「少子化なのに、なぜ教育予算が増えるのか」
来年度の国の予算に絡んで、素朴な疑問を読者から突きつけられた。
文部科学省によると、公立小中学校の児童生徒数は1989年度の1488万人から2005年度には1043万人まで30%も減っている。この間、小中学校にかかる費用は8兆6299億円から9兆977億円となり、5%増だ。
予算、授業時間の多寡 「ウラ」を見極めたい
しかし、教育費増加の最大の原因は、教員の給料のベースアップや平均年齢の上昇による。少子化でおのずと教員の定数も減るが、給料の<自然増>で1兆円規模の引き上げ要因になっているという。
少子化によって、一つの学校の規模が小さくなっている。しかし、単純に教員の数が減らせるわけでも、光熱費が減らせるわけでもない。学校にも効率が求められることは確かだが、そもそも、学校には、非効率な面があるものだ。「それがわかってもらえない」と教育関係者は嘆く。
教育を巡る数字には様々な誤解がある。
「日本の先生は、主要先進国の平均より、1年間に授業を持つ時間数が3割も少ない」
こんな数字が最近、財務省から示された。3割の根拠は、経済協力開発機構(OECD)の集計した05年の数字だ。最も多い米国だと中学校で1080時間に対し、日本は505時間で、3割少ないどころか半分にしかならない。こんなことは常識的にもありえないだろう。米国の数字は、休憩や昼食の時間も含んだ在校時間だという。
しかし、数字は独り歩きを始める。「3割少ない」は、識者による新聞原稿にも引用され、文科省がメールマガジンで反論する事態にもなった。
新しい学習指導要領を巡る議論でも、諸外国に比べて授業時間が少ないという議論があったが、かなりあいまいな部分が多く、単純に多寡を論じてはいけない。教育に限らないことだが、数字を根拠に議論するときは、説明する側は十分な説明が必要だ。それを利用する側も、細心の注意が必要なことは言うまでもない。特に国際比較は要注意だ。
OECDといえば、3年ごとに行われている国際学習到達度調査(PISA)で、03年に2位だった日本の子供の「科学的応用力」が、06年調査では6位に下がったと報じられた。当初は12月4日に世界同時発表されるはずだったが、スペインのメディアが勇み足をした。
もちろん1位になることはすばらしいが、オリンピックのメダル争いとは違う。現実はしっかり見つめなければならないが、数字を冷静に読む目も持ちたい。(中西茂)
文部科学省も読売新聞も調べてくれないので、仕方なく調べるのだが、
最も多い米国だと中学校で1080時間に対し、日本は505時間で、3割少ないどころか半分にしかならない。
に相当する数字は、以下の手順でしか分からない。
[文部科学省]→[公表資料]→[統計情報]→[図表でみる教育(Education at a
Glance)OECDインディケータ]→[D4 教員の授業時間数及び勤務時間数(Excelファイル)]
そこで1080時間と505時間を手がかりに調べると、「Net contact time in hours per year in public institutions」の項目に合衆国の1080時間と日本の505時間がある。
私は英語ができないので辞書と首っききで調べるのだが、「Net contact time in hours per year in public institutions」は「公的規定による年間インターネット接続時間」ということになるのだろうか?(ちなみに「Yahoo!翻訳」だと「公共機関の年につき数時間のネット接触時間」となる)。
しかしそれは違うだろう。netには「正味」という意味もあるから、できるだけ1年間に授業を持つ時間数に近い訳を考えると「公的規定による年間の正味接触時間」といったあたりかと思う。
しかしそれでも解せない。
日本の学校の平均登校日数はおよそ200日だから505時間といえば一日2.5時間しか教えていないことになる。
いや学校の授業時間(50分)の2.5時間ではなく時計での2.5時間だろう、そう考えても全部で3授業時間である。
一日3時間しか授業をしていない教員など、どこにいるのか?
米国の数字は、休憩や昼食の時間も含んだ在校時間だという。
といったレベルの話ではなく、そもそも日本の教員の授業時数が少なすぎるのだ。
そこで必死に考えて、私たちの世界で505に一番近い数字を探すと、ようやく思い当たるのが学習指導要領である。
そこに示された基準の授業時数のうち、いわゆる「主要科目(国語・社会・数学・理科・英語)」の総計がほぼ505時間になる(中学2年生で525時間)。
「図表でみる教育(Education at a
Glance)OECDインディケータ」の他の比較項目が授業日数だったり、登校する週の数だったりすることを考えると、ここで取り上げられている数字は「教員の実質授業時数」といった実体的なものでなく、制度上計算できる数値と考えた方がいい。そうなると「主要科目の授業時数」の比較と考えるのは無理ない方向のようにも思える。
そこには体育も音楽も技術家庭科も、105時間に及ぶ総合的な学習も35時間の道徳も入っていない。それらを全部はずすと、日本の教員は世界で最も授業をしていない人々になる。
ところで、教員の総労働時間の方はどうなっているのか?
