キース・アウト
(キースの逸脱)

2006年10月

by   キース・T・沢木

サルは木から落ちてもサルだが、選挙に落ちた議員は議員ではない。
政治的な理想や政治的野心を持つ者は、したがってどのような手段を使っても当選しておかなければならない。
落ちてしまえば、理想も何もあったものではない。

ニュースは商品である。
どんなすばらしい思想や理念も、人々の目に届かなければ何の意味もない。
ましてメディアが大衆に受け入れられない情報を流し続ければ、伝達の手段そのものを失ってしまう。

かくして商店が人々の喜ぶものだけを店先に並べるように、 メディアはさまざまな商品を並べ始めた。
甘いもの・優しいもの・受け入れやすいもの本物そっくりのまがい物のダイヤ
人々の妬みや個人的な怒りを一身に集めてくれる生贄
そこに問題が生まれれば、今度はそれをまた売ればいいだけのことだ。















 



2006.10.07

滝川市教委、「いじめ原因」と認める
小6女児自殺


朝日新聞 10月5日]


 北海道滝川市の市立小学校の教室内で6年生の女児が自殺した問題で、これまで「いじめの事実を確認できない」としてきた市教委は5日開いた教育委員会議で、「遺書の内容を踏まえ、いじめであると判断する」と認めた。自殺の原因はいじめであると認めたことについて、市教委は「事実の把握を優先させ、子どもの立場になり考えることに欠けたことを反省している」とした。
 市教委には、女児の自殺と遺書の内容が報道された後、全国から電話約850件、電子メール約1千通が寄せられた。「いじめを認めないのはおかしい」「原因究明が遅い」などと批判する内容がほとんどだったという。



一人の児童が亡くなっている以上、コメントは慎重であるべきだが、何もいわずに済ませることもできないだろう。

記事によると滝川教委は「いじめの事実を確認できない」という立場を変えいじめの事実が確認できたと言ったわけではない。それにも関わらず「遺書の内容を踏まえ、いじめであると判断する」と発表せざるを得なかったのはなぜか? その背景には、10月4日付の中国新聞に見るようなエキセントリックな報道がある。

二日の市教委の記者会見にはわが耳を疑った。「児童の心のサインをつかめなかったことはおわび申し上げるが、現時点ではいじめの事実を確認できていない」。この遺書は、いじめ以外の動機には触れていないのである。とすれば、「責任逃れ」ということか。

本人がそう言えばそれは事実であって、それを認めないのは責任逃れだというのである。

これが殺人の容疑者の供述だった場合、次のような書き方はするのだろうか?
二日の警察の記者会見にはわが耳を疑った。「現時点では容疑を固めている段階で、容疑者が実際に殺人を行ったかどうかは確認できていない」。容疑者は、絶対にやっていないとしか言っていないのである。とすれば、(誤認逮捕をした警察の)「責任逃れ」ということか。

 主観が絶対であり客観的事実はどうでもいいというのは、一般に正しい報道とは言えない。しかし教育の世界は違う。
「事実の把握を優先させ、子どもの立場になり考えることに欠けたことを反省している」
 事実より児童・生徒の主観の方を優先する、児童の主観から考えなかったことは反省すべきことだというのだ。
なんともやりきれない表現である。

 実際にいじめがあったとしてもそれを訴えるべき被害者が亡くなってしまった以上、事実の究明は困難を極めるだろう。

「五年生になってから人から『キモイ』と言われてとてもつらくなりました」(遺書の抜粋)

 1年前に「キモイ」と言ったのが誰だったのか、おそらく言った本人ですらわからないだろう。「キモイ」という言葉は(それがいいか悪いかは別にして)子どもたちの会話の中に頻繁に出てくるものである。誰が誰に言ったなどといちいち覚えていられるものではない。

「6年生になって私がチクリだったのか差べつされるようになりました。それがだんだんエスカレートしました。一時はおさまったのですが、周りの人が私をさけているような冷たいような気がしました」

 その「差別」というものはどのようなものだったのか、エスカレートの意味は何なのか? 「私をさけているような」と記述される「周りの人」というのは誰なのか、クラス全体なのか? 特定の数人なのか? 「避けているような」は思い過ごしではなかったか、何があったのか?
 
 多くのいじめ問題は被害者と加害者の認識のズレであり、それを調整していくのが事実の究明である。だが、当事者の一方が死んでしまった今、事実を明らかにする方法はほとんどないと言っていい。
 よほど明確ないじめがあり、眉をひそめてそれを見ていた同級生でもいない限り、そういった一切はおそらく調査しきらないだろう。

 滝川教委の「いじめの事実を確認できない」にはそういう意味がある。しかしそれではダメなのであって、
全国から電話約850件、電子メール約1千通といった波状攻撃を受けた市教委はついに、「いじめが原因」と認めることで事態を収集しようと図る。
さて、ではそれで収まるだろうか?

もちろん否である。
別の報道によると、
市教委の判断について、遺族の男性(58)は「もっと早ければよかったが、いじめがあったと認めたことは納得できる。亡くなる前に何があったのかを具体的に教えてほしい」と話している。(毎日新聞 10月5日)

次ぎに始まるのは「亡くなる前に何があったのかを具体的に」説明せよ、という追及
である。市教委が「いじめの事実を確認できない」と繰り返しても今度は違う。

いじめを認めたにも関わらず事実を明らかにしない。これは明確に市教委の事実隠しである

マスメディアはくり返しそう言うだろう。今までの同様の事件と同じように。



いじめと遺書 '06/10/4 中国新聞

「みんなは私のことがきらいでしたか?きもちわるかったですか?」。同級生にそう問いかける。自殺した北海道滝川市の小学六年女児は同級生や学校、母親あてなど七通の遺書を残していた

昨年九月に首をつって意識不明の重体となり、今年一月に死亡。学校への遺書には「五年生になってから人から『キモイ』と言われてとてもつらくなりました」などと「いじめ」を訴えていた。ところが市教委は遺書の内容を公表していなかった。 
二日の市教委の記者会見にはわが耳を疑った。「児童の心のサインをつかめなかったことはおわび申し上げるが、現時点ではいじめの事実を確認できていない」。この遺書は、いじめ以外の動機には触れていないのである。とすれば、「責任逃れ」ということか。
八月には、愛媛県今治市の中学一年の男子生徒が自ら命を絶った。「最近生きていくことが嫌になりました」。遺書はこう始まる。小学校の時からいじめられてきた。クラスで「貧乏」「泥棒」と言われ、「もうあきれてしまいます。それに、毎日おもしろおかしくそいつらは笑っているのです」。
いずれも十二歳の少女、少年の悲痛な叫びを、学校側は受け止めることができなかった。「いじめに気づいてやれれば、転校するなどの選択肢もあったのに」。少女の母の嘆きに胸がふさがれる。
少年の遺書は最後に「いままで育ててくれてありがとう 母さん父さん」とある。親にとってこんなつらい言葉はない。






























 



2006.10.08

新教育の森:大分
学校選択制/4
地域との関係どうなる
/大分

毎日新聞 10月6日]


