キース・アウト (キースの逸脱) 2005年7月 |
by キース・T・沢木
サルは木から落ちてもサルだが、選挙に落ちた議員は議員ではない。 政治的な理想や政治的野心を持つ者は、したがってどのような手段を使っても当選しておかなければならない。 落ちてしまえば、理想も何もあったものではない。 ニュースは商品である。 どんなすばらしい思想や理念も、人々の目に届かなければ何の意味もない。 ましてメディアが大衆に受け入れられない情報を流し続ければ、伝達の手段そのものを失ってしまう。 かくして商店が人々の喜ぶものだけを店先に並べるように、 メディアはさまざまな商品を並べ始めた。 甘いもの・優しいもの・受け入れやすいもの、本物そっくりのまがい物のダイヤ。 人々の妬みや個人的な怒りを一身に集めてくれる生贄 。 そこに問題が生まれれば、今度はそれをまた売ればいいだけのことだ。 |
2005.07.05
義務教育世界一のカギは学校の裁量
フィンランド教育相
[朝日新聞 7月4日]
経済協力開発機構(OECD)の国際的な学習到達度調査(PISA)で読解力トップなどの成績をあげたフィンランドから、トゥーラ・ハータイネン教育相(45)が来日し、先月22日、日本記者クラブで会見した。「教育の平等を保障し、教員の質を高め、学校の裁量を大きくしている」と「義務教育世界一」のカギを語った。
教育相が繰り返し言及したのは、学校の裁量の大きさだ。国はカリキュラムの大枠を決め、後は学校に任せていると述べた。視学官の査察はやめ、学校が自己評価している、とも説明。教員の質も高く、教師になるには修士号の取得が条件だと語った。
「能力別クラスをとらないなどの路線の正しさがPISAで確認された」と教育相。だが、個に応じた教育を進め、習熟度別指導を推進している日本で格差拡大が問題になっている点については「教育はその国の文化に関連しており、コメントする立場にはない」と評価をひかえた。
ゲームオタクや仮想現実にひたる子を生むなどのITの負の部分をどう克服するかという質問には「幼いときから意識的に読書を奨励し、テレビは吹き替えではなく字幕を使い、読解力向上に力をいれている」と答えた。テレビゲームは「10代の2人の子を持つ母親として、ゲームが子どもの生活の一部になっていると承知している」とうなずきながら、「問題なのは暴力的描写であり、フィンランドではソフトごとに年齢制限を設けている」と話した。
本人がそういっているのだから間違いない、というのは間違いである。もしそれが正しいとしたら、世の中の犯罪者は一人も裁けなくなるだろう。
フィンランドの教育の強さは、間違いなくその潤沢な教員数、一人ひとりに手をかける大人の多さ、それを支える膨大な教育予算のおかげである。
生徒数50人以下の学校が40%にものぼり、生徒数500人以上の学校はわずか3%
というこの国、しかもその小さな学校に、校長、教員、専門科目教員の他に、看護士、学校心理学士、特殊教員(授業中の生徒を観察し、教員に助言したり、自分が別個に授業についていけない生徒やグループの面倒をみる)、学校アシスタント(生徒数が大きい学級にアシスタントを入れる)など、大量の職員を入れているのだ。
それを支える予算は実にGDPの5.7%。日本のそれ(3.5%)よりはるかに多い。その差2.2%は日本のGDPで計算すると約11兆円。日本の国家予算およそ80兆円から考えると、どれほどフィンランドが教育に金を賭けているかが知れる。
これだけの差を横において、やれ教員が大学院卒だ、自由裁量だといっても始まらないだろう。
トゥーラ・ハータイネンがトボケているのか、朝日新聞が我田に水を引いたのかは分からない。しかしこうした記事がまた日本の教育をあらぬところへ引きずり回す、それだけは間違いない。
2005.07.11
<中学生の問題行動>
親より友人関係が影響 アンケート調査
[毎日新聞 7月11日]
いじめや暴力など中学生の問題行動には、親よりも友人との関係が強く影響していることが、安藤美華代・東京学芸大研究員(臨床心理学)の実施した3000人規模のアンケートで分かった。16日からブラジルで開かれる国際心理学者協会の会議で発表する。
調査は02年12月〜03年3月、東日本の公立中学校8校の2923人から有効回答を得た。過去半年以内での暴力、いじめ、器物破損の回数や、「問題行動をとる友人が何人いるか」「保護者は日常生活にどの程度関心を持っているか」「怒ったときに我慢できるか」など約80問を尋ねた。
