キース・アウト
(キースの逸脱)

2006年8月

by   キース・T・沢木

サルは木から落ちてもサルだが、選挙に落ちた議員は議員ではない。
政治的な理想や政治的野心を持つ者は、したがってどのような手段を使っても当選しておかなければならない。
落ちてしまえば、理想も何もあったものではない。

ニュースは商品である。
どんなすばらしい思想や理念も、人々の目に届かなければ何の意味もない。
ましてメディアが大衆に受け入れられない情報を流し続ければ、伝達の手段そのものを失ってしまう。

かくして商店が人々の喜ぶものだけを店先に並べるように、 メディアはさまざまな商品を並べ始めた。
甘いもの・優しいもの・受け入れやすいもの本物そっくりのまがい物のダイヤ
人々の妬みや個人的な怒りを一身に集めてくれる生贄
そこに問題が生まれれば、今度はそれをまた売ればいいだけのことだ。















 



2006.008.07

小学校での英語必修化、4割が「不安」・
教委の意識調査


山形新聞 8月7日]


 県内の小、中学校の保護者の約4割は、小学校での英語必修化に不安を感じていることが、県教育委員会の意識調査で分かった。日本語力の低下や、他教科への影響が主な理由。一方で「子どもには、あいさつや日常会話ができる程度の英会話力を身に付けてほしい」との回答も9割近くに上り、県教委は「小学校でどのような英語活動が行われるか具体的に見えない中、期待と心配が表れている」としている。

 調査は、本県の英語教育の方向性や具体的な改善策を探るため初めて実施した。今年6月、無作為抽出した小、中学校計37校の保護者9382人にアンケートを行い、6652人から回答を得た。回収率は70.9%。

 結果によると、小学校の英語教育に「不安がある」と答えたのは38%、「ない」は62%。不安の理由としては「ほかの教科をしっかり学んでほしい」が31.3%、「日本語を身に付けることがおろそかになる」が25.7%と続き、「幼いうちは英語よりも、まず国語や算数、社会を」といった考えが背景にうかがえた。「小学校で英語を教えられる教師が少ない」(22.5%)と、現状の指導体制での必修化を不安視する親も多かった。

 一方で、社会に出るまで子どもに身に付けてほしい英語力のレベルとして、87.7%の親が「あいさつや簡単な受け答えができる」「外国人と日常会話や手紙のやりとりができる」程度を望んでいたほか、「英会話力は将来の就職などに有利だと思う」という回答は86.8%に上り、英語教育に期待を寄せている側面も見えた。

 また、56.8%の親が、自分が中高生のときに受けた英語の授業を「嫌い」「やや嫌い」だったとし、小学校での英語活動には、読み書きよりも「身近なものを英語で言う活動」「英語の歌やゲーム」などを望むという声が74.8%だった。

 県教委義務教育課は「小学校の英語必修化は、有識者の間でも意見が分かれ、保護者に不安があるのは当然。理解を示している保護者が6割というのは予想より多かった」とし、「英会話力の習得を保護者が期待していることは間違いない。現在進めている小学校英語のモデル校事業などを通し、ALT(外国語指導助手)の活用や会話中心の活動などを検討する」としている。


問題点は三つ。
一つ目はこの問題に対するメディアのスタンスである。

何を言いたいかというと、(アンケートの)
結果によると、小学校の英語教育に「不安がある」と答えたのは38%、「ない」は62%。
だとしたら
「小学校の英語必修化は、有識者の間でも意見が分かれ、保護者に不安があるのは当然。理解を示している保護者が6割というのは予想より多かった」
という県教委義務教育課の言い分には説得力がある。

それをわざわざ、
県内の小、中学校の保護者の約4割は、小学校での英語必修化に不安を感じている
というのはいかがなものか。

数字を自分の都合のいいように解釈したと言われても仕方がない。

不安を感じている者が4割、感じていない者が6割なら、とりあえず保護者は「不安に思っていない」と結論するのが当たり前ではなか。

繰り返し言うが、私も小学校英語には反対である。しかしだからといって自分の意見のために事実を捻じ曲げる気にはなれない。


2番目3番目は内容的なもの。その1は時間の問題である。
英語を扱う時間として予定されているのは総合的な学習の時間である。「総合的な学習の時間」は自然に生まれてきた時間ではない。
国語から35時間、算数から25時間、社会科から5時間、理科から10時間と削り取ってきたもの
である。音楽も図工も70時間から50時間に減らされてしまった(いずれも6年生)。


その大切な時間を
「身近なものを英語で言う活動」「英語の歌やゲーム」
で消費してもいいものだろうか?


