キース・アウト
(キースの逸脱)

2008年9月

by   キース・T・沢木

サルは木から落ちてもサルだが、選挙に落ちた議員は議員ではない。
政治的な理想や政治的野心を持つ者は、したがってどのような手段を使っても当選しておかなければならない。
落ちてしまえば、理想も何もあったものではない。

ニュースは商品である。
どんなすばらしい思想や理念も、人々の目に届かなければ何の意味もない。
ましてメディアが大衆に受け入れられない情報を流し続ければ、伝達の手段そのものを失ってしまう。

かくして商店が人々の喜ぶものだけを店先に並べるように、 メディアはさまざまな商品を並べ始めた。
甘いもの・優しいもの・受け入れやすいもの本物そっくりのまがい物のダイヤ
人々の妬みや個人的な怒りを一身に集めてくれる生贄
そこに問題が生まれれば、今度はそれをまた売ればいいだけのことだ。
















 



2008.09.10

教育予算:日本、最低の3.4% GDP比、OECD28カ国中


毎日新聞 9月10日]


 日本の05年の教育予算の対国内総生産(GDP)比は3・4%(前年比0・1ポイント減)で、経済協力開発機構(OECD)加盟国中最低となったことが、OECDが9日公表した「図表で見る教育08年版」で分かった。04年はワースト2だったが、今回は前回最下位のギリシャにも抜かれた。OECD平均は前年と同じ5・0%。3・4%は88年の調査開始以来、日本として最低の数字。
 日本は加盟30カ国のうちデータが比較可能な28カ国で最下位。03年に最下位、02年もワースト2と低迷が続く。今回は小中高校に限ると、対GDP比2・6%でワースト3、大学など高等教育では、同0・5%で最下位だった。
 政府の支出全体に占める教育支出の割合は9・5%で、OECD平均の13・2%を大きく下回った。日本の教育支出は、私費割合が31・4%(OECD平均は14・5%)と高いのが特徴だが、公費と私費を足した教育支出の対GDP比も4・9%でOECD平均の5・8%と開きがある。
 OECDは「他国では教育支出が急上昇しているが、日本は教育以外の分野を選んで投資している。将来に向け教育にどう戦略的に投資するかが日本の課題だ」と指摘した。
 教育予算を巡っては、OECD平均並みにする数値目標を教育振興基本計画(7月閣議決定)に盛り込もうとした文部科学省に財務省が反発し、見送られた経緯がある。財務省は今回の結果についても「日本の子どもの割合はデータがある25カ国中最下位。1人当たりの教育予算は英米など主要国とほぼ変わらない」としている。【加藤隆寛】
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 ◇主なOECD加盟国対GDP比教育予算(%)

アイスランド  7.2
デンマーク   6.8
スウェーデン  6.2
フィンランド  5.9
フランス    5.6
イギリス    5.0
アメリカ    4.8
カナダ     4.7
オランダ    4.6
韓国      4.3
オーストラリア 4.3
イタリア    4.3
ドイツ     4.2
日本      3.4

 ※加盟国平均は5.0%




 ところで、日本に衝撃を与え、「地に落ちた日本の公教育」「学力崩壊」とまで言わしめたPISA(OECD生徒の学習到達度調査)2003での日本の成績はどうだったか、覚えている人はいるだろうか。
 答えは以下の通りである(いずれも40か国中)。

数学的リテラシー  6位 (28位) (16位) (19位) (31位)
読解力 14位 (18位) (17位) (21位) (29位)
科学的リテラシー 2位 (22位) (13位) (18位) (27位)
問題解決能力 4位 (29位) (13位) (16位) (31位)

なかなか立派なものではなか。

「日本の子どもの割合はデータがある25カ国中最下位。1人当たりの教育予算は英米など主要国とほぼ変わらない」
 というその「欧米の主要国」はどうなっているかと言うと、赤く書いた日本の順位後ろにつけたカッコの中がそれである(前からアメリカ、フランス、ドイツ、イタリアの順。イギリスは統計に出てこない)。

