キース・アウト
(キースの逸脱)

2005年9月

by   キース・T・沢木

サルは木から落ちてもサルだが、選挙に落ちた議員は議員ではない。
政治的な理想や政治的野心を持つ者は、したがってどのような手段を使っても当選しておかなければならない。
落ちてしまえば、理想も何もあったものではない。

ニュースは商品である。
どんなすばらしい思想や理念も、人々の目に届かなければ何の意味もない。
ましてメディアが大衆に受け入れられない情報を流し続ければ、伝達の手段そのものを失ってしまう。

かくして商店が人々の喜ぶものだけを店先に並べるように、 メディアはさまざまな商品を並べ始めた。
甘いもの・優しいもの・受け入れやすいもの本物そっくりのまがい物のダイヤ
人々の妬みや個人的な怒りを一身に集めてくれる生贄
そこに問題が生まれれば、今度はそれをまた売ればいいだけのことだ。















 

 

2005.09.05

酒気帯び運転:懲戒免職、2元教員が不服申し立て 
人事委に「処分重すぎる」 /青森


朝日新聞 9月3日]


 酒気帯び運転で5月に懲戒免職処分になった県内の元教員2人が、「処分は重すぎる」として県人事委員会に不服申し立てをしていたことが分かった。県教委は03年度から「酒気帯びは原則免職」と定めており、10人が免職処分となっているが、不服申し立ては初めて。県教委は「処分は妥当だったと考えている」と話している。
 元小学校教頭の男性は4月の深夜、むつ市内の県道を酒気帯び運転し、検問にかかった。小学校の親ぼく会で飲酒し、帰宅するところだった。元中学校教諭の男性は3月の早朝、二日酔いの状態で藤崎町内の国道を運転。対向車とぶつかり、相手に軽いけがを負わせた。
 県人事委員会によると、元教頭は「ストレスがたまっていた」、元教諭は「二日酔いなのに処分は重すぎる」などと、不服申し立ての理由を話しているという。
 今年3月には酒気帯びで懲戒免職になった県職員が人事委員会に申し立て、処分が取り消されたことがある。教職員の申し立ては初めてだが、県教委は「教職員は、県職員よりも高いモラルが求められる。処分を軽減する理由はない」と話している。


 小泉首相の真似をして
「約四百年前、ガリレオ・ガリレイは、天動説の中で地球は動くという地動説を発表して有罪判決を受けました。そのときガリレオは、それでも地球は動くと言ったそうです。
 今、多くの都道府県教委では、
「教職員は、県職員よりも高いモラルが求められる。処分を軽減する理由はない」として「酒気帯びは原則免職」というようになっていますが、私は、もう一度皆様に聞いてみたいと思います。本当に教員は、たった一度の酒気帯び運転で懲戒免職にしなければならないのでしょうか。一人の人間とその家族を路頭に迷わすのに、酒気帯び運転は十分な理由なのでしょうかと。その求められる高いモラルに対応した高い地位や尊敬が与えられているとお考えでしょうか。このくらいまでやらないと、教員はどうしようもない人間たちだとお考えなのかと。以上です」








 

 

2005.09.13

教育改革「速すぎ」74% 小中学校教師調査

朝日新聞 9月12日]


 教育改革で「国の方針は一貫している」と答えた教員が4%、「改革はおおむね子どものためになっている」は18%、「改革のスピードがはやすぎる」は74%。全国の小中学校教師を対象にしたそんな調査結果が、8月末に東京で開かれた日本教育学会で発表された。現場の教師が国や自治体による改革に厳しい目を向けている姿が浮かび上がった。
 調べたのは東京学芸大学の陣内靖彦教授、同大の教員養成カリキュラム開発研究センターの金子真理子助教授ら。「ゆとり教育」の枠組みの中で学力対策を要求され、保護者や地域に説明責任を求められている教師の意識を描こうと企画した。

