キース・アウト
(キースの逸脱)

2006年7月

by   キース・T・沢木

サルは木から落ちてもサルだが、選挙に落ちた議員は議員ではない。
政治的な理想や政治的野心を持つ者は、したがってどのような手段を使っても当選しておかなければならない。
落ちてしまえば、理想も何もあったものではない。

ニュースは商品である。
どんなすばらしい思想や理念も、人々の目に届かなければ何の意味もない。
ましてメディアが大衆に受け入れられない情報を流し続ければ、伝達の手段そのものを失ってしまう。

かくして商店が人々の喜ぶものだけを店先に並べるように、 メディアはさまざまな商品を並べ始めた。
甘いもの・優しいもの・受け入れやすいもの本物そっくりのまがい物のダイヤ
人々の妬みや個人的な怒りを一身に集めてくれる生贄
そこに問題が生まれれば、今度はそれをまた売ればいいだけのことだ。















 



2006.007.10

「2学期制」導入校、
伸び鈍化・県内公立小中学校


山形新聞 7月9日]


 県内の公立小中学校で本年度、新たに2学期制を導入した学校は12校で、トータルでは20市町村、121校と全体の27%になったことが県教育委員会のまとめで分かった。前年度比2ポイント増で、県立高では本年度の導入校はなかった。「ゆとり教育」の推進とともに2001年度以降、加速した増加の流れは、小中高とも落ち着いたようだ。

 県教委によると、本年度から2学期制を導入した小学校は11校。休校や廃校で4校が減り、計93校で全体の28%となった。中学校は1校増の28校で23%。県立高は分校も含めた全日制51校のうち、18校で35%。

 県内では、01年度の東小(山形市)と金山中を皮切りに毎年、導入校が増加。本年度は西川町で04年度からの睦合小に続き、小学校7校、中学校1校が加わり、全町での実施となったほか、既に新庄、上山、山辺、金山、舟形、西川、飯豊、大蔵が市町村内の全小中学校に導入している。

 2学期制のメリットは、上下巻に分かれた教科書カリキュラムに対応しやすい▽学習の流れが分断される夏冬の長期休みを、体験学習などの期間として計画的に活用できる▽通知表作成など教員の事務作業が削減され、ゆとりある授業計画が立てられる−などが挙げられている。

 デメリットとしては、長期休みを区切りとするリズムからの転換が難しい▽通知表配布の機会が減り、保護者とのコミュニケーションが少なくなる▽学期末テストが減り、習熟度を把握しにくくなる−などがある。さらに中学校では、高校入試の調査書に反映される評定が1学期分だけになるなども挙げられている。

 2学期制の増加について県教委は「新しいメリットを生かした教育課程に移行する機運が、モデル校の成果が見えた02−04年度ごろに高まった。その流れが次第に落ち着いてきたのではないか」と分析し「2学期、3学期制ともに長所、短所がある。今後も、各校の実情に沿った選択ができるようにしたい」としている。



2学期制に関する説明はいつも歯切れの悪いものである。
上下2巻の教科書がやりにくいのなら、三冊に分ければいいだけのこと、長期休みを体験学習に当てたいなら、3学期制の中で同じことをすればよい・・・2学期制のメリットとは、そんなものである。

▽ 通知表作成など教員の事務作業が削減され、ゆとりある授業計画が立てられる
というのも頷けない話で、夏休み明け、知識をすっかり洗い流してしまったような生徒を前に、小学校では運動会、中学校では部活の新人戦や文化祭を目前にした教員が前期の通知表を書くわけだ。とてもゆとりといったものではない。その上、
結局教員を楽にするための2学期制か
ということで教員が意味もなく非難されることになりかねない。

 私の住む地方でも学期制の見直しはそろそろ一段落である。最初の勢いで2学期制が一気に50%を越えるようだったら日本全体がそちらになびいただろう。しかし30%前後で頭打ちとなるとこの制度は生き残れない。今年で5年目。そろそろ3学期制に戻そうという動きも出てきていい時期である。








 



2006.007.10

小中校で通知表廃止 
年4、5回評価 
埼玉県熊谷市教委


朝日新聞 7月9日]


