キース・アウト
(キースの逸脱)

2006年5月

by   キース・T・沢木

サルは木から落ちてもサルだが、選挙に落ちた議員は議員ではない。
政治的な理想や政治的野心を持つ者は、したがってどのような手段を使っても当選しておかなければならない。
落ちてしまえば、理想も何もあったものではない。

ニュースは商品である。
どんなすばらしい思想や理念も、人々の目に届かなければ何の意味もない。
ましてメディアが大衆に受け入れられない情報を流し続ければ、伝達の手段そのものを失ってしまう。

かくして商店が人々の喜ぶものだけを店先に並べるように、 メディアはさまざまな商品を並べ始めた。
甘いもの・優しいもの・受け入れやすいもの本物そっくりのまがい物のダイヤ
人々の妬みや個人的な怒りを一身に集めてくれる生贄
そこに問題が生まれれば、今度はそれをまた売ればいいだけのことだ。















 

 

2006.05.10

登校後に乳製品食べて
11日から小中8校で提供 岡山・美咲
「朝食抜き」に配慮


山陽新聞 5月9日]


 岡山県美咲町は8日、町内すべての8小中学校の児童生徒(1217人)を対象に、登校後に毎日、牛乳や乳製品を自由に飲食してもらう食育事業を11日から始めると発表した。朝食抜きなど子どもの食生活の乱れが深刻化する中、朝食の補完と位置づけている。

 計画では、学校のランチルームなどに設置した保冷庫に、蒜山地域や同町産の牛乳やヨーグルトのほかチーズ計10品を常備。子どもたちは登校時または1時間目終了時のどちらかに好きな品を飲食できる。給食を考慮し、1人2品まで。

 各校は本年度から2学期制を導入しており、10月中旬までの1学期を試行期間とし、飲食した種類や数を集計。子どもたちの感想もまとめ、2学期からの本格実施に役立てる。事業費は年間約1200万円を見込み、早ければ6月町議会に補正予算案を提案する。


 子どもたちの成長を考えると、乳製品だけというのはあまりにも偏りが大きい。一日のスタートとして、やはり穀類も野菜も必要だろう。肉や魚もあってしかるべきだ・・・そう思う保護者も多いだろう。
 学校で食べさせてくれるなら、何も朝から無理して朝食を作ることもない、もともとウチの子は朝は食が細いのだ。朝は牛乳で十分! 今までだって似たようなものだったから・・・そう考える保護者もいるかもしれない。

 
行政のお節介が住民の自立心を奪う。
親としてすべきことをしなくても、社会が何とかしてくれる。何とかならないとしたら・・・それは社会が悪いのだ。
私のせいじゃない・・・・。









 

 

2006.05.13

地毛の茶髪を染めないため恩師の離任式参加を拒まれた娘

読売新聞 5月12日]


〔質問〕石川県、男性

 先日、生まれつき髪の毛が茶色っぽい中学生の娘が、中学校の恩師の離任式に参加するため、学校に登校しました。ところが、髪の毛が茶色いという理由で学校に入れてもらえず、家に返されてしまいました。 これまで、娘は学校の先生から再三、髪の毛を黒く染めるように指導されてきたのですが、地毛であるため黒色に染めることに対して抵抗してきました。しかし、卒業式の前に染めなければ卒業式に出さないと言われ、卒業式には、やむを得ず黒色に染めて参加しました。学校側は、なぜ黒色に染めなければならないかという明確な理由を全く説明していません。保護者に対しても学校から黒色に染めるように電話がありましたが、なぜ染めなければならないかという明確な説明もなく、黒に染めろという一点張りです。中学生や高校生に対しては、家庭や学校みんなが納得できるような指導を考え、しっかりした倫理感を持った大人になるように教育していくことが大切だと思います。今回の中学校の指導方法について、どのように思われるのか、お考えをお聞かせ下さい。



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〔回答〕〕NPO法人フリースクール札幌自由が丘学園代表 亀貝 一義

 このメールを拝見し、「まだこういうことがなされているのか」と少々驚きました。私がかつて勤務していた女子高でも似たような「生活指導」が行われていました。私が高校を辞める一つの理由は、そういう“指導”がいやだったことでした。

 髪とか服装など、実に些末(さまつ)でどうでもいいことを、「服装(髪型その他も)の乱れは心の乱れ」などといって、あたかも本質的な問題のように生徒と親に対して“指導”することは情けないし、地毛をあえて染めなければならないなど常軌を逸しています。

 今、私はフリースクールで数十人の中高生たちと接していますが、それぞれが自分の好きな服装髪型をしていますし、全く不自然さは感じていません。

 北海道教育委員会に対して質問をしました。「どう考えても納得できない学校側からの教育措置があった場合、教育委員会としてその学校に対してどういう指導をするのか」と。指導主事は「保護者からよく聞かれるケースです」と前置きして「原則として、私たち教育行政の担当者は、それぞれの学校に対してこうしろああしろとは言えない。各学校が実態に合わせて(学校の判断で)対応するはず。ただ、『保護者とよく話し合ってください』とはいいます」と。

 かつて、私の生徒がカナダの高校に短期留学して帰ってからいうには「あちらの学校では髪やその他みんなちがっていて、日本では髪型を他の人と一緒にしないと先生に叱られることがあるといったら、笑われました」といっていました。日本の常識が国際的に見れば非常識だと思ったことも思い出しました。


 男子生徒が例えば「野戦服」などを着てきたり、女子生徒が例えば夜の仕事をする女性のような服装をしてくるような場合、「服装などのTPO(時、場所がら、場合)」を考える機会にできるわけです。そこから子どもたちの常識とか倫理感が形成されていくのだと思います。

 ぜひ娘さんに、現実の学校と教育の不合理さ、管理教育の行き着く所が、個性と自主的判断力を削いでいることを率直に語ってください。





非常にありふれたやり取りで、それだけに研究の対象となるだろう。

 さて、そこでだ。
 質問者の質問内容を見ると、いかにももっともな話である。地毛が赤っぽいのにそれを染めろというのは,、唇が赤いのは化粧と同じだから色素を落とせというのと同じで、あきらかに人権問題である。二の四の言わずすぐにも人権委員会に訴えるべきことだろう。
 こうした教育相談の場で扱うべきことではない。


しかし、だがしかしである。

私たちはマスメディアを通じで、学校というものがいかに無理解で抑圧的であるか、十分に学習してきた。
 
したがって上記のような異常な事態も学校では起こりうると簡単に信じてしまう。しかし本当にそうなのだろうか?