 この2、3月、全都道府県の小中学校教師約6000人に用紙を送り、約1600人が答えた。

 改革への意識や学校の様子などについて「とてもそう思う」「まあそう思う」など4段階で尋ねた。「とてもそう」「まあそう」と答えた合計だと、「事務処理の仕事量が増した」(91%)▽「教材研究をする時間が十分にとれない」(82%)▽「学校の説明責任が求められるようになった」(81%)▽「地域や保護者の学校への期待と、文科省や教育委員会からの要求との間で矛盾を感じる」(79%)―などが高率だった。

 一方、「区市町村の教育施策は学校の実情をよく理解している」は34%、「管理職の方針に教員が反対意見を述べることがある」が41%、「管理職が教委の方針に反対することがある」は10%にとどまっている。

 教育改革への考えを問うた自由記述を書いたのは約4割。「改革の度に学校や地域はふりまわされる。会議や多忙のため、子どもと接する時間が減った」「目に見える結果のみを重視し、冷たい教育になっていくようでこわい」などの声が寄せられた。

 「改革を進めるには、日頃子どもと接している教師の声を集め、生かす作業が欠かせない。だが、学校・教員評価を管理的に行うようになれば、教師が反対意見や提案を出すのはいっそう難しくなるだろう」と金子助教授は話している。

 今日の学校の困難のひとつは、
一貫しているとも子どものためになっているとも感じられない教育改革を、文科省や教育委員会からの要求との間で矛盾があると感じられる地域や保護者に対して学校の説明責任が求められるようになった(81%)故に説明しなければならないということである。

 およそ勉強が過剰とは思われない生徒を目の前にしながら、「子どもにはゆとりが必要」といわれる違和感。

 世界トップから4位に落ちたから学力が低下したと言われ、日本よりずっと格下のアメリカに学びながら、世界最強の受験大国シンガポール・韓国・台湾と勝負しなければならない不合理。

 世界最低水準の教育予算(OECD調査30か国中29位)で世界有数の福祉国家フィンランドに「教師の努力と工夫」だけで対抗しなければならない不条理。
 ただし、私たちがやりきれない気持ちになることは、ある意味どうでもいいことである。
 大切なことは、10年後、20年後の日本がどうなっているかということだ。

 金も制度的な裏づけもないまま人間の努力だけで国難を乗り切ろうとするやり方・・・・・・・いつか来た道。

 戦艦大和を見に行こう。





 

 

2005.09.20

いじめの底に友だち不安 
斎藤孝さん、中学の授業を本に


朝日新聞 9月19日]


 友だちがいないと不安だから、いじめる子は加害者グループから抜けられない。いじめられる子も、その役回りから逃げられない。いじめの底にあるのは友だちの問題だ。そう考えた明治大学文学部教授の斎藤孝さん(教育学)が東京都内の中学校で授業をし、それをもとに本をまとめた。「友だちいないと不安だ症候群につける薬」(朝日新聞社刊)。

 斎藤さんはベストセラー「声に出して読みたい日本語」の著者。思春期の中学生に「友人との距離感をうまく保つ力をつける授業を」と依頼し、東京都千代田区立一橋中学校(現・神田一橋中学校)の村上みな子校長が応じた。

 授業は昨年10月、11月の2回、90分ずつ、約130人の2年生に対し、体育館にいすと机を持ち込んで行われた。

 まず取り上げたのが86年、いじめが原因で東京・中野富士見中2年生が自殺した事件。いじめを止められなかった同級生が大学生になって語った証言記録を読んだ。一橋中の生徒たちはいじめに加担する自分の心のもろさを見つめ、感想を書いた。「小学校で『菌がうつる』と全員でいじめていた。その子を助けようとはしなかった。自分が無視されてしまうから」

 言われて嫌だった言葉のアンケートもした。代表的な言葉は「キモい」「うざっ」。目の前の人に言ったことが「ない」と答えた生徒は3人だけだった。

 最後に、自分の好きなものを書いた「偏愛マップ」をつくり、それをもとに男女2人で話す試みもした。好きなブランド、映画、ゲーム、ドラマ……。マップには幅広い分野が書かれ、「クラス替えの時、マップを書けばすぐうち解けられると思う」という声も出た。

