キース・アウト
(キースの逸脱)

2006年4月

by   キース・T・沢木

サルは木から落ちてもサルだが、選挙に落ちた議員は議員ではない。
政治的な理想や政治的野心を持つ者は、したがってどのような手段を使っても当選しておかなければならない。
落ちてしまえば、理想も何もあったものではない。

ニュースは商品である。
どんなすばらしい思想や理念も、人々の目に届かなければ何の意味もない。
ましてメディアが大衆に受け入れられない情報を流し続ければ、伝達の手段そのものを失ってしまう。

かくして商店が人々の喜ぶものだけを店先に並べるように、 メディアはさまざまな商品を並べ始めた。
甘いもの・優しいもの・受け入れやすいもの本物そっくりのまがい物のダイヤ
人々の妬みや個人的な怒りを一身に集めてくれる生贄
そこに問題が生まれれば、今度はそれをまた売ればいいだけのことだ。















 

 

2006.04.08

9年生「歴史作りたい」
品川区の小中一貫、日野学園が開校


産経新聞 4月7日]


 六・三制の義務教育を再構成した「小中一貫教育」が新年度から東京都品川区の全区立小中学校でスタート。小、中学校の施設を一体化、温水プールなどを備えたモデル校の「日野学園」(同区東五反田)では六日、小坂憲次文部科学相らが出席し、開校式が行われた。自治体全域で小中一貫教育を行うのは全国で初めての試みで教育関係者の注目を集めている。


 品川区教委では中学入学を境に、いじめや学級崩壊、不登校などの問題が多発していることに着目。六・三制が子供たちの身体的・精神的な発達状況に見合っていないとし、9年間の小中一貫教育を区内全域に導入、小中両方の教師が継続的に一貫性のある指導を行うことにした。

 「1−4年生」は学級担任制で基礎・基本を学習。5年生以降は教科担任制となり、「5−7年(中1)生」で習熟度別学習などを活用し学力の定着、「8−9年(中2−3)生」ではさらに教科選択の幅を広げて生徒個人の個性・能力を伸ばしていくという。また一年生から英語授業を行うほか、社会規範などを学ぶ独自科目「市民科」も新設した。

 この日開校した日野学園は、区立第二日野小と日野中が一緒になって新たに開校した施設一体型の小中一貫校。全校生徒約550人を前に、開校式で児童・生徒代表としてあいさつした2年生の宮川紀子さん(7つ)は「冬でも温水プールで泳げるのがうれしい」、9年生の加藤洋将君(14)は「一年から九年まで力を合わせて新しい学校の歴史をつくりたい」と期待に胸を膨らませていた。

 同区教委によると、日野学園以外の区立小中学校は別校舎のまま連携して一貫教育を行うが、今後、日野学園のような施設一体型の学校をさらに五校増やす予定。同区の若月秀夫教育長は「今後はどれだけ成果を出せるか、小中一貫教育の中身が問われる。制度の変化が教師の意識の変化につながれば」と話していた。



この内容に関する産経新聞の立場は明らかではない。
9年の義務教育を6-3から4-3-2にするということ、それは「日本人の子どもの精神発達に制度を合わせる」ということである。
マスメディアには、この改革の意味するところが分からないのだろう。

心理学者のピアジェは、子どもの抽象的思考は12歳を過ぎないと発達しないことを明らかにした。エリクソンなどの発達心理学の立場からも、この考えは支持されている。
ところが、日本・イスラエル・アメリカの調査によると、

日本の子どもだけが2年早く、抽象的操作ができるようになる

のである。
日本人が民族的に頭がいいというわけではない。主語と述語の間が遠い(従って常にその間を推測で補い続けなければならない)という日本語の特性が原因だという人もいれば、数字の称名が10の位で著しく異なる(11と12で特別な読み方をし、13以降は一の位を先に読む、20以上は十の位が先)英語の特性が英語圏の子どもの抽象的思考を阻害しているという見方もある。しかしいずれにしろ、日本の子どもは小学校4年生を終えたところで、算数ではなく数学を、図画でなく絵画を学ぶ力を持っているというのである。

そうした説明は私たちの実感とも重なる。
小学校5年生は、小学校1年生よりも中学3年生と一緒にした方が絶対に似合う。小学校5年生の問題と中学校3年生の問題との間には、確実なつながりがあるのだ。それをさらにきめ細かくし、4-3-2となればこれは完全に私たちの実感と重なってくる。