そした事情を承知での
小学校の英語教育に「不安がある」と答えたのは38%、「ない」は62%。
なのだろうか? 私にはそうは思えない



その2は、英語教育に何を求めるかということである。
 私はかつて航空管制の現場に見学に行ったことがある。英語を縦横に操って航空機を離着陸させる管制官に、「相当英語ができないとダメですよね、この仕事」と訊ねたら意外な答えが返ってきた。
「いや、飛行機の運航に関する英語だけですからすぐに慣れます」
 専門の会話というのは内容が限定的なのでむしろ楽なのである。

 その対極にあるのが日常会話だ。
 私たちは日常、誰とどんな話をしているのだろう?
 イチローの今日の成績について話すかもしれない。先日見たテレビのドラマについて語るかもしれない。天気についての話題、子どもの養育に関する話、姉歯偽装問題はどうかとか次の選挙はどうなるのかとか、

ありとあらゆる問題が俎上に乗ってくる、それが日常会話である。


「あいさつや簡単な受け答えができる」「外国人と日常会話や手紙のやりとりができる」程度を望んでいた
さて、 
Good morning. やHow are you.を覚えるためにだけに、小学校3年生から35時間も使う必要はないだろう(「あいさつや簡単な受け答えができる」)。
しかし一方
「外国人と日常会話や手紙のやりとりができる」程度
になるためには膨大な時間が必要であるし、国内の公教育の中で全ての生徒がそのレベルに達するのは尋常なことではない

もっと単純に、
中学校高校で減らされた英語の時間を復活する方がはるかに重要だ
と、そんなふうには考えられないのだろうか?








 



2006.08.08

西海評論:先生が怖い /長崎

毎日新聞 8月7日]


 長崎市内の中学校で運動部の体罰問題が発覚した。バレーボール部顧問の男性教諭(43)が、給食当番中に後輩らを「イケメン」と冷やかした3年男子部員を指導していて首をつかんで押した。数秒ずつ3、4回続き、生徒は「息が出来ず、死ぬと思った」と話している。
 6月中旬の出来事だが、男子生徒の首にはまだ跡が残っている。それよりも深刻なのは生徒の心の傷だ。小学生のころ、バレーボールの全国大会に出た有力選手だった。中学に入学後も活躍。2年の冬、足を骨折、リハビリに時間を費やしたが、6月前半の中総体の市大会には出場した。
 「全国大会へ」が夢だった。だから、昨年、この男性教諭が顧問となり、休みがない厳しい練習が続いても耐えた。「殴られることもあった。口が切れてご飯も食べにくいこともあったが、強くなるためには気にならなかった」。こう生徒は話す。
 だが、今回は「本当に死ぬと思った。先生が怖い」と言う。体罰後も何とか、練習に参加していたが、10日もすると胃腸炎を起こし、学校に行けなくなった。診断を受け、精神的ストレスから来ていることが分かった。
 その後、登校しても部活には参加せず、顧問教諭が担当する体育やこの教諭が参加する集会にも出られない。とにかく「怖い」のだ。
 問題は"大人"の受け止め方だ。校長は「行き過ぎた指導だが、体罰ではない」と言う。市教委も初めは、同様の見解だった。
 ちょっと待ってほしい。被害を受けた生徒が「死ぬと思った」と訴えているのだ。子供の叫びに本気で耳を傾けようとしているのか。
 この教諭は、今年1月にも当時の3年男子が決められた靴以外の靴で体育館にいたため、たたいて目にけがをさせた。男子生徒は精神的ショックで、卒業まで登校出来なくなった。
 これだけではない。今回のバレーボール部の男子生徒の事件を知って「自分も、あの先生のために体育の授業にでられない」と別の同中3年の男子が話をしてくれた。体罰と大勢の生徒の前で屈辱的なことを言われたことが原因という。
 生徒が次々に追い込まれている。それに適切な対応が出来ない学校と教育委員会。取材して感じるのは、体罰に対する甘い姿勢だ。教育委員会による正確な事実の把握と、き然とした姿勢がない限り、子供たちの不信と不安はぬぐえない。<長崎支局長・松田幸三>




