キース・アウト (キースの逸脱) 2007年1月 |
by キース・T・沢木
サルは木から落ちてもサルだが、選挙に落ちた議員は議員ではない。 政治的な理想や政治的野心を持つ者は、したがってどのような手段を使っても当選しておかなければならない。 落ちてしまえば、理想も何もあったものではない。 ニュースは商品である。 どんなすばらしい思想や理念も、人々の目に届かなければ何の意味もない。 ましてメディアが大衆に受け入れられない情報を流し続ければ、伝達の手段そのものを失ってしまう。 かくして商店が人々の喜ぶものだけを店先に並べるように、 メディアはさまざまな商品を並べ始めた。 甘いもの・優しいもの・受け入れやすいもの、本物そっくりのまがい物のダイヤ。 人々の妬みや個人的な怒りを一身に集めてくれる生贄 。 そこに問題が生まれれば、今度はそれをまた売ればいいだけのことだ。 |
2007.01.03
夏休み短縮、土曜補習
ゆとり教育転換、総授業時数増加へ
[産経新聞 1月3日]
相次ぐ学力低下の批判を受けて始まった学習指導要領の見直しをめぐり、週5日制を維持しつつ総授業時数を増やすため、政府が夏休みの短縮や土曜補習を進める方向で検討していることが2日、分かった。「ゆとり教育」が導入される前の平成元年改定の教育課程水準に戻し、基礎学力を回復させる狙いがある。
保護者や教育関係者、与党の中には「土曜は子供がダラダラしているだけ」などと週6日制の復活を求める声もあるが、週5日制は社会全体として定着し、諸外国の教育制度上でも標準的となっているため、制度としては維持する方針。
しかし、学力低下批判が相次いでいることを重視し、次期学習指導要領では総授業時数の大枠を増加。その方策については、夏休みの短縮や土曜日の補習のほか、平日の放課後の補習、一日あたりの授業時間の増加などによって対応させる考えだ。
夏休み短縮については(1)学校教育法の施行令では長期休日の裁量を教育委員会に委ねている(2)気候・風土の違いから長期休暇の運用実態は地域格差がある−といった事情を踏まえ、「全国一律の実施は難しい」(文科省幹部)と判断した。
また、教科横断的な学習としながらも授業内容を各校の判断に任せている「総合学習」は、国語や数学などの基礎教科の授業時間数を圧迫しており、「学力低下の根源」との批判が強いことから削減する。
教育課程のあり方は、文部科学相の諮問機関である中央教育審議会の関係部会で検討。基礎教科の充実や小学校低学年での授業時数増加を求める審議経過報告を昨年2月にまとめていたが、総授業時数の増加にまでは踏み込んでいない。安倍首相の所信表明演説も「必要な授業時数を十分に確保する」とするのにとどめていた。
現在、教育再生会議で議論が進められているが、1月にまとめる第1次報告にも盛り込み、ゆとり教育の転換を促す見通しだ。同月に委員の任期が満了する中央教育審議会では、委員を入れ替えた新体制のもとで審議を再開し、具体的な検討作業を進める。
授業時数を増やせば学力が伸びるというのはいかにも素人くさい考え方である。
現在、授業時数は各地方自治体で相当の幅がある。日数で言えばおよそ190日から215日、時数にして125〜150時間程度の差がある。これだけの差があれば時数と学力の相関は測れるに違いない。そしておそらく相関関係はない(私の住むところは、全国で最高水準の授業時数を誇るが、学力的には平均以下である)。
文科省には時数と学力に相関はないと証明する資料があるはずだ。だから出せばいいものの、決して出さない。教育再生会議や中央教育審議会に楯をついても代案がない以上、発表することが無意味だからである。
下がったと言われる学力を上げるためにはいくつかの方法がある。
まずその第一は、「学力」が何であるか明らかにすることである。
一般の人には意外かもしれないが、日本の教員の間に「何が学力であるのか」という点にコンセンサスがない。
あるグループは計算だの漢字だのばかりやっている。それが学力だと信じているからである。
別のグループは相変わらず問題解決学習ばかりやっている、文科省が『生きる力』として問題解決能力こそ今後必要な学力だと言ったからである。
また別のグループはそれらと無関係に昔の学習を続け、それで力をつけようとしている。いろいろ迷うなら昔ながらの勉強のほうがいいと信じているからだ。
第二に、国家が学力に関する目標を設定することである。
「学力向上のための施策を行う」といった言い方は繰り返しするものの、どうなったら学力が回復したことになるのか、政府はそれを明らかにしない。
たとえば『「PISA(OECD生徒の学習到達度調査)」「IEA国際数学・理科教育調査」のすべての科目で世界一を目指す』といった目標を設定し、両調査でどんな問題が出されたかを明らかにすればいいのである。
これも一般の人には意外だろうが、私たちはこの二つの有名な国際比較で、誰がテストを受けたのか、どんな問題が出たのか、誰も知らないのである。
