キース・アウト
(キースの逸脱)

2006年2月

by   キース・T・沢木

サルは木から落ちてもサルだが、選挙に落ちた議員は議員ではない。
政治的な理想や政治的野心を持つ者は、したがってどのような手段を使っても当選しておかなければならない。
落ちてしまえば、理想も何もあったものではない。

ニュースは商品である。
どんなすばらしい思想や理念も、人々の目に届かなければ何の意味もない。
ましてメディアが大衆に受け入れられない情報を流し続ければ、伝達の手段そのものを失ってしまう。

かくして商店が人々の喜ぶものだけを店先に並べるように、 メディアはさまざまな商品を並べ始めた。
甘いもの・優しいもの・受け入れやすいもの本物そっくりのまがい物のダイヤ
人々の妬みや個人的な怒りを一身に集めてくれる生贄
そこに問題が生まれれば、今度はそれをまた売ればいいだけのことだ。















 

2006.02.02

部活は「公務」1日2500円 大阪府教委、手当アップ
全国最高額、指導者不足歯止め


産経新聞 2月2日]


 少子化や指導者不足などで休・廃部が相次ぐ部活を活性化しようと、大阪府教委は二日、土日などに部活動を指導する教員の手当を、現行の一日千五百円(四時間以上)から全国で最高額の二千五百円(六時間以上)に引き上げる方針を決めた。「生徒のために汗を流す先生の努力に報いたい」と府教委。新年度予算案に必要経費を盛り込むとともに、関係条例の改正案を二月府議会に提出し、新年度からの実施を目指す。
 府教委によると、運動部は府立高校で平成十年度に三千五百十九あったが、十六年度には三千三十二に減り、中学校(大阪市除く)でも四千三百六十五から四千二十三に減少。
 生徒の入部率は十三年度で高校が31%(全国平均52・1%)、中学が62・8%(同73%)と、いずれも全国平均を大きく下回っており、文化部でも同様の傾向がある。
 教員の高齢化や成り手不足などもあって活動停止に追い込まれる部活も後を絶たない。
 このため、府教委は有識者らによる検討委員会を設けて活性化策を探ってきた。その結果、学習指導要領に記載されていないため指導にあたる教員の自発的な活動(ボランティア)とみなされていた部活動を、「教育的効果が大きい」として公務と同様に扱うことを決めた。
 これまで校外で活動を行う場合には教員が交通費などを自己負担するケースもあったが、公務扱いになることで、出張旅費が支給されることになる。
 また、これまでは土日に四時間以上、部活指導にあたっても一日千五百円の特殊勤務手当が支給される程度だったが、「教員の労に報いたい」(府教委)と手当も増額。二段階にわけて、六時間以上は二千五百円、四時間以上六時間未満は二千円を支給する。

   

 休日返上…現場は歓迎
 今回の大阪府の部活手当引き上げを現場の教員は歓迎している。一方、周辺自治体では、手当の額はほぼ横並びといえ、大阪が今回引き上げた場合、影響が出そうだ。
 「時給四百円以下ですからね。生徒のためというボランティア精神がなければやってられませんよ」。大阪市内の府立高校で運動部と文化部の二つの顧問を務める四十代の男性教諭はそう嘆く。「土曜か日曜どちらかは必ず“出勤”。時には二日とも休日返上することがある。家族からは冷たい目で見られてますよ」
 多くの教員は教科指導や生徒指導などで多忙を極めており、その中で顧問を引き受けているのが実情だ。府内のある中学校長は「顧問の先生が異動すると、後任探しが本当に大変。職務命令は出せませんので、子供たちのために頑張ってくれないかと切々と訴えています」と苦笑する。
 手当の増額について、男性教諭は「額の多少ではなく、自分たちの努力をわかってくれたということはありがたい」と話している。
 大阪市は、市立小中学校教員の給与は府費で支給しており府が手当を引き上げれば市も準じる見通し。兵庫県は、特殊勤務手当として「引き続き四時間以上に及ぶとき」に千二百円を支給。神戸市は、県に準じている。
 京都府、京都市は六時間で千五百円を支給。奈良県は四時間以上八時間未満で一律千五百円、八時間以上で一律千八百円を支給している。
 和歌山県は活動時間が四時間以上、六時間未満の場合は千二百円。六時間以上の場合は千五百円となっている。