一般に、メディアには「子どもはウソをつかない」という根深い信仰がある。しかしそんなことはあるまい。世の中、ウソを全くつかずに済むのは独裁者だけであって、普通の人はしばしばウソをつく。弱い者ほどウソがなければ生きていけない。そして子どもは弱い者である。

また、子どもは一面きわめて主観的な生き物である。したがって彼らの語るのは、大枠で「ボクの見た、ボクの世界の、ボクの物語」だ。本人がいくら熱心に、そして誠実に語ろうとも、事実はいちいち検証されなければならない。

ちょっと待ってほしい。被害を受けた生徒が「死ぬと思った」と訴えているのだ。子供の叫びに本気で耳を傾けようとしているのか
私こそちょっと待ってほしい。子どもが
「死ぬと思った」と言えば死を予感させるだけの激しい暴力があった証拠になる考えるのは、ジャーナリストとしてあまりにも安易ではないのか?


私だったら、むしろ次の事実に注目する。
6月中旬の出来事だが、男子生徒の首にはまだ跡が残っている。
これこそ信用に足る客観的な事実であり、真実を究明する糸口である。記者はこの傷について触れた後、悠長に

それよりも深刻なのは生徒の心の傷だ

などと言っているが、そういうものではないだろう。首を絞められた跡が2ヶ月近く残っているようなら
これは体罰と言うよりは傷害、一歩進めば殺人未遂と言っていい事件である。


殺人未遂に近い事件があり、そのために生徒がおびえ、
 その後、登校しても部活には参加せず、顧問教諭が担当する体育やこの教諭が参加する集会にも出られない。とにかく「怖い」のだ。
という状況が続いている。
これは明らかに犯罪である。

それを
「行き過ぎた指導だが、体罰ではない」と言う。

としたら、校長や市教委の対応は
取材して感じるのは、体罰に対する甘い姿勢だ
などといったものではないだろう。
これは明確な犯罪の隠蔽である。

保護者は即刻告訴すべきだし、記者はさらに激しく事実を究明すべきだ。

教育委員会による正確な事実の把握と、き然とした姿勢がない限り、子供たちの不信と不安はぬぐえない。
確かにそうかもしれない。しかし同様にメディア諸君にも言う。
正確な事実の把握と、き然とした姿勢がない限り、私達のメディア不信と不安はぬぐえないのだ









 



2006.08.14

社説 [非行の低年齢化]
叱らぬ大人にも責任が


[沖縄タイムス 8月13日]


 私たち大人は地域の子どもたちの行動にきちんと目を向けていると言えるだろうか。ややもすると「君子危うきに近寄らず」を装い、喫煙や飲酒などの不良行為にも見て見ぬふりを決め込んではいまいか。
 一月から六月までに県内で摘発された刑法犯二千百十九人のうち、十四歳から十九歳までの少年の割合は35%で、全国平均28%を6ポイントも上回っていることが分かった。
 全刑法犯に占める割合では熊本、福井、高知県に次ぐ高さだ。しかも十四歳未満の少年を含めると44%にまで跳ね上がるという。
 少年非行の低年齢化については大平修県警本部長も本紙論壇(一日付)で警鐘を鳴らしている。
 摘発され、補導された少年たちの実態は家庭の教育力の弱さだけでなく、私たち大人の、そして地域社会の責任をも告発していると言っていいのではないか。
 昨年上半期の少年の割合(40%)に比べると確かに刑法犯の数字は低い。
 しかし「触法少年」だけを見ると、統計を取り始めた一九七二年以降で最も多かった二〇〇五年(七百八人)の同時期に比べ四十九人も増えている。
 下半期にこのまま増えるかどうか明確ではないにしても、厳しい状況下にあることだけは間違いない。
 刑法犯で摘発、補導された触法少年を含む十九歳以下の少年は千九十七人だ。うち七百六十三人が窃盗犯で、「万引」が三百六十一人を占めた。
 不良行為で補導されたのは一万七千二百三十七人。前年同期より三千百九十九人も増えている。うちわけは「深夜はいかい」七千九百九十二人、「喫煙」五千三百八十九人、「飲酒」二千七十九人など。
 県警によると、刑法犯少年の再犯者率は全国第二位で、不良少年の深夜はいかいは全国四番目の高さ。飲酒少年に至っては全国平均の約九倍もあり、ワーストワンになっている。
 この実態は、私たち大人がどう少年たちの行動を受け止め、どう対応していくかを問うているといっても過言ではないはずだ。
 夏休みも中盤に入った。子どもたちの行動を優しく見守るのは当然として、おかしな行為には毅然とした態度で声を掛け、注意しなければならない。
 大人の温かい眼差しが子どもたちの“居場所”確保につながり、ひいては地域社会のきずなを強めることにもなるのではないか。自分の子と同じように周りの子どもに接していく。地域の子どもたちを叱ることは私たち大人の責任だということを自覚したい。


