キース・アウト
(キースの逸脱)

2008年5月

by   キース・T・沢木

サルは木から落ちてもサルだが、選挙に落ちた議員は議員ではない。
政治的な理想や政治的野心を持つ者は、したがってどのような手段を使っても当選しておかなければならない。
落ちてしまえば、理想も何もあったものではない。

ニュースは商品である。
どんなすばらしい思想や理念も、人々の目に届かなければ何の意味もない。
ましてメディアが大衆に受け入れられない情報を流し続ければ、伝達の手段そのものを失ってしまう。

かくして商店が人々の喜ぶものだけを店先に並べるように、 メディアはさまざまな商品を並べ始めた。
甘いもの・優しいもの・受け入れやすいもの本物そっくりのまがい物のダイヤ
人々の妬みや個人的な怒りを一身に集めてくれる生贄
そこに問題が生まれれば、今度はそれをまた売ればいいだけのことだ。
















 



2008.05.01

文科省と財務省が教育支出で衝突
教育支出に数値目標GDP5%
「先進国並みに」「方法は他にも」


読売新聞 5月1日]


 文部科学省は、教育支出額を今後10年間で国内総生産(GDP)の5・0%まで引き上げるという数値目標を、戦後初めて国が策定する「教育振興基本計画」に盛り込む方針を決めた。
 これまで国の財政事情に配慮し、数値目標には消極的だったが、先進各国に水をあけられていることへの危機感から方針転換した。しかし、財務省は支出拡大には慎重姿勢のまま。6月にまとまる「経済財政改革の基本方針」(骨太の方針)も見据え、文科省を後押ししようと、河村建夫元文科相ら自民党文教族議員が1日午前、首相官邸を訪れ、数値目標を入れるよう要請するなど政治闘争の様相も帯びている。
 文科相の諮問機関「中央教育審議会」が4月18日にまとめた教育振興基本計画の答申では、「欧米主要国と比べて遜色ない教育水準を確保すべく、教育投資の充実を図ることが必要」という文言を入れただけだった。
 一転して、文科省が打ち出したGDP比5・0%という数値は、経済協力開発機構(OECD)諸国が教育支出にかけている公的資金の平均値。日本は現在3・5%で、日米の大学生を比較した場合、一人あたりの公財政支出(年間)は、日本の67万円に対し、アメリカは106万円と39万円の開きがある。
 中教審の審議では「教育投資の充実は国力の維持・向上に最低限必要」(安西祐一郎慶応義塾長)といった意見が相次いだが、財務省との事前折衝で数値を入れることを拒まれて断念。自民党文教族からは「この答申では教育水準は上がらない」などと強い不満があがっていた。
 文科省は財源として道路特定財源の一般財源化や税制改革に期待しており、実現すれば全国の教員も5年で2万1000人増やすことが可能になる。
 しかし、4月30日に自民党議員約20人と面会した額賀財務相は「教育への投資も重要だが、投資より効果が上がる方法もあるのではないか」と慎重で、先行きは不透明だ。



 GDP比3・5%というのがどれほど惨めな数字かというと、OECDの調査対象国29カ国中28位にあたる割合なのだ。これより低いのはギリシャしかない(2004年)。
 先進国について言えば、ドイツ4・3%、イタリア4・4%はやはりOECD平均より低く、イギリスはちょうど平均の5・0%。アメリカ合衆国が5・1%で平均をほんの少し上回り、フランスが5・7%とかなりいい数字を出している。そして日本がよだれをたらして羨ましがるフィンランドは29か国中4位、実にGDP比の6・2%も支出しているのである。ざっと1.77倍である。
 もともと教育にかける政府や国民の情熱が違うのだ。