それは実に簡単である。財務省が参考にした 「図表でみる教育(Education at a
Glance)OECDインディケータ」の「D4 教員の授業時間数及び勤務時間数」の、表の一番右の項目を見ればいい。
「Total statutory working time in hours」(全法定労働時間とでも訳すのだろうか?)では、
日本教員の労働時間は小中高校とも1960時間でダントツの1位。2位のハンガリーを100時間近くも上回り、世界平均より270時間あまりも多い(合衆国はデータなし)
のである。
これで世界一働かない教員と言われたのではたまらない。
文部科学省もしっかりと反論してほしいし、読売新聞も、
新しい学習指導要領を巡る議論でも、諸外国に比べて授業時間が少ないという議論があったが、かなりあいまいな部分が多く、単純に多寡を論じてはいけない。
などと曖昧なことを言っておらず、きちんと調べて記事にしてほしいものである。
2007.12.02
「生きる力も育っていない」
OECD調査順位下降
[産経新聞 12月4日]
経済協力開発機構(OECD)が4日に結果を公表した生徒の国際学習到達度調査(PISA)で、日本は再び順位を下げた。渡海紀三朗文部科学相も「ゆとり教育」の失敗を挙げた。学習への意欲、関心とも最低レベルで現行学習指導要領で重視されている「生きる力」も育っていないことが浮き彫りに。調査を実施したOECDのアンヘル・グリア事務総長は、日本は応用や活用に必要な能力を育てるよう示唆する。いずれにしても早急な対策が求められている。
■授業時間回復を
なぜ、日本の学力は下げ止まらないのか。
渡海文科相は授業時間、学習内容削減を進めた現行の学習指導要領に課題があったと言及しているが、東京理科大の沢田利夫教授(日本数学教育学会名誉会長)も「調査のたびに落ちていくのは、ゆとり教育で授業時間が減った影響であることが明らかだ。期間が長引くほどさらに低下するだろう」と、指摘する。
現行の指導要領の年間授業時間は小学校6年生で945時間、中学3年生で980時間。最も多かった時期は小6(昭和36〜54年度)で1085時間、中3(47〜55年度)は1155時間あった。算数は当時週6時間だったが、現在は約4時間、数学も4時間から3時間に減っている。
日本より授業時間が少ないフィンランドが前回に続き、最高位を獲得しているとはいえ、現状では授業時間の回復しか打つ手がないのが現状だ。
■方法、内容も大切
理科教育に詳しい東大の兵藤俊夫教授は「授業時間不足で応用も学んでいなかった。活用力を上げるには、教員が社会や生活上の疑問を提示するなど授業方法を改善しないといけない」とみる。
また、前々回調査(00年)の高1は、小1から理科を学んでいたが、前回の高1から小学1、2年は生活科になったことを指摘。「科学的な思考を習得するには理科を小1から学ぶべきだ」としている。
平成23年度から施行される指導要領では、中学の選択科目が事実上廃止されるほか、数学で2次方程式の解の公式が復活する。小学校では台形の面積の公式が5年に復活、確率の一部が中学から6年へ移るなど、学習内容が増える。
早稲田大の中島博名誉教授は、「大切なのは子供がじっくり答えを導き出す時間的な余裕をつくってあげることだ」として、内容の増加を疑問視する。
■生きる力伸びず
同時に行われたアンケートで、生徒の科学への意欲や関心、興味は参加国中最低レベルで、前回および現行指導要領で大きなテーマだった「生きる力」の具体的指標が高まっていないことが明らかになった。
今回の調査で、日本は記述や論述の問題で白紙回答が他国と比較しても多く、答えを導き出した過程を自らの言葉で説明できない生徒が多かった。
これまでの「丸暗記」型では「生きる力」は得られず、4日に都内で記者会見したグリア事務総長も「単に知識の記憶だけなら、多くの国の労働市場から消えつつある種類の仕事にしか適さない人材育成となっている」と苦言を呈した。
卑しくも国家百年の大計であるべき教育について語るのだから、少しぐらいは科学的な話をしてほしいものだ。
日本より授業時間が少ないフィンランドが前回に続き、最高位を獲得している
ということは、とりもなおさず授業時数は学力の決め手ではないということだ。
誰が考えてもそうだと思うが、理科大の教授言わせると、
調査のたびに落ちていくのは、ゆとり教育で授業時間が減った影響であることが明らかだ
となる。なぜだろう?
およそ科学者の言うべきことではない。
同時に行われたアンケートで、生徒の科学への意欲や関心、興味は参加国中最低レベル
OECDのアンケートについては今のところ手に入っていないから正確なことは言えないが、私の分析したTIMSS2003の経験からすると、成績上位の国は総じて勉強なんて楽しくないし、良くできるという自信ももっていない。「学問に王道なし」という故事に従えば、学問なんて苦しいに決まっている。それを乗り越えてがんばるからこそ、成果となって現れるものだ。
生徒の科学への意欲や関心、興味は参加国中最低レベルは事実にしても、他の国はどうなのか、学力上位国はみな興味関心・意欲にあふれて学習しているのか、そこを調べないとなんともいえない話である。ただしそれに関するデータはない。もしかしたらフィンランドやその他の国もみな意欲・関心や興味が薄いのかもしれない。そんなふうにもかんぐりたくなる。
さらに、
前回および現行指導要領で大きなテーマだった「生きる力」の具体的指標が高まっていないことが明らかになった
も、分からない。
「生きる力」というのは、それが定義された1997年の中央教教育審議会によると、
- 自分で課題を見つけ、自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、行動し、よりよく問題を解決する能力
- 自らを律しつつ、他人と協調し、他人を思いやる心や感動する心など豊かな人間性
- たくましく生きるための健康や体力
である。意欲や興味関心が無関係とは言わないが、今回の調査のどこを見たら「生きる力」が高まっていないといえるのか(2003年の調査では「問題解決能力」という項目があって日本は世界第2位であった。今回はその項目自体がない。これも不思議なことで、もしかしたら「問題解決能力=生きる力の核心」が1位になってしまったから隠されたということかもしれない、とかんぐりたくなる)。
こうしたことを平気で書ける産経新聞の見識を疑う。
さて、
それに比べたら、同じ4日のものでも、次の記事は遥かに優れている。