戦後教育史の中で最重要の事件。
産経新聞は取り上げただけでも、まだマシということなのかもしれない。










2006.04.11

「公立中の部活動」
「やりすぎ多い」医師が警鐘


朝日新聞 4月10日]


 秋田市立中学に通う2年生男子生徒の母親からハードすぎる部活に疑問を投げかける手紙が届いた。

 「陸上部の練習が連日遅くまであり、夏は午後7時ごろまで学校にいます。疲れて果てて帰宅し、夕飯などを済ますと寝るだけ。土日もつぶれます。公立中でこんなに部活をやる必要があるのでしょうか」

 同じ学校の女子生徒の母親は「吹奏楽部も大変。他県に引っ越した人によれば、秋田は特に大変らしい」とのこと。転勤で秋田市から転出した親に聞いてみると、「早く帰ってくるようになりずっと余裕ができた」(中2、山梨県)、「短時間に集中して練習するようになって喜んでいる」(中3、山形県)。

 秋田市内の秋田組合総合病院のスポーツ外来担当の整形外科医、石沢暢浩さんは05年、市内の中学生にアンケートをし、主に部活で運動をしている1355人の回答を分析した。1日の練習時間は約75%が2時間以上、27%が4時間以上。94%が「週に5日以上」、半数が「家に帰っても疲れる」、6割が「体に痛みがある」と回答した。

 「秋田も学校によって違うが、中学生としては、やりすぎの学校が多いことがよく分かった。この年代は体格差が大きいのに、一律の練習メニューではけがが多くて当然です」と話す。

 ただ、部活に多くの時間を割くのは秋田市だけの傾向ではない。

 文部科学省の「運動部活動の実態に関する調査研究協力者会議」が01年、調べた結果、中学校で週6日以上活動している例が64%あり、時間も「2〜3時間」が47%、「3時間以上」が13%だった。「休養日を定めている」のは約6割だったが、土日の活動を「どちらも認めている」との回答も6割だった。

 文化系の生徒からも厳しい部活への疑問が寄せられている。茨城県の公立中学2年の女子生徒は吹奏楽部の部活で毎日疲れ切っているという。「朝練や長時間の練習でほかのことをする余裕がない。風邪でも休みにくく、つらい。でも、やめると友達や先輩との関係が悪くならないか心配」

 元公立中学教諭で教育評論家の尾木直樹さんは「部活は充実感を共有したり、自己肯定感が増したり、良いことも多い。だが、生活が部活のみになる危険もある。思春期に様々な経験をし、自分としっかり向き合う時間がないと、自立心も育たない」。

 少子化で教師の数が減る中、部活は教師にとっても負担が大きい。「時間を短くするか、地域の受け皿を作って活用するべきだ」と話した。


 部活の話となると素直になれない教員は多い。
 中学校で週6日以上活動している例が64%あり、時間も「2〜3時間」が47%、「3時間以上」が13%だった。
 そのほとんどを、教員は強制的なボランティアとして付き合っているからだ。もちろん好きでやっている人はいいが、部活の選択は大半は好きでも得意でもなく、多くの場合ど素人からその部活の顧問として育っていくのが普通なのだ。

 ではその、「すきでも得意でもない」部活に、なぜ教員は多くの時間とエネルギーを注ぎ込んでしまうのか? そこには単純で現実的なある理由がある。
 それは例えばバスケットボール部の顧問として、4対68といった負け試合に、教師として耐えていけるかという問題である。

 バスケットボールで4対68といえばほとんどなぶりものである。
 全試合時間の大部分の間、ボールは自軍のコートをやり取りされ、敵のゴール下にはほとんど行かない。たまにチャンスが生まれても、打ったショットはことごとくリングをかすめ、敵のゴールは面白いように決まっていく。ゴールを決められ、自軍のゴール下からコートに投げ入れたボールが1秒足らずで敵の手に落ち。そのまた1秒後に自軍のゴールに投げ込まれる・・・・。

 自分の教え子がなぶりものになっているという状況に、教員は黙って耐えていて良いものだろうか?

