キース・アウト
(キースの逸脱)

2005年8月

by   キース・T・沢木

サルは木から落ちてもサルだが、選挙に落ちた議員は議員ではない。
政治的な理想や政治的野心を持つ者は、したがってどのような手段を使っても当選しておかなければならない。
落ちてしまえば、理想も何もあったものではない。

ニュースは商品である。
どんなすばらしい思想や理念も、人々の目に届かなければ何の意味もない。
ましてメディアが大衆に受け入れられない情報を流し続ければ、伝達の手段そのものを失ってしまう。

かくして商店が人々の喜ぶものだけを店先に並べるように、 メディアはさまざまな商品を並べ始めた。
甘いもの・優しいもの・受け入れやすいもの本物そっくりのまがい物のダイヤ
人々の妬みや個人的な怒りを一身に集めてくれる生贄
そこに問題が生まれれば、今度はそれをまた売ればいいだけのことだ。















 

 

2005.08.06

外食、菓子産業が子どもに食育授業 企業任せ教師に人気


朝日新聞 8月6日]


 

 外食や菓子メーカーが、子どもを対象にした食の教育(食育)の出前授業に相次いで乗り出している。授業を通じて「健康に悪いジャンクフード」というイメージを変えるのが狙いだ。総合学習のテーマ選びに悩む学校側が飛びついているが、専門家からは「内容が偏らないよう、教師がきちんと授業を取り仕切る必要がある」との指摘も出ている。

 「スナック菓子は体に悪いと目の敵にされますが、量と時間を守れば、食べていけない食品などありません」。今月2日、東京都八王子市教育委員会の教員研修会。100人を超す教師を前に、カルビー広報の麦田裕之マネジャーは力説した。

 模擬授業では、アニメビデオを見たり、スナック菓子をはかりに載せたりして「ポテトチップスも1日に小袋(35グラム)なら食べてもいい」と説明し、スナック菓子も配った。

 カルビーは03年から小学生を対象に出前授業「スナックスクール」を始め、今年度からは全国に拡大して年160校での実施をめざす。

 日本マクドナルドは7月、自社のホームページに「食育の時間」というサイトを開設。9月からは全国の五つの小中学校に社員が出向き、出前授業をする。ハンバーガーなどを例にした栄養素の分析がテーマ。同社は「バランスがとれていればファストフードを食べても問題はない」と説明する。

 モスフードサービスも10月ごろから全国の小学校でハンバーガーを実際に作るなどの体験型出張授業を始める。

 各社の力が入る背景には、健康意識の高まりに伴う、ファストフードやスナック菓子の販売不振がある。「食育」でイメージを改め、長期的な消費の底上げを期しているわけだ。受講した小学校からは「食育でメーカー側の考えを聞く機会は少なく、意義があった」と歓迎する声もある。

 半面、教師の側が「企業にお任せ」という手軽さにひかれている面もある。総合学習の導入で、教える内容に現場の裁量の幅が広がったが、実際にはテーマ選びに苦労する教師が多いためだ。

 ある教師は「教材一式を用意してもらい助かった。外部の人が参加すると、子どもが授業に集中する」と話す。

 高知大学の針谷順子教授(食物学)は「企業側は『食べ過ぎなければいい』と考えるが、子どもはこうした食品を一度食べたらやめられなくなる。仮に出前授業を受けるにしても、教師が別の考え方も紹介するなど適切に仕切らないといけない」と指摘している。


 うっかりマスメディアに授業を公開するとこういう書き方になるから困る。取材された学校も、まさか企業任せ教師に人気というタイトルで紹介されるとは思わなかったろう。学校をメディアに開放していいことはないという絶好の例である。

 いったい今の時代、ファーストフードの是非を論じて、非となれば日本全国から排除するといったことが可能なのだろうか? 私自身は、ファーストフードはもはや生活の一部であり、問題はそれとどう付き合っていくかだと思っている。
 しかし朝日には朝日なりの考えがあるのであろう。あえて、
企業側は『食べ過ぎなければいい』と考えるが、子どもはこうした食品を一度食べたらやめられなくなる。
という針谷順子教授のコメントを載せる以上、朝日はそれを食べること自体に異論があるらしい。