 「子供と地域の関係は、どうなるのか」。
 7月10日に大分市教委が大道小体育館で開いた、学校選択制についての住民説明会。大道小近くで自転車店を営む東村健市さん(62)たちは、導入に疑問を投げかけた。「子供が別々の学校に通えば、地元の活力も失われないか」。市教委は「どの学校に行っても、地元の子には変わらない」と理解を求めた。
 東村さんは地元町内会長で、自治委員の一人。校区の運動会など、多くの催しで住民参加を呼びかけている。校区外の学校に通う児童にも、粘り強く声をかけてきた。
 「今も(活動に)参加しない人はいる。ただ(通う学校が変わり)子供がバラバラになると、今以上にまとまらなくなる」と東村さん。来年度から大道小校区の子供は、同小を含め5校が入学の選択肢になる。保護者も地域活動の原動力だっただけに、通う学校が異なれば地域活動もままならないと、影響を心配する。
 地域のボランティア活動にも微妙な影を落とす。東春日老人クラブは春日町小校区で、下校する児童の見守り活動を続けている。現在は、学校から下校時間を知らせてもらい、学年によって下校時間が異なれば「一度家に帰って、また出てくる」メンバーもいる。同老人クラブの村主達夫さん(77)は「防犯が主な目的だが、子供の顔も覚えられて良い。今、地域連携が強いとは言わないが、見守りなどで少し上向く期待もある」と話す。それが学校選択制になれば「(学校が)近くなり危険が減る子もいるだろうが、逆に遠くなる子も出るだろう。町内を通る時間が大きくずれると、対応しにくい」と懸念する。
 市は「地域の結びつきが弱くなっているのが現状」と分析。花壇の整備など自主的な地域活動を補助金などで後押しする事業に取り組んでいる。しかし、小さくなっていくランドセルを眺めながら、同老人クラブの男性がつぶやいた。「古いといわれるかもしれないが、地域でまとまる単位として頭に浮かぶのは『学校』。選択制導入は、どうもしっくりこない」【小畑英介】




 学校の自由選択制について、私は終始一貫して反対してきた。しかしマス・メディアも一緒になって批判的な記事を展開し始めると、「それは違うだろう」と言いたくなる。

学校の自由選択制が地域の繋がりを崩すとか、結局は力のある者(金のある者、能力の高い者)に利する側面があるとかいうことは最初から分かっていたことだ。、左手にそれをにぎりながら、右手にある「自由」だの「可能性」だのといったカードを見せびらかせ、人々を誘い出したのは当のマス・メディアだったはずだ。

自由選択制が社会の趨勢になり始めた今、出していた右手を隠し、おもむろに左手を出して開いて見せるのは卑怯ではないか。メディアがつくり上げた世論に後押しで、すでに行政は後戻りのできないところまで来ている。この段階でダメを出されるのは、ほとんどハメられたとしか言いようがない。

 「子供が別々の学校に通えば、地元の活力も失われないか」。市教委は「どの学校に行っても、地元の子には変わらない」と理解を求めた。

 もちろん市教委はそんなことを信じているわけではない。
学区を分断された街は十分機能しないことは百も承知だ(そうした例は山ほどある)。街からは経済力や教育力のある家の子どもが、より都合の良い学校を求めてどんどん移動していってしまう。(ちなみに、一番最初に起こるのが学校に適応しない生徒の移動、次は野球をやりたい子が野球の強い学校にというような部活を中心とした生徒の移動である)。そして地域の子ども会や地域生徒会は荒んでいく。

 しかしそんなことは百も承知で「自由」や「可能性」を求めたのはメディアだった。右手の成したことを左手が批判する、不誠実とはおういうことだ。








 



2006.10.9

教育再生会議/根本から論議してほしい

神戸新聞 10月9日]


 安倍晋三首相は教育再生を重要政策に掲げ、その骨格を諮問する首相直属の「教育再生会議」を設置する。

 会議のメンバーは、首相をはじめ文部科学相や民間の有識者ら約十人となる。十日にもその顔ぶれが決まる運びだ。

 政府は、教育の根幹を論議する重要な場と位置付けるようだ。首相の教育観は保守色が強いといわれるが、会議では十分な時間をかけ、バランスのとれた議論が欠かせない。それを可能にする委員構成になるのが前提だろう。

 安倍首相が掲げた教育政策は@教育基本法改正案の成立A学校や教員の評価制度導入Bゆとり教育を見直す学習指導要領の改定C全国学力調査の実施D発行された教育利用券で保護者が学校を選択できるバウチャー制度の導入E大学の九月入学制とそれまでのボランティア活動-などだ。

 教員免許更新制、全国学力調査など、文科省や中央教育審議会がすでに打ち出した方針とも重なるところが少なくない。欧米の一部で導入されているバウチャー制も二十年前の臨時教育審議会で論議されたことがある。

 小泉前政権が掲げた構造改革を官邸主導で推進する規制改革・民間開放推進会議でも、バウチャー制など教育行政の規制改革が課題にのぼっていた。

 首相独自の教育政策を華々しく打ち上げたわけではないが、政策構想を並べてみると、教育に競争原理を持ち込もうとしていることがよく分かる。

 教育再生会議の役割や位置付けは、まだ明確ではない。文科省、中教審との関係はどうなるのか。ただ、首相が官邸主導で目指す教育改革への"推進エンジン"にしたい意図は十分にうかがえる。

 今の教育がこれでいいと思っている者はほとんどいないだろう。教育改革は不可欠である。

 だが、教育に市場・競争原理を入れるのは慎重の上にも慎重であるべきだ。特に、全体の底上げこそ大切な義務教育になじむのか、疑問がある。一歩誤ると、義務教育の破壊にもつながりかねない。

 会議の座長には、ノーベル化学賞受賞者・野依良治氏の起用が内定した。氏は、中教審委員でもあり、これまで国の教育政策に是々非々で、はっきりと発言している。あらためて、国民の代表としてのかじ取りを期待したい。

 教育再生会議に求めたいのは、首相の意に沿った「結論ありき」ではなく、教育再生の根本的論議をすることだ。

 


 教育改革の「教育」とは何か。これが家庭教育・社会教育・企業教育・学校教育のすべてを含むものなら、次の一文に同意する。
 今の教育がこれでいいと思っている者はほとんどいないだろう。教育改革は不可欠である。

 しかし
学校教育に限られるなら、
私はそのほとんどいないはずの、今の教育がこれでいいと思っている者である。

乳幼児の親が子どもを夜のアミューズメント・パークに連れ出す、飲み屋に連れ出す。保育園児の髪を染める、マニュキュアをつける、アイドル歌手のような服装をさせる。小さなころから無理をさせず、親も無理をしないで朝食はシリアルで済ませる、夜はコンビニ弁当で済ませる、昼は給食で済ませる。家庭にはパソコン・ファミコン・マザコンが満ち溢れ、小学校から携帯電話を持ち歩く、テレビを与えられる、携帯型音楽プレーヤーを持ち歩く。そしていったんそれらのスイッチを入れると、劣悪な性情報・暴力・反抗と不信、裏切り、誹謗中傷、それらが押さえようもなく溢れ出す。
これだけ劣悪な条件の中で、しかし学校教育はかなり善戦している。その善戦の戦士を、これ以上叩いてどうするのか?