 
しかし、4月30日に自民党議員約20人と面会した額賀財務相は「教育への投資も重要だが、投資より効果が上がる方法もあるのではないか」と慎重で、先行きは不透明だ。
 
 もちろん政府も文科省も本気で取り組んでいる。

世界のブービー、先進国の中ではダントツ最下位の教育予算をもって、世界トップの学力を獲得する方法


 それは全国学力学習状況調査によって地方自治体を競わせること、
 レベルの低い普通の教員の給与を削ってその分を優秀な教員に分けること、
 10年後との免許更新、
 学校自己評価、
 教員評価
 ………総じて、学校と教員を叩くことによってそれは果たせるのだ。
 
 60年以上昔、圧倒的な軍事力と経済力に勝るアメリカに戦争を仕掛けるに際し、最も期待されたのは日本人のマンパワーだった。兵士を鍛え、最前線に突き出せば、必ずアメリカに勝てるはずだった。まさか兵士が続々と死ぬなどとは、だれも考えなかった(のかもしれない)。

 60年後の今、額賀財務相を始めとする政府の人々は、教師を鍛え、恐怖と報酬によって教育の最前線に突き出せば、必ず世界一になれると思っている。
まさか情熱をもった教師たちが次々といなくなるとは、誰も考えていない。
 
 
 



 



2008.05.05

高齢化”するひきこもり 40代以上も
都への相談で判明


産経新聞 5月5日]


 東京都が開設したひきこもり電話相談の対象者のうち、17%が40代以上で占められていることが5日、都青少年・治安対策本部の集計でわかった。都は15〜34歳の若年者層を対象にひきこもり対策を進めているが、40代以上は「全く想定していない」(同対策本部)と困惑気味。対象者のうち30〜40代以上と10〜20代の割合も同じで、若年層に多いといわれるひきこもりが、実際には“高齢化”していることが浮き彫りとなっている。
 都は昨年7月、ひきこもり専用の電話相談窓口を設置。今年3月までに本人や家族から寄せられた相談件数は延べ1190件で、このうち性別や居住地を申告して相談窓口の利用登録を行った対象者773人のうち、40代以上が17%、30代が29%、20代が34%、10代が12%(不明8%)だった。内容は「職場不適応」などが目立つという。
 都は4月から不登校経験者や高校中退者を中心に全国初となるひきこもりを予防するための戸別訪問を実施、独自の「ひきこもり相談マニュアル」を作成するが、40代以上については「若年者層と同一にとらえることは不可能。今のところ対策は考えていないし、考えようがない」(同対策本部)と戸惑っている。
 都が2月に発表したひきこもりの実態調査によると、都内のひきこもりは約2万5000人。調査対象者は「15歳以上34歳以下」で、35歳以上の統計は存在しないが、30〜34歳が全体の43%を占めており、電話相談と同様に、若年層が多いという見方を覆す傾向が出ている。
 実態調査をまとめた明星大人文学部の高塚雄介教授は「若年者層のひきこもりは心理的葛藤(かつとう)が主な理由だが、40代以上は精神疾患の可能性があり、全く別物。年長者のひきこもりは昔からあり、かつては山にこもるなどしていたが、現代では家庭にこもるしかないのでは」と指摘している。



『引きこもりもすでに最高齢は30代』という報道があったのが10年近く以前。だったら
17%が40代以上で占められている
というのもまったく当然のことであり、むしろ
40代以上は「全く想定していない」

という都青少年・治安対策本部の対応の方が問題とされるべきだろう。

 しかしそれ以上に問題なのは、
 この40代を経済的に支えている親たちがやがて死に始めるということである。その時、この40代の引きこもりたちは公共の場に出てこざるをえない。
 ただし社会性を身につけてこなかったこの人たちは、おそらく路上生活者にもなれない。そしてその時、彼らは何を選択するのだろう。私たちはどのように彼らを支えていくことになるだろう。
 それが今から考えていかなければならない重要なテーマなのである。
 
  ところで、それにしても
 
年長者のひきこもりは昔からあり、かつては山にこもるなどしていたが
 ホントか?
 私はかなりの田舎に住んでいるが、子どもの頃から現在まで山に引きこもっている男の話など聞いたことがない。

