キース・アウト
(キースの逸脱)

2005年11月

by   キース・T・沢木

サルは木から落ちてもサルだが、選挙に落ちた議員は議員ではない。
政治的な理想や政治的野心を持つ者は、したがってどのような手段を使っても当選しておかなければならない。
落ちてしまえば、理想も何もあったものではない。

ニュースは商品である。
どんなすばらしい思想や理念も、人々の目に届かなければ何の意味もない。
ましてメディアが大衆に受け入れられない情報を流し続ければ、伝達の手段そのものを失ってしまう。

かくして商店が人々の喜ぶものだけを店先に並べるように、 メディアはさまざまな商品を並べ始めた。
甘いもの・優しいもの・受け入れやすいもの本物そっくりのまがい物のダイヤ
人々の妬みや個人的な怒りを一身に集めてくれる生贄
そこに問題が生まれれば、今度はそれをまた売ればいいだけのことだ。















 

 

2005.11.05

学力とは何か:第7回 
教員の社会的地位が高いフィンランド

毎日新聞 11月4日]


 日本の子供たちの学力を高めるにはどうしたらいいのか。昨年末、OECD「生徒の学習到達度調査」(PISA2003)、国際教育到達度評価学会(IEA)の国際数学・理科教育調査(TIMSS2003)の結果が公表され、日本の子供たちの学力が低下していることが明らかになった。PISAでは、フィンランドが学力トップを維持し、北欧の国々も学力が高い。違いは何なのか。フィンランドの教育に詳しい中嶋博・早稲田大学名誉教授に聞いた。【平野秋一郎】


 −−フィンランドでは教員は人気の高い職業だそうですね。

 医師と教員、牧師の評価が高いですね。だから教員の人気は高いです。教育学部は優秀な生徒が集まります。入試倍率は毎年10倍です。でも、教員になるには、大学に入るだけではだめで、その先にまだ、ふるいがあるんです。すごくやる気があって、素質のある者でもなお、最後のふるいである「教育実習」を経なければなりません。教育実習で教員の資質があるかどうかを厳密にチェックします。単に成績が良いだけではなく、その学生が先生になった時、「生徒が学習に参加するだろうか」「生徒は活発になるだろうか」といったこと、つまり生徒を引き付けるか、生徒に好かれるか、子供たちの気持ちをつかめるかどうかも評価されます。教員としての全体の資質を判定するんですね。

(中略)

 −−教員養成大学、学部を出ても先生になれないこともある?

 以前は英文科とか国文科出て教員になろうという人は、1年間の教育実習を受けましたが、今は学部教育に教育実習的な内容を組み込んだので、教育実習そのものは半年になりました。学部教育の段階から、教育実習的な教育を徹底して行なおうということですね。だから、ギブアップする学生が出てくるようになった。そういう学生はみんな、他の学部に移れるのです。それだけ厳しい訓練を受けて、ふるいにかけられ、修士号を取得して来ている。先生になるのはエリート中のエリートですよ。だから親に対してもきちっと、ものを言えるんです。

 −−教育実習では知識や技術に加え、人格や資質も見るのですね。

 ペーパーテストだけではありません。全部、評定されます。以前、大学の選抜では、教育学部長が面接して「あなたは子供が好きですか」「頑張りますか」と聞いていたんです。ところが、「はい、がんばります」「子供が好きです」と答えた学生が、教員になってからどんどん脱落していった。それで1967年から1972年にかけDPAヘルシンキプロジェクトという教員の適性を見出すためのプロジェクトを始めました。それは今も改良が加えられて、続いています。

 −−教員養成も科学的にやっている?

 科学的に、そして徹底的にやります。それが大事なんです。教授学的な素養を付けようとしている。教科の専門家であると同時に教育の専門家でなければならないということなんです。日本の教員養成の方法ではどっちも身に付かないですね。

(以降、略)


私が以前勤めていた学校の校長は、3代続く教員家族の2代目だったが、あるときこんな話をしてくれたことがある。
「親父は私を教員にしたがったが、そのころ、こんな話をしてくれた。
『教員は給料は安いが、みんなから尊敬してもらえる。だからいい仕事だ』
ってね」

 昔の教員は偉かったから尊敬してもらえたと言ってはいけない。
 もちろん立派な人もいたが、やたら殴る教師がいたし、朝から酒の臭いをプンプンさせながらうつろな目で授業をする人も少なくなかった。黄色く変色した古いノートを使って十年一日のごとき授業をしている人もあった。臨海学習や修学旅行で夕食が出ると同時に酒を飲み始め、ベロベロに酔った状態でその日最後の指導を行うことも平気だった。少なくとも、そうした教師の元で、私は育ってきた。それにも関わらず、教員は教員だというだけで尊敬されていた。

