キース・アウト
(キースの逸脱)

2005年6月

by   キース・T・沢木

サルは木から落ちてもサルだが、選挙に落ちた議員は議員ではない。
政治的な理想や政治的野心を持つ者は、したがってどのような手段を使っても当選しておかなければならない。
落ちてしまえば、理想も何もあったものではない。

ニュースは商品である。
どんなすばらしい思想や理念も、人々の目に届かなければ何の意味もない。
ましてメディアが大衆に受け入れられない情報を流し続ければ、伝達の手段そのものを失ってしまう。

かくして商店が人々の喜ぶものだけを店先に並べるように、 メディアはさまざまな商品を並べ始めた。
甘いもの・優しいもの・受け入れやすいもの本物そっくりのまがい物のダイヤ
人々の妬みや個人的な怒りを一身に集めてくれる生贄
そこに問題が生まれれば、今度はそれをまた売ればいいだけのことだ。















 

2005.06.05

広島県立高の通学区全廃 急がれる個性づくり


中国新聞 6月5日]


 広島県立高校の全日制普通科の通学区域が来年度から廃止され「全県一円」となる。生徒が能力や適性、関心に応じ広い範囲から進学先を選べるようにする狙いである。高校側には、生徒に魅力をアピールする多様な個性を持つことが求められる。一方で、高校の序列化など県民の抱く懸念をどう払しょくするかが問われる。

 地域との密着、広い視野の養成、多様な進路希望への対応など、高校の所在地や伝統により個性づくりはさまざまだろう。ただ学習の基礎がおろそかになってはならない。学力を身につける体制を確保したうえでなければ、社会には受け入れられまい。

 最近の普通科の選択科目には「郷土芸能研究」「瀬戸内科学」「郷土の文学」などが目に付く。中・高連携に取り組むある高校は教員が中学校で授業をし、体育祭を一緒に開いて双方の生徒が共に盛り上がる。総合学科などを置くのも個性だろう。確かに魅力的ではある。

 学区全廃は県高校教育改革推進協議会が二〇〇一年に出した答申に盛り込まれた。多様化する生徒の個性や能力を伸ばす教育を求める声が強まる一方、高校も特色づくりへ向け切磋琢磨(せっさたくま)する必要があるとの考えからだった。同じ年に公立高校の学区に関する規定が教育行政の組織などを定めた法律から削除されるなど、全国的な「規制緩和」の流れが議論を後押しした。

 心配なのは、大学入試に向けた高校のランク付けが進む可能性である。受験戦争の激化につながらないか。遠くても「難関校」を目指すような風潮がもし広がれば、限られた生徒しか希望校へ進めないことにもなりかねない。通学範囲が広がり地域とのつながりが薄まる懸念もある。

 中山間地や島しょ部の小規模校切り捨てにつながるような事態があってはならない。県教委は「別の問題」と否定するが、それならなおさら、住民の不安を取り除くためにもこうした高校への手厚い支援が求められよう。

 今回の試みが、「ここで学んでよかった」と卒業式で振り返る生徒の増加につながってほしい。個性化へ多くの高校の意欲は感じられるが、さらに努力やセンスが問われる。生徒や保護者のニーズに合わないようなら急いで改善に取り組むなど柔軟な対応が必要だろう。学校評議員制度などを活用し地域の協力を得る方法もある。教員の力量アップは当然のことである。

 戦後の社会で多くの人々に共通していた「良い大学を出て大企業へ就職し豊かな暮らしを」との思いは、過去のものとなりつつある。それなのに高校や生徒を評価する尺度が従来のままでは、将来を担う人材は育つまい。社会も変わらなければならない。



 
おろそかになってはならない、あってはならない、変わらなければならない・・・・・・

 現にあること(存在)、またはかくあらざるをえないこと(自然的必然)に対し、まさにあるべきこと、まさになすべきことを当為という。
 しかし当為と必然は相反するものである。そうあるべきだといくら叫んでも、叫ぶだけでは「そう」はならないのだ。