 さて、これだけ財政の逼迫した中で、教育予算だけを増やせとはもう言わない。言っても無駄だと分かった。しかし
1人当たりの教育予算は英米など主要国とほぼ変わらない
というなら、学力もまた英米並みに低下することを感受しなくてはならない。それが当然だろう。
しかし現在はまったくそうでない。
順位は多少落ちたとは言え、
日本の教育は現在も世界最高のコスト・パフォーマンスを保っているのだ。

 学力がそうであるように、社会の安全と安定も米英を圧している。その一部は、確実に日本の教育によっている。
97万人の教師たちが、その意欲だけで支えているのだ。

 にもかかわらず「学力崩壊」「安全神話の崩壊」と叩きに叩きまくって、マス・メディアは何をみすみす、今あるものを破壊しようとするのか?

 大阪府では橋下知事が公務員給与を1割カットし、「クソ教委」と学校教育の中核をこき下ろし、全国学力学習状況調査の結果を開示しろと恫喝を重ねている。そういうやり方で、大阪府は大変なものを失おうとしている。
 もしかしたら大阪を見れば、未来の日本が占えるのかも知れない。






 



2008.09.14

<学力テスト>知事主導に市町村波紋
成績公表巡り


毎日新聞 9月13日]


 全国学力テストの市町村別成績を公表すべきだ、と主張する一部の知事の動きが波紋を広げている。急先鋒の橋下徹・大阪府知事は、2年連続で低迷した府の成績に「なんだこのザマは」と激怒、一時は公表したかどうかで予算に差をつけることまで明言した。開示を要請された市町村教委の中には、今週にも公表を決断する教委が出る可能性もある。

 小中学校の4分類で34〜45位だった大阪府では、橋下知事が今月1日、「市町村別に結果公表すれば、どこの市町村教委が仕事をしていないかわかる」と述べ、公表論議が一気に高まった。

 知事に押された府教委は10日、各市町村教委の教育長らとの会議で公表を要請した。市町村教委からは「公表で何を期待するのか」「知事の真意を尋ねたい」などの反発の声が上がる一方、「府教委に背中を押された」と公表に前向きの姿勢の教委も。田尻町教委は19日にも公表の是非を決めるという。

 小学生が2年連続トップだった秋田県の寺田典城知事は「活用は県民の利益につながる。市町村教委が公表しないのなら、知事の責任で公表したい」と、自主的な公表を促す強気の発言に出た。さらに「(山村の)東成瀬村が中学でトップだった」と漏らす一幕も。同じ考えを持つ根岸均教育長らも、11日から市町村教委に説得行脚を始め、今月中に全25自治体を回る。しかし、「点数や順位ばかりが重視される」(湯沢市教委)と、市町村側には公表に慎重な意見が根強い。

 県情報公開審議会が市町村別と学校別成績の開示を答申した鳥取県でも、平井伸治知事が開示を求め、「積極的な市町村にはモデル的に予算をつける」とも発言した。

 文部科学省は競争過熱を警戒し、都道府県による市町村の結果公表を実施要領で禁じている。一方、市町村や学校は公表を許されており、全市町村が公表すれば自治体ランキングができてしまう。しかし、ほぼ全小中学校が平均正答率を学校のホームページで公表する宇都宮市などを除き、公表派は少数だ。

 「切磋琢磨(せっさたくま)はあっていい」と寛容な姿勢を見せていた鈴木恒夫文科相は最近になって懸念を表明。「不適切な競争激化が進むと調査の意義が失われる」「(補助金で差をつけることは)あってはならない」と述べた。

 一方で「知事たちの気持ちは分かる」とも発言。文科省には公表が進めば学力改善につながるとの考えもあり当面は静観の構えだ。

 
 
 低位の大阪が公表を求めるのは分かるにしても、学力トップの秋田までが公表を迫るとなれば、これはもうただではすまない。

 「公表で何を期待するのか」「知事の真意を尋ねたい」
 というように、知事側もどう
「活用は県民の利益につながる」
 のかを明らかにし、教委もまた
「点数や順位ばかりが重視される」
などと曖昧なことを言わずに何が問題かを明らかにすべきと思う。
 