 日本の食品産業のすべてを敵に回してもファーストフードの非を打ち鳴らそうという朝日の態度、潔しである。
 今後に注目しよう。







2005.08.10

指導力不足、最多566人=昨年度、教員377人が研修−文科省


時事通信 8月9日]


 授業や生徒指導をめぐり、都道府県・政令指定都市の教育委員会から「指導力不足」と認定された公立学校の教員が、昨年度は全国で566人に上ったことが9日、文部科学省のまとめで分かった。2003年度より85人増加し、過去最多だった。
 同省は「各教委の認定制度への取り組みが強まった結果、報告数が増えた」としているが、適格性を欠くとの報告は後を絶たず、「教師の質」が改めて問われる結果となった。
 指導力不足の教員は全国60の教委が独自の判断で認定し、基準は一律ではない。昨年度は前年度からの継続も含め、58教委で566人が認定された。新規認定は282人だった。都道府県別でみると、神奈川県が54人でトップ。2位は福岡県で48人、3位は千葉県で33人、4位は広島県、三重県で各25人。長野県、さいたま市では、「候補者」はいたが、認定はなかった。年代別にみると、20代1%、30代15%、40代50%、50代34%だった。40、50代は構成比も高いが、同省は「現代の子供についていけない面もある」とみている。校種別では、小学校が49%と半数を占め、以下は中学校28%、高校15%、特殊教育等8%の順だった。
 指導力不足が理由で、現場を離れて研修したのは377人。うち93人が依願退職し、127人が現場復帰した。


 この記事の問題性は次の部分である
2003年度より85人増加し、過去最多だった。
同省は「各教委の認定制度への取り組みが強まった結果、報告数が増えた」としているが、適格性を欠くとの報告は後を絶たず、「教師の質」が改めて問われる結果となった。
という部分である

要するに、
文科省はいろいろ言っているが、実際に適格性を欠くとの報告が増えているじゃないか、「教師の質」について、やはり問題にすべきだ
ということなのだろう。

 ところが同じ問題について、同じ日の朝日新聞を見ると次のようなくだりがある。


 都道府県と政令市の計60教委を対象に調査した。指導力不足を認定する「人事管理システム」の運用を一部の教委が始めた00年度には65人だったが、全教委でシステムが整った04年度は566人。

つまり、各教委の認定制度への取り組みが強まったというのは、それまで「人事管理システム」を運用していなかった教委も加わって全教委でシステムが整ったので報告数が増えたということなのだ。別に2003年に比べて、「教師の質」が更に落ちたというわけではない。

そうした筋の通った事情も省みず、
じゃかーしい! 増えてるモンは増えてるモンだろう! つべこべ言わず、「教師の質」が落ちてることを認めたらどーなんじゃ!
というがごとき時事通信。見識を疑う。








2005.08.11

[指導力不足教員]排除だけでは向上しない

沖縄タイムス 8月10日]


 子どもと人間関係が築けない、授業が成り立たないなどとして、2004年度に「指導力不足」と認定された公立の小中高校教員が、566人と過去最多となった。

 最終的な認定を前に退職した教員も78人おり、一年間の「試用期間」を経て正式採用とならなかった新任教員は前年度の111人から191人に急増した。

 「教員の質」をめぐる問題が深刻だ。

 急増の背景には、教育委員会の認定が厳しくなったことがある。それは取りも直さず、学校や教員に対し“チェック”を強める保護者を意識してのことだ。

 先生の話を聞く姿勢が薄れるなど、子どもの側の変化を、指導方法が追いつかない理由とする声もあった。問われているのは教員の資質であり、プロの教師として腕を磨く努力を怠ったことを言い訳にしてほしくない。