 「いじめは沈静化しているように言われるが、実は深刻化し、友だち関係に絡んで気づきにくい形で進んでいる。感受性の鋭い年代だからこそ、問題を考える機会を共有することが必要だ」と斎藤さんは話している。


 大学教授に言われるとそのような気分になるが、果たしてどうだろう?
友だちがいないと不安だから、いじめる子は加害者グループから抜けられない。いじめられる子も、その役回りから逃げられない。
これだと、なぜイジメが簡単に解決しないかは理解できるが、そもそもなぜイジメがスタートするのか、なぜその子が選ばれて被害者となるのかは説明できない。
 しかしそれでも本が書け、新聞に取り上げられるのだから「大学教授」という肩書きには力がある。






 

 

2005.09.21

部活の柔道練習で重体、
不在の顧問教諭ら書類送検


読売新聞 9月20日]


 福島県須賀川市立第一中学校で2003年10月、1年生だった柔道部員の女子生徒(15)が練習中に頭を打って意識不明の重体になる事故があり、須賀川署は20日、練習の監督を怠ったなどとして、当時柔道部顧問だった男性教諭(41)と副顧問だった男性講師(30)を業務上過失傷害の疑いで福島地検郡山支部に書類送検した。

 部活動中の生徒のけがを巡り、その場にいなかった教師が責任を問われるのは極めて異例。

 調べによると、男性教諭と男性講師は03年10月18日、柔道部の練習に際し、事故が起こることを十分予見できたにもかかわらず、生徒に合った練習計画を立てたり、練習を監督したりする措置を取らなかった疑い。女子生徒は乱取り中、男子部員に背中から倒されて頭を強く打ち、急性硬膜下血腫(けっしゅ)で意識不明となった。現在も意識が回復しないまま入院を続けている。

 女子生徒は中学入学後に柔道を始めた初心者で、9月にも男子部員に投げられて約10日間入院。事故は退院後、初めての実戦練習の際に起きた。

 男性講師は文化祭の準備の仕事もあり、練習の始まる前と途中の約15分間立ち会ったが、事故が起きた時には監督していなかった。男性教諭は休みだった。

 同署は2人が安全注意義務を怠ったことが事故につながったと判断したが、調べに対し2人は「なぜ事故が起きたのかわからない。自分に責任はない」と容疑を否認しているという。

 同校の小山泰雄校長は「起訴されるかどうかの結果を見るまでは、コメントは控えたい。学校の安全については全教職員で万全を期すように取り組んでいる」と話している。


 指導者がいれば防げた事故かどうか分からないが、責任あるものがいない場での練習というのもずいぶん危険な気がする、恐ろしいことをさせていたものだ・・・・と、一般の受け止めはそんなところだろうか? しかし中学校において、そんなことは当たり前だった。指導者(教員)がひまな時だけ練習、となれば時間は著しく制限されるからだ。

 私はかつて「先生のいない時はプールに入ってはいけない」水泳部というものを見たことがあるが、それは惨めだった。月・水・金は定期的な職員の会議があるからダメ、火・木・土(当時は土曜授業があった)の三日間だけ泳げるのだが、顧問が出張だとその日は陸上練習。そして火曜と木曜はほとんどどちらかに「顧問の出張」が入っていた。
 当時は「先生がいなくとも、水泳部なんだから溺れることはないだろう」と思ったりもしたが、上のような記事を読むといかに自分が甘かったかが良くわかる。これからはますますそういう時代になっていくだろう。

もう、学校で部活を支えるのはやめたらどうだろうか?
ゴルフの宮里藍も卓球の福原愛もテニスの杉山愛も、だれひとりとっても学校の部活で強くなったわけではないのだから。






 

 

