キース・アウト (キースの逸脱) 2004年11月 |
by キース・T・沢木
サルは木から落ちてもサルだが、選挙に落ちた議員は議員ではない。 政治的な理想や政治的野心を持つ者は、したがってどのような手段を使っても当選しておかなければならない。 落ちてしまえば、理想も何もあったものではない。 ニュースは商品である。 どんなすばらしい思想や理念も、人々の目に届かなければ何の意味もない。 ましてメディアが大衆に受け入れられない情報を流し続ければ、伝達の手段そのものを失ってしまう。 かくして商店が人々の喜ぶものだけを店先に並べるように、 メディアはさまざまな商品を並べ始めた。 甘いもの・優しいもの・受け入れやすいもの、本物そっくりのまがい物のダイヤ。 人々の妬みや個人的な怒りを一身に集めてくれる生贄 。 そこに問題が生まれれば、今度はそれをまた売ればいいだけのことだ。 |
2004.11.02
「不登校の子ども、不良品」PTA大会で福井県副知事
[朝日新聞 11月2日]
福井市内で10月に開かれたPTAの研究大会で、福井県の山本雅俊副知事が不登校の児童、生徒について「不良品」と表現していたことがわかった。県高校教職員組合は1日、「生徒や保護者、教職員の思いを踏みにじる問題発言」として、西川一誠知事に抗議文を出した。
山本副知事は10月15日、日本PTA全国協議会などが主催して開かれた東海北陸ブロックPTA研究大会で、開会式の来賓として登壇。児童、生徒を工業製品にたとえながら「東海北陸6県の生徒数は120万人で、そのうちの(不登校の)1万4000人は不良品」と述べたという。
大会には東海・北陸6県から約2000人が参加。大会関係者から指摘を受け、山本副知事はその後、会場で「不適切な発言だった」と釈明した。
メールで抗議を受けた西川知事は「企業活動に携わってきた経験からの発言だったようだが、説明が至らず真意をお伝えできなかったものと思う」と返答している。
山本副知事は米大手化学メーカー、デュポン日本法人の元社長。西川知事に請われ、03年8月に副知事に就任した。
ああなるほど、民間企業の人はこういう考え方をするのかと、目を見開かされるような出来事である。
不登校の子どもを「不良品」と見る、いやそもそも子どもを「製品」と見る発想自体が私たちにはない。もしかしたらそこが私たちにもっとも欠けていたことだったのかもしれない。
子どもを「製品」と考えれば、そこからさまざまなものが見えてくる。これまで私たちがよく分からないままやらされてきたことも、「製品」をベースに考えると分かってくる。
たとえば「絶対評価」
これは学習の最低基準を示したものだが、言いかえれば「品質管理」のためのチェックシートなのだ。
「わが教育工場では、最低の品質として、ここまでは保証します」という保証書のようなものなのである。
かつての相対評価の時代はそうではなかった。
相対評価は工場になぞらえれば、自社製品にランク付けをするものだった。
「大変優秀な車もありますが、どうしようもない車もあります。それぞれ引き取ってください」
しかしそれでは商売にならないだろう。
最低は保証する、これが企業の倫理と言うものである。
もう一つは「学校の自己点検・自己評価」
これは学校のQCサークルなのだ。そう考えて初めてすべてが理解できる。
かつて学校のモデルとしたものは家族だった。
父であり母でもある教師は、時には厳しく、時には無限の愛をもって子どもに接することを求められた。
親だからできの悪い子でも見捨てず、「できの悪い子ほど可愛い」といった態度で接してきた。うまく行かなくても無限の責任があると考えられていた。
そしてその代わりと言っては何だが、多少の親の不始末もお互いさまと言うことで我慢してもらっていた。朝から酒くさい親がいても、いちいち目くじらを立てることもなかった。
しかしこれからは違う。
学校はサービス業をモデルとすることになる。
そこで求められるのは品質管理と効率であろう。
それが正しい道かどうかは問わないまま、クライアント(親か? 政府か?)の要求に可能な限りこたえていく契約の世界なのである。
その世界ではおそらく、「素材が悪いから、この程度のものしかできません」といった私たちの主張も認められるはずである。
2004.11.03
仙台市内の小中学校給食 「食べ残し」減らず
[河北新報 11月2日]
仙台市内の小中学校で、児童生徒が食べ残した給食の「残食」が一向に減らない。残食率は小学校が14.9%、中学校は19.0%に達し、せっかくの給食の多くが肥料や家畜のえさに回されているのが実情だ。給食を「健康な体づくりの基本」と位置付ける市教委は、残食を少しでも減らそうと子どもたちへの指導を徹底する考えだ。
市立の小中学校の残食率はグラフの通り。1995年度以降、小学校は10%台で年々上昇の傾向にある。中学校は年度によってばらつきがあるが、20%前後の高い割合が続いている。
残食率は各学校の給食室で調理する単独校に比べ、市内6カ所の学校給食センターから提供を受けるセンター校の方が高い。献立別では米飯に比べ、パンの人気が低い傾向があるという。
残食は多くが堆肥(たいひ)に加工されており、校庭や市内の公園の緑化に活用されている。一部は養豚業者に引き取ってもらうほか、中には自前の生ごみ処理機を導入している単独校もある。
児童生徒の残食が減らない背景として、市教委は(1)給食の献立と家庭の食事のギャップ(2)短い給食時間―などの要因が大きいとみる。
近年の給食は成長に不可欠な栄養素の多い和食が見直され、煮物や魚料理の登場回数が増えている。「家庭の食事は洋食中心」(市教委)のためか、和食ほど残食も増えがちだ。給食時間は配ぜんや後片付けを含め小学校で45分、中学校は35分が最も多い。小学校高学年や中学校ではダイエットを理由に給食を残す女子もいるという。
学級担任や栄養職員の声掛けで残食が確実に減った学校もある。市教委は「健康の土台があって初めて学力も身に付く。食の意義を地道に指導するしかない」(健康教育課)と話している。
ずいぶん殊勝なことである。
お子様に食べていただくために、市教委は深刻な反省をしている。しかしそもそもこの話、家庭ではほとんど残さないのに学校では残食が出る、といったものなのだろうか?