OECD調査1位のフィンランド、高学力の秘密とは 今回の国際学習到達調査で科学的活用力、数学的活用力でトップに立ち、前回(2003年)は3分野すべてで1位だった北欧・フィンランド。一体どのような教育が行われているのか。 フィンランドの人口は北海道とほぼ同じ520万人。1917年に帝政ロシアから独立。資源がなく国土が狭い弱点を克服するため、独立時から教育に力を注いできた。 科学や英語の勉強でも自分で考えて表現することを繰り返しているほか、厳しい気候風土で夜が長いため、家庭での読書の習慣が当たり前となっている。現在、GDP(国内総生産)の6・1%(日本は4・8%)を公教育に投入し、義務教育から大学まで授業料はかからない。さらには、教師は修士号が必要など「教師の質は高く、大きな裁量が与えられている」(駐日フィンランド大使館)ことも影響しているようだ。 高校時代に1年間フィンランドに留学した経験を『受けてみたいフィンランドの教育』(文芸春秋)につづった立教大2年の実川真由さん(19)は「生徒に対する教師の要求が非常に高い。PISAの問題に出るような自分の頭で考えて表現する授業をいつも行っているので、得点が高いのだろう。日本の教育が極端に劣っているとは思わないが、フィンランドの方が教育の質は高い」と指摘する。 こうしたフィンランドの教育を視察しようと、日本からは教育関係者が続々と訪れている。8月に視察した池坊保子文部科学副大臣も「教員の数と質が確保され、家庭教育もしっかりしているなど見習うべき点は多い」と述べている。 |
この記事の言う「OECD調査1位のフィンランド、高学力の秘密」を要約すると次のようになる。
- 科学や英語の勉強でも自分で考えて表現することを繰り返している
- 家庭での読書の習慣が当たり前
- GDP(国内総生産)の6・1%(日本は4・8%)を公教育に投入し
- 教師の質は高く、大きな裁量が与えられている
- 生徒に対する教師の要求が非常に高い
- 教員の数と質が確保され
- 家庭教育もしっかりしている
日本のGDPは2006年で511兆8770億円だから、その4・8%である教育予算24兆6000億円を、6・1%、31兆2000億円へ、つまり6兆6000億円ほど増やす。その金で教員の数を確保すること。
もちろん今後、教員はすべて大学院修了者とし、その上で大きな裁量権を与える。生徒への要求も大いに上げさせる。
教員には自分で考えて表現する学習を要求するとともに、家庭には読書と一般家庭教育を要求する。
つまり、こういうことをやればフィンランドと勝負できるようになるかもしれないのだ。
・・・・・・と書きながらようやく私も理解する。
先の記事の一部日本より授業時間が少ないフィンランドが前回に続き、最高位を獲得しているとはいえ、現状では授業時間の回復しか打つ手がないのが現状だ
は結局、
- 教育予算を増やすわけにはいかないから教員も増やせない(財政改革だから)。
- 教員採用条件を大学院終了にすると教員の確保もできない(都会では深刻な教員不足が始まるから)。
- 家庭に負担を求めるわけにはいかない(再生会議がやろうとしてコテコテにたたかれたから)。
だから現状では授業時間の回復しか打つ手がないということなのだ。
フィンランドに近づくすべての政策は打てない。
フィンランドの経験からするとまったく無意味かもしれないが、何かやらないと気がすまないから時数を増やす。・・・・・・それは
まるで第二次世界対戦中、航空機や軍艦を増やす代わりに竹ヤリを持ち出したのと同じ
である。
学校も児童生徒も死ぬほど苦労するが、これでは絶対に勝てない!
ところで、先の産経新聞に比べると遥かに優れたこの記事、どこの新聞社かと改めて見ると、これがなんともあきれたことに同じ産経新聞(4日付)なのだ。
右手のやることを左手が知らないということか・・・。
2007.12.13
教員OBも免許更新 人材確保へ対象拡大 中教審案
[朝日新聞 12月13日]
中央教育審議会(文部科学相の諮問機関)のワーキンググループは13日、教員免許更新制の導入に伴い09年度から始まる更新講習の運用案を明らかにした。(1)受講対象者として、現職教員だけではなく、教員としての勤務経験者を加える(2)教員のランク付けに利用されないよう、教育委員会が細かな成績を入手できないようにする――が主な内容。来春には、教員免許法の施行規則として文科省が公表する見通しだ。
過疎地の学校などでは急な欠員が出た場合、教員探しに苦労することがある。このため、過去に学校で勤務経験がある人も講習を受けて免許を更新できるようにすることにした。 また、講習を実際に行う大学などが修了を認定する際には、受講者に説明できるよう「60点未満は不合格」などと客観的に判断するよう求める。ただし、結果の公表は合否だけに絞り、教員免許を管理する都道府県教委が、細かな成績を入手できないことにした。更新制の目的が「指導力不足教員」の排除ではなく、教員に最新の知識を持たせることであることを明確にするためだ。
少子化にも拘らず教員の数は相対的にはあまり減らない。その原因のひとつは少人数指導やチームティーチング(TT)といった昔はなかった指導システムのためである。予算の潤沢な都会は知らないが、田舎の学校はではこの仕事の大部分を講師でまかなっている。
少人数加配もTT加配も大規模学級対策であって何らかの理由(例えばさらに児童・生徒数が増えて3クラスが、4クラスになってクラスの人数は減る)によって大規模学級が解消された場合、首を切らなければならない。正規の職員(教諭)ではそういうわけにはいかないから講師を当てるのである。
さらに、田舎では将来の児童・生徒数減少を見越して教諭の採用を控え、現在の必要数の一部を講師でまかなっている。これも将来首を切るのに楽だからだ。
また、産育休や病気(最近では特に心の病)による休業者の補充としての講師も、常に必要である。
過疎地の学校などでは急な欠員が出た場合、教員探しに苦労することがある。といった呑気な話ではなく、今でも講師探しは大変な仕事なのだ。
その意味で教員としての勤務経験者の更新講習受講は絶対に必要なことだった。今回中教審がそうした方向を打ち出したことは実に喜ばしいことである。
しかし、それでも不十分である。
普通の教員がはじめて免許を取る年齢が22歳と仮定しよう。すると10年目の更新期は32歳である。このとき教員としての勤務経験者でありかつ教員をしていない人とはどのような人であるか?