2005.09.25

社説 小学生の校内暴力
子どもの話聞く努力を


中国新聞 9月24日]


 子どもたちに関する何ともやりきれない調査結果がまとまった。文部科学省の「問題行動調査」によると、昨年度に公立小学校の児童が校内で起こした暴力行為は千八百九十件で、一九九七年度の現行調査開始以降、過去最多を更新したという。非行の低年齢化が叫ばれて久しい。高校生、中学生を経て、ついに最悪の段階を迎えたのだろうか。

 小学校で起きた校内暴力は二〇〇三年度も千六百件でやはり過去最多だった。昨年度はさらにそれを18・1%上回っている。とりわけ教師への暴力が三百三十六件で前年度比32・8%増と大幅に増えたのが目立つ。中学生と高校生の校内暴力がいずれも前年度を下回っただけに、小学生の荒れる傾向が際立つ。

 文科省が公表した事例を見よう。あいさつを指導した担任教師に暴言を吐いて殴りかかり、腕を押さえつけられたため、けった(五年男子)▽運動会の練習で整列するよう指示した教師をけった(六年男子)▽授業中に着席するよう教師に指導されて怒り、教室の窓ガラスを割った(三年男子)―などが並ぶ。言葉を介さないまま、いきなり暴力的な行動が飛び出す姿にあぜんとする。

 「話せば解決するときでも先に手が出る。教師と子ども、子ども同士で人間関係を結べていない」。学校や児童相談所に共通する説明である。コミュニケーション能力の欠如や忍耐不足から、自分の気持ちを言葉で表現できないまま、短絡的に暴力にはしるケースが目立つようだ。

 社会が衝撃を受けた小学校の事件として、昨年六月に起きた長崎県佐世保市の小学六年女児による同級生殺人事件が記憶に新しい。長崎家裁佐世保支部は、事件の要因を「女児は社会性や共感性が未熟。情緒面に偏りがあり、怒りについては回避か相手を攻撃するかという両極端な対処しかない」と指摘した。多くの学校現場の声と似ているのに驚く。

 どうしてこうなったのだろうか。「話したくても誰も聞いてくれないと荒れる」と話す教育関係者は多い。小学高学年は自我が強まる時期といわれるが、親も教師も話を聞く時間がない。家庭のだんらんが失われ「個食」の子どもが多いともいわれる。これではストレスがたまるばかりか、コミュニケーション能力の発達も人間関係づくりを学ぶこともおぼつかないだろう。

 子どもたちが結果ばかり求められ「負け組になるかもしれない」との不安を常に抱いているとの指摘もある。いじめや親からの暴力が要因かもしれない。テレビゲームなど自分の世界に閉じこもりやすい環境もある。小学生の心の中で何が起きているのか、はっきり見えたわけではない。ただ、悩みや苦しみを他人に聞いてもらうだけでも楽になった経験を持つ人は多いはずだ。

 親たちも負け組になるまいと懸命なのかもしれない。しかしそのために家庭から会話が消えるとすればあまりにも悲しい。まず家庭を、そして学校を話を聞く場にしたい。

 子どもたちは人とのつながりを求めながら孤立を深めているように見える。これも社会の病理の一側面ではないだろうか。とすれば責任はやはり大人の側にある。


別の新聞に識者の意見としてこのようなものがある。

小学生が荒れる背景について、学校や児童相談所は「中学受験が近づくと荒れが目立つ」「親の経済状態が悪くなり、面倒を見てもらえずに荒れる子もいる」とさまざまなストレスを指摘する。しかし「話せば解決する時でも、先に手が出る。子どもがうまく人間関係を結べていない」という説明は共通している。

 多忙やプライバシーへの配慮を理由に家庭訪問しない教師が増え、学校は家庭の事情が分かりにくくなった。親も教師を「指導力がない」と信頼しない。相互不信の中で子どもが置き去りにされているとみるのは東京都内の児童相談所関係者。