(2)短い給食時間は確かにそうだが、時間かければ食べられるといった子どもを1時間も2時間も食卓に座らせておくのも気の毒だろう。また実際、彼らはたいてい家で1時間も2時間もかけて食べているわけではない(普通の親はそんなに辛抱強くない)。いい加減食べたところで、後は残してしまうのである。
(1)給食の献立と家庭の食事のギャップも言いえて妙だが、学校が家庭と同じ洋食中心にすれば残食がなくなるというものではないのだ。なぜなら給食の献立と家庭の食事の最大のギャップは家庭では嫌いな献立が出ないということだからである。
若く、意識の高い母親が赤ん坊の離乳食をどのように献立し、どのように与えているか見てみるがいい。
彼女たちは実に辛抱強いのだ。
子どもの嫌いな食材も、取りあえず食べやすい形に加工し、やがて時間をかけて本来の味に近づけていく。
バランスの良い食事に心を砕き、栄養が偏らないように調理するとともに、すべてが平均しして食べられるよう辛抱強く取り組む。
そのように育てられてきた子どもたちは、何でもおいしく食べられる。
健康な胃袋を持ち、必要量を食べることを苦にしない。
そして何でも嫌がることなく胃袋に入れられる子は、なぜか嫌な言葉も一応耳に入れることに長けている。
まさに「食は人をつくる」のである。
しかしそれは極々少数でしかない。
時折、残食をまったく出さないという教師がいる。彼らもまた、異常に辛抱強い。
この人たちの信念は、
「個人差はあっても、クラス全体としては残食は出ないはずだ」というものである。
栄養士が専門の知識を駆使して質と量を決めたのに、それが食べられないはずがない。クラスには小食の者もいれば大食いもいる。みんなが好き嫌いを言わず、その子にふさわしいだけ十分食べれば、残食の出ることなどありえない、そう考える(実際には米飯など必要量の8割程度しかクラスに送られて来てはいない。基準に従って出せば、確実に残食となって戻ってくるからである)。
そうしたクラスはたいてい素直で、がんばり屋が多くなる。
ただしそうしたクラスの担任は、常に「管理的・強制的・反自由主義」のレッテルを貼られる危険と隣り合わせだ。不登校が一人でも出れば、「先生が強制するから・・・」と非難の矢面に立たされかねない。
健康の土台があって初めて学力も身に付く。
それはそうだ、しかし
食の意義を地道に指導するしかない
は違うだろう。
食は習慣であり、筋が通っているから食べられるようなるというものではない。
正しい食生活は辛抱強い励ましと、地道な強制の中からしか生まれない。
2004.11.06
保護者の6割が導入歓迎 小中学校通学区選択制
[琉球新報 11月6日]
那覇市内の児童・生徒の保護者の64%が学校選択制の導入に賛成している。半面、同制度が実際に導入されても従来通り地元にある「指定通学区域」を希望する保護者が76%に上ることが那覇市教育委員会(仲田美加子教育長)の実施した「那覇市立学校の通学区域制度に関する保護者アンケート」結果で明らかとなった。学校選択制の種別では「完全自由選択制」を希望する者が最も多く42%、「隣接校選択制」が40%、「ブロック別選択制」は12%にとどまり、完全自由選択制と隣接校選択制が共に4割できっ抗している。
2日に那覇市教委で開かれた市立学校適正規模等審議会で公表された。調査は市立の全学校を対象に幼稚園が各園一クラス、小学校が4年生の一クラス、中学校が1年の一クラスの保護者を対象に、9月2日から10日まで実施。幼稚園622人、小学校869人、中学校449人の計1940人から回答を得た。
回答率は幼・小中学校合わせて70・2%だった。
アンケート結果によると、64%が賛成した学校選択制の導入は「反対」が5%にとどまっている半面、「分からない」が29%にも上る。
「学校選択制が導入されたらどのような学校に通わせますか」との問いには、従来通りの「指定通学区域」との回答が最も多く76%。次いで「指定通学区以外」の20%、無回答が4%あった。