 ウチは子どもにムリをさせない方針だからこれでいいのだ、と満足そうに腕組みをしていて良いものだろうか? 
 そしてそんな顧問を、保護者や選手たちは「生徒を大事にしてくれるよい先生」と思ってくれるだろうか?

 かくして生徒を大切にしようとする部活顧問は必然的に鬼になる。なんとしてもこの子たちに勝利の美酒を味合わせたい。どんな強いチームと対戦してもダブルスコアだけは喫しないぞ、そう考えるだけで当然部活はエスカレートする。

 公立中でこんなに部活をやる必要があるのでしょうか

 公立中学校で、というのは要するに「選択の余地なく必然的に参加しなければならない場で」ということだろう。その通りだ。ここはぜひとも、部活を参加自由の社会体育に変更してもらわなくてはならない。










2006.04.18

団塊世代引退へ大量補充 「先生」争奪戦激化

朝日新聞 4月17日]


 団塊世代の大量退職を目前にして、各地の教育委員会が「先生」の確保に躍起になっている。とりわけ都市部では、現職教員の「引き抜き」から、試験科目の削減まで、なりふり構わぬ争奪戦の様相だ。15日には東京都が大阪に、大阪府が東京に、それぞれ乗り込んで説明会を開いた。

 ●「敵地」で説明会

 「今や教師の平均年齢は45歳を超え、40代以上の先生が7割以上を占めています。ベテランの先生が退職した後の大阪の学校を担うトップランナーとして、みなさんに期待しています」

 15日午後、東京都中野区で開かれた大阪府教委の教員採用試験の説明会。教職員人事課の兵庫将夫参事は、集まった約200人の学生らに秋波を送った。その後の討論会では、採用2年目の若手教師が面接のこなし方などの秘策まで披露した。時をほぼ同じくして東京都教委は、大阪市で「東京都の教師の魅力」を力説していた。

 東京都は03年から大阪で、大阪府は04年から東京での説明会を実施。今年はついに同日開催となった。

 大阪府は東京、名古屋、広島に加えて今年から高松市にも遠征。愛知県も負けじと、東京、大阪での開催に踏み切った。千葉県は東北、北海道の大学まで求人に出向く。都教委では、2年ぶりに仙台市でも説明会を開くほか、大学3年生を対象にした説明会をこの秋、都内や近隣の大学で始める。

 「争奪戦」の背景には、団塊世代の大量退職がある。東京都では08年度をピークに今後10年、毎年2000人以上のベテランが現場から去る。都教委は、「大量退職で競争倍率が低下すると、教員のレベルダウンを招かないか」と心配する。

 小学校では、採用がわずか129人だった96年度は競争率は15.3倍と「狭き門」だった。ところが、大量退職に備えて05年度に1425人を採用した結果、倍率は全国最低の2.5倍に。採用数が多い首都圏や大阪、愛知など大都市部は当然、低くなる。一方、採用数が50人に満たない福井、高知、島根では20倍を超える。

 都の試算では、児童数は10年度まで増え続け、必要な教員数は08年度に小学校だけで1800人。受験者が横ばいだと、競争率は2倍程度が続く。都教委は「2〜3倍では試験に緊張感も出ない。5倍は欲しい」と危機感をあらわにする。

 ●試験楽にし引き抜き

 大学生だけではとても足りず、都教委は、他の自治体などで働く現職教員の「引き抜き」を強化。小学校では今回の試験から論文を免除し、面接試験だけにした。

 年齢の上限も40歳から45歳未満に。教員経験者や社会人に対する特例も広げ、「即戦力」の補充をはかる。50代が3割、30代は2割弱という、いびつな年齢構成を是正する考えだ。

 一方、近隣の反発を買いながらも、04年度に「引き抜き」特別枠を設けた大阪では、「受験生の負担軽減」に踏み切った。小学校の筆記試験の教科を7教科から4教科に減らし、音楽の実技はピアノ演奏をやめ、歌だけにした。

 文部科学省によると、全国の小学校の教員採用試験は、競争率が00年度の12.5倍から下がり続け、05年度は4.5倍。05年度の採用試験では、現職教員や教職経験者に対し、17自治体で一部試験を免除し、33自治体で年齢制限を緩和した。



読んでまず驚くことは、
アレほど教師の指導力の低下を嘆いていたマスメディアが、それでもなお、教員の指導力には下がる余地があると考えている
ことだ。

都教委は、「大量退職で競争倍率が低下すると、教員のレベルダウンを招かないか」と心配する。
本来ならここで、もう十分下がっている、いまさら何を言うのだと呵呵大笑するくらいの気概は、あってしかるべきであろう。それをなぜ都教委と一緒になって憂えるのか?