 この記事の一番お粗末なことは、
「個性」の中に、「数学や英語など普通高校で学ぶ『お勉強』が極めてよくできる」という「個性」を含み忘れている点である。

 別な言い方をすれば多様な進路希望の中に「良い大学を出て大企業へ就職し豊かな暮らしを」という(中国新聞記者によれば過去のものとなりつつあるはずの)思いをもっている人々がまだ相当数いることに配慮が届いていない点である。

 その中には、フリーターにも失業者にもニートにもなりたくない、自分の高い目標を何とか実現させたいと本気で考えている連中がいる。その子たちは
教員が中学校で授業をし、体育祭を一緒に開いて双方の生徒が共に盛り上がるなどということはまったく望んでいないのだ。

 彼らが望むのは、より高いレベルの大学へ自分を導いてくれる高校である。したがって当然、彼らは最難関校を目指す。
 もちろん全員がただひとつの高校を目指すなどということはとうてい不可能だから、最難関校を目指せない子は二番手校を目指す。それがムリなら三番手、それでもムリなら四番手・・・・・・と順次目標を下げ、もう大学などというものはとても望めないという段階にいたって初めて、別の観点から高校を選択する気持ちになる。それが当たり前なのだ。

 全県一区通学区制になれば当然高校の序列化は進む。そして大学進学の序列からもれた高校だけが、いわゆる「お勉強」から離れたユニークな教育を目指すようになる。


 遠くても「難関校」を目指すような風潮がもし広がれば、限られた生徒しか希望校へ進めないことにもなりかねない。

 冗談じゃない。全県一区通学区制はそうした風潮を生み出し、競争を激しくすることによってエリートたちの資質を高めようとするものである。

 そんな当たり前のことを、まさか記者氏は知らなかったわけではないだろうに。










2005.06.13

私立中入試算数 問題文に問題あり あり得ぬ設定多数


産経新聞 6月12日]


濃度30%食塩水 一晩で半減する生物
 「濃度30%の食塩水」「一晩で別の生物に変身する生き物」−。私立中学の算数の入試問題で、科学的にありえない状況設定に基づいた入試問題が多数出題されていることが、東京理科大の芳沢光雄教授(数学教育)らの調査で分かった。読み方によっては正解が変わる、あいまいな問題文も目立つ。相次ぐ国際調査で日本の子供たちの「読解力不足」が指摘されているが、教師たちもそれを責められない状況が生じている。
 調査は首都圏を中心とした私立中学校百校の算数の問題を対象に、状況設定や問題文の正確さを検証した。特に、理科的な内容を題材にした問題で不備が目立った。
 「割合」の単元では、食塩水を題材にした問題で、塩は百グラムの水に最大二八・二グラムしか溶けないにもかかわらず、食塩水の濃度を30%以上と設定している問題があり、中には40%以上と設定している部分もあった。
 都内の有名中学では、「正六角形の頂点の一つを、他の辺につくように折った」とし、できた角の角度を求める問題を出題した。しかし、出題の条件に合うように正六角形を折ると、頂点は他の辺には付かないため求める角が存在しなくなり、科学的に実在しない状況が設定されていた。
 また、「偶数匹の生物Aは、一晩で半分の数の生物Bに変身する」など不必要に非科学的な例を挙げる問題や、条件設定を示す問題文が複数の意味にとれる問題も目立った。
 こうした問題について、芳沢教授は「当然ながら、自然界に一晩で数が半分になる生物は存在しない。偶数個の赤い玉を一晩で半数の白い玉に入れ替えるといった内容にすれば、不自然ではないのに」と指摘する。
 昨年末に発表されたOECD(経済協力開発機構)などの国際調査で、日本の子供は問題文などの読解力が大きく低下し、先進国の平均並みとなっている。
 芳沢教授は「たとえ算数であっても、科学的に正しい設定と正確な日本語を使うべきで、教育的配慮を欠いてはならない。問題の文章にはもう少し気を配ってほしい」とし、科目の内容だけにとらわれず、学習内容全体を見渡した問題作成を求めている。



塩は百グラムの水に最大二八・二グラムしか溶けない
「へーボタン」を10回くらい押したい気分である。そんなことは知らなかった。知っている数学教師などごくわずかだろう。私も70%の食塩水などという問題を平気で作っていたかもしれない。
しかしそれが何ほどのことか?