問題が明らかになり、それで世界一を目指すといえばそれだけでいい。日本の教員と教育システムは優秀だから、その傾向と対策で数年を経ずして世界一の座を獲得できるはずである。
第三に小学校1年生でも学級崩壊があるという小一プロブレムを解消すること。
そのために45分間の授業をしっかり受けられない子には就学猶予を与え、きちんと学習できるようになってから学校に入学させること。そうしないと学級の学習レベルは今のまま下がり放しだからである。
第四に、学校選択制を完全に実施するとともに、学校にも児童・生徒の選択権を与えること。
児童生徒とその保護者が学校を選ぶ基準となるような学校の質の高さを保持するためには、学校もまた子どもを選ばなくてはならない。どんな子どもを入れても優秀に仕上げる教育方法などあるはずがないからである。
第五に、40人学級といった他の先進諸国に類例を見ない異常な大規模学級を解消し、最大でも25人以下の学級とすること、そのための予算措置をとること。
40人と25人では単純計算で1.6倍の労力が必要である。通知表にしろ個人相談にしろ、諸外国の1.6倍の仕事をさせながら、指導力不足と言われたのではたまらない。
以上が、私の提案する最低の教育改革である。
しかしこれらはひとつも実現しないだろう。
政府は責任を問われること(第一案と第二案)、一般の国民に負担を求めるもの(第三案と第四案)、金のかかること(第五案)は行わないことを前提に学力問題を考えている
からである。
学力向上のすべては、教員の自覚と努力によって行うべきことなのである。
政府の教育再生会議(野依良治座長)は11日、東京都内で運営委員会を開き、今月下旬に取りまとめる第1次中間報告に、いじめなど反社会的行為を繰り返す児童・生徒への「出席停止」措置を明記する方針で一致した。教育バウチャー(利用券)の導入も今年12月の最終報告に向けた検討課題として盛り込む。いずれも先月21日に公表された素案では急進的改革に慎重な与党に配慮して明記が見送られていたが、政権浮揚のためにも教育改革への取り組み姿勢を強調したい安倍晋三首相の意向で復活した。
2007.01.11
<教育再生会議>いじめで出席停止明記へ
首相の意向で復活
[毎日新聞 1月11日]
出席停止は学校教育法に基づく制度。公立小中学校で他の児童・生徒の教育に妨げがある時、所轄する教育委員会が命じることができる。05年度では全国で43件あった。
規範意識について議論してきた再生会議の第2分科会が「学校の秩序を維持するためには必要だ」と提唱したが、一部委員から「出席停止は教師の責任回避につながる」と反発が出て、素案段階では削除されていた。
再生会議の義家弘介担当室長は、出席停止を明記する方針となったことについて「乱用しないことを示せば、会議で最終的な合意を得られるだろう」と記者団に語った。
教育バウチャー導入は、学校間の競争を促して公教育の質の向上を目指すのが目的。委員の一部には「学校数が限られる地方の実情になじまない」など異論もあったが、安倍首相が昨年9月の自民党総裁選で提唱した目玉政策でもあり、首相官邸の強い意向で盛り込まれることになった。
学力向上を図るため「ゆとり教育の見直し」を明記することも改めて確認した。高校の履修単位不足問題で対応に不手際が目立った教育委員会については、教委を評価する第三者機関の創設などの改革を提唱する。「ダメ教師の排除」を狙った教員免許更新制の導入や社会人教員の大量採用も盛り込む。19日に全体会議を開き、今月下旬の報告取りまとめを目指す。【平元英治、渡辺創】
さて、出席停止も教育バウチャーも免許更新性も社会人の大量採用も、その実効性・有用性・可能性に関する何の調査も研究も検証もないまま、まず「やる」ことが決定された。
これで学校は基本的に、「反社会的行為を繰り返す児童・生徒に対し、口頭で叱り、それでもきかなければ出席停止」という、極端な世界になってしまった。これではまるで執行猶予付きの懲役刑と死刑しかない世界みたいなものだ。
強く願う。出席停止の判断は、学校にさせないでほしい。
多く見積もっても2〜3%ほどしかいない「ダメ教師の排除」を狙った教員免許更新制の導入によって95%以上の教員の意欲にひびが入る。そして新たな世代は、免許そのものが失効するかもしれない教員の世界から足を遠のかせることになるだろう。ダメ教師の排除によって大量のダメ教師が生み出される。
ここで言う社会人教員の大量採用とは、教員に憧れ、社会に出ながらも教員になろうとがんばって来た人たちの採用ことではない。教員免許を持たない、しかし社会的に優れた技能を持つ人々を採るということだ。しかし「社会的に優れた技能を持った人々」が、なぜ仕事を辞めて教員になるのか。結局は、社会人として通用しなかった人々が、広げられた門の中に入ってくるしかない。しかも彼らは道徳や特別活動、教育相談(カウンセリング)といった、いわば心の教育の訓練を全くつんでこない人たちなのだ。
教育学部や現場で必死に勉強してきた人たちこそダメ教師だと言わんばかりのこのやり方・・・現場の教員はどう考えるのだろう?
