の間にどんなやりとりがあったのか、行き違いが生じたとすればどういう経過からなのか、ナイフを用いる以外に自分の思いを伝える手段はなかったのか―など分からない部分が多い。

 動機、背景を詳しく探ることが再発防止への道である。十四歳未満の触法少年の事件ではあるものの、プライバシーに配慮した上で、可能な限り公表するよう求めたい。

 一般的にこの年代は、女子の方が男子より大人っぽさを増していく。思春期の入り口に立ち、心が不安定にもなる。気の合う友人を増やそうとしたり、逆に嫌われないための振る舞いも珍しくない。

 葛藤(かっとう)を乗り越えていくのも成長の過程だ。とはいえ、人知れず悩みを深める場合もある。家庭や学校が変化を受け止め、支えていく姿勢が大事になる。

 急速に浸透する情報技術の影響も見過ごせない。チャットなどネット社会に出現する新しいコミュニケーションは確かに便利である。

 半面、顔の見えにくい世界では発言がとげとげしくなりやすい。意思疎通を円滑にするには、一定の文章表現力や作法が求められる。

 今の子供たちをめぐる問題は時間や場所を超え、重なり合う面がある。わが事としてとらえ、多角的に吟味する姿勢が必要である。


 

 チャットはいわばネット上の交換日記である。
 そして私たちの常識で言えば、
交換日記は必ず腐る。

 なぜそうなのか分からない。

 それは書いたことは心と別のところへ人を運んでしまうという文字の魔力のためか、日記が書かれる夜の魔力のためか、あるいは交換日記のもつ秘密性のためなのか・・・・・・いずれにしろ交換日記はいつか必ず他人の悪口の羅列となり、互いに気分を高揚させ、その高揚に耐えられなくなった側が誰かに漏らし、そしてトラブルへと発展していく。

 今回はチャットという日記の当事者同士のトラブルである。しかしそんなことはいくらでもある。

その意味では、新しくて古い事件とも言える








2004.06.04

長崎・佐世保の小6女児殺害 事前防止策の徹底促す
−−各地で緊急校長会 /大分


[毎日新聞 6月3日]


 長崎県佐世保市の小6女児殺害事件を受け、県教委は2日、命の大切さを実感させ規範意識を身につけさせる児童生徒一人一人に応じたきめ細やかな指導をする社会性をはぐくむ取り組みを進める――の3点を、県内の公・私立の小中高校全校に通知した。各地では緊急校長会が開かれ、事前防止策の徹底を強く促した。【平野美紀、楢原義則、大漉実知朗】

 
死角をなくせ
 別府市教委は市教育センターで小・中学校緊急校長会。24校の校長らが冒頭、黙とうし、亡くなった御手洗怜美さん(12)の冥福を祈った。
 山田俊秀教育長は事件を報じた新聞4紙の記事を参照しながら学校現場で注意すべきポイントを列挙。「担任がインターネットのことを知らなかったとあるので、児童生徒の人間関係の把握を十分にする」「日ごろ使わない教室が現場になった。使わない教室を施錠したり、ほかに死角がないかチェックしてほしい」などと呼びかけた。
 さらに人権やプライバシーの問題で10年以上前から、十分な持ち物検査が実施出来ていない現状を踏まえ「各校で保護者に了解を得て、持ち物検査を実施してほしい」と指示した。

 
緊急通知・ファクス
 大分市教委は事件があった1日午後、「児童生徒に命の大切さを教えると共に暴力は絶対許されないことを指導する」など4項目の通知文を市内の小中学校76校にファクスした。2日朝には小学校長会で、原一美青少年課長が通知文の徹底を再度要請した。
 日田市教委は市内小中学校長26人に(1)校内にナイフやカッターなど不必要な物を持ち込ませない(2)命の大切さを深く認識させるよう指導する(3)児童・生徒の心の状態や人間関係の把握――の3点を指示する緊急連絡をファクスで流した。
 宇佐市教委が開いた緊急校長会では「パソコンの書き込みや携帯メールが既に小学生までに及んでいることに衝撃を受けた」といった校長らの戸惑いの声も出た。
 