 まさか平安・室町の時代の話でもあるまい。1600年ほど昔、中国では9年も壁に向かって座り込んでいたダルマ大師という引きこもりがいたという話も聞きたくない。
 






 



2008.05.06

「1」がつかない!? 公立中で通信簿の“インフレ”


産経新聞 5月6日]


 公立中学校の通信簿の5段階評価で、学校や地域の差が依然としてある。「相対評価」から「絶対評価」に変わり7年目を迎えるが、成績のインフレ傾向が目立ち、生徒の9割に「5」をつけるケースも。高校入試での不公平感を解消しようと千葉県や熊本県は独自の内申補正制度を導入。新しい学習指導要領実施を控え、文部科学省は絶対評価制度の簡素化を念頭に、中央教育審議会で見直しを検討する。(小田博士)

■9割が「5」

 首都圏1都3県で教育委員会が公表している最近のデータなどを調べたところ、公立中学3年の9教科平均で「5」の割合は相対評価(上位7%)時代と比べ、千葉が3倍、東京と埼玉が2倍だった。

 千葉を例にすると、相対評価では3だったはずの平均値が、18年度に3・59に上昇した。

 特に保健体育や美術などの技能系4教科で上昇が目立っている。学校間格差も大きく、「最も甘い」学校は平均4・11だが、「最も厳しい」学校は3・11と、1段階の差がある。

 千葉県浦安市のある市立中では、「5」がついた生徒の割合は保健体育が89%、美術が74%、社会が69%、理科が59%。平均的な生徒でも計9教科のうち4教科で「5」がもらえる計算だ。生徒180人のなかで「1」がついた生徒は1人もおらず、「2」も各教科数人しかいない。

 成績の格差に保護者は敏感だ。和歌山県の市立小では昨年、2年生の1学期の通知表を配布後、「別のクラスより評価が厳しい」と保護者からの苦情を受けて、成績を書き換えたことが発覚した。

■成績補正

 成績評価の見直しも始まっている。

 熊本県では「絶対評価の公平性を高めたい」として18年度以降、一般入試(後期選抜)の制度を変更。調査書(内申書)の評定を学力試験の得点に基づいて補正する新方式を導入した。

 英語の3年間合計の評定が15の生徒の場合、同教科の学力試験で満点なら補正後の評定を18に加算し、0点なら10に減じる。

 千葉県は今春の入試から、独自の補正算式を用いて格差を是正し始めた。生徒の通う中学校の評定平均値が、県が設定する評定標準値より高ければ、その分を減じ、逆に低ければ加算する。「各校の絶対評価は尊重しつつ、相対評価には戻さずに公平にした。保護者からは理解されている」(県教委指導課)という。

 一方、大阪府は高校入試に使う調査書で相対評価を続けている。「一定の基準に達すれば合格する検定試験とは違い、定員が限られる高校入試は制度自体が相対評価だ。(絶対評価は)成績が全般的に上昇するので上位層は調査書で差がつかない」(府教委高等学校課)という。

■学力より態度?

 絶対評価について、文科省の調査(平成15年)によると、7割以上の中学教員が「入試にそぐわなくなった」「教員の評価活動が複雑になり余裕がなくなった」と感じている。

 文科省では、小学校で23年度、中学で24年度から完全実施される新学習指導要領に合わせる形で見直しをはかる考えだが、議論百出が予想される。

 愛知県内で学習塾を経営する教育コンサルタントの伊藤敏雄氏は、絶対評価について「テストが軽視され、仮に0点でも授業態度が良ければ『2』がつき、事実上『1』がない4段階評価に変わった。評価基準があいまいで教員の主観が入り、成績と学力が比例しなくなった。生徒の頑張り度合いと成績は分けて評価すべきだ」と話す。