 公立小中学校で学期ごとに評価していた通知表を埼玉県熊谷市教委が、来年度から廃止することが分かった。年4、5回程度、単元など学習のまとまりごとに、より細かく評価する新しい仕組みを導入する。2学期制への移行に伴う措置で、「年2回の評価では、正確な状況がわからない」という保護者側の要望が背景にある。今後、各教科の教師からなる専門の部会でモデル案を作成し、来年度から各校が採用する。
 新しい制度は、国語なら小説などの題材、理科や社会だと単元、算数なら章で……といったように、1教科につき7〜10時間程度の学習のまとまりごとで評価し、保護者に知らせる。年間4、5回程度を想定している。
 現在は3段階評価だが、評価や評定の出し方は今後決める。学習の達成状況の他、意欲や態度も評価する。全教科をまとめて冊子にするか、各教科ごとにファイルケースにまとめるなど、やり方は各学校に任せる。評価と通知をこまめに行うことで、学校と保護者が、子どもの学習の達成状況について相互理解を深めることなどが狙い。
 市内には市立小学校が28校、同中学校が16校ある。市は02年度から2学期制への移行を推進。今年度で全校が移行した。
 今後は、小中学校の各科目ごとに数人の教師が集まり、10月までにモデル案を作成する予定だ。
 2学期制は週5日制による学力低下への不安を背景に、授業時間増の切り札として全国に広まった。文部科学省の04年度の調査では、2学期制を採っている公立校は小学校が9.4%、中学校が10.4%、高校で26.1%に達した。
 一方で導入した学校の中には、評価が年2回しかないことへの不安・不満の声が寄せられるケースが少なくない。
 「学期ごとの通知表をとりやめるのは全国的に珍しい」と話す教育評論家の尾木直樹さんは「保護者の不安解消につながる上に、教師も子どもの弱点を把握して学力向上を図れるという点では実践的だ」と評価する。
 国立教育政策研究所の工藤文三・初等中等教育研究部長は「2学期制に移行する学校が増えている中で、通知表が少ない点をカバーできる」とした上で、取り組みを現場に生かすには、通知後、教師が子どもに具体的な学習プランを示すことが重要だと指摘している。




で、結局何だったのか?
 2学期制は週5日制による学力低下への不安を背景に、授業時間増の切り札として全国に広まった。
といっても、それは
評価週間という通知票作成のための短縮授業を行っていた都道府県だけのこと
 私の住む県を含む多くの県ではそんな制度はもともとなく、二学期制増えた時数は(それぞれ一回減った)終業式と始業式の二時間だけ。うっかりすると秋休みを取ったばかりに時数の減ることだってある。

 他に二学期制のメリットは・・・と考えると、その導入のころに「(総合的学習などでは)長いスパンでじっくり子どもを見て評価することができる」といったことがさかんに宣伝されていたことを思い出す。もしかしたら総合的学習にはそういった面もあるのかもしれない。しかし二学期制は総合的な学習だけを対象にするわけではなく、教科や道徳も同時に「長いスパンでじっくり子どもを見て評価することができる」状態になってしまう。

 数学や英語で9月ごろになって「5月のあのテスト、もう少し頑張ればよかったねえ」では話にならないだろう。生徒指導も、できるだけ評価を先延ばしにし1回・2回の万引きは見逃して本人の立ち直りをじっくりと待ち、それでもダメならおもむろに叱るのが良いなどと、そんなバカなことがあるはずはない。

イヌの調教などもそうだが、良いことをしたらその場で誉め、悪い行いがあったら間髪を入れず叱るのが教育

なのだ。
だから評価の機会は多ければ多いほど良いのだが、かといって年間9回も10回も通知表を書くのでは大変過ぎる。そこで得られた妥協点が年3回の通知票なのだ。

埼玉県熊谷市ではそれを
年間4、5回程度に増やすのだという。

これで2学期制のメリットはすべて帳消しとなる。そして教師の負担は2倍以上に増加するのだ。

ところで、学習指導要領によると、例えば中学校1年生の国語は年間140時間、数学は105時間である。これを
1教科につき7〜10時間程度の学習のまとまりごとで評価し、保護者に知らせる。
となると、国語が140÷(7〜10)で年14〜20回、数学が105÷(7〜10)で11〜15回の評価回数になる。私の計算ではそうなるのだが、どうしたら年間4〜5回という少ない商になるのだろう? 理解に苦しむ。










 



2006.007.17

「小学校英語」必修化に反対!