「指定通学区域以外」とした理由で最も多いのは「その学校が一番近い、あるいは通学しやすいから」の16%(複数回答)で、「子供本人が希望しているから」15%、「まわりの子供たちや友人が通うだろうから」10%、「いじめや荒れが少ないから」10%などとなっている。
学校選択制が導入され、指定校以外の学校を選択した場合の地域活動をみると、居住地・学校のある地域の「どちらにも参加する」が23%(複数回答)で最も多く、「これまでの地域活動」21%、「選択した学校の地域」17%と地域活動でばらつきが見られた。
学校選択制というものがどういう流れから来ているのかよく分からない。
たしかに現在の学区を見ると目の前に学校がありながら遠くの学校に行かされているといった例もあり、そうした人々が選択制を希望するのは理解できる。
しかし68%という賛成派の大部分は、そうした特殊な事情を抱えた人々ばかりではないだろう。反対派が5%というのも理解できないことである。
さて、ともあれ学校の選択制は今後どんどん進むだろう。そうでなくてはならない。
なぜなら一枚のコインの表が「学校の選択制」、裏が「特色ある学校づくり」だからである。
「特色ある学校づくり」が進み学校が個性を主張し始めると、当然それに合わない児童・生徒が出てくる。それにもかかわらず「指定通学区」に固執すれば、それこそ人権侵害である。
子どもはすべからず、小中学校の段階から自分にあった学校を選ぶべきである。それが全体の流れである。
しかし、待て。
その子がその学校に合っているかどうかは、子どもと親だけで決められるものだろうか?学校から「お宅のお子さんはこの学校に合っていません」といわれる心配はないだろうか?
もしかしたら学校選択制のポイントはここにあるのかもしれない。
アメリカでは(すべての州がそうかどうかは知らないが)小中学校でも退学制度がある。
一定の手続きを経た上で、どうしても改善の兆しが見えない場合、子どもは学校から追い出され別の学校進むことを言い渡される。
モータリゼーションの進んだアメリカでは、そんなふうに子どもを追い出しても、親は少々離れた学校に子どもを連れて行けるのだ。
そう思ってふと見返すと、モータリゼーションという意味では、日本も十分アメリカ並みに進んでいることに気づかされる。
「学校の選択制」の裏は、そういうことなのかもしれないのだ。
2004.11.12
未成年の中絶 「性」の自己決定能力を
[沖縄タイムス 11月11日]
厚生労働省の統計によると、二十歳未満の人工妊娠中絶が、二〇〇三年度に四万四百七十五件に上ったことが分かった。
対象となる年齢人口千人当たりの中絶実施率は11・9。前年度よりわずかに減少したが、十年前と比べると二倍近くに増えている。
十代を年齢ごとに刻んだ統計では、十九歳の女性の「五十人に一人」が、中絶を経験していることも明らかになった。
不十分・不正確な知識のまま、性体験の低年齢化が進み、中絶が最終的な避妊手段の一つになっている異常な現実が浮かび上がる。子どもを産むかどうか、いつ産むか、何人産むか。当事者である女性の自己決定権を尊重する考え方が広まっている。
しかし、現実には好きな男の子の要求を断ることができない、という少女が多い。根底にあるのは、男女の関係の中で受動的な立場にある女性の姿だ。
今の子どもたちは、性に関する情報を多方面から得ている。避妊法についても多くの高校生が「そんなことは知っているよ」と言うだろう。
が、知識とそれを実行するかどうかの間にはギャップがある。
性に対する正しい知識と同時に、「自分の体は自分のもの」「嫌なものは嫌」という、自己決定能力を養う教育プログラムが必要だ。
「性」をめぐるパートナー同士の対話が不足しているのは、子どもに限ったことではない。
全年代を通した中絶件数は三十一万九千八百三十一件、中絶実施率は11・2で、ここ数年ほぼ横ばいの状況が続く。県内は三千百九十一件で9・8だ。
一九九九年に経口避妊薬低用量ピルが解禁となり、避妊の選択肢は広がったが、数字に大きな変化は見られない。「無防備」で「受け身」は、大人の問題でもある。
女性にとって出産は人生の重要な節目となる。産みたいという気持ちだけでなく、産める状況にあるのかを含めて、判断したい。