 沖縄の非行問題には一種独特のものがある。例えば「不登校を非行の入り口だ」などと平気で記事にできる県は沖縄を置いて他にない。(*注)
確かに、
 
刑法犯少年の再犯者率は全国第二位で、不良少年の深夜はいかいは全国四番目の高さ。飲酒少年に至っては全国平均の約九倍もあり、ワーストワン
となれば話は深刻であろう。
 今回取り上げたこの記事も、全体としては妥当なものである。しかしただ、ひとつ気になるのは「
子どもたちの“居場所”」という言い方である。

 私はこの言葉を聞くと、遠い昔、祖母が入っていた老人ホームのことを思い出す。
 確かに、祖母はホームの人々の暖かいまなざしの中で何の不自由もなく安心して暮らしていた。しかし子ども心にも私は、その姿を良いものだとは感じられなかった。
 そこには決定的な何かが欠けていた。その「何か」は、当時は分からなかったが、今なら分かる。それは

何らかの形で人の役に立っている、人間として他と結ばれているという実感

である。記事の中の言葉で言えば、「きずな」がそれである。
地域の子どもたちを叱ることは私たち大人の責任だということを自覚したい。
 それは当然だが、子どもたちと絆を持たない大人が叱っても効果はほとんど期待できないし、ある時は危険だ。
 沖縄タイムスはこの「子どもたちの居場所」「心の居場所」が好きでたびたび使っているが、必要なのは優しいまなざしに包まれたゆったりとした空間などではないのだ。
 
 
(*注)
「不登校は深夜はいかいや非行とも絡んでくるだけに、早急な分析と有効な対策をとってほしい。」(8月12日付け 沖縄タイムス社説)









 



2006.08.21

【古文暗唱】検討課題は多くある

高知新聞 8月20日]