福島民報 7月16日]


小学生には是非(ぜひ)とも日本語をきっちり学んでほしい。私はそう思うのだが、このところ高まる英語熱には如何(いかん)ともしがたい圧力を感じていた。しかしこのほど、鳥飼久美子さんが文春新書で『危うし! 小学校英語』を書いてくださった。我々の世代には同時通訳者として知られる彼女のような方が、きっちり資料を整えて発言してくださったのはありがたい。この本ではっきり言われているのは、まず母語がある程度確立してからでないと、外国語の学習は効果もうすい、ということだ。

 たいてい、日本語は子供の頃から親しんでいるのだし、英語もそうすれば話せるようになるだろうと、考えがちである。たしかに子供用の英語は、そうかもしれない。しかし最終的に求められているのは、大人の英語である。

 それには、ある程度言語脳が作られている必要があるわけだが、ある脳科学者によれば、言語脳というのは1つの言語でできあがるらしい。2つの言語が中途半端にできても、言語脳は中途半端にしか発達せず、したがって子供用の英語はできても、その後の進歩はむしろ望めなくなってしまうというのである。帰国子女たちの苦悩も、その辺りにあるようだ。しかも日本語というのは、ほかの言語のように音声言語としての仮名だけでなく、漢字を読むことで絵画を鑑賞するような脳機能(側頭葉下部)も使われる。つまり、ある時期に日本語習得の努力を集中してしないとその両方は発達せず、今度は日本語の習得に支障をきたすことになるのである。

 今年3月、中央教育審議会が「小学校英語」必修化を提言した真意はよくわからないが、少なくとも普通の感覚では、小学校から外国語を学ばなくてはならないというのは、植民地的な事態である。1910年の日韓併合によって、朝鮮半島の国民はすべからく小学校から日本語を学ばせられたわけだが、これがどれほど屈辱的なことだったかは、その後の屈折した歴史が証明しているだろう。しかし今、日本は不思議なことに、嬉々(きき)としてアメリカの植民地になろうとしているのだ。

 小学生から英語を学ばせたいという事態に、どれほど親たちの英語コンプレックスが関係しているか、そのことについてもこの本は描いている。中学から大学まで学んだ英語が一向に使いものにならないことが、会話中心に、しかも低年齢から学べば解消されるだろうと、彼らは思い込んでいる。しかしそれが如何に勝手な思い込みかも、鳥飼さんは容赦なく暴いてしまうのである。

 なにより驚いたのは、現在活躍する同時通訳者のほとんどが、中学以後に英語を学んだという事実である。ほかにも伝えたいことは多いが、詳細はこの文春新書を読んでいただきたい。

 ここでは最後に、私自身とても興味深かった鳥飼さんの指摘を掲げておきたい。小学校で英語を学ぶ場合、教師の不足だけでなくさまざまに困ったことがあるのだが、なかでも外国人講師などに来てもらう場合、日本語でなされる他の教科の授業と、根本的に求められるキャラクターが違うことが問題だという。つまり、他の教科の授業では黙って静かに先生の話を聞き、真面目に板書を写す子供が誉(ほ)められるのに、英語のときだけは明るくハキハキしてよく喋(しゃべ)る子が先生に誉められる。この混乱は人格形成中の子供たちには重すぎるのではないかと、鳥飼さんはおっしゃるのである。私もそう思う。

 子供たちにアンケートをとると、7割の子供が「英語が好き」と答えるらしいが、まだお遊び程度にしか学んでいないうちから、3割が嫌いだということこそ問題だろう。まだ今なら、必修化に反対すれば間に合うのだと私は叫びたい。 (玄侑宗久・僧侶、作家)



バイリンガル(bilingual )とはプアリンガル(poorlingual =貧しい言語)である、という言い方がある。
確かに、「愛」という日本語と「love」という英語を同時に頭に入れるのだから、一定時期に獲得できる言語に限界があるとすれば(たぶん、ある)、二ヶ国語を強制される子どもの語彙は実質的に他の子の半分になってしまう。小学校英語を今のままお遊び程度にしたままなら良いが、本格的に始めるとなると考えておかねばならないことだろう。