その結果、暴力は35.2%、器物破損は29.4%、いじめは17.2%が「1回以上行ったことがある」と答えた。「週2〜3回以上」と答えた生徒も、暴力で4.2%、器物破損で1.2%、いじめで1.7%いた。
次に、これらの問題行動が「親とのコミュニケーション」「道徳観」「学校生活への適応」などの要因と、どのように相関しているかを分析。最も相関が高かったのは「問題行動をする友人の数」で、悪友が多いほど自分も問題行動をする傾向があった。さらに「問題行動に誘われたときに断れる自信」「攻撃性や衝動性のコントロール力」などの心理的要因も関係が深く、「学校生活への適応」が続いた。「親とのコミュニケーション」や「道徳観」とは相関が低かった。
米国での調査では、親とのコミュニケーション不足が、友人や学校の影響と同程度に非行に関係していたという。安藤さんは「友人や学校生活の影響が大きいので、非行を防ぐには、友人に対する適切な自己主張や友人との葛藤(かっとう)の解決方法などを、学校で体験的に教えるのが有効ではないか」と話している。【西川拓】
▽少年犯罪や非行に詳しい福島章・上智大名誉教授の話 中学生は親離れが進み、友人や異性との関係の比重が大きくなってくる時期だ。最近の少年犯罪は共犯が多くなっていることからも、今回の調査結果はうなずける。今の子供は価値観や社会のルールなどを、親よりもテレビなどのメディアから教えられる。親が影響力を持つには、幼児期から密接な関係を築く必要があるのではないか。
学術研究というものは常に「そういう結果が出た」というだけのものであって、妥当性は別に検証されなければならない。平たく言えば正しいかどうかは別問題だということである。
人間の心に関することは常識的な勘とそうずれていいはずはない。
問題行動と道徳観の間にほとんど相関がないとしたら、親は躾けというものをまったくしなくて良い、親とのコミュニケーションも関係ないなら、親は子どもの単なる給餌係でいいということになってしまう。
はたしてそんなことがありうるのか?
もっとも相関が高かったのは「問題行動をする友人の数」で、悪友が多いほど自分も問題行動をする傾向があった。
ばかげた話だ。
ガリ勉の友だちはガリ勉にしか勤まらない。
遊び人の友だちは遊び人にしか勤まらない。
同じように問題行動を起こす子どもの友だちは問題行動を起こすような子どもにしか勤まらない。
生活のパターンもサイクルも異なる二人が、友だちとして行動を共にするのはほとんど不可能なのだ。
つまりこの相関、悪い友だちが多いから問題行動を起こすのではなく、問題行動を起こすような子だから悪い友だちが増える、それだけのことなのだ。
さて、親の接する態度が悪いのではない、親が生きながら教える道徳観(躾け)が問題なのでもない,悪いのはとにかく友だちなのだという、いかにも親たちに都合の良いこの研究、・・・・・・ここまで親の存在を否定しつくすと
非行を防ぐには、友人に対する適切な自己主張や友人との葛藤(かっとう)の解決方法などを、学校で体験的に教えるのが有効ではないか
ということになる。
親たちはどこまでも無為無策でいいのだ。
いかにも読者のおもねるマスメディアが、勇んで飛びつきそうな研究ではある。
あきれた。
2005.07.14
義務教育を4・3・2年に 来春から東京・品川区
[共同通信 7月13日]
東京都品川区教育委員会は13日までに、すべての区立小中学校計58校で2006年度から、義務教育を4年間(小1−小4)、3年間(小5−中1)、2年間(中2−中3)に分けた教育カリキュラムを導入することを決めた。
中学進学で学習内容や生活指導が変わり、子供たちが戸惑うケースが目立つためで、区教委は「特に小5−中1への指導を工夫したい。市区町村単位でこうした取り組みをするのは珍しいのではないか」としている。
区教委によると、最初の4年間は基礎教育期間とし、国語と算数の授業を増やす。英語教育も小1から行う。次の3年間は、中学校のように教科担任制を導入、子供たちの個性や能力に応じた教育を進める。
義務教育9年間を6−3とは異なった分け方をしようという考えはいくつかあった。その多くは5−4の二分割であったが、4−3−2という三分割は初めてのように思う。後半の3−2は別にしても、小1から小4をひとくくりにするという考え方には賛成である。
小5〜小6年生はどう見ても中学校のくくりの中に入れるのがふさわしく、あれほど身体の大きな子たちが小学校1年生と同じ場所にいること自体が不自然なのだ。それについては心理学的な裏づけもある。