「偶数匹の生物Aは、一晩で半分の数の生物Bに変身する」
なかなか興味を引く問題である。
偶数個の赤い玉を一晩で半数の白い玉に入れ替えるではさっぱり面白くない。
しかし非科学的であるといえばそれまでで、引き下がらずを得ないだろう。

ところで、小学校の算数の
「1個2円のアメを8個買うと、全部でいくらになるでしょう?」とか、
A君は3歳で、補助輪付き自転車で毎分45mの速さで進みます。B君はまだ1歳にもなっていないので歩くことができず、はいはいで毎分25mの速さで進みます。」というのはどうか?

1個2円のアメを8個売ってくれる店が現実にどれくらいあるだろうか?
3歳の個が毎分45mという正確さで走れるものだろうか?
未満児が25mもはいはいするものだろうか?

しかしいずれにしろ、こういう非現実的、非科学的問題は廃されなければならない。

ところで、産経新聞に問題を与えよう。
2×8=16が答えになる文章題を、できるだけたくさん、さまざまなパターーンでつくりなさい。

さて、現実的・科学的設問として、果たしていくつできるかな?








2005.06.15

「いじめの可能性も」 光高爆発事件


中国新聞 6月14日]

 光市の山口県立光高で十日午前、授業中の三年生の教室で起きた爆発事件で、同高の弘中幸雄校長(51)は十三日夜、会見し、傷害容疑で現行犯逮捕された三年の男子生徒(18)に対して「広い意味でいじめがあったかもしれない」と述べ、初めていじめの可能性に言及した。この日までの教諭らの聞き取りで「総合的に判断」したという。事件の背景の一つと考えられるものの「原因は何か分からない」と繰り返した。

 判断の根拠として、弘中校長は十二、十三の両日、一―三年の担任ら十数人から個別に聴取した結果を説明。男子生徒が授業中、返答に窮した際に苦笑が出るといった例が三、四件明かされたという。

 暴行や暴言などはなかったとしながらも「恨みを持っていたと警察の事情聴取で話しており、周囲の様子が本人のプライドを傷つけた恐れがあった。冗談であってもその話し掛けが本人にとっては苦痛だったかもしれない」と述べた。

 その上で「関係者はもとより本人に対しても、大変申し訳ない気持ちでいっぱいだ」「本人にこのような行動をとらせてしまったことは痛恨の極みだ」と、男子生徒に対しても謝罪した。

 県警と光署は、男子生徒が作った爆発物を再現して威力を確かめる検証実験をする方針を固めた。男子生徒は「市販の花火をほぐした火薬に混ぜ物をした」と供述。硝酸系の化合物とみられるものが混入されており、破壊力を見極める。

 県警などは十二日、男子生徒を傷害容疑で山口地検に送検した。山口地検は、実験結果などを踏まえて、殺人未遂罪の適用も検討する。

 県警などの調べで、爆発した瓶と別に男子生徒から押収した火薬入りの瓶が、投げ込んだ爆発物と同じ構造であることも分かった。男子生徒の携帯電話に加え、自宅からパソコンと書籍も押収した。インターネットや書籍から入手した製造方法をもとに、自宅で爆発物を製造した可能性が高いとみている。

 学校ではこの日、事件後初めて、生徒が学校に登校。学年別の全校集会などがあり、落ち着いた様子だったという。市内の二病院には今も、生徒十一人が入院している。


返答に窮した際に苦笑が出るといった例が三、四件・・・これで爆弾を投げつけられてはかなわない、それが普通の感覚ではないか。しかし現代にあっては、そんなことを考えるだけでもマスコミの餌食になりうる。
学校で起きたことのすべては、学校に責任があるのだ。