フムフム。しかし、

「時給四百円以下ですからね。生徒のためというボランティア精神がなければやってられませんよ」
本当にそんなことを言ったとしたら、この教員はバカである。

時給400円ではない。
 六時間以上は二千五百円、四時間以上六時間未満は二千円

 そして
4時間未満ゼロなのである。

 私のところでは4時間以上1500円(4時間未満ゼロ円)、そして

「生徒の健康への配慮から、正式な試合を除き(ということは練習試合も含め)、休日の部活動は3時間以内とする」
という内部規定がある。
したがって、「正式な試合」に行かない限り、指導手当はゼロのままだ。もちろん、顧問をしていれば自然と熱が入り、他チームとの合同の練習試合となれば3時間以内では済まない.。そこで内規を破って7時間・8時間といったことになるのだが、当然規則破りだから申告できない。したがって手当はゼロ。

よくできたものである。








2006.02.10

17年前の交際で懲戒免職 中学教諭を佐賀県教委

共同通信 2月10日]


佐賀県教育委員会は10日、元教え子と約17年前から2年間交際したなどとして、県内の中学の男性教諭(42)を懲戒免職処分にした。
 県教委は「17年前とはいえ、あってはならないこと。反省もしておらず、教壇に立たせるわけにはいかない」と説明。教諭は「法に違反する行為ではなく、教諭として許されない行為ではない」と話しているという。
 県教委によると、教諭は中学3年の時に担任だった当時15歳の女子高校生と1989年4月ごろから交際。同年8月から91年5月ごろまで性的関係を持ったが、うわさが広まり関係を断った。
 元女子高生の同僚の男性が昨年7月に教諭に謝罪を求め、9月に県教委にも連絡したことから発覚。県教委は教諭に諭旨免職を打診したが断られ、懲戒免職にした。




殺人罪の時効を越える17年を経ても下されるという必罰・・・教員にはそこまで高い道徳性が求められるということだろう。
それはいい。
当然であると言ってもいい。

私が望むのはそうした必罰に対応するだけの信賞なのだ。

高い道徳性を求める以上、その道徳性に対する尊敬や畏敬が払われなければならない、そう考えるのは果たして不遜だろうか?

信賞なくして必罰あり。
そんな状況に、教員はいつまで耐えていけるだろうか








 

2006.02.11

【「ゆとり」修正】拙速審議こそ見直せ

高知新聞 2月11日]



 現行の学習指導要領が進める「ゆとり教育」が見直される可能性が高まってきた。

 中教審教育課程部会がまとめた審議経過報告の素案で学習内容や授業時間数を増やすことなどが示されたのだ。文科省は2007年度に改定作業を終え、10年度にも実施したい考えだ。

 現行の学習指導要領は02年度から小中学校に、高校には03年度に導入された。従来の「詰め込み教育」では創造的な研究や仕事をする次代を担う人材が生まれにくい―との反省からゆとり教育は生まれた経緯がある。

 それなのにわずか数年で再び振り子を戻そうというのだろうか。公教育の迷走というほかない。理念欠如のそしりは免れない。

 見直しの背景にあるのは、学習指導要領で教える内容が3割削減されたことや週5日制の実施で、学力が低下しているという批判だ。

 一昨年明らかになった国際比較調査で、日本の子どもの成績が芳しくなかったことが見直し論に拍車を掛けた。経済界が即戦力としての優秀な人材確保をにらみ、学力向上を強く要請しているのも無関係ではあるまい。

 「学力が落ちたのは、勉強する時間が減ったからだ」とする指摘は筋が通っているように感じるが、実際に授業時間数の削減と学力低下の因果関係を示すデータはない。このことは文科省も認めている。

 しかも、見直し論に拍車を掛けた国際比較調査に参加した子どもたちは旧学習指導要領下で学んでいたことが後に指摘されている。ゆとり教育をやり玉に挙げる議論は的を射てない。

 ただ、素案が国語を「すべての教科の基本」、理数教育を「科学技術の土台」と位置づけ、「充実を図る」と指摘していることは間違っていない。しかし、そのために「教科内容、授業時間数を増やせば解決できる」と考えるなら短絡的すぎる。

 何より大事なのは子どもの学ぶ意欲をどう育てるかだ。家庭での親のかかわりも重要だが、学ぶことへの関心をかきたてられるかどうかは教員の力量が大きく左右する。子どもの意欲と授業の質がかみ合わなければ量だけ増やしても効果はない。

 ゆとり教育の成果と課題の十分な検証を置き去りにした拙速な審議こそ見直すべきだ。教育現場の声を吸い上げ、本質を見極めた慎重な議論が求められる。


ゆとり教育というのは、「子どもにゆとり(休み)を生み出す」教育課程のことなのか、それとも「ゆとりをもって学習できる」教育課程のことを言うのか、そこからまず議論すべきだろう。