それだけに、避妊してくれない相手には「ノー」と言う。駄目ならば自分で避妊する。女性自身の主体性を高めることが重要だ。
もちろん、性行動を決定することの多い男性も変わる必要がある。
女も、男もである。
「望まない妊娠」は、女性の体だけでなく心も深く傷つける。
互いの性を尊重し、自己決定できる力を身に付けたい。
模範的な内容である。
特に、
避妊法についても多くの高校生が「そんなことは知っているよ」と言うだろう。が、知識とそれを実行するかどうかの間にはギャップがある。
は、私たちが常々主張してやまない点である。
映画「マトリックスのモーフィアスならこう言う。
「道を知っていることと歩くことは違う」
私たちはこう言う。
「掛け算のしくみを知っていることと、九九ができることは違う」
理解させることなど難しいことではない。教育の目標は常に「理解したことが実践できるようにすること」である。
それだけに、避妊してくれない相手には「ノー」と言う。駄目ならば自分で避妊する。女性自身の主体性を高めることが重要だ。
これも全くその通りである。問題はすべて主体性なのだ。
しかしそれを育てるための仕組みを片端、私たちは手放してしまった。
ニーチェならこう言う。
「神は死んだ。私たちが殺してしまったのだ」
そして私たちは言う。
「主体性を育てる教育は死んだ。私たちが殺してしまったのだ」
「主体性は周りが何もしないことによってしか育たない」という悪魔の言葉に従ったために。
2004.11.12
絶対評価
[熊本日日新聞 11月12日]
公立高校入試で使う内申書の絶対評価に学校間格差があることを本紙が報道した。その元となった成績一覧表が目の前にあるが、理解に苦しむ数字が並ぶ
ある中学は、九教科平均で「5」の割合が30%を超える一方で「2」も「1」もほぼいない。別の中学は、二教科で「5」がいない。「これが絶対評価」と言われればそれまでだが、相対的な評価を行う高校入試になじむのだろうか
成績の評価は、生徒だけでなく教師も苦しめてきた。これまでは相対評価が求められ、教師は「1」を付ける必要があった。それでも、「1」を付けない中学もあった。「『1』と評価する子どもは家庭的な厳しさを抱えている場合が多い。『1』は絶望感を増すだけ。どうしても付ける時は、特別の学習支援態勢を組みました。十年も前のことですが」と、当時を知る教師は話す
文科省も相対評価の弊害を認めて絶対評価を導入、「個性の尊重」を強調した。それに合わせ、県教委も高校入試改革を行い、「特色ある高校の育成」をうたった。が、現実には内申書の格差を招いた。気前よく「5」を配った中学の生徒は、高校入試でも有利になる
JA香川が「地元産小麦粉100%」とした「讃岐うどん」が、外国産小麦粉を使っていた。この種の話には慣れてしまった感じもある。しかし、「個性の尊重」や「特色ある高校の育成」といった言葉が、高学力の生徒の厚遇や現場の混乱を生んだだけなら、看板と中身が違いすぎる
言葉が軽く、信用できない。今風の表現で「やな時代」だ。「い」抜きで軽く言うと実感が出るのも、妙に悲しい。
絶対こうした記事が出て来ると分かっていた。
絶対評価は「がんばれば誰でもみんなが『5』をとれる」夢の評価とマスコミに持て囃され私たちの世界に登場した。しかし同時にこれは「怠ければ誰でもみんなが『1』になる」恐怖の評価だということには誰も注目しなかった。
ある中学は、九教科平均で「5」の割合が30%を超える一方で「2」も「1」もほぼいない。別の中学は、二教科で「5」がいない。
熊本日日が自ら言うように、
「これが絶対評価」なのだ。
べつに気前よく「5」を配った中学があったわけではない。
その中学がきわめて優秀なら当然そういうことはありうる。
都会の有名私立中学や地方の国立大附属中学を考えてみればいい。当然そこでは「5」が急増する。
一方無残なまでに荒れ果てた中学校では「5」は減少する。
評価の妥当性は教師を信頼するしかない。
「これが絶対評価」だ。
それでいいではないか。それを承知で導入した絶対評価ではなかったか?