別の仕事に転職して、そちらで生きて行こうという人でないとしたら、それは結婚や妊娠によって職を離れた専業主婦たちである。職場結婚の多いこの世界で、彼女たちの多くは夫の仕事を支えるために職を離れた。しかし更新期のこの時期、彼女たちはいまだ子育ての最中であり、30時間という更新講習に耐えられない。経済的な面を考えても、とても余裕があるとはいえない人たちである。
よほどの支援のない限り、この人たちは教員免許を失う。
更新制のなかったこれまでは、この人たちが子育てを終えた後、講師の枠を埋めていてくれた。しかし彼女たちはやがていなくなるのだ。
医師不足に続いて、深刻な教員不足がこれから始まる・・・
2007.12.14
携帯使う小学生は優秀 塾通いで持たされるから?
[産経新聞 12月14日]
携帯電話を頻繁に使っている小学生の方が、持っていない小学生よりも学力調査の成績が良いことが13日、国の調査をまとめた東京都教育庁の報告書で明らかになった。都教育庁指導部では「塾通いの子供が防犯上、携帯電話を持たされているからではないか」と推察している。だが一方で、携帯電話の出会い系サイトなどを通じて犯罪に巻き込まれるケースの低年齢化も指摘されており、持たせるべきか、持たせざるべきか、保護者の間で論議を呼びそうだ。
調査は文部科学省が今年4月、全国の小学6年と中学3年を対象に行った「全国学力・学習状況調査」によるもので、10月に公表された結果を、都が特徴ある部分をまとめて発表した。
携帯電話での通話やメールを「ほぼ毎日している」児童と、携帯電話を「持っていない」児童の平均正答率を比較すると、国語A・算数A(知識問題)、国語B・算数B(知識の活用問題)の4種類の学力調査すべで、「ほぼ毎日している」児童の正答率が、0・5〜3%も高かった。
ただし、中学3年生でみると、「持っていない」生徒の平均正答率が「ほぼ毎日している」生徒よりも、0・9%〜6・2%も高かった。指導部は「中学になると携帯を持つ人が増える上、遊びで使うようになる傾向にあるのではないか」と推測している。
朝食を摂ることと成績、家庭学習の時間と成績・・・他にも重要な相関があったはずだが、よりによって携帯とは! 産経新聞はこれで何を言おうというのか?
東京都教委指導部も何をトボけて、塾通いの子供が防犯上、携帯電話を持たされているからではないかなどとわけの分からないことを言うのか?
塾通いと携帯との相関は証明されているのか? そもそも今回の状況調査で塾通いと学力の相関は明らかになったのか?
(少なくとも私の学校では塾と学力との間に相関はなかった。地域的に、学力に不安のある子が塾に通う土地なのでむしろ逆の相関に近いものが出たのだ。学力の低い者は塾に行っているという、ある意味で当然の結論である)。
ケータイの危険性については百も言われている。
私たちは、せめて高校生になるまではケータイを持たせまいと必死の努力を傾けているのに、産経新聞はあざわらうかのように「携帯使う小学生は優秀」だ。
やはりDoCoMoだのAUだのSoftBankモバイルだのから広告料をもらっている人たちにはダメなのかもしれない。
携帯電話会社の収入が減れば、新聞社の収入も減りかねない。子どもを犠牲にしてでも、ここは一番、クライアントにおもねっておこう、もう少し小学生にもケータイを持ってもらおうと、そんなところなのだろう。
2007.12.16
<教員定数>増員、一部容認へ 財務省検討
[毎日新聞 12月15日]
財務省は15日、08年度予算編成で文部科学省が要求している公立小中学校の教員定数増について、一部容認する方向で検討に入った。文科省は約7000人の増員を求めているのに対して、1000人規模の正規採用を認め、残りは教員OBなどを非常勤として採用する案があがっている。
公務員の定数の純減を定めている行政改革推進法は、教員定数を「07年度から5年間で1万人純減」と明記している。このため、財務省は「行革の流れに逆行する」と反対してきた。ただ、自民党などから、教育の質の向上のためには増員は不可欠との意見が強いことや、団塊世代の大量退職に対応して、教員OBを非常勤で再雇用する観点から、一部容認することにした。
09年度以降は大幅削減を求めることで行革法の目標は達成できると見込んでいる。【須佐美玲子】
その誤解がなぜいつまでも解けないのかナゾなのだが、本年度から始まるとされている団塊の世代の大量退職と、都会における教員の大量退職とは同じものではない。教員採用は各世代の人数に合わせて行うものではないからだ。
ただし、都会では高度成長期(1955年〜1974年)大量に都市に流れ込んだ人々の、最初の子どもが学齢期に達したのが1970前後なので、団塊の世代の教員の就職期(1969年〜1971年)と偶然一致した。
全国レベルで教員需要が高まるのは団塊ジュニア(1971年〜1974年)が学齢期に達する1977年以降のこと(*)である。そしてその際の就職者が定年になるのは8年以上先、2015年くらいからの話である。
そのころになって再雇用を心配してくれるならまだしも、団塊世代の大量退職に対応して、教員OBを非常勤で再雇用するなどと、都会の一部を可愛がるような不公平な政策は、ぜひともやめてもらいたいものである。
しかも非常勤というのは1年契約のことであり、さらに09年度以降は大幅削減を求めるとなるとお先は真っ暗である。こんな数あわせみたいないい加減な話は、もういい加減にしてもらいたい。
政府にとって、教育はもう完全な玩具でしかなくなったのかもしれない。