 「親も教師も忙しくて子どもの話を聞かない。みんなに広まるのが怖くて友達にも話せないからストレスがたまる」

 非行に悩む親が励まし合う「非行」と向き合う親たちの会(東京)の春野すみれ事務局長は「問題を抱えた子に聞くと、表面化したのは中学でも、一番苦しかったのは親の言う通りにするしかない小学校だったという。あのころもっと話を聞いてほしかった、という子は多い」と話している。

 募る「負け組」不安

 折出健二・愛知教育大教授(教育臨床学)の話 小学生の暴力が増えている背景には、自己責任型の競争原理が子どもの世界にも急速に浸透し、「勝ち組・負け組」という差別にとても過敏になっている点があるだろう。特に小学校高学年は自我が強まる時期だが、子どもは孤立化させられて競争社会に置かれ、「負け組になるかもしれない」という強い不安を常に抱いている。そこへ教師が厳しい指導をすると、子どもは自分が否定されたと感じ、怒り出す傾向がある。「ぶっ殺す」「クズは消えろ」などの子どもの暴言は、それだけとげとげしい世界に置かれていることの表れだ。教師が“仲人役”となり、子ども同士につながりを回復させるべきだ。

(高知新聞 9月23日)

 ◇識者分析 背景に「少子化」「週5日制」
 小学校が荒れている背景について、識者の見方はさまざまだ。
 「声に出して読みたい日本語」の著者、斎藤孝・明治大教授(教育学)は「少子化や核家族化で、人間関係の絶対量が不足しているのではないか。学校で感情をコントロールする訓練が必要だ」と話す。
 フリースクールの草分け「東京シューレ」の奥地圭子理事長は「数年前から小学生の暴力は増えていると感じていた。少子化で子どもに対し、親や教師を含めた多くの大人が期待をかけるようになり、そのことが子供たちのストレスや緊張になっている」と見る。
 教育評論家の尾木直樹・法政大教授(臨床教育学)は「ゆとり教育の反作用で、学校週5日制のもと、以前より詰め込みがひどくなり、子どものストレスは高まっている。ささいなことが対教師暴力につながるのではないか」と指摘している。
(毎日新聞 9月23日)

 新聞は識者にものを聞いても現場教師に聞くことは稀である。識者もまた、現場に取材しそこから事実を分析しようとしないように見える。
例えば
「話したくても誰も聞いてくれないと荒れる」と話す教育関係者は多い。というのは、どういう教育関係者の言ったどのような状況なのだろう?
子どもが一生懸命話たがっているのに誰も聞かないという状況をどう思い浮かべたらいいのか私には分からない。


子どもたちが結果ばかり求められ「負け組になるかもしれない」との不安を常に抱いているとの指摘もある。
同じ文脈からは「勝ち組になれるかもしれない」と瞳を輝かせる子どもの姿だって浮かび上がってきそうなものだ。子どもが本当に勝ち組・負け組みといった遠い将来の自分を意識して生きているなら、小学生のうちはまだ十二分に間に合う、そう教えることも可能である。だが私の知る限り、小学生は大人になった自分の姿を思い浮かべながら今日を生きることをしない。


少子化で子どもに対し、親や教師を含めた多くの大人が期待をかけるようになり、そのことが子供たちのストレスや緊張になっている
一人っ子政策を行っている中国の話ではない。
日本の場合、国全体として子どもは減っているが、
各家庭の子どもの数はほとんど減っていない(少子化で問題となっている「合計特殊出生率」は、結婚しない女性も含めて計算している。結婚した女性は平均2人以上の子供をもうけており、これは最近数十年あまり変わっていない。つまり、子供の数の減少は、子供を産まなくなったのではなく結婚しない女性が増加していることによっている)。
にもかかわらず
親や教師を含めた多くの大人が期待をかけるようになったとすると、日本人と言うのは恐ろしく政治意識の高い民族だということになる。
私の子ども(生徒)は私だけの子どもではない。日本の貴重な宝なのだ。そんな高い意識がなければ、少子化のために期待が強まることもないだろう。


