キース・アウト
(キースの逸脱)

2007年9月

by   キース・T・沢木

サルは木から落ちてもサルだが、選挙に落ちた議員は議員ではない。
政治的な理想や政治的野心を持つ者は、したがってどのような手段を使っても当選しておかなければならない。
落ちてしまえば、理想も何もあったものではない。

ニュースは商品である。
どんなすばらしい思想や理念も、人々の目に届かなければ何の意味もない。
ましてメディアが大衆に受け入れられない情報を流し続ければ、伝達の手段そのものを失ってしまう。

かくして商店が人々の喜ぶものだけを店先に並べるように、 メディアはさまざまな商品を並べ始めた。
甘いもの・優しいもの・受け入れやすいもの本物そっくりのまがい物のダイヤ
人々の妬みや個人的な怒りを一身に集めてくれる生贄
そこに問題が生まれれば、今度はそれをまた売ればいいだけのことだ。
















 

 

2007.09.14

教育再生会議は当面休止=新内閣に存続申し入れへ


時事通信 9月13日]


 政府の教育再生会議の合同分科会が首相官邸で12日開かれたが、会議設置を主導した安倍晋三首相が辞意を表明したことで次回以降の日程が決まらず、当面休止する見通しとなった。会合後の記者会見で池田守男座長代理は「何としても継続させていただきたい」とした上で、新内閣発足後に会議存続を申し入れる考えを示した。


 教育は国家百年の大計だなどとおだてられ、尊い、やりがいのある仕事だと思っていたが、私たちのアホな思い違いだったのかもしれない。

 ゆとり教育が何だったのか、本当に学力は下がったのか、本当に教員の質は低下したのか、どれもこれもまったく検証しないまま「教育再生会議」という素人の集団が次々と妙な提案をし、
 しかしそれが国民の意思、政府のゆるぎない決断かと思ったら首相の辞任であっけなく開店休業。

 何ゆえ私たちと、私たちの大切な児童生徒は、世の中と政府から弄ばされなければならないのだろう?





 

 

2007.09.16

体罰で厳重注意の教諭、スーパーティーチャーに 京都市


朝日新聞 9月15日]


 10年前から生徒への体罰を繰り返し、京都市教委から厳重注意を受けていた市立高校の男性教諭(52)が、市が高い指導力をもつ教師を指定する「スーパーティーチャー」の1人に選ばれていたことがわかった。指定後の昨年秋にも新たな体罰をしていたが、市教委は処分をせず、スーパーティーチャーの指定も取り消されていない。教諭は今月に退職届を提出したが、体罰を黙認したともとれる市教委の姿勢が問われそうだ。

 市教委によると、男性教諭は93年にこの市立高に異動。バレーボール部顧問として、チームを府内のトップクラスに育てた。05年9月にはこの実績が買われ、国の中央教育審議会の答申に基づき、優れた技能や指導力を持つ教師を指定する市教委の「スーパーティーチャー」に選ばれた。

 一方で、教諭は97年9月〜01年7月に、生徒を殴ったり、暴行したりする体罰を3回繰り返し、市教委から注意処分などを受けていた。スーパーティーチャー指定後の昨年秋にも、バレーボール部員2人に体罰を加えていた。

 教諭は今年3月から病気休暇に入ったが、市教委は「詳しい事情が聞けていない」として、処分は見送っていた。

 教諭は今月14日に「一身上の都合」とする退職届を提出。市教委の清水稔之・教職員人事課長は「退職すれば事実関係は明らかにできない。生徒から事情を聴くつもりもない」として、不問に付す構えだ。



 ここで言う「スーパーティーチャーズ」は私たち「スーパーティーチャーズ(調教師の会)」とはまったく異なり、本物の超教師の称号である。
 極めて優れた教員に与えられるらしい(・・・らしいと言うのは、私の近辺にはそういう人はいないからだが)。

 さて、しかしここに悩ましいいジレンマがある。
 それは
指導力と人格とは必ずしも一致しないというジレンマである。

 例えば、私の知る学級経営の天才のひとりは、教員仲間としては極めて困ったガキである。
 ガキだからクラスの仲間(と言うのは実は生徒)の誰にも負けたくない。負けたくないから全力を尽くして自分の言うことを聞くクラスを創り上げる。
 担任の意のままになるクラス、勉強しろといえば勉強するクラス、イジメをするなと言えば絶対イジメをしないクラス、クラスマッチで努力せよと言えば最善の努力をするクラス、それは極めて優秀なクラスである。