そもそも競争率は15.3倍と「狭き門」だったというその門をくぐってきたはずの教員が、なぜこうも指導力を欠いているのかと、その部分を大いに検討すべきところだった。しかしメディアはそうした本質的な問題は後に回し、ただひたすら教員を叩くことによって問題を解決しようとしてきた。

大変な競争率を勝ち抜いてきた教員が本当はどうだったのか、今からでも遅くない。もう一度考えてみるべきだろう。そしてその彼らでもうまく行かない教育というものを振り返ってみるといい。












2006.04.23

小学校英語/「必修化ありき」ではなく

神戸新聞 4月23日]


 小学校での英語学習が、どうやら「義務」となる方向へレールが敷かれそうだ。不安や期待が入り交じって、少なからず波紋も広がっている。

 中央教育審議会の専門部会が小学校の英語教育必修化を提言し、来年に向けて改定作業が行われる学習指導要領に盛り込まれる見通しである。

 提言によると、五、六年を対象に週一時間程度を想定しているようだ。外国人とコミュニケーションを図る積極的な姿勢の醸成を何より重視する内容だ。そのため会話や文法から入るのではなく、英語を体験し、親しむことを主眼に置いている。

 グローバル化により、英語の重要度は高まっている。それには柔軟で適応力のある小学時代から慣れ親しむことが大切だ。必要性について、提言はそう説いている。

 現在でも、全国の九割以上の小学校が何らかの形で英語教育を取り入れている。ただ、ほとんどは「総合学習」の時間に、月一回程度というのが実情である。

 とはいえ英語教育特区などで熱心に取り組む地域と、まったく手付かずの学校との格差もある。必修化の背景には、義務教育としてこれ以上、放置できないとの現状認識があるのも理解できないことではない。

 小学校の英語必修化には、もとより賛否がある。

 賛成論の根底には、英語は必須の国際語であり、身につけるには早い方がいいという考え方がある。日本の英語教育は「会話力」がずっと論議の的になってきた。「学校で十年学んでも話せない」。繰り返し聞かれる、こんな声が後押ししている。

 一方、反対論は「小学生は国語教育こそもっと充実させるべきだ」が、代表的な意見だろう。母国語が大切であることは、いうまでもないことだ。

 それぞれ傾聴すべき内容を含んでいる。ただ、「英語か国語か」という二者択一の論法に陥ってはなるまい。

 今回の提言は、英語に親しむことを強調しており、教科としての位置付けまで決めてはいない。総合学習の中で成績をつけずに、現状よりもう少し強化する範囲なら他教科への圧迫は少ないかもしれない。

 問題は、教育現場の負担が小さくないことだ。英語教育の経験が乏しい教師が、どこまで英語に接する楽しさを児童に伝えられるのかも課題だろう。英語学習は初めが肝心である。かえって英語嫌いを生んでしまうような必修化になってはならない。

 必修化はまだ決まったわけではない。あり方をめぐる広い論議が必要だ。



なぜ英語なのか?
日本の英語教育は「会話力」がずっと論議の的になってきた。「学校で十年学んでも話せない」。繰り返し聞かれる、こんな声が後押ししている。
中学校が3年、高校が3年。大学の教養課程で学んだ年数を入れても10年は学ばなかったと思う。
しかしそのことは別としても、なぜ英語だけがこんなに特別の地位が与えられるのか?

何年たっても身につかないのは他の教科も同じだ。
理科は小学校3年生から学んで中学から高校まで10年。一時は摩擦係数の計算ができ、ベンゼン環が何か理解できて構造式が書けるまでに実力を上げたはずなのに、今は何もできない。
国語ではかつて源氏物語の一部を原文で読むことができた。しかし今それのできる人はほとんどいない。
数学は英語の二倍、小学校の1年生から学んで12年間。最後は対数だの三角関数だの虚数だの、そしてベクトルなどを学び理解したはずなのに今はできない。
みんな同じではないか。
使わないものはみな忘れられる。それはあたりまえである。
わたしなど過去数十年間、英語が話せなくて困ったことなど一度もない。アメリカに行った時だって、6年余りの英語力で何とか用は足りたのだ。
なのになぜ英語には特別の地位が与えられるのか?

