キース・アウト
(キースの逸脱)

2005年1月

by   キース・T・沢木

サルは木から落ちてもサルだが、選挙に落ちた議員は議員ではない。
政治的な理想や政治的野心を持つ者は、したがってどのような手段を使っても当選しておかなければならない。
落ちてしまえば、理想も何もあったものではない。

ニュースは商品である。
どんなすばらしい思想や理念も、人々の目に届かなければ何の意味もない。
ましてメディアが大衆に受け入れられない情報を流し続ければ、伝達の手段そのものを失ってしまう。

かくして商店が人々の喜ぶものだけを店先に並べるように、 メディアはさまざまな商品を並べ始めた。
甘いもの・優しいもの・受け入れやすいもの本物そっくりのまがい物のダイヤ
人々の妬みや個人的な怒りを一身に集めてくれる生贄
そこに問題が生まれれば、今度はそれをまた売ればいいだけのことだ。















 

2005.01.05

いじめ・体罰 対応急務 県 支援センター設置へ


信濃毎日新聞 1月3日]


 県教委は二〇〇五年度、学校でいじめに遭ったり体罰を受けたりした子どもを支援する「『こどもの権利』支援センター」を設置する方針を固めた。県当初予算案にセンターの人件費や運営費を柱とする事業費二千六百万円余を要求している。救済や解決を学校、当事者に委ねている現状では、問題がこじれたり、潜在化したりするケースもあり、センターの専門スタッフが子どもに寄り添った相談や客観的な調査に当たるとしている。

 県教委によると、全国の都道府県でまだ珍しい試み。いじめ、体罰はなくなっておらず、深刻化しているとも言われ、子どもの人権救済が求められている。センターでの実践を重ね、将来は子どもの権利を保障する国連の「子どもの権利条約」の理念に基づいた県条例の制定も検討していく。

 センターは、事実関係の調査や相談に対応するスタッフ数人で運営。いじめや体罰は、言葉の暴力など表面化しないケースもあり、スタッフは寄せられた情報を基に、学校現場などに出向いて当事者から話を聞き、学校と保護者のこじれた関係の調整や修復、侵害された子どもの権利の救済を目指す。弁護士や臨床心理士らの助言も受ける態勢を整える。

 学校と保護者の関係がこじれている場合、現場に任せたままでは保護者側の不信感が募ることも少なくない。情報提供や相談をしやすくするため、センターを学校とは距離を置いた第三者機関とするか、窓口はあくまでも県教委事務局内に設けるかなど今後、検討を進める。スタッフの人選も詰めていく予定。

 日本が国連の「子どもの権利条約」を九四年に批准して十年余。全国では兵庫県川西市が、いじめや体罰の事実関係を第三者機関が調べて是正勧告ができる「子どもの人権オンブズパーソン」条例を制定し、一九九九年六月から活動を始めた。高知県は昨年七月、都道府県で初めて子どもの権利保護や家庭の役割をうたう「こども条例」を制定している。


 世の中に注目すべき指導者が3人いる。
 小泉首相、石原都知事そして田中長野県知事である。この三人は極めてカリスマ性が強く、また日本には珍しく独断的な手法で政治を率いていく。彼らの動きは今後の日本を見る上で、特に注意していかなくてはならない。

 さて上記の記事だが、こうした話を聞くと、私たちがまず感じるのは一種の警戒感である。
 指摘されるまでもなく、そこには領域を侵されることに対する不安と恐れもある。しかしそれ以上に思うのは、こうした試みが現場に余計な混乱を持ち込まないかということだ。

もちろん、
センターの専門スタッフが子どもに寄り添った相談や客観的な調査に当たるとしている。
だけを読めば悪いことではない。
しかし「いじめ」の訴えがあった場合、このスタッフが被害者と加害者の双方に面接したり、学校の情報を拾い出して「客観的」な調査を行ってくれるか、はなはだ疑問なのだ。

 確かにいじめという困難をスタッフが背負い、問題を公平に解決してくれるなら願ったりかなったりだが、いじめは学校の問題の中でももっとも困難なものなのだ。
 現場の教員であってもその調査にはずいぶんと時間がかかり、しかも事実が明らかにならない場合も少なくない。
 教師と生徒の間に一定の人間関係があってなおそうなのに、果たして外部の組織が間に入って何ができるのだろう?