 しかし同時に、彼はガキだから教員の中では極めて困ったトラブルメーカーなのだ。
 子どもをきちんと育てているから親ともうまく行っているが、普通の教員がまねをすれば確実に顰蹙を買う危険な言葉が、保護者にも投げかけられる。そばにいる者は気が気ではない。しかしなぜかすべてがうまく行っている。


 私の知る部活の天才は、体罰こそしないもののその言葉遣いは人権の「じ」の字も知らない者と同じ乱暴さである。
 しかし彼は県大会の常連であり、部活で子どもを伸ばそうと考える保護者の絶大な人気をはくしている。いうまでもなく、その人気は、子どもたちが勝ち続けている間だけのあだ花であると思うが、しかし彼は負けない。

 もちろん人格的に問題がなく、かつ指導力が優れていれば一番いいのだが、そんなスーパーマンだけで100万人近い教員の枠を埋めきることはできない。

 この市立高校の男性教諭(52)がどれほどの体罰を行ったかは分からないが、京都市がひとりの優れたバレーボール指導者を失ったことだけは確かだ。そして今後もこういったことは続いていくだろう。

 これだけ教員の綱紀是正が叫ばれる時代、今求められるのはできるだけ失点の少ない教員である。
 アクの強い教員は、個性の強すぎる教員は生き残ることはできない。






 

 

2007.09.24

勉強:何のため? 東京の子、意義見いだせず
−−世界6都市で調査


毎日新聞 9月23日]


東京の小学生は「勉強が役に立つ」と考えている割合が低い−−。ベネッセ教育研究開発センターが実施した「学習基本調査 国際6都市調査」でそんな結果が出た。中国や韓国、米国など5都市の児童に比べて、勉強が将来の職業や収入、幸福な生活に結びつくと考える意識が薄く、学ぶことにあまり意味を見いだしていない傾向が浮き彫りになった。【望月麻紀】

 調査は06年6月〜07年1月に東京、ソウル、北京、ヘルシンキ、ロンドン、ワシントンDCで実施。各都市の10〜11歳(国内では小5)計約6000人に、学校を通じて回答してもらった。

 勉強の効用についての設問は(1)一流の会社に入る(2)お金持ちになる(3)出世する(4)社会で役立つ人になる(5)心にゆとりある幸せな生活をする(6)趣味やスポーツなどで楽しく生活する(7)尊敬される人になる(8)よい父、母になる。それぞれについて勉強が役立つかどうかを聞いた。

 ■「役立つ」最低 

 東京の児童は全設問で「役立つ」と肯定した割合が6都市中最も低かった。特に(1)〜(3)でその傾向が顕著で、勉強を出世や収入など社会的な成功の手段と考える傾向が低い。最も肯定率が低かったのは(2)「お金持ちになる」42・6%だが、東京、北京以外では70%を超えた。

 価値観や社会観を問う「一流の会社に入ったり、一流の仕事に就きたい」「わが国は努力すれば報われる社会」という設問でも、東京の児童の肯定率は他都市より10ポイント以上下回った。

 ■平日平均101分

 一方、学校以外の平日学習時間(塾を含む)は東京は平均101分。ソウル、北京に次いで長い。しかし、同センターの調べでは、中学受験をする子は平均156分、受験しない子は平均54分で、その差は3倍。児童の4割弱を占める受験予定者が、平均学習時間を押し上げているといえそうだ。

 学習上の悩みは各都市でばらつきがあった。6都市中、東京の児童の選択比率が最も高いのは「どうしても好きになれない科目がある」60%、「上手な勉強の仕方が分からない」30%だった。一方、選択比率が6都市中最低だったのは「親の期待が大きすぎる」17%。「覚えなければならないことが多すぎる」はソウル、ワシントンDC、ロンドンに次いで4番目で35%にとどまった。

 ■進む二極化

 調査企画・分析メンバーの一人、耳塚寛明お茶の水女子大大学院教授(教育社会学)は「東京ではいわゆる詰め込み教育からの脱却がひとまず成功したようだ。だが、勉強をする層としない層に二極化が進み、学習行動に格差社会の影がうかがえ、競争は極地的に激しくなっている。受験以外の学習の効用を大人が子どもに示す必要がある」と指摘している。

 ◇大人の生活、影響か 楽しさ、親子で共有を もっと読書を

 勉強する意義を子どもたちにどう伝えればいいのか。識者に聞いた。

 数学者の秋山仁さんは「日本では、本も新聞も読まない親の生活に子どもが感化されて、『うまく世の中を渡ればいい』『運が良ければいい』と考えているのではないか。学びの原動力は好奇心。親や先生が楽しく学ぶ姿を見せれば、子どもの知的好奇心も喚起される」と話す。