 昔に比べれば、今の教師は何十倍も優秀で誠実で、そして熱心である。それは間違いない。しかし、それにふさわしい尊敬が与えられるわけでもないし、教員をエリートだと考える人もいないだろう。
 彼らはただ自分たちの力によって子どもが成長していくことだけを喜びとして、誇りをもってこの仕事を続けているのだ。

 私はフィンランドのような高い学力を望むなら、フィンランドと同じだけの社会的地位を教員に与えよと言うつもりはない。もはやそれは望むべくもない。
 フィンランドの制度だけを問題として、ああだこうだと言っても何も始まらないと、それを言いたいのだ。







 

 

2005.11.09

“楽天校長”が修学旅行中に飲酒 懲戒抵触を認識 横浜

産経新聞 11月9日]


 横浜市が公募した民間人校長に採用され、四月に市立東山田中(同市都筑区)に着任した「楽天」元副社長の本城慎之介校長(33)が、六月に行われた同校の修学旅行で数人の教諭と飲酒していたことが八日、分かった。市教委は修学旅行など校外活動中の教員の飲酒を禁じており、本城校長らから事実関係を確認、近く処分するという。
 市教委などによると、同校は六月四日から二泊三日で京都と大阪に修学旅行。京都市内のホテルに宿泊した五日午前三時半ごろ、随行した本城校長は引率教諭らに誘われ、三百五十ミリリットルの缶ビール二本を飲んだ。
 教諭らは、生徒の一部が就寝時間を過ぎても未明まで騒ぎ続けたため、早く寝るよう指導した後、飲酒したという。
 本城校長は「懲戒処分にあたることは知っていた。処罰を受けることでこたえたい」と話している。



 元「楽天」副社長が民間人校長になっていたという話は、うかつにも見逃していた。
 私は民間人校長には反対していない。しかし33歳の民間人校長というのにはたまげた。
 33歳の現職教員に校長をやらせようと考える人は誰もいないだろう。しかし素人の民間人なら勤まると考える、学校もなめられたものだ。
 教員がそこまで低く見られていたということに、今初めて気がついた。

 さて、それはさておき、
「懲戒処分にあたることは知っていた。処罰を受けることでこたえたい」
個人の心情としては潔いものであるが、それなら普通の校長にだってできる。
民間人校長としてすべきことは、教育の世界では当然とされることが、民間の尺度ではどうなのか、それを語ることではないのか。

「午前三時半まで生徒の指導をしなければならない教員」というものをどう捉えていたのか、生徒がどれほど無法でも、たかがビール二本で処分されなければならない教員、それは民間の尺度でもかくあるべきものなのか、それを語るべきである。








 

 

2005.11.12

小山市の小中学校 
授業日数を年6日増やす(栃木)


読売新聞 11月11日]


 小山市は2006年度から、市立小中学校の夏季休暇と冬季休暇を計6日削減し、その分、授業日数を増やす。10日の定例記者会見で発表した。完全学校週5日制の中で3学期制を維持しながら、十分な授業時間や校内活動の時間を確保することが狙い。市教委によると、授業日数の増加はすでに大田原市や矢板市などが実施しているが、最多でも3日で、小山市が県内最多になるという。

 長期休暇の日数削減は、市町村教委の判断に任されており、市教委はすでに、市立小・中学校管理規則を一部改正した。7月21日〜8月31日の42日間だった夏季休暇は、8月27日までの38日間となり、12月26日〜翌年1月7日の13日間だった冬季休暇は、12月28日からの11日間となる。夏、冬、春を合わせた長期休暇の日数は、69日から63日に減る。

 この結果、年間の授業時間は最大で35時限増える。増加分は、通常の授業や運動会の練習などにあてる。

 市教委によると、02年度の完全学校週5日制導入などにより、授業時間は、学習指導要領の規定(中学校3年の場合、年間980時間)をわずかに上回る程度となっている。しかし、6時限の日が多い中学校では、その後に時間を取ることも困難で、現場からは「授業時間の確保が難しい」「今はギリギリだ」などの声があがっていたという。

 児童・生徒の基礎学力低下が叫ばれる中、文部科学省は03年12月、「指導内容の確実な定着を図るため必要がある場合には……年間授業時数の標準を上回る適切な指導時間を確保するよう配慮すること」などと通知し、柔軟な対応を認めていた。

