キース・アウト
(キースの逸脱)

2005年5月

by   キース・T・沢木

サルは木から落ちてもサルだが、選挙に落ちた議員は議員ではない。
政治的な理想や政治的野心を持つ者は、したがってどのような手段を使っても当選しておかなければならない。
落ちてしまえば、理想も何もあったものではない。

ニュースは商品である。
どんなすばらしい思想や理念も、人々の目に届かなければ何の意味もない。
ましてメディアが大衆に受け入れられない情報を流し続ければ、伝達の手段そのものを失ってしまう。

かくして商店が人々の喜ぶものだけを店先に並べるように、 メディアはさまざまな商品を並べ始めた。
甘いもの・優しいもの・受け入れやすいもの本物そっくりのまがい物のダイヤ
人々の妬みや個人的な怒りを一身に集めてくれる生贄
そこに問題が生まれれば、今度はそれをまた売ればいいだけのことだ。















 

2005.05.10

「考える力」育む米国流 NIE先進国の取り組み


朝日新聞 5月9日]


 米国から始まったNIE(教育に新聞を)活動。日本新聞教育文化財団が企画した米国視察で、日本の小、中、高の先生たち約20人が3月末、ワシントン周辺の学校などを訪ねた。新聞を使って「考える力」伸ばすなど、NIE先進地の取り組みから多く学んだ。

◇記事題材、自由に意見

 約20人の生徒全員にワシントン・ポスト紙が一部ずつ配られた。「弱者や少数者にふれた記事を探しなさい」。先生の指示で、生徒が紙面に印を付け始めた。

 カール・サンドバーグ中学校(バージニア州)、8年生の社会科授業。「報道の自由」がこの時間のテーマだ。

 ある生徒は、小さな女の子が泣きそうな顔で父親に抱かれている写真を選んだ。強い風雨の中で開かれた復活祭の記事に添えられた一枚。幼児は社会的に弱い立場にある、と生徒は考えた。

 健康を心配する女性の投書、特許訴訟で敗れた外国系企業の記事……たくさんの印が付いた。

 先生が問いかける。

 「もしも多数者、強い力を持つ人の情報しか伝わらず、少数の人種、宗教、政府批判者などの意見が無視されたら社会はどうなるでしょう」

 生徒との応答を通じ、先生は、多様な意見を反映する手段として「報道の自由」が欠かせないことを教えた。

 同校には教材用に毎朝60部のポスト紙が届けられる。「主に社会科の授業で使います。社会の仕組みを学ぶには現実の世界がわかる新聞が役立ちます」とウェンディ・イートン副校長は話した。

 別のクラスの社会科授業では、その時、全米で論議を呼んだ植物状態の女性の尊厳死訴訟の問題を取り上げていた。

 焦点は女性側のプライバシーと報道。「メディアはやりすぎだ」「スマトラの地震など他に伝えることがたくさんある」「必要なのはバランス」。生徒たちが次々に手を挙げて意見を述べる。

 現実の事例を素材に、知識や考え方を身につける。第2次大戦後、日本が社会科教育を始めた際、バージニア州の教育を参考にした。その伝統が生きているようだ。

 見学した東京都立山崎高の瀬野光孝先生の感想。「米国では物事を論理的に考える過程を大切にしている。結論より、様々に考える素材を提供する新聞は米国型の授業に適している。NIEが発達した理由がわかります」

◇小中高の4割が導入、新聞社が教材作りも

 NIE活動の本拠、米国新聞協会(NAA)財団のジム・アボット副理事長の話を聞いた。

 アボット氏によると、3年ほど前、同財団が各州の標準テストの成績を調べたところ、NIEを導入している学校の生徒の読解力が未導入校の生徒より10%高かった。効果は13〜15歳の年齢層で強く出ていた。

 中でも、英語を第一言語としない、貧困家庭の生徒の読解力向上に役立っていた。

 「13〜15歳は社会への関心が高まる年ごろ。自発的に新聞を読む気持ちが芽生え、たくさんの記事にふれ、自然に読解力が伸びるようです」

 また、18〜34歳1500人の新聞接触度を探った昨年の調査では、学校でNIEを経験した人の62%が新聞を毎日読んでいるのに対し、非経験者は38%と低かった。新聞閲読の習慣を育てる上でNIEの役割が大きいようだ。