私個人は4−5でも良いと思っているが、4−3−2という分け方はさらに馴染む。4年生までは「子どもの学校」、小5・小6・中1が「学習の学校」、中2・中3が「受験生の学校」と言えばピンとくるだろう。
しかし問題はキャパである。
5−4制にしても4−5制にしても、中学校の教室を増やして1学年分(あるいは2学年分)の生徒を小学校から中学校に送ることを考えている(4−5よりも5−4の考え方のほうが一般的なのは、「2学年分も中学校に上げられない」という純粋に物理的な問題があるからだ)。それが三分割となると校舎の配分はどのようにするのだろう? まさかカリキュラムの変更だけで小5・小6は小学校に残り、中1も中学校に通う、ということではないと思うが・・・。
品川区には品川区の特殊な事情があるのかもしれないが、注目してよいことである。
2005.07.19
公立中、英語で授業は4%だけ…文科省の目標に遠く
[読売新聞 7月18日]
英語の授業の大半を英語で行っている公立中学校は約4%にとどまり、「授業の大半を英語で行う」とする文部科学省の目標に遠く及ばないことが、同省の調査で分かった。
また、ビジネス界で英語力の指標とされる「TOEIC」で730点以上の英語教員は、中学で1割、高校で2割にも満たず、英語教育のお寒い実態が浮き彫りになった。
調査は今年2月、全国の公立中学校約1万200校と、公立高校約3800校を対象に実施した。授業での英語の活用実態を調べたのは初めて。
それによると、中学校で「英語授業の大半を英語で行っている」のは、1年3・9%、2年3・7%、3年4・0%。「英語を用いるが、半分かそれ以下」が各学年とも6割を超え、「半分以上は用いる」学校も約3割にとどまった。
一方、高校では、国際関係の学科を除くと、通常は1年で学習する「英語1」の授業を「大半は英語で行っている」学校は、わずか1・1%。聞くことや話すことを重点的に学ぶ「オーラル・コミュニケーション1」の科目でも、25・1%にすぎなかった。
さらに、中学の教員約1万9200人と、高校の教員約1万9600人に、TOEICやTOEFL、英語検定などの受験状況を聞いたところ、受験経験がある英語教員は、中学、高校とも半数以下。多くの企業で“英語ができる”目安とされる「TOEICで730点以上」(通常会話が完全に理解でき、応答も早いレベル)だったのは、中学で8・3%、高校で16・3%。また、英検の準1級以上も中学で10・1%、高校で19・6%だった。
英語教育を巡っては、国際化の進展に対応するため、2002年度導入の学習指導要領から、コミュニケーション能力の育成に重点が置かれ、03年3月には、文科省が「英語が使える日本人」を育てるための行動計画を策定。
08年までの5年間で、中学を卒業すれば誰もが英語であいさつや応対などができ(英検3級程度)、高卒段階では日常的な話題について英語でコミュニケーションをとれる(英検2級〜準2級程度)ようにするため、中学、高校の英語授業の大半を英語で行うことを目標に掲げた。
これを受け、一部の自治体では、英語教員を対象に英会話や英語での討論などの研修をしたり、公費で外部の英語試験を受けさせたりしている。さらに、文科省指定の「スーパー・イングリッシュ・ランゲージ・ハイスクール(英語教育重点高校)」では、英語だけで生活する合宿を行ったり、洋画を教材に英語を学ばせたりするなどの試みも行われている。
今回の調査結果について、文科省は「英語教員の語学力、指導力がともに不足しているため」と分析。地域の英語教育のリーダーになれる教員を育成するため、各地の教育委員会と大学が連携し、実践授業の研究などのワークショップを開催する事業を新たに始める。
英語の授業の大半を英語で行っている公立中学校は約4%にとどまり、「授業の大半を英語で行う」とする文部科学省の目標に遠く及ばない
それはそうだろう。
大量の日本語で補足しても容易に理解されない英語の授業、大半を英語で行ったら大変なことになるという考え方は誰もしないのだろうか? それが
今回の調査結果について、文科省は「英語教員の語学力、指導力がともに不足しているため」と分析。
とにかく教員を叩いていれば世間が納得する、というやり口の典型である。どうしても英語だけで授業をしたいのなら、日本語のできないアメリカ人でも教師にしておけば良いのである。
第一、英語がなぜそれほど必要なのか、それが私には分からない。