現場では預かりも
 大分市立西の台小学校(佐藤三郎校長、893人)は「子供たちが万一まねをして、けがをしてはいけない」との配慮から、個人のカッターナイフを担任が一時預かることにした。6年生4クラスで約40本が集まり、当面必要な時に担任から借りる。
 それと同時に不必要なカッターを持ち込まないよう指導。教職員は臨時朝会で、給食準備中などの指導のすき間を極力なくすことなどを確認しあった。(毎日新聞)



教育委員会としてはそんな言いかたしかできないのであろうが、
「担任がインターネットのことを知らなかったとあるので、児童生徒の人間関係の把握を十分にする」「日ごろ使わない教室が現場になった。使わない教室を施錠したり、ほかに死角がないかチェックしてほしい」
となると私たちの仕事も勢い管理的にならざるを得ない。
インターネットでチャットを行っているかどうかなどといったことは、そう簡単に把握できるものではないからだ。


人権やプライバシーの問題で10年以上前から、十分な持ち物検査が実施出来ていない現状を踏まえ
まさにその通りで、子ども知る方法を大量に失ってきた。人権は人の命より重いのだ。

子どもたちの人間関係を調べるのに非常に都合のよかったソシオメトリックス・テストというのも、もはやできなくなっている。
もそも、どういう人間関係を持っているかということ自体がプライバシーなのだから。

さらに
教職員は臨時朝会で、給食準備中などの指導のすき間を極力なくすことなどを確認しあった。

こうした徹底した管理に対して、メディアはどう反応していくのだろう?






2004.06.05

少人数授業 「習熟度別」英数で有効 「2人教員」は効果なし

[産経新聞 6月5日]



 到達度などに応じ、グループに分かれて授業を行う習熟度別学習が中学校の数学や英語などで有効な一方、一つのクラスに主、副二人の教員が付いて授業を行うチーム・ティーチング(TT)は、小学校の算数、中学の数学、英語でいずれも特別な効果が認められなかったことが四日、国立教育政策研究所が行った少人数授業に関する調査で分かった。

 調査は、少人数授業を取り入れている学校が多い算数・数学と英語を対象に、算数では小学四年と六年▽数学、英語では中学二年−の児童生徒計二万二千百九十六人に対し、学力テストとアンケートを実施。七つの授業タイプ別に「学力」「興味・関心・意欲」「学習態度」の三つの面から効果を調べた。

 その結果、中学の数学と英語では「学力」「興味」「学習態度」とも、クラスで一斉授業を行った後、習得できた人とそうでない人のグループに分かれて授業を行う習熟度別学習(完全習得学習)が、最も効果が高いことが分かった。

 また、小学校の算数については、新たな単元開始前にテストなどの結果であらかじめグループを分けてしまう習熟度別学習(到達度別学習)や、学級を単純分割して十五−二十人程度で行う授業が、「学力」で高い効果を示した。一方で、「興味」や「学習態度」では、三十人や四十人程度のクラスで行う一斉授業が効果的だった。

 TTについては、小学校、中学校とも「効果的」とされた項目はゼロ。同研究所は「大体、少人数指導が効果的という結果だが、少人数ならいいのではなく、指導方法の工夫や改善が重要」としている。


湖の場合「特別な効果」というのは学業成績の上昇のことであろう。
その意味では、能力別小人数学習が成績上昇とつながるというのは私たちの実感にかなう。

また、記事にはないが「成績別」も試験によって振り分けるのではなく、本人の希望と担任の指導によってクラス分けをする場合には、生徒本人の満足度も高い。
とにかくこれまで発言の機会のなかった生徒が、自分にあったクラスで活躍の機会を与えられるのだから、喜びも少なくない。

一方、 TTの
小学校、中学校とも「効果的」とされた項目はゼロ。という結果については、私たちは少々のショックと戸惑いを覚える。

TTの良さはなんと言っても授業の主たる指導者が数人の生徒に掛かりきりにならないで済むという点にある。しかしそれにも関わらずまったく成績に関わりないとしたら、私たちの指導は何なのだろう?