私たちはこの評価のために1教科30時間あまりもかけて巨大な評価表をつくった(一年間のすべての授業時間について評価の観点と評価規準をつくるのだから大変な労力だった。それを私たちはほとんどすべて、教材研究も犠牲にして勤務時間外に行ったのだ)。
そうした教員の苦労を、火付け役のマスメディアは愚弄してはいけない。
放火犯は消防士を愚弄してはならない。
2004.11.13
奉仕の必修化・ボランティア精神に逆行
[沖縄新報 11月13日]
東京都教育委員会は、二〇〇七年度からすべての都立高校約二百校で「奉仕活動」を必修科目とする方針を固めた。奉仕自体は悪いことではない。むしろ、必要なことだ。しかし、日の丸、君が代問題に対する都教委の一連の対応を見ると、今回の奉仕活動も政治的なにおいを感じざるを得ない。ボランティアは自発的な行為が本来の姿だ。必修にすることで逆に生徒の自主性を損ねることにならないか、疑問が残る。
奉仕活動は一単位(年三十五時間)で、卒業に必要な単位として設定する予定だ。福祉施設などでの活動のほか、地域行事などの手伝い、公園の清掃などを想定しており、〇五年度から二十校で試験的に導入する。
導入の狙いについて「社会で必要とされていることや、人から感謝される喜びを奉仕活動を通して体験し、将来の生き方について考えてもらう」としている。
狙いは理解できる。さらに、通学せず、仕事にも就かず、職業訓練も受けていない「ニート」と呼ばれる若者が増加している現実も背景にある。学校教育の中でボランティア活動は今後、ますます重要となってくるだろう。
しかし、東京都は今年の卒業式や入学式で君が代斉唱の際に起立しなかった教職員を大量処分した。また、父母らの不起立などもチェックしていることが明らかになった。もし、こうした流れの上に、今回の奉仕の必修化があるとしたら、その向かう先にあるものは、愛国心の育成のみでしかない。
また、奉仕という言葉にも疑問がある。ボランティアは、語源をたどると個人の自発的な参加を意味するが、奉仕は「国家・社会のために利害を離れて力を尽くす」ことで、自己犠牲のニュアンスを含んでいる。なぜ、ボランティアではなく、あえて奉仕なのか。
若者の将来を考えての導入ならば、ボランティアと言葉を換えて、選択科目にしたらいい。その方が狙いは理解しやすい。
奉仕活動の義務化は、すでに教育改革国民会議の中でも話し合われた古くて新しい問題である。
それを
狙いは理解できる。さらに、
学校教育の中でボランティア活動は今後、ますます重要となってくるだろう。
と賛成しながらも難癖をつけるのは、 結局東京都がやろうとしているから怪しい、けしからん、ということなのだろう。
誰が言っても正しいことは正しい、ということにはならないらしい。
一朝大災害の渦中に立てば多くの若者がボランティアに立ち上がることは、9年前の阪神・淡路大震災でも今回の中越地震でも実証済みのことである。
若者に不足しているのは善意や意欲ではない。経験ともうひとつ、面倒くさかったり照れくさかったりする自分の背中を、ポンと押してくれる小さな力なのだ。
「奉仕活動」がダメなら「社会福祉体験活動」でも「社会活動」でも何でもいい。とにかく一度やらせてみることが必要で、「ボランティア」などと名づけ、いつまでも指をくわえて見ていてはいけないのでだ。
若者の将来を考えての導入ならば、ボランティアと言葉を換えて、選択科目にしたらいい。その方が狙いは理解しやすい。
狙いは理解しいやすくても、もっとも参加してほしいタイプの生徒が参加しないのは困る。
2004.11.23
義務教育現場からの議論を
[熊本日日新聞 11月22日]
義務教育費国庫負担金の廃止問題は二〇〇五年度まで「先送り」することで決着した。賛成した地方六団体に不満が残り、反対した文科省や自民党文教族はホッと一息か。賛成論も反対論も「同床異夢」だった印象が強い。逆に言えば、議論すべきことはまだ数多く残されている。
賛成した地方六団体は、教職員の待遇を弾力化できる自由な財源を手に入れ、少人数学級の促進や優秀な教師の養成策などに生かそうと考えた。特に、改革派の知事たちは、教育を「地方分権」の象徴にしようと意欲的だった。
しかし、地方六団体が賛成したので大きな声にならなかったが、現場を預かる地方教育委員会の大半は反対だった。「首長は教育を知らない」という不信もあった。県内の地教委幹部も「慢性的な予算不足、人不足に悩む教育を改革するために、教師を競わせて待遇に差をつけるのは筋違い。現場の疲労感が深まるだけ」と話す。
文科省や文教族の反対論は、こうした地教委の声を代弁したものとも思えない。むしろ、「カネの切れ目が縁の切れ目」となって国の指導力が低下するのではという心配が大きかったようだ。日ごろは文科省に批判的な日教組や教育研究者たちも反対した。教育予算を十分確保できる自治体とそうでない自治体の教育格差が広がる、という研究結果も出ている。