 全日本中学校長会長を務める草野一紀・東京都新宿区立牛込第二中学校長は「絶対評価は子供が努力した過程を記録できるので存続すべきだ」としつつも、「成績を甘くつければ高校入試が有利になる制度はおかしい。均一的で客観的な評価基準を徹底すべきだ」と指摘する。

 森上教育研究所の森上展安所長は「学校の評定が『5』でも、塾のテストの偏差値は30台から60台まで割れる。通知表が信頼できない以上、各自治体は到達度テストを導入すべきではないか」と提案する。




 政府や文科省あるいは社会やマスメディアは正しかったのに、教師や学校がアホだったり不正だったとするから教育は間違ったという言い方は、もういい加減にして欲しい。そうしたやり口で、丁寧に教員の意欲を潰していくことに、どういう意味があるのか理解できない。

  • テストが軽視され、仮に0点でも授業態度が良ければ『2』がつき、事実上『1』がない4段階評価に変わった。
  • 生徒の9割に「5」をつけるケース
  • 公立中学3年の9教科平均で「5」の割合は相対評価(上位7%)時代と比べ、千葉が3倍、東京と埼玉が2倍だった。
  • 「5」がついた生徒の割合は保健体育が89%、美術が74%、社会が69%、理科が59%。平均的な生徒でも計9教科のうち4教科で「5」がもらえる計算だ。生徒180人のなかで「1」がついた生徒は1人もおらず、「2」も各教科数人しかいない。
 これらはすべて当たり前のことなのだ。
 なぜなら、
 絶対評価では「全員に『5』をつけるのが理想」
なのであり、
 もし『1』がつくとしたら、それは
 対象の生徒に何らかの障害があるか、
 まったく授業を受けなかったか、あるいは
 教師が意図的に授業をしなかった場合だけ

だからなのだ。

 美術は作品を提出すればそれだけで『2』以上でなければならない。音楽は歌っていさえすれば『2』以上のはずだ。
 どうしてそういうことになるのかというと、例えば、体育・陸上競技の評価規準を見ていればいい。


運動への
関心・意欲・態度
運動についての
思考・判断
運動の技能 運動についての
知識・理解
陸上競技の特性に関心をもち,楽しさや喜びを味わえるように進んで取り組もうとする。また,互いに協力して練習や競技をしようとし,勝敗に対して公正な態度をとろうとするとともに,練習場の安全や体の調子など,健康・安全に留意して練習や競技をしようとする。 自分の能力に適した課題をもち,その解決を目指して,練習の仕方や競技の仕方を工夫している。 陸上競技の選択した種目の特性に応じた技能を身に付けるとともに,その技能を高め,競技したり記録を高めたりすることができる。 陸上競技の選択した種目の特性や学び方,技術の構造,合理的な練習の仕方などを理解するとともに,競技や審判の方法を理解し,知識を身に付けている 。

(国立政策研究所)

 これを読んでから、普通の、まじめな、きちんとした子どもの体育の授業を思い浮かべてみればいい。それだけでもう、この子が最低でも「3」、おそらく「4」、もし運動能力の優れた子なら「5」が確実に取れることは、容易に想像できる。
 これは教員の主観の問題ではない。
 学校には国立政策研究所の評価規準よりさらに詳しい規準が整備されているはずであり、それにしたがって点数をつけると、ほとんどの生徒が「3」以上になっていくのである。

 さらに、学校の評価規準には「規準を十分にクリアしなかった生徒のための対処・指導法」が書かれることになっているから、教師は否が応にも「5」を目指さなくてはならない。
 