 教員に必要な資質には、教科の専門知識や技能といった指導力のほか、仕事に対する使命感や責任感、子どもとのコミュニケーション能力がある。

 研修などによって、授業の腕を上げるのは比較的容易だが、コミュニケーション能力が欠けている教員への対処は難しいという。

 インターネットや携帯電話の普及で子どものコミュニケーション能力が問題となる中、指導する側にその能力がないというのは危機的ですらある。

 指導力不足教員の増加に伴い、今月初め、中教審のワーキンググループは、教員免許更新制を導入することを決めた。新たに免許を取得する人に十年ごとの更新を義務付けるもので、その際、教員としての適格性や専門性を判断する。

 更新制が評価の物差しとなり、現場に緊張感を与える効果はあるかもしれない。しかし、研修を受けた指導力不足教員の三分の一しか翌年復帰できていない現状を考えると、屋上屋を架す制度が、教員の質の向上に直結するかは疑問だ。

 「教科の知識や指導法を深める時間がない」という現場の不満をよく聞く。

 次々と打ち出される教育改革に振り回される教員の実態を理解した上で、学級規模、子どもの変容などを総合的に検討していく必要があろう。

 新学年を迎えると子どもや親たちは、今年の先生は「当たり」「はずれ」と一喜一憂する。人生の基礎を築く大事な時期に当たり、はずれがあっていいわけがない。

 教員採用や大学での教員養成の在り方までさかのぼり、教員の質にこだわりたい。



先生の話を聞く姿勢が薄れるなど、子どもの側の変化を、指導方法が追いつかない理由とする声もあった。問われているのは教員の資質であり、プロの教師として腕を磨く努力を怠ったことを言い訳にしてほしくない。
厳しい言い方である。

私の方も新聞記者諸君に言っておこう
活字離れが進むなど、読者の側の変化を、新聞の購読者数が伸びない理由とする声もあった。問われているのは新聞の質であり、プロの編集者として腕を磨く努力を怠ったことの言い訳にしてほしくない。

さて、それは別として、

 更新制が評価の物差しとなり、現場に緊張感を与える効果はあるかもしれない。しかし、研修を受けた指導力不足教員の三分の一しか翌年復帰できていない現状を考えると、屋上屋を架す制度が、教員の質の向上に直結するかは疑問だ。
これはなかなか鋭い指摘である。
残りの三分の二は結局どうなっていくのだろう?
私は結局、この人たちに教員は無理なのかもしれないとも思う。566人といえば全小中高教員の0.06%である。どんな職業であっても、どうしても向かないという人はその程度はいるはずだ。そう思うが、どうだろうか。

ところで、
 研修などによって、授業の腕を上げるのは比較的容易だが、
とのたまう沖縄タイムス。
 
その研修で上げた腕をもって、道徳やら特別活動の時間を利用して、子どもを育て上げれば何の問題もないと思うがどうか?
 授業の腕を上げるということがどれほど困難なことか、素人には分からないのかもしれない。









2005.08.13

社説 不登校減少・まだ12万人余もいる

琉球新報 8月12日]