*ちなみに、教員数で言えば小学校教員が最大数であったのは1982年、中学校はその6年後の1988年、そして高校は、もちろん1991年である)
2007.12.19
<徳育>教科化に公明党が反対
与党の教育再生協議会
[毎日新聞 12月17日]
与党の教育再生協議会が17日、国会内で開かれ、公明党は、政府の教育再生会議が25日に公表する第3次報告に「徳育」の教科化を盛り込むことを検討しているのに対し、「生き方や価値観の検定につながる」と反対論を展開した。与党は実務者による検討会を設けて引き続き協議する。
徳育をめぐっては、今年6月の第2次報告で「新たな枠組みによって教科化し、多様な教科書を作成」すると明記した。中央教育審議会などに慎重論もあるため、政府の教育再生会議では第3次報告でも改めて提言すべきだとの意見が大勢となっている。【竹島一登】
賛成するにしても反対するにしても、とりあえず「道徳の教科化」ということの意味が分からない。
私だけかと思ってあちこちに聞いてみるのだが、私の周辺に理解できている人はいない。
教科化と聞いた最初は、中学校や高校で数学や英語のように「道徳」という種類の教員免許が発行され、各学校に専門の教員が配置されることかと思って大歓迎をした。道徳という人間の心や生き方に関わる大問題を、数学や英語の教師が学級担任だというだけの理由で片手間に行っておる現状は何とかしなければならない、と考えていたからだ。ところが緊縮財政の折、道徳の教科担任などというものは生まれようがないのだという。
次に、教科というからには成績がつくのかと思ってこれにはびっくりした。ウチの息子が道徳「5」をもらってきたらそれこそ宗教家にでも育てたくなる。しかし「1」だったら、これはとても生きてはいけない。厳しい教科になるなあと思っていたら、やっぱり消えてしまった。
そして残ったのは、国家の検定する教科書を使うということらしい。
しかし道徳の教科書は現在でもあるのだ。たとえば東京書籍の「明日をひらく」、教育出版の「中学道徳 心つないで」(http://www.kyoiku-shuppan.co.jp/prdct_index.htmlから検索)、光村図書「道徳 きみがいちばんひかるとき」 ・・・これらは副読本という名前で出版されているが、いずれもかなりの労作であって、私たちの多くはこれを利用して授業をすることが多い。
そしてさらに、私たちは膨大な道徳教材の蓄積がある。
今すぐに思い出せるものだけでも「たった一つの贈り物」「カーテンの向う」「電池が切れるまで」「五体不満足」「命の値段」「夜の地球」・・・こう書くだけで私たちが何をやっているか、分かるに人には分かるだろう。もしさらに知りたければ、ネット上からも調べることができる(たとえば教材研究の広場、あるいはTOSSランド検索窓に「道徳」を入れて検索)
さて、そうした現状に対して、世間や知識人はどう思っているのだろうか。
ここにひとつの興味深い記事がある。つい先日の産経新聞「正論」にあった次のような記事である。
【正論】京都大学名誉教授・市村真一 「徳育不要論」では日本が傾く 2007.12.12 02:43 産経新聞 (略) 徳育の強化には、適切な道徳教科書の作成が絶対に必要である。それ以外に、しっかりした徳育の方法がない。その内容であるが、幸い既に、日本にも外国にも子供が道徳をやさしく学ぶにふさわしい寓話(ぐうわ)や童話や教訓話は多い。イソップ物語、グリム童話集、アンデルセン物語、幼學綱要などなど。最近鳥居泰彦前中教審会長より頂いた福沢諭吉の『童蒙おしえ草・ひびのおしえ』も名著で「石をなげる少年とかえる」の話に始まる。それらをうまく取捨選択すればよい。かつての国定修身教科書もそうしたものだが、今ならもっと多様な面白い教科書がつくれよう。 先生は、そうしたやさしい道徳の教科書を、ただ生徒と一緒に謙虚に読めばよい。それは、親がいくつになっても子供に物語を読んで聞かせるのと同じで、そうして自分も復習する。「学びて時にこれを習う、またよろこばしからずや」。そこにおのずとできる先生と生徒の信頼関係が徳育のはじめなのである。 |
ただ生徒と一緒に謙虚に読めばよい。
それで授業ができる、それで子どもに道徳観が育つと思われていることが情けない。
結局、道徳の教科化というのは、今ある道徳を極端に狭め、貧弱なものにすることだということが分かる。
2007.12.20
教育再生会議:委員ら、小規模校の授業視察
全国学力テスト上位成績受け /秋田
[毎日新聞 12月20日]
秋田県が全国学力テストで全国上位の成績を修めたことを受け、政府の教育再生会議(野依良治座長)の委員らは19日、秋田市立下浜中学校(二田隆校長)などを訪れ、小規模校の学習への取り組み状況を視察した。
下浜中学校は1学年20人前後で、一つの授業に複数の教諭を配置する場合もある。委員はこの日、国語や数学など3授業を見学したのち、学校側との意見交換会に出席した。
意見交換会では二田校長が小規模校の利点について、「授業数が少ないので、教諭は他の授業を手伝える。全校体制での支援が可能だ」と説明した。
野依座長は視察後、「少人数教育で大変成果が出ている」と感想を述べた。さらに「規模が小さいと理想的な取り組みができる。子供たちに向き合う時間を作るのが教育の基本だ」と話した。
委員らはこれに先立ち、秋田市の国際教養大を訪問し、留学に必要な語学力を養う英語集中プログラムなど2授業を見学したほか、学生寮やカフェテリアを見て回った。【馬場直子】
野依座長は視察後、「少人数教育で大変成果が出ている」と感想を述べた。
ということだが、座長はどの部分に感心して帰ったのだろう?