「ゆとり教育の反作用で、学校週5日制のもと、以前より詰め込みがひどくなり、子どものストレスは高まっている。ささいなことが対教師暴力につながるのではないか」
人が暴力に出るのはストレスが高まった場合だけだろうか、私は疑問に思う。もし暴力と相関のあるのがストレスだけだったとすると、暴力団やギャングは世界でもっともストレスの多い人たちということになるだろう。

識者というのは常に
自分の思いしか語らない。そしてそれらはほとんどの場合、的外れなのだ。





 

 

2005.09.26

増加するいじめ・社会全体の取り組み重要

琉球新報 9月25日]

 県内の小中高校生による「いじめ」が5年連続で増加傾向にあることが、県教育委員会が22日発表した2004年度の問題行動調査で分かった。暴力行為は前年より減ったものの、調査が公表されて以降、2番目に多い結果となっており、いじめ、暴力行為が依然として深刻で、学校が児童生徒にとって生き生きできる場所でないことは憂慮すべき問題だ。
 調査によると、いじめは小中高合わせて320件で2003年度の304件より、16件増えている。暴力行為は588件で前年度の605件より減ったものの、2番目に多い件数となっている。
 いじめの件数が増えていることについて県教委は「潜在的だったものが、学校が相談体制を整え、生徒が声を上げるようになったことで顕在化してきた」と分析している。
 いじめは、保護者や教師の知らないところで発生することが多い。潜在的なものだ。公表された数字も「氷山の一角」といえる。
 いじめの件数は03年度も前の年度を上回っており、件数が増えたことは水面下にあった氷山があらわになったものといえる。
 いじめられている当事者が黙っているのではなく、声を上げ始めて問題が表面化し、解決に向かって動きだしているのなら、評価すべきだ。しかし、それでも件数自体が増加することは看過すべき問題ではないだろう。
 いじめを根絶することは不可能に近いとされる。しかし、いじめの芽を摘み、深刻化しない段階で対処することが重要だ。
 過去のいじめが原因となった少年犯罪をみていても、いじめに気づかずに深刻化したことが要因になった事例は多い。一つのいじめを早い段階で防ぐことができれば、次のいじめを予防するための流れをつくることができる。
 文部科学省のいじめ対策をみると、いじめ根絶のための地域リーダー人材バンクの設置や意識啓発活動など、地域や学校、社会で取り組むべき、さまざまな対応策が示されている。
 いじめは他者の違いを容易に認めようとしない社会の同質志向意識が子供たちの心に影を落としているともいわれる。子供の問題行動を解決するためには、わたしたち社会の在りようも考える必要がある。
 いじめや校内暴力は、人間関係がうまく築けないことから起きる。児童生徒が人と人との関係を築けるように、保護者や学校が指導していくとともに、家庭、学校、地域が一体となった取り組みを行うことが重要だ。子供たちのために一人一人が行動することが、問題の解決へつながる。


 いじめは他者の違いを容易に認めようとしない社会の同質志向意識が子供たちの心に影を落としているともいわれる
 この言い方がなぜもこれほどに重要視されるのか、私には理解できない。
 
社会はどう見ても同質志向意識が薄れている、こう考えるのは私一人だろうか? 次々と現れる多様な子・多様な親を見ながら、これが同質化への志向だとはどうしても思えないのだ。もはや社会は認めようが認めまいが、どうしようもなく多様化している。それが私たちの見方だが、専門家はむしろ同質化し異質なものを消していると考えるらしい。
 専門家とは不思議なものだ。

 いじめを根絶することは不可能に近いとされる。
 これも理解できない。もちろん「根絶」が一切のいじめ地上からなくすことだというなら不可能だが、まさかメディアもそんな不毛な話をしているわけでもあるまい。
 普通の意味でいいじめを解決せよというなら、それには多様な方法がある。私には確信がある。

 メディアと言うのは実に不思議なことを言う。