 2004年度に年間30日以上欠席して「不登校」とされた小中学生は、前年度より約3千人減少し、約12万3千人だったことが分かった。文部科学省の調査だ。
 3年続けての減少で、児童生徒全体に占める割合も減った。県内でも5年連続で減少した。文科省は「適応指導教室を充実させた成果が表れたと考えられる」と分析するとともに、「依然として不登校は12万人に上っており、教育上の深刻な問題」としている。
 さまざまな対策が奏功し、子どもを学校に向かわせ、不登校が減少したのは喜ばしいことだし、成果には一定の評価をしたい。
 ただ、文科省も指摘しているように、まだ12万人もの児童生徒が学校に行くのを拒んでいる実態は重く受け止める必要がある。なぜ、登校を拒むのか。より深く実態を調べ、それぞれの子どもに即した対応策を考えたい。
 病気や経済的理由を除いた不登校は、中学生が37人に1人、小学生は309人に1人の割合。中学生は1クラスに1人の不登校生がいる計算だ。不登校状態になった理由は友人関係など学校生活によるものが36・2%に上った。
 これら不登校生に対して、学校側は、電話をかけたり迎えに行ったり、家庭訪問してさまざまな相談に乗るなどの対策をとっている。
 県内では、不登校対策として、宿泊体験学習を行い、豆腐づくりや星座観察、イモ植えなどを通して子どもの心を開くように努めた例がある。学校カウンセラーが生徒の相談に乗ったり、教職員や保護者に助言を与えたりもしている。児童委員が不登校児童の家庭を訪問し、保護者と信頼関係を築いた結果、不登校がゼロになったという事例もある。
 こうした試みによって子どもが心を開き、学校に行って勉強したり、交友関係を築くようになるなら継続したい。
 ただ、不登校の子どもを、無理やり学校に戻すことがあってはならない。嫌がるのを強引に登校させようとすると、逆に、ますます学校に行くのを拒否することも多い。「休む」ことで救われる子どももいるので、休ませないのが一番いいという方針で対応するのはやめた方がいい、と指摘する心理カウンセラーもいる。
 同じ年代の子どもたちと一緒に勉強や遊び、部活動などさまざまな場面で接し、互いに刺激し合いながら成長するのが一つの望ましい像だろう。しかし、どこかでうまくいかないから不登校につながることもある。
 子どもが学校で勉強したい、友人と接したい、そう思わせる環境づくりに努めたい。学校、家庭、そして地域を含め、細やかな配慮が求められる。



マスメディアの強制嫌いにもほどがある。
「休む」ことで救われる子どももいるので、休ませないのが一番いいという方針で対応するのはやめた方がいい、と指摘する心理カウンセラーもいる。
確かにそういうカウンセラーもいる。しかし他方、
子どもが休みたいと言ったら様子を見ましょう。しかし絶対に休ませてはいけない、遅刻してでも、たとえ5分間でも登校させて下さい
と言う心理カウンセラーだっているのだ。

どちらに従うべきか。
もし学校がリスクを回避したいなら、当然前者の指示に従うべきだろう。万一登校を促して
逆に、ますます学校に行くのを拒否するようになり、責任を追及されたらかなわないからである。そうした対応が過去10年間、不登校を増やすのに力を貸してきたのは、歴然とした事実であろう。

時代は変わって、
これら不登校生に対して、学校側は、電話をかけたり迎えに行ったり、家庭訪問してさまざまな相談に乗るなどの対策をとっている。
といったふうに手変え品変え、さまざまな方法を使って子どもの登校を促すようになった。その結果、
 さまざまな対策が奏功し、子どもを学校に向かわせ、不登校が減少したのは喜ばしいことだし、成果には一定の評価をしたい。
と言われるまでになった。
 しかし琉球新報は基本的にそんなことが大嫌いなのだ。

 子どもが学校で勉強したい、友人と接したい、そう思わせる環境づくりに努めたい。

 不登校の児童生徒を放ったらかしにして、学級の環境を一生懸命整えていればいい。しかしそんなふうに静かに待っているうちに1年2年はすぐに経ってしまい、やがて卒業を向かえその子の不登校は学校の問題でなくなってしまう。学校に甘く、子どもに辛いやり口である。







2005.08.18

横浜市教委が決定、校舎のガラス故意破損は親が弁償

読売新聞 8月18日]



 学校の校舎などが壊される件数が急増していることから、横浜市教育委員会は、児童や生徒が学校の窓ガラスやドアなどを故意に破損させた場合、原則として保護者らに修繕費用の負担を求めることを決めた。

 人間関係のストレスなどから「物に当たる」ケースが増えたとみて、自己責任を認識させ、規範意識を育てるのが狙い。こうした弁済制度は政令市では初めてといい、計509の市立小中高校を対象に今年度中に制度化したい考えだ。

 市教委小中学校教育課によると、2003年度に市立小中高校でトイレの扉が壊されたり、修繕が必要なほどの落書きをされたりする器物損壊は890件と、前年度より51%増えた。