学習内容をそのままに時数だけ増やせば、当然時間的なゆとりが生まれ、じっくりと学習することになる。マスメディアが「ゆとり教育(=ゆとりを持った学習)」を支持するなら、まずこの方面で押すべきだろう。時数をもっと増やせと。文科省が内容も増やすと言い出したら、さらに時数を増やせと要求するのが次のステップとなる。

しかし「子どもにゆとり(休み)を生み出す」教育課程が必要だと考えるのなら、「とにかく時数を減らせ、それにともなって内容も減らせ」と要求するのがスジというものである。
少ない時数でも学力が伸びるよう、教師が工夫しなさいなどと、ふざけたことは言わないでほしい。

さて、
 
それなのにわずか数年で再び振り子を戻そうというのだろうか。公教育の迷走というほかない。理念欠如のそしりは免れない。
記事はそういうが、高知新聞の迷走もまた目を覆うばかりである。理念は最初からない。


実際に授業時間数の削減と学力低下の因果関係を示すデータはない。

それはそうだ。学力低下には時数削減以外にもさまざまな要素がある。そうした要素を入れず、時数削減だけで問題を見ようとしてもムリなのだ。しかし

時数を単純に増やし、それをドリルの時間にでも当てれば、学力は今よりも確実に伸びる、少なくとも低下に歯止めを賭けるくらいのことはできるというのも事実だ。
学力低下の原因は時数削減だけではないが、時数を増やせば成績は上がる(そうならないとしたら、よほどやり方がまずいのか、あるいは学力低下の他の要素があまりにも強く、時数増加だけでは抗しきれないかどちらかである)。
世の中にはさまざまな学習理論があるが、現実に効果の認められているのは反復学習と過剰学習だけである。そしてその両方とも、大量の時間を必要とする。


見直し論に拍車を掛けた国際比較調査に参加した子どもたちは旧学習指導要領下で学んでいたこと
言うまでもなく、日本の学力低下は現行指導要領のせいではない。旧指導要領下でも確実に進んでいたことである。
しかしその時期、メディアは「もう学力は十分だ。知識や技能だけではこれからの世界は生き抜けない。ユニークな発想、創造的な才能の伸長のためには、今までの教育ではダメなのだ」そう言って時数削減と内容削減を求めたはずだった。


何より大事なのは子どもの学ぶ意欲をどう育てるかだ。
もちろんその通りである。しかし
家庭での親のかかわりも重要だが、学ぶことへの関心をかきたてられるかどうかは教員の力量が大きく左右する。
となると話は別だ。
(親のかかわりは
「も重要だが」と、付随的な意味しかないのだろうか? 半永久的に子どもとともに歩む親より、長くても2〜3年しか付き合わない教員を頼る、そういうことがあっていいのだろうか、という疑問は横においておこう。その上で・・・)
学校の授業日数は約200日。これはおよそ7ヶ月である。子どもは学校で7ヶ月過ごし、5ヶ月家庭にいずっぱりになる存在である。しかも昼だけおよそ7時間しか学校にいない。
これではあまりにも時間不足だろう。
学ぶことへの関心をかきたてられるかどうかは教員の力量が大きく左右する。
なら、その意味でも、授業時数・登校日数は飛躍的に増やされる必要があるのだ。








 

2006.02.14
教員人事権の移譲/現実論が大勢占めた島根
山陰中央新報 2月14日]


 島根県の公立小中学校教員の人事権移譲について審議してきた検討会議の最終報告がまとまった。

 教育の地方分権に沿って、松江市と出雲市が教員の人事権を県から市町村に移譲するよう求めている。その要求に対し検討を進めた結果、人事権を市町村に下ろすことは、教員配置などで環境が整わず現状では時期尚早との意見が大勢を占めた。

 県教委ではこの結論を踏まえながら、当面は人事権の移譲を見送る。しかし教育の地方分権は時代の流れであり、引き続き人事権移譲について調査研究は進めていくという。

 県が握っている教員の人事権を市町村に移譲するに当たって、最大のネックとなっているのは教員の地域的偏在の問題である。

 教員の希望勤務地が松江市と出雲市の都市部に集中していることから、仮に採用を含めた人事権を市町村に移行した場合、都市部では教員が過剰となる一方、中山間地では教員が不足する恐れがあるという。