 学習指導要領の見直しを進めている中央教育審議会(中教審)が小学校の国語の授業に「暗唱と朗読」を重視した古文・漢文の指導を盛り込む方向で検討を始めた。
 現在の指導要領も「やさしい文語調の文章に親しむ」ことを掲げてはいるが、中教審の検討案は「わが国の言語文化を継承させる」ことを強調し、古文暗唱重視の姿勢を鮮明に打ち出している。
 古典を学習し、日本語文化へ理解を深めることは大切なことであり、国民には後世に伝える義務がある。
 だが、いかにも唐突の感は否めない。教育勅語暗唱の戦前教育を想起し、警戒する人もいるだろう。中教審は小学校で導入する目的と効果について十分な説明が求められる。
 日本語文化の継承以外に、論理的思考や表現力の向上も古文暗唱導入の背景にあるといわれる。
 経済協力開発機構(OECD)の2003年の学習到達度調査で、日本の15歳は前回調査で1位だった数学的応用力が6位に、読解力は8位から14位に転落した。読解力養成による論理的思考や表現力の強化が学校教育の大きな課題となっているのは確かだ。
 古文の暗唱や音読によって日本語の美しいリズムが身につき、情緒や独創性、創造性をはぐくむといった効用を説く識者は多い。しかし、古文暗唱がどれだけ読解力養成に役立つかは不透明であり、読書によって読解力を養成するのが先決だとの声もあろう。
 国語教育のあり方にも議論すべき点は多いが、一方で、来春の指導要領の改定にはまったく言語構造の違う英語の必修化も盛り込む方向で中教審は話を進めている。
 「ゆとり教育」からの脱却が念頭にあるとはいえ、児童の授業数は限られている。新たに英語、国語の古典を導入できる余裕が現場にあるのか。子どもたちが腰を落ち着け、学習に取り組む教育環境が確保されるのか疑問である。
 英語必修化で挙げられている教員養成の課題は古典にもあてはまる。暗唱、音読が主体とはいっても専門的知識は不可欠だ。どんな研修をするのか、教材に何を用い、どんな授業をすればいいのかも見えてない。導入に際しての検討課題は多い。
 中教審は「結論ありき」で拙速に議論を進めず、総合的な観点から詰めた議論をすべきである。現場の混乱を招くようでは教育効果を上げられるはずもない。




 小学生に英語をやらせるのと古典を暗誦させるのとでは、次元がまったく異なる。

 英語をやるのは総合的な学習の時間、つまり算数や国語を犠牲にして創設した時間であって、そこで
問われるのは小学校で外国語を学ぶことの意味と価値である。減らされた算数や国語に見合うかどうかという問題である。

 それに対して古文の暗誦は「国語」の時間内部のことであって、古文暗誦を入れたために国語の中の何が犠牲にされるか、その犠牲と古文暗誦の価値は釣り合うのかということが問題になる。
 そして私は、たぶんデメリットよりもメリットの方が多いだろうと考える。

 なぜなら

文を読んだり書いたりということは、つまるところ日本語のリズムの問題

だからである。日本語のリズムが身についていない人間に文章を読めというのは苦痛である。それは、日本語本来のリズムをほとんど犠牲にしひたすら論理の正確さだけを追った法律文や哲学書が読みにくいことを思い出せば分かるはずだ。

 一方失われるものは何か?
 漢字や文法を減らすわけにはいかない。となると読解の時間のうちの幾分かが削られることになる。ところがその犠牲は、一般に考えるよりはるかに少ないと思われるのである。

 なぜなら、英語や数学・理科といった教科が言わば積み木を積み上げるようなものであって、1段目・2段目をおろそかにして3段目・4段目に進むことが不可能なのに対し、
国語の読解というのは同じことを繰り返しながらじわじわと上っていく、いわば螺旋状のものだからだ。その一部が多少沈んでも、全体には大きな影響はない。

 小学校で古文をやるといったって、せいぜい年間に5〜6時間、それ以上入れれば4年生・5年生と進むうちに教材がなくなってしまう。中身にしても小林一茶の俳句や百人一首程度がふさわしく「竹取物語」だって扱いきれたものではない。やってみる価値のあることと思う。

それにしても、
教育勅語暗唱の戦前教育を想起し、警戒する人もいるだろう。
とは!

古文の暗礁といえば「春はあけぼの」だの「祇園精舎の鐘の声」だろう。少し気の利いた人なら「師曰く・・・」といったところだ。そこに教育勅語を持ち出すとは・・・!
記者はもう70歳代のご老人か?










 



2006.08.22

〔社説〕中学生の妊娠
性教育は勇気を持って


中国新聞 8月21日]