グローバル化により、英語の重要度は高まっている。
理数科の重要度だって高まっている。
コミュニケーション能力が問題というなら国語の重要性だって高まっている。
なのになぜ英語なのか?












2006.04.24

選ばれる学校4:「人気差」の意味 上位校は学力で?

朝日新聞 4月24日]


 学校選択制は、学力や家庭の経済力による学校間の序列を生み出してしまうことはないのだろうか。

 東京都X区。地下鉄駅前の音楽教室に、小6の娘を連れた自営業の女性(38)がいた。

 来春は、私立中学校を受ける。受からなかったときは学校選択制で他学区に、と考える。希望は、A中かC中。昨年の学力テストで、区内1位と2位だった。

 小学校も他学区の学校に通う。「駅に近く、転勤族が多く、教育熱心」。親の半分は保護者会に来る。そういう場で、どの中学がいいかの情報も交換できる。一方、地元の小学校は子どもが近所でよく問題を起こす。「親も放任。保護者会も4分の1ほどしか来ない」

 中学も、選べる以上は最善をと思う。「先生も親も一生懸命な学校を選びたい」

 駅に近いA中から大通りを約10分。隣のB中は学校選択で人気がない。グラフ

 「B中の子はちょっと悪いって評判だから」。学校に近い都営団地に住む運送業の男性(36)はあっさり言った。「駅前でつるんでたりするからね。だけど、知ってる大人を見ればあいさつするよ」と付け加える。

 そのB中に今年、長男が学区通りに進んだ。「うちの子はつるまない。人に影響されないタイプだから」

 同じ団地に住むパートの女性(42)も「少し粋がった格好をしてるだけ。近くにあるものは悪い点ばかり目に入る」と冷静だ。しかし、長男がこの春に選んだのはA中。B中は人数が少なく、部活動が盛んではないとの理由だった。上の娘はB中だった。当時は4クラスあった。「選択制になって、急に生徒が減った。学力テストもA中が断トツ。制度がこんな格差をつくっていいの」。女性は戸惑う。

◇部活・先生の熱意なども要素に

 A中とB中は、人気と学力、家庭の経済的環境の3点セットで、大きな開きができてしまっている=グラフ。専修大学の嶺井正也教授らが、両校を含めた全区立中について調査した結果だ。

 学力と経済力については「中間辺りの学校はそうでもないが、上位と下位の学校は相関があるのではないか」と嶺井教授らは見る。

 人気と学力の関係も「人気が高め、テスト成績も高め」か「人気が低め、成績も低め」の学校が多く、「人気は高めだが成績は低め」や「人気は低めだが成績は高め」の学校は少ない。

 区教委の担当者は次のように説明する。「確かにA中とB中は『なぜこうも違う』の典型例だが、A中は官僚などの高学歴家庭が学区に多い事情がある。両校のような対比は全体には当てはまらない。中位校はテストごとに順位の変動が大きい。校長の交代でガラッと変わった学校もある。学力の固定化はない」

 Y区やZ区も、学力テストの結果を学校ごとに公表している。両区でも、テスト結果が区内1位となった中学が翌年の学校選択で人気が急増した例がある。

 Y区教委は、学区外の学校を選んだ親子に、理由を聞いた。学力調査の最上位校では、「学力調査の結果」を挙げる率が他校よりかなり高かった。ただ、学区内の学校を選ばなかった親子では、「学力調査結果が悪い」を理由に挙げた人はほとんどいなかった。「学力調査を重視する親子は確かにいる。だが、そういう人も部活動や先生の熱意などほかの要素も見て決めている」と、区教委の担当者は話す。

 選択制の下での学力テスト結果公表には、「序列化を招かないか」との批判もある。Z区の担当者はこう答える。

 「選んだ側にも選んだ責任を求める。そうである以上、判断材料はきちんと提供すべきだ」

 広島市も学校選択制があり、県の学力テストもあるが、各校にはホームページなどでの成績公表は求めていない。「あくまで自校の授業改善に生かしてもらうのがテストの趣旨だから」