中学から大学まで学んだ英語が一向に使いものにならないことが、会話中心に、しかも低年齢から学べば解消されるだろうと、彼らは思い込んでいる。
保護者ばかりをせめるのもどうかと思うが、小学校英語礼賛者の多くは同じ思いに駆られている。しかし私には理解できない。

中学から大学まで学んだのに使い物にならなかったのは英語だけではない。
高校3年生だった私は数学の微分も積分もできた。摩擦係数の計算もできれば、ベンゼン環や芳香酸の化学式も書けた。源氏物語もまがりなりに読めたし、「長恨歌」も漢文のまま読めた。しかしどれもこれも現在は残っていない。なぜか?

 簡単である。その後それが
必要なかったからだ。

中学から大学まで学んだ英語が一向に使いものにならないのは教育が悪かったのではない。必要なかったから使わず、使わなかったから忘れたのである。
なのになぜ英語だけが重要なのか?
もう一度考えておきたいことである。

 ついでに、
世の識者に言わせると、正しい英語の発音は子どものころにしか身につかないそうである。
その大切な時期に英語を教えるのが、英語についてはド素人の私たちだということに,、だれも恐ろしさを感じないのはなぜだろうか?









 



2006.007.23

夏休み:2学期制の秋田・小中学校、
きょうから /秋田


毎日新聞 7月22日]


 県内の小中学校は、大半が22日から約1カ月の夏休みに入る。前・後の2学期制をとる秋田市立の小中学校では21日、休み前の全校集会があった。
 秋田市山王3の市立旭北小学校(石川勲校長、児童372人)では午前8時半から全校集会が開かれ、石川校長が「夏休み明けには元気に会いましょう」と児童に語りかけた。続いて生徒指導担当の教師が、水遊びや花火は大人に付き添ってもらうこと、知らない人に声をかけられても付いて行かないことなどを注意した。
 その後、各教室に戻り、1年1組では児童が一人ずつ前に出て、夏休みまでに頑張ったこと、夏休みの間に頑張りたいことを発表した。「ボール遊びを頑張りました」と発表した石川悦士君(6)は、「夏休みはお父さんとサッカーをするのが楽しみ」と笑顔。吉岡望実さん(7)は「夏休み中、アサガオに毎日ちゃんと水をやりたい」と話していた。【岡田悟】



二学期制のメリットのひとつに、始業式と終業式が一回ずつ減ることによる授業時間増、というのがあったはずだが、どうも見ても
この全校集会、終業式と同じではないか?
もっとも、長い夏休みに、学校としてないも言わずに児童・生徒を送り出すのはまったく心配という先生たちの気持ちもよく分かるが・・・これが現実というものである。








 



2006.007.29

部活指導を勤務と位置づけ、代休や評価に反映
都教委


朝日新聞 7月30日]


 東京都立高校の部活動を活性化させるため、都教委は27日、教員による部活の指導を「勤務」と明確に位置づけることを決めた。現在はボランティア扱いのため、忙しい運動部の顧問などは敬遠されがちだが、休日の活動には代休をとれるようにし、業績評価にも反映する。文部科学省によると、こうした動きは全国で初めて。
 現行の学習指導要領には、部活動の規定がない。このため、都教委は、都立学校の管理運営規則を改正して「部活動は教育活動の一環」と位置づけ、来年4月1日から施行する予定。同時に、現在は教員だけに認められている顧問の対象を広げて、養護教諭や定年後に再任用された嘱託教員の就任も正式に認め、人員確保を目指す。



 望ましい方向である。ついでに言えばPTA活動も勤務に含め、教員の実働時間を明らかにしてもらいたいものである。その上で、給与を削減すべきだという議論が始まるなら、それはそれで考える余地がある。部活動もPTA活動も皆ボランティアとして遠ざけ、その上で授業時間以外は児童生徒はいなくなるじゃないか、夏休みはあるじゃないかと、あたかも教員が暇をもてあましているように言われるのはかなわない。
 全てを明らかにし、働いた分は収入に反映させる、働かなかった分については一切支払いをしない、その方がはるかにわかりやすいはずだ。ただし、
休日の活動には代休をとれるようにし
 こうした規定にはぜひ実効的な裏づけをして欲しい。担任する児童生徒が学校に来ている中で代休を取れるようにといってもそれは無理である。職員が代休を取った日には代わりの教員が補充に当たるとか、生徒の夏休みである期間中に代休のまとめ取りができるとか、そうでもしない限り取れといっても取れるものではない。