 市教委が小中学校各39校を任意で選び、故意に物が壊された場合にどう対応しているか調べたところ、「教育的配慮から」「故意に破損させたとは限らない」などの理由で、小学校では約8割の32校、中学校でも7校が児童・生徒や保護者らに負担を求めていなかった。

 一方、弁償を求めている学校では、保護者に弁済を求めると同時に、小遣いから費用を親に返済させるなど児童・生徒を指導し、教育効果を持たせる工夫をしていることもわかった。

 市教委は、「人間関係の不満やストレスを物にぶつけたり、遊び感覚で安易に物を壊したりするケースが多い。事務的に弁済を求めるのではなく、家庭との連携を図りながら児童・生徒に自覚を促していきたい」としている。



これを記事にしながら、記者はどういうことを考えているのだろう? 分かりにくい文である。

さて、それはさておき、
市民の税金によって運営される学校で、
小学校では約8割の32校、中学校でも7校が児童・生徒や保護者らに負担を求めていなかったという、こちらの方に驚いた読者も少なくなかったのではないか。

一般に
他人の物品を故意に破壊して弁償を求められない世界がどこにあるのか? 故意でなくても、事故であっても弁償するのが一般社会の常識である。それを
「教育的配慮から」「故意に破損させたとは限らない」
といったわけの分からない理由で、弁償させずに済むのは学校だけである。

なぜそんなことになるのかと言うと、要するにそれは「器物破損を阻止できなかった教師の側の責任」が追及されかねないからである。

教師は児童生徒に対して万能であり、子どもに何か問題があるとすれば、その万能の力をきちんと使わなかった教師が悪いのだという信仰がある。そうしたカルトの世界では、一般常識など通用しない。

教師はしばしば世間知らずだと言われる。
「器物破損には弁償を」という当然の社会常識を入れることは、そうした教師のあり方にも変化をもたらすかもしれない。
どしどしやってもらいたいものである。


2003年度に市立小中高校でトイレの扉が壊されたり、修繕が必要なほどの落書きをされたりする器物損壊は890件と、前年度より51%増えた。驚くべき増加量のようにも見えるが、そんな異常なことはそうは起きない。この数字、おそらくは横浜市教委が「子どもを原因とする器物の損壊については、すべて報告せよ」と求めたからだ。トイレのドアの破損など、よほど集中的に何枚もやらない限り、普通は教委に報告などしていない。
 統計的な異常があるとき、まず疑うべきは「基準が変わったのではないか」ということである。









2005.08.19

学校での清涼飲料販売を制限 米飲料協会、肥満に配慮

朝日新聞 8月18日]



 米国の飲料業界団体「米飲料協会」(ABA)は17日、子どもの肥満への配慮として、学校で販売する飲み物を自主的に制限する方針を発表した。米国では太りすぎの子どもが900万人いるとされ、公立学校から炭酸飲料やジャンクフードを締め出そうという動きが各地で起きている。

 ABAの対応は▽小学校=水と100%ジュースのみ販売▽中学校=授業時間内はこれらのほかスポーツドリンクやカロリーを控えた「ダイエットタイプ」の飲料のみ販売▽高校=販売する飲み物を多様にし、炭酸飲料は半分以下に抑える――というもの。ABAによると、加盟社は米国で売られる酒類以外の飲料の95%以上を製造・販売している。

 スーザン・ニーリーABA会長は「健康で活動的な子どもは清涼飲料やジュースを楽しんでいいはずだが、学校で小さな子どもが何を買うかを心配する親の気持ちは理解できる」として、協会としても子どもの肥満対策に取り組む責任があると表明した。


どうでもいいような記事であるが、常に日本が手本としてきたアメリカの教育について、私たちはもっと勉強しておく必要があろうと思って取り上げた。

 例えば、アメリカという国は教授が一人もいなくても大学が設立できる国である。そうした大学では、履歴書と論文そして数十万円という金さえ払えば学士号や修士号・博士号までも獲得できる。そんなアメリカで「大学の自己点検・自己評価」が必要なことは分かるが、そもそもの設立基準が異常に厳しい日本で、その制度をそのまま取り入れることに危険はないか?