 米国のNIE活動は、1930年代にニューヨーク・タイムズが呼びかけて始まったとされる。NAA財団の統計では、現在、小中高全校の約4割がNIEを取り入れている。学校へ配達する新聞は年2億部以上。中学校の授業活用が一番多い。

 ワシントン・ポスト紙の本社も訪ねた。現在、同紙は首都周辺の約620校に毎日4万5千部を配っている。

 新聞社がそれぞれの学校に直接働きかける点が米国NIEの特色だ。教科別の授業プランを練り、別刷り特集などの副教材もつくる。ワシントン・ポストの経済面には、学校で盛んな株式投資ゲームの結果が載っている。

 同紙のNIE担当、マーガレット・カプローさんは、学校との連携が緊密な背景として、一定の水準を満たす限り、各学校がカリキュラムを自由に決められる米国の教育システムを挙げる。

◇日本語教育にも一役

 クリントン前大統領らが卒業したジョージタウン大学(ワシントン)の日本語教育に日本の新聞が一役買っていた。

 日本語は英語圏の人にとって習得しにくい言語の一つ。同校東アジア言語文化学部準教授、森美子さん(愛知県出身)らが新聞を活用し始めた。

 昨年の秋学期。「イラク人質問題」「女性天皇」「ヒトクローン胚(はい)」などの記事を取り上げた。「生きた日本語にふれ、同時に時事問題にも詳しくなる。新聞はうってつけの教材」と森さんは言う。

 学生は記事中の言葉の意味、表現を学び、賛成・反対それぞれの立場で議論する。言葉クイズ、漢字などの宿題もある。

 渡米前、森さんは都立高校の英語教師だった。意欲の薄い生徒の気持ちをもり立てようと、英語のヒット曲などから教材を自作した。その経験が日本語教育の工夫につながっている。 受講した大学院生は「日本語の勉強は楽しい。日本文化の研究にいかしたい」と話していた。



『子育ての行方』の著者・松井和は、家庭の問題に関して『欧米では』ときたら、まず反射的に『それは真似してはいけないこと」と考えるような癖がついている」
とまで言い切った。
私もそう思う。

単に国際教育到達度評価学会(IEA)の調査結果を見ただけでも日本は世界3位(小4算数。中2の数学は5位)、アメリカは12位(中2は14位)なのだ。 OECD生徒の学習到達度調査(PISA)の国語読解力にしても日本8位に対してアメリカは15位でしかない。

何が哀しくてアメリカから学ばなければならないのか?



たしかにNIE(教育に新聞を)活動は
英語を第一言語としない、貧困家庭の生徒の読解力向上に役立っていた。
かもしれない。だったらまず、
 日本を
日本語を第一言語としない、貧困家庭の生徒の十分に存在する国にしておく必要があろう。


「米国では物事を論理的に考える過程を大切にしている。結論より、様々に考える素材を提供する新聞は米国型の授業に適している。NIEが発達した理由がわかります」

 確かにそれもそうだろう。しかしかくもアメリカを賞賛するなら、まず日本の教育をアメリカに近づける覚悟が必要だろう。

 国民教育をあきらめて代わり世界各国から優秀な人材を大学に集め、その成果を産業界に流して世界一の経済大国を創り上げる、そうしたやり方が日本の進むべき道だと考えるなら、メディアは大いにアメリカを持ち上げるべきだろう。

 
いや、そこまでやるつもりはない、我々は単に子どもを通じて新聞の売り上げが伸びればそれでいいのだというなら、それもいい。











 

2005.05.15

眉そった、入学式出席拒む 鹿児島の中学校



朝日新聞 5月15日]


 鹿児島県菱刈町の菱刈中学校(外俊則校長、272人)で4月にあった入学式で、新入生の女子生徒4人が眉毛の一部をそっていたという理由で出席を許されなかったことが14日、分かった。同校は「ルールを大切にする気持ちを持ってほしかった」と説明するが、識者らから批判する声も上がっている。

 同校などによると、入学式は4月6日に体育館で開いた。今年度は町内の五つの小学校から計89人が入学。4人の女子生徒は当日朝、眉毛をそって登校。眉を短くしたり、細くしたりと形状はそれぞれ違ったという。これを見つけた生活指導の教諭が入学式への出席拒否を校内にいた母親らに言い渡した。

 式では入学生として4人の名前も呼ばれたが、式中は体育館隣の武道館で教諭と一緒に待機した。母親ら4人のうち2人が式に出席、残りの2人は生徒といっしょに武道館で待機したという。4人のほかにも名札を忘れたり、スカートの丈が短かったりした生徒もいたが、教諭から指導を受けて入学式に出席した。


子どもは学校に来てはいけない、来ていいのは児童・生徒だけである そう言い放ったのは小浜逸郎である。
 児童・生徒というのは、学ぶ意志と能力を持った者のことだ。

 入学式に眉をそって出るというのは、「私たちは中学校に学びに来たわけではない」というこの子たちの明確な表現であり、宣言である。

 それに対し、「きちんと生徒になって来なければ、入学式には出せない」という学校の態度は間違っていない。
識者はどのようにこれを批判しているのだろう?