 松江市の場合、市内の小中学校教員定数に対し、市内に在住するなど生活拠点としている教員が三百人近く上回っている。出雲市を生活拠点とする教員も市内の教員定数より百五十九人多い。

 その反対に浜田市を中心とする浜田教育事務所管内では生活拠点とする教員が定数を三百人以上下回る。生活の利便性を求めて松江や出雲市を生活拠点とする教員が多い一方で、石見部や隠岐に住もうとする教員は少数派である。

 こうした状況で採用から異動までの人事権を市町村に移すと、松江市や出雲市では教員が定数を上回って過剰となり、そのあおりで教員の新規採用もできなくなる。地域的なアンバランスを招く恐れがあるという。

 各市町村教委など教育行政関係者でつくっている検討会議ではこうした現実論が大勢を占めた。教員の人事を、住民に最も身近な市町村にまかせるべきだとする推進派は松江市と出雲市だけだった。

 その他の市町村は「地域によって教育格差が拡大する」「教員の異動範囲が狭くなり、人事が固定する」「人件費など財政負担に耐えられない」など慎重な意見が多数を占めた。

 小中学校の大半は市町村立であり、そこに勤務する教員の身分も市町村職員となっている。しかし採用から異動にわたる人事権は県教委が握っており、給与も県から支払われている。

 こうした教員身分の二重性を一元化し、より地域に根差した教育を進めるために市町村に人事権を移す意義は大きい。教員の顔が見え、地域の教育に対する要望も身近に聞くことができる。等身大の教育の推進力となる。

 過疎地を含む中山間地が大半を占める県内の実情を考えると、検討会議の結論は現実的である。しかし、教育の分権を目指してそこから一歩踏み出す意欲と気概のようなものも示してほしかった。

 県が引き続き人件費を負担しながら、市町村をまたぐ広域的な人事交流を必要に応じて進める。そうした現実的な対応を工夫しながら、市町村主導で人事を進めることもできるはずである。人づくりにも分権の視点がほしい




一読してこの記事の意味がわかる人は少ないだろう。

松江市や出雲市では教員が定数を上回って過剰となり、そのあおりで教員の新規採用もできなくなる。
松江市や出雲市はさぞかし困ることになるだろう、と思っていると、

教員の人事を、住民に最も身近な市町村にまかせるべきだとする推進派は松江市と出雲市だけだった。
これで何がなんだかわからなくなる。


松江市の場合、市内の小中学校教員定数に対し、市内に在住するなど生活拠点としている教員が三百人近く上回っている。出雲市を生活拠点とする教員も市内の教員定数より百五十九人多い。

その松江市で300人、出雲市で195人余っている教員を、両市がどのように選択し不採用にするか、そこがポイントなのだ。

もうお分かりだろう。
これによって二つの市は問題のある、あるいは問題になりそうな教員を一掃し、他の郡市に押付けることができる。さらに人事権を握った両市は、その潤沢な財政を武器に、教員の独自採用を始めるはずだ
(この時、県よりも良い待遇を提示する必要はない。松江市内、出雲市内の学校に赴任できるとなれば、多少給与面で低くとも、喜んで応募する人はいくらでもいる。下手に県採用になって単身赴任するより、よほど安くつくのは明らかである)。

一方、財政的に困難な山間部の郡市はどうなるか。
浜田市を中心とする浜田教育事務所管内では生活拠点とする教員が定数を三百人以上下回る。生活の利便性を求めて松江や出雲市を生活拠点とする教員が多い一方で、石見部や隠岐に住もうとする教員は少数派である。

独自に教員採用できない浜田市や石見部・隠岐などは、県からあてがわれる教員を黙って受け入れるしかない。
しかし県職の教員はすでに松江・出雲両市によって食い荒らされているから、平凡な、あるいはそれ以下の教員が町に居座ることになる。
教育条件の悪化したこれらの市町村から、意識の高い保護者たちが子どもを連れて松江市や出雲市に流れる。人口を増やし、さらに財政を豊かになった二市は独自採用の枠を広げ、教員配置のアンバランスは加速される・・・。


教育の分権を目指してそこから一歩踏み出す意欲と気概のようなものも示してほしかった。
と主張する山陰中央新報。しかしそうした勇断がなされた時、そこにいったい何が起こるか考えてみたことがあるだろうか?