 移民で成り立つアメリカは、初等教育において国語(英語)の読み書きのできない児童を大量に抱え込む国である。そうした国で流行する教育法を(ほとんど全員が本を読める状況で入学してくる)日本の学校に当てはめると何が起こるか、そういうことも考えていかねばならない。

 日本の教員の平均年齢が40歳を超えてしまったと最近評判になった。アメリカは44歳である。ベテランにしか教育という大切な仕事を任せない御国柄ということだろうか、それとも有能な若い人は教員などになりたがらない国なのか、そのあたりも知っている必要があるだろう。そうでないと、学校マネイジメント、学校評議員制度、教員評価などアメリカから直輸入された諸制度の意味がぼやけてしまう。

さて、
公立学校から炭酸飲料やジャンクフードを締め出そうという動きが各地で起きている。
である。
私たちは、そもそも学校に炭酸飲料やらジャンクフードがあったこと自体が変だと思う。水であろうとジュースであろうと、学校で販売すべきものではないと考える。しかし今や「日本の教育は崩壊に向かっている」(某評論家)のだそうだから、こうした点でもアメリカを学んでおかねばならないのかもしれない。










2005.08.21

夏休み 小学校も補習「日課」 
京都・市立の全校、最長21日間も


京都新聞 8月20日]



 京都市内では、夏休み中もすべての市立小学校で補習が行われ、児童が休み前までの授業を復習したり、宿題以外のドリル学習などに取り組んでいる。全員に参加を呼びかけたり、21日間も補習日を設けるなどさまざまだが、「夏休みも登校が日課」という子どもたちが今後、増えそうだ。
 右京区の花園小では、夏休み初日の7月25日から8月5日まで、補充学習クラスと、「すいすい教室」と名付けた自学自習クラスの二コースを設けた。
 補充学習クラスは、教師とともに夏休みまでの学習を復習する個別指導で、すいすい教室は、国語と算数の難易度別問題プリントを児童が自習形式で解き進める。向井純子校長は「夏にも子どもたちに学習の機会を与えたいと始めた。自由参加でも、全校児童の半数以上が参加している」という。同小は8月23−26日にも両クラスを開設する。
 市教委によると、補習をするか否かは学校判断だが、今夏はすべての小・中学校が補習を実施予定という。受験を控えた中学校での補習は一般的だが、小学校もここ2、3年は、全校挙げて夏の補習に取り組む学校が増えているという。
 小学校の中で、21日間という最も多い補習日を設けた伏見区の石田小には、土日曜とお盆の期間を除くほぼ毎日、児童が学校に登校する。「長い休み明けには、子どもがどうしても学習リズムをつかめない。確かな学力づくりに向け、正しい学習習慣を維持することが狙い」と平尾隆史校長は話す。
 市教委が実施した小学校へのアンケートでは、9割を超す学校が算数と国語を補習の対象教科にあげた。学校指導課は全校の補習実施を「学習内容が削減された新学習指導要領の実施以降、保護者の学力低下への不安が高まっているためでは」分析し、「夏休みを、基礎学力の定着を図る期間と位置づける学校は増える」と見ている。



京都というのは古い町の癖に妙に革新的なことをしたがる。昔からそうである。

さて、
夏休み中もすべての市立小学校で補習が行われ、児童が休み前までの授業を復習したり、宿題以外のドリル学習などに取り組んでいる。
学力問題の盛り上がりとともに当然予想された事態である。
土曜日の授業復活で得られる時間はせいぜいが100時間。夏休みをなくして21日間の授業を確保すればそれだけで126時間の時数増である。どうせ教員は学校に来ているのだ、無為に過ごさせることもないだろう、と誰かが思いついた。

もともと、子どもが40日も家庭にいることで本当に困っている家庭は山ほどある。彼らは学童保育に金を払って預けたり、不安を抱えたまま家庭に置いたりと、さまざまに苦労しながら40日間を過ぎしてきた。そうした親にとって、学校の補習授業は渡りに舟なのだ。
学校はサービス業、ニーズに応えるべきだという意味でも、夏休みの補習は今後も広がっていくだろう。