県教育委員会は、教員が児童・生徒に最低限の教育を「約束」する学校版マニフェスト「まなびフェストいわて」を、来年度から2010年度までに、全小中学校で導入するよう市町村教委に求める方針を明らかにした。小中学校で最低限の知識を習得せずに卒業する児童・生徒が多いという高校や企業の指摘に応えるためで、指導の目標に数値を盛り込み、達成度を客観的に検証しながら基礎学力を徹底させる方針だ。
2007.01.12
学校版マニフェスト:達成目標を数値化
「教員の指導を改善」−−県教委方針 /岩手
[毎日新聞 1月12日]
県教委は、まなびフェストを(1)学力向上(2)体力(3)生活習慣・生徒指導等(4)家庭に対する依頼事項――の4項目に分け、それぞれ「漢字コンクール正答率90%以上の児童100%」(小学校)「新出英単語の意味が言え、読み書きを全員ができるようにする」(中学1年)などの目標を例示している。
達成度はホームページなどで公表し、教員の自己評価や児童・生徒のアンケート、保護者の評価などで検証する。政治家の場合、マニフェストの達成度は政治家を評価する一つの手段となる。県教委は、「まなびフェストは、あくまでも教員の指導の改善が目的。目標が達成できない場合は、なぜできなかったのかを検証し、改善して翌年度の指導に生かしてほしい」と、教員や学校の評価とは切り離して実施する点を強調している。
同様の取り組みは、東京都江東区などで実施している。【念佛明奈】
最近学校マネジメントという言葉がもてはやされ、管理職を中心に盛んに研修が行われている。要は企業経営の手法を学校運営に生かそうという試みである。
さまざまに難しい提案があるが、その重要なひとつをPDCAサイクルという。
年度の計画(Plan)は実施され(Do)、年度末に評価(Check)を受ける。そして、評価を踏まえて、次年度の課題を検討する(Action)。
これが、PDCA サイクルであるが、学校で特に難しいのは評価(Check)であろう。
企業ならばコスト削減とか生産増強とか、受注増とか、数値に置き換えのきく「計画(Plan)」がいくらでも立てられる。しかるに学校教育の目標は常に「生きる力」といった、どう計ったらよいか分からないようなものばかりなのである。
あまり曖昧なのでその都度「具体化」の話が出るのだが、例えば「生きる力」にしても「よりよく問題を解決する資質や能力(問題解決能力)」「豊かな人間性」そして「たくましく生きるための健康や体力」(1996年の中央教育審議会第一次答申)と、やっぱりさほど具体的でない。どうなったら問題解決能力がついたのか、豊かな人間性がついたのか評価できない。「たくましく生きるための健康や体力」は、まさか腕立て伏せ20回とかうことにはならないだろう。
その点で岩手県教委の提案はいかにも学校マネジメントの名にふさわしい、優れた取り組みと言える。
「漢字コンクール正答率90%以上の児童100%」(小学校)
「新出英単語の意味が言え、読み書きを全員ができるようにする」(中学1年)
数字は中立である。
こうした数字を間に置けば、評価者と被評価者の間で判断がずれる心配はない。正答率90%以上の児童100%が達成できなければ、評価を踏まえて、次年度の課題を検討する(Action)という活動に移ればいいだけのことである。
ただ、瑣末な問題が2〜3残る。
その第一は、
教員の意識が「あれもこれも」という時代から「あれかこれか」といった時代に移っていくということである。
これまで、学校で児童生徒につける力は複雑多岐に渡ると考えられていたから、教員は常にあたふたと「あれにもこれにも」手を出して忙しがっていた。そして(あからさまに言えば)あれもこれも70点程度の仕事しかできなかったのである。
しかしこれからは「計画(Plan)」に書かれたことについては100%近い達成を求められる代わりに、それ以外のことについては相当に許容されるだろうという見通しが出てきたのである。
実際問題として、全教科で70点を取っていた生徒が、特定の教科で100点近い成績を求められるようなものだから他の教科の成績は下がっても仕方ないだろう。
第二に、
数値に置き換えられないものは、「計画(Plan)」に乗せにくいので落ちていく。具体的に言えば、心の教育に関わる多くのことが、「計画(Plan)」から落ちる。
第三に、
それにもかかわらず、政府や社会が学校にあれもこれも要求する姿勢に変化はないだろうと言うこと。板ばさみになった学校は、マニフェストを盾に取り、居直るしかないだろう。
最後に、これが徹底されることで幸せになる人はいないだろうということ。
以上。
文部科学省は、公立学校の管理職(校長・教頭)と一般教員の間に新たに「主幹職」(仮称)を設置する方針を固めた。関連法案・省令の改正を行い、08年度から導入する。公立学校の教員は約83万人いるが、80%以上を占める一般教員から「中間管理職」を登用することで、給与体系にメリハリを付けるとともに、教員の意欲を引き出し学校を活性化させることが狙いだ。
2007.01.13
主幹職:一般教員から「中間管理職」登用
文科省が方針
[毎日新聞 1月12日]
教員の資質向上について、安倍晋三首相は国会で「能力・実績に見合ったメリハリをつけた教員給与体系の検討などを進め、教師の資質向上のための取り組みを積極的に行っていく」と答弁している。文科省はこうした方針を実現するためには、主幹制度の導入が不可欠と判断した。
主幹制度は06年4月現在、東京都、埼玉県など5都府県3指定都市が導入している。一部自治体では「総括教諭」「首席」などと呼ばれ、管理職の校務を補佐する役割などを担っている。文科省は学校教育法か同法施行規則を改正し、主幹制度を導入する方針で、今後は主幹設置を義務化するか、自治体の裁量に任せるかを中央教育審議会の審議状況などを踏まえて決定する。
主幹制度導入に伴い、基本的に4級制(校長、教頭、教諭、助教諭等)となっている各自治体の給与体系を5級制に改めるよう促し、義務教育国庫負担法を改正するなどして、財政的な裏付けを図る。へき地手当など諸手当の見直しが原資になる見通しだ。
しかし、全国に先駆けて導入した東京都では「管理職と一般教員との板挟みになり、仕事は激務。給料も大差なく、貧乏くじを引くだけ」という声が学校現場から上がっており、計画通りの配置が進んでいない。このため、文科省は給与の上昇率を先行自治体よりも多く見積もり、制度の定着を図る考えだ。
さらに「主幹職は管理強化の一翼を担う立場だ」と批判の声もあり、学校の活性化につながるかどうかは未知数だ。【高山純二】
一読してある種の嫌悪感に襲われ、
「能力・実績に見合ったメリハリをつけた教員給与体系
この能力・実績に見合ったという意味が私たちには分からないのだ。
隣の席の国語教師と数学教師の能力差をどう計るのか。並びあった二人の実績の差というのも理解できない
・・・と感想を書きかけたあとで、私はこの記事に対する嫌悪感が、そういった学校に対する無理解に由来するものではないことに気づく。
この記事のもっとも腹立たしいのは、
「中間管理職」を登用することで、給与体系にメリハリを付けるとともに、教員の意欲を引き出し学校を活性化させることが狙い