 その子の地毛が相当に赤いということは、小学校の担任に聞いても友だちに聞いても必ず分かることである。だとしたら教師はそのことを明らかにし、生徒たちと理解しあえばいいだけのことである。
「この子の髪はもともと赤いんだし、それをとやかく言うのはおかしいよね。お互いに分かり合おう」それだけでいいのである。何回もくり返し指導し生徒と対立し、保護者と対立して無理に染めさせることなど、何も必要ない。それなのに質問者の学校の教員は職を賭してまでそこまでがんばったのか?

 正直言って、私はその「地毛の赤さ」を疑っている。それが本当に「地毛の赤さ」だったら、教員が無理してがんばる必要はどこにもないからである。卒業後も恩師の見送りの会に出て来ようという素直で可愛い子を、こんなふうに追い詰める理由はどこにもないのである。


しかし、それにしても回答者もまたヘボい。

 かつて、私の生徒がカナダの高校に短期留学して帰ってからいうには「あちらの学校では髪やその他みんなちがっていて、日本では髪型を他の人と一緒にしないと先生に叱られることがあるといったら、笑われました」といっていました。日本の常識が国際的に見れば非常識だと思ったことも思い出しました。

 日本ではたとえ授業を荒らしまくるような生徒であっても学習権が保証され、退学はおろか教室から出すことさえ禁じられている、といったらやはり笑われるだろう。

 日本の常識が国際的に見れば非常識だ

 それはそうだ。
 室内で靴を脱ぐことも、正座という苦しい姿勢で食事をとるもの、湯船の中で身体を洗わないのもみな世界の常識とは言えまい。欧米の常識を当てはめたいのなら、部分ごと選択をしてはならない。

 髪とか服装など、実に些末(さまつ)でどうでもいいことを、「服装(髪型その他も)の乱れは心の乱れ」などといって、あたかも本質的な問題のように生徒と親に対して“指導”することは情けない

 それでは、「授業中の発言をからかわれた」とか「バカと言われた」とか、「服装を笑われた」とかいった瑣末なことは同だろう? こういうことを重要視して指導することも“情けない”ことなのだろうか?


 さらに言おう。
学校が「女子中学生の妊娠」だとか「薬物乱用」「本格的に暴力」といったどう見ても瑣末でない問題だけを扱うようになったら人々は満足してくれるのだろうか? 

指導というものは半分は失敗する。
 私たちが髪の色だの服装だのといった「どうでもいいような瑣末な問題」で果てしなく戦うのは、それをやっている間中「瑣末でない深刻な問題」は起きにくいということを知っているからである。そして瑣末な問題での指導の失敗はせいぜいが「髪が赤くなる」「服装が乱れる」といった本質的でない事態だけで、その子の将来に決定的な影響を与えずにすむからでもある。

 さて、もう一度問う。私たちは瑣末な問題に目を瞑り、深刻な問題だけと向き合えばいいのか?

ところで
 男子生徒が例えば「野戦服」などを着てきたり、女子生徒が例えば夜の仕事をする女性のような服装をしてくるような場合、それを「服装などのTPO(時、場所がら、場合)」を考える機会としてそこから子どもたちの常識とか倫理感を形成するということ。理念としては理解できるが、本当に可能なことなのだろうか?

 それは髪の色が瑣末であると同じように瑣末なことだと、子どもたちは結論しないのだろうか? そもそも髪とか服装など、実に些末(さまつ)でどうでもいいことを言った回答者が、「野戦服」や「夜の仕事をする女性のような服装」と常識や倫理をタイアップさせることが理解できない。









 

2006.05.14

中学校教師:「負担感じる」90% 行事集中や保護者の要望で−−県教委調査 /山形
 ◇現場の悩み浮き彫り


毎日新聞 5月13日]


 県教委が中学校教師を対象に実施した労働実態調査で、約90%が仕事に負担を感じていることが分かった。特に一時的な仕事の集中、保護者や地域への対応などに、現場教師が悩まされている実態が浮き彫りになった。【大久保渉】
 教育環境が変化する中、教師の労働実態を把握しようと、県教委が民間調査会社に委託し調査した。グループインタビュー▽業務状況の実地調査▽アンケート調査−−の三つの方法でまとめられた報告書を県教委が公表した。
 報告書によると、アンケート調査は363人から回収。「負担を感じている」と答えたのは「とても」「少し」「たまに」を合わせ約90%。原因としては「一時期に仕事が集中する」「本来、家庭や地域で行うことを学校が担っている」などが挙がった。
 平均就労時間は平常日で11・3時間、学校行事などがある繁忙日で12・9時間。勤務時間外の仕事時間は平常日で約39%が1〜4時間と答え、繁忙日では約64%が2〜4時間超と回答した。教師の1日の業務内容をたどる実地調査でも、休日出勤の平均が6・9時間という結果が出ており、負担感を裏付ける多忙な勤務実態が示されている。
 グループインタビューでは、学校行事が多過ぎる上、一時的に集中するという不満に絡み「校長・教頭が『どんな学校にしたい』という考えを持たないため、慢性的に何でも抱え込み忙しくさせている」と、学校管理への批判が挙がった。また「部活によっては、保護者から、もっと練習してほしいと要望を受ける」「町のマラソン大会に参加するよう頼まれると断れず、精神的に負担がかかる」などと、地域や保護者から過剰な要望を受け、仕事量がかさんでいるとの指摘もあった。
 調査結果について、県教委は「従来指摘されていたことが数字にも表れた」と説明。今後、四つのモデル校での試験的な対応策や、夏休み中の管理職研修などを実施する予定。



 私は基本的に学校を動かす人々の善意を信じている。文部科学省も都道府県教委あるは市町村教委も、校長・教頭も、そしてもちろん一般の職員についても。
 たしかに世の中の他のことと同様、例外というものはある。上ばかりを見ている教育庁職員もいれば、外ばかり覗っている校長・教頭もいる。しかし全体として、教育に携わる人々は、異常に善人だと、私は信じている。そうした立場からすると、
「校長・教頭が『どんな学校にしたい』という考えを持たないため、慢性的に何でも抱え込み忙しくさせている」
というのは的外れである。