 07年度から全国学力調査が40年ぶりに実施される。文部科学省の専門家検討会議は最終報告で、「序列化や過度な競争をあおらない工夫をする」との条件付きながら、学校ごとの成績公表も認める方針を示した。

 嶺井教授は話す。「選択制の下で成績が公表されれば、地方でも主要都市では東京のような格差の波及がありうる」

注 学力テストは05年実施で中2が対象。就学援助率は、文房具代や給食費などの公的援助を受けている生徒の割合。人気度は、各校について学区外からその学校を選んだ子と他学区を選んだ子の差し引きした人数を指標にした







かつて、学校では平等が絶対的な価値であった
すべての児童生徒は同じ教育を受け、同じように扱われてきた。
同じ制服を着、同じ給食を食べ、同じ学習材を使い、同じように学んだ。少なくとも義務教育では、学力で差をつけられることもなかった。そうした完全平等主義を盾に、児童生徒もまたエコヒイキする教師を糾弾することもできた。

しかし70年代後半より、平等より重要な価値が導入されるようになった。それは「自由」である。子どもたちの個性を盾に、学校に徹底した自由が導入されることになる。

制服が廃される、持ち物が自由になる。成績は児童生徒の努力によって勝ち取られるものではなく(そんな不自由には耐えられない!)、教師の授業改善によって獲得されるのが当然となる。
平等を守るための校則が次々と見直される。学校選択の自由もその中の重要な一項目となる。メディアはそれを強烈に支持した。マスコミは自由の敵と戦うのが大好きなのだ。

さて、その上で、だ。
子どもたちは、自由に社会を闊歩するようになった。聞く価値のない授業は(ということはほとんどの授業はということだが)聞かなくなった。彼らの自由を奪う教員は敵ではなく、単なるばか者になった。
成績を上げる責任は教員にあるのに、なぜ自分が勉強などという苦しいことをしなければならないのか分からなくなった。

親たちも分からなくなった。息子には努力しなくても成績を上げてもらう権利がある、私にはがんばらなくても素晴しい娘を持つ権利があると思うようになった。それがそうならないとしたら、原因は教員の指導力不足以外にないと思うようになった・・・・・・。

学校選択制は、学力や家庭の経済力による学校間の序列を生み出してしまうことはないのだろうか。
冗談じゃない。
学校選択を自由にすればそこに序列が生まれるのは当然だろう。
そんな自明のことを、マスメディアの諸氏が知らなかったはずがない。にもかかわらず序列ができようとする今、これを批判するとはなにごとか?

古い昔、マッチ・ポンプという言葉があった。自らマッチで火を点け自ら消す。そしてその栄誉を独り占めする者、それがマッチ・ポンプである。

いまやメディアはマッチ・ポンプに成り果てた。













2006.04.25

「連絡網作れない」私立小で深刻な影響

読売新聞 4月25日]



 個人情報保護法の見直しの必要性を検討している内閣府の国民生活審議会個人情報保護部会のヒアリングが24日行われ、日本私立小学校連合会が「緊急連絡網を作成できないなど、必要な情報さえ共有できない過剰反応が現場で起きている」と報告した。

 同連合会の平野吉三会長は、私立小では公立小に比べて児童が広い範囲に居住しているため、緊急時の連絡網が重要な役割を果たすことを指摘、「極度に個人情報が閉ざされている。国には、個人情報の必要性も周知してほしい」と要望した。

 これに関連して、清原慶子委員(東京・三鷹市長)は、「(保護法のため)消極的な教育になっていないだろうか。児童の安全、安心のためにどのような情報が共有できるのかを、今後の見直しの中で検討するべきだ」と述べた。

 また、東京・練馬区役所は、阪神大震災の死者のうち、発生後の劣悪な生活環境などによる関連死が14%余りに上ったことを挙げ、高齢者ら要援護者の名簿を本人が拒否しない限り、平時から関係機関や団体に提供できるようにするべきだと訴えた。


個人の自由と欲望に常に最大の敬意を払ってきたマスメディアも、個人情報保護法に対してだけは否定的だ。
なぜならこれが濫用されるとき、メディアは取材が著しく制限されるからである。