 授業日数増加について、市教委は9日付で各学校に文書を配布し、各校が児童や保護者に説明する。

 10日、市立小山城東小から帰宅途中だった4人組の5年男子児童は、「もっと遊びたいのに嫌だ」「授業を受ける気にならない」などと一様に残念な様子。一方、2人の子供が同小に通う主婦(37)は、「家にいてもゲームをやって遊んでいるばかり。学校で勉強してくれるならすごくうれしい。家も静かになる」と喜んでいた。


 たびたび書いているが「ウチの子」の成績を上げたければ学校の授業時間を増やすのは損だ。その増えた時間で学力が伸びるのは「ウチの子」だけではないからである。
「ウチの子」の成績を上げるためには「ウチの子」が勉強すること、そして「ヨソの子」が勉強しないこと、それがベストの条件である。その意味で「ゆとり教育」は教育熱心な家にとっては千載一遇のチャンスだった。
それなのに、なぜ保護者はこぞって学校に授業時数(日数)の増加を要求するのか? それが不思議だった。


この記事はそうした私の疑問に答えてくれるものである。

家にいてもゲームをやって遊んでいるばかり。学校で勉強してくれるならすごくうれしい。
家も静かになる


なるほど、それが真の理由なのか。保護者たちは必ずしも教育熱心
なばかりではないのだ。

了解!









 

 

2005.11.13

生徒指導に寛容ダメ 
文科省 米で成果、導入検討へ


産経新聞 11月13日]


 米国で麻薬や銃、暴力が蔓延(まんえん)した学校の再生に効果をあげたとされる生徒指導方針「ゼロトレランス(毅然(きぜん)とした対応)」について、文部科学省は、日本の教育現場への応用の可能性を探るため、専門家による調査研究会議を設置する方針を決めた。国内でも学校内外で生徒による凶悪事件や薬物犯罪が相次いでおり、米国流の厳格な生徒指導を取り入れることで、学校の秩序や規律を取り戻し、安心して通える学校を確立したいとの強い思惑がある。
 「ゼロトレランス」は直訳すると「寛容さゼロ」の意味。一九九七年、クリントン大統領(当時)が全米に呼びかけ浸透させた。学校が明確な罰則規定を定めた行動規範を生徒・保護者に示し、破った生徒にはただちに責任を取らせる。それまで教育現場で支配的だった、生徒の事情をよく聴き、生徒理解に重点を置いて指導する「ガイダンス」と呼ばれる手法とは一線を画し、絶対に許容しない厳格さで臨む。
 罰則は「教室から出す」「居残りや専用教室に入れる」「親を呼び出す」「校長が指導する」「停学や家庭謹慎」と段階的に重くなる。麻薬や非行、暴力行為などの場合は直ちに矯正する「オルタナティブスクール(代替校)」に転校させ、反省して立ち直れば元の学校に戻す。
 米国の教育現場では六〇−七〇年代、校内に紙くずやたばこの吸い殻が散らかり、暴力や破壊、ドラッグや妊娠、銃器の蔓延が問題化した。ゼロトレランスの導入には「生徒に脅威を与える」などの反対論も出た半面、問題生徒が正規の学校から消え、秩序や規律、明るい雰囲気が徐々に戻る成果もあげ、広く支持されていったという。
 国内でも、長崎県佐世保市で昨年六月、小六児童が校内で同級生に刺され死亡する事件が発生。今年六月には山口県の県立高校で、生徒が教室に爆発物を投げ込み生徒多数が負傷する事件が起きるなど、校内に凶器が持ち込まれて安全が脅かされる事態が起きている。
 また、東京の都立高校内で昨年、生徒がMDMA(合成麻薬)を売買し逮捕されるなど、薬物犯罪も一部で深刻化し、風紀の乱れや規律の欠如をうかがわせる事件も後を絶たない。規律を失った一部の学校では、問題生徒の傍若無人な行動に対処できない教師が、ますます生徒の信頼を失い、学校運営が難しくなる悪循環に陥る傾向がある。
 文科省ではゼロトレランスについて「日本の学校現場にそのまま導入できるかどうかはともかく、『ぶれない生徒指導』を確立する意味でも参考になるのではないか」と話しており、現在調査研究会議の人選を進めている。



「不寛容」という言葉に目を奪われてはいけない。
ゼロ・トレランスの一番重要なポイントは、
学校が明確な罰則規定を定めた行動規範を生徒・保護者に示し、
という点なのだ。また、罰則として、
「教室から出す」「居残りや専用教室に入れる」「親を呼び出す」「校長が指導する」「停学や家庭謹慎」と段階的に重くなる
その段階を示した点でもある。