校長や教頭に選択の余地はほとんどない。
『どんな学校にしたい』という考えがあっても、それを実現できる幅は、極めて狭いのである。

さて、それではなぜ多くを抱え込むことになるのか? その答えひとつは、
社会が多くを要求するから、である。
社会の要求に対して各教委も懸命に断ってくれるが、四つ断れば一つくらいは受けなくてはならない。その一つが重いのである。
「部活によっては、保護者から、もっと練習してほしいと要望を受ける」「町のマラソン大会に参加するよう頼まれると断れず、精神的に負担がかかる」
その他諸々・・・。

エイズ教育が必要だといえば持ちこまれる。キャリア教育が必要だといえば入ってくる。カード教育が大切だからといって導入されたかと思うと、次に食育が教育の要となる。インターネットリテラシーはどうだ、防犯対策は万全か。地域との融合はどうなっているのか。
町のマラソン大会にはできるだけ多くの生徒を出してくれ、イベントの目玉に絵画コンクールをやるから作品を出せ、開会式を盛り上げたいので吹奏楽部の出演は願えないか等々・・・

地域の教育力を高める仕事を学校がするという矛盾。ボランティアパトロールを学校が組織するという不思議・・・・・・それらはどれ一つを取っても不要なものではなく、どれも大切で価値があり、重要なものである。

 つい10年ほど前盛んだった
「学校のスリム化」といった話はどこにもない。子どもに関わるすべてを、学校の力で行おうとする凄まじい圧力があるのだ。
 モデル校での試験的な対応策や、夏休み中の管理職研修
 さて、そこで何ができるというのか?
(管理職研修の結果、何がなんでも早く帰れと叫ぶ校長・教頭、山ほどの仕事を抱えて家路を急ぐ一般職・・・そんなことにならねばいいが)







 

2006.05.16

解答乱麻愛があるから叱るのだ

産経新聞 5月15日]


 三月に北九州市の小五男子が首つり自殺した。四月には和歌山県で高二の男子生徒が一人暮らしの写真店主を殺害する事件があった。いずれも「先生に叱(しか)られた」ことが引き金になったと報じられている。平成十年に栃木県の中学校で、注意された一年の男子生徒が女性教師を殺害した事件もまだ記憶に新しい。

 「あの幼稚園では先生が子供を叱るんですって」といううわさが流れて園児の応募が減ったという話を聞いたことがある。また、あるベテラン女性教師の次の嘆きも思い起こされる。「このごろの若い先生は怖いわ。掃除の仕方が悪いので、もう少しきちんと指導しなくてはいけないよ、と注意したら、一週間休まれちゃったわ。小さいころから叱られずに育ったからなのかしら」

 それぞれの事件にはそれぞれの事情があるのであろうから、単純に、傍観者のような物言いは慎まなければなるまい。だが、これらの事件から「叱らない教育」が善であり「叱る教育」が悪であるような誤解や錯覚が生じたら、それは大きな問題である。

 それぞれの事件の教師は決してやみくもに叱っているのではない。叱る側にきちんとした理があり、叱られる側の子供にはそれなりの罪があった。だから、最も当然でかつ望ましいのは、叱られた子供が自分の罪を反省し、謝罪し、教師の期待に応えるように自らの言動や考え方を成長、向上させていくことである。昔は「親の言いつけをよく守り、先生の教えに従う」ということが基本であり、誰もがこれを認めていたものだ。そして、そういう時代には、今のような不幸な子供は育たなかった。

 一茶の句に「うたた寝の叱り手もなき寒さかな」がある。「そんな所で寝たら風邪をひくじゃないか」と叱ってくれる人のいない寂しさが句意である。叱るということも、注意するということも、怒るということも、実は相手を思いやる愛から生まれてくる。差別や憎悪からの理不尽な怒りは論外である。先の事件のどれもが、その子の将来を思い、ここで叱っておくことがその子のためになるという教師の愛に起因しているに違いない。子供は叱ってくれる愛に気づくべきであり、気づかせなければならない。叱ってくれることはありがたいことなのである。この本質をこそ子供に教え、親にもわからせなければならない。

 よく「叱り方が問題だ」と言う。「相手によくわかるように叱れ」「傷つけないように叱れ」ということが言われ、叱り方、口のきき方などのテクニックが説かれるが、事の本質はそこにあるのではない。教育をそのような矮小(わいしょう)次元でとらえてはならない。

 人は、本質的に未熟、未完成であり、互いに注意し合ったり、叱ったり、叱られたりしながら成長、向上していく存在なのだ。いわんや子供においてをや、である。堂々と胸を張って、遠慮なく子供の悪を叱ってくれる人こそが真の教育者なのだ。

 「ひとの子も正しく叱る思いやり」。警視庁警部の名刺に印刷されていた言葉である。

                   ◇

【プロフィル】野口芳宏
 のぐち・よしひろ 千葉大付属小教諭、千葉県木更津市立小校長、北海道教育大教授などを歴任。「国語授業の名人」として有名。著書に『鍛える国語教室シリーズ』など多数。



こうした常識的なことも改めに発言しなければならない、大変な時代だ。










 

2006.05.23

文科省:児童生徒の指導厳格化を報告
現場教師にためらい「信頼関係、崩しかねない」


毎日新聞 5月23日]


 米国流「ゼロトレランス」(寛容度ゼロ指導)を下敷きに文部科学省などが生徒指導厳格化の方策をまとめた報告書は、小中学校に対し、問題のある児童生徒への出席停止措置を「ためらうな」と強い調子で促す。だが、校長や現場教師からは「生徒との信頼関係を損ないかねない」と悩む。

 「悩みましたよ」。東京都西部の市立中学校長(58)は、生徒に出席停止を命じた時のことを振り返った。注意を聞かず対教師暴力を繰り返す。停止は3日間。「懲罰的な狙いでした」。校長は過去3人に言い渡した。「反省するかどうかは生徒によりまちまち。親が深刻に受け止め、わが子と向き合うかどうかによる」

 高校の停学や退学のような懲戒処分は義務教育の小中学校にはない。「他の児童生徒の学習権を守るため」という大義名分の出席停止制度は「伝家の宝刀」とされ、退職まで実行しない校長もいるという。