「関係者はもとより本人に対しても、大変申し訳ない気持ちでいっぱいだ」「本人にこのような行動をとらせてしまったことは痛恨の極みだ」と、男子生徒に対しても謝罪した。

 大切な生徒を多数傷つけられた学校の校長が、犯人に対して「犯罪を犯させてしまってゴメンね」と謝る、そんなことがあっていいものだろうか? まだ本人も家族も謝っていないというのに・・・・と、それもダメだろう。私たちは児童・生徒のすべてに責任がある。子どもが事件を起こせば、本人よりも親よりも先に謝るべきは学校なのだ。

 謝罪をすれば当然賠償の問題も生まれる。遠からず、犯罪者が自分が犯罪を犯してしまったことの賠償を求めて、学校を訴える時代が来るだろう。

 さて、明日から私たちはどんな指導をしていけばいいのか?
「たとえどんなことがあっても他人の失敗や不手際を笑ってはいけない、苦笑してもいけない。可笑しいことがあっても、耐えて笑いをこらえなさい。
 あだなで人を呼んではいけない、からかってもいけない、つまらない話でも楽しく聞いてあげなくてはいけない、
 あなたがその人から嫌な思いをされても、あなたは笑ってそれを受け入れなければならない、
 そんなこことは面倒だからといって遠ざかるのは、それは無視といういじめです・・・」










2005.06.17

中山文科相 総合学習視察、中学生の「擁護論」にたじたじ


毎日新聞 6月16日]




 ゆとり教育の総仕上げとして「総合的な学習の時間」を盛り込んだ現行の学習指導要領に批判的な中山成彬文部科学相が15日、スクールミーティングで東京都杉並区立和田中学校(藤原和博校長)を訪れ、総合学習の授業を視察した。授業では、生徒がディベートに挑んだが、テーマは「総合学習は必要か」「土曜日の授業は復活すべきか」と挑発的。中学生たちの「総合学習擁護論」に、中山文科相も押され気味だった。

 同校は総合学習を「よのなか科」と名付け、職場体験などに意欲的に取り組んでいる。この日は3年生が6人ずつの班を編成。両テーマについて、本人の持論とは関係なく、機械的に肯定派と否定派に分かれて論戦を繰り広げた。中山文科相も班の一つに論戦の勝敗を決める審判役として参加し、総合学習については否定派に軍配を上げた。

 授業後のあいさつで中山文科相は「ディベートで(本来の)自分の意見とは違う意見を主張するのは難しい」と苦笑。保護者との懇談では「国際学力テストで子供の学力は低下傾向にある。総合学習は学校によってはなおざりにされている」と、自ら打ち出したゆとり教育見直し方針に理解を求めた。


 記事にウソはないように見える。
 しかし『
中山文科相 総合学習視察、中学生の「擁護論」にたじたじ』というのはどうか?
 ディベートが
「本人の持論とは関係なく、機械的に肯定派と否定派に分かれて論戦」するものである以上、擁護論が中山大臣を追い詰めるはずもない。なぜたじたじする必要があるのだろう? おまけに大臣は総合学習否定派に軍配を上げてはばからなかったというから、総合学習否定派の論だって相当な説得力を持っていたはずだ。

 とにかく総合的な学習を擁護したい(あるいは、とにかく政府のやろうとすることには反対しておきたい)毎日新聞としては、こうでも書かなければ気がすまなかったのかも知れない。

 ところで、一般にディベートの勝敗は参加者の腕前の差を示すものであって、話し合われた内容の是非を示すものではない(記事の場合、総合的な学習が否定されたわけではない)とされている。どんなに議論が白熱しようとも、やっていることはスポーツと一緒で勝ったから正しいとはならないのだ、一般的には。

