キース・アウト
(キースの逸脱)

2005年4月

by   キース・T・沢木

サルは木から落ちてもサルだが、選挙に落ちた議員は議員ではない。
政治的な理想や政治的野心を持つ者は、したがってどのような手段を使っても当選しておかなければならない。
落ちてしまえば、理想も何もあったものではない。

ニュースは商品である。
どんなすばらしい思想や理念も、人々の目に届かなければ何の意味もない。
ましてメディアが大衆に受け入れられない情報を流し続ければ、伝達の手段そのものを失ってしまう。

かくして商店が人々の喜ぶものだけを店先に並べるように、 メディアはさまざまな商品を並べ始めた。
甘いもの・優しいもの・受け入れやすいもの本物そっくりのまがい物のダイヤ
人々の妬みや個人的な怒りを一身に集めてくれる生贄
そこに問題が生まれれば、今度はそれをまた売ればいいだけのことだ。















 

2005.04.05

社説=性教育 現場の工夫を大切に


信濃毎日新聞 4月4日]


 一部の学校の性教育について、小泉首相らが国会で「行き過ぎ」と批判した。これを受けて文部科学省は四月から、実態調査を行う。父母や子供たちからは、要望の強い分野でもある。それぞれの教育現場での積み重ねを大切にしたい。

 三月の参院予算委員会が性教育論議の舞台だった。自民党議員が、小学生用の性教育の教材を示して質問したのがきっかけである。

 小泉首相は「こんな教育は私の子供のころは受けたことがない」と驚いてみせ、「もっと考えていただきたい」と再考を促す答弁をした。中山文科相も「行き過ぎた性教育は子供のためにも社会のためにもならない」と述べている。

 文科省がさっそく、行き過ぎの指摘がある学校について、実態調査を決めている。都道府県教委を通じて全国規模で行う。

 性教育を国会で取り上げるのはいいとしても、教材の説明を聞いて「行き過ぎ」と判断するのは、性急に過ぎるだろう。

 一般的には、性教育は全体のカリキュラムの中に位置付けられる。授業の流れや子供たちの反応など、総合的に見る必要がある。現場の教師が委縮したり、根付き始めた性教育が後退しないか、心配だ。

 性教育には、さまざまな意見があるのも事実だが、ニーズは高いと見るのが自然だ。例えば、厚労省が昨年、十六―四十九歳の男女三千人に対して行った調査では、避妊法は「中学卒業までに教えるべきだ」との答えが、60%を超えている。

 過激なビデオの販売や援助交際、エイズ感染の広がりなど、性を取り巻く環境は大きく変化している。子供が性的犯罪の被害者になるケースも目立っている。

 子供たちには、正しい知識を早い段階から教える必要がある、と指摘する専門家も多い。「子どもの権利条約」も知る権利の保障を盛り込んでいる。「知らないこと」で被害を受けたり、後悔したりする危険を防ぐ責任が、大人にはあるはずだ。

 性教育は、長野県内でも養護教諭や教師、医師などを中心に、地域の実情に合わせ手探りで続けてきた経過がある。そうした積み重ねに、文科省が枠をはめるとすれば問題だ。教育現場での工夫こそが、実りある成果への近道になる。

 性や男女のかかわり方は、もとより私的な領域に属する。生きる上での基本的な知識やヒントを与えるのが、性教育の役割と考えたい。



 メディアとしては珍しくまともな記事を書いた、ということではないだろう。
 要するに自由とか開放とかが好きなだけだというだけのことである。

 しかしだからといって、記事の正しさが減じるというものではない。
 とりあえず、マスメディアが正しいことを言うこともある、ということは認めておこう。


さて、

 性教育を国会で取り上げるのはいいとしても、教材の説明を聞いて「行き過ぎ」と判断するのは、性急に過ぎるだろう。

 まったく持ってその通りだ。

 文科省がさっそく、行き過ぎの指摘がある学校について、実態調査を決めている。
 ということだが、
行き過ぎの指摘がある学校についてだけでなく、すべての学校について調べてもらいたいものである。

 結論から言えば、
行き過ぎた性教育を行っている学校は極めて少ないだろう。なぜなら、普通の教員は性教育などまったく好きでないからだ。

 理由は簡単である、普通の家庭が性教育をサボるのと同じ、
 要するに、
「あんたも、そういうことやってるの?」
 という目に耐え難いのだ。結婚暦の長い中年の私ですらそうなのだから、若い独身の女教師などたまらない。