すなわち、金と地位によって教員の意欲をコントロールすると言う部分である。
学校に行って一ヶ月くらい一緒に生活してみればいい。
金や地位のために働いている教員なんて一人もいない。
金だけのことを考えたら、とてもではないがやっていられない仕事である。
現に東京都の場合、金と地位で釣ったところで主幹のなり手がなく、計画通りの配置ができていないではないか。
さて、世の中にはまだまだ奇特な人がたくさんいる。
休みのたびに全くの無償でボランティア活動を続けている人がいる。
大雪の日に、誰に頼まれたわけでもないのに、早起きして遠くまで通学路の雪かきをする人がいる。
そういう人の横面を札束で叩いて「これをやるからもっと働け」と言ったら何が起こるか考えてみるといい。
もっとも主幹職は「札束」というほどの金額は出ていないから、なおさらである。
何を根拠に言うか知らないが、教員の質が落ちたそうだ。
しかし、金や地位でコントロールしようとするやりかたは、確実に教員を堕落させるだろう。
教員給与の見直しを進めている中央教育審議会の作業部会は19日の会合で、管理職を補佐する「主幹」職や他の教諭を指導する「指導教諭」職を新設することで合意した。焦点となっている残業手当の導入については決定を先送りした。今年度中に結論を出す見通し。
2007.01.20
「主幹」「指導教諭」の創設を提言
中教審作業部会
[毎日新聞 1月19日]
部会がまとめた報告案は、主幹について「管理職を補佐して、その担当する校務をつかさどる」、指導教諭は「指導力に優れ、ほかの教諭等への教育上の指導助言や研修に当たる」と明記し、教員キャリアの複線化を打ち出した。基本的に校長と教頭、教諭、助教諭の4級制である現行の給料表を新職務も含めて改め、給与にメリハリをつけるとしている。
また、文部科学省による教員の勤務実態調査の結果から、子どもの指導より学校運営にかかわる業務の比重が高くなっているとして、対策として大規模校などに「事務長」職を新設することでも合意した。
検討中の残業手当は、管理職を除く教員に一律支給されてきた教職調整額を廃止し、一般の公務員と同じ仕組みに改めるもの。「教員の勤務の特殊性からなじまない」といった意見もあり、決定に至らなかった。
ここまでアホな話が続くと言葉が出ない。
もしかしたら相手を呆れさせて反論が出ないようにする作戦なのかもしれないが・・・。
さて、
教員の仕事は各教科担任・学級担任としての仕事を縦糸とすると、教科係・行事係・給食教育係・清掃教育係・・・といった校務分掌を横糸にするマトリクス(格子)型と呼ばれるシステムで成り立っている。
文部科学省による教員の勤務実態調査の結果から、子どもの指導より学校運営にかかわる業務の比重が高くなっているという場合の学校運営に関わる業務はこの校務分掌のことで、その比重が高くなったというのも事実であろう。
例えば安全係ひとつをとってもここ10年余りの間に、「校外の不審者に対する対応」「校内に押し込むかもしれない不審者への対応」といったかつてない仕事が加わった。「保護者への引渡し訓練」といった概念もかつてはなかった。
給食係なら食育が、図書館係なら毎日の全校読書など新しい行事が加わり、学校運営に関わる業務は一方的に増えていくばかりである。
しかしだからといって授業を自主的に減らすわけにも行かないから、相対的に学校運営に関わる業務の比重が高くなっているのである。
そこで対策として大規模校などに「事務長」職を新設することでも合意したとなるのだが、これがどうしようもないアホな話である。
まず、なぜ大規模なのかという問題。
一校に必要な校務分掌は大規模校であろうと小規模校であろうと大差ない。つまり大規模校に係が40あるとしたら小規模校にだって係は40近くあるのである。それを職員数40人の大規模校で分け合うのと、職員数が10人の小規模校で分け合うのとでは、どちらが大変か?
もちろん大規模校は一人で動かす人数が巨大だという大変さがあるから一概には言えないが、ひとことで言えば大規模校の大変さは力仕事の苦労で、小規模校のそれはめまぐるしく仕事を変えて対応するという神経戦であるといえる。
大規模校に置くなら、もちろん小規模校にも置かねばならない。
第二にこの事務長に何をさせるのかという問題がある。
まさか給食指導、安全指導といった校務を、一手に引き受けてくれるわけではないだろう。どれとどれをさせるのかという点でも難しいことになる。
第三に、この事務長、果たして外から来てくれるのかという問題がある。
対策として大規模校などに「事務長」職を新設することでも合意した
管理職を補佐する「主幹」職や他の教諭を指導する「指導教諭」職を新設する
普通の人はこういう発表を聞くと、学校がますます充実していくように見えるかもしれないが、現場の教員はウンザリする。
実際のところ「新設する」といっても教職員の数が増えるわけではないからだ。
すべての学校に
保健主事を置きます
司書教諭を配置します、
特別支援教育コーディネーターを置きます
栄養教諭を配置します
は、すべて同じ。
現在いる職員に司書教諭や栄養教諭の免許を取らせ、あるいは研修を受けさせて特別支援コーディネーターや保健主事に仕立てるだけのことである。
白羽の立った教員は職場での人間関係を壊したくないからいやいや引き受けるが、仕事が増えるだけでいいことは何もない。
主幹職も同じで、
例えば最も早く主幹制度を置いた東京都の場合、今も主幹の大部分は学級担任や教科担任をはずされていない。したがって普通の教員としての仕事に管理職を補佐して、その担当する校務をつかさどるが上乗せされるため、仕事量は爆発的に増え、セブン・イレブン(勤務時間が午前7時から11時まで)という状況になってしまっている。
あまりの過酷さに応募者が極端に少なく倍率はわずか1.1倍。小中学校では平成15年から平成19年度(つまり今年の4月までに)4594人配置する予定が現在2685人、充足率58.4%という有様である。19年度の選考はもう終わっているはずだが、1900人あまりを一気に主幹にすることなど、きっとできなかったろう。東京都は給与面での優遇でこれを乗り切ろうとしているが、金で教員を釣ってもうまくいくことはない。
私がわからないのは、そうした先進的な東京都で困難をきたしている制度を、中央教育審議会はなぜ全国に広めようとするのか、ということである。
教育再生会議も分からないが中央教育審議会も分からない。
まさか東京都の失敗を東京都だけに留めておくのは気の毒、ということでもないだろうに。
* 都道府県教委からは、司書教諭や特別支援教育コーディネーターの校務分掌を軽減するように再三指示が下りるが、もともと大量に仕事を抱え込んでいる学校にそんな余裕はない。結局資格を持っている者が損をする。
* 10年ごとの免許更新の際、意図的にこれらの免許を更新しないという可能性はあるのだろうか? これ以外にも、中学校はシンドイから中学校の免許のみ更新を見送るとか、そうしたことが自由に行われれば、人事はものすごく混乱すると思う。そのあたりを、中央教育審議会や教育再生会議はどのように考えているのだろう?