国民の自由と欲望よりも、メディア自身の自由と欲望はさらに重要らしい。

さて、それはさておき、
連絡網が作れないという悩みは私立学校だけではない。私の学校でもすでにそうした要望はあちこちから出ている。緊急の連絡があるなら、直接電話してほしいのだそうだ。

それがクラスで2〜3人なら、担任もまだ対応できる。しかしそれが三分の一を越えたらどうだろう? 緊急の連絡時間は飛躍的に増える。

一方保護者の方はどうか?
クラスの三分の一が連絡網に電話番号を載せないとき、それでも敢て乗せ続ける人がどれだけ残るだろう?
それが半数を超えたら、私だって連絡網への掲載を拒否する。自分たちだけがわが身を危険に曝す理由はどこにもないのである。

かくしてやがていつか、緊急の連絡は担任がすべての家庭に電話することになる。その間、緊急事態に対して何の対応もできない。
一人の保護者に連絡を取るのにかかる時間が平均3分として(とにかく連絡のつかない家庭はいくつかある)、30人余りクラスで90分。
これだけの時間があれば、危険な事態は一気に進むだろう。

ある種の正義は、それを本気で守ればみんなを不幸にすることがある。
学校は、行き着くところまで行かないと再生できないのかもしれない。














2006.04.30

「仕事に負担感じる」9割・県内公立中学校教員の実態調査

読売新聞 4月29日]






 「12時間勤務も休日出勤も、生徒のためなら頑張れる。それでもやっぱり負担は感じる」−。県教育委員会が行った県内公立中学校教員の勤務実態調査結果から、こんな現状が浮き彫りになった。約9割の教員が仕事に負担を感じており、部活動や膨大な事務作業などで長時間労働になっているほか、保護者らの過度の期待や複雑化する生徒指導など、さまざまな要因が背景にあることが分かった。

 28日に開かれた県市町村教育長会議で調査結果が示された。調査は教員の資質向上や能力を発揮できる環境整備のため、荘銀総合研究所に委託し、去年10−12月に▽教員900人対象のアンケート▽教員15人へのインタビュー▽教員3人を抽出した実地調査−を実施した。教員アンケートは回収率約40%。

 調査結果によると、平日の平均勤務時間(昼休みなども含む)は11.3時間で、学校行事や試験期間などで忙しい日は12.9時間に上った。中には、17時間と回答した教員もいるなど、特定の教員に仕事が集中する傾向もみられた。仕事の内訳は授業2.8時間に対し、事務(デスクワーク)2.1時間、清掃や朝礼などの指導活動1.7時間と続き、部活動は1.2時間。休日出勤の勤務時間は1日平均6.9時間だった。

 また、インタビューでは「行事や部活動などは生徒の成長のためなら、やりがいを感じる」という傾向がみられた一方で「仕事に負担を感じている」とする教員は89.8%に上った。理由としては「一時期に仕事が集中する」「家庭や地域で行うべきことも担っている」「教員数が少ない」などが挙がった。

 荘銀総合研究所の報告書では、改善策として▽管理職に対し、学校マネジメント研修を開く▽事務効率向上のためIT化を推進する▽部活動に外部指導者を導入する▽校内見回りや集金作業などを外部に委託する−などを提案している。しかし、県教育やまがた振興課は「すぐに実現できるものではなく、これからの検討課題」としており、こうした勤務状態は今後も続きそうだ。



どんな世界にも仕事のできる人とできない人がいる。そうである以上、
特定の教員に仕事が集中する傾向
が生まれるのは当然であって、そこに問題はない。
問題は、どのような方法をとっても、学校の状況は変わりそうにないということだ。


学校マネジメントは教員を管理するためにしか使われないし、
IT化で仕事が減ったためしはない。
部活動に外部指導者を導入しても、その外部コーチとの折衝、試合への引率、練習における生徒の管理は相変わらず教員の仕事である。
校内見回りや集金作業などを外部に委託、もちろん金があればできることだが、教員にやらせておけば10数時間の労働に耐えてもやってくれることを、わざわざ金をかけて外部に委託することもないだろう・・・と人々は考える。

この3年間に、私の中学校区では二人の教員が亡くなり、二人が長期入院をした。そして一人は学校に来れなくなった。
学校は行き着くところまで行かないと、再生できないのかもしれない。