 



2006.007.30

教員の精神疾患最多/病気休職の4割


沖縄タイムス 7月229日]


 精神疾患を理由に休職する県内の教職員が二〇〇五年度は百十九人で、前年度より二十五人増え、過去十四年で最多であることが県教育庁の調べで分かった。全体の病気休職者数(二百九十三人)に占める割合も40%台に上り、教育関係者らは「原因の特定は難しい。放置できる問題ではなく、何らかの手だてが必要だ」と口をそろえ、早急な分析と対策を求めている。(松田興平)
 公立小・中・高校、特殊教育諸学校の教員が対象。一九九二年度は全体の病気休職者百九十九人のうち、精神疾患は15・1%(三十人)だったのが、九六年から20%台に、九七年は二百十人中五十人で23・8%、二〇〇二年から〇四年までは30%台で推移していた。十四年間で人数は約四倍に膨れ上がっている。病気休職者の数が年々増える中で、さらに精神疾患者の数は伸び率が高く、占める割合が増している。
 精神を病む教職員数が増えたことについて、県教育庁の松田俊世次長は「背景はさまざまだ。まずは現場の問題を吸い上げて、分析することが急務。その後で新たな方策について講じる」と説明した。
 組合も原因の解明に窮している。「多忙化」が原因と分析しながらも、具体的に現場のどの仕組みを変えれば、仕事が緩和できるか解決策は見いだせないでいる。
 沖教組の大浜敏夫委員長は十数年前と比べ、行政や上司への提出書類の急増や生徒指導、クラス運営の悩み、保護者や管理職とのさまざまな人間関係の複雑化│などを挙げた。
 「状況は厳しい。事務的な仕事に追われ、子どもたちと触れ合う時間が十分にとれずに、ストレスは高まるばかり。教員同士の関係も希薄になり悪循環だ」
 高教組の松田寛委員長は「何が現場を汲々とさせているか具体的に分からない。仕事が許容量を超えていることは確かで、行政と話し合い、業務を取捨選択していく必要がある」と県教育庁と組合で協力し、解決策を練る必要性を強調した。
大都市で顕在化
 東京都教職員互助会三楽病院精神神経科の中島一憲部長 病気休職者のうち、精神疾患の割合の全国平均は50%半ばであり、今まで沖縄は比較的低かった。二〇〇四年より二十五人増という極端な増え方を見ると、潜在的にいた患者が数字に表れた可能性がある。大都市部では、この問題は早くから顕在化しており、行政も相談窓口の充実化など対応をとっている。職場復帰の訓練も併せて対策の制度化が求められる。



 
精神疾患で休職している教員は全国で3000人あまり、全休職者の5割を超えている。その人数は教員のおよそ300人にひとりということになる。ただし「休職」というのは一定の手続きを経た人たち、つまり倒れて学校に来れなくなった人たちのことであり、五月雨出勤や、出勤はしたものの使い物にならない状態の教員を入れれば、この数は3倍では済まなくなるだろう。

だが私は思う。犠牲はもっと必要だ。
学校が変化するにはこれでも足りな過ぎる。もっとたくさんの教員がもっと早く音を上げ、つぶれていかなければこの国は変わらない。

できるだけたくさんの教員が、狂い、倒れ、自殺しなければならない。私たちが踏ん張れば踏ん張るほど、その被害は子どもの現れるのだ。
もっと犠牲を!