@教育基本法改正案の成立
A学校や教員の評価制度導入
Bゆとり教育を見直す学習指導要領の改定
C全国学力調査の実施
D発行された教育利用券で保護者が学校を選択できるバウチャー制度の導入
E大学の九月入学制とそれまでのボランティア活動


政府は、そしてマスメディアは、日本の国をどこへ運んでいこうとするのか?









 



2006.10.10

<教育再生会議>政府が設置決定

毎日新聞 10月10日]


 政府は10日午前の閣議で、安倍晋三首相の私的諮問機関「教育再生会議」の設置を決定した。ノーベル賞受賞者の野依良治・理化学研究所理事長が座長に就任する。首相が掲げた「公教育の再生」に向け、学校教育改革に関する議論を行い、来年3月に中間報告、同12月に最終報告をとりまとめる。
 改革は(1)学習指導要領の見直し(2)教員免許の更新制度(3)学校評価制度(4)全国的な学力調査の実施――などが中心になる見通しで、中間報告を来年の通常国会に提出する関連法の改正案に反映させる。教育バウチャー(利用券)などの議論は来年春以降に行う。【平元英治】
 ◇座長以外の民間委員は次の通り。(敬称略)
 浅利慶太(劇団四季代表)▽池田守男(資生堂相談役)▽海老名香葉子(エッセイスト)▽小野元之(日本学術振興会理事長)▽陰山英男(立命館小学校副校長)▽葛西敬之(JR東海会長)▽門川大作(京都市教委教育長)▽川勝平太(国際日本文化研究センター教授)▽小谷実可子(スポーツコメンテーター)▽小宮山宏(東大総長)▽品川裕香(教育ジャーナリスト)▽白石真澄(東洋大教授)▽張富士夫(トヨタ自動車会長)▽中嶋嶺雄(国際教養大理事長)▽義家弘介(横浜市教委教育委員)▽渡辺美樹(ワタミ社長)




さて、この「教育再生会議」メンバーを、繰り返し繰り返し10回くらい読み上げて欲しい。
今の子どもの様子を知り、今の学校(特に小中学校、幼稚園)の様子を知り、そこに何らかの理念を持ち具体的な手を打てる人が何人いるのか?

浅利慶太の教員歴はどれくらいか? 小谷実可子は何年教師として、あるいは母親として小学生に関わったのか? 義家弘介が中学校教師だったのはいつからいつまでだったか。海老名香葉子というエッセイストが教育の世界にどれほど偉大な足跡を残してきたのか、すべて調べてみるがいい。

 普通の、ごく当たり前の、日常を必死に生きる100万の教師たちの命運と、今後10数年に渡って小中学校で学ぶ子たちの運命は、この人たちに握られている。








 



2006.10.12

教育基本法改正の前にやるべきことあり

サンケイスポーツ 10月9日]


高校生の飲酒など、いまどき驚きもしないが、全校生徒の5分の1が飲酒で停学というのは尋常でない。福岡県の県立小郡高で運動会の打ち上げと称して、全校生徒744人のうち1年生から3年生まで男女151人が集団で飲酒したことが明るみに出た。氷山の一角にしても、高校生の集団飲酒史上、最多ではないかと思われる人数である。
ふつう、打ち上げはその日に「ご苦労さん」と開くものだ。ところが、生徒たちは運動会(9月9日)の翌日に学校から10キロも離れた久留米市内で、3軒の居酒屋で運動会の赤青黄の3チームごとに分かれて開いたとか。打ち上げというより、計画的な別個の飲み会みたいだ。
こういう表現はへんかもしれないが、高校生らしい稚気が感じられない。住民の通報で学校が聞き取り調査し、会には出て飲酒しなかった生徒も含め、4日間の校内停学処分として草むしりや反省文作成を科したという。いままでなら、それで済むかもしれない。しかし、飲酒運転による事故の続発で、「飲酒」の2文字に世間が厳しい目を向けている社会状況を考えてもらいたい。
飲み会への足にバイクや自転車を使っていたとしたら、事はもっと深刻だ。学校の対応は甘いといわれても仕方ない。いじめを隠し続けた北海道滝川市の例を持ち出すまでもなく、いまどき教育委員会などあてにできないが、本来なら、この集団飲酒も教育委が調査に乗り出し、指導力不足の学校にお灸をすえるべきである。
安倍新内閣の最重要課題は教育基本法改正だそうだ。その前に、教育の現場ではいま何がどうなっているのか、もっと徹底的に洗い出し論議する必要があるのではないか。



高校生が集団で飲酒するなど言語道断である。しかしそれがなぜ、
学校の対応は甘いといわれても仕方ない。
なのか?

151人の生徒の保護者およそ300人とその家族は、酒を飲んで帰宅した子どもに何故気がつかなかったのか? 
いやそもそも始まる前に、親は誰一人「居酒屋での打ち上げ」に不審を感じなかったのか? 学校から10キロも離れた久留米市内まで、車で送っていった親はいなかったのか?

3軒の居酒屋は次々とぞろぞろと50人も来る高校生の客に不信を持たなかったのか? 予約の段階で何らかの不審な点はなかったのか?
 
どう見ても子どもにしか見えない生徒もいただろうに、なぜ酒を出したのか?


744人も生徒がいながら、誰一人としてこのことを大人社会に通報しようとしなかった。ただの一人もこのことをおかしいと感じ、正義を行おうとしなかった。

飲み会への足にバイクや自転車を使っていたとしたら、事はもっと深刻だ。
サンケイスポーツはこうした基本的なことも調べずに、なぜ記事を書けるのか?
なぜ高校生が帰宅後に行った飲酒の責任を学校に求めるのか?

孤立無援、四面楚歌。
750人の生徒と1500人の親のすべてに背を向けられ、儲けのためなら平気で高校生に酒を飲ませる飲食店の立ち並ぶ中で、彼ら高校生も保護者も飲食店もまったく責めずただ学校だけを責めるマスメディアを敵に回し、学校に何ができるのか?