 しかし今回は違う。

このディベートが白熱すればするほど、その勝敗に関わらず(実際にも「否定派」が勝ってしまったが)、総合的な学習が正しいことがどんどんはっきりしてしまう


 なぜなら、その白熱したディベートの腕前は、まさに「総合的な学習」で培ったものだからである。
 これほどの議論ができるようになる、だから総合的な学習は必要なのだ……と。
 なかなかあざといことである。

 で、だれがこんなことを考えたのか、と思ったらなんと校長は藤原和博である。
 この人は総合的な学習に関する独特な持論と方法論をもって公立学校に乗り込んだ民間人校長なのだ。

 私は以前、(多少の意地悪な気持ちも含めて)民間人校長登用に賛成し、民間人校長に期待した者である。しかしこの校長の著書民間校長、中学改革に挑む』を読んでから、「もしかしたらダメかもしれない」と思うようになってきている。

 いずれにしろこうした特殊な校長のもとで行われた授業であること、それを書かないのも、一種のウソではないだろうか?










2005.06.20

<ゆとり教育>中学校教員の過半数、総合学習を否定的評価



毎日新聞 6月18日]



 ゆとり教育の象徴とされる「総合的な学習の時間」について、中学校の教員(担任)の過半数が否定的な評価をしていることが、文部科学省の「義務教育に関する意識調査」(速報)で分かった。小学校の教員や児童・生徒、保護者らは6〜8割が肯定的にみており、総合学習への評価に大きな違いがあることが鮮明になった。文科省は18日、結果を義務教育改革全般を議論している中央教育審議会義務教育特別部会に報告した。
 調査は今春、文科省が通信教育会社に委託して実施した。▽公立の小中学校教員(回答約2500人)▽小4〜中3の子供(同約6300人)▽保護者(同約6800人)▽学校長に意見できる学校評議員らが対象。義務教育制度が抱える問題点などについて尋ねた。
 総合学習を「好き」としたのは小学生で60%、中学生46.2%。中学生は「どちらとも言えない」が37.7%あったが、「好きではない」と答えたのは14.3%だった。保護者も「よいと思う」としたのが60%を上回った。小学校の担任では、「よい」としたのが56.6%だったが、中学校の担任の55.2%が「よいと思わない」とした。
 保護者の63%、小学担任の54%が総合学習を「なくすべきでない」としたが、中学担任の57%は「なくすべきだ」と答えた。また、国語や算数(数学)など教科の学習については、中学担任の82%が重視すべきだとした。中学担任の否定的見解が目立つが、理由について81%が「基礎的・基本的な学習がおろそかになる」、73%が「教科との関連が不十分で学力が身に着かない」と学力低下への懸念を示している。
 「積極的に学習する意欲や表現する力が身に着く」「教科の枠を超えた横断的、総合的な課題を学べる」との学習意義には、中学担任も含め大半が肯定的。だが、教員や保護者の6割以上が「教師の力量や熱意に差があり指導にばらつきが出る」と課題を指摘した。
 文科省は「調査結果を詳細に分析し、義務教育改革の方向性を示す10月には最終報告としてまとめたい」としている。



まず、大人に対して「よい」「悪い」「なくすべき」「なくすべきでない」を聞きながらなぜ小中学生には「好き」「嫌い」を問うのか、文部科学省の意図が分からない。
 勉強の是非は好き嫌いで決めるものではないだろう。統計的な意味においても、大人と違う基準を用いたのでは比較ができない。解せないことである。
 しかし文部科学省に対してはあまり敵対心も沸かないので、それはこのままにしておき・・・

 毎日新聞が統計の表題をいちいち短縮したのは、単に紙面を整えるためだろうか? この記事を読んで思ったのはそういうことである。

 例えば
「基礎的・基本的な学習がおろそかになる」は原資料では
教科の時間が減っており、基礎的・基本的な学習がおろそかになる」である。
「教科との関連が不十分で学力が身に着かない」
単なる体験になっており、教科との関連が不十分で学力が身に着かない」である。
同様に
「積極的に学習する意欲や表現する力が身に着く」
自分で調べたり、考えたりするなど、積極的に学習する意欲や表現する力が身に着く」

「教科の枠を超えた横断的、総合的な課題を学べる」
「教科の枠を超えた横断的、総合的な課題
(国際理解、情報、環境、福祉・健康、社会のしくみや職業など)について学習できる」
となっている。
なぜ、縮めたのだろう?