 つまり

「ゼロ・トレランス」では、校則がまず「〜をしたら、〜なる」という、いわば刑法に似た形に書き改められなければならない。

それが最大の特徴なのだ。


それまで教育現場で支配的だった、生徒の事情をよく聴き、生徒理解に重点を置いて指導する「ガイダンス」と呼ばれる手法
 それが日本で十全に行われていたとも思わない。しかしだからと言って、日本中の校則を調べてもおそらく細かな罰則規定の書かれたものはほとんどないだろう。

 その結果、多くの場合「校則やぶり」も単なる口頭注意だけで終わってしまうようになった。
 高校なら自宅謹慎もあるが、自宅謹慎が何回か続くと次のステップは『自主退学』しか残っていない。気がつくと処罰の最後の階段を登ってしまっている、
いわば懲役1年と死刑しかない刑法のようなものだ。

 小中学校の場合は、「自宅謹慎」も「自主退学」もない。そのガイダンスとやらがうまく行かなければ、クラスは無法地帯になってしまう。それが学級崩壊であろう。

 むやみにゼロトレランスに賛成もしないが、この問題、一度は考えておく必要があるだろう。








 

 

2005.11.20

指導要領に「部活」復活? 中学現場「明確にして」


共同通信 11月19日]


 次期学習指導要領の改定をめぐり、中学の部活動の扱いに関心が高まっている。2002年実施の現行指導要領で「特別活動」の項目から削除され“中ぶらりん”の状態になっているためだ。現場には「位置付けを明確にしてほしい」と、指導要領への「復活」を求める声も出ている。
 「部活動は教員にとってボランティア。指導要領に明記し条件整備を」。7日の中教審教育課程部会で全日本中学校長会の大橋久芳会長が訴えた。委員からは「再び明記すれば教員の重荷にならないか」との質問も出たが「現状でも十分重荷だ」と大橋会長は答えた。
中学時代、最も打ち込んだことに「部活動」を挙げる生徒は少なくない。都内の中学校長は「放課後に教員の違う面に触れることが教育に厚みを加えている」と話す。
 しかし、多くの教員は教科指導で忙しい中、顧問を引き受けているのが実情。土日に出勤しても手当は千―二千円程度で、振り替え休日を取ることもままならない。


復活、と言っても前指導要領(平成元年度)にも特別活動の中のクラブ活動の項に、
4 クラブ活動については、学校や生徒の実態に応じて実施の形態や方法などを適切に工夫するよう配慮するものとする。なお、部活動に参加する生徒については、当該部活動への参加によりクラブ活動を履修した場合と同様の成果があると認められるときは、部活動への参加をもってクラブ活動の一部又は全部の履修に替えることができるものとする。
とあるだけで、部活動は指導要領中ずっと鬼っ子であった。ただ、このときは、指導要領の中に半歩入り込んでいたために、部活動が正規の教育課程の中に入り込んでくるのではないのかと期待されただけである。

しかしそれにもかかわらず、指導要領
解説(平成10年度)でも
放課後等における部活動は学校において計画する教育活動であるが、教育課程の基準としての学習指導要領には示されていない。しかし、これを実施する際には、部活動は学校の管理下で計画し実施する教育活動として、適切な取り扱いが大切である。
となり、学校が責任を負うべきものとの位置づけははっきりしている。

正規の教育課程にないからPTA活動同様、校務の中に分掌されるにもかかわらず手当てもなければ時間回復もない・・・そのはずなのに手当がつくのは、人事院規則9−30に準じて各都道府県人事委員会が教員特殊業務手当として認めているからである。
土日に出勤しても手当は千―二千円程度でという幅はそうした事情による。
ただし準拠したのは人事院規則9−30に繰り返される「当該業務が心身に著しい負担を与えると人事院が認める程度に及ぶ時に支給する」という表現に対してであるため、その「著しい負担」は4時間と計算され、したがって
4時間を越えないとこの金額は出ない
さらにあきれたことに、

生徒の心身を守るためにということで「休日の部活動は3時間まで」という内規がある

ので、結局試合でもない限り土日の手当ては一銭も出ないようになっている。

試合に行けば一日仕事である。私の場合は部活手当てが1500円となっているが、8時間働いて1500円なら自給188円である(もちろん教員特殊業務手当ては時間に対して与えるという考え方をしていないが)。
校長は再三に渡って請求するようにと言うが、私はなんだか侮辱されたようでこの手当てを申請したことはない。