 生徒指導の厳格化について、この校長は「強権発動が必要な場合もある」と言い切ったが、すぐに「(強権の)使い方が難しい」とためらいも。「教育はルールで縛ればいいというものではない。強権を振り回せば生徒と教師の個別の信頼関係を崩しかねない」と話した。

 一方、都内の区立小学校のベテラン教諭(52)は「教師が面白い授業をすれば児童は騒がない。文科省は教師の責任を棚上げし、子どもを力でねじ伏せようとしているようだ」と同省の姿勢に懐疑的だ。【井上英介】

 ◇子どもは救われぬ−−ドラマ「3年B組金八先生」の脚本家、小山内美江子さんの話

 非行少年は出席停止や停学、退学へと追い込まれると居場所を失う。非行にはさまざまな家庭的、心理的背景がある。今の教師に彼らを受け止める時間も精神的余裕もない。その支援のために国が配置するスクールカウンセラーは役割を果たしているのか。厳格化で学校は救われても、子どもは救われない。

 ◇米国では隆盛−−和田秀樹・国際医療福祉大教授(臨床心理学)の話

 米国では「人間の心は変えられないが、行動は変えられる」という行動主義心理学と、微罪を取り締まって重大犯罪を減らす治安理論の影響で、ゼロトレランス教育が隆盛した。「非行少年を大人が受け止めよ」というのは正論だが簡単ではない。まして、子どもを受け止める学校カウンセリング体制が米国より貧弱な日本で、生徒指導の厳格化をためらう理由はない。



私はこの記事が理解できない。本当に、
文部科学省などが生徒指導厳格化の方策をまとめた報告書は、小中学校に対し、問題のある児童生徒への出席停止措置を「ためらうな」と強い調子で
促しているのだろうか?

別の新聞記事によると、

 報告書は、生徒指導の基準や校則を明確化し、入学後の早い段階で児童生徒や保護者に周知徹底する。そのうえで、学校側は毅然(きぜん)とした指導を粘り強く行うよう提言。具体的な指導方法として、小さな問題行動から注意するなど、段階的に罰則を厳しくする「段階的指導」を挙げている。
となっている。さらに細かく言えば、
報告書は「居残り」「清掃」「訓告」などの懲戒や出席停止制度の活用、高校などでは停学・退学処分の適切な運用を求めた。
となる。

つまりこの報告書の言わんとするところは、
罪と罰の関係を明らかにし、児童生徒や保護者に提示せよ、
ということである。
違反に応じて段階的に適切に罰を与えなさい。
その際むやみに猶予を与え、罰則をなし崩しにしてはいけない(ゼロ・トレランス)。

ということである。これはあまりにも当然の話であって、だれも問題のある子は片っ端出席停止にしろと言っているわけではない。

そんな当たり前のことをなぜ言わなければならないのかと言うと、現実の学校がまったく非常識な状況にあるからだ。

現在の学校というのはガラスを割っても弁償しないですむ世界である。
反省文も書かせない。

授業中騒いでも外に出すこともできない。
(外に出すことは生徒の学習権を奪うことなになるからだそうだ)

問題の生徒によって奪われる他の生徒の学習権は顧慮されない(彼らは問題児ではないから問題にされない)。

立たせてもいけない。

それは体罰にあたる。
怒鳴りつけてもいけない。
それは心を傷つける心罰にあたる。

教員は生徒に最大限の権利を与えなくてはならない。
それがほとんどヤクザのような子どもでも、あるい4月の中津川の事件のように、女と見れば片端押し倒し13歳で父親になり15歳で殺人者になるような子であっても、
である。

これは間違ってはいないか?

社会を学ぶべき児童生徒が何をしても罰を与えられないとしたら、社会に出ても罰を与えられてはならない、

それを二十歳になった日突然に、今日からすべてを罰するでは、子どもがかわいそうではないか。


毎日新聞の迷走はさらに続く

出席停止制度は「伝家の宝刀」とされ、退職まで実行しない校長もいるという。
しかし別の記事によると、

学校教育法の改正(02年1月施行)で出席停止の要件が明確化されるなど適用しやすくなったが、中学校では02年度37件、03、04年度ともに25件の適用にとどまり、小学校では02年度以降1件もない。

退職まで実行しない校長もいるという
どころではない。中学校ですら25件の適用にとどまり、小学校では02年度以降1件もないのである。
いったいどうなっているのか?

さて、先ほどから引用している「別の記事」であるが、実は、これがあきれたことに
同じ日の同じ毎日新聞の同じ東京版なのである。

本当にどうなっているのだろう?



文科省:問題行動の小中学生、出席停止を厳格に適用
            学校秩序を維持−−報告書公表

 児童生徒の指導のあり方を調査・研究していた国立教育政策研究所生徒指導研究センターと文部科学省は、問題行動を起こした小中学生を出席停止とするなど厳格な対応を求める報告書をまとめ、22日公表した。高校生には退学や停学などの懲戒処分を実施して学校秩序の維持を図る内容となっている。

 全国の公立小中高校生の暴力行為が98年度以降3万件前後で推移するなど問題行動が相次いでいるのを受け、センターなどが生徒指導の厳格化を軸に見直しを進めていた。

 昨年11月から生徒指導体制の強化策を提言するため、大学教員や弁護士、PTA理事や保護司など15人の協力を得て審議してきた。

 報告書は、生徒指導の基準や校則を明確化し、入学後の早い段階で児童生徒や保護者に周知徹底する。そのうえで、学校側は毅然(きぜん)とした指導を粘り強く行うよう提言。具体的な指導方法として、小さな問題行動から注意するなど、段階的に罰則を厳しくする「段階的指導」を挙げている。

 現在の公立小中学校では、学校の秩序が維持できないほどの問題行動を起こす児童生徒がいたとしても、停学や退学などの処分は認められていない。

 報告書は「居残り」「清掃」「訓告」などの懲戒や出席停止制度の活用、高校などでは停学・退学処分の適切な運用を求めた。

 小中学校の出席停止制度は、他の子どもの学習権を保障するため、市町村教委が適用。学校教育法の改正(02年1月施行)で出席停止の要件が明確化されるなど適用しやすくなったが、中学校では02年度37件、03、04年度ともに25件の適用にとどまり、小学校では02年度以降1件もない。【長尾真輔】