秋田市立下浜中学校の少人数には三つの意味がある。
まず一クラスが20人前後しかいないということ(サイトで調べると、1学年17名、2学年15名、3学年25名である)
第二に、そのクラスに二人の教員が入る、ということ。
第三に、この学校がすべて単級で全校生徒数56名、フィンランドの平均的な学校よりやや多いといった人数であること、以上の三つである。野依座長はどの少人数について語ったのか、それも不明である。
さて、
「授業数が少ないので、教諭は他の授業を手伝える。全校体制での支援が可能だ」
これには説明が必要である。
たとえば、私は社会科の教員であるが、この教科の場合、年間の最低授業時間は1学年105時間、2学年105時間、3学年85時間と決まっている。学校は1年間を35週で計算するので、これを割ってみると1・2年生は週3時間ずつ、3学年は週2時間を基本として半分を週3時間の授業、ということになる。これ以上やろうとすると、他の教科を削らなければ週の中に納まらなくなる。
全校56名の下浜中学校であっても社会科の教員は1名は必要になる。ゼロというわけにはいかない。そこで授業を行わせてみるのだが、3クラスしかないから週8時間か9時間で社会科は終わってしまう。学級担任をして道徳を行っても1時間増、総合的な学習の担当者として3時間増、特別活動や選択教科を入れてもせいぜいが3時間増、最大で16時間にしかならない。
これが1学年3〜4クラスの学校となると全く違う。中規模以上の学校では、社会科教員は三つの学年で5クラス15時間の授業を受け持つことができる。それに道徳などをあわせると週の持ち時間は22時間ほど。1週は28時間(50分)だから、単純に計算すると、1日1時間しか空き時間が生まれない(1日だけ2時間空きの日をつくることができるが)。これが平均的な教師の「授業のない時間」である。この1時間に30人以上の日記を読み返事を書く。実に1分40秒にひとりのわりで書くのだからすさまじいものだ(だから私は文章を書くのが早いし、字は雑である)。
ところが下浜中学校の社会科教師は違う。
彼の空き時間は普通の2倍、週12時間もあるのだ。
1日に直すと、2・4時間。
もし学級担任を持たないと、実に19〜20時間の「空き」が出る。
ここに、授業数が少ないので、教諭は他の授業を手伝える秘密がある。
社会科の教師が数学の授業に出てもしかたないように思えるかもしれないが、そうではない。教科担任の教えたことがきちんとできているか見ているだけでも、意味がある。数学の苦手な生徒と一緒に悩んでいても意味がある。
さらに、生徒に何らかの生徒指導的問題が発生したら、授業に入るのを勘弁してもらい、その2・4時間で当該の生徒とじっくりと向かえ合えばいい。児童生徒と触れ合う時間を増やすというのはこういうことであって、授業が終わって生徒が帰宅したあとの教師を暇にしても、「触れ合う時間」は絶対に増えない。
おまけに、この規模の学校になると、校長も教頭も養護教諭も時間的余裕が生まれる。この人たちに授業をやってもらったりカウンセリングをしてもらったりすれば、学校はさらに落ち着き、勉強に向かっていける。
さて、野依座長は視察後、何を東京に持ち帰るだろう?
まさか、クラスの生徒数は20人以下でなければならないといったトボケたことではないと思うが(一クラス20名以下でも、学級数が多いと教員の余裕は生まれない)、再生委員会の考えることは分からない。
最悪の予想は次のようなものである。
「秋田県は古き東北地方の伝統と雰囲気を色濃く残しており、先生たちは粘り強く指導に取り組む。これが高学力の秘密だ!」
2007.12.22
小4男児、教諭の体罰で脳しんとう…神奈川・厚木
[読売新聞 12月22日]
神奈川県厚木市の市立妻田小学校で11月、4年生の男児(9)が担任の男性教諭(52)に後頭部を教卓に打ち付けられ、脳しんとうを起こしていたことがわかった。
市教育委員会によると、教諭は11月19日、男児が給食当番なのに廊下で遊んでいたため、腕をつかんで教室に引き入れようとした際、手を払われたことなどに腹を立て、男児の額をつかんで後頭部を教卓に打ち付けた。
男児は病院で診断を受け、翌日は大事をとって休んだが、以降は通学しているという。
教諭は担任を外され、「強く2回以上やったが、あとは覚えていない。してはならないことをしてしまった」と話しているという。
手を払われたことなどの「など」に私は興味がある。しかしそれが今後メディアに出てくることはない。
メディアは常に移り気で、男の子は今後も生き生きと学校に出かけ、52歳はおそらく、普通なら、辞職する。52歳にもなって切ないことだ。
ところで、その男の子、
給食当番なのに廊下で遊んでいたとなれば、腕をつかんで教室に引き入れられそうになったら、素直に従うべきだったということはないのか。
手を振り払うなんてことをしていいはずはない、小学校4年生のガキが52歳の大人に対してしていいことではない、ということはないだろうか?
この子は「叱られた時はどうしなければならないか」というスキルがない。大人に対してはまず引くべきだという習慣がない。
遊んでいることはボクのしたいこと、教室に引きずり込まれることはボクのしたくないこと、それがすべてだ。
果たして、それでいいのだろうか?