基本的に教師には児童・生徒を「5」のレベルまで引き上げる義務があるのだ。

したがって、
  • 学校間格差も大きく、「最も甘い」学校は平均4・11だが、「最も厳しい」学校は3・11と、1段階の差がある
  • 和歌山県の市立小では昨年、2年生の1学期の通知表を配布後、「別のクラスより評価が厳しい」と保護者からの苦情を受けて、成績を書き換えたことが発覚した。
という言い方は両方とも間違っている。。
 平均点が低い学校は「もっとも厳しい」学校ではなく、「最も力をつけていない」学校である
 非難すべきは
「別のクラスより評価が厳しい」ではなく、「他のクラスに比べ、ウチのクラスの子はしっかりと力をつけてもらっていない」である。
 また、求めるべきものも成績の書き換えではなく、授業のやり直しということになる。

 こうした絶対評価の導入を決めたのは政府・文科省である。それをほとんどもろ手を挙げて歓迎したのはマスメディアであったはずだ。そしてうまく行かないと言われ責任を取らされるのが学校と教師では、まったく理不尽である。






 



2008.05.24

4年で教職員2万5000人増 文科省原案


朝日新聞 5月23日]


 政府が初めてつくる教育振興基本計画に向けた文部科学省の原案の概要が分かった。2008〜12年度に教職員を2万5千人程度増やし、国内総生産(GDP)に占める教育への公的支出を今後10年で現在の3.5%から5.0%を上回る水準を目指す。
 文科省は23日にも各省に原案を示して協議を始める。財政支出を伴う数値目標には財務省が強い抵抗を示しており、閣議決定は早くても6月上旬にずれこむ見通しだ。
 文科省は原案に目標として「世界トップの学力水準」「子供の体力の1985年ごろの水準への回復」を目指すと記述。「幼児教育の無償化に向けて検討」「私学助成の充実」など、中央教育審議会(文科相の諮問機関)が4月に出した答申にはなかった表現も盛り込んだ。
 教職員定数で、新たに具体的な数値を加えた。来年度から段階的に実施される改訂指導要領を円滑に進めるため、(1)授業増への対応で1万3300人(2)英語、理科、算数・数学など、特に授業が増える教科での少人数指導のために8800人(3)小学校高学年で導入される「外国語活動」のため2400人――といった試算を根拠に増員を求めている。これを実現するには、地方負担とあわせ年間約1750億円の支出が必要になる。
 文科省はこのほか、教員が子どもと向き合う時間を増やすために約1万人の定数増が必要だと試算している。しかし、行政改革推進法で10年度まで教職員の削減が定められているため、この数値を基本計画案に書き込むことは断念。13年度以降に取り組む、としている。



文科省は本当に分かっていないのかもしれないと思うことがある。
教員が子どもと向き合う時間を増やすために約1万人の定数増が必要だと試算している。
というが、1万人増やすとどう「子どもと向き合う時間」が増えると考えているのだろう?

想像してみるがいい。
担任のほとんどは1日中児童生徒と授業を行っている。一人1時間程度の空き時間はあるが、それは日記を読んだり宿題をチェックしたりする時間であって休み時間ではない。給食の時間は「給食指導」の時間であり、これも休み時間ではない。授業が終わるとようやく一息つけるが、小学校では児童が帰宅してしまい、中学校の場合は生徒が部活に行ってしまう。

では現状で、教師が「子どもとじっくり向かい合う」としているとしたら、それはどのようにしているのだろう?
答えは簡単である。

自分のクラスを自習にしてその子と話しているのだ。

生徒指導は待ったなしだから他の子を犠牲にしてでもやらなくてはならない。しかし自習を繰り返していたのでは学力もへったくれもないだろう。

「子どもが学校にいる時間、普通の教師は授業を行っている」
この状況が解消されない限り、「子どもとじっくり向かい合う時間」は絶対に増えないのだ。

では、どうしたらその時間を増やせるのだろう?
これも答えは簡単である。
担任が「子どもとじっくり向かい合っている時間」他の教師が授業を行っていればいい。

具体的に言えば担任3人につき1人程度の余剰教員を配当しておき、普段はチームティーチングに入っていてもらい、いざというときには授業を行ってもらえばいい。そうすれば授業を犠牲にせず「子どもとじっくり向かい合う」ことができる。