毎日新聞 2006年5月23日 東京朝刊





































 

2006.05.24

家庭教育:教員3割「親の役割果たせ」
調査の福岡市教委「学校運営に悩む現場の声」


毎日新聞 5月24日]


 福岡市教育委員会が実施した家庭教育に関する教職員意識調査で、「保護者が学校や教員に依存的だ」と3割近くの教職員が受け止めているという結果が出た。「親が親として役割を果たしてほしい」「家庭の協力がないと学校は成り立たない」など、親への厳しい意見が目立った。市教委は「不平不満というより学校運営に悩む現場の声ではないか」と受け止め、家庭との協力体制を築く際の資料にする。
 家庭教育支援の在り方などを検討するための基礎資料として、市内の小中学校教職員約1700人を対象に1〜2月に実施(回収率91%)した。子どもや保護者の現状認識を初めて聞き、受け止め方の程度を5段階で回答を求めた。
 保護者の実態について、「学校や教員に対して協力的である」という問いに対し、「とても多い」「かなり多い」を合わせると51%。その反対の「依存的である」は27%あった。「自分の子どものことしか考えない」の問いには20%が「とても多い」「かなりいる」と回答。また「親同士が仲良くすることができる」という項目には13%が「ほとんどいない」「少しいる」と答えた。
 自由記述には180人が意見を記し、約6割が保護者の姿勢に疑問を投げかける内容だった。小学校の男性教諭は「権利を主張するが、義務・責任を果たそうとしない保護者が目立つようになり、価値観が偏っている」と指摘。「人を批判する前に自分自身を見つめ直す姿勢が(保護者に)弱くなっている」という女性教諭の意見もあった。
 また、小学校長には「親が親になっていない」▽「子どもを変えるにはまず親をと思う」−−などの声があった。
 市教委は「学校運営で保護者の協力が得にくいという慢性的な悩みが表れたのではないか。子どもを健全に育てるために、保護者や地域が積極的に学校とかかわることができる施策を打ち出し、社会全体の『教育力』向上につなげたい」と話している。【米岡紘子】

 ◇地域の教育力低下−−恵泉女学園大の大日向雅美教授(発達心理学)の話
 教員は親や家庭を批判的に見る傾向にはあるが、家庭の教育力が低下しているとしても、昔と比べて低下したのは親よりもむしろ地域や社会の教育力ではないか。昔は地域や社会に支えられながら親として成長していったが、今はその支えがなくなったため親の弱さが無防備に出ている。だから親を批判しても解決にはならず、地域や社会で親や学校を支えていく仕組みを作ることが不可欠だろう。




教員は親や家庭を批判的に見る傾向にはある

とは! 
まったく身もふたもない言い方である。本質的な問題ではないではないか。

昔は地域や社会に支えられながら親として成長していったが、今はその支えがなくなったため親の弱さが無防備に出ている。
これは正しい。さて、そのあとだ。
だから親を批判しても解決にはならないと考えるか、だから親が強くならなければならないと考えるか
それによって親を批判するかどうかが分かれる。

大日向教授は前者に立ち、地域や社会で親や学校を支えていく仕組みをと言うが、しかしそこに具体的なイメージはあるのだろうか?

昔のような閉鎖的な地域共同体を作ることは無理だろう。乱暴で粗野で、しかも優しい地域子ども社会の再構築も不可能だろう。

そうなると結局、地域や社会で親や学校を支えていく仕組みというのは行政が用意しなくてはなくなる。正確に言えば行政の末端にある学校が担わなくてはならない。

行政および学校は、そうやってさらに依存的な親と子を増やしていく。
そしてまたそぞろ「保護者が学校や教員に依存的だ」という話になっていくのだ。









 

2006.05.25

センター試験の受験番号、記入ミスを23年間救済

読売新聞 5月25日]


 毎春の大学入試センター試験では、解答用紙のマークシートに受験番号をマークし忘れたり、誤記したりするミスが絶えないが、センターは1984年度入試以降、これら“うっかり受験者”を全員割り出し、「0点」にせずに通常通り採点していたことがわかった。

今春は7000件 一律0点「気の毒」

 今春のセンター試験でも約7000件のミスがあったが全員救済された。ミスをしたことや救済については受験生本人に知らせていない。共通一次試験が始まった1979年度入試から5年間は一律0点にしていたが、「あまりに気の毒」と方針を変えた。学力とは無関係のミスを救う「配慮」なのか、それとも「過保護」なのか。文部科学省も「難しいところ」と話す。

 今春のセンター試験は約50万人が受験し、5教科で計約350万枚のマークシートを回収した。うち0・2%にあたる約7000枚で受験番号のマーク漏れ・誤記などが見つかった。昨年度も同様のミスが約6000件あった。

 受験番号のマーク漏れなどがあると、電算処理でエラーが出て採点できない。このためセンターでは、解答用紙に記入された名前や、座席順などから受験生を割り出し、手作業で受験番号を入力してきた。

 マークミスがあったことや救済については、受験生には知らせておらず、本人は何も知らないまま2次試験に進むことになる。

 受験番号のマークミスなどがあった際の措置について、センターのホームページ(HP)のQ&Aでは「個人が特定できた場合に限り、採点します」と説明していたが、実際には全員を救済してきた。一方、受験案内では「受験番号が正しくマークされていない場合は、採点できないことがあります」とだけ記している。

 同じマークミスでも0点になるケースもある。例えば「地理歴史」の試験で、「日本史A」「世界史B」など6科目のどれを選んだかをマークし忘れると、一律0点となる。「実際の選択科目がどれか、判別不可能だから」という。英語以外の受験希望者を事前申告させている「外国語」を除いて同じ扱いで、今春入試でも5教科で計54人が0点として処理された。このミスについては「0点」になることをHPと受験案内で明言している。

 共通一次試験は当初、受験番号の記入ミスを一律0点にしていた。だが、「一発勝負の重要な試験で、あまりに酷だ」との声が上がり、センター内に委員会を設けて検討した結果、救済することを決めた。センターでは「高校3年間の学習到達度を測るという趣旨も考慮し、解答とは異なる部分のミスに限定して、教育的配慮をした」と説明している。

 一方、文科省は「大学受験生を大人とみて自己責任を負わせるべきなのか、それとも子どもと見て手を差しのべるべきなのか、判断が難しい」と話す。

大人気ない。
カンニングを見逃したとか万引きを見逃したとかいった話ではないだろう。

生徒が授業を荒らしても教師を殴っても、それはきちんと育てなかった学校の責任として生徒を問うなと訴えてきたメディアが、記名忘れれは許さないというのはどういう倫理観か?