体罰は悪いに決まっているからそれで教員が処罰されるのは一向に構わないが、給食当番なのに廊下で遊んでいた子どもに対して、言葉で諭す以外、学校が手も足も出ない現状は何とかしなければならないと思う。
しかしこれについても、話し始めると「言葉で諭し、言葉で子どもにさせるだけのスキルを教員が持たなければならない」といった方向に話が進んでしまうからやっかいだ・・・。
2007.12.27
教育再生会議3次報告
徳育教科化、再び盛る
[産経新聞 12月26日]
政府の教育再生会議(座長・野依良治理化学研究所理事長)は25日、首相官邸で開いた総会で第3次報告を正式に決定し、福田康夫首相に提出した。社会人教員の増員や校長の権限強化、現在の学制「6・3・3・4制」の弾力化などの項目の実現を掲げ、6月の2次報告でも提言した徳育の教科化を再び盛り込んだ。
安倍前内閣時代の昨年10月に発足した再生会議は一通りの検討作業を終え、来年1月にも総括的な最終報告をとりまとめる。
首相は総会後、記者団に対し、「よくまとめてくださった。3次報告でまとまった基本的な考え方を、中央教育審議会(中教審)で具体化することになる」と述べた。
「社会総がかりで教育再生を」をテーマにした3次報告には、「学力の向上に徹底的に取り組む」などの7つの柱が掲げられた。
小中一貫校の制度化検討や小学校からの英語教育実施なども提言されたが、当初目玉となっていた、児童・生徒が自由に学校を選択し、その数に応じて学校に予算配分する「教育バウチャー(利用券)制」は、モデル事業としての実施を検討することにとどまった。
第3次報告は、採用者の2割以上を教員免許を持たない社会人とする▽徳育の教科化▽大学の授業の3割以上を英語で行う−などを求めているが、専門家からは賛否の声が上がった。
教員免許を持たない社会人を教員に採用することについて、日本教育大学院大学の河上亮一教授は「実現すれば教育現場の意識改革になるのではないか」とみている。教育学部を卒業した教員が多い現状よりも多様な人材が教壇に立つ方が活性化するとの考えからだ。
文部科学省によると、全国の小中学校の教職員は70万人おり、再生会議の報告通りにするなら総数で14万人の社会人を迎え入れなければならないが、河上氏とは対照的にある県の教育委員会幹部は「民間は善、公務員は悪という発想による提言だ。待遇面で教員は決して恵まれていない。優秀な人材が多数集まるとは思えない」と批判する。
道徳を「徳育」として教科化することについて、日本教育再生機構の八木秀次理事長は「実現すれば道徳の時間におかしな平和や人権などを教えることができなくなる」と歓迎。「教科書がないから道徳は形骸(けいがい)化している。教科書があれば何を教えるのかのコンセンサスが得られ、教育内容の水準が確保できる」としている。
一方で河上氏は「徳育を教科にするのなら、自分のためだけでなく、人のために尽くすことは大切だということを社会の共通認識にする努力が必要だが、現実的には難しい」と教科化には懐疑的だ。
大学の授業の3割を英語で行うことは可能か。
福島県立会津大学はコンピュータ理工学部の単科大学で、教員の4割が外国人。授業の多くは英語で行われ、卒業論文も英文だ。第2外国語をなくし、英語の時間を増やしている。同大は「コンピューターは米国で発展したもの。プログラムを理解するために英語に習熟することは不可欠な対応」と英語での授業の必要性を説く。
一方で、横浜国立大学の鈴木邦雄副学長は「3割の授業を行うのは大学院なら可能だろうが、学部で行うのは難しいのではないか。英語の授業を用意しても、学生が履修しなかったら意味がない」と話している。
再生会議の委員の一人、中嶋嶺雄氏が学長を務める国際教養大学(秋田県)はすべて英語で行う。しかし、英語に関心の高い学生が多く入学する一方で、授業についていけない学生もいるという。(櫛田寿宏)
終わって見れば尻すぼみ、教育再生会議は大したことはしなかった、というのが一般的な見方だろうが、学校に負わせた傷は深い。
「社会総がかりで教育再生を」をテーマにしたというが、
- 家庭教育に口を出せば「余計なお世話だ」とばかりに叩かれ、
- 教育予算を増やして教員を増やせと言えば、聖域なき構造改革に聖域をつくって叩かれるのはイヤだと政府に逃げられ、
- 企業を向かって「親を早く家に返せ、そのために夜は仕事をやめよ」とはとても言えず、
「オレ、やだよ。そんなことアイツにやらせればいいジャン」とみんなが言うのは、まさにイジメの構造であって、結局「社会総がかりで」学校を叩いたということだ。
こんな人々から「学校はなぜイジメを解決できないのか」などとは言われたくないものである。
さて、
採用者の2割以上を教員免許を持たない社会人とする
これから深刻な教員不足が始まり、免許を持たない人にも教員になってもらわなければならない大都会は別にして、日本の大半である「地方」ではいまだ教職は難関である。社会で働きながら、あるいは何年も講師(臨時の教員)をしながら本採用を目指して教員採用試験を受け続けている人がいくらでもいる。その人たちの枠を2割も削って、免許を持たぬ人に分け与えるというのは、まさに民間は善、公務員は悪という発想による提言としか言いようがない。
その上待遇面で教員は決して恵まれていないから、結局社会でもたなかった人がこの枠の中にはいってくるしかない。会社に不満のある者、企業からはじかれた者がこの枠を目指す。
しかしそれよりも考えやすいのはニート・フリーター対策としての社会人枠だ。
もちろんニート・フリーター対策は必要だが、「教員免許を持っていないことが条件」であるこの社会人枠で教員になる人は、教育心理学も教科教育法も学ばず、教育実習さえ受けたことのない人たちなのだ。昨日までコンビニで働いていた人が4月第1週から教壇に立ち、あの有象無象40人近い集団を取りまとめていく。これでは、恐怖しないほうが正常ではない。
その上で、職員たちが守れ、支えろと言ったってできる相談でもない。
職員はまだしも、ド素人の教員に1年間面倒を見てもらう児童生徒と保護者は、残酷なほど不幸だ。