それ以外に方法はない。

担任3人につき1人程度の余剰教員というのは、およそ26万人ほどの増員である。今回増やそうとしている25000人のほぼ10倍。


 現代の教育を語る人々の一部、それも相当に多くの一部は、60年前も今も子どもや子どもを取り巻く環境はまったく変わっていないと信じている。そして子どもに変化がない以上、学力低下の原因は教師の教育力低下以外に考えられないと頑なに信じている。
 彼らは教師を管理し叩くことによって、学力は必ず伸びるとこれも頑なに信じているが、それは無理だ。それより質を上げるよりは量を増やす方が絶対に簡単でしかも確実である。
 
 しかし予算上それができないとしたら・・・
 結局、私はあきらめるべきだと思う。
 
 学力は下がったとは言え、先進国中ではまだトップである。世界最低の教育予算でそれを達成しているのだからコスト・パフォーマンスは最高といえよう。

 これ以上何を望むのか?






 



2008.05.27

【主張】小3から英語 教える意義を明確にせよ


産経新聞 5月28日]


 教育再生懇談会(座長・安西祐一郎慶応義塾塾長)が、1次報告で小学3年からの英語必修化を目指すなど英語教育の抜本見直しを提言した。
 中学から大学まで10年間勉強しても身に付かない日本の英語教育は長年、見直しが求められてきた。
 だが、小学校から英語を必修化することには専門家でも賛否が割れる。小学校で何をどう教えるのかという意義を明確にし、国際社会で通じるコミュニケーション能力の充実を議論すべきだ。
 文部科学省の調査では既に小学校では97%の学校で総合学習などを利用して英語に触れる学習を行っている。平成23年度から完全実施の新学習指導要領では、小学5年から週1時間、英語活動が必修になることが決まっている。
 ただ新指導要領では小学校の英語は教科とは位置づけず、点数評価はしない。
 これに対し、1次報告では中国、韓国などが「日本の中学相当の英語教育をすでに小学校で行っている」とし、新指導要領よりさらに早期の小3からの英語必修化を打ち出した。まず5000校程度のモデル校で始めることを提案している。
 小学校の英語必修化に対しては、指導要領の議論でも当時、文部科学相の伊吹文明氏が「美しい日本語が話せないのに、外国語を必修化しても駄目」と発言するなど反対があった。
 英語教育の専門家を含め小学校からの英語への賛否はこうだ。賛成派は「10歳程度までの幼少期に英語を始めなければ身に付かない」と早期教育を訴える。慎重派は「根拠がない」とし、英語教育の素人が教える小学校の態勢では英語力向上につながらないと疑問視する意見もある。
 1次報告は、小学校から大学まで各段階の目標を立てた英語教育の強化を訴えるとともに、最終的に「日本の伝統・文化を英語で説明できる日本人を育成する」とうたっている。
 小学校では国語など基礎学力向上が急務だ。小学校の英語を進めるには利点や弊害を踏まえ、教えるねらいを明確にしたうえで、指導法を工夫し、中学以降の英語教育の充実につなげるべきだ。
 1次報告の提言でも示されたように日本を語り、情報発信できる人材が求められている。国際社会の中、自分の言葉で話せる人材育成に議論を深めたい。



10年間勉強しても身に付かな
かったのは英語だけではない。算数・数学も小学校1年生から12年間もやったのに身に着いたのは算数の8割程度。理科・社会にいたってはさらに悪く、体育は小学校時代にできたことさえできなくなっている。しかしそれで問題があるわけではない。
学んだものがすべて身に着くようだったら、私だって今頃教師などしてはいなかったはずだし、だから惨めな人生を送っているとも思わない。

中国、韓国などが「日本の中学相当の英語教育をすでに小学校で行っている」とて、それがナンボのことか。
それで中国12億人が英語で会話できるようになったというなら慌てるが、必要もない外国語を十全に使いこなせる国民など、おそらくどこにもいない。
中国や韓国がどれほど必死に学習させたとしても、使わない人の英語力は瞬く間に衰えるはずだ。ちょうど私たちが微分・積分の計算ができず、元素の周期律表を忘れてしまっているように。

さて、
小学校で何をどう教えるのかという意義を明確に
はまさに正論である。
素人が教える小学校の態勢では英語力向上につながらない

小学校では国語など基礎学力向上が急務だ。
も全くその通りだ。
第一、 週1時間程度の英語学習で何ができるというのか?