 中3と小6の男児の母親でもある菅原ますみ・お茶の水女子大教授(発達心理学)は「将来的に勉強が何に役立つのかと子どもと話し合うのも大切だが、日常の中で学ぶのは楽しいと印象づけてみては」と提案する。「親は子どもが勉強しているかどうかを監視するだけではなく、中学生ぐらいまでは勉強の楽しさを共有することが大事。『習ったことがある』『面白そう』と声を掛け、子どもの語彙(ごい)や知識が増えるといった小さな変化を褒めてほしい」とアドバイスする。

 03年の経済協力開発機構(OECD)学習到達度調査で総合1位に輝いたフィンランドの家庭ではどうしているのか。在日大使館公使参事官のアヌ・サーレラさんは14歳と9歳の女児の母。「フィンランドでは、大人も子どもも図書館をよく利用する。祖父母世代を含めて家族間の贈り物も本が多い」。アヌさんが「おしゃれが大好きな典型的ティーンエージャー」と評する長女も本が好きで、8歳までアヌさんに読み聞かせをしてもらっていた。次女も自分から進んでよく本を読む。読解力世界一の土台には、大人の読書好きがあるようだ。


 今から30年以上以前の、いわゆる
高度成長期は「親と同じ生活を送りたければ親以上の学歴が必要」とされた時代である。したがって子どもたちは否応なく勉強した。
 
一流高校から一流大学へそして一流企業へという生き方は当時も馬鹿にされたが、それでもより豊かな生活を送ろうとすれば、特に才能のない者にはそれ以外の道はなかったのだ。

 しかし今はどうだろう?
 格差社会の登場というが、それでも
日本は世界で唯一社会主義経済に成功した国であり、この国でのし上がったとしてもタカが知れている。また、失敗したところでどん底まで沈むことはない(と子どもたちは思っている)。こうした国で「勉強が役に立つ」と納得させることは非常に難しい。
さらに言えば、勉強を出世や金儲けの道具とする考え方は、この国では終始回避されてきたものなのだ。
したがって、数学者の秋山仁も菅原ますみ教授も「勉強が役に立つ」という議論を回避する。
 日本では、本も新聞も読まない親の生活に子どもが感化されて、『うまく世の中を渡ればいい』『運が良ければいい』と考えているのではないか。

「将来的に勉強が何に役立つのかと子どもと話し合うのも大切だが、日常の中で学ぶのは楽しいと印象づけてみては」と提案する。

 教えないことはできないに決まっている。

 しかしそれにしても
 東京の児童は全設問で「役立つ」と肯定した割合が6都市中最も低かった。特に(1)〜(3)でその傾向が顕著で、勉強を出世や収入など社会的な成功の手段と考える傾向が低い。最も肯定率が低かったのは(2)「お金持ちになる」42・6%だが、東京、北京以外では70%を超えた。
北京と東京の児童・生徒、なかなか品の良い子どもたちである。







 

 

2007.09.28

渡海文科相「バウチャー制度」に否定的見解 教育再生会議、有名無実化?


産経新聞 9月27日]


 ■安倍前首相去り影響力低下

 安倍晋三前首相の肝いりで設立された教育再生会議が有名無実化の危機にさらされている。渡海紀三朗文部科学相は26日、第3次報告の柱の一である「教育バウチャー制度」について否定的な見解を示した。再生会議の存続は確認されたが、前首相の後ろ盾がなくなり影響力の低下は否めない。(慶田久幸)

 福田内閣が事実上始動した26日、町村信孝官房長官は、教育再生会議について「引き続き活動していただく」と述べ、福田内閣も教育再生を受け継ぎ、同会議の報告を実現していく姿勢を強調した。

 だが同日、渡海文科相は、学費を金券として保護者に支給し学校を自由に選択できる教育バウチャー制度について、「(学校が選択できず)もらっても使えないところも多いといった問題をクリアしないと活力は出ない」と発言。さらに「教育は市場原理にはなじまない。ひずみは社会の不安定を招く」と再生会議の方向性にも疑問を示した。

 一方、再任された山谷えり子首相補佐官は「再生会議の報告はどんどん実現している」と強調したが、道徳の教科化について中教審での議論が遅れており、「道徳の教科化が進まなければ再生会議として何らかの意見を出すことがある」と牽制(けんせい)もしている。