再生会議にすれば、学校教育なんてド素人でもできる容易な仕事かもしれないが、現場はその「容易な仕事」が普通にできないほど苦しんでいる、その現状を再生会議は見ない。
道徳を「徳育」として教科化することについてや大学の授業の3割を英語で行うことも、現場に当てはめて見ればどれほどアホなことか、言えば切がないのでこの辺でやめておくが、結局再生会議とは、教育のド素人が集まり、ド素人の意見を組み入れ、ド素人の受けを狙って日本の学校教育を潰した、歴史に残る悪政会議だったと言うしかないだろう。
やりきれない・・・。
平成18年度に精神性疾患で病気休職した公立学校教職員は4675人で前年度より497人増加し、14年連続で過去最多を更新したことが28日、文部科学省のまとめで分かった。懲戒処分や訓告などの処分を受けた教職員も前年度比445人、10・9%増の4531人に上り、過去10年間で2番目に多かった。昨秋に発覚した未履修問題に絡む処分者が490人が全体の数を押し上げた格好だ。
2007.12.28
教員の「心の病」過去最多
公立校で4675人
[産経新聞 12月28日]
同省が毎年行っている教職員の懲戒処分に関する調査で明らかになった。
精神的疾患による病気休職は4連続で前年度比1割以上の伸びとなっており、病気休職者全体に占める割合も初めて6割を超えた。
文科省では「生徒、保護者、教員間での人間関係や、勤務の多忙化など複雑な要因が絡んでいるのではないか」としている。
未履修問題で処分を受けた490人のうち28人が懲戒処分となった。最も厳しいのは過去にも未履修があった広島県で校長ら2人の減給。処分者数が最も多かったのは、道立28高校で発覚した北海道の96人だった。
文科省では「厳正な処分を求めた方針を踏まえ、地方の現場が対応をとった」としている。
処分者(当事者責任のみ)4531人のうち、セクシュアルハラスメントを含めたわいせつ行為は190人で前年度比48人増。過去10年では15年度の196人に次いで多く、再犯者が7人いた。処分者は40歳代が最も多く43%、対象は自校の生徒が42%を占めた。内容は「体に触る」が3割で最も多かった。
そのほか、交通事故2390人▽未履修490人▽体罰424人▽国旗掲揚、国歌斉唱の取り扱い98人▽公費の不正執行や手当の不正受給25人▽争議行為17人−など。
これとは別に監督責任を問われた校長や教頭らは1093人で、処分者数は計5624人。このうち懲戒処分は、監督責任を問われた205人を含め1364人だった。
心の病を含む休職者や処分者の人数を記した記事を取り上げることも、このサイトの年中行事となった。
子どもの心の傷とトラウマに関する記事は繰り返し書かれるが、教員の心の傷は年に1回、文科省が毎年行っている教職員の懲戒処分に関する調査の際に振り返られるだけである。
平成18年度に精神性疾患で病気休職した公立学校教職員は4675人、懲戒処分や訓告などの処分を受けた教職員も(中略)4531人、合わせて9206人は全公立学校教員のちょうど1%にあたる。このうちどれほどの人が現場に戻り、生き生きとした教員生活を送ることができるのだろう?
精神性疾患の休職者たちの多くが難しいだろう。一度は戻れても再び休職する例が少なくない。
体罰の424人もおそらくダメだ。彼らはもう十分ズタズタになっている。
わいせつ行為の190人は戻ってこなくてもいい。
しかしこの人たちにしても、もっと生き生きと生きられる場だったらこうはならなかったのかもしれない。
未履修で処分された人たち。
生徒のニーズに応えようとしたばかりに人非人のように言われたこの人たちの一部も、おそらく戻ってこない。
そう考えると溜息もでるが、私の心の別の一部ではまったく異なる言葉が渦巻いている。それは次のようなものだ。
「もっと多くの教員が倒れなければならない。もっと多くが入院しなければならない。
もっと多くの教員が処分され、自殺し、この世界から去っていかなければならない。
それ以外に学校の窮状を社会に知らせる方法はもうないのだから………」
1997年以来増加の一途をたどっていたニューヨーク市立学校の校内暴力被害が、このほど発表された2005年調査で8年ぶりに減少に転じた。かつて全米有数の犯罪都市だった同市も近年は凶悪事件が減少。ブルームバーグ市長が推進する治安対策の効果が教育現場にも浸透している証左だが、銃を校内に持ち込んでいる実態も明らかとなり、決して安全とは言い切れない状況だ。
2007.12.29
NYの校内暴力、8年ぶり減少=「危険だから欠席」9%も
[時事通信 12月29日]
同市保健・精神衛生局が13〜19歳の公立学校生徒を対象に実施したアンケート結果によると、校内暴力の被害に遭った割合は03年の18%から05年は14%へと減り、全米平均に並んだ。
ただ、校内への武器持ち込み経験は7%と01年以降ほぼ横ばいで、「学校に銃を持っていった」との回答も4%あった。ささいな言い争いが殺人や傷害事件に発展する可能性が高く、05年中の校内暴力による死者数は60人に達した。
このため、「安全でない」ことを理由に学校を欠席したことがある生徒の割合は9%を占め、特に黒人女子は12%と他の人種に比べて多かった。同市ブロンクス地区の元教員は「(日本人には)想像できないほど劣悪な環境だ」と話している。
教員評価,学校評価、学校マネージメント、教育バウチャー、学校の自由選択制、大学の自己点検自己評価、危機管理システム、カウンセリング、説明責任・・・・・・私たちはアメリカの進んだ教育からたくさんのものを学び、制度として取り込もうとしているが、現実の学校教育の様子をみると、何ほどのことかと思う。
学力の国際比較をみたってアメリカの方がずっと下じゃないか・・・
しかし教育再生会議 第1次報告のいうように『「公教育の機能不全」と言っても過言ではない』状況では、アメリカを目指すしかないのだろう。
しかしやはり素直になれない。
現実の学校教育の様子をみると、何ほどのことかと思う。
学力の国際比較をみたってアメリカの方がずっと下じゃないか・・・
何が哀しくて、日本をアメリカにしなければならないのか。