 したがってよほど意識の高い教員か、特殊な研究指定校で性教育を行わざるを得ない学校以外では、性教育はきわめて妥当なレベルでしか行われていない。

 過激な
小学生用の性教育の教材があるのと、それが使用されているのとでは違うのである。



 さて、ここでひとつの例外がある。
 それは養護学校における性教育である。

 東京都では養護学校の性教育の過激さから問題がクローズアップされたが、養護学校には養護学校なりの言い分がある。そこでは性教育がもっとも深刻な問題なのだ。


 障害を持った子どもたちとしばらく付き合っていると、その中に意外な共通点があることが分かってくる。それは特殊な美しさである。
 特に自閉症の女の子たちの中には、極めて美しい一群がいることが知れてくるのだ。

 それがなぜなのかは分からない。中には「彼女たちが極めて純真無垢だからだ」と説明する人もいるが、私はそうは思わない。そうした付随的な理由ではなく、明らかに美しい子がかなりの割合でいる、と私は思っている。まずそのことを覚えておく必要がある。

 さらにもうひとつ覚えておいてほしいことは、この子たちが極めて言葉に従順だということだ。

 自閉の子たちの特徴は三つ、@尋常ではないこだわり、A反復行動、Bコミュニケーションの困難であるが、このうちの三番目「コミュニケーションの困難」が問題となる。
 自閉の子たちは人の心が読めない。

 例えばデートの最中、手を握ろうと思って手を伸ばしたところ、相手の女の子が「いや」と言う。そのとき私たちが考えられることは山ほどある。
「いや」と言っても本当はいやでないのかもしれない、本当にいやなのかも知れない。
「いや」と言わなければ自分を安売りすることになると考えているのかもしれない、ただ単純に驚いただけのことなのかもしれない・・・・・・etc。
 しかし自閉の子にとって「いや」と言われたら、それは「いや」以上の意味を持たない。

 逆に「好き」と言われても、それは同じである。
 相手が「好き」と言えば、その背後に「体だけが目的かもしれない」とか「結婚詐欺師かもしれない」とか「単なる社交辞令かもしれない」といった推測はまったくない。「好き」はただ「好き」だけなのである。

 
極端に美しい女の子が極端に言葉を信じやすい、
 そこに何が起きるのだろう?
 養護学校の教員たちの危機感はそこにある。

 
彼らの大切な子どもたちは極めて性犯罪の被害者になりやすいのである。

 彼女たちには絶対に性教育が必要である。しかも「含み」の分からない子たちだから、性教育は極端に具体的かつ映像的でになる。
 これが養護学校における性教育である。


 しかしそれにもかかわらず、過激な性教育はその過激さによって排される・・・・・・。
 世論はついに弱い立場の子たちが性被害者となることを認めてしまったのだ。

 何千もの無垢な少女たちの人生よりも、一般の国民の羞恥心の方が優先される。







 

2005.04.08

「極道」先生…意味が違う 都内中学の国語教諭 厳重注意


産経新聞 4月7日]


学級スローガン 教室に横断幕
 東京都大田区立の中学校で昨年度、三年生の学級担任教諭が教室に「極道」と書いた学級スローガンの横断幕を掲げていたことが六日、明らかになった。教諭は四十歳代で国語担当。個人的な信条の「道をきわめる」という意味で掲げていたというが、辞書によると「極道」は「悪事をすること」などの意味。保護者から「おかしい」と指摘があり、学校側は「教育上、妥当性を欠く」として撤去し、区教委は教諭を厳重注意処分とした。
 学校の説明によると、この教諭は三年生の学級担任だった昨年四月以降、教室の黒板の上に「極道」と大きく書いた縦五十センチの横長の布を掲示。今年三月十八日に行われた卒業式の終了後には、「極道」と書かれたタスキをかけて校門で卒業生を送り出した。

 タスキを見た保護者が疑問を抱いて区教委に照会。校長は事実関係を区教委に報告するとともに掲示は不適切だとして横断幕を撤去し、新年度は掲示しないことにした。

 この教諭は、快活で意欲的に生徒指導にあたる「熱血先生」として知られるという。「物事に臨むさいは道をきわめるよう頑張りなさい」が信条で、折に触れて生徒にもこうしたスローガンを説き、生徒の人気も高かったという。
 教諭の学校側への説明によると、「極道」は自分が高校時代の恩師の言葉で、教職の道を選び前任校などでも掲げ、生徒には「きわめみち」と読ませていたという。卒業式に使ったタスキは昨年春の運動会でクラス対抗リレーの際に使ったものだったという。