教育基本法改正の前にやるべきことあり
私もそう思う。
それは、どんな子ども、どんな家庭、どんな社会であっても、子どもに関する全責任は学校が取らなければならないと考える、そんな社会そのものの変更である。









 



2006.10.15

教育再生会議/事実評価からスタートを

山陰中央新報 10月14日]


 教育重視を掲げた安倍晋三首相肝いりの「教育再生会議」のメンバーが決まった。来週にも初会合を開き、官邸主導の改革案を順次提言するという。

 首相直属の諮問機関は中曽根内閣の臨時教育審議会、小渕、森内閣の教育改革国民会議以来。文部科学省・中央教育審議会主導の改革とは一線を画すという触れ込みだ。

 しかし座長に就くノーベル化学賞受賞者の野依良治・理化学研究所理事長、担当室長の「ヤンキー先生」こと義家弘介・横浜市教育委員らメンバーを見渡しても、どういう方向を向いているのか、明確なメッセージは伝わってこない。それどころか副室長に、かつて教育改革国民会議の事務局で中心的役割を果たした山中伸一・前文科省私学部長を据え、委員に元文部科学次官の小野元之・日本学術振興会理事長を任命しているのを見ると、文科省と一線を画すとする当初方針はどこへいったのか、という印象は否めない。

 当面、全国学力テストの徹底や教員免許更新制、国による学校評価制度などが検討事項とされるが、いずれも既に文科省がレールを敷いたもので新味はない。

 メンバーに教育現場の実情に通じている人が少ないのも気掛かりだ。制度に踏み込んだ議論というより、委員それぞれが持論をぶつけ合う展開になれば結局は「事務局主導で」にもなりかねない。まずは教育現場のニーズを事実を踏まえて検証し、問題の所在がどこにあるのか、再生会議としての診断を世に問うところから始めるべきだろう。

 気になるのは学力問題の行方だ。会議をリードする山谷えり子首相補佐官や下村博文官房副長官は「ゆとり」で象徴される現行学習指導要領を「ゆるみ教育になってしまった」と批判。安倍首相も「ゆとり教育の弊害で落ちてしまった学力」と決め付けている。小野元次官も現役時代にゆとり路線修正を試みたことで知られる。

 しかし昨年来、指導要領改定作業を積み上げてきた文科省や中央教育審議会は「指導要領の趣旨はよかったが、手だてに課題があった」として趣旨徹底を目指し、逆方向を向いている。

 まずは事実評価から出発すべきだ。学力問題の引き金となった国際学力調査の評価では読解力の順位低下が大きな話題になったが、実は低学力の子どもの増加の方が深刻だ。親の年収で学力格差が広がっているとの調査結果もある。こうしたデータをきちんと議論の俎上(そじょう)に載せ、思い込みでなく問題の所在を丁寧に探ってほしい。山谷氏は民間のシンポジウムで、官邸がカリキュラムを見直すと発言したと伝えられる。政治が力ずくで教育内容に手を突っ込むようなことは願い下げだ。

 全国学力テストや国による学校評価の導入で学校や個人を競わせても、そこで救われるのは、それこそ少数の上位層だけである。

 世界標準から見れば日本の公教育水準はトップレベルにある。だが、国内総生産(GDP)当たりの公教育費は経済協力開発機構(OECD)加盟国でも最低レベル。四十人学級は安上がり教育の象徴だ。再生会議はこうした事実にこそ目を向けてほしい。


マスメディアが真っ当なことをいうとかえって面食らうどう同反応してよいのか分からなくなる。
 世界標準から見れば日本の公教育水準はトップレベルにある。だが、国内総生産(GDP)当たりの公教育費は経済協力開発機構(OECD)加盟国でも最低レベル。四十人学級は安上がり教育の象徴だ。再生会議はこうした事実にこそ目を向けてほしい。

これだけ効率の良い教育システムをどう変化させていくのか、よほど慎重にやらなければ角を矯めて牛を殺すことになりかねない。

いや、確実に牛を殺してしまうことになるだろう。
メディアにはがんばってもらい、こういう記事をたくさん書いて欲しいものだ。

(ついでに言えば、昨今の警察批判、医師・病院批判が日本の治安と医療を潰してしまわないかと私は恐れている。駐車違反取り締まりの民間委託をあたかも警察官の天下り先確保のように報道したり、「違反罰則金は払わなくていい」といった書籍がまかり通ったり。また、全ての事故を医者の怠慢の問題してしまうような単純な医療批判が警察官や医師の意欲を殺していくのではないか。やがて優秀な人材は警察官にならず、心ある医師も危険の多い産婦人科と小児科医を徹底的に避ける時代が来るのではないかという恐れである。もちろんその時、教員も真面目に働く意欲を失っているはずだ)








 



2006.10.21

「子供の自殺」

紀伊民報 10月20日]


 福岡県の中学2年男子生徒のいじめによる自殺は、何とも痛ましい。こんなことが再びあってはならない。今は抽象的な観念論より、具体的な方策を考えるべきだ。学校でのいじめは、学校、担任教師、生徒集団、保護者らにかかわる問題である。その一つ一つを分析する必要がある。

 ▽まず学校だが、校内にいじめの素地がなかったかどうか、学校挙げて猛反省する必要がある。ここでは何件かのいじめが起きていたというではないか。

 ▽それに、担任からしていじめの発端をつくっている。これは論外として、生徒一人一人についてどれくらいよく知っているか、何でも話のできる担任かが鍵を握る。

 ▽生徒集団には、いじめが犯罪に匹敵するくらいの悪だということを、徹底的に教え込む。生徒の誰かがそれを問題にする素地をつくることだ。

 ▽こんな事件が起きると、両親の無念さは察するに余りある。ただ、子供との接触は親が一番多い。事の起こる前になにか変化はなかったのか、日ごろからお互いによく話をしていたのか、といったことが一般的に指摘されることである。

 ▽自殺した子は優しい性格なのだろう。悩みを外に出すことができずに死へ逃避してしまう。気軽に相談できるカウンセラーを、学校に配置できないものか。そして常に情報を収集するのだ。

 ▽いじめは絶対に許さないという気概を、大人がはっきり示さなければならない。(香)



何でも話のできる人間関係は、およそ成熟した人間関係とは言えない
とか、
悩みを外に出すことができないことを優しい性格といっていいのかとか、
いじめは絶対に許さないという気概って、どういやって示すのか、殴るのか、どやしつけるのか、警察に送り込むのか、
とか、
細かなことをあげつらえばいくらでも文句は言えるが、正面を切って学校でのいじめは、学校、担任教師、生徒集団、保護者らにかかわる問題であると言い、その一つ一つに言及しようとした点では価値がある。
 いじめを学校内だけの、そして教員だけが考え反省すべき問題だと(正面切っていっているわけではないが)、そんな歪んだ見方から取りあえず一歩だけでも前進ということか?