 

2005.05.18

「学力低下心配」76% 5日制否定派増加
PTA調査



朝日新聞 5月15日]

  学力低下に関する調査結果グラフ


 保護者の4分の3は「学力低下が心配」で、4割は学校週5日制を「よいと思わない」――教育改革に対する親たちのこんな気持ちが、日本PTA全国協議会が17日に公表した意識調査で明らかになった。導入から2年をすぎた学校週5日制に対して批判的な保護者が増えており、その理由として最も多く挙がったのは「学力が低下した」だった。

 同協議会が全国の小学1年〜中学3年の保護者6000人を対象に04年10〜11月にアンケートした。日本の子どもの学力低下傾向が示された国際学力調査の結果公表よりも前で、5056人が回答した。

 学力低下について「かなり心配している」が24.5%、「多少心配している」が51.6%にのぼった。

 「心配している」保護者の割合は、02年調査では74.6%、03年は69.7%で、今回は再上昇した形だ。

 02年度から完全実施された学校週5日制への評価は、「あまりよいと思わない」が30.9%で最も多く、「全くよいと思わない」の8.4%と合わせると約4割が否定的。「非常によい」(4.5%)、「まあよい」(25.8%)の肯定派を約10ポイント上回った。03年調査と比較しても、否定的な意見が3ポイント増えている。

 5日制の心配な点(複数回答)は、「学力が低下した」が29.2%(前年度比7.6ポイント増)で最も多かった。

 見直し論議が出ている「総合的な学習の時間」に対しては、肯定的な意見が半数近くを占め、約1割の否定派を大きく上回った。「どちらともいえない」と答えた保護者も38.6%いた。


 何度も書いているがもう一度言おう。私には「学力問題」が分からない。

 
わが子が競争社会で勝ち残る千載一遇のチャンスを逃して、なぜ保護者たちが日本の学力を高めようとするのか、それが分からないのだ。

 なぜ今がチャンスなのか、それは英語を例にすれば分かる。思い出してみよう。私たちが中高6年間にいかに英語で差をつけられたかを。
 中学校1年で始めて英語に出会ったとき、私たちは「何も分からない」という形でほぼ完全に平等だった。それが気づくとはるか高みに友を戴き、自分は成績の底辺をムダに彷徨うことになった。

 ある友は長い英文をスラスラと訳していくのだが、私の方は半分も分からない・・・そんな生活をもう4年も続けていたらどうなっていたか? もちろん私も伸びないわけではない。しかしその10年間に優秀な友はもう姿さえ見えないほどの高みに駆け上がっていたはずである。
授業はやればやるほど差がつくのが鉄則なのだ。


 小学校3年生から英語を始めるのは英語学習が4年伸びるのと同じで、普通の子やその親にとってはまったく損な話である。同様に土曜日の授業を再開したり夏休みを減らして授業を増やせば、それだけ普通の子は不利となる。
 エリートとの差を縮め、あわよくばそれを乗り越えようと考えれば、優秀な子たちの学習時間を減らしておくほうがいい。学習内容を減らし、授業時数を減らした現行指導要領は、その意味で千載一遇のチャンスだったはずである。

 
さして頭のよくないわが子でも、まじめに努力する子に育てておけばかなり有利な展開が見えてくる、それがつい最近までの日本の状況だった・・・にもかかわらず親たちは授業の増加を望む。
 もったいない話である。
 







 

2005.05.21

埼玉県立高の女子生徒、「強制謹慎」で留年



朝日新聞 5月21日]

 埼玉県西部の県立高校2年の女子生徒(17)が昨年度、学校から謹慎処分を受けた後、自主退学を求められるなどして約10か月登校できずに留年した上、復帰した今年度も約1か月クラスが決まっていなかったことがわかった。