 



2006.007.31

漢字「必要」でも「嫌い」? 国立教育研調査


毎日新聞 7月31日]


 小中学生は、漢字や文章を書くことが、日常生活や国語以外の勉強に「必要だ」と感じているが、あまり好きではない。学年が上がるにつれ、嫌いな子が増える。国立教育政策研究所による児童・生徒の意識調査で、そんな結果が出た。
 この意識調査は昨年1〜2月、国語と算数・数学の「特定課題調査」の一環として、ペーパーテストと同時に行われた。
 以下の「%」は、質問に対して「そう思う」または「どちらかといえばそう思う」と、肯定的に回答した児童・生徒の割合を指す。
 「漢字は日常生活で必要だと感じる」は、小4〜中3までの全学年で88.8%〜92.2%の幅に収まり、非常に高い。ところが「漢字の学習が好きだ」は、小4では62.5%なのが中2では45.4%と、学年を追うごとに下がる傾向がある。そのうえ全体に「必要」より「好き」が低い。
 東北福祉大学の上條晴夫助教授(国語教育)は、同調査のペーパーテストで漢字は比較的できているのに、その割に「好き」が少ない点に注目し、こう語る。
 「できるのに好きでないということは、訓練的な学習が多いのだろう。学力低下を指摘されるなかで現場の先生たちはよくやっていると思うが、楽しみながら習得できるようなやり方も並行して採り入れてゆくといいのではないか」
 「文章を書くことは他教科や日常生活に役立つ」は、各学年とも80%前後。同じく「必要だ」も72.8〜78.3%と高い。しかし、「好きだ」は、最も高い小4でも47.3%。最低の中2では30%に落ち込み、これも学年が上がるにつれて書くことへの抵抗感が増す。
 国立教育政策研は、学年が上がると、ただ好きなように書けばいいのではなく、「この項目を押さえて書け」などと制約が付いてくることが一因と分析。小論文などの作文力は進学や就職の進路決定にからむため、学年が上がるにつれて苦手意識が高まるのではないか、とみている。



野球が好きで「早起き野球」などに平気で出て行ける人は、けっこう変わった人だと思う。少なくとも一般的な人というわけには行かないだろう。「アウトドアが好き」「キャンプが好き」というものも、「みんなが好きなわけではない」という意味で、やはり変わった人に違いない。

同様に「文章を書くことが好きだ」というのも、そこそこに変わった趣味だ。ましてや「漢字の学習が好き」というのは相当にマイナーな部類に入るだろう。
なぜ漢字の学習は好きでなくてはならないのか?
つまらなくたって、読めたり書けたりすればそれでいいのではないか?

ごく特殊な場合を除いて、基本的に漢字は道具であって学習の目的ではない。
「人」が「木」に寄りかかる状況を「休」というのだといった学習は、楽しくはあるが膨大な時間がかかる。漢字なんて訓練的でいい。そんなことに時間をかけず、すばらしい文学に1分でも多く触れさせたい、そう考えるのはもはや時代遅れなのだろうか?








 



2006.007.31

公立小選択制による人気度
小規模校、都市部で先細り


朝日新聞 7月31日]


公立小学校の学校選択制がもたらす学校間の人気の開きを、朝日新聞で調べた。選択制が良くも悪くも効果を発揮するのは、都市部。もともと小規模な学校が避けられ、ますます小規模になる傾向も都市部で顕著。そういう結果が出た。
 ◇実質差は最大で7倍に
 各市区町の最上位と最下位の開きは右表の通り。
 東京の区部では板橋区(約25倍)や荒川区(14倍)、江東区(6倍)の上下差が大きいが、いずれも統廃合の計画などのため児童が他校に多数流れた学校がある。そういう特殊事情のある学校を除いた実質的な上下差は各区とも3.5〜7倍。5倍前後となる。
 ただ、各区とも少数の突出した人気校と不人気校があり、そのほかの学校は差が小さい。例えば荒川区は全体の半数が1.2〜0.8の範囲に収まっている。
 人気集中校について各教委は「地域で歴史のある学校。選択制を導入する前から指定校変更を使って学区外から通う子が多かった」(江戸川)、「学区が入り組み、隣接校の方が近い子が多い」(足立)、「区の中心部にあり、交通の便から集まりやすい」(荒川)などを要因に挙げた。
 荒川区教委による今春入学児童の保護者への調査でも、学区外の学校を選んだ理由のトップは「通学距離」、次いで「友人と一緒」。「教育の特色」は4位だった。逆に、学区内の学校を選ばなかった理由も「児童数が少ない」が最多だ。