文部科学省は19日、いじめや自殺など児童・生徒の問題行動に関する調査を、抜本的に見直すことを決めた。いじめが教師から分かりにくくなっている事例もあるため、各学校がアンケートなどで、子どもたちの「声」を聞いたうえで記入するよう要請。いじめの定義も改定し、調査項目を増やしてより詳細な調査を行う。来週にも都道府県・政令指定市の指導主事会議を開いて周知徹底し、4月以降に実施する。
2007.01.20
いじめ調査、子どもの「声」重視
文科省が抜本見直し
[毎日新聞 1月19日]
いじめと自殺についての調査は今年行う分から公立校だけでなく国立、私立も新たに対象に加える。
いじめの調査では、子どもたちの「声」を聞くことを重視し、アンケートや個別面談など各学校がどういった手法で実態を把握したかを尋ねる項目を加えた。いじめられた子が相談した相手や、個々のいじめに対する学校の対応についても新たに聞くことで、早期の発見と対応を促すのが狙いだ。
いじめを幅広くとらえるために、定義も変えた。定義の変更は、94年の大河内清輝君(当時13)のいじめ自殺事件を受けて以来だ。
新たな定義は「当該児童生徒が、一定の人間関係のある者から、心理的・物理的な攻撃を受けたことにより、精神的な苦痛を感じているもの」。「一方的に」や「継続的」「深刻な」といった、いじめを限定してとらえかねない表現は削除した。
自殺の調査では、「主たる理由」を一つ選ぶ方法が、99〜05年度にいじめを苦にした児童・生徒の自殺件数が文科省の統計で「ゼロ」だったことの背景にあることを反省。「いじめの問題」「進路問題」など、自殺した子どもが置かれていた状況について、あてはまるものは複数選ばせるようにした。
現在、地方公共団体にとって大きな問題になっているのは地方行政の長に対する電子メールの問題である。
かつて請願権の行使には署名集めだの要望書の作成など面倒なことがたくさんあったのに、今はメール一通で行政を動かせるようになった。
地方公共団体の側からすれば、かつての匿名ハガキ・封書などは、匿名であるがゆえに対応しなくて済んだのが(住所氏名が書いてない)、電子メールの場合は必ず回答が要求される。それに答えないと、今度は「何も対応しない」ということで議員にメールが届くから始末が悪い。
ある地方公共団体職員は「あれ(電子メールの受付)で、仕事が二倍になった」と嘆いていた。
もはや地方政治は言った者勝ちなのである。
さて、文科省のいじめの定義が変わった。
新たな定義は「当該児童生徒が、一定の人間関係のある者から、心理的・物理的な攻撃を受けたことにより、精神的な苦痛を感じているもの」。
「一方的に」や「継続的」「深刻な」といった、いじめを限定してとらえかねない表現は削除した。
ということは、客観的にいじめの事実があろうがなかろうが、
「いじめだ!」と叫んだ者の言った者勝ち
になったのである
客観的にケンカであるのような双方的なものであったり、ちょっとした瞬間のものであったり、普通の感覚では「そのくらいのことは」と見過ごしていいようなものであっても、
当該児童生徒が、精神的な苦痛を感じていじめられた!と叫べば、それは「いじめ」として教師は対応しなければならない、ということである。
また、これを別な観点から見れば、児童生徒の人間関係のあらゆる面に教師が介入することも意味する。
子どもたちが、自由に野山を駆け回り、いじわるをしたりされたりしながら成長することはもう許されない。
子ども同士がお互いを注意しながら正しい道を歩もうとすることもできない。なぜなら、正しいことを指摘されて(心理的な攻撃)傷つく子どもだって少なくないからである。
*冗談みたいに聞こえるかもしれないが、教員にしかられたて「先生にいじめられた」と訴える生徒は少なくない。
大変な時代が訪れようとしている。
自民、公明両党は24日、衆院第1議員会館で教育再生検討会(座長・大島理森元文相)を開き、政府の教育再生会議がまとめた第1次報告について協議した。会合では、再生会議事務局長を務める山谷えり子首相補佐官の説明に対し、出席者から「ゆとり教育」の見直しに異論が続出。政府に対し、来週改めて見直しの狙いなどを説明するよう求めた。
2007.01.24
ゆとり教育見直しに異論続出=「知識より人間力向上を」
−与党
[時事通信 1月24日]
会合では、これまでゆとり教育を推進してきた文部科学相経験者らが、授業時間数の10%増加などについて「知識向上に重点が置かれている。ゆとり教育が目指す人間力の向上が大事だ」などと相次いで反対論を表明。さらに、体罰の基準緩和を明記したいじめ対応策に関しては、「現場の視点を持つべきだ」との指摘が出された。
「ゆとり教育の見直し」などと言うから通るものも通らなくなるのであって、「よりいっそうのゆとり教育推進を図るため」に、授業時数を増やしてゆっくりと学習してもらうか、内容をさらに減らしてゆっくり学習させるかの二者択一をしたところ、前者に傾いた、と言えばいいだけのことだ。
さらに体罰の基準緩和などと言うから刺激が強すぎて拒否反応が起こるのであって、これも「体罰禁止を徹底するための、教員による正当な懲戒規定の作成乃至は見直し」とでも言えば話は違ってくるだろう。