センターは、事実関係の調査や相談に対応するスタッフ数人で運営。
 むろんひとつのケースにこれだけの人数で当たってくれるならかなりのことができそうだが、予算2600万円では非常に心もとない。

子どもに寄り添った相談
が「声の大きい者の味方になること」にならぬよう、そして
学校現場などに出向いて当事者から話を聞き
が学校の糾弾になったり、学校に二重の説明を強いることにならぬよう切に願う。

しかしそれにしても「子どもの権利条約遵守」について、今日最も急がれる問題は「虐待」であろうに、この問題が外されているのは解せないことである。

県庁職員との対立を軸に長野県政を行ってきた田中知事、まさか公務員以外の不正には目を瞑れるということではないだろうが。








2005.01.08

学力二極化、63%が実感 現場教員アンケート


共同通信社 1月7日]

 子どもの学力低下が懸念される中、平均程度の学力の子が減り、上位層と下位層に二極化する傾向が進んでいると感じる小中学校の教員が63%に上ることが7日、札幌市で始まった日教組の教育研究全国集会参加者を対象にした共同通信社のアンケートで分かった。
 原因として、教員が多忙になって授業についていけない子を指導する余裕がなくなったことや、親の経済力の二極化を挙げた。塾通いを含めた学校外の教育に費用をかけられるかどうかで差がつき、学校だけではカバーできなくなっているとみられ、教員たちが苦慮している実態が浮かび上がった。
 調査は昨年12月、教研に参加する200人に質問票を郵送、111人が回答した。


教育研究全国集会というのは要する日教組の全国大会であるから、その分を差し引いて考えなくてはならない。(私自身は日教組に批判的ではない。それどころか組合員のひとりなのだが、情報というのはバイアスを是正しながら読まなければならない)

その上で考えると、
(学力の二極化の)
原因として、教員が多忙になって授業についていけない子を指導する余裕がなくなったこと
というのは多分に組合的であろう。
この分析の言わんとするところは要するに、教員にもっと余裕を、ということだからだ。

教員がここ数年で多忙になったなどということはない。

数十年前から一貫して、教員は多忙で授業についていけない子を指導する余裕などなかった。

のである。


また
(そして教員の多忙とともに)
親の経済力の二極化を挙げた。塾通いを含めた学校外の教育に費用をかけられるかどうかで差がつき、学校だけではカバーできなくなっているとみられ、
ここまで記事を切ったのは共同通信のバイアスである。

経済力があるからといってそれを必ずしも教育に当てるわけではないし、経済力がなくても親には可能なことがたくさんある。
他紙をみると教育研究全国集会ではその点にまで話が出ており、原因の3番目は「親の意識の差」である。

つまるところ教育研究集会参加者は
「親の(経済的・意識的)二極化が学力の二極化となって現れており、それを多忙な学校が是正できない」
そう言っているのだ。

ある意味、賛成である。









2005.01.08

学力底上げで二極化解消を 教研集会でシンポ


共同通信社 1月8日]


 札幌市で開かれている日教組の教研集会で8日、学力問題のシンポジウムがあり、成績上位層と下位層の二極化が進んでいる実態を踏まえて、教育学者らが学力底上げの必要性を指摘した。
 昨年12月に公表された2つの国際学力調査で日本の子どもの学力が低下傾向にあることが分かったが、福田誠治都留文科大教授は「依然高い水準にあり、大騒ぎする必要はない。むしろ、子どもの学習意欲が低く、家庭での勉強時間も短いとのデータもあるのに、日本の学校は高い成果を挙げているといえる」と述べた。
 これに対し志水宏吉大阪大教授は「学力のばらつきの小ささが従来の日本の特徴だったが、下位層が増えてきている」と反論。