 



2006.10.23

いじめ見えぬ真相 アンケート3回目実施
福岡の中二男子自殺


信濃毎日新聞 10月23日]


 「いじめられて、もういきていけない」。暗い倉庫の中で中学2年の男子生徒が自ら命を絶って十日以上が経過した。十三歳の少年はなぜ死を選んだのか。生徒が通っていた福岡県筑前町の町立三輪中学校では今週、全校生徒を対象にいじめについて尋ねる三回目のアンケートを実施する。見えてこないいじめの実相精神的ショックで体調を崩す同級生も多い。
 「本当にほがらかで純真」「ずばぬけて明るい」「笑いを絶やさず、あいさつを欠かさない子」。自宅周辺で聞く男子生徒の姿は、勉強もスポーツもできる活発な子という印象だ。
 小学生のときからスポーツ少年団でバレーポールを続け、中学でもパレー部。アタッカーとして活躍していた。
 スポーツ少年団の監督は「友だちも多かった。言われたら言い返す気の強さもあったし、けんかも強い方。いじめられていたなんて想像もできない」と語る。
 これまで、自殺当日にズボンを脱がされそうになった、一年時の担任教諭(47)が「偽善者」と言ったなどいじめの一端が判明している。
 しかし、同校の女子生徒は「彼がいじめられていたとは聞いていない。疑問だらけ」と話す。多くの生徒が知っている、いわゆる”いじめられっ子”ではない。
 遺書にも誰にいじめられたのかや詳しい実態は書かれていらず、先週、学校側は毎日自習の時間をつくり、担任教諭が何度も生徒を一人ずつ呼んで事情を聴いた。福岡県警も保護者立会いのもと、同級生から話を聞いている。
 もしや、自分の言った何げないひと言が死に追いやったのでは そう考えて落ち込む子も多く、遺族を訪ね謝罪した同級生もいる。
 男子生徒は自殺した十一日に学校で「死ぬっちゃん」と話していた。本気にしなかった同級生の中には「なぜ止められなかったのか」との自責の念から体調を崩し、学校を休む生徒も
「夜寝られる?」「ご飯は食べてる?」
 学校では真相究明と並行して専門家によるカウンセリングも続いている。



九州福岡のいじめ自殺事件ついて、メディアは教育委員会や学校、亡くなった児童生徒の保護者の発言を引用するのみで独自取材というものをまったくしない。あれほどの大報道陣を送り込みながら、いじめの実態や1年生の時の担任の横暴といったものについて、なにひとつ出してこないのだ。

メディアに言わせれば、学校が口をつぐんでいるのでとか、生徒に緘口令が敷かれているからということになるのかもしれないが、400人以上の生徒とその倍近い保護者がいれば必ずリークする者が出る。正義感に押されるもの、目立ちたがり屋のお調子者、記者の攻勢に耐えられずついついつきあってしまう者・・・。それにもかかわらず記事にならないとしたら、それは事実がないか、出てくる情報がメディアの意に沿わないものばかりか、そんなところではないか・・・そう考えていたら、この記事である。

もしや、自分の言った何げないひと言が死に追いやったのでは そう考えて落ち込む子も多く、遺族を訪ね謝罪した同級生もいる。

なんとも可愛そうなことである。
人の死は、それが普通のものであっても多くの悔やみを残し、私たちは悔やみを残したことにまた悔やみ、互いに「お悔やみを申し上げる」形を取る。それが自殺となればなおさらで、子どもたちはそれぞれ自分の胸に手を当て、あんな言葉が彼を追い詰めたのではないか、こんな仕草が傷つけたのではないかと思い悩んでいる。犯人は自分だと本気で考えている生徒が何人もいるのかも知れない。遺族はそうした子どもたちの謝罪に納得したのだろうか? ああ、これなら息子は自死しても仕方がないと、そんなふうに思える告白は聞かれただろうか?

一年時の担任教諭(47)が「偽善者」と言ったなどいじめの一端が判明している。
と書かれた教諭にしてもそうだ。

「からかいやすかった」という言葉が肉声で伝えられてからまるで鬼畜のような扱いをされてきたが、この「からかいやすい」は、一般と私たちの世界では意味が正反対になる。
 一般にそれは「からかっても反抗しない、言い返してこない」という意味だろうが、教室でそんな子をからかったら教員はとんでもないしっぺ返しを受ける。保護者が学校や教育委員会に怒鳴り込むくらいならまだしも、生徒が学校に来なくなったり、その子に肩を持つ子が反抗の狼煙をあげたりしたらハンパではすまない。
 私たちが「からかいやすい」と感じるのは教師の軽口を正面から投げ返し、掛け合い漫才にようにしてクラスを盛り上げるような子、あるいは多少のことではへこたれないタフなヤツである

 友だちも多かった。言われたら言い返す気の強さもあったし、けんかも強い方。いじめられていたなんて想像もできない

 そういう子がまさに「からかいやすい」子なのである。
 それでもなおこの子が教師の言葉に深く傷ついたとしたら、それはこの47歳の教師の愚かなミスである。取り返しのつかない読み誤りをしたという意味では、もちろん責任を取るべきだ。しかし、「いじめに加担」とか「教師にあるまじき態度」と言ったこととは違う。

 学校は今も調査を続けている。しかしそれをまったく信用しないマスメディアもまた、この問題を風化させず、最後まで食らいついて欲しいものである。








 



2006.10.24

中学教諭がいじめ、女子生徒が不登校に
鹿児島


朝日新聞 10月24日]


 鹿児島県奄美市の市立中学校で、2年の女子生徒(14)が、1年の時に担任だった男性教諭(30)からいじめを受けたとして昨年9月から不登校になっていることがわかった。学校側は「生徒に対して不適切な対応や表現があった。大変申し訳ない」と、いじめがあったことを認めている。
 学校側によると、教諭は昨年9月、生徒に学習プリントや体育大会で使うはちまきを渡さなかったり、日直を飛ばしたりした。朝礼で出欠をとる際に名前を呼ばず「次の人」などと言ったりした。教諭は正式に教員採用されて1年目だった。教諭は「意識してやったことではないが、生徒を傷つけたことは大変申し訳ない」と話しているという。校長も「教師としての不適切な対応は許されない。大変申し訳ない」と話した。
 教諭は生徒が不登校になった直後から、何度か生徒の自宅を訪れて謝罪。他の教諭も生徒の相談に応じるため自宅を訪れたが、生徒は今年3月から教諭たちに会うことをほとんど拒んでいる。今月には学校に「人生をだいなしにされた。死んでやる」との手紙を出した。
 生徒の保護者の要望を受け入れ、教諭は今年3月の終業式で1年生全員の前で保護者に謝罪したという。
 奄美市教委によると、2月に生徒の保護者からいじめの訴えを受けた。学校側も認め、3月に教諭を口頭訓告処分にしたという。折田浩仁・学校教育課長は「教育委員会を含め、教師側の責任だと深刻に受け止めている」と話した。
 生徒は昨年6月まで同校に在籍していたが、いったん市内の別の学校に転校し、同9月に再び転入してきたという。




この記事の読み取りは難しい。
記者の意図は奈辺あるのだろう?
新米教師が日々アップアップで、プリント配布を忘れる、鉢巻きを渡し忘れる、呼名を飛ばす。
教諭は「意識してやったことではないが、生徒を傷つけたことは大変申し訳ない」
と謝り、校長も謝って、
何度か生徒の自宅を訪れて謝罪
他の教諭も生徒の相談に応じるため自宅を訪れ

・・・・たが、まったく許してもらえず、
生徒は今年3月から教諭たちに会うことをほとんど拒んでいる。


教諭は
今年3月の終業式で1年生全員の前で保護者に謝罪し
教委は
3月に教諭を口頭訓告処分にし
学校教育課長は
「教育委員会を含め、教師側の責任だと深刻に受け止めている」
と談話したが、当の生徒は
今月には学校に「人生をだいなしにされた。死んでやる」との手紙を出した。