 県の基準では謹慎処分は最長2週間で、県教育局は学校の対応が不適切だったことを認めている。

 生徒と家族によると、生徒は昨年6月、校内のトイレの壁に落書きし、数日後、謹慎処分を言い渡された。7月の期末テストは別室で1人で受けたが、下校時に他の生徒と接触したなどとして、以後の登校を禁止され、その後、自主退学を求められた。

 生徒はいったん「(学校を)やめたい」と発言したものの、数日後に撤回。しかし、学校からは「もうやめる方向で進んでいる」と言われ、8月には都立高校への転校試験を受けさせられたという。

 試験は不合格で、家族は9月、県教育局に「学校に戻りたい」と相談したが、学校は退学を求めた。今年2月、復帰の方向で協議が始まり、留年となった。4月に登校すると、クラスは決まっておらず、別室で約1か月、ドリルなどをし続けた。クラスが決まったのは今月中旬だった。

 校長は「謹慎を言い渡したのは7月。その後、進路変更の申し入れがあり、謹慎は消滅した。9月からは生徒側の都合による長期欠席」と主張している。

 しかし、県教育局生徒指導室の中田貞夫副室長は「謹慎解除をせず、9月以降もきちんと話し合わず、クラスが決まっていないなど、誠にまずい対応だった」としている。



 トイレの壁に落書きと他の生徒と接触したことによる自主退学勧告!
 この程度で退学なるようならこの学校、1年間に退学させられる生徒は二桁では納まるまい。県教育局もマスコミも、これまで良く黙認していたものである・・・。
 しかし実際にはそうではないだろう。校長が
「謹慎を言い渡したのは7月。その後、進路変更の申し入れがあり、謹慎は消滅した。9月からは生徒側の都合による長期欠席」
と明確に反発している以上、そこにはなんらかに言い分や事実があるはずである。
 記事はトイレの落書きの程度や「他の生徒との接触」の様子などについて一再知らせていない。いやもしかしたら取材さえしなかったのかも知れない。
 いずれにしろ、ただ単に生徒の言い分をあげつらって、学校を叩き鬱憤を晴らしているとしか思えないような記事である。

 さて、事実がどうであったか記者に聞きたいところであるが、ロクな答えは返ってこないだろう。
 そこでJR西日本を追求する読売新聞記者の例に倣って私もこう言おう。

「あんたら、もうええわ、社長を呼んで!!」








 

2005.05.21

大都市圏の教員不足
やがて本県でも現実に



朝日新聞 5月21日]



 学校の先生が不足しそうだ−と言っても、県内の募集が減少傾向にある現在、にわかに実感はわかないだろう。

 ところが既に首都圏や中部、関西などの大都市圏では2000年度以降、公立学校の教員採用数が急増している。

 例えば埼玉県では、2000年の採用297人が04年は1145人に、愛知県は565人から1401人、大阪府も298人から1755人に、それぞれ増加。他県から現職教員を引き抜くなど、人材の争奪戦に及んで摩擦が生じている地域さえある。

 これらの大都市圏は高度成長期、人口の大量流入により増大した児童生徒に対応して採用された教員が、定年退職を迎えているため、他地区に先駆けて教員不足が深刻化したのだ

 全国的には、1971−74年の第2次ベビーブームを受けて、80年前後に大量採用された教員の退職が待ち受ける。少子化とはいえ、15歳までの人口は全国的に横ばいで推移。少人数学級への流れなど考慮すれば、激減というほど教員の需要は減らないとの見方が大勢だ。あと10年もすれば各地で採用が増え始める。本県も例外ではない。

 国施策は場当たり的

 
2006年度、本県の公立学校教員試験合格者は、本年度の198人より10%程度減少する見込み。最近では03年度の300人を頂点に2年続きで減少しており、今後は毎年150人前後で推移しそうだ。

 少子化による学校統廃合や高校再編の影響だが、同時に学級少人数化への取り組みや、科目によっては複数教師による指導が普及するにつれ、近い将来、採用を増やさなければならない時がやってくる。

 特に小中学校の場合、教員の年齢構成は50代が、多くても100人台前半でほぼ平均しているのに対し、30−40代は40歳前後を中心に各年齢とも300人内外と突出する。全国的には40代後半が2万5000人前後で頂点。退職者が増える時期はずれるが、傾向として本県もいびつな年齢構成に変わりはない。


 こうした状況に、国の対応は心もとない。一時は約2万人を数えた国立の教員養成課程の入学定員は、少子化による抑制方針の下でほぼ半減。法人化の動きの中で、教育系学部は大学再編の先兵役にもされた。