「日本の伝統・文化を英語で説明できる日本人を育成する」ためには、とりあえず、日本の伝統・文化を「日本語で」説明できる日本人を育成しなければならないはずだ。

国際社会で通じるコミュニケーション能力の充実を議論すべきだ。というのもいいが、それ以前に年間数回しか外国人と会うことのない田舎教師にとって、「国際社会で通じるコミュニケーション能力の充実」がどういう意味を持つのか思案して欲しい。

語学力の獲得はあらゆる学習の中でも、もっとも時間のかかるものである。
私としては、教員が英語の勉強をするよりも、指導力を高める勉強の方により多くの時間を割いて欲しいのだが、国も国民もそうは思わないらしいのだ。







 



2008.05.30

薬・投身・練炭…授業で自殺方法に言及 小学講師が謝罪


朝日新聞 5月30日]


 福岡県篠栗町の北勢門(きたせと)小学校(岩さき陽一校長=さきは山へんに立に可)で5年生の担任の男性講師(37)が授業で自殺の方法について言及した。学校側は29日夜に緊急の学級保護者会を開き、「教師として信頼を欠く言動だった」などと謝罪した。
 学校の説明によると、担任は28日、国語の授業の冒頭で自殺について触れた。「睡眠薬と多量のアルコールを一緒に飲むと死んでしまう」「投身や溺死(できし)、練炭を使うこともある」などと述べた。そのうえで、「みんなの誕生は多くの人の喜びの中で迎えられた。命を大切に力強く生きてほしい。自殺はしてはいけない」と自殺の防止を訴えた。
 担任は学校側に対し、「児童から『こわい話をして』と要望されていた。フリーアナウンサーの自殺を想起し、話した」と事情を説明した。
 児童から話を聞いた保護者が学校に問い合わせ、保護者会が開かれた。席上、担任は「児童に大変な不安を与えて不適切な発言でした。申し訳ありません」と謝った。校長は「教師として信頼を欠く言動だった。校長の指導不足です。再発防止に全力を尽くします」とした。


 この講師のどこが悪いか分からない私は、相当に人権感覚が狂っているのだろうか?
そのうえで、「みんなの誕生は多くの人の喜びの中で迎えられた。命を大切に力強く生きてほしい。自殺はしてはいけない」と自殺の防止を訴えた。
 これを立派な教師じゃないかと言ったら、大きな間違いなのだろう(よく分からないが)。

 硫化水素の作り方を教えたというなら問題も大きいだろうが、
「投身や溺死(できし)、練炭を使うこともある」
など、改めて話すまでもないほど当たり前のことだと思うがどうだろう?

 ただ、可能性として考えられることは二つある。
 ひとつは、報道された以上の具体的なことが語られたということ。
 もうひとつはこの事件に至るまでに、山ほどの問題が講師とクラスとの間にあったということである。

 いずれにしろ、
「睡眠薬と多量のアルコールを一緒に飲むと死んでしまう」「投身や溺死(できし)、練炭を使うこともある」
で全国ニュースになり、校長が
「教師として信頼を欠く言動だった。校長の指導不足です。再発防止に全力を尽くします」
と陳謝しなければならないとしたら、私たちは何も語れなくなってしまう。

一方でマスコミが、硫化水素の作り方に関する山ほどのヒントを出していると言うのに・・・・