 そう思って改めて資料を詳細に見ると、「よい」「悪い」「なくすべき」「なくすべきでない」については教員の評価が(小中相反しながらも)拮抗しているのにも関わらず、総合的な学習に対する肯定的な答えは以上に高いのだ。
「自分で調べたり、考えたりするなど、積極的に学習する意欲や表現する力が身に着く」(65.1%)
「教科の枠を超えた横断的、総合的な課題(国際理解、情報、環境、福祉・健康、社会のしくみや職業など)について学習できる」(73.9%)

 こんなに優れた学習を小学校の教員が諸手を挙げて賛成しないのはなぜか? 中学校の教員にいたっては反対までしているがそれはなぜか?
 そこまで考えてくると、このアンケートのカラクリが見えてくる。


 つまりそれは、「総合的な学習とはどんなものですか?」といった問いに答えるように、大人たちのすべてが総合的な学習の理念について答えていたということだ。
 これが 「自分で調べたり、考えたりするなど、積極的に学習する意欲や表現する力が身に着いた
「教科の枠を超えた横断的、総合的な課題(国際理解、情報、環境、福祉・健康、社会のしくみや職業など)について
学習できた
だったら、ずいぶんと違った結果になっていただろう。

 
総合的な学習は意欲や表現力を高め、横断的、総合的な課題について学習できるものである、しかし実際には「単なる体験になっており、教科との関連が不十分で学力が身に着かない」、それが答えの趣旨である。

 しかしそれにしても、「その理想は分かるが現実にはそうはなっていない」という現場の教員の訴え、非常に重大な問題を含んでいる。

 毎日新聞が削った「単なる体験になっており」にはそうした意味があるのだ。










2005.06.22

[総合学習調査]   指導力が試されている


沖縄タイムス 6月21日]



 ゆとり教育を掲げる新学習指導要領の目玉として登場した「総合的な学習の時間」の評価が割れている。
 文部科学省が実施した意識調査によると、小中学生の保護者の七割が総合学習を肯定的にとらえているのに対し、小中学校教員の評価は五割にとどまっている。中でも中学校教員は否定派が55%に上り、肯定派を12ポイントも上回った。
 学力低下の“犯人”として批判にさらされることが多かった総合学習だが、保護者の多くは一定の成果を感じとっているようだ。問題は、「教材作成や打ち合わせなど準備に時間がかかり、負担が大きい」とし、総合を敬遠している教師が多いことにある。

 自ら学び、問題を解決する力を育成するのが総合学習のねらいで、その取り組みとしての「自然体験や社会体験」には、教員、保護者ともに七割以上が賛同している。
 もちろん教師たちが異議を唱えているのは、総合の理念ではない。「総合も、そして学力も」という親たちの要望にこたえようとした結果、多忙感が臨界点に達しているのだ。
 生きて働く力を育てようと頑張ったものの、必ずしも身についていないことへの徒労感もある。

 「理念はすばらしいが、実現できていない」とするならば、課題は実現の手だてとなる。
 文科省や教育委員会は、教員に対する研修や事例研究など十分な対応、支援を行ってきたのだろうか。少人数学級など学級規模の問題も避けては通れない。住んでいる土地をテーマにした学習が多いだけに、保護者や地域の協力も必要だ。
 今回の調査で、多くの小中学生が「総合学習に取り組むことで、各教科で勉強したことが自分に大切なことだと分かった」と答えている。
 教え込むのではなく「生きる力」をどのように引き出すのか。まさに教師の指導力、熱意や工夫が問われている
 総合学習で子どもだけでなく先生も変わってほしい。



 どうしてこういう記事になるのだろう?
 