「依然高い水準にあり、大騒ぎする必要はない。むしろ、子どもの学習意欲が低く、家庭での勉強時間も短いとのデータもあるのに、日本の学校は高い成果を挙げているといえる」
そうろう。
まずこういうところから話を始めないと現実的ではないだろう。
当然のことが語られているに過ぎない。

これでも教員の資質に問題があるとなれば、「学問に王道なし」と言われたギリシャ時代以来の問題に、日本が答えを出すことになる。

ほとんど勉強しなくても、教授法ひとつで世界レベルの学力を獲得するという夢の技術の誕生である。







2005.01.08

なぜ学ぶ?教師が語る必要性…教研集会で「学力」議論


読売新聞社 1月8日]


 札幌市で開かれている日本教職員組合(日教組)の教育研究全国集会(教研集会)では8日、「学力問題」の特別分科会が開かれた。

 昨年末の国際学力調査で判明した子どもたちの学力低下を巡り、現場の教師からは児童生徒の学ぶ意欲の低下を深刻に受け止める声が相次いだ。

 北海道の公立中で国語を教える加藤友子教諭は特別分科会のシンポジウムにパネリストとして参加し、「学級崩壊」状態だった1年生クラスを受け持った際の体験を紹介した。生徒の中には平仮名も十分に書けない子や、作文の名前を書くのさえ、「面倒くせえ」という子がおり、授業は絵本を読むことから始めた。

 当初は「河原で石積みをするように、積んでもすぐに崩れる繰り返しだった」が、卒業時に中学生活を振り返った作文では、多くが原稿用紙2―5枚を書き上げるまでになった。加藤教諭は「なぜ学ぶのか分からない子がいる。それを教師がきちんと語ってあげる必要がある」と話した。

 このほか、現場の教師たちからは「今の子どもたちは、勉強すれば将来幸せになれるとは思っていない」、「競争にさらされると、『自分はダメだ』と自己否定してしまう子もいる」などと、意欲低下の背景などを指摘する声も相次いだ。



読売新聞の取材が甘いのか、加藤教諭が思わせぶりなのか・・・。
「なぜ学ぶのか分からない子がいる。それを教師がきちんと語ってあげる必要がある」
加藤教諭はなんと言って生徒の作文力を飛躍的に高めたのか、そこが一番知りたいところ
ではないか。

このほか、現場の教師たちからは「今の子どもたちは、勉強すれば将来幸せになれるとは思っていない」、「競争にさらされると、『自分はダメだ』と自己否定してしまう子もいる」などと、意欲低下の背景などを指摘する声も相次いだ。
こちらの方はよくわかるが。








2005.01.12

文部省:「きれる子」対策で検討会設置 
各分野で専門家を集め、科学的に情報解明


毎日新聞社 1月11日]

 「きれやすい子ども」の原因と対処法を科学的に探るため、文部科学省は11日、脳科学や教育学などの専門家による検討会を発足させる。子どもの情動に関する横断的な検討会の設置は初めて。「心にトラブルを抱える子どもたちの現状を科学的に把握する第一歩にしたい」としている。

 こうした子どもたちの心理の研究が進む一方、MRI(磁気共鳴画像化装置)やPET(陽電子放出断層撮影)などで、脳の働きを画像で視覚的にとらえることが可能になり、脳に刺激を与える時期によって脳の発達に変化があることが明らかになってきた。しかし、研究の分野を超えた連携は少なく、情報は分散している。

 11日に初会合を開く「情動の科学的解明と教育等への応用に関する検討会」(座長・有馬朗人元文相)には、脳科学、精神医学、心理学、教育学などの広範な分野の専門家が参加する。半年かけて各分野の研究の進ちょく状況を情報交換する。