 同校の校長は「初めて見たときはギョッとしたが、本人にただすと『ごくどう』ではなく、クラスもこのスローガンのもとでまとまっていたのでそのままにしていた」と釈明。「そもそも『極道』を『きわめみち』とは読まないし、保護者が当惑するのも無理もない。教育上、妥当性を欠き、本人も含めて反省している」としている。
 大田区内の中学ではテスト問題に男性性器の長さを答えさせる問題が出題されたり、理科の授業中に十五歳未満の児童生徒の鑑賞が禁じられた「R15」指定の映画「バトル・ロワイアル」を視聴させるなどの不祥事が発覚している。

 区教委は教諭を厳重注意処分としたが、“悪党のススメ”を説いたわけではないことや、深く反省し卒業生三十一人全員の自宅を訪ね「漢字の使い方が不適切だった」などと“謝罪行脚”している点も盛り込んだ内申を都教委に報告する方針。

     ◇

 【極道】広辞苑によると「極道」は(1)悪事を行うこと、またはその人(2)放蕩(ほうとう)をすること、または放蕩者(3)人をののしっていう言葉−の意味。ちなみに「極道」と書いて「きわめみち」と読むには送り仮名の「め」が必要で、広辞苑にそうした読み方の取り扱いはない。「道をきわめる」の漢字は「究める」が正しい。


「極道」の何がいけないのか分からない私は、もしかしたらよほど道徳観が狂っているのかも知れない。

「極道」と書かれたタスキをかけて校門で卒業生を送り出した。

など、私には他愛のない冗談にしか思えない。

「道を究めよ」といった大時代的な理想をそのまま現代の子どもに伝えるわけにもいかない。そこで冗談にまぶして真意を残す・・・そういったことは常套手段だった。
(私も昔は「緊張の夏、日本の夏!」などと盛んやったものだ)
しかしそれで、厳重注意、生徒の家を一軒一軒回ってのお詫びの行脚となれば、もうとてもやっていられない。

この教諭は、快活で意欲的に生徒指導にあたる「熱血先生」として知られるという。「物事に臨むさいは道をきわめるよう頑張りなさい」が信条で、折に触れて生徒にもこうしたスローガンを説き、生徒の人気も高かったという。

こんないい先生はなかなかいないじゃないか、というのは不合理な身びいきだろうか?

クラスもこのスローガンのもとでまとまっていた

それならそれでいいじゃないか。そう考えるのは、あまりにも馬鹿げたことなのだろうか。

「極道」という言葉の使い方は、それほど重要なのだろうか?
私は、教育における正しさと言うものが分からなくなってきた。

この教師もこれで終わりだろう。
なんともやりきれない世の中である。






 



2005.04.15

「心の病」休職教員 職場で支え合う態勢を


徳島新聞 4月14日]




徳島県内の学校で「心の病」を理由に休職する教員が急増している。

 積み重なる疲労や精神的なストレスが大きく影響していると考えられる。教育は「人」が財産である。県教委は事態を深刻に受け止めなければならない。

 何より周りの理解が大切だろうし、校長は職場環境に十分な目配りをする必要がある。職場で支え合う態勢づくりが欠かせない。

 県内で二〇〇四年度にうつ病など「心の病」で二百日以上休んだ教員は二十九人だった。一九九九年度は十人で、この五年間で三倍になったことになる。こうした数字は統計に表れたもので、表面に出ていないケースも多いはずだ。

 これだけ多くの人が休職している背景には何があるのだろうか。

 学校現場の忙しさや急速に進む情報技術(IT)化が挙げられよう。昨年五月の日教組教研集会で参加者に行ったアンケートでも、各種会議や報告書の作成などに時間を取られることが多く、週三日は自宅に仕事を持ち帰っているという調査結果が出ている。

 そこからは、忙殺されている教員の姿が浮かび上がってくる。子どもと向き合う十分な時間が持てないなどの悩みも出されている。

 日教組の調査ではストレスや疲労が原因で教師を辞めようと思ったり、休職を考えたりした人が12%あったという。

 休職に至らないまでも、病気と闘いながら、無理をして学校に出ている教員もいるのではないか。そうした人たちのケアも必要である。

 事態を改善するには、仲間同士が支え合うことが大事だ。問題を一人で抱え込むのではなく、気軽に相談できる態勢をつくることが課題である。

 県教委では、臨床心理士や精神科医らによる相談を実施している。これまでは教員が診療所などへ出かけていたが、本年度からは県内七カ所程度で出張相談もする。形式だけに終わるのではなく、実際に参加しやすく効果の上がる相談にしてもらいたい。