どうしたら許してもらえるのか・・・


ところでこの生徒は
昨年6月まで同校に在籍していたが、いったん市内の別の学校に転校し、同9月に再び転入してきたという。
その9月にいじめにあって即、不登校になったのか、それ以前の4・5・6月にいじめにあって別の学校に行き、9月に戻ってきてから学校に来なくなったのか・・・そもそもなぜ戻ってきたのだろう?
なんとも不思議な記事である。

確かなことは、この記事が読者に、
中学教諭がいじめ、女子生徒が不登校に
ということで記憶されるだろうということだけである。








 



2006.10.27

「進学ぼけ高校」

紀伊民法 10月26日]


 「日本史を学べば世界史の要素も入っており世界史の履修につながる」などと、高校が本気で考えていたとしたら、学校の資格はない。

 ▽新聞、テレビで取り上げられている富山県立高岡南高校は、3年生全員が卒業できないかもしれないというピンチを迎えている。この学校では理系の生徒を中心に、受験に不用な授業を受けることに不満が出ていたそうだ。これは受験生心理からいえば分からないことはない。だが、情けないのは学校の対応だ。

 ▽高校の学習指導要領では、必修の世界史に加え、日本史か地理のどちらかを教えなければならない。それを1科目だけにした。必修科目を節約して、受験に必要な科目の時間をひねり出したのである。こういうのを進学ぼけ高校という。

 ▽驚いたことに、履修上は2科目教えたことにしようとしたらしい。事実ならひどい話。はっきりいって捏造(ねつぞう)だ。受験生の要望に安易に応え、教育の本質を忘れた学校の姿がある。

 ▽「あってはならないこと」と県教委は言っていたが、事が起こるとどこででも聞かれる言葉だ。「あってはならないこと」が実は、富山県の高校だけでなく、各地で「ある」ということはないのだろうか。

 ▽小欄でこの件を取り上げたのは、それを心配するからである。これを他山の石として、進学ぼけで「教育」を忘れた高校に、喝を食らわす教委があれば拍手を送りたい。(香)




何か教育上の問題があれば学校をせめて終わりにする、そうした姿勢から問題は解決するのか?

受験生心理からいえば分からないことはない
ならばその心理に対応しない制度が悪い、そうはならないか? 
(私など世界史で「カノッサの屈辱」[1077年]より源氏物語[1000年ごろ]を必修にした方が良いと思うが)紀伊新聞が人間形成の上で世界史が必須だと思うなら、受験生の甘えの方を厳しく断ずべきだろう。

受験は教師と生徒がつくる一大イベンだ。進学校では教師と生徒が手を取り合ってこの目標に向かって進む、それはむしろ美しい師弟愛と言える。何も甲子園に出場する監督と選手の間柄だけが美しいわけではない。

また、極端に言えば
進学校はよき受験生をつくることで使命を終えるともいえる。よき受験生に必要な能力は、たぐいまれな忍耐力・計画性・持続性・目的追究力・知力・体力・気力その他である。野球の得意なものは甲子園を目差すことでそれを獲得すればいい。勉強が得意なものは勉強でそれを獲得すればいいのだ。その為に教師は全力でバックアップする。それが、
だが、情けないのは学校の対応だ。
こういうのを進学ぼけ高校という
受験生の要望に安易に応え、教育の本質を忘れた学校の姿がある。

とののしられなければならないのはなぜか?
高校が安易にそれをしたと、どういう事実から判断するのか? 何を取材したのか?

私は高校の行ったことが悪くないとか、無理ないと言っているわけではない。
非難のしかたが悪いといっているのだ。
学校は決して、ボケてやったのではないのだ。

「個性ある、魅力ある学校づくり」と言いながら、指導要領で根幹を縛るやり方に問題はないのか?
世界史を必修にしながら世界史なしで受験できる今日の試験制度に問題はないのか?
そうした疑問がまったく浮かばないのは、ひとえに学校批判から話を始めるからである。学校が悪いと言った瞬間から、それ例外のすべてが肯定される。それは健康なジャーナリズムのありかたとは言えまい。








 



2006.10.27

「いじめ」で緊急アピール 教育再生会議

産経新聞 10月26日]


 安倍晋三首相の諮問機関「教育再生会議」(野依良治座長)は25日、首相官邸で第2回会合を開き、首相は緊急課題としていじめ問題を優先的に協議するよう指示した。同会議は同日夜、緊急アピールを発表。来月8日から始まる分科会でも、いじめ対策にも重点を置いて討議する。

 安倍首相は会議で「50年、100年の骨組みをつくるのと同時に、短期的に解決すべき問題もある。その対応策を考えなければならない」と指摘、教育改革の大枠づくりとは別に、いじめ問題などにも迅速に取り組むよう求めた。

 同会議に諮問された課題は教員免許更新制や学校を自由に選ぶことができるバウチャー制度などだったが、世論の関心が高いいじめ問題にまず取り組むことで、教育改革への関心を高めようという考えとみられる。

 これを受け、25日の会合では、「学校の問題はいじめにつきる」(出席者)などいじめを苦にした自殺問題が集中的に取り上げられた。

 「いじめが起きないような学校作りと、地域ぐるみの子育てが大事だ」

 「いじめは百パーセント教師の責任だ。適正でない教師をいかに早く判断し、辞めていただくかだ」

 こうした意見のほか、「自分がいじめていることが分からない子供もいるので、演劇などを通じて愛や優しさを伝えてはどうか」(浅利慶太劇団四季代表)などのアイデアも出た。25日発表された緊急アピールでは、子供たちに「クラスで君たちの何人かが立ち上がれば、絶対にいじめはなくせる」と説き、学校関係者には「どんな社会でもいじめはある。教育の場でもいじめがあるという事実は事実として認めることが正しい。それに対応しないことがとても恥ずかしいことです」と訴えた。いじめられている子供には「自分ひとりのものではないかけがえのない命の灯を消さないでほしい」と呼びかけたが、具体策はこれから。

 山谷えり子首相補佐官は会見で「教育委員会のあり方、家族や地域社会の連携など、一日も早く具体策を打ち出したい」と述べた。会議終了後、山谷氏は同会議担当室の義家弘介室長らとともに、中学2年の男子生徒が自殺した福岡県筑前町を訪れ、関係者から事情を聴いた。


教育を、メディアを通してしか知らない人たちが学校を変えていく。
教育の場でもいじめがあるという事実は事実として認める
いじめは百パーセント教師の責任
なので
辞めていただく

学校、特に公立の義務教育学校にはさまざまな子が来ている。
しかし
どんな家庭環境の中で育ち、どんな社会環境の中で育った子でも、いじめをすればそれを教師の責任として、教師が辞めることで取っていくというのである。いじめた子ども本人にもその親にも責任はないのだ。

しかも、いじめはいじめられた側が「いじめ」だといえば成立する。客観的にいじめであるかどうかは問わない。はたから見てどう考えてもケンカであっても、一方が「いじめ」であると主張すれば、0:100で「いじめた側」に非があり、その責任を教師が取っていく・・・これでは教員はひとたまりもない。
恐ろしい時代が来たものである。