 ◇開き、小さい地方 「百ます」土堂小は例外でトップ
 一方で、地方は人気の上下差が小さい。福岡県などの地方都市では1.5倍近い。
 ただ、広島県尾道市は例外。「百ます計算」などで有名な陰山英男氏が3月まで校長を務めた土堂小が、調査全校でトップの人気を見せた。学力作りの特色に加え、駅に近く交通が便利なことも理由と、市教委はみる。
 東京都西東京市と栃木県鹿沼市は見かけの開きが大きいが、西東京は選択希望を取った後の3月になって大規模マンションができ、児童が急増した学区がある。鹿沼はもともと新小1が1人しかいない学区があり、結果的に入学者が0だった。そうした例外を除けば実質的な開きは小さい。
 選択制がもともと小規模な学校に不利に働く傾向も、特に都区部で顕著に出た。調査対象の7区には、もともと自分の学区に新小1が30人以下しかいない学校が計13校あった。うち12校は他校に児童が流出し、実際の入学者はさらに減った。
 そのうえ、「もともと30人以下」が13校に対し、「選択を経て実際の入学者が30人以下になった学校」は36校に増える。制度は明らかに小規模校を増やす方向に働いている。
 地方では東京のような傾向は読み取れないが、これは学区内に小1児童が30人以下しかいない学校が珍しくないためだ。
 〈調査方法〉 市町村内の全域から行きたい小学校を選べる「自由選択制」をとる全国25市区町(合併前の旧自治体を含む)計530校について、今年4月に入学した児童の選択動向を、教育委員会を通じて調べた。
 各校の学区内に住む小1児童数を「1」とし、実際の入学児童数がその何倍に当たるかを、人気の指標とした。転出入や私立進学の影響もあるが、総じて開きが大きいほど選択制の作用も大きいとみられる。人気集中校は抽選があるため、昨秋に選択希望をとった際にはもっと差が大きかった自治体もある。


マスコミはもともと自由の旗手だから自由といえば何でも賛成する傾向がある。
学校の選択制もそうした流れからマスコミ各誌から熱烈に支持されてきた。しかし「特色ある学校づくり」といったスローガンが叫ばれる割には、学校の個性はさっぱり高まらず、内容的にはどこも同じようなことばかり続けている。だが学校が悪いのではない。
学習指導要領で教育課程の大半が決まってしまう現在の状況では、学校の違いといたら多少荒れているか落ち着いているか、学校の規模、自宅から近いか遠いかといった距離の問題そして中のいい友達がいるかどうか・・・その程度のものなのだ。(もっとも、区立A中学校はカトリック系でB中学は有名私立高校の受験専門、C中学はスポーツで次々と全国大会に生徒を送り出しているといった強烈な特色づくりが始まったら、親としてもたまったものではないが・・・)。

 その中でも学校の規模というのはある程度重要な要素であって、大きすぎるのも心配だが小さいのも困る。
特に児童生徒数が100人を割ると、運動会には刈り出される、PTAの役員やたらと回ってくる、部活の支援もハンパじゃない・・・と、次々押し寄せる無理難題で、親がホトホト疲弊してしまう。
そして都市部の学校で70人を切ると、雪崩を打って児童生徒がいなくなってしまう。
それは行政の思う壺なのだ。

 かつて私の住んでいた町(地方の中心都市)では、ドーナツ化現象によって中心部の3つの小学校が統廃合の対象になってしまった。その時市が、3校をひとつにという案を出したところ、3校の保護者の猛反発を食らって結局廃案にせざるを得なくなった。その直後に出てきたのが、学校の自由選択制だった。
 田舎の市役所にも知恵者はいるものだ。その結果わずか3年で3校のうちの2校に廃校の目星がつくようになり、予定外の一校も将来的に廃校に追い込めることになった。
 もともと小規模な学校が避けられ、ますます小規模になる
 学校選択制がフルに利用されたのである。これによって、市の教育費は大きな削減を果たすことになった。その代わり相当数の子どもたちが、はるかに遠い学校に行かざるをえなくなった。しかし、それも自由のためだから仕方ない(・・・かぁ?)。