ただし、
自由参加でも、全校児童の半数以上が参加している
というのはいかながなものであろうか。
公教育は平等を旨としている。夏休みの補習に出られない子がいるという不公平は解消されなければならない。
したがって、夏休みそのものの廃止が望まれる。

(以上、必ずしも素直な発言ではない)








2005.08.25

全児童生徒対象に慎重論 学力テストで中教審部会

共同通信 8月24日]



 中教審の義務教育特別部会が24日開かれ、文部科学省が実施の方針を固めている全児童生徒を対象とした全国学力テストについて、委員から慎重論が相次いだ。
 発言したほとんどの委員は全国的な学力テストの意義を認める一方、調査対象を当該学年の全員とするか、一部の抽出にするかで意見が割れた。
 東大の苅谷剛彦教授は「国と地方の役割分担を考える上で、単一の問題を全国一斉にやらせることは、国の権限をどう強化する(結果になってしまう)のかという視点が重要だ」と指摘。全員調査については「サンプル調査の何倍もの金をかけて分析できる能力がどこにあるのか」と疑問を投げかけた。


この記事を理解するには、それに先立つ次の記事がなければならない。
<全国学力テスト>07年度から実施の方針 文部科学省
                            〔
毎日新聞 8月24日〕

 文部科学省は23日、中山成彬文科相が導入を表明していた全国学力テストについて、07年度から公立学校の小学6年生と中学3年生を対象に、1学期に実施する方針を固めた。教科は国語、算数(数学)などの主要教科に絞るとしている。実施の規模、公表の仕方などについてはさらに検討するが、過度の競争を招くとして廃止された全国学力テストが約40年ぶりに復活することで、現場の混乱も予想される。
 来年度は、試行テストとして抽出形式で行い、07年度は全員を対象にしたい意向だが、各教委の希望制とする案も浮上している。全員を対象とする場合、問題作成や採点など経費が数十億円規模に上るとの試算もあり、文科省は中央教育審議会での議論も踏まえ、慎重に検討するとみられる。
 実施時期については、小6と中3は受験時期にあたるなどとして、小5と中2を推す声もあったが、1学期に実施することで、小5と中2までの学習到達度をみるとともに、受験への影響も少ないと判断した。
 全国規模の一斉テストは1956年度に始まったが、学校間の序列化や過度の競争を招いたとして66年度に廃止された。80年代以降、抽出テストは実施されているが、中山文科相は昨秋の就任後、「もう少し競い合う心が必要だ」などと、全国一斉テストの導入を表明していた。
 つまり中山文科大臣の予告の通り全国一斉テストをやろうとしたところ、中央教育審議会の委員が否定的な意見を述べた、というのだ。
 否定の理由は、ひとつには「国の権限強化につながる」ということ、第二に「大変な金をかけて、悉皆テストにする必要があるのか」ということだそうだ。さて、しかしこの問題、そういう視点から見るべきものなのだろうか?

 私は、全国統一の一斉テストをやる以上は、それなりの覚悟が必要だと思う。
 ことはたかが数十億円の教育政策だが、その効果は今まであったどんな教育改革よりも、確実に日本の教育を転換してしまう。
しかも三年以内に決定的に変化するからである。

 全国統一学力テストは学校の教科指導における実力、教員の能力を完璧に計ってしまう。
 どんな校長も、自分の学校の成績が低いことに耐えられないだろう。保護者となればなおさらである。
 教師は………教師の方は、一部の奇特な人々を除き、これも一斉に走り始める。彼らは校長と保護者の圧力に耐えられない(それに耐えて自分流のやり方をするのが良いとも思わないが)。そしてそれ以上に、自分が他に大きく劣るということは受け入れがたいのである。
 日本の教員は今もなお優秀であり、確実にまじめな人々である。その教員たちが一斉に同じ方向に走り始めたら何が起きるか。