 教職員を対象に県立総合教育センター(板野町)で行っている相談には、教員OBの専任指導員が当たっている。相談内容は学級経営をはじめ家庭の悩みなど多岐にわたっている。

 しかし、利用件数はそれほど多くないという。相談するのが恥ずかしいといった意識もあるのだろうか。いずれにしても、周知の徹底などもっと工夫する必要がある。

 うつ病など「心の病」は誰にでも起こり得る。早く気がつき、早く対応することが大切である。

 六年前から体と心のバランスを崩し、昨年八月から休職している坪井啓明さん(国府小学校)は、熱血教師として知られ、赴任した学校で妥協を許さない熱心な指導を続けてきた人だ。

 自らの闘病や教育実践をつづった本が反響を呼び、児童生徒から励ましを受け、病気の克服を目指している。しかし、まだ職場への復帰は果たせていない。

 「心の病」は完全によくなるまでに時間がかかるとされる。周囲が気長に見守ることが必要だ。

 「心の病」にかからないようにするには、ゆとりのある環境づくりが欠かせない。県教委や学校長は責任の重さを肝に銘じてほしい。



 文明というものは本来自分たちがしてきたことを他人もしくは組織あるいは機械に行ってもらおうというものである。したがって文明は多分に依存的な人間をつくる。別な言い方をすると人間の幼児化を許容するものだ。
 しかし、それにしても世論の形成者たるマスメディアがこうも幼児化してしまうと、日本はまったく子どもの国になってしまわないか?

 県教委は事態を深刻に受け止めなければならない。
 何より周りの理解が大切だろうし、校長は職場環境に十分な目配りをする必要がある。

 それはもちろんそうだが、徳島新聞にできることはないのか?
地域にできることはないのか? 保護者にできることはないのか? 児童・生徒にできることはないのか?

 学校を完全に孤立無援にしておき、その上で責任者たる県教委と校長、そして同僚たちに「何とかしなさい」というのは甘えに他ならない。

 自分たちは何もしたくない、読者たる一般市民にも何もさせたくない。でも誰かが何かしてくれるはずだというのは、子どもの考え方である。

 私はよく、生徒の意見文指導をしながら、
「『誰かに何とかしてほしい』ではなく、自らに何ができるかを問え」と言うが徳島新聞記者氏はそうした教育を受けてこなかったらしい。

 事態を改善するには、仲間同士が支え合うことが大事だ。問題を一人で抱え込むのではなく、気軽に相談できる態勢をつくることが課題である。
もっともである。

 しかし「私たちは何もしたくないが・・・」といった気持ちを背後に読み取ると、それは単に
「キミたちがしっかりとしてくれないとボクたちが困るんだよね」

といった子どもっぽい自己中心的な響きしか感じられなくなるのだ。






 

2005.04.16

教頭が校内にエアガン持ち込み 夜の職員室で撃つ


朝日新聞 4月15日]


 奈良県天理市の市立西中学校の教頭が今月上旬、エアガン2丁を校内に持ち込み、夜間に職員室で撃っていたことがわかった。このエアガンは、数メートル先の段ボール紙をプラスチック弾で撃ち抜く威力があるという。教頭は「不審者対策の目的で購入し、有効性を確かめようとした」と説明。県教委の担当者は「防犯用品としては想定外で、行き過ぎがなかったか調べる」という。

 同校によると、教頭は拳銃タイプとライフルタイプの電動式エアガンを自費で購入。5〜7日、教職員が全員帰宅した後の夜間、職員室の自席から約30メートル離れた壁に向かって撃っていた。その都度、自宅へ持ち帰っていたが、回収しきれなかった弾を教職員が見つけたことから、12日に学校側に事情を説明した。

 同校は防犯用品として、刺股(さすまた)、催涙スプレー、警棒などを備えている。奥西真一校長は「子どもたちの命を守るのが学校現場の責務。刃物などを持った侵入者に対抗するにはエアガンも必要かもしれない」と話している。



 記事になることで基準が示される。朝日新聞は公務員が新聞記事になること嫌うことを百も承知で記事にしたのだ。

 文書主義が基本の公務員社会では、ひとたび事件が起きれば何十時間もの時間を費やして説明の文書を作成することになる。児童・生徒を置き去りにし、本来の学校の仕事を脇において、文章作成に血道をあげるなど、教員は真っ平なのだ。
 朝日新聞がエアガンを記事にする以上、私たちはさっさとその方法を捨てるしかない。そのことを承知で朝日は記事を公表した。では何が許されるのか。

 
刺股(さすまた)、催涙スプレー、警棒など
 はいいがエアガンはいけない。
 それは分かった。

 朝日新聞編集部よ、われらに示せ。金属バットはどうだ、模造刀はどうか? スタンガンはどうだ、学校に侵入して児童生徒を殺傷した者を殴るのはどうか、縄で縛ってもいいのか?