 

2006.02.14
2人に1人が自家用車通学 中城村の小中学生

琉球新報 2月14日]

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学校へはどのように登校していますか
 

 中城村教育委員会が村内の小中学校に通う児童・生徒1549人を対象にこのほど行った生活実態調査で、子どもたちを学校に車で送り届ける家庭が小学生で51%、中学生で56%に上ることが分かった。「子どもとのコミュニケーションに役立つ」との声がある一方、子どもを巻き込む事故や渋滞の要因にもなっていることから問題視する意見も上がっている。
 「徒歩」と答えたのは、小学生が32%で3人に1人、中学生は25%で4人に1人だった。
 村教委は「学校に子どもを送り届ける車はここ2、3年の間に増えてきた印象がある。子どもが相次いで事件や事故に巻き込まれたことに、敏感に反応した結果ではないか」と分析している。
 村教委は2005年5月、村内の分校2校を含む4小学校と1中学校に通う児童・生徒を対象に「2005年度中城村子どもの生活実態調査」を行った。
 「あなたは、学校へはどのように登校していますか」との質問に対し「家の人の車」と答える子どもが小1から中3までの全学年でトップになっており、最も割合が高かった中1では、家の人に車で学校に送ってもらっている生徒は60%だった。
 村教委は「親の間からは、車内で子どもとおしゃべりができ、コミュニケーションが取れていい、という声も聞かれる。しかし、学校周辺が渋滞するという声もあった。実際にどれくらいの子どもが家の人に送ってもらうのかを把握しようと質問項目に設定した」と調査目的を説明している。
 村PTA連合会の比嘉義男会長は「5割というのは多すぎる。家から学校までの距離が遠いなどの地理的な要因や、通学路で事件に巻き込まれる可能性が高いと考えられる場合など、車での登校が必要だと理解できるのは2割程度ではないか」と指摘。「接触事故で子どもが巻き込まれるケースも多くあることから、各学校のPTA会長などとも話し合いをし、何度も車での登校をやめるよう呼び掛けるチラシを配っているが、改善されない」と話している。



これは解せない。
保護者の責任での送り迎えは、児童・生徒の安全確保の決め手だ。
PTAの安全パトロールや老人クラブのワンワン・パトロールに比べたら、絶対にこちらの方が確実である。
保護者の自己責任という意味でも望ましい。
それが問題視されるとは!

たしかに、子どもを甘やかすな、という感じ方はある。
正直に言えば私も本来はそうであって、自分の子どもについては絶対に送り迎えなどしない。通常の警察のパトロール以外に、誰かに守ってもらおうとも思わない。

しかし世間は「不審者からの子どもの安全」こそ最優先で、つい先月まで、通学路の不審者対策はすべてを犠牲にして取り組むべき最優先事項だったはずだ。そのために私たちも、勤務時間外のパトロールを強いられている。
にもかかわらず親の送り迎えはダメとなると、結局、
子どもの安全については学校が全責任を負うべきものであって、親が追うべき性質のものではない
ということになりかねない。いや、実際そうだろう。

「子どもの安全は学校の先生が守ります」
と、言うはたやすい。
しかし忘れては困る。私たちは子どもの安全を守ったあとで、授業もしなくてはならないのだ。







 

2006.02.21
下校中に児童が一人になる場所など周知が不十分(香川)

読売新聞 2月21日]



 下校中に児童が一人になる場所や時刻について、保護者への周知が十分になされていない小学校が4割以上だったことが、県教委がまとめた登下校時の児童・生徒の安全確保に関する取り組み状況調査で明らかになった。

 調査は、1月18日までに県内の公立小194校と公立中80校を対象に実施。▽登下校時の安全確保▽登下校時の対応策▽保護者や地域ボランティアの活用など地域を活用した体制の状況――を柱に13項目について聞いた。

 小学校で、子どもが下校中一人になる場所を保護者に知らせているかについては、57・2%(111校)は知らせていたが、知らせていない学校が42・8%(83校)あり、課題が残った。

 児童が犠牲になった広島市などの事件を受けて、交通安全だけでなく、防犯面から通学路の設定が求められるようになったが、実際にその視点からの設定になっているかどうかについては、「以前から対応していた」が61・3%(119校)、「新たに対応した、または対応中」が38・1%(74校)で、「対応していない」は0・5%(1校)だった。

 防犯上の要注意場所を示す安全マップの作成では、「以前から作成していた」と、「新たに作成中、または作成中」がともに50%で、全校が対応していた。

 警察との連携で、登下校時のルートや時間帯の情報を警察と共有しているかどうかは、「新たに、またはこれから共有する」が60・8%(118校)に対し、「共有していない」が6・7%(13校)あった。一方、不審者情報の共有は86・6%(168校)が「以前から共有」しており、残りも新たに共有したり、現在整備を進めたりしていた。