 検討結果を踏まえ、06年度以降、客観的な診断を進めるため、子どもの脳などに関するデータ集積に取り組む方針だ。

 検討会委員で、子どもの心の問題に詳しい森則夫・浜松医科大医学部教授(精神神経科)は「子どもの心の病気の解明は遅れているが、最近の研究で遺伝子レベルの原因も分かりつつある。子どもたちをめぐる問題を単なる社会問題として論じるのではなく、医学と教育の専門家が総合的に対応する環境作りを進めるべきだ」と話している。


教育に科学の視点を入れよ。
前々からそう言ってきた。

十数年前、「いじめは日本特有の現象」と言われた時、
「それが本当か、諸外国の様子を調べよ」と言った。
しかし学校がボロボロになり、ほとぼりが冷めるまで、外国の諸事情については誰も報道することは無かった。

同じく十数年前「いじめや不登校の原因は息の詰まるような管理主義と過剰な受験競争だ」といった話がマスメディア上で主流だった頃、

「管理の厳しさで言えばミッション系の私立学校、受験競争の厳しさで言えば全国に散らばる有名進学校・予備校、そうしたところにこそ不登校は増えるはずで、そのことをまず調べよ」

、そうも言った。

しかしだれも調べなかった。
そうした学校にいじめや不登校が少ないことは、明らかだったからだ。別な言い方をすればいじめや不登校への対応を、管理主義の改善や受験競争の緩和で解決することはできないはずだった。
しかし、そうした実証的なことより、メディアのキャンペーンに従うことの方がまず重要だった。
校則の見直しが徹底的に進み、ほうっておいても良かったはずのきまりが大量に削減された。
学習内容も大幅に削減され「ゆとり教育」が、教育のあるべき姿の中心となった。その結果はどうか?

今、LD,ADHD、あるいはスペルガー症候群といった名前で広く世に知られるようになった障害を持つ子たち。
彼らどこの学校にも数人はいた風変わりな子たちは、常に
学校の指導と体制、あるいは親の育て方の問題として取り上げられていた。
あの頃の学校の、あるいは親たちの苦しみは何だったんだろう?
私たちは無駄に努力を重ね、無意味にたたかれ、そして子どもたちもしばしば深く傷つけられたのだ。

さらに最近。
日本の学力問題についても、私たちは「日本の学力をもっと引き上げたいなら、より高いレベルの国や地域、シンガポールや韓国・香港・台湾・フィンランドが何をやっているのか、それを見習え」.そう言い続けている。
「教師の力量だけで、この問題を乗り切れ」という話は、もううんざりだ。


きれやすい子は愛情不足が原因だという考え方が、平気で世の中を流れている。
しかし愛情不足だからきれやすくなったのか、あまりにもきれやすいので愛情をかけ続けるのが難しくなったのかは、個々のケースを詳細に調べてみなければわからないことだろう。
まず、分析をし、そこから可能性を探る、それが当然と言うものだ。








2005.01.15

高校改革素案を承認 通学区廃止 全県一区適用へ 県教委


西日本新聞社 1月15日]

【大分】 高校の再編統合や通学区廃止などを提言した「高校改革プラン」について、県教育委員会は十四日、改革の素案としてほぼ原案通りに承認、統合後の新設校の設置場所も決定した。県教委は、学校関係者や保護者への説明会や対案の受け付けなどを経て、三月末に正式決定するとしている。

 承認された「高校改革推進計画」によると、再編統合は▽三重、三重農、緒方工、竹田商を統合し、三重農に総合選択制校を設置。三重農久住分校は新設校の分校とする(〇六年四月)▽宇佐、四日市を統合し、宇佐に普通科校を設置(〇七年四月)▽大分豊府に併設型中高一貫教育校を設置(同)▽別府青山、大分雄城台に単位制を導入(同)▽碩信、大分中央、別府鶴見丘定時制を統合し、独立単位制高校の新設を準備(同)。

 宇佐産業科学に高田校商業科を含めた総合選択制校を設置(〇八年四月)▽国東、国東農工、双国を統合し、国東農工に総合選択制校を設置、双国は新設校の分校(同)▽中津工、中津商を統合し、中津工に総合選択制校を設置(〇九年四月)―としている。