 日本教育再生機構の八木秀次理事長は「教育再生は福田内閣でトーンダウンするだろう」とみる。これまでも官邸主導の再生会議と文科省・中教審の力関係が、再生会議の報告の実現化に表れてきた。最も象徴的なのが道徳教科化の後退だ。

 今後、官邸が再生会議を支えていかなければ、教育再生議論は限定的なものや机上の空論になりかねない。「このまま3次報告を出しても政策化はあやしい」と八木理事長は危惧している。


【用語解説】教育バウチャー制度
 授業料に充当できる一定額の利用券(バウチャー)を行政が保護者に支給、児童・生徒が選択した学校に利用券を渡し授業を受ける仕組み。学校は受け取った枚数に応じて行政から補助金を受けるため、学校間で競争原理が働くとされる。



 産経新聞はもともと安倍前首相に近い方向で考えていたから、再生会議についても支持する論調が目立っていた。したがって、小見出しに
「教育再生会議、有名無実化?」と書くように、再生会議の影響力低下を恐れている。しかし、産経新聞が惜しがろうと、事実を精査しない上に立てられるどんな政策も、結局はダメである。

 さて、記事中、
「(学校が選択できず)もらっても使えないところも多いといった問題をクリアしないと活力は出ない」
というのは要するに、山奥の学校か何かで、教育バウチャーをもらっても他に通える学校がない、そんな学校がたくさんある現状で、バウチャー制度を立ち上げても意味がないということである。そして日本の場合、大都市圏以外のほとんどの学校が、
もらっても使えないところなのである。
 現実には「都会の子は自由に学校を選べるのに、田舎の子は現実問題として『選べない』」ということになってしまいかねない教育バウチャー制度は、教育の機会均等を定めた憲法にも違反しかねないことになる。
 教育バウチャー制度が真面目に論議されること自体が、私には理解できない。

 さらに(恥ずかしいことだが)、東京都品川区のように少規模の学校が過密であるような地域(品川を例に出すのは、この区が広く学校選択制度を採用しているからである)であっても、そこで
学校間で競争原理が働くというのが、私にはまったく理解できないのだ。なんで私たちはがんばるのだろう?
 
 
例えば、私の勤務する学校が地域の保護者・児童生徒から見離され、バウチャーの枚数がどんどん減っていったとしよう。その結果、行政の補助金はどんどん減らされて、新しい大型地図が買えない大型定規が使えない、割れたガラスの代わりが入れられない、冬の暖房が使えない・・・ということになったとして、果たして私たちが学校を盛り返そうと努力するだろうか?

 私たちが努力するとしたら、それは残った子どもたちが可愛そうだから、といった程度の動機でしかない。なんといっても私たちの給与はバウチャーと連動していないのだし、学校の再興に努力しても、そうこうしている間に転勤辞令が出てあっという間に別の学校に移ってしまうということも大いにありうることだからである。私立学校で、生活そのものが学校に縛られているなら別だが、所詮私たちは学校の渡り鳥である。今、住む巣に、それほど未練があるわけではない。
 
 また、ある学校からどんどん子どもが減ってバウチャーが減るとともに、教育条件が悪化してさらに転出にはずみがついたとして、
その時、教育委員会は瀕死の学校に援助の手を伸ばしてくれるだろうか?
 私は首をかけてもいいのだが、そんなことは絶対にない。
 
 児童数50人、100人といった小規模校が乱立するような状況は、財政にとってまったく望ましい状況ではない。どんな小さな学校でも校舎や体育館・プールといった基本的な施設は維持されなければならないし、校長も教頭も養護教諭も最低一人は置かなければならいからだ。
学校の統廃合は、財政難にあえぐ行政にとって天佑のようなものである。
 
 みんながバウチャー制度を使い始めると全体の学校数は極端に減って、政府の財政難に寄与することになるだろう。都会で成功すれば、田舎も黙っていない。学校をひとつ維持するよりスクールバスを一台動かした方がかなり安上がりだからだ。
 
 また、そうなれば私たち教員にとっても有利な状況が生まれる。
なぜなら教育バウチャー制度が十分に働いているにもかかわらず私の学校にいるということは、私の学校の生徒は皆私たちのやり方が気に入っているということだからである。嫌なら出て行けばいい。文句は言わせない。
 
 学校を中心とした地域社会が解体されなかったと言う意味も含めて、
教育バウチャー制度が見送りになったことは、国民にとってこそ良いことであったように思う。