 広島市の女子中学生が、この夏出産する。相手も中学生。うわさによって周囲が妊娠に気付いた時には、中絶できる時期を過ぎていた。生まれる赤ちゃんは、女子中学生の親が育てるという。
 望まない妊娠は、本人を傷つけるだけでなく、多くの人を困惑させる。みんなの祝福を受けずに生まれた子のハンディも大きい。きちんとした性教育によって、こうした事態を防ぎたい。
 十代の妊娠を数多く見てきた広島市の産婦人科医師、河野美代子さんは、避妊せずに性交をすれば妊娠につながる―という実感が、女の子にあまりに薄いと感じる。
 男の子から迫られると「嫌われたくない」「断りにくい」とつい体を許す。問題も起こさず成績もいいような子ほど、妊娠したことを誰にも言えず、結果として手遅れになりやすい。
 開業から十年で、中学生は三十五人が妊娠し、五人が産んだ。高校生は三百九十三人で、三十五人が出産した。ほかの病院も含めるとどれほどの数字になるのか。
 望まぬ妊娠で体と心に負担がかかるのは圧倒的に女生徒の方だ。だからこそ女生徒には身を守る判断力を、男生徒には相手を思いやる自制心を育て、仮に合意して性行為に至っても確実な避妊をするよう教えるのが性教育だろう。
 性交まで教えるのはまだ早い、と大人は思っていても、ネットや雑誌などにはいびつな性情報があふれている。その気になればすぐ手が届く危うさ。その前に正しい性知識を勇気を持って伝えるのが、子どもを守る近道と考える。
 こうした考えから独自の教材による性教育を手がける学校も、一時は全国的に広がっていた。ただ残念なのは、コンドームなどを取り上げたことで「過激な性教育」と誤解を受けたこと。二〇〇三年にはバッシングが起こり、各地の教育委員会は神経質になった。
 広島市でも、市教委が学校から報告書を出させて「指導要領からの逸脱」を正したり、前年まで続けていた民間の性教育セミナーの後援を打ち切ったりした。過剰防衛とも見える対応だった。
 そうした流れに教師の多忙も手伝い、今は性教育は切り捨ての傾向だ。「性教育の時間があったころは保健室で生徒がフランクに性の話をしてくれていた。今はそんな雰囲気がなくなった」とある中学校の養護教諭は憂う。
 それでいいのか。あらためて産婦人科の現実を直視したい。



性教育は勇気を持ってなどと応援されても戸惑うばかりである。うっかり誘いに乗ってそんなことをすれば、何が起こるかわからない。前回も体を張って学校の性教育を守ろうとしたマスメディアはなかったはずだ。

 さて、乗るか乗らないかは別として、これは果たして性教育の問題なのだろうか?
 結論から言えば、これは性教育ではない。
 2003年に問題となったのは正確に言えば避妊教育であり、この社説で訴えていることも
勇気を持って避妊教育を行えといっているである。それが性教育全体と混同されるところから問題が複雑になるのだ。
 
 結論から言えば、私は今でも避妊教育には消極的である。
 なぜなら教育というのは常に一定のリスクを背負っているからである。例えば、差別の問題を扱う授業で「こうした言葉は使ってはいけない」というその言葉を使ってみたがる生徒がいる。いじめの問題を扱う授業で「こういう言葉が深く人を傷つける」と教えれば、それがもっとも有効な言葉の武器なのだとほくそえむヤツがいる、それを完全に防ぎきることはできないのだ。そして避妊具の使用法を教えれば、これで安心だから自由にやってやろうと思う生徒が出てくる。それをゼロにはできない。

 要は避妊を教えることと教えないことの、どちらにより多くのリスクがあるのかということだが、現状では、まだまだ前者にこそ危険は大きいと思う。避妊教育は生徒の性欲そのものを刺激しかねない。
 いやそんなことはない。
ネットや雑誌などにはいびつな性情報があふれているのだ、子どもたちは十分刺激を受けている、という人がいるなら私は問いたい。そのいびつな性情報の中には避妊の情報はないのかと。
 もちろんそれはある。あるのだがしばしば無視されるのだ。

 
女生徒には身を守る判断力を、男生徒には相手を思いやる自制心を育て、
 それこそが私たちのなすべきことだろう。そしてそれができれば、
 仮に合意して性行為に至っても確実な避妊をするよう教えるのが性教育だろう。
 は必要なくなるはずだ。
 もしできなければ・・・できなければ結局は避妊などしないはずである。










 



2006.08.28

新教育の森:芦屋町の挑戦/上
“指定独占”で学力向上 /福岡


毎日新聞 8月27日]