 



2006.10.31

<岐阜中2自殺>学校側「いじめ」認める
遺族に謝罪へ


毎日新聞 10月31日]


 岐阜県瑞浪市の市立瑞浪中学2年の少女(14)が今月23日に自殺した問題で、学校側は31日、自殺の原因はいじめだったとする結論をまとめた。同日午後にも記者会見して公表し、校長らが近く遺族に謝罪する方針。
 遺族によると、少女は所属していたバスケットボールクラブのチームメートから、無視されたり「ウザイ」と言われるなどの嫌がらせを受け、学校側も自殺直後にはその事実を認めていたという。しかし、その後の会見では、佐々木喜三夫校長が「からかう発言はいじめに当たると思うが、自殺につながるかは推測の域を出ず、最終的な原因に結び付けられない」などとして「自殺に結び付くいじめの事実はなかった」と因果関係を否定していた。
 しかし関係者によると、少女の自殺後に全校生徒に実施した無記名アンケートでも校内でのいじめをうかがわせる記述があり、実態が明らかになりつつあるとして、同市教委と協議し、いじめと自殺の関係を認めることにしたという。【安達一正、浜名晋一、小林哲夫】



 亡くなった生徒の霊前でベラベラしゃべる学年主任とやらの口に靴下を詰め込んで、黙らせてやりたいと思ったのは私ひとりだろうか? 「保護者も認めた」とか「私も確認した」とかは、何を認め何を確認したということか? 実際にいじめているところを目撃し、そのいじめが原因で少女が自殺したと確認したのか? 学年主任は死んだ人の心も読める超能力者なのか?

ものごとに対する対応は遅くてはいけないが早すぎてもいけない。
「いじめた側の保護者」がいじめを認めたからといって、それで全てが明らかになったわけではない。彼女たちの行為がいじめと呼びうるものか、またそれが自殺の原因かどうかを確定するには別の評価が必要である。
したがって30日朝の時点で、
「からかう発言はいじめに当たると思うが、自殺につながるかは推測の域を出ず、最終的な原因に結び付けられない」
と言った校長の判断は正しいし、
少女の自殺後に全校生徒に実施した無記名アンケートでも校内でのいじめをうかがわせる記述があり、実態が明らかになりつつあるとして、同市教委と協議し、いじめと自殺の関係を認めることにしたという。
という手順も正しい。
 亡くなった子を悲しむ気持ちも分かるが、生き残った子どもが不必要に苦しめられる必要もない。責任は取らなければならないが、取るべき責任の範囲も明らかにしてやらねばならないのだ。

さて、ところで、
(誤解を恐れずあからさまな言い方をするが)人はいったいどこまでいじめられたら自殺するのだろう?
もちろんこれについて確定的な程度を示せる者はないだろう。
まず、個人差がある。状況の違いというものもある。タイミングの問題もある。

「クラスでは男子からも女子からも人気があった。悪く言う人はいなかったし、(少女も)人の悪口は一度も言わなかった」「明るくて人に気を使う人だった。悩んでいる様子はなかった」「人一倍まじめで責任感も強いクラスのリーダー的存在だった。良く練習もしていた」(毎日新聞30日)
「面倒見が良く、頑張り屋」
(産経新聞31日)
私は、基本的にこういう子は自殺などしないと思っている。なぜなら学校生活のあちこちに、生きていくための足がかりがあるからである。
クラスの仲間から支持され、委員会でもそこそこの仕事ができ、努力家であれば勉強だってそこそこの成績を修めていただろう。そんな子が部活でうまく行かなくたって、決定的な問題ではない。いざとなれば報道されている1年生の子同様に、辞めてしまえばいいだけのことだ。
しかしそうはならなかった・・・。

私は、
この子が精一杯部活に取り組むうちに、バスケがすべてであるような錯誤に陥ったのではないかと思っている。
1年時に、学校のカリキュラムに組み込まれた週3回のバスケットボール部に入部。2年になって民間のコーチが指導する自由参加の課外活動のバスケットボールクラブにも入った。4人はいずれも2年生で、1年時から部とクラブに所属していた。(毎日新聞30日)

ひとより遅れてスタートした状況でレギュラーの座を獲得していくのは容易ではなかったはずだ。
よく努力したのだろう。よくがんばったのだろう。
バスケを通じて果たしたかった自己と言うものもあったはずである。そしてやがて、バスケ以外にたくさんある生活の場を見失っていく。

もしかしたら、と私は思う。
部活のみなさん、特に××さん、××さん、××さん、××さん、本当に迷惑ばかりかけてしまったね、これでお荷物が減るからね
そう書いたとき、少女は本気で謝っていたのかもしれない。本当にその日まで、みんなに迷惑をかめまいとがんばっていたのかもしれないのだ。
そして
その精一杯に張り詰めた心に、誰かが一滴の毒を落としたのかもしれない。

もう何もかもがんばる事に疲れました。

そう書かざるを得ないほどがんばっていた少女のギリギリの姿に、気づいてやらなかった部活顧問、担任教師、そして親の罪は重い。
この子の中学校生活がバスケ一本に収束してしまっていることに気づいてやらなかった周囲の大人たちの責任は重い。
たとえそれがいかに難しいことであっても、である。









 



2006.10.31

<岐阜中2自殺>クラブ内で日常的にいじめ 友人が証言

毎日新聞 10月31日]


 岐阜県瑞浪市の市立中学2年の少女(14)が今月23日に自殺した問題で、少女の友人たちが30日、少女がバスケットボールクラブ内でチームメートから日常的に受けていたいじめの実態を明らかにした。近距離からボールをパスして受け取れないと笑ったり、仲間外れにしていたという。30日も2度に及んだ会見でいじめの事実をあいまいにした学校側の対応についても、友人たちは「同じクラスの人たちはいじめがあったと考えている。(少女が)可哀そう」と口をそろえた。
 友人たちによると、遺書で名前を挙げられた4人は、練習で少女からのパスをわざととらなかったり、練習後に最後まで後片付けをさせるなど、少女を下級生と同様の扱いにしていた。ある友人は少女について「人一倍まじめで責任感も強いクラスのリーダー的存在だった。良く練習もしていたのに」と唇をかんだ。
 また、学校は少女の自殺後、「少女への手紙」という題で生徒らに作文を書かせていた。学校は少女の家族に、生徒らへのアンケートでいじめの事実が確認できなかったと説明していたが、友人の一人は「死んだ人に悪口言う人なんていない。学校は自分を守るようなことばかり言っている。学校が(いじめを)認めないと学校は良くならない」などと批判した。
 少女のロッカーの中には図書館で借りたらしい「生きる」というタイトルの詩集があった。ある友人は「自分を慰め、勇気づける内容の詩だった。自殺するほどの苦しみに、私が気づいてあげられればよかった」と声を震わせた。【稲垣衆史】