 現場の意見を言えば、
「もうこれ以上責められたくない」というのが本当のところだ。
 
  図らずも秋田県知事と大阪府知事にはっきりさせたように、学力テストの成績は良くても悪くても成績アップの圧力が加わる。
学校はもう、何かを犠牲にせずにそれに答えるだけの余力がないのだ。

 ここ10年あまりを見ただけでも、
 総合的な学習の時間、絶対評価、食育、校内侵入不審者対策、不審者対策サポートチームの運営、学校評議員会、開かれた学校づくり、地域との連携、ゆとり教育開始のためのカリキュラムの編成、ゆとり教育見直しによるカリキュラムの作り直し、イジメ対策、不登校対策、モンスター・ペアレント対策
・・・と、昔はなかった大量の仕事を引き受けてきている。その上、果てしない学力競争に参加しろと言われても、応えられないのである。
 
 さて、秋田県知事、大阪府知事に私から知恵をつけてあげよう。
 
 市町村教委に学力テストの成績を公表させるのは、実は簡単なことなのだ。たったみっつのことを約束するだけでいい。

@ 自分の府県は学力日本一を目指して全力を尽くす。そのために他の項目(不登校対策やイジメ問題)で順位を落としたり問題が起きてもそれについては目を瞑る。

A 教員給与を上げ、それとともに最低20%の正規職員増加を10年間に渡って継続する。また教員給与を除く教育予算も最低20%以上増加する。

B 食育をはじめとする、国の文教政策のいくつかの項目について、自分の府県では明確に拒否して、これを行わない。

 
以上のことが約束されれば、各教委・学校は喜んで成績を開示するだろう。公表して責められても、成績を上げるメドがつくからである。

 以上、是非やっていただきたいものである。






 



2008.09.17

橋下府政 行き過ぎはないか? 教育委員会の中立性


産経新聞 9月16日]


 大阪府の橋下徹知事が全国学力テストの市町村別成績公表の先に見据えているのは、教育委員会制度の見直し論議を巻き起こすことである。
 法律的に知事や市町村長から独立した機関と位置づけられている教育委員会。橋下知事は「その中立性は守らなくてはならない」としながらも、「外部の批判にさらされない組織は消滅して当然だ」「教員出身の事務局員が結果公表に反対している」と繰り返し主張している。
 大阪府内の市で教育長を務めていた70代の男性はこんな手紙を寄せた。《どうしても教職員出身者は現場をかばうようになります》。
 教員出身ではなく、行政職として市教委に30年以上務めたという元教育長は《教育現場を守るのは当然だと理解していますが、「現場を知らないものは踏み込ませない」というガードのようなものを肌身で感じていました》と明かす。
 市教委の部長時代、勤務時間中の小学校教員がスーパーで買い物をしているという保護者からの電話があった。校長を通じてこの教員に事情を聴くと、「授業に必要なものを買いにいっていた」と反論され、「電話をした保護者はだれだ」と抗議まで受けたという。それでも《「現場を知らない者が…」という錦の御旗を前に、「保護者に誤解を与えることがないように」と言うのが精いっぱいだった》
 たしかに、教員の仕事は行政職とは大きく異なる。一朝一夕に成果が出るものではないし、数値で結果を示すことも難しい。「現場を知らない者」から教員を守ることは当然必要だろう。
 しかし、橋下知事が批判する「行き過ぎた中立性が招いた教員の独善」も教育現場にはみられるのではないか。
 現場の先生や教育委員会職員の方からの反論もお待ちしています。
(松)

 

 大阪府の橋下徹知事が全国学力テストの市町村別成績公表の先に見据えているのは、教育委員会制度の見直し論議を巻き起こすことである。
 産経新聞も同じなのだろう。

 しかし教委や教員が市町村別成績公表の先に見据えているのはすさまじい学校叩きである。

 市町村別成績が公表されれば、その次に起きるのは学校別の成績公表の圧力である。それは当たり前であって、1市全体が成績が悪い(あるいは良い)などということはありえない。だとしたら誰が悪くてこういうことになったのか、犯人探しは確実に始まる。