もしかしたら、一定の全体指導を終えた後は、生徒に自由に学習させ、私たちは一部の子に掛かりきりになっていても構わないということなのかもしれない。
本当にそうだろうか?









2004.06.05

<小6同級生殺害>「どこでも起こり得る」 教育現場に不安

[毎日新聞 6月5日]



 「どの学校でも起こり得るのではないか」。長崎県佐世保市の市立大久保小学校で起きた同級生殺害事件を受け、各地の教育現場でそんな思いが広がっている。感情表現が苦手で、傷つきやすい子供たちの友人関係の危機に、教師はどうかかわればいいのか。悩みながら、事件について子供たちと語り始めた学校もある。【磯崎由美、高橋昌紀】

 事件翌日の2日朝、千葉県の公立小学校。6年生の教室で、50代の女性教師が事件を報じた新聞を開いた。驚きや悲しみが広がる中、何の感情も見せない児童がいた。「事件が多すぎて無感覚になっているのか」。ショックを覚えた。

 親友だった被害者と加害女児が亀裂を深めたのは、体重についての発言が発端だったとされる。この教師は女児たちが友達の容姿をからかった時のことを思い出した。「相手が傷つくよ」とたしなめたが、「私も言われている。お互いさまだよ」とさらりと言われた。言う側の軽さと、言われる側の傷の深さ。「何がきっかけでそのギャップが広がるか分からない。兆候があった時、気づいてあげられるだろうか」

 1学年1クラスと、大久保小と同じ規模の小学校が大阪府にもある。6年生約30人を担当する30代の男性教師は、組替えのないまま6年間を過ごす子供たちの世界を「家族のよう。親密すぎて傷つけ合うことがある」と表現した。

 このクラスでは、2年生の時から女児たちのもめ事が多かった。教師が呼びかけ、集めては「何でもめたの?」と話し合った。6年生になった今では、トラブルがあれば自分たちで話し合い、必要な時に「先生、入って」と言ってくるようになったという。「嫌な思いをため込んで爆発しないよう、なるべく早く話をするのが大切」と教師は話す。

 このクラスでも2日、事件について話し合った。知らない児童は2人だけで、関心は高かった。校内でも携帯電話で友達とメールを交換する子が増えている。だが、事件の輪郭が見えてくるにつれ、教師は「インターネットが悪いわけではないのではないか」との思いを強くする。「私たちが学校で見ている子供の姿がすべてではない。子供たちの心の背景にある深いものを、考え直さなければならない」

 東京都内の小学校では、40代の男性教師が6年生に新聞のコピーを配った。真剣に読む姿に、友人関係の悩みも見てとれた。

 ある時、女児3人グループの仲が突然悪くなったことに気づいた。「おせっかいかもしれないけど、ちょっと教えて」と教師が個別に話を聞くと、グループ外の女児から「悪口言われているよ」とうその告げ口をされ、互いに「嫌われた」と疑心暗鬼になっていたことが分かった。3人を集めた。「ごめんね」と涙を浮かべて仲直りする3人を見て、「ちょっと背中を押してあげる」大切さを実感した。

 そんな教師も今回の事件には、心を揺さぶられた。「あそこまでの事件を起こす子はいないだろう」と思う。その半面、「加害女児も少し前まではうちの子たちと似たような状況だったのではないか。ささいなきっかけで感情がエスカレートしたのではないか」との不安も募る。「インターネットやカッターナイフを排除しさえすれば、事件は防げたのか」。この疑問に、なかなか答えを出せずにいる。