北海道滝川、福岡筑前、岐阜瑞浪。時をほとんど同じくして起こったいわゆる“いじめ自殺事件”のなかで瑞浪事件だけに際立った特徴がある。
それはいじめの実態も含め、
同級生や友人、そしてその保護者の発言がぼろぼろ出てくることである。
滝川の事件でも筑前でも、苦労しているのは事実が見えてこないということだった。
滝川については今もまったく分からないし、筑前の場合は校長が断言したにもかかわらず、今も調査中のままである。
この違いについて、注目しておく必要がある。








 



2006.10.31

遺書で「パワハラ」訴え、女性中学教諭が自殺
...鹿児島


読売新聞 10月31日]


 鹿児島県曽於(そお)市の中学校の女性音楽教諭(32)が、パワーハラスメント(職権による人権侵害)を訴える遺書を残し、自殺していたことがわかった。

 学校側は「頑張ってもらおうと指導したもので、パワハラはなかった」と説明している。

 家族によると、教諭は28日に行方不明になり、29日朝、空き家になっている県内の実家で首をつって自殺しているのを父親(61)が見つけた。教諭のパソコンには、学校関係者と母親(59)あての遺書があり、校長(55)には「(県総合教育)センター行き、すべてあなたの犯行」、別の上司には「他の同僚と私を差別した」などと記されていた。

 学校によると、教諭は2002年、中学校に赴任し、音楽科と家庭科を担当。05年から、1、2年生に国語も教えるようになったが、曽於市教委から「指導力不足」と判断された。このため、10月1日から半年間、県総合教育センター(鹿児島市)で研修を受けることになり、鹿児島市内の自宅から通っていた。




見出しにドキッとして読むとこの記事である。
これでは指導力不足教師に再教育をさせるということがパワーハラスメントにあたるとしか取りようがない。
 一方で指導力不足教員をあぶり出せ再教育をせよという圧力を受けながら、他方で再教育を指示することはパワハラとなると、どうしようもなくなる。なんとも不思議な記事である。

 しかし、内容をよく読み、亡くなった教諭に同情的な立場から行間を読めば、中学校で3教科を同時に教えながら、指導力不足と認定されるのは苦しいだろうという気もしてくる。どの教科も高い専門性がなければ中学生は指示通りに動かない。
「(県総合教育)センター行き、すべてあなたの犯行」、「他の同僚と私を差別した」
は、およそ32歳の大人の書く文ではない。正常な精神の、正常な判断ではないのだろう。
そこまで追い詰められ自死していったこの教諭の、生活の変遷こそが本来取材すべき内容であったはずだ。記者諸君の奮闘を望む。









 



2006.10.31

学校「いじめが原因」 
部員の親、遺族に謝罪 中2自殺


朝日新聞 10月31日]


 岐阜県瑞浪市の市立瑞浪中学2年生の女子生徒(14)が自殺した問題で、学校と市教育委員会は31日、2度にわたり記者会見し、在校生への再調査などをもとに、バスケットボール部でのいじめが「生徒を死へ追い込んだ要因になった」とする見解を公表し、いじめが自殺の原因だったと全面的に認めた。佐々木喜三夫校長が同日夜、遺族宅を訪れ、謝罪。遺書で名指しされていた4人の部員の親も遺族に対し、いじめを認めた。
 会見で、尾石和正教育長は「総合的に考えると、いじめが本人にとって大変大きな心の痛みとなり、死へ追い込んだ要因となった」と述べた。
 これまで学校側は、「ウザイ」「キモイ」などといった言葉によるいじめの存在は認めていたが、「死に値するとは考えにくい」として、因果関係を否定してきた。
 だが、実態調査を30日に無記名で再度行った結果、「汗をかいた女子生徒の腕が他の部員当たると、『嫌やね』と言われていた」「プレー中、女子生徒にわざとぶつかっていた」「女子生徒にだけ、失敗するとすぐに怒った」などの事例を確認。こうした事例は少なくとも今年5月以降続いていたという。
 佐々木校長は「しっかりした生徒で、いじめなんてあの子は大丈夫だと考えていた。アンテナが低く、弱さを見抜けなかった。支えきれず、申し訳なかった」と述べた。
 また、遺書で名前を挙げられた4人の親が31日午後、女子生徒の自宅を訪れ、「自分たちの子どもがいじめたのは間違いない」と謝罪。両親8人は全員喪服姿で、遺影が飾られた部屋で遺族と2時間余り話し合った。
 亡くなった女子生徒の父親(44)は「長い時間かかったが、いじめによる犠牲者をなくすという娘の遺志に近づけた。これで娘の死が報われる」と話した。あわせて、4人の両親に対し、「苦い経験を無駄にせず、誰かがいじめられているのを見逃さない子に育ててほしい」と注文したことを明らかにした。


これで瑞浪の事件についてはひとつの区切りがつけられと考えてよいのかもしれない。おそらく私たちの手元には届かないだろうが、亡くなった生徒の保護者の手に、やがて詳しい報告書が届くだろう。それで事件のおおよその姿は了解されるはずだ。ただしその報告書で両親が満足されるかどうかは分からない。当事者の一方が亡くなっている以上、最後の部分は闇の中だ。

だが、私にはひとつだけ気になっていることがある。

しっかりした生徒で、いじめなんてあの子は大丈夫だと考えていた。
学校現場にいるものとして、これはよく理解できる言葉だ。
アンテナが低く、
もその通りだと思うし、
支えきれず、申し訳なかった
と謝罪するのも当然だ。
しかし、
弱さを見抜けなかった。
というのはどうか。この生徒は果たして弱かったのだろうか?

各報道から見えてくる女生徒との姿から、
「ウザイ」「キモイ」などといった言葉によるいじめの存在は認めていたが、「死に値するとは考えにくい」として、因果関係を否定してきた。
という学校や教委の判断は間違っていなかったように思う。その程度のことで死なれては困るし、その程度のことで死ぬような子でもなかった。
例えそれに
汗をかいた女子生徒の腕が他の部員当たると、『嫌やね』と言われていた」「プレー中、女子生徒にわざとぶつかっていた」「女子生徒にだけ、失敗するとすぐに怒った」などの事例
が重なっても、この子の場合それでへこたれるようなことはないと思える。へこたれるような子でないからこそ、最後まで部活をやめることは考えなかった。

しかしそうであるにもかかわらず実際に亡くなった。それを思うと、中学生にとっての部活がどういうものか、もう一度考えてみる必要があるように思えるのだ。

私はしばしば、「中学校の三本の柱『勉強』『部活』『生徒会』、このいずれかひとつで生き生きとできる子は、決して非行にも走らなければ、不登校に陥ることもない」と言い続けてきた。しかし改めて振り返ると、
柱は三本もあるのではなく三本しかないのだ。
三本ともダメな子はいくらでもいるし、三本のうちのひとつが肥大して他のふたつを覆いつくし、非常に単線的な、その路線が切れると他に道のなくなるような、危うい生き方が始まってしまうのかもしれない、そんなふうに思えてくる。
少女はそういう道を歩いていた。

そうした観点から、私はもう一度子どもたちを見てみたいと思う。