 記事にすれば学校はやめると承知の上で記事にするなら、第二の宅間守とどう対処すればよいのか、そのいちいちを示せ。








 

2005.04.24

【学力調査結果】「ゆとり教育」が悪いわけではない


南日本新聞 4月24日]


文部科学省は、現行の学習指導要領のもとで初めて実施した全国学力調査の結果を公表した。3年前の前回調査と同じ問題で比べると正答率が全体的に上昇し、懸念されていた学力低下に改善傾向がみられる。

 「ゆとり教育」路線を掲げて2002年春に本格導入された学習指導要領が学力低下を招いているとの中山成彬文科相の批判を受けて、文科省が指導要領の見直しに着手したばかりである。

 この見直しを待たずに、学力低下傾向に歯止めがかかった結果が示されたとなると、ゆとり教育主犯説は説得力を持たなくなる。文科省のみならず学校現場の教師も戸惑いを隠せないだろう。

 調査は、学習内容を減らした新要領が実施されて約1年9カ月後に小学5年から中学3年まで45万人を対象に、達成状況を調べた。

 前回の共通問題で比べると、国語ではすべての学年で前回の正答率を上回る方が、下回る問題より多かった。算数・数学の計算も、中1を除いて同一問題で前回を上回るものが多かった。

 学力が上向いたのは、現行要領スタート前から学力向上を目指す「学問のすすめ」を文科省が唱え、これに沿って学校現場が読書や基本的な計算練習などに取り組んだ成果といえる。

 裏を返せば、読み書きと計算という基礎基本に限れば、指導法の改善で短期間に効果が上がるということだ。要領が教育内容と授業時間を削減したからといって、ただちに基礎学力低下につながるとはいえない、という証しでもある。

 基礎的学力の向上だけでなく、学習意欲と時間も増加に転じていることも調査結果からうかがえる。教師が授業を工夫し、子ども自らが考える力を養う総合的学習の効果の表れとみていいだろう。

 ただ基礎的学力の低下に歯止めがかかったといっても、国語などの記述式問題の正答率は改善していない。経済協力開発機構の学習到達度調査や国際数学・理科教育調査の結果が指摘した読解力の低下は深刻に受け取らねばなるまい。

 このことから中山文科相は全国学力テストの実施や総合的学習の削減を相次いで打ち出しているのだが、適切な処方せんとは思えない。といって有効な手だてを見いだせないのも事実であり、今回の学力調査の結果をつぶさに分析して、要領見直しを審議する必要がある。

 指導要領はもともと基礎的学力の確実な定着に加えて、理解する力や生きる力の育成を目指している。こうした指導要領の趣旨を生かすには、「ゆとり」の必要性を子どもにじっくり考えさせ、体感させることが何よりも大事ではないか。


 文部科学省が「ゆとり教育見なおし」を表明して以来、マスコミはゆとり教育批判・学力重視の方向をいっせいに転換してゆとり教育擁護に回っている。この記事もそうした擁護論の典型である。
 しかし、

 学力が上向いたのは、現行要領スタート前から学力向上を目指す「学問のすすめ」を文科省が唱え、これに沿って学校現場が読書や基本的な計算練習などに取り組んだ成果といえる。

 本当だろうか? 確かに読書や基本的な計算練習を深めよという圧力はあった。しかし授業時間が削減された中で読書や基本的計算練習の時間を増やそうと思えば、当然「理解のための時間」は削減される。パイが小さくなっている中で、読書や計算だけを増やすわけには行かないのだ。
 もし「理解のための時間」を減らして読書や計算練習の時間を増やしていたとしたら、授業がわからない児童生徒は飛躍的に増えているはずだが、事実はそのようになっていない。
 教師は努力している。しかし以前だって努力してきたのだ。「学問のすすめ」が出たからといって、急に努力をし始めるものではない。