 通学区は「学校選択の自由や多様化する生徒のニーズに対応する」として廃止。〇六年四月に入学する生徒を対象とした入試から全県一区が適用される。遠距離通学や一極集中を防ぐため、現在の六通学区すべてに、進学志望の生徒に対応できる普通科の「拠点校」を設けるとしている。

 また、特色ある学校づくりを進めるとして、学校独自の問題作成など入試制度の改善、学校の外部評価の充実、校長の裁量権の拡大などに取り組むとしている。

 非公開で行われた教育委員会の後、会見した小寺隆教育委員長は「県民の声を聞いて十分に審議した。対案が出されれば検討するが、素案は最良の案と考えている」と話した。


大分県程度の面積の都府県では、全県一区はもう主流になっているのではないか? 今頃になって全県一区を打ち出すのは、大分県が非常に遅れた県であるということの証明かもしれないし、あるいはより見識深い県であって、今日まで時流によく抵抗したということなのかも知れない。

 通学区は「学校選択の自由や多様化する生徒のニーズに対応する」として廃止。
何度も聞いたフレーズである。
人は「自由」や「ニーズに対応」といった言葉に弱いから、この言い方ですんなり通るのだろう。
そして実際に受験生(あるいは受験生の親)になって初めて分かる。

全県一区で自由に高校を選べるのは、勉強のできるエリートだけなのだ。
山間部のエリートたちが都市の有名進学校に進む道筋、それが「全県一区の通学区」なのである。
もちろん勉強の苦手な子たちは山の中に残される(マ、同じレベルの町の高校に、無理していくこともないだろう・・・)。
それとともに都市部にいた「勉強のできない子」たちが町からはじき出されて、流民となって山間部に流れ着く。
いわゆる「都落ち」である。

この子たちに選択の自由はない。都落ちが嫌なら高校を諦めるしかない。
これが
通学区は「学校選択の自由や多様化する生徒のニーズに対応する」として廃止。
の実態である。


生徒のニーズが多様化して、工業科や商業科が人気を博しているという話も、久しく聞いたことがない。
どこの国の話だろう?







2005.01.16

学校にいけない先生がいる


西日本新聞社 1月16日]


 目の前に数字がある。それを「多い」と思うか、「まだまだ」と思うかで、危機感や対処方法は違ってくる。県教委は「少ない」と考えているに違いない。

 精神的な疲れやストレスから休職した教職員の数のことである。県教委によると、二○○三年に病気休職した県内の小・中・高校教師は八十四人と、過去五年間で最多となった。このうち、精神性疾患による休職は三十四人(小学九人、中学十五人、高校六人、特殊諸学校四人)で、前年より二十一人増加し、休職者総数の四割を占めている。異常な増え方である。

 県教委は、その要因について「健康を損なった場合はしっかり治すように指導している。教員の健康に対する意識が変わり、積極的に受診するようになったのではないか」と分析する。楽観的な見方にすぎないだろうか。

 統計に表れるのは、いつも氷山の一角にすぎない。休職と復職を繰り返す“リピーター教師”もいる。また、教師としての資質に自信を失ったり、対人折衝に不安を感じる“予備軍”も目立ってきている。

 日教組青森には、精神的な苦痛を訴える教員からの相談が年に数件寄せられ「大半がうつ病の症状を呈している」という。教師たちにストレスが広がり、深刻化しつつあることをしっかりと受け止める必要がある。

 教育現場を見渡せば、○二年度に始まった新学習要領によって、学校は大きく揺れている。

 明治のはじめに近代学校制度が発足して以来、教師がいまほど厳しい状況に置かれたことはないのではないか。

 例えば、教師の任用や免許制度を抜本的に見直そうという文部科学省の方針がある。勤務環境は急変し、“競争”も激しさを増している。

 社会の厳しい目にもさらされている。学力低下やいじめ、学級崩壊、校内暴力、登校拒否などの問題が起きるたびに、日ごろの実践や、子供の心をどれほどつかんでいたかが問われる。残念ながら“滅私”は美徳とする社会風土も残っている。