児童生徒の出席停止にしても、「他の生徒の学習を邪魔した子どもでさえ『その子の学習権を犯すな』とかで廊下出すことすらできない現状を改め、適正な処分の枠組みをつくります」と言えば、問題はずっと少なかっただろう。
教育は政治なのであって、何が正しいか、何が子どものためになるかなどはどうでもいいことだ(昨今の政府の様子をみると、それが良く分かる)。
再生会議のメンバーや山谷補佐官にはそのことを教えてあげたい。彼らはきっと政治家に会ったことはないのだ。
文部科学省の調査で、給食費を滞納している保護者が児童・生徒100人あたりに1人いる実態が初めて浮かんだ。同省のまとめでは05年度の月額給食費平均は公立小学校約3900円、中学校約4500円。現場からは、不況や貧困など経済的な問題を背景にした「払えない」だけではなく、規範意識の低下で「払わない」ケースが多いとの声も漏れる。いじめや学力低下だけでなく、教育現場は難しい課題を突きつけられている。
2007.01.25
給食費:払わない親 払えない親
[毎日新聞 1月25日]
◇自治体、法的措置も…給与差し押さえ、名前公表など
保護者の給与の差し押さえ、滞納時の給食の一時停止、悪質不払いのケースの該当者名の公表……。給食費の未納が社会問題化する中、自治体は、法的措置も含めさまざまな対策を講じている。
広島県呉市では昨年4月、11〜29カ月分の支払いに応じなかった2世帯を相手取り、支払い督促を簡裁に申し立てた。簡裁からの督促にもかかわらず、応じなかったため、市は保護者の給料を強制執行で差し押さえ、訴訟費用も含め計20万円を徴収した。別の1世帯についても近く差し押さえる予定だ。
しかし、呉市のように徴収できるケースは例外だ。全国に先駆けて03年度末から同様の法的手段を使った回収策に乗り出した岩手県滝沢村。05年度までに64世帯への支払い督促を簡裁に申し立てた。支払いを約束したり、和解したのは34世帯。残りは今も未納か所在不明だ。村全体の未納額は03年度780万円、04年度880万円、05年度830万円。減少傾向はみられない。
東京都あきる野市は95年、給食費を4カ月滞納した場合に給食を一時停止できると条例で定めたが、適用例はない。北海道芦別市も05年4月、給食費や水道使用料などに関し、経済力があるのに督促に応じない悪質事例について氏名を公表する条例を制定したが、公表した例はない。
芦別市の担当者は「子どもが絡んでいる以上、簡単には適用できない」と打ち明ける。どの自治体も子どもが対象となる問題だけに、強行措置が取れないのが実情だ。
こうした事態を受けて、文部科学省は24日、(1)学校給食の意義・役割などを保護者に伝える(2)生活保護による教育扶助や学校教育法などに基づく就学援助制度の活用を奨励する(3)学校全体の取り組み体制の整備−−を未納問題への対応策としてまとめ、各自治体に通知した。
しかし、(2)に関して、通知は「制度を活用して給食費相当額を受け取りながら、学校に支払わないケースがある」と、保護者側の姿勢を問題視したうえで、「必要に応じて学校長に直接交付することも制度上は可能だ」と解説。問題の深さを物語る。【苅田伸宏、西端栄一郎、高山純二】
◇格差、身勝手…事情それぞれ
「20〜30代の親の雇用が不安定になり、低賃金の層が増えていることが給食費未納の増加につながっている」。「希望格差社会」の著者、山田昌弘・東京学芸大教授は、未納の背景として「格差」を挙げる。「給食費自体は少額だが、他にも払わなければならないものがあり、そういったものがつもり積もって払えなくなっている」との見方だ。
原因は経済的要因だけだろうか。保護者の了承を得たうえで生活保護費から直接、校長の口座に給食費を天引きする制度を05年度に始めた福岡県田川市。「うちはずっと払ってないので」「借金取りみたいなことを言わないで」。督促に訪れた教員に、保護者はこう話した。
また、関東地方の公立小学校の元校長は、督促した際、「『給食を食べるんじゃない』と子どもに言っている」と言った母親がいたことを忘れられない。こうした事例をみると、必ずしも保護者側に同情すべき事情があるというわけではないようだ。
未納率6.3%と全国で最悪の沖縄県。昨年9月の完全失業率が7.8%で全国平均の倍近くに達する。ある公立小の担任教諭は「知っている児童のケースでも、未納者は生活が苦しい家庭であることは確か。でも、当事者の子どもは『携帯型ゲーム機を買ってもらった』『カラオケに行った』などと話しており、約4000円の給食費が払えないわけがない。払わなくても給食は食べられるから(優先度を下げられ)払わないのでは」と憤る。
「お金がなくても、やりくりして子どもをピシッと育てるという意識の欠けた親が出てきている。経済的な余裕のなさで、精神的にも追い詰められているのでは」。東京都足立区立中の男性教諭(57)は、未納の背景をそう考えている。【吉永磨美、林田雅浩】
給食費ばかりでなく、学年費や修学旅行のための積立金の徴収は学校にとって頭の痛い問題である。
教員の一部は今も仕事に誇りを持ち、崇高な仕事をしていると思っているから、借金取りみたいな仕事をさせると傷つく。かく言う私もそのタイプだ。
「うちはずっと払ってないので」(だから来てるんじゃねぇか、バカヤロウ!)