1教科0点となれば一年間の努力が水の泡になる。多くの受験生がさらに一年の受験生活を強いられ、あるいは夢を捨てる・・・1教科0点はそのくらい重いのだ。
だからセンターは救済した。

今春のセンター試験でも約7000件のミスがあったが全員救済された。ミスをしたことや救済については受験生本人に知らせていない。

たしかに表立って「受験番号を書かなくても採点しますよ」とは言えない(現実に採点が不可能な事態だってありうる)。だからこその隠れた温情なのに、なぜ暴き立てなければならないのか。

7000件を洗い出す誠実さや努力もさることながら、それを受験生本人に知らせないという奥ゆかしさは優れて日本人のものだ。

しかしそれでも許さない・・・・
官の行うことならなんでも反対しなければ気がすまない、読売新聞の見識を問う。










 

2006.05.26

中学生の半数が携帯所持
高知市補導センター調査


高知新聞 5月26日]


 高知市少年補導センターなどは、同市内の中学生の17年度生活基本調査をこのほどまとめた。前回の12年度調査と比べ、喫煙、飲酒など初発型非行は改善。生活面では、携帯電話の所有率が急増し、ほぼ半数に上った。うち1割強が1日の使用時間が2時間以上。同センターは「長時間使用者は生活習慣が確立できていない生徒が多く、初発型非行に走るケースが見られる」と指摘している。
 調査は昨年9―10月、同市内の国公私立中学校など27校の各学年1クラス、計2388人に実施。家庭生活、携帯電話など生活面と、喫煙、飲酒、万引、家出・無断外泊の初発型非行に関する計60問で行った。
 携帯電話の所有率は49・4%。5年前は15・9%で、3倍以上に増えた。持っている生徒のうち携帯電話の存在を「なくてはならない」が13・8%。1日の使用時間が「二時間―三時間未満」「三時間以上」は計13・8%だった。
 ほかの生活面では、朝食抜きは「ほとんど食べない」「まったく食べない」が7・9%で5年前より0・9ポイント増。孤食は朝食が44・1%で前回より11・4ポイント、夕食も10・0%で1・9ポイント増えた。
 就寝時間は「午後十時まで」「午後十一時ごろ」が7ポイント増えて計46・1%と改善。起床時間も「午前六時まで」「同七時ごろ」が3・2ポイント増えて計85・5%に。
 初発型非行について、「やったことがない」と回答したのは喫煙87・8%、飲酒53・1%、万引87・7%で、それぞれ5年前より8・5、11・8、10・5ポイント改善。家出・無断外泊は3・5ポイント減の84・5%だった。
 同センターは、生活面と初発型非行の関連を分析。▽携帯電話の長時間使用者に初発型非行の経験者が急増する▽朝食を食べる習慣がない生徒に喫煙、飲酒経験者が多い▽家族との会話時間がほとんどない生徒は万引に対する規範意識が低い―といった結果になった。
 調査報告書はまず1000部作成。中学校やPTA、補導関係機関のほか、小学校にも配布する。  



以前にも話したことがあると思うがここで繰り返しておく。

子どもの携帯に20人アドレスがあるとして(そんな少ないはずはないが)、同時に20人にメールを送り、
その20人がそれぞれ20人に送るというネズミ算を考えてみよう。

最初の1回で情報は20人に伝わる。
2回目で伝わる相手が400人、3回目は8000人である。
4回目が160000人、5回目は3200000人。
そして6回目が64000000人である。
数字が大きくて分かりにくくなったが簡単に書けば6400万人。日本人の全人口のちょうど半分ぐらいに当たる。
そして7回目が12億8000万人、全人口の10倍になってしまう。
これは何を意味するか?
携帯電話の向こう7人目にはすべての日本人が入る。ヤクザも暴力団も殺人鬼もいるということである。

 こんな危険なアイテムを、何故年端も行かぬ中学生に持たせたがるのか。親の気が知れない。
もちろん子どもの安全を確保するため、という考え方もあろうが、携帯を持っていたおかげで助かった例というものを、私は2件しか知らない。逆に、携帯があるが故にはまりこんだ不幸というものは数知れない。
 不審者を恐れて携帯を持たせるのは、誘拐を恐れるあまりに毒蛇を持たせるようなものだ。
恐ろしいことを・・・…。









 

2006.05.28

【教員免許更新】現職適用は妥当なのか

高知新聞 5月27日]


 文部科学省は教員免許更新制について、「現職教員にも適用可能」との見解を中央教育審議会のワーキンググループ(WG)に提出、WGも適用することで合意した。
 免許の更新制は2001年の中教審に諮問されながら教育現場の激しい反対を受け、導入が見送られた経緯がある。しかし、その後、世論の教員不信を背景に04年、再諮問され、昨年12月の中教審中間報告に初めて導入が盛り込まれた。
 現行の教員免許は一度取得すれば生涯有効だが、更新制で有効期間が10年間に限定される。期限が切れる前に、国の指定する大学などで講習を受ければ更新される仕組みだ。
 ただ、中間報告ではその対象は今後の免許取得者であり、現職に当てはめるかどうかの結論は先送りされ、審議が続けられていた。
 背景には、現職は免許失効の可能性を前提に免許を取得しておらず、適用は法制度の原則に照らして、問題があるとされてきたからだ。
 原則とは法の不遡及(ふそきゅう)である。新法令をその施行前にされた行為にさかのぼって適用し、旧法令が与えた効力を覆すことは、法秩序を混乱させ、社会生活を不安定にするとして禁止されている。法の遡及適用は、極めて例外的な事例に限られる。
 問題は文科省が出した「免許が終身有効であることは必ずしも絶対不可侵ではなく、合理的な範囲内で新たに制約を課すことができる」との見解が、法の原則に対して妥当なのかどうかである。
 ことは全国に約110万人いるとされる国公私立の現職教員の身分にかかわる問題だ。導入されれば「不都合な」教員排除の手段に使われないか―との懸念が残る。
 そんな議論の最大焦点をなぜ中教審審議の終盤である今、示したのか、疑問である。中教審のWGも慎重審議を貫いていたはずである。文科省の見解を待っていたかのような合意に、中教審の限界を感じる。
 文科省は適用の合理性を確保する条件として「失効しても講習を修了すればあらためて免許が得られる」などを挙げているが、法の遡及適用への本質的説明にまるでなっていない。教育基本法改正案審議の影で、うまくすり抜けようとした意図も感じ取れなくはない。
 初めから「現職への適用ありき」の解釈では法治国家の根幹が揺らぐ。国民の納得する説明を抜きにした結論は許されない。