事件のかなり早い段階で学校長も保護者も児童相談所の所長までもが加害の子を「普通の子」と表現してしまったために恐怖感は全国津々浦々まで広がってしまった。

それはそうだろう。
そのあたりの公園でのびのびと遊んでいるような子がある日突然ナイフを手にし、大昔の時代劇の暗殺者さながらに、冷静に、何のためらいもなく人を殺すことができるとなれば、誰も穏やかではいられまい。

しかしそれは本当だろうか?
私には普通の子、つまり学校にいるほとんどすべての子が殺人者になる可能性など、到底信じられない。
また、殺人を犯したばかりの子が「普通の子」然として捜査官や児童相談所所員、弁護士の前に座っていられることも信じられない
のだが。








2004.06.06

<小6同級生殺害>見えなかった心の闇 元担任語る

[毎日新聞 6月6日]



 学校は2人の少女を救えなかったのか。長崎県佐世保市の小6同級生殺害事件で、加害者の女児(11)を5年生の時に担任した女性教師が初めて毎日新聞の取材に応じた。「子供たちの心に闇があるとは思ってもいなかった」。クラスがバラバラになる中で、荒れていく女児のサインに気づけなかった。

 元担任は30代後半で、今も大久保小に勤めている。1学年1クラス。同級生によると、別の男性教師が担任だった4年生のクラスはまとまりがあったが、「5年生になって急にバラバラになった」という。学校で菓子を食べたり、授業を無視する。いじめ、担任への暴力も起きた。

 元担任は「精いっぱい私なりにやったつもり」と言いつつ、「うまくまとまらなかったのは事実。難しかった。私のせいと言われても仕方がない」と悔やむ。暴力を受けたことも「私が悪かった面もある」と語る。

 女児は5年生の2月、好きだったバスケットボール部を母親の意向で辞めた。そのころから授業を聞かず、ほおづえをついて居眠りをするようになった。だが、元担任は「私の知る範囲では、そういうことはなかった」。突然、ストレートパーマをかけてきたこともあったが、「ご両親も許していたんだろうから、彼女には何も尋ねなかった」という。

 女児は次第に荒れ、放課後に男子を追いかけ回して倒し、踏みつけた。「男子をこづく場面は見たが、それほど激しい感じではなかったので冗談の範囲」と受け止めた。

 女児の変化は見えなかったのか。「表情も明るかったし、文集を作る時も張り切っていた。私の前の彼女を見る限り、分からなかった」と振り返る。「子供たちが私に見せない部分は当然あるし、それでいいと思っていた。でも心に闇の一面があるなんて思ってもいなかった。それがいけなかったのかと……」

 事件にはとても責任を感じている。亡くなった御手洗怜美(さとみ)さん(12)はクラスのリーダーだった。「ミタッチ(怜美さんの愛称)だったら大丈夫という信頼感があった」。怜美さんはジャガイモが好物で、給食に出ると「私、これさえあれば生きていけるよ」と言って、みんなを笑わせた。その顔が忘れられない。

 長崎少年鑑別所に収容されている女児は5日、付添人弁護士と3回目の面会をした。弁護士から1時間程度、学校生活を中心に尋ねられたが、教師たちのことは一切話さなかったという。


ある意味で、この記事は事態を分かりやすくしてくれる。
「5年生になって急にバラバラになった」という。学校で菓子を食べたり、授業を無視する。いじめ、担任への暴力も起きた。
そうした中では、
荒れていく女児のサインに気づけなかった。
ということもよく分かる。
いわばクラス全員がサインを出している状況なのだ。

 女児は次第に荒れ、放課後に男子を追いかけ回して倒し、踏みつけた。
その状態を
「男子をこづく場面は見たが、それほど激しい感じではなかったので冗談の範囲」と受け止めた
のは明らかなミスだろう。
 しかしクラス全体が荒れた中では、他にやっておくべきことがありすぎるのだ。また、6年生の教室で子ども同士の殺人があるかもしれないと、普段から考えて教室に向かう教師など皆無だろう。