私自身は英語が全くダメだが、大学入試を終えて以来、英語で困ったことは一度もない。
普通の意味では全く必要のない英語を、高卒段階では日常的な話題について英語でコミュニケーションをとれる(英検2級〜準2級程度)ようにする
それは実に恐ろしいことである。
考えてみるがいい。私たちは日常、どんなことを話題に話しているか。
学校で起こった全てのことについて、テレビを見ながらイチローの成績について。郵政民営化はどうなるのか、インド洋の津波の後始末はどうなっているのか、北朝鮮の核問題・拉致問題はどうなっていくのか・・・それが日常会話である。そうしたことについて英語でコミュニケーションできるのようになるのはどれほど大変なことか! (私はかつて地方の航空管制官と話したことがあるが、「英語、大変でしょう?」と訊ねたら「話すことは決まってますから・・・」という返事だった。日常会話に比べたら、専門英語の方が楽な場合はかなりある)。
きちんとした日本語のしゃべれない子どもがこれだけ増えている中で、「英語が使える日本人」を育てるための行動計画を策定というのはどういうことか。かつて、明治時代には国字をなくし、すべてローマ字表記にしようと考えた人々がいたが、文科省はまさか本気で英語を日本の公用語とする気でいるのではないだろう。しかしそれにしても恐ろしいことである。
日本語を守れ!
2005.07.25
学力:朝食を食べるとアップ! 授業に意欲的、
栄養でもプラス−−小林市教委 /宮崎
[毎日新聞 7月23日]
◇小中学生対象に調査
小林市教委が市内の小中学生を対象に実施した「学力と生活習慣・食習慣・学習習慣に関する調査」で、朝食を毎日取る児童・生徒の学力は取らない子供に比べて高い傾向にあることが分かった。市教委の委嘱で調査した市立小・中学校教頭会は「朝食を取ることで1日のリズムができ、授業に意欲的に取り組める。栄養面でもいい作用が考えられる」と分析している。【木元六男】
同市を含む西諸地域は04年度の県基礎学力調査で低位にランクされ、学力向上が課題。調査は市内の小学6年と中学3年の計876人にアンケートし、その結果をそれぞれの学力調査の得点と突き合わせて分析した。
朝食を「毎日食べる」と答えた小学生の平均点は74・5点、中学生は57点。朝食の回数が減るにつれて得点も低くなり、「食べない」と答えた小学生は43・6点、中学生は39・4点。教頭会は「食べない児童・生徒の学力は明らかに低下している。毎日朝食を食べることは学力向上につながる」と総括した。
調査では、学力の高い中学生の睡眠時間は6〜7時間、9時間以上寝る生徒の得点は低い――などの実態も分かった。
佐藤勝美教育長は「学力向上には学校の指導力と並んで家庭の教育力も必要。調査結果を市民に公開して学力向上につなげたい」と話している。
これは朝飯を食べれば成績が30点も上がる(小学校)という話なのだろうか?
そんな単純なことなのか?
「朝食を取ることで1日のリズムができ、授業に意欲的に取り組める。栄養面でもいい作用が考えられる」
それもひとつの判断だが、朝飯を食べさせずに学校に平気で送り出す家庭で、子どもたちがどういう養育・教育を受けているのかを考えると、背筋が寒くならないいか?
一度口に出して言ってみるがいい。それは、
「育ち盛りの小中学生が、朝飯も食べずに登校することが平気な家庭」
なのだ。人間としてもっとも基本となる食事についてその程度の家庭が、勉強というより高次の活動に丁寧な指導をしているはずがない。それが30点の意味だ。
「学力向上には学校の指導力と並んで家庭の教育力も必要」
佐藤教育長よ、それはないだろう。
そもそも能力の限界まで成績を延ばせるのはどういう子なのか考えてみるといい。
例えばそれは教師の言うことを素直に聞ける子である。素直に聞いた上で必要とあれば正式な手続きを経て批判できる子である。
例えばそれは集中力のある子である。いやなことにもじっと耐え、思いを凝らすことのできる子である。
計画性のあること、好き嫌いを言わず必要なことを迷わず行えること、忘れ物をしないこと、精神が安定し容易にふらつかないこと、志が高く目的追求力も高いこと、とりあえず授業時間いっぱいを席についていられること・・・・・・etc,etc・・・・・・・
それは本質的に家庭で創ってこなければならないことだ。
6歳になってからでは遅すぎる。
しかし佐藤教育長に言わせると「家庭の教育力も必要」といった程度でいいのだ。
ホントウか?