 日頃は教員に少しも優しくない新聞が、教員免許更新の話になるとなぜこうも同情的なのか

 私は怪しんでいる。
 いわゆる不適格教員や極端な指導力不足教員の排除のことだけを頭に置けば、免許の更新制度はその決め手となる。また、この制度をちらつかせて教員を脅せば、「先生たちだって、ちったあ本気を出すに違いない」、そういう考え方だってあるだろう。いずれにしろ一般受けしそうな話であって、メディアが本気で反対するような内容ではないはずだ・・・・と、そこまで考えてきてふと気づく。
ああ、この制度、国歌不起立の教員排除にも使えるわけだ・・・・・・・そう思いついて初めて理解できた。

 まあ、そうであるにしろないにしろ、注目すべき内容であることは確かだ。










 

2006.05.29

学力の差、「親の所得が影響」75%
…本社全国世論調査


読売新聞 5月28日]


 読売新聞社の「教育」に関する全国世論調査(面接方式)で、親の経済力の差によって子供の学力格差も広がっていると感じている人が75%に上った。
 格差社会の拡大が指摘されているが、所得の格差が教育環境を左右し、子供の学力格差につながっているとの意識を多くの人が持っていることが分かった。また、最近の子供の学力が以前に比べ低下していると思う人は6割以上に上った。小学校からの英語教育必修化に賛成する人は67%だった。
 調査は5月13、14の両日に実施した。
 家庭の経済力によって「子供の学力の格差が広がっている」との指摘について、「そう思う」が「どちらかといえば」を含め75%で、「そうは思わない」計21%を大きく上回った。
 都市規模別では「そう思う」が大都市で計76%、町村部では計72%。経済力の違いで塾などに通えるかどうかが決まり、それが学力に影響していると感じる人は、都市部で多かった。
 また、中央教育審議会(文部科学相の諮問機関)の専門部会が3月、小学5年生から英語教育を必修化すべきだとする報告書をまとめたが、これに賛成の人は計67%、反対の人は計28%だった。2004年に実施した同種の調査(賛成87%)に比べ、「賛成」が大幅に減った。「まずしっかり国語を学ぶことが必要だ」などの反対論が出されたことが影響しているようだ。実際、英語必修化に関する意見を複数回答で選んでもらったところ、「早くから英語に慣れることができる」の59%が1位だが、2位は「正しい日本語を身につける方が先だ」の36%だった。
 最近の子供の学力が、以前に比べて、低下していると思うか――では、「そう思う」が計64%、「そうは思わない」は計26%だった。



この記事から読み取るべきことは何か。
それはまさに、世論がマスコミによって動かされている、という点である。

例えば学力の差が所得差と連動しているというのは今日のメディアの潮流であり、大多数の普通の人々そして普通以下の生活水準の人々の反発を強く刺激する。それが視聴率や新聞購読者数、雑誌の販売部数につながることを、マスコミは熟知しているのだ。

子どもの学力差には様々な要素がある。
まずDNAレベルの差がある。誤解を恐れずに言えば、学校の勉強に向いた遺伝子は受け継がれるのであって、知能指数の高い子は最初から有利なのである。
続いて家庭の生活習慣も重要な要素として勘案されなければならない。規則正しい時間管理、きちんと食事をとり、決まった時刻に入浴し眠る、そうした事項はおそらく学力と密接なつながりがある。
親の教育観、児童観、将来観や人間観というものも子どもを育てる上で受容な要素である。
親が子どもと過ごすために費やす時間は、必ずテストの点数と相関を示すだろう。
そして、塾に行っているかどうかも、要素の一つに数えられるかもしれない。だが、それはあくまでもたくさんある要素の中の一つに過ぎない。

所得の格差が教育環境を左右し、子供の学力格差につながっているかどうかは分からない。
しかしこうした記事が「所得の格差が教育環境を左右し子供の学力格差につながっている」という意識を増幅させることは確実だろう。










 

2006.05.30

意識調査:「勉強は好きですか?」
小5で54.6%、中2で20.4% /岐阜
 ◇学年が上がると?意欲減退
−−県教委が意識調査を実施


毎日新聞 5月29日]


 中学生になると学習意欲が減退する傾向にあることが、県教育委員会の意識調査で明らかになった。「勉強は好きか?」「勉強は大切だと思うか?」といった設問に対して、学年が上がるにつれて否定的意見が増えていた。学習の目的でも、小学生は「世の中の役に立つため」が上位に入ったのに対し、中学生は受験や就職といった現実的、利己的な目的を挙げる生徒が多かった。
 調査は今年1月、県内の大半の小中学校576校で実施された。対象は小学5年〜中学2年の約8万人。各教科のペーパーテストと学習に関するアンケートに答えた。
 アンケートによると、「勉強は好きですか?」の設問には、小5は「そう思う」「どちらかというとそう思う」が54.6%と半数以上を占めた。だが、学年が上がるごとに割合は減り、中2では20.4%にとどまった。また、学習意欲を問う設問では、小5で「たくさんある」「少しある」が80.5%だったのに対して、中2では66.9%に減少していた。
 学習の目的(複数回答)には、小5は「新しい知識や考え方を学ぶため」(77.5%)「将来、世の中の役に立つため」(76.3%)といった意見が上位を占めたのに対し、中2では「希望する職業につくなど夢をかなえるため」(83.7%)「受験に合格するため」(73.6%)といった現実的、利己的な意見が上位を占めた。
 県教委は「前回の調査に比べれば、学習意欲は向上しているが、一人一人の学習意欲を喚起することを今後も最優先課題として取り組みたい」と話している。【秋山信一】


中2にもなってまだ勉強の好きな子が20%もいる。そちらの方に驚きを持った人はいなかったろうか?