 各県に最低一つという学部の伝統的な設置方針も崩れかけたが、今春になって国側は抑制方針を撤回。現状追認型の場当たり的施策の弊害が、大都市圏に象徴的に現れた格好だ。

 県は「政策的」努力を

 教員養成課程がある岩手大や盛岡大では、首都圏の採用担当者が訪れ受験を勧誘するケースが目立って増えるなど、人材不足の波は地方にも及んでいる。

 岩手大教育学部から小中高校などの教員に就職した割合は、04年度47・9%と5年連続で上昇した。国立の全国平均を7・6ポイント下回るが、盛岡大を含め地方大学の教員志望者は、そもそも地元志向が強い。

 首都圏では「試験を受ければ確実に採用する」といった甘言さえささやかれる中、あくまで地元で教職を目指す学生が多いという状況では、学部の存在価値は教員就職率だけでは計れないだろう。大都市では定数確保を優先するあまり、教員の質の低下が懸念されてもいる。

 類似の状況は十数年後、本県でも現実となる。退職金の増大など財政的にも重大な影響が予想されるが、毎年一定数の若い教員を迎えることの教育的効果をなげうつわけにはいくまい。

 本県の05年度教員採用試験倍率は12・5倍。狭き門は当分続きそうだが、中長期的展望に立てば受験側、採用側の双方にとって、今は我慢の時といえよう。この間を流れに任せず、地方が率先して教員の需要を喚起、有為の人材を極力多く地元で確保するなど「政策的」な手だても必要ではないか。




 これほど風当たりが強く、長時間労働。
 生徒は日に日に難しくなり、非行だイジメだ不登校だと、解決の困難な問題が目白押し。本来はともに考えるべき家庭までもが時には学校に大して牙を剥いたりもする。

 それにもかかわらず現在も教員採用試験が難しいのは、少子化による採用の少なさとともに、不況に由来する公務員人気のためである。

 首都圏では「試験を受ければ確実に採用する」といった甘言さえささやかれる中、あくまで地元で教職を目指す学生が多いという状況では、学部の存在価値は教員就職率だけでは計れないだろう。
大都市では定数確保を優先するあまり、教員の質の低下が懸念されてもいる。

類似の状況は十数年後、本県でも現実となる。


 その数十年後、今と同じ不況が続いていればいいのだが・・・・・・

そうでなければ誰も教師にならない。







 

2005.05.22

<文科省>フリースクールも学校 不登校児、就学義務見直し



毎日新聞 5月20日]


 文部科学省は19日、義務教育の就学先を学校に限定している現行制度を見直し、不登校の児童・生徒がフリースクールなどで学んだ場合でも、一定の条件を満たせば、就学義務を履行したとみなす検討を始めた。同日の中央教育審議会義務教育特別部会で、審議経過報告に盛り込まれることが固まった。実現すれば、フリースクールが実質的に「学校」として認められることになる。

 「不登校」を理由として、年間30日以上欠席した児童・生徒数は03年度現在、小学生が2万4077人、中学生が10万2149人の計12万6226人。10年前の約2倍の水準で、そのほとんどが、全国に約1100カ所ある教育支援センター(適応指導教室)やNPO法人などのフリースクールに通っているとされる。

 文科省は、「(保護者は)小中学校に就学させる義務がある」と定める学校教育法を根拠に、就学義務の履行は学校に限るとの原則を崩さなかった。特例措置として、構造改革特区でNPO法人立学校の設置が認められているが、不登校の児童・生徒の場合、小中学校に籍を置きながら、学校長が認めた場合に限って、教育支援センターやフリースクールなどに通った事実を「出席扱い」として認め、卒業させているのが実態だ。

 文科省は今年度から、不登校の児童・生徒向けの学習カリキュラムや指導方法の開発を目的に、実際に現場で教育にあたっているフリースクールなど約15団体に約1億円を支出し、研究委託を始めた。今月には、文科省と不登校児童・生徒の受け入れを行っているNPO関係者との懇談会を初めて開いた。今回の「方針転換」はそうした流れの延長線上にあるとみられる。

 具体的には、一定の教育課程や設備を備えたフリースクールに限定し、就学義務の履行を認める見通しだが、時期については不透明だ。



 そのほとんどが、全国に約1100カ所ある教育支援センター(適応指導教室)やNPO法人などのフリースクールに通っているとされる。
 ホントだろうか?