 学力成績全国一位の秋田県にしても、更なる成績アップの鍵は上位校の奮起ではなく、下位校の撲滅であることは最初から分かっている。
 成績の悪い市町村を炙り出し、成績の低い学校を炙り出して叩くことが、
 市町村別成績公表の先に見える、ほとんど唯一のことなのである。
 
  橋下知事らの思惑通り、壮絶な学校たたきにあった教師たちは、恐怖して学力向上に狂奔するだろう。
社会に叩かれた教委が学校を叩き、教委に叩かれた学校が教員を叩き、学校に叩かれた教員が子どもを叩くのである。(注:教育の世界で「学校」という言葉が出てきたときは、これを「学校長」と読み替えて対応する)。
 
 
そこでは道徳教育の根幹である学校行事や児童生徒会活動・学年行事は簡単に無視される。遠足も修学旅行も、廃止にはならないまでも極端に簡略化される。子どもたちは人間関係を学ぶ時間を犠牲にして、教師の恐怖を取り除くために働かされる。それでも成績が伸びなければ、あとは不正しか残っていない・・・。いつか通った道である。

 
世界最高のコスト・パフォーマンスを誇る日本の教育は、こうして潰れていくだろう・・・・・・と、そこまで考えて、私は驚くほど堪え性のない、意地悪な気持ちになる自分を感じる。

 私の家ではそろそろ子育ても終わろうとしている。まだ生まれていない孫が学校教育に関わるには、後10年以上の歳月が必要だろう。だとしたら日本の教育が一度完全に潰れるのを見るのも、悪くないかも知れない。よしや孫たちが崩壊した学校教育の場に身をおくにしても、それまでには十分に時間があるのだ。私の一族だけが良い教育を受ける仕組みづくりをする十分な時間は残されている。
 他が潰されれば、我が家の生き残りはさらに容易になる。

 
 さて、日本の教育が潰れるのを見に行こう。






 



2008.09.23

新教育の森:教育支出、鈍い伸び 少子化他国は上昇


毎日新聞 9月22日]


◇OECDデータ…1人当たり予算と「成果」の考察
 経済協力開発機構(OECD)がデータ集「図表で見る教育(08年版)」を公表した。各国のさまざまなデータを比較すると、日本と外国の教育に対する意識のギャップが浮かんでくる。【加藤隆寛】

 ◆対GDP比で最下位
 「残念です。この国は教育で発展してきたんだから」。今月12日の会見で、対国内総生産(GDP)比でみた05年の公的な財源からの教育支出(教育予算)が28カ国中最低だったことについて、感想を問われた鈴木恒夫文部科学相は顔をしかめた。
 教育予算は対GDP比3・4%で日本として過去最低を記録し、前年3・3%で最下位だったギリシャにも抜かれた。日本は、家計からの学費支出など「私費負担分」が教育支出に占める割合が31・4%(OECD平均14・5%)と高い。だが、私費負担分を含めた教育支出全体でみても、対GDP比は4・9%でOECD平均(5・8%)を大きく下回り、00年の水準(5・1%)からも低下した。
 教育予算を巡る議論では、OECD平均並みの水準を目指そうとする文科省に対し、財務省が「日本は少子化が進んでいる。1人当たり予算では主要国と変わらない」という反論を続けてきた。しかしOECDのデータからは、日本の1人当たりの教育支出の伸び(00年からの5年間)が他国に比べ、かなり鈍いことが分かる。少子化が進んでいる国はハンガリーやポーランドなど多数あるが、それぞれの伸び幅は大きい。
 OECD教育局は、少子化の進展に合わせて教育予算も減らしていくことの妥当性に疑問を投げかけ、「若者が少なくなっている時こそ、一人一人により高度な教育を受けさせていかなければ、他国と同じ成果を上げていくことはできない」と指摘する。