2005.07.30
隣接校選択制度・まず児童の意思尊重が大切
[琉球新報 7月30日]
那覇市の市立小学校全36校で2006年度から、隣接校選択制度が県内で初めて導入されることになった。現行の指定校に加え、隣接2―8校の中から入学する学校を選択できるようになり、指定校よりも別校区の学校が近いケースへの対応も可能となる。制度導入に当たって、那覇市教育委員会が強調したように、より安全な通学路を確保することができ、選択の幅が広がるなど児童や保護者にとってメリットがある。
ただし、希望者全員が隣接校に入学できるわけではない。それぞれの学校に受け入れ定員があり、それを超えると抽選となる。ここで懸念されるのは、入学のための競争が過熱しないか、ということである。学校によっては、人気が高く希望者が殺到する可能性もある。抽選になるとはいえ、要望が強ければ強いほど、漏れた場合、児童、保護者とも精神的なショックを受けかねない。
さらに希望者数の比較で、学校の人気度が測られてしまうのではないかという見方もある。人気の高い学校はさらに評価を高めるだろうし、その逆でイメージを損ねる学校も出てこないとは限らない。市教委は、これらの点を十分に注視する必要があるだろう。これらは現行制度では起き得ないことで、新たな対応が必要となる事態も想定されるのではないか。
隣接校選択制度の導入を答申した同市立学校適正規模等審議会は審議をするに当たりアンケートを実施したが、対象保護者のうち64%が賛意を示した。反対は5%、29%は「分からない」という答えだった。過半数の保護者が校区の弾力化を受け入れている。
市教委や学校、保護者は、懸念される点に注意深く対応しつつ、制度のメリットが最大限に引き出されるよう努力しなければならない。
とりわけ大切なのは、児童の意思を尊重することだろう。選択の幅が広がったことで、保護者の考えを押しつけることがあっては、好ましくない結果を招きかねない。まず前提に置くべきは、児童の意思であることを、しっかり確認しておきたい。
隣接学校選択制について、
私は案外穏やかな反応しかないのではないかと思っている。
学校によっては、人気が高く希望者が殺到する可能性もある。抽選になるとはいえ、要望が強ければ強いほど、漏れた場合、児童、保護者とも精神的なショックを受けかねない。
こういうことが起こるのは、学校の教育課程が極端に異なり、一方が極めて厳しい受験体制を築いているとか、他方がシュターナー教育のような独自の方法によっているとか、そういった決定的な差がある場合だけである。いかに特色ある学校づくりとはいえ、北は北海道から南は沖縄まで同じ指導要領に縛られている日本の学校では、右も左も大同小異であろう。
今A小学校が荒れていてB小学校は平和だといっても、4年後・5年後は分からない。混乱を避けて遠いB小学校を選べば数年後にバカを見る、そういうことだって大いにありそうである。
学校の様子が似たり寄ったりだとすると、違うのは何か?
それは通学距離そのものである。
小学校の通学区というものは必ずしも距離によって決められているのではない。その時々の歴史的経緯があり、極端な場合は30分も歩いて自宅に帰ると目の前に隣接の小学校がある、ということもあり得るのである(実際、私は見たことがある)。
保護者の求めているのは、基本的にはこうした極端な状況の是正であって、琉球新報の考えるような「よりよい学校を求めて」ということではないだろう。新制度発行とともに起こるのは、A小学校区の片隅の児童がごそっとB小学校に移動する(それもご近所と話し合って)、といった程度のものであると思う。
まだまだ日本の保護者たちは健全な考え方をしているはずである。
しかしそれにしても
とりわけ大切なのは、児童の意思を尊重することだろう。選択の幅が広がったことで、保護者の考えを押しつけることがあっては、好ましくない結果を招きかねない。まず前提に置くべきは、児童の意思であることを、しっかり確認しておきたい。
とは、恐るべきお子様教である。
6歳の子どもの意思を尊重し、つまり責任を負わせるということが果たして人間的な行為だろうか?
学校でのさまざまな問題に子どもが打ちひしがれそうになったとき、
「お前が決めた学校じゃないか」
親はそう言い得る・・・それが素晴らしいことなのか?
私だったら6歳児のあるべき姿は自分が決める。
決めた上で(決めたからには)、私が全幅の責任をもって子どもや学校にあたる。それでいいのだ。