 さて,事件を避けられる可能性があったかどうかだが、難しい問題である。








2004.06.11

佐世保の小6女児殺害 PCマナー指針策定へ
−−市教委、異例の指導見直し /長崎


[毎日新聞 6月11日]



 佐世保市教委は小6同級生殺害事件を受けて、教師を通じて小・中学生にパソコン利用時のマナーやモラルを分かりやすく説明するための指針づくりに着手した。教委のこうした動きは異例。事件の背景にはネット上の表現をめぐるトラブルがあるとみられるだけに、各学校任せにしていたマナー教育を改善して指導を見直す方針だ。
 文部科学省は98年から、全国の小中高校にインターネットをつなぎ「読み・書き・そろばん」と同レベルで習得させる整備計画をスタート。昨年度までにほぼ完了したが、利用技術の飛躍的な向上に対して、マナー教育がついていかないのが現状だった。
 佐世保市でもマナー教育は文科省から配布された100ページ以上の冊子や県のリーフレット頼りだったが、ネット詐欺や出会い系サイトに対する啓発に偏りがちで、親しい個人間でのネット上の具体的なやり取りや表現についての教育はほとんどしていなかった。今後、教諭からの聞き取りを進め、指導の指針をまとめる。


結局たどり着くのはここだと分かっていた。
各学校任せにしていたマナー教育を改善して指導を見直す方針
というがその学校は、実はネット上のマナー教育など(私の知る限り)まったくしてこなかった。

なぜしてこなかったのかというと、学校教育の枠内でインターネットは情報を受け取る手段であって発信の方法ではなかったからである。
具体的に言うと、情報を検索し利用する方法は教えても、自らホームページを開設し、あるいは掲示板に書き込みをし、あるいはチャットに参加するということを教えてこなかったのである。
学校教育にふさわしい掲示板もチャットも私たちは発見できなかったし、きわめて個人的な掲示板やチャットを学校教育で扱うという発想そのものがなかったのである。

さて、そうした学校で今後
親しい個人間でのネット上の具体的なやり取りや表現についての教育
を行うとなれば、当然、掲示板やチャットに直接触れければならない。
私たち教師が、危険で、だからこそ魅惑的な掲示板やチャットの存在を教えるのである。


私たちはこれについて苦々しい経験を持つ。

たとえば人権教育について、
「こうした言葉や態度は人を傷つけるからやってはいけない」と教育している最中、「このやりかたならアイツを苦しめることができる」と攻撃の方法を学んでいる子がいる、

たとえば性教育をしている最中、
「こうすれば妊娠の危険を回避しながら、アイツと自由にセックスできる」と学んでいる子がいる、

そういう危険である。

いずれ知ることになるとはいえ、私は、学校が進んで掲示板やチャットの利用を教えていくことに抵抗がある。

おそらく99%の生徒は私たちの指導によて正しい道を獲得するだろう。しかし残り1%は、むしろ教育によって、悪事に身を委ねていく。結果的に、私たちが掲示板やチャットの面白さを教えてしまうのだ。


それが正しい道だと人々は言う。






2004.06.24

例題に「殺して山分け」 小6担任教諭を厳重注意

[共同通信 6月24日]



 宮城県迫町の町立小学校6年生の算数の授業で、担任の男性教諭が最小公倍数を求める問題に、銀行強盗の犯人が仲間を殺して、奪った現金を山分けする場面を例題とし、校長が厳重注意していたことが24日、分かった。

 同町教育委員会によると昨年10月、40代の男性教諭が「7人で銀行強盗をして札束を山分けしたら2束足りません。そこで2人を殺しましたが、それでも2束足りません…札束は何束でしょう」などと黒板に書き出し、児童がノートに書き写した。

 ノートを見た保護者が学校に抗議。学校側は文書で保護者に謝罪した。教諭は「子どもが飽きないように出題したが、反省している」と話しているという。

 町教委は「子どもによる凶悪な事件が相次ぎ、命の大切さを教えている中で、極めて不適切な問題だ」としている。



なかなか面白い例題であるが、お分かりだろうか?