 となれば、思わず頑張りすぎてしまうのではないか。教科や部活指導による“サービス残業”もせざるを得ない。熱心な教師といわれる人ほど、その傾向は強いだろう。

 揚げ句には、疲労が重なり、ストレスもたまる。心の健康(メンタルヘルス)も損なわれていく。教育現場はいま、そんな環境にさらされているのではないか。

 共同通信の調査でも、日教組の全国集会に参加した小・中学校教師の約四割が「退職を考えた」とこたえ、その約半数が会議や報告書作成など事務作業の負担をストレスの原因に挙げている。

 教師は、子供と向き合うことが本来の仕事である。子供の成長を助け、励まし、力を貸す。教師がストレスを抱えている状態で、子供一人ひとりの個性を見分け、それぞれの最も良いところを引き出す導き手になれるかどうか。

 見方を変えれば、教師の不安や悩みは子供を疲れさせる。メンタルヘルスに問題を抱える教師によって、子供が不利益を被るようなことがあってはならない。

 うつ病対策は、早期発見と早期治療が基本である。教育現場で心のケアに気を配る態勢をつくることが急務だろう。教師のプライドもあり、言うほどには簡単でないだろうが、専門医による診断などメンタルヘルス支援をしっかりと進めてもらいたい。

 教師の働き方は大きく変わろうとしている。難しい時代だからこそ「教育は人なり」の原点に立ち戻りたい。教師の「心の病気」が増えている現状を、重く受け止めたい。



教員にとってありがたい記事である。
メンタルヘルスに問題を抱える教師によって、子供が不利益を被るようなことがあってはならない。
という点では、保護者にとっても重要な話であろう。

「教育は人なり」
私が恐れるのはその「人」が意欲を失うこと、そして志ある者が次々と倒れていくこと。








2005.01.17

教育改革(英国)査察で学校再生、予算追加で教師増


朝日新聞 1月17日]



英国バーミンガム市の公立校、ヒースマウント小学校が教育基準局の学校査察で不合格になり、最低ランクの
「特別基準」とされたのは01年。直ちに改善されなければ閉校と通告された。

 それが04年の全国学力テストで、2年生から6年生の間の学力の伸びを測る「バリューアッデド」の指標で全英トップになった。ナジマ・ショーダリ校長(48)は「査察がなければ、学校は変わらなかった」と振り返る。

 ショーダリ校長は同小が特別基準になった後の02年4月に就任。同小が指摘された問題点は、学校が実施していた学習範囲が狭すぎたことや学校運営のリーダーシップ不足など。特別基準になると追加される予算約500万円で非常勤の補助教師を5人から11人に増やし、授業準備や少人数指導にあたらせた。

 英国の今の査察制度は92年に始まった。各学校や、それを指導する地方教育当局は少なくとも6年に一度、教育基準局の査察を受ける。教育の質、生徒の達成度、財政の効率性などが調査対象で結果は公表される。

 日本では02年に学校評価の仕組みができた。文科省によると、02年度に自己評価をした学校は全国の公立小学校の96%、同中学校の95%、同高校の70%。東京都では英国を参考に、都教委による学校評価を導入しようとしている。

 英国の査察は影響力が大きく、査察後にストレスで病欠する教師が増えるとの問題まで起きている。最近、査察の前に学校側が自己評価する仕組みが導入され、学校側から好評だ。ショーダリ校長は「違った角度から学校の長所・短所を指摘してもらえるので査察は学校にとって有益。自己評価と組み合わされたことで査察はより的を射たものになる」と話した。
(01/17)

あからさまには書いていないが、趣旨は自己評価だけでなく、第三者による査察があってこそ学校の再生は的確になるということだろう。

それは構わない。

しかし学校評価を巡る話の中で、常に評価内容に関する部分が抜け落ちるのは何故だろう?
何をどう評価するかは最も重要なポイントと思うが、とにかく「学校も教員も評価されるべきだ」の一辺倒で、具体的な話は出てこない。