 しかしそれがホントだったとして、

 
フリースクールなどで学んだ場合でも、一定の条件を満たせば、就学義務を履行したとみなす
 となると、
 長かった不登校の歴史に重大な変化が起こる。

 そのほとんどが教育支援センターやフリースクールという名の学校に通っているのだから、
 
全国12万6226人の不登校の子が一夜にしてほとんどゼロになってしまうのだ。
 大変な変化である。

 確かにこれまで、
教育支援センターやフリースクールなどに通った事実を「出席扱い」として認め、卒業させていという実態はあった。しかしそれは止むを得ない現状追認であって、好んで行っていたことではない。不登校は実質的には学校教育からのドロップアウトであるから、それだけは避けたいと、教員はそれぞれが苦労してきたはずである。

 しかしフリースクールが学校として認められるとなると、

学校からフリースクールへの移動は単なる「転校」
となる。

 転校に強く抵抗する教員はいないだろう。
 そのとき「不登校」→「フリースクール」という流れは、極めて速やかに行われるようになる。統計上も実質的にも不登校は存在しなくなるのだ。

 しかし不登校の子たちが持つ心の問題はどうなるのか? 私にはそれは分からない。
 ただ、顔見知りのフリースクール主催者はこんなふうに語っている。

「フリースクールに来ている子たちは必ず学校に戻ります。それが中学生でいるうちか高校に進んでからか、あるいは大学入試のときか、それは分からないが、いつか必ず学校に戻り、そしてその後はまったく問題がありません」

・・・事実とすると、実際、まったく問題はないのだ。












 

2005.05.26

地方教育費、7年連続減 小学校1人当たり91万円



共同通信 5月26日]



 都道府県や市町村の教育委員会などが2003年度に支出した教育関係経費(地方教育費)の総額は、7年連続で減少、前年度比2・8%減の17兆6320億円だったことが26日、文部科学省のまとめで分かった。

 うち小中学校の学校教育費は計10兆533億円で、前年度から2245億円減った。

 小学生1人当たりの支出額は91万円で1万4000円減少、前年度を下回ったのは21年ぶりとなった。文科省は「教育費の減少に比べ、児童数の減少幅が小さかったのが理由ではないか」と分析している。

 中学生1人当たりは102万9000円で1000円増加。高校は113万8000円で、1万9000円減った。


 単純に計算すると小学校6年間で546万円、中学校308.7万円、高校で341.4万円。総額1196.1万円。
減ったとはいえ
一口に1200万円と言える額である。

 
これだけの税金を使いながら、子どもが学校で好き勝手をやっていいという論理はないだろう。

 学校は公のものである。その中にあっては、おのずと処すべき道があるはずだ。








 

2005.05.30

なぜ信じてくれなかった 県立高校側は争う方針



共同通信 5月30日]



 生まれつき髪が茶色なのに教諭に黒色のスプレーを吹き付けられるなどして染めることを強要され、自主退学を迫られたとして、宮城県立高校の元女子生徒(16)が県に計550万円の損害賠償を求めた訴訟の第1回口頭弁論が30日、仙台地裁(畑中芳子裁判長)で開かれ、生徒の父親が「学校がなぜ娘を信じてくれなかったのか不思議だ」などと意見陳述した。

 宮城県側は弁論で「高校は生徒の地毛が黒色と認識して指導した。黒いスプレーも『ここがまだ茶色い』などと生徒が自ら吹き掛けるよう教諭に促した」と主張。自主退学も「生徒側の任意だ」として請求棄却を求めた



 ちょっと生徒を小突いただけでもマスコミにさらされ、運悪ければ退職にまで追い込まれるこの時代に、
職を賭して茶髪に黒のスプレーをかける猛者がいる・・・・・・にわかに信じがたい話である。

しかし一方、
『ここがまだ茶色い』などと生徒が自ら吹き掛けるよう教諭に促した
などというのも、それはそれでずいぶん惚けた話である。どうせウソをつくならもっとうまいウソをつけばいいものを・・・・・・・そう思っているうちにフト、ある言葉を思い出す。

 ウソは常に真実の仮面をかぶって現れる。
 逆に言えば、あまりにウソっぽい話は、実は真実だということである。


 さて、かくもかけ離れた二つの話、
どちらを信じるかといえば私の場合、迷いなく学校を選ぶ。

 ニュースの先を待とう。