 パトロールなど地域全体で子どもを見守る取り組みが行われている時間帯は、登下校時での実施は68%(132校)、登校時のみは15・5%(30校)、下校時のみは12・9%(25校)。事件が頻発する下校時の活動への参加者について157校(複数回答あり)に尋ねたところ、保護者(75・2%)や教職員(77・7%)に次いで老人クラブが34・4%(54校)と多く、時間にゆとりを持つ高齢者が、子どもの安全に貴重な存在になっていることを示した。

 中学校では、いずれの項目も小学校より劣った。各設問について、まったく対応していない学校が常に2〜4割程度あった。

 県教委保健体育課は「対応が十分でない学校もあったが、各校の環境に合わせて、一番いい方法を確立してほしい」としている。


この記事が分からないのは私一人だろうか?
ココまで堂々と書かれると不安になる。


 下校中に児童が一人になる場所や時刻について、保護者への周知が十分になされていない小学校が4割以上だったことが、県教委がまとめた登下校時の児童・生徒の安全確保に関する取り組み状況調査で明らかになった。

児童が一人になる場所や時間というものは、学校が保護者に知らせるべきものなのか?
いやそもそも、それを学校は把握している、学校が知らせなければ保護者には分からない、というところからして分からない。

しかも読売新聞はそれを当然のことのように考えている、それも理解できない。


さらに読み進み
小学校で、子どもが下校中一人になる場所を保護者に知らせているかについては、57・2%(111校)は知らせていたが、知らせていない学校が42・8%(83校)あり、課題が残った。
となると私は真面目にショックを受ける。
香川県の小学校の57・2%がすべての児童について、その下校コースと一人になる場所を把握しているのだ!
(否、57・2%は周知した学校の割合であって、把握はしているが周知しなかった学校を含めると、児童の下校を完全把握している学校の割合は計り知れないのだ)。
私の学校もすべての生徒の下校コースと一人になる場所を把握しているが、それは生徒と保護者から聞いたから分かったのであり、最初から学校が把握していたものではない。

まさか香川県では小中学校のすべてで集団下校が行われていて、生徒たちの解散場所と解散時刻は学校が決めているということもないだろうに・・・。







 

2006.02.24
茶髪の女生徒に黒スプレー 京都の高校教員

共同通信 2月24日]


 茶髪を理由に高校2年の女子生徒(17)に授業を受けさせず、髪に黒色のスプレーをかけたのは人権侵害だとして、京都弁護士会(田中彰寿会長)は24日までに、京都市立日吉ケ丘高校(同市東山区)に対し、改善を求める要望書を送付した。
 要望書などによると、女子生徒は茶髪を理由に学生証用の写真撮影を学校に拒否され、2年生だった昨年4月、髪を黒く染めるスプレーを無理やり教員にかけられた。8月には、同じ理由で授業を受けずに下校するよう指示され、テストが受けられなかった。
 女子生徒はやむなく髪を黒く染めたが、その後休みがちになり、10月、通信制私立高校に転校した。精神的ショックで、現在も精神・神経科に通院しているという。


保護者に訴えられるリスクを犯してまでも生徒の髪にスプレーをかけるという情熱は、教員以外には分からないだろう。
しかし十分なりゆうがあるのだ。

ひとつは校則適用の公平性である。
保護者が協力的なAにスプレーをかけ、訴えそうなBにはスプレーを控えるということはできない。リスクを引き受ける当然の理由である。


もうひとつの理由は、目の前の生徒の人権を殺しても、将来のその子の人生を生かそうという情熱である。

髪にスプレーをかけるというハードな対応が行えるのは、この学校がかなりのレベルで茶髪を排除できている証拠である。そんな学校で茶髪を押し切れる子は、相当に規約を無視のできる子である。
社会の決まりより自己の欲望を優先できる子であるはずだ。

そんな子をそのまま社会で送り出していいものだろうか? それが通用すると信じて社会に出る子に幸せな人生などあるのだろうか?
学校はそう考えた。

しかし他方、「それでいい」と保護者は考えたのだろう。
通信制私立高校に転校しなければならなくなった子が、かわいそうでしかたなかったのだ。
目の前のその子を生かし、将来のその子を殺す道を選んだのだ。
親に殺される子・・・

精神的ショックで、現在も精神・神経科に通院しているという。
学校のいかなる手段にも屈しなかった子が、どうしてそんなことになるのか・・・。
私は信じない。