 「特色ある学校づくり」や「総合的な学習」「絶対評価」「生きる力」といったここ10年余り流行した教育上の概念は簡単に吹っ飛んでしまうだろう。不登校や非行に対する対応もこれまでと違ってくる。
 教師個人がどれほど誠実であろうとしても、数字というあまりにも明白なものは確実に教師を追い詰める。そしてその先に、追い詰められる子どもたちが生まれるのだ。

 だが、しかし必ずしも私はこれに不賛成ではない。
 学校は学力を伸ばすところだという明確な定義がなされれば、それはそれで分かりやすい。あとは子どもの心を誰が育てるのか、子どもの問題をどこで解決するのか、そうしたことを制度化すればいいだけのことである。もともと、ゆとりの中で心を育てながら学力を高めるということ自体が難しかったのだ。







2005.08.26

漢字習熟 大学1年 4割未満 中1生は正答率8割なのに

産経新聞 8月25日]



 中学生の漢字習熟度はまずまずだが、大学一年生では高校卒業程度の漢字テストへの平均正答率が四割にも満たないことが、文部科学省所管の財団法人「日本漢字能力検定協会」が初めて実施した「2005年漢字能力調査」で二十四日、明らかになった。
 調査は四−五月に実施。同協会の漢字能力検定(漢検)の過去問題をアレンジし、小学校卒業程度、中学校卒業程度、高校卒業程度の漢字習熟度を見る百二十題のテストを中学、高校、大学の新一年生と新卒の社会人合計八千三百六十五人にそれぞれ解かせた。
 平均正答率でみると、中学一年生が78・5%だったが、高校一年生59%▽大学一年生39・8%▽新卒社会人60・7%−と、学年が上がると正答率が下がる傾向がみられた。
 特に大学一年生は正答率が四割未満と最低。問題をみると「〇〇玉条」「〇〇妄動」「〇〇孤独」などの空欄に適切な漢字を埋め四字熟語を完成させる問題(正解は順に「金科」「軽挙」「天涯」)が14・5%と最も低く、文章中の「産業廃規物」「尽速かつ正確」「上司の維留」などの誤字を正しく訂正する問題(正解は順に「廃棄物」「迅速」「慰留」)も15%。
 「蓄積」「巧妙」「威圧」「詳細」「裕福」などの対義語を書き取る問題(正解は「消耗」「拙劣」「懐柔」「概略」「貧乏」)や、「輸送」「疎外」「無口」などの類義語の書き取り問題(正解は「運搬」「排斥」「寡黙」)も17・5%と特に低かった。
 同協会は「中学ではまずまずなのに、高校卒業程度の漢字力が十分に習得されていない。特に文章中で漢字を使いこなす力が弱く高学年ほど、漢字に接する機会が増えることを考えると憂慮すべき結果だ」と話す。




高校卒業程度の漢字テスト・・・漢字検定2級のことだろうか?
私は受けたことがある。

確かに出題される漢字は高校卒程度だが、その扱いは高卒程度ではない。実際今回のテストを見ても、
「蓄積」「巧妙」「威圧」「詳細」「裕福」などの対義語「輸送」「疎外」「無口」などの類義語を即座に書けることが高卒程度のことだろうか?「金科玉条」「軽挙妄動」「天涯孤独」……言われればそうだが、その場ですぐに思いつくものではない。
 受けてみればいいのだが、漢字検定2級、ものすごく難しいのだ。
(ちなみに、やってみたい人はコチラ。部首なんて信じられないほど難しい。)

「一次方程式の解ける中学生より、積分の解ける大学生の方がずっと少ない」
とか
「英語では1
00点を取る生徒は、中学生に比べて大学生の方がものすごく少ない」
そう言われれば驚くに値しないのに、
中学ではまずまずなのに、高校卒業程度の漢字力が十分に習得されていないと言われると怯えなければならない。
財団法人「日本漢字能力検定協会」に、まんまとはめられているようなものだ。
(参考書の代金の一部、「日本漢字能力検定協会」にまわってるんじゃないか?)