「借金取りみたいなことを言わないで」(そういうマネさせるんじゃネェよ、オンドリャー!)
と、カッコの中の言葉を飲み込んで、「すみません。本当に困ってるんです」といちいち泣きを入れる。
こんなことで「教師は毅然とした態度で子どもに向かえ」もないだろう。
世間の人は、給食費を払いもしない家の子どもにも給食を出し続け、差し押さえもしようとしない学校の対応が理解できないらしいが、そんなことをして保護者の機嫌を損ねたら、「教師との信頼関係」などあっという間に崩壊して、後がやりにくくてかなわない。
文部科学省は24日、
(1)学校給食の意義・役割などを保護者に伝える―今更なんだ。それが分からないから払わないわけじゃねぇんだ!
(2)生活保護による教育扶助や学校教育法などに基づく就学援助制度の活用を奨励する―収入が多すぎて通らねぇんだよ!
(3)学校全体の取り組み体制の整備−職員全員で押しかけろってか?
−−を未納問題への対応策としてまとめ、各自治体に通知した。
もっとも「教育再生会議」とか言って政府は学校教育が死んだことを認めているわけだから、そんなろくでもない教育しかしてくれない学校に、払う金はないということだろう。
*学校集金はかつて集金袋で集め、休み時間に担任が数えて金融機関に預けていた。しかしそれではいかにもムダだということで、金融機関からの口座引き落としに変えられるようになった。そして教員たちは気づいた。
講座引き落としという目に見えない金の動きにすると、平気で口座を空にする保護者がいるのだ。これが集金袋だと持って行かないわが子が不憫ということで何とか払ってくれるのが、引き落としだと一向に苦にならない。
そこで最近は再び手集金に戻す学校が増えている。
多忙な教員がますます多忙になり、うっかりすると生徒に自習をさせて金の計算をしなければならない場合が出てくる。学力低下など、問題ではなくなってくる・・・。
「ゆとり教育見直しのため授業時間増」「教員免許更新制」「教育委員会改革」と、さまざまな処方せんが並ぶ。政府の教育再生会議が安倍晋三首相に提出した第一次報告の内容だ。
2007.01.25
論説: 教育再生会議報告
/説得力欠ける処方せん
[山陰中央新報 1月26日]
だが、これまでの教育のどこがどう問題なのか。肝心の現状分析が欠落したまま処方せんを並べても説得力に欠ける。人目を引きそうなテーマを並べて政治的アピールを狙ったのか、中央教育審議会の守備範囲を横取りしたようなテーマが目立つ。屋上屋を架すとの印象は避けようがない。
国内総生産(GDP)に対する公教育費の割合は、先進国でも最低レベルだ。再生会議で「五十年先、百年先を見据えた議論もしてまいりたい」(安倍首相)というなら中教審では荷の重い、こうした問題にこそ切り込むべきだ。
省庁を超えたテーマも抽象論でお茶を濁している。動いている教育政策の後追いと、カネのかからない精神論ばかりでは再生会議の看板が泣く。
例えば、ゆとり教育見直しとして掲げた授業時間の10%増。「すべての子どもに高い学力を」という首相の意向をくんで盛り込まれたのだろうが、子どもたちの学力のどこにどんな問題があり、授業時間という処方せんにたどり着いたのか、判然としないままだ。
そもそも、ゆとり教育といっても定義がはっきりしない。「ゆとり」という言葉も、変化する社会に対応するため「ゆとりをもった学習活動を」という学習の質に着目した理念である。詰め込みでない、はげ落ちない学力を目指したものである。
こうした理念について文部科学省や中教審は「趣旨は間違っていないが、手だてに問題があった」として、学習指導要領の見直し作業を積み上げているところだ。どんな学力を目指すのか、十分な論議もないまま、政治の力で強引に横やりを入れるようなやり方は少し乱暴ではないか。
文科省が認めているように、そもそも授業時間を増やすことと学力との相関関係は実証されていない。学力世界一といわれるフィンランドの授業時間は、日本よりはるかに少ない。
報告は、基礎・基本の反復・徹底など指導方法まで言及しているが、これらは学校が子どもの状況に応じて判断すべき事柄だ。大所高所に立って教育のあり方を議論する教育再生会議の仕事とは思えない。出席停止の活用も子どもの状況に応じて現場で判断すればいいことだ。上から一律に「活用しろ」と言うのは、無用な混乱を招くだけだろう。
「ゆとり教育見直し」「教育委員会制度改革」など、いったん消えかかったテーマが報告に次々と復活したのは「先送り、先送りでは首相の指導力が見えないということになる」という官邸の意向だという。その上、議論の舞台となった中核メンバーによる運営委員会は議事録さえ非公開だ。
広く国民の関心事である公教育のことだ。密室で詰めた論議もないまま、結論だけを下ろしてくるようなやり方は問題である。議論は公開の場で堂々と進めるべきだ。その際、教育は将来の国を担う、子どものためにあることを忘れてはならない。
言っていることは正しいが殴りたくなるような記事だ。
これまでの教育のどこがどう問題なのか。肝心の現状分析が欠落したまま処方せんを並べても説得力に欠ける。
国内総生産(GDP)に対する公教育費の割合は、先進国でも最低レベルだ。(中略)中教審では荷の重い、こうした問題にこそ切り込むべきだ。
学力世界一といわれるフィンランドの授業時間は、日本よりはるかに少ない。
どんな学力を目指すのか、十分な論議もないまま、政治の力で強引に横やりを入れるようなやり方は少し乱暴ではないか。
何で、再生会議の始まる前に、または報告書ができる前にこうした論説が書けなかったのか!!!