「理念はすばらしいが、実現できていない」とするならば、
 ・・・・・・もしかして私の記事を読んだ? と言いたくなるような文だが、だったとしたら結論も同じ方向になるはずだ。
しかしそうならない。


「総合も、そして学力も」という親たちの要望にこたえようとした結果、多忙感が臨界点に達しているのだ。

これもその通りだ。
 生きて働く力を育てようと頑張ったものの、必ずしも身についていないことへの徒労感もある。
それもまったくその通りだ。

しかしその先を追っていくと最後は、
まさに教師の指導力、熱意や工夫が問われている
総合学習で子どもだけでなく先生も変わってほしい。
である。

結局、臨界点に達した多忙感を乗り越えてさらにがんばれ、と言うことなのだろう。
がっかりした。








2005.06.30

不登校児のメールやファクスでの自宅学習、出席扱いへ


朝日新聞 6月28日]


自宅に引きこもりがちな不登校の子どもたちが、電子メールなどのIT(情報技術)やファクスを活用して自宅学習をすれば「出席」扱いにできることが決まった。学習の遅れを取り戻すことによって、学校復帰や就職につなげることを狙うもので、文部科学省は、7月にも全国の都道府県教委に通知する。

 文科省によると、03年度に30日以上欠席している不登校の児童生徒数は全国で約12万6000人。学習面でどのような支援策を取れるかが大きな課題となっていた。

 自宅学習を出席扱いとすることは、すでに構造改革特区制度を利用して1県6市で実施され、昨年末に全国展開することが閣議決定された。文科省は、これらの先行事例を検証し、学校復帰などの成果が上がっていることから全国への通知を決めた。

 ただ、出席扱いすることが不登校の悪化につながらないよう、保護者と学校とが十分に連携し、訪問して対面指導を行うことなどを出席扱いの要件としている。

 また、不登校児を対象に、学習指導要領とは別の特別なカリキュラム(教育課程)を編成できることも決まった。不登校の原因の多様化に対処するためで、希望する学校は、文科相に申請して実施できるようになる。




 カウンセラーの富田富士也氏は言う。
「不登校の児童生徒にとって学校が辛いのは、そこが集団生活を強要する場だからである」
けだし名言だと思う。

 大部分の不登校の本質的問題は人間関係不全である。
 したがって
人間関係抜きの学習ならやっていけるという児童生徒はかなりの数いるはずだ。そこで電子メールやファクスで勉強したら、というアイデアが出てくるわけだが、果たしてそれでいいのだろうか?
 学校教育は「知育」「徳育」「体育」の三つの部門で行われるものだが、そのうちの「徳育」(人間関係の中で学ばれる人間性の教育)をごっそりと抜き去って、その上での堂々たる卒業、それでいいのだろうかという意味である。

 もっとも三部門すべての放棄よりは「知育」だけでも手に入れておいた方が、と言うのも分からないではない。分からないではないが、それでもその前にやれることがあるはずだ。私はそのように思う。


 ところで、本質とは離れたところで二つ疑問がある。
 ひとつはその構造改革特区を利用した1県6市、
電子メールなどのIT(情報技術)やファクスを活用しての学習で、その相手をしたのは誰だったのだろうか? まさか担任教師が、教材研究に当てるべき時間を一人だけのために費やして、といったことではないだろうな。

 もうひとつ、こうした制度ができたとき、
中学校3年生の駆け込み不登校が急増することも考えられるが、それはそれで「良し」と考えてもいのだろうな?
 一流高校を目指す生徒にとって授業ほど退屈なものはない。しかし卒業認定などが気になって休むわけにも行かなかった学校、今後は堂々と休める上に、専任の教師が指導に当たってくれる。これはなかなかおいしい話である。