 ◇不登校減、学校不信解消へ
 「芦屋の子供は芦屋で育てよう」を合言葉に、町を挙げて教育再生を目指している芦屋町。学力向上だけでなく、規範意識の育成や教員の資質向上など多岐にわたる取り組みの足取りを追った。【千代崎聖史】

 「芦屋中の不登校生約30人」。01年9月、着任したての中島幸男・芦屋町教育長(65)は目を疑った。校長だった98年当時はゼロ。中学入学直前に行うテスト結果と照合すると、小学校時代の学力との相関が疑われた。

 前年2月に校内で起きた刺殺事件以来、学校への不信感は頂点に達していた。ひと筋の光明が見えたのは02年4月のことだ。「学力向上フロンティアスクール」の“指定独占”だった。
 02年度に始まった完全週5日制と新学習指導要領で、学力低下への懸念に対処するための文部科学省の3カ年事業。習熟度別指導などが柱で、都道府県教委が小中学校を指定し、国費で教員1人を増員(03年度)する。

 2市8町(当時)の74小中学校を所管する北九州教育事務所の指定枠は、2小学校1中学校。そのすべてを3小学校1中学校しかない芦屋町が占めた。中島教育長は外れた1校も町独自に指定。03年度からは町予算で非常勤講師を雇い、4校に1人ずつ配置した。

 「がんがん」「がっちり」「じっくり」。芦屋小が02年度から小5を中心に始めた算数の習熟度別3クラスの呼称例だ。単元ごとにプレテストをし、その結果も参考に子供自身がクラスを選択する。
 教務主任の樋口陽一郎さん(43)が忘れられない光景がある。同年9月の研究授業の途中で、当初は暗かった最も進度の遅い教室の空気が変わった。「後半、子供たちが目を輝かせて積極的に手を挙げ始めた。これでいいんだと自信がついた」

 学習の後押しは学校だけにとどまらなかった。土曜の午前9時、3地区の公民館に地域の小中学生が集まる。02年8月から続く「学び合いルーム」。教師志望の学生や現職教員らがボランティアで2時間、子供たちの自学自習を見守る。教えるのは求められた時だけ。「学びのあるべき姿。塾に通う子供たちとの学力格差を埋める役割も果たしている」と言うのは当初からかかわる中学講師の早稲田直子さん(31)。06年度も5日までに延べ1127人が参加した。

 「フロンティアスクール」指定の3年間で子供たちの学力は着実に伸びた。国語・算数の到達度をみる業者テストで最下位の「要努力」判定だった小学生の割合は、02年の21%から04年は7%に減少。それに連れて芦屋中の不登校生も12〜13人程度に減った。
 改革3年目。中島教育長は「次の手」を模索していた。
 ※次回は29日に掲載します。
〔福岡都市圏版〕




 29日に続きがあるというからそれを待ってからでも良かったのだが、一報を読んだだけの段階で教員が何を感じるかということも悪くはないだろう。
 さて、
 不登校と学力を関連づけるというのは悪くない方向である。すべてがそうではないものの学力不振や勉強嫌いが不登校の背景となるのは大いにありそうなことだ。
 しかし、
 「学力向上フロンティアスクール」の“指定独占”
 が、決め手となったといったような言い方はいかがなものか? 全職員が「学力向上」のもとに結集するのは悪くはないが、それだけなら何も指定校にならなくてもできる。そして指定校制度に乗っかることは、それに膨大な時間が奪われるだけに、時に危険だ。

 芦屋町の成功は、もしかしたら教員が一人増えたところから生まれた余裕のためかもしれない。あるいは学力フロンティアスクールなどほとんど関係なく、実際には
「学び合いルーム」が決め手だったのかもしれない。いずれにしろ、全国で行われている「学力向上フロンティアスクール事業」と不登校の関係を見てみなければ、単純に飛びつけないところである(ただし、正直を言えば全国的に「フロンティアスクール」指定校では不登校が減ったという事実が出てきても私は驚かない。そういうことだって大いにありうるのだから)。
 
私が一番問題だと思うのは習熟度別クラス編制である。
「後半、子供たちが目を輝かせて積極的に手を挙げ始めた。これでいいんだと自信がついた」
小学校ではそうなるかもしれないが中学は異なる。物事はそう単純にいかないのだ。
 