小学校と中学校では学習の内容がまったく異なる。
小学校はあくまでも子どもの学校であり、学校教育法などをみると、学ぶことはあくまでも生活に根ざしたものでなければならない。生活に役立ち、具体的で、目に見えること。そして学習自体も、体験的・操作的なものとなる。(*1)
しかし中学校は違う。それは社会に直結するものであり、「国家及び社会の形成者として必要な資質を養うこと」が中心的なテーマなのだ。(*2)
 別な言い方をすれば、

小学校の学習は「その子のため」に行われ、中学校のそれは「国家・社会のため」に行われる。だから中学校の勉強は面白くない。

 それを2割以上の子どもが好きだという。なかなか見上げたものである。
 
 それにしても
「希望する職業につくなど夢をかなえるため」「受験に合格するため」利己的な意見と言われたら中学生も切なかろう。
 小学生の言う
「将来、世の中の役に立つため」にはあまり意味がない。彼らには、その具体的なイメージもつかめない。
 しかし高校生になってもそう言う子がいるとしたら・・・・。

 そうだ。私はそういう生徒を育てたい。
 



(*1)学校教育法
第十八条  小学校における教育については、前条の目的を実現するために、次の各号に掲げる目標の達成に努めなければならない。
一  学校内外の社会生活の経験に基き、人間相互の関係について、正しい理解と協同、自主及び自律の精神を養うこと。
二  郷土及び国家の現状と伝統について、正しい理解に導き、進んで国際協調の精神を養うこと。
三  日常生活に必要な衣、食、住、産業等について、基礎的な理解と技能を養うこと。
四  日常生活に必要な国語を、正しく理解し、使用する能力を養うこと。
五  日常生活に必要な数量的な関係を、正しく理解し、処理する能力を養うこと。
六  日常生活における自然現象を科学的に観察し、処理する能力を養うこと。
七  健康、安全で幸福な生活のために必要な習慣を養い、心身の調和的発達を図ること。
八  生活を明るく豊かにする音楽、美術、文芸等について、基礎的な理解と技能を養うこと。

(*2)
学校教育法
第三十六条  中学校における教育については、前条の目的を実現するために、次の各号に掲げる目標の達成に努めなければならない。
一  小学校における教育の目標をなお充分に達成して、国家及び社会の形成者として必要な資質を養うこと。
二  社会に必要な職業についての基礎的な知識と技能、勤労を重んずる態度及び個性に応じて将来の進路を選択する能力を養うこと。
三  学校内外における社会的活動を促進し、その感情を正しく導き、公正な判断力を養うこと。































 

2006.05.30

教員給与下げ幅、2〜4%で調整 自民

朝日新聞 5月29日]


 自民党の「歳出改革に関するプロジェクトチーム(PT)」は5月25日、財政再建に向けた歳出削減策の一つとして、公立小中学校教員の給与水準を引き下げる方針を決めた。引き下げ幅は平均2〜4%で調整しており、生徒・児童数の減少に伴う定員削減と合わせ、今後5年間で数千億円の人件費削減を目指す。
 教員の給与は「人材確保法」に基づいて一般の地方公務員より優遇されている。PT主査の河村建夫・元文部科学相は25日、「教職員給与の優遇幅を圧縮する方向。退職金や年金も今のままでいいのか」と述べ、給与の優遇を反映した退職金や年金の水準についても引き下げを検討する考えを示した。




教員の給与は「人材確保法」に基づいて一般の地方公務員より優遇されている。
その人材確保法を内容的に見直そうということは、教員はその程度の人材でよいということなのだろう。

私はそれも一案かと思う。
教員を特別の職とはみなさず、普通の労働者として賃金の上でも待遇の上でも他と同じようにしてしまうこと、大多数の教員はそれを受け入れる用意がある。

 それで過重な労働から解放され、働いた超過勤務に相応の手当が出され、日曜日の部活やPTAの会合からも解放される、
児童生徒にゆとりを与えながら教員の努力だけで学力を高めるといった無茶な要求や、家庭での生活にまで心を配るといった無限責任から逃れられる、普通に有給休暇を取り、普通に繁華街に足を運ぶ・・・。
 
そう、すべてが普通であれば私たちは何の文句もない。
 
 








 

2006.05.31

児童虐待の通告義務
「先生の3割知らなかった」


朝日新聞 5月30日]


児童虐待防止法で定められている虐待が疑われる際の通告義務について、公立小中学校の教職員の3分の1以上が認識していなかったことが、文部科学省が外部の識者らに委託した調査で分かった。児童虐待の対処策は早期発見がカギであるため、文科省は生徒指導担当者らに対し、周知徹底を図るとしている。
 調査は昨年夏、全国の公立の小中学校と公立、私立の幼稚園の中から5%を抽出、管理職や教員、スクールカウンセラーら計1万8710人が回答した。
 児童虐待防止法は04年の改正で、18歳未満の子どもに対する虐待について、確証はなくても疑いの段階で児童相談所か福祉事務所への通告義務を定めている。これについて、「知らなかった」と回答した教職員は小学校で35.5%、中学校で39.5%と3分の1を超えていた。幼稚園は公立、私立とも約3割だった。
 一方、学校として児童相談所などに通告したのは小学校で77.2%、中学校で81.8%、幼稚園は公立、私立ともに約5割だった。通告しなかった理由については「校内で対応が可能と判断」「虐待という自信がなかった」「家庭のプライバシーを侵害する」といった回答が多かった。



 他の新聞には「4割」というのもあったが・・・と、そのことは別にして。

 いうまでもなく無知は罪である。いくら時間がないとはいえ、あるいは賃金カットやら免許の更新やらと頭に来る記事ばかりだからとは言え、新聞を読まないのはいけない。ニュースに鈍感であってはいけない。
 その上で・・・・・・
 
学校として児童相談所などに通告したのは小学校で77.2%、中学校で81.8%
 というのはどういう意味だろう?

 別に
通告しなかった理由についてと書いてあるように、虐待と疑わしいことがあっても通告しない場合もある。それも含めると全ての学校で虐待の事実があり(まさか通告しなかった事例より通告事例の方が多いと言うこともなかろうが)、そのうち通告されたのが、小学校で77.2%、中学校で81.8%。素直な読み取りだとそういうことになるが・・・・・・・・・、信じられない数字である。