 では結局、
 教師が授業を工夫し、子ども自らが考える力を養う総合的学習の効果の表れとみていいだろう。
 ということなのだろうか?
 だとしたら植物を育てたりボランティア活動に出かけたり、あるいはコンピュータ・スキルを高めると計算や漢字ができるようになる、ということを証明しなければならない。しかし、たぶんそんなことはない。
 思うに、指導要領で全てを説明しようとすること自体が無理なのだ。

 この2年あまりのあいだに様々なことが変化した。
 「勝ち組・負け組」という言葉が流行語になるように、「勉強して、良い高校から良い大学に進み、一流企業の正社員にならないと幸せになれない」という数十年前の物語に、今改めて日を当てている人が増え始めたからかもしれない。彼らは収入の多くを教育費に当て、必死に勝ち組の片隅に自分の子どもを置きつづけようとしている。

 世間の学力危機感に押されて、各地方自治体のうち比較的豊かな一部が30人学級の枠を広げ、あるいは講師を大量に入れて少人数学習を充実させたからかもしれない。少人数学習では、少ないところでは1クラス4〜5人で授業をしている場合がある、これで学力が伸びないわけがない。

 親も地方自治体も身銭を切って努力しているのだ。安易に指導要領のせいにしたり、教師の努力に帰して良い問題ではない。

 メディアよ、もう教育を弄ぶのはやめなさい。


<学力テスト>同一問題で、43%が02年より正答率高く                  (毎日新聞) - 4月22日

 文部科学省は22日、全国の小学5、6年生約21万人と中学生約24万人を対象に実施した「学力テスト(教育課程実施状況調査)」の結果を公表した。02年4月から始まった新学習指導要領の定着度をみる初のテストで、旧指導要領下で行われた前回(02年)と同一の問題のうち約43%が前回より正答率が高かった。小5〜中3の延べ23教科のうち、中1の社会と数学を除くすべての教科で前回より点数が良かった。学習意欲・時間も増加に転じた。一方、昨年末の国際学力調査結果で指摘された記述式問題の弱さは今回も見られた。「学力低下」の原因とも言われる新指導要領で学んだ児童生徒の点数が上がったことで、改めて「学力」をめぐる議論が起きそうだ。

 中山成彬文科相は「学力の低下傾向に若干の歯止めがかかった。現場による基礎的事項の徹底の表れだ」と一定の評価をしており、義務教育改革を審議している中央教育審議会での議論に反映させる。しかし、「ゆとり教育」見直し路線は変更しない構えだ。

 テストは、昨年1〜2月、国公私立を問わず無作為抽出し、小学校は全体の15%にあたる3554校の約21万1000人、中学校は2584校(23%)の約24万人に実施した。小学5、6年生は4教科(国語、算数、社会、理科)、中学1〜3年生は英語を加えた5教科が対象で、前回は旧指導要領(小学校は92年、中学校は93年に導入)で学んだ児童生徒を対象に、02年に実施した。

 全体(1939問)の約3割が前回と同一の問題で、正答率が前回より良かったのは約43%に上った。前回より悪かったのは約17%、前回と変わらないのが約39%だった。特に、小5の算数、社会▽小6の算数▽中1の理科▽中2の国語、社会▽中3の理科の計7教科では、5割以上の問題で前回より点数が良かった。前々回(94〜96年)まで含めた同一問題での正答率を比較しても、今回が最も成績が良かった。

 教員が普通に指導した場合に予想される正答率をあらかじめ設定し、これと各問題の正答率を比較したところ、中3の英語を除いたすべての教科(22教科)で、過半数の問題が予想を上回るか、予想と同程度の正答率だった。ただ、記述式の問題に絞ると、小6、中1、中2の国語、中1の数学、中1、中3の英語の6教科で、過半数が予想を下回った。

 児童生徒の意識調査では、「勉強が好きだ」と思うかどうかとの問いに、「そう思う」と「どちらかといえばそう思う」の合計が全学年で前回より増加し、小6では6.1ポイントも上がった。授業以外の学習時間(平日)についても、「全く、またはほとんどしない」が全学年で0.6〜1.6ポイント減少した。【千代崎聖史】

 【ことば】教育課程実施状況調査 学習指導要領の改訂に生かすために文科省が全国の小中高校を対象に行う学力テスト。56年度に始まったが、都道府県間、学校間の競争が過熱し、日本教職員組合も反対して、66年度に中止された。小中学生に限定して81年度に再開し、前回(02年)の結果で学力の低下傾向が指摘された。