自民党の久間章生総務会長は二十日、「時間をかけて整理した方がいい」と述べた。今ごろ正論を…という感じもするが、先送りで拙速を避けただけましか。(木)
三位一体の経済改革のうち、義務教育費国庫負担金(教員の給与)の廃止問題に間する最も分かりやすい記事がこれであった。この程度の記事しかなかったと言ってもいい。
三位一体の経済改革というのは、簡単に言うと
補助金と地方交付税交付金をなくす代わりに税源移譲をしようというものである。
別な言い方をすると「アレのために使え」「これのために使え」といちいち煩い補助金と地方交付税交付金(ともに国から地方公共団体に与えられる)をなくし、その代わり国税だったものの一部を地方に委譲しようというものである。補助金および交付税を3兆円減らす代わりに、3兆円分の税金を地方に譲ろうというものであるが、それだけだったら差し引きゼロ、全く問題のない改革である。
ところがそれでは済まない問題があるのだ。
義務教育費国庫負担金の廃止に間して言えば問題は次の二点に集約される。
ひとつは、記事にある内容。
つまり地方に渡された税金が、果たして今まで通り教員給与に使われるかどうかは分からないということである。
「慢性的な予算不足、人不足に悩む教育を改革するために、教師を競わせて待遇に差をつけるのは筋違い」
その意味は、教員に差をつける中で給与全体を減らしてしまうのではないかという不信である。給与の増える極少数教員と減額される大量の教員、それが恐れるべきひとつの事態である。
もうひとつはさらに深刻である。
補助金と交付税の引き上げは一律に行われるのに対して、税源移譲は人口比に応じて行われる。つまり人口の多い東京などには大量の税源移譲が行われるのに対して、人口の少ない都道府県には少ない資金しか与えられないのである。
教育はそれでは成り立たない。
たとえば離島のやたらに多い長崎県と東京都に「平等に」税源移譲が行われると、長崎は深刻な財源不足に見舞われるのである。生徒数1000人の学校に一人の校長を配すればいい東京と、生徒数10人の学校にも一人の校長を配さなければならない長崎県が「平等に」扱われる、と言えば分かりやすいだろか?
文部科学省はそれとは別に、金(義務教育費国庫負担金)を出さないことで発言権を失うことを恐れている。金も出さないのに(たとえば)指導要領を遵守せよとは言えないのだ。
東京など豊かな自治体は、当然三位一体の経済改革を歓迎している。
貧しい都道府県は、そんなことをしたら自分の県の教育は滅びると恐れている。
さて、三者三様の同床異夢、どうなっていくのか。
注目すべき点である。
さらに詳しい記事はこちらで。
義務教育の人件費負担、過疎地抱える県ほど重く
義務教育の人件費負担は、過疎地を抱える県ほど重くなる。教育社会学者が全国レベルで実施した人件費の試算によって、教育の地方分権を進める上で、こうした県の財政が大きな課題となることが、改めて浮き彫りになった。公立小中学校などの教職員給与の半分を国が負担する「義務教育費国庫負担金」の存廃をめぐる議論も、大詰めを迎えている。
◆給与削減踏み切る県も
人件費の試算をしたのは、東京大学大学院の苅谷剛彦教授ら。(1)給料・諸手当(2)退職手当(3)年金にあたる共済費長期給付の三つを合わせた人件費総額は、07年度から11年間にわたり、国内全体でいまより3000億〜4000億円高くなるという結果が出た=表。
都道府県別に分析すると、特にへき地校を多く抱え、財政力が弱い自治体で、今後人件費が高まる傾向が見られた。
高い伸びを示した県の危機感は強い。
5年後までの人件費推計を行っている長崎県の立石暁(さとる)教育長は「早期退職勧奨制度や高齢者の昇給停止などに努めたい」と話す。「離島や過疎地域のへき地学校が県全体の3分の1を占める長崎の教育水準が保たれているのは、国庫負担制度による。現行制度の根幹は守るべきだ」と教育長は訴える。
田中康夫知事が国庫負担制度廃止に反対を表明している長野県。来年度は小学4年生まで30人規模学級を推進し、教職員数も増加する。瀬良和征教育長は「教職員に理解してもらい、厳しい給与カットを実施した」と苦しい胸の内を明かした。
「具体的な試算はない」という鳥取、鹿児島、沖縄の3県。藤井喜臣・鳥取県教育長は「財政状況に応じて柔軟に対応できるよう、年齢構成の平準化などを一層進めていきたい」と述べた。鹿児島県の福元紘教育長は「教職員の年齢構成から、試算のような状況は想定される。財政面と教職員の高齢化を関連づけた対応策が今後の課題」とした。山内彰・沖縄県教育長は「教職員定数の確保、給与水準の維持に努める」と述べるにとどまり、具体的な対策には触れなかった。
◆都市と地方にズレ