さて、その上での英国だ。

記事は、
教育基準局の学校査察で不合格になり、最低ランクの「特別基準」とされた英国バーミンガム市の公立校、ヒースマウント小学校が、わずか4年で立ち直ったという話である。

どこがどう悪かったかというと、
指摘された問題点は、学校が実施していた学習範囲が狭すぎたことや学校運営のリーダーシップ不足など。

ということだが、これだけでは何のことか分からない。
学習範囲がせまければ子どもは楽だし、運営のリーダーシップが不足していればみんな自由で楽しいだろう、そう考えるのが普通だろう。「ダメ」の理由がわかるのは、立ち直った学校の姿を見てからである。

それが04年の全国学力テストで、2年生から6年生の間の学力の伸びを測る「バリューアッデド」の指標で全英トップになった。

要するに、児童の学力が回復すれば、ヒースマウント小学校の問題は解決なのである。つまり、学校査察で不合格になったのは、その小学校の子どもの学業成績が悪かったということなのだ。

査察では
教育の質、生徒の達成度、財政の効率性などが調査対象で結果は公表される。

ここでいう「教育の質」が何なのか分からないが、生徒の達成度と財政上の効率の方は分かりやすい。
つまり、安上がりに成績を伸ばすかどうかが「査察」の中心的課題なのだ。

確かに、客観的な評価によるが校改革ということになると、こうした数字で表せるものが主流とならざるを得ない。

 日本も、「子どもの成績を安上がりに上げる学校・教師が良いものだ」ということで決着がつけば、それはそれで非常に分かりやすいかもしれない。

 その上で、子どもの情操を育てよとか、いきる力だとか、知識ではない学力をとか、自然体験をとか、数値に表せないものについて期待しない、そうした節度があればよいだけなのだ。








2005.01.18

教員の新評価制度/島根の教育現場が身構える


山陰中央新報 1月17日]


 島根県内の公立学校教員を対象に新しい評価制度が導入される。現在の勤務評定に代わり評価の結果を個々の教員の給与や配置などに反映させて、意欲を引き出す狙いである。

 年功序列型の賃金体系から実績や能力に応じた能力給に移行する動きが民間企業を中心に進んでいる。公務員にもその動きが広がるなかで、教員に対しても処遇と連動した勤務評価が適用される。

 努力してもしなくても給与など処遇には関係なく平等、公平の名目の陰に隠れて職場にモラルハザードがはびこる。そうしたぬるま湯的な環境に規律を与え、組織を活性化させる。

 能力給の導入を含めた最近の人事考課の考え方である。市場競争にさらされる民間企業では社員一人ひとりの士気の集積が組織の戦力を左右する。その意味で実績重視型の評価の意義は大きい。

 しかし学校という教育現場に導入するに当たっては慎重を期してほしい。やり方によっては功罪相半ばし、学校を息苦しい場に追い込んでしまいかねないからだ。

 その一方で給与や昇進など世俗的な動機から教育を隔離し、聖域化する「理念型」が現実にもたらす弊害も無視されてはならない。そうした理念型に閉じこもって教員が自己研さんの努力を怠り、そのとばっちりが子どもたちに及ぶ危険性とも隣り合わせである。

 運用によっては良薬にも劇薬にもなりかねない。それだけに新しい教員評価制度を導入するに当たっては公正さと透明性が求められる。何より評価を受ける本人が納得するものでなければならない。

 早急に成果を求めるより導入条件について十分議論し、教育の質を高めることにつなげてほしい。

 現行の教員の勤務評定は導入されてから四十年以上たっている。教諭に対しては校長が評価に当たり、校長は県や市町村の教育長から評価を受けている。

 教諭については学習指導力や学級運営などが評価項目とされ、校長は統率力など管理者としての能力が問われている。

 評価をする者が一人であることから主観が交じりやすいほか、評価結果は本人に知らされない。そのため自分がどんな評価を受けているのか、客観的に知ることができない。

 また評価結果が給与や配置など処遇と切り離されているため、評価の向上に向けた教員自身の努力を促す動機付けが弱い−などの問題を抱えている。

 県教委が示した新しい教員の評価制度案によると、評価者を校長と教頭の複数にした上、児童生徒や保護者の意見も参考にする。同僚からの評価については直接取り入れることはしないで、本人の自己評価の参考にとどめる。