特にこれまでの教育のどこがどう問題なのか。は再生会議の設置理由そのものに関わる問題提起だ。そこを素通りさせて今頃言うのは、起こる犯罪を見過ごしておいて、あとでなじるのと同じやり方ではないか。
報告書を出した後では引けないのは、文科省や中央教育審議会が「ゆとり教育」を取り下げられないのと同じだ。
政治はメンツの世界なのだから、押さえるべきものは前もって抑えておかなければ、後から言っても絶対に引き下がらない。
メディアとしては、そうなったらそうなったでまた記事にすればいいだけのことだろうが。
私立や国立の中学入試が佳境に入った。1都3県で過去最多の5万人余が受験する見込みの首都圏をはじめ、都市部の中学受験熱は高まる一方だ。少子化が進むなか、学校側も受験生を確保しようと、試験科目を減らすなど駆け引きを続ける。学校選択制や中高一貫校など公立側の改革の影響も表れ始めた。4大都市圏の今年の受験戦線を追った。
2007.01.29
変わる中学受験地図/
公立の選択制・中高一貫も影響
[毎日新聞 1月29日]
(中略)
■首都圏―公立改革 私立に恩恵
首都圏では、既に入試が始まった千葉、埼玉両県に続き、2月1日に東京都と神奈川県で解禁される。大手進学塾「四谷大塚」の予測では、私立と国立中の受験者は1都3県で5万1千人に達し、過去最高となる見通しだ。
中学受験人気を加速させている要因として、公立小中学校で急速に広がる学校選択制と、公立中高一貫校の開校に注目する関係者が多い。「学校を選ぶことが当たり前になり、私立も選択肢に入れる保護者が増えた」「私立を考えなかった層が中高一貫の利点に目を向けた」との指摘だ。
学校選択制は、東京都では00年度の品川区が皮切り。今年度は中学校で23区のうち19区が、小学校でも14区が選択制をとり、市部でも導入が進む。神奈川県では中学校で7市、小学校では3市が選択制をとっており、千葉県でも九つの市と村で実施している。
公立中高一貫校は、東京では05年に誕生し、既に5校ある。私立側は当初「生徒を奪われかねない」と警戒したが、昨年の私立と公立の併願は「多くて2割」(森上教育研究所)という。東京私立中学高等学校協会会長で、八雲学園中学高等学校(東京都目黒区)の近藤彰郎校長は「私立にとってプラスになった」と言い切る。(後略)
自由という蜜には毒がある。
私たちは「自由」に引き寄せられるが、実際のところ、それで本当に幸せになれるかは不明だ。
品川区は面積22.72 Ku、およそ4.8km四方の土地に40の小学校がひしめいている。単純に計算すると700m歩けば隣の学校に行けることになる。平成18年度、品川区の小学校に入学した児童は2082人。一校当たり50人で、ようやく二クラスずつできる人数といえる。まるで田舎の中堅学校だ。
40校あれば当然校長が40人、副校長が40人。養護教諭も事務職員も、それぞれ1人ずつ必要になる。その給与だけでも大変な金額になろう。
これが20校になったらどうなるか。各校平均100名の入学者。1学年3クラスで非常に適正な規模と言える。校長以下も半分で済むし、電気・水道・ガスなど校舎の維持費も半分で済む。校舎を取り壊した跡には、第1級の遊休地が出現する。
ただしそのために学校を潰すなどとてもできた相談ではない。品川区も繰り返し「地域に育てられた皆様の学校を潰すようなことはしない」と約束している。理解のある区役所だ。その上学校選択制という蜜まで用意している。
さて、先に「平均50人」と書いたが、もちろん各校に平均して入学者があるわけではない。本年度入学者が40人を欠いた学校は15校。最小の学校は11人の新入生しかなかった。
学校は人数が少なければ少ないほどいいというものではない。1クラス11人となると人間関係は硬直しかなり苦しくなる。仲間はずれにされると逃げ場がない。授業でも優秀な意見がつながらない。運動会ではかけっこが男女各1レースで、学年で一番遅い子が誰かあからさまになる。PTA役員だってすさまじい勢いで回ってくる。
そんな様子を見ている住民の中から、学校の選択制を利用して別の学校へ移る児童が出てくる。
あと5〜6年も続ければ、学校の五つや六つは放っておいても潰れるだろう。
また、記事にある通り、
「学校を選ぶことが当たり前になり、私立も選択肢に入れる保護者が増えた」
ということになれば、区の財政はさらに楽になる。自前の学校を持つよりは私立学校に補助金を出している方が圧倒的に安くつく。
かくして学校の選択性は、住民の一部に私立学校へ行くための経済的負担を負わせ、別の一部に遠距離通学を強いることになる。学校がなくなってしまえば不審者不安だの言っていられない。
さらにもうひとつ大事な問題がある。
それは地域にいる子どもたちがそれぞれ別の学校に行くとしたら、地域の一体感、地域社会というものがなくなるということである。
確かに、都会ではすでにそんなものはなくなっている、という言い方もあろう。しかし都会の事情を前提に、地方の、それでも残っている伝統的な地域社会まで意図的に潰してしまうこともないと思うが、政府は教育バウチャー制という名の下に、それを行おうとしている。