今後約15年にわたり義務教育の人件費が高い水準で推移する原因は、40歳代半ばの教職員が大勢いて、これから高い給与を払い続ける必要があるからだ。
なぜ偏った年齢構成になっているのか。文部科学省初等中等教育企画課の前川喜平課長は「第2次ベビーブーム(71〜74年)世代が小中学校に入学する80年代に先生が足りなくなった。この時期の大量採用が、いびつな年齢構成を招いた」という。
ところが、東京や大阪などの大都市圏は、数年程度で給与費が減少に転じる。前川課長は「大都市では60〜70年代の高度成長期に大規模な人口流入があり、その時点で先生の数が増えていた」と説明する。大都市の人件費はピークを越えつつあり、地方はこれから大変な時期にさしかかる、という差が生じている。
現在は第2次ベビーブーム世代が親になる時期。出生率は低くても、親の数が多いので子どもの数は減らない。前川課長によると、0〜5歳の子どもの数は、いずれの年齢も約110万人台で、40人学級を維持する限り、必要な教員数は減らない計算だ。小規模校を抱える自治体ほど人件費が減らない理由は、ほかにもある。
例えば、1学年200人いる大規模校と、40人の小規模校を比較する。仮に少子化で児童数が2割減ると、大規模校では160人になって5学級が4学級に減る。しかし、小規模校では2割減って32人となっても、学級をなくすわけにはいかず、先生の数は減らない。大規模校を抱える都市以外では、少子化でも人件費は下がりにくい。
◆教育の質にも影響
義務教育の人件費は財政問題にとどまらず、教育の質に直接響く。40人学級より教員が必要となる少人数学級や習熟度別指導にブレーキがかかり、給与の低い非常勤の教諭がさらに増えることになりかねない。
教員の質の向上策として中央教育審議会で議論が始まった教員養成の専門職大学院づくりにも、人件費の負担増が影を落とす。中山文科相はこの10月の諮問で、大学院の役割や位置づけのほか、大学院卒の教諭の給料を学部卒より高く設定することについて具体的な検討を求めている。
「財政難の下で給与の高い大学院卒を積極的に採用するゆとりが、果たして地方にあるのか」と苅谷教授は言う。「学部卒の一般の教員の給与が低く抑えられるなか、一部の大学院卒が優遇され、格差が広がる。それで関係者の納得が得られるかどうか考えなければならない」と話している。
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今回の試算で解析をしたのは、苅谷教授のプロジェクトチームの法政大学大学院エイジング総合研究所特別研究員の妹尾渉、東京大学大学院教育研究創発機構教務補佐の諸田裕子、同大基礎学力研究開発センター特任研究員の堀健志の3氏。
データは、都道府県から報告される学校基本調査などを利用。全国的な傾向を算定するために、各都道府県一律の方式で人件費を推計した。このため、県独自で給与カットを実施している場合など自治体ごとの対応は結果に反映されていない。
退職者数は、毎年度ごとに過去3年の実績・予測値から早期退職者数を推計して加味している。退職金の額については一律の単価を当てはめた。
(朝日新聞 11/22)
2004.11.25
19歳少年、鉄アレイで両親殺害…水戸
[読売新聞 11月24日]
24日午前3時15分ごろ、水戸市内の民家から、「両親を殺した」と110番通報があった。水戸署員が駆けつけると、市立中学教諭(51)と、妻の元小学教諭(48)の2人が頭から血を流して死亡していた。長男の無職少年(19)が容疑を認めたため、同署は殺人の疑いで緊急逮捕した。
少年は「両親や祖父から、『習いものをしろ、何をやっているんだ』などと度々言われ、皆殺しにしてやろうと思い、衝動的に殺した」と供述している。
調べによると、少年は同日午前0時ごろ、2階で寝ていた両親の頭部を鉄アレイ(重さ約4キロ)で殴って殺害した疑い。
少年は昨年3月に市内の私立高校を卒業、体調を崩して大学進学をせず、東京都内の専門学校に進むことになっていたが、通わなかったという。
少年は、両親と祖父(76)、妹(16)との5人暮らし。「両親を殺した後に力がうせ、(祖父と妹の殺害は)思いとどまった」と話しているという。
祖父は1階で就寝中、妹は1階でテレビを見ていて犯行に気づかなかったらしい。少年は犯行後、「2階に行くな」と妹に言って一緒に居間で過ごし、自分で約3時間後に110番するまでに、近くのコンビニに買い物にも出かけていた。
父親は社会科の教師で、昨年度は教務主任を務めるなどして生徒や保護者の信頼が厚かったという。勤務先の校長は「学校運営の中核を担っていた。非常に残念だ。信じられない」と話している。
少年が卒業した高校によると、少年はおとなしい性格で、部活動には参加していなかった。2年生の時に体調を崩し、3年生にかけて学校を休みがちだったが、夏の三者面談で、コンピューターの専門学校を受験したいと申し出たころには笑顔も見せていたという。