 評価の結果は本人に知らせ、給与など処遇に反映させる。これにより本人が努力目標を立てやすくするほか、昇進などに向けて意識改革を促す。

 これらの問題について有識者らで構成する検討委員会で審議しており今年三月までに報告書をまとめる。それに基づいて今年中に試行し、二〇〇六年度から本格実施する方針だ。

 功罪を慎重に見極めながら、教育に活力を吹き込んでほしい。


多くの教員はこの記事に本能的な拒否感をもつだろう。

努力してもしなくても給与など処遇には関係なく平等、公平の名目の陰に隠れて職場にモラルハザードがはびこる。そうしたぬるま湯的な環境に規律を与え、組織を活性化させる。
 「努力してもしなくても給与など処遇には関係なく平等、公平」であることがモラルハザードを生むなら、日本の教育界では明治の昔からモラル・ハザードがはびこり続けていたことになる。それが道理というものだろう。しかし実際はどうか。

私に言わせれば、教員のモラルが低下したのは、
「努力してもしなくても叩かれる」というマスコミが作り上げた風潮が主因なのだ。


やれ総合的な学習だ学力だと振り回し、きまりが厳しすぎるから緩めろと言い、緩めたために学校が荒れたと叱る。ジェンダーは世界的風潮だから混合名簿にしろと言ったかと思うと「ごく少数の不埒な教師が男女の壁をなくしてしまった」と怒る。不登校に登校刺激は一切禁物だといいながら、ニートはいかがなものかと言い、個人の選択の自由を至上命題としながら、女性が子どもを産まない少子化は困ったものだとも言う。

学校叩きに反応して動いた方向でもまた叩かれる。動かなくても叩かれる。こうした状況にあって、なお教員がやる気をだして道徳性を保持するとすれば、むしろ異常なことだ。

やってもやらなくても叱られるなら、結局人は何もしなくなる。
しかしだが、それでも多くの教員は今もなおまじめに良く働いている。
独身の若い教師を中心に、セブン・イレブンと言われる過酷な労働によく耐えている。

それは結局「教育」と言う自分たちの仕事に高い価値を感じ、理想に燃えているからでもある。ところがそれすらもメディアに言わせると、

一方で給与や昇進など世俗的な動機から教育を隔離し、聖域化する「理念型」が現実にもたらす弊害も無視されてはならない。そうした理念型に閉じこもって教員が自己研さんの努力を怠り、そのとばっちりが子どもたちに及ぶ危険性とも隣り合わせである。
ということになる。

教育は聖なる仕事であるから損得を抜きにして働こう、そうした理想主義が教師の怠慢を誘い子どもたちがとばっちりを受ける・・・

教育など、もともと給与や昇進などということを考えていたら馬鹿らしくてやっていられないのが仕事である。高い収入や地位を望む者はそもそもこの職につくべきではないのだ(現在の採用試験の難しさを考えれば、他にいくらでも仕事はあるだろう)。

私はむしろ、
給与や昇進のために働く教師によって、より高い学力やよりおとなしい態度を強要されるとばっちりの方が、よほど恐ろしい

しかしメディアはそうではないという。
私には理解しがたいことである。

ところで、
年功序列型の賃金体系から実績や能力に応じた能力給に移行する動きが民間企業を中心に進んでいる。
これは違うだろう。
今進んでいるのは、短絡的過ぎて長期的な見通しを失わせる能力給から、ある程度生活を保証する年功序列型への揺り戻しのはずである。

評価の結果を個々の教員の給与や配置などに反映させて、意欲を引き出す狙いである。
こういうやり方では、意欲が生まれて来ないことが証明されつつあるのだ。
たまには新聞でも読んでもらいたいものである。