2束足りなかったのでふたり殺したのに、なお2束足りない・・・驚いて顔を見合わせるアホな強盗が目に浮かぶようである。

答えは33。68でも103でも、つまり(35の倍数)―2であれば全て正解になってしまう難はあるが、よくできた問題といえる。小学校の先生というものは面白いことを考えるものだ。


しかし如何せん時勢が悪かった。殺すという言葉にこれほど敏感な時期に、この例題はやはりまずかった。
この教師のセンスの悪さにはあきれる。

子どもによる凶悪な事件が相次ぎ、命の大切さを教えている中では、もはや死にまつわる全てのものが命の大切さを教えることと矛盾するのだ。

まもなく、学校の図書館からはグリム童話も消えるだろう。
40人の盗賊を一気に煮立った油で殺すといった残酷なアラビアンナイトも学校にふさわしくない。

今夜もテレビドラマの中では何十人もの男女が残酷に殺されている。
NHKのニュースでさえ「イラクで11人殺された」と、事も無げに伝えている。今後、共同通信はこうした現状にも厳しい目を向けてくれるだろう。偏向のない報道を切に願う。

(ところで、この例題を、子どもたちはどう受け取ったのだろう? こうしたニュースでいつも置き去りいされるのは、当の子どもたちである)









2004.06.29

「心の教育」力注ぐ 長崎県、佐世保事件後模索続く

[共同通信 6月28日]



 事件のたび、「心の教育」が取りざたされる。小学校6年生が死亡する事件のあった長崎県佐世保市の大久保小学校の出崎睿子(えいこ)校長は「心の教育を徹底してきたつもりだったが、子どもたちの心に響いていなかった」と話した。1年前に長崎市で園児が中学生に突き落とされて死亡する事件があり、同県は特に「心の教育」に力を注いできた。

 「何かしなければならない。でも何をしたらいいのかわからない」。佐世保事件後、そんな「何か」の模索が市内の小学校で続く。皆瀬小PTAは親子で「塗り絵」に取り組みはじめた。画用紙にフェルトペンで円を描き、数本の線を引いてできた枠をクレヨンや色鉛筆で塗りつぶしていく。

 1枚に15〜30分。「何かが解決するわけではない。でも親子の会話は必ず生まれる。これが私たちの第一歩です」とPTA会長の吉田恵美子さん(30)は話す。

 大野小では15日夜、「井戸端会議」が開かれた。約120人の大人が、小グループに分かれて机を囲んだ。「自分の子のことが分からなくなった」「ネットをどう使わせればいいの」「とにかく、子どもの話に耳を傾けよう」。次第に白熱し、会合は約1時間半にわたった。

 きっかけは、事件が起きた1日に開かれたPTA集会で噴き出した親の不安だった。「自分の子も加害者になるかもしれない」

 井戸端会議の後、「悩んでいるのは私だけではなかった」「同じ立場に置かれた者同士の生きた話ができた」などの意見が寄せられた。今後も定期的に開く予定だ。

 長崎県は「子どもの心の根っこを育てるために地域社会で子どもを育てよう」という「ココロねっこ運動」を02年から推進してきた。

 同年、県教委はいじめや不登校などを中心に扱っていた生徒指導班を、「心の教育推進班」に変えた。昨夏、長崎市の園児死亡事件以降は、心のケアや教員の研修とともに、地域と家庭と学校をつなぐ取り組みに力を注いできた。