担任だった教諭(34)は「母親は少年が自分で将来を決めることを望んでおり、この本人の選択を喜んでいたように見えた」という。
コメントは次に
2004.11.26
土浦の家族3人殺害 またも惨劇に絶句
一家の知人ら「信じられない」 /茨城
[毎日新聞 11月26日]
引きこもり気味の息子による惨劇が、またも起きた。土浦市内で24日、無職の息子が両親と姉を殺していたことが25日に発覚。24日未明に水戸市内で起きた両親殺害事件と余りにもよく似た事件に、一家を知る人々は一様に表情をこわばらせた。
殺害された飯嶋一美さん(57)の亡父一雄さんは土浦市議会議長も務めたことがあり、飯嶋さん自身は市立博物館副館長。飯嶋さんは独学で尺八の師範にまでなった努力家で、定年後は尺八の普及に取り組みたいと周囲に語っていたという。飯嶋さんと30年来の友人で、長男の勝容疑者(28)に仕事を紹介したこともある元同僚(62)は「奥さんも静かで控えめな人で、最初に殺害したというのが信じられない」と話した。
里帰り中に悲劇に遭った石津幸江さん(31)は都内の私立大に進学して土浦を離れ、現在は東京都内で生活していた。02年に結婚したが、式に勝容疑者の姿はなく、「なぜいないのか」と列席者の間でうわさになったほど。勝容疑者は調べに対し、「両親と姉には以前から恨みがあり、殺される前に殺そうと思った」と供述している。
勝容疑者は私立高を卒業後、専門学校へ進学したが5カ月で自主退学。その後は定職に就いていなかった。周囲の印象は「無口でまじめ」で、高校時代の元担任(52)は「名前を聞いても顔がぱっとは浮かばなかった。自己主張が少ない性格で、問題のある生徒ではなかったのに」と首を傾げていた。幼稚園から中学までずっと一緒だったという元同級生(28)は「こんなことをやるやつじゃないと思っていた」と絶句していた。
水戸の事件の印象がまだ色濃く残っている中での惨劇に、近所の住民は「子どもを育てるのは難しい」と顔色をくもらせた。隣家の女性は「昨日も水戸で事件があったが、親がしっかりしていてもこういうことになるのかとショックで震えている」と青ざめた様子で語っていた。【中田純平、藤田裕伸、土屋渓、長野宏美】
二つの事件の共通点は三つ。
ひとつは「ひきこもり」、二つ目に「茨城」。そして三つ目に何を置くかによってこの記事に対する評価の力は決まる。
ここに「公務員」「厳しい家庭」「しっかりした家庭」「普通の家庭」などを置いたら負けである。いずれも共通項にはなりえない。
公務員にもいろいろあるのだ。公務員だからと言って「しっかりした家庭」かどうかは分からない。
ましてや「普通の家庭」かどうかはさらに疑わしい。
一般に評価の高い公務員(教師)ほど、家庭を省みず家庭を放ったらかしにして仕事をしている。
そんな家では当然、子どもは危うい。
三つ目に置くべきは何か?
それは親たちが発した言葉、
「働け」もしくは「習いものをしろ」つまり「社会に出ろ」である。
これによって子が追い詰められた。それは容易に想像できるだろう。
さて問題は・・・
2004.11.29
無職の長男殺そうとした疑い 母親を逮捕 神奈川・藤沢
[朝日新聞 11月29日]
神奈川県警藤沢北署は29日、藤沢市亀井野、ホステス星野真理子容疑者(31)を殺人未遂容疑で緊急逮捕した。
調べによると、星野容疑者は29日午前0時25分ごろ、自宅で、長男(15)が仕事をしないことをめぐって口論となり、台所にあった刃渡り約15センチの文化包丁で長男の背中を切りつけて殺そうとした疑い。長男は背中に軽い傷。
事件後、星野容疑者が119番通報した。長男は今春、中学を卒業したが、仕事をしていなかった。星野容疑者は、口論の際に長男から「おまえなんか簡単に殺せる」と言われて腹を立てた、と供述しているという。
引きこもりによる親殺しの逆パターンかと思ったらそうではなかった。
しかし31歳の母親の子が15歳とは!
そう言えば昨日はこんな記事もあった。
2004.11.29
生後4カ月の乳児を虐待 広島、傷害で17歳少年逮捕
[共同通信 11月28日]
広島県警福山東署は27日、生後4カ月の男の乳児を虐待したとして、傷害容疑で父親の広島県福山市の無職少年(17)を逮捕した。
調べでは、少年は26日午前9時から午後2時までの間、交際相手で乳児の母親の同市内のアルバイト店員(18)の実家で、ゆりかごに寝かされた乳児が泣きやまないことに腹を立て、テーブルの角に後頭部を打ち付けたり、ほおをつねったりして、2週間のけがを負わせた疑い。
乳児のけがを治療した同市内の病院から「虐待を受けた可能性がある」と通報があり、同署が少年から事情を聴いたところ、大筋で容疑を認めたという。
少年と少女は中学時代の同級生で、少女の実家で同居していた。
この国はどうなってしまったのか?