中学校の習熟度別クラスはどうなっているか。
簡単に言うと、成績別に3クラスをつくると、
「勉強のできる子のクラス」と「普通の子のクラス」と「悪い子のクラス」
ができる、そういうことである。

学力と非行が比例するわけではない。学力の低い子の中に非行に走る子がおり、非行に走っているから学力が上がらない、そういう悪循環にはまりこんでいる子が一番下のクラスにはかなりいるということである。気の毒なことに、そこにはまた勉強が苦手なだけのよい子だっている。

生徒指導上の問題を減らそうとして、あるいはともに落ちていきたがる子どもたちをなんとか止めようと考え、
せっかくクラスを別にしたのに、特定の教科の時間になると彼らが自然にひとつのクラスに集まり、周囲を感化していく
習熟度別学級編制にはそうした側面があるのだ。

同様のことは選択科目でも起こる。勉強が嫌いで「宿題なんか死ぬほど嫌い」という生徒たちが、できるだけ宿題の出そうにない科目を探す。美術はダメ、技術もダメ、家庭科もダメ・・・そして「音楽」にたどり着く。歌なんかさっぱり好きではないけど、宿題や作品づくりはもっと嫌い・・・

かくして選択音楽は
ウィーン不良少年合唱団みたいになってしまうのである。

習熟度別学級編制、むやみに持ち上げてほしくない。









 



2006.08.29

全公立小で“放課後教室”
…共働きには時間延長も


読売新聞 8月29日]


 文部科学省と厚生労働省は、来年度から全国すべての公立小学校で、放課後も児童を預かることを決めた。

 スタッフは教員OBや地域住民で、勉強やスポーツのプログラムを用意して、児童が放課後を学校で過ごす環境を整えるほか、共働き家庭の子ども向けには、さらに時間を延長する。

 子どもが安心して遊べる居場所づくりや、子育ての負担軽減による少子化対策につなげるのが目的で、2007年以降、大量退職する教員に活動の場を提供する狙いもある。両省では、来年度の総事業費として約1000億円を見込んでいる。

 今回の事業は、全児童対象の時間帯と、それ以降の、親が留守の家庭の子どもを対象とする時間帯の2本立て。小学校内での活動が基本で、空き教室や体育館、校庭などを利用することを予定している。



教員というものは本質的に保守的である。また保守的でなくてはならない。革新的であって、その都度「やっぱりダメでした」では子どもに申し訳ない。私たちは失敗から学べる。しかし失敗に供された子どもたちの時間は二度と戻らないからである。

さて、そうした保守的教員がこの記事を読んで最初に考えることは何か?
それはまず第1に、残る子どもの
数に見合う指導員を確保できるか、ということ。そもそも放課後学校に残る人数を把握できているのかということである。
2007年以降、大量退職する教員に活動の場を提供する狙いもあるということだが、2007年以降の大量退職は都会でのこと、地方は必ずしもそうなっていない。しかし子どもを学校に留め置くことに対する需要は田舎にだってある。ましてや勉強やスポーツのプログラムを用意してくれるとなると、必要なくても子どもを学校に残す親も出てくる
仮に児童の半数が残るとしたら、必要な指導員の数は現在の教員の半数ということになる。大変な数である。

第2に、
空き教室や体育館、校庭は本当にあるのか
ということ。もちろん残る児童が20〜30人ということであれば何とかなるが、100だ200だということになったらどうするのか(ちなみに、私の子の通う小学校には、完全な空き教室は一つもない)。

第3に校舎設備の管理はどうなるのかということ。仮に“放課後教室”が7時まで開かれているとしたら、その後の施錠等は誰がするのか? 正規の教員が最終見まわりと施錠をするとして、その勤務はどうしたら良いのか?

そして最後に、現在ある学童保育との整合性をどう図っていくかということである。

少子化は確かに深刻な問題である。しかし少子化対策として打ち出されてくるもののいくつかは、

「親はただ産めばいい、あとは市町村と学校が育てる」

そんなふうにあからさまに言っているようにしか見えないときがある。

 そうなると22日の記事にあるような、
中学生の妊娠だってアリという時代になってしまうのではないだろうか?