 県教委は「生命の尊さを理解し、自他の生命を尊重する」ことを繰り返し教えるよう全小中学校に通達した。

 老人ホームを訪ねる。保育園児とゲームをする。そんな「子ども同士の体験」を重ね、人とのふれあいや思いやりの大切さを教えてきた小学校もある。だが、佐世保の事件後、県教委が全校長を集めて開いた緊急会議では沈んだ表情が並んだ。「観念的に教えても伝わらないのではないか」「『死』や『命』を実感として教える方法がわからない」

 金子原二郎知事は23日の定例会見で「徹底した検証が最も必要なのだが、少年事件は中身を把握できず、原因がつかめない。結果的に『心の教育』へと向かわざるをえない」と話した。


事件のたび充実訴え 文科省

 《大切な友だちだけど考えていること感じていることはそれぞれちがう/心がちょっとせまくなるとたがいに気まずくなってしまったり/でも、そのときは自分をきたえる絶好のチャンス/にげずに、向き合うこと/そして相手の立場に立って考えてみること》

 文部科学省がつくった道徳教育用の冊子「心のノート」(小学5・6年用)の一節だ。

 冊子は「心の教育」の一環として02年春、約1200万部が全国の小中学校に配られた。河村文科相は佐世保市の事件後、「こういうものも一つの教材にして各学校で事件について話し合ってほしい」と呼びかけている。

 「心の教育」が政策課題として大きく取り上げられるようになったのは、神戸市で97年に起きた児童連続殺傷事件がきっかけだった。


 当時の文部省は緊急に「幼児期からの心の教育のあり方」を中央教育審議会に諮問した。翌年の答申は「生命を大切にし、人権を尊重する心などの基本的な倫理観」を育む必要性を説いた。

 しかし、その後も事件は絶えない。


 文科省は昨年9月、子どもたちの問題行動に対する指導を把握するために全国の小・中・高校約7700校を抽出して調査をした。基本的な道徳観や倫理観の指導については「講演会などの開催がその場だけのものになったり単調化したりしている場合も見られる」といった「問題点」が指摘された。

 もともと、凶悪事件を契機に「心のノート」を中心とした道徳教育を強めることに対しては、「極端な事例を理由にすべての子どもに国が考え方を強制するものだ」との批判もある。子どもが「余計なお世話だ」と反発するケースもあるといわれる。

 ある中堅職員は「『心の教育』を進めたとしても、凶悪事件を防げるかどうかは、結局は、子ども一人ひとりに学校や家庭がどう対応するかにかかっている」と言う。

 とはいえ、事件が起きると「心の教育」の充実を訴えることが続いている。

 幹部の一人は「事件直後から、何か対策を、と迫る世論を前に言えることが見あたらない事情もあるが、マンネリになろうとも『心の教育』が不必要だということはありえない」と話す。


 「何かしなければならない。でも何をしたらいいのかわからない」

素直な実感である。

 心の教育と言っても何十年も前からやっている道徳教育から、何を一歩踏み出せば良いのか、私たちにも分からない。


一般に、なぜか世の中の人々は教師が数学や英語ばかりを教えていると思い込んでいるが、そうではない。学校には週1時間の道徳の授業があるがそれだけが心の教育ではなく、私たちはさまざまなことを行ってきた。

遠足だ、社会見学だ、修学旅行だといった学校行事も、文化祭も生徒会活動も、すべては集団性を高め、生徒の社会化を促すものだった。

技能向上という意味だけなら社会体育に移行した方が確実に伸びる部活動も、学校が手放さないのはそのためである。

しかし、たとえば動物を飼育しても、畑を耕しても、老人ホームへの慰問を繰り返しても、それで「心の教育」ができるとはとても思えないのだ。

事件直後から、何か対策を、と迫る世論を前に言えることが見あたらない事情もあるが、

まったくその通りである。

結局世論対策のために「心の教育をしています」「命の教育をしています」と言うだけで、実際に今以上の何ができるのか、私たちには分かっていない。

慧眼のメディア諸氏よ、われらに教えたまえ。