 ◆高い教員報酬は称賛
 教育局は一方で、「日本は『ベストパフォーマンス』が見られる国の一つ。学校制度が非常に効率的だ」と称賛している。これはどういうことなのか。
 日本はデータ上、(1)教員給与が高い(2)学級規模が大きい(3)授業時間が少ない−−という特徴がある。教育にかかるコストという観点で見れば、「(2)と(3)で引き下げたコストを(1)に振り向けている」ということになる。教育局は「報酬を上げ、職場環境を良くすることで質の高い人材が集まり、よい教育につながる。韓国などにも同様に見られる特徴」と分析する。
 日本では近年、少人数教育の方が高い教育効果を上げるという考え方が主流になっている。しかし、「イタリアやポルトガルの学級は小規模だが、よい学習成果を上げているとは言えない。他がまったく同じ条件下なら小規模学級の方が対応しやすいが、同じ金を投資するなら、教員報酬や指導時間を増やした方が高い効果が期待できる」というのが教育局の見解だ。
 しかし、留意すべき点がある。教育局が「成果」としているのは、国際的な学習到達度調査(PISA)の結果や、大学など高等教育機関の修了率。日本は中退率が突出して低く、修了率90%はデータがある19カ国中断然トップ(OECD平均は69%)だ。ただし、学位取得の難易度は考慮されていない。大学生の学力低下が問題視され、卒業認定の厳格化が議論されている日本で、修了率の高さを「よい教育の成果」とみることには無理があるだろう。

 ◇将来見据えて投資確保を−−OECD教育局のアンドレアス・シュライヒャー指標分析課長の話
 この10年、世界的に質の高い教育への需要が劇的に高まっている。しかし、日本の教育支出の伸びは、経済の伸びや他国の伸びに追いついていない。日本も決して教育支出が減っているわけではないが、他国はかなり急上昇している。日本が教育以外の分野を優先させる政策選択をしてきたことの表れであり、他国とは違ったトレンドを見せている。
 データが示す教育投資のメリットは、個人レベルなら「人生の後半でより高い収入を得ることができる」ということだ。公共部門では、例えば「高い税収が得られる」という点で、投資をはるかに上回るリターンがある。
 少子高齢化が進むと、医療や年金、社会福祉などへの支出のプレッシャーが高まる。社会を維持することだけでなく、将来に向けて教育への投資をどう戦略的に確保していくかということが、日本の課題になる。

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 ◇OECD加盟国の小学校の教育コストの比較(06年)
 ・給与は勤続15年教員の年収を1人当たりGDPで割った値
 ・学級規模は1クラスの児童数
 ・授業時間は9〜11歳対象学年の年間平均(必修のみ)
国名       教員給与(%) 学級規模(人) 授業時間(時間)
日本       1.54    28.3     774
オーストラリア  1.20    23.9     978
オーストリア   1.02    19.7     767
ベルギー     1.21     −−      826
チェコ      1.11    20.2     766
デンマーク    1.13    19.5     783
フィンランド   1.09     −−      640
フランス     1.01    22.5     887
ドイツ      1.57    22.1     782
ギリシャ     1.18    18.9     889
ハンガリー    0.82    20.0     601
アイスランド   0.79    18.2     792
アイルランド   1.19     −−      941
イタリア     1.01    18.4     891
韓国       2.29    31.6     703
ルクセンブルク  0.89    15.8     847
メキシコ     1.50    19.8     800
オランダ     1.15    22.4    1000
ニュージーランド 1.41     −−       −−
ノルウェー    0.67     −−      728
ポーランド     −−     20.1      −−
ポルトガル    1.58    19.0     854
スロバキア     −−     19.7      −−
スペイン     1.31    20.7     794
スウェーデン   0.88     −−      741
スイス      1.38    19.4      −−
トルコ      1.61    27.2     720
イギリス     1.31    24.5     900
アメリカ     0.97    23.1      −−
OECD平均   1.22    21.5     810
 ※「−」は比較可能なデータなし(カナダはいずれもデータなし)。ベルギーはフラマン語共同体の値、イギリス(学級規模除く)はイングランドの値を使用




 数字のマジックを使って、日本の教員がいかに恵まれているかを強調する詐欺は止めてほしい。


 例えば教員給与(給与は勤続15年教員の年収を1人当たりGDPで割った値)。
 日本の教員給与は1.54%。それに比べると、小国ルクセンブルグの教員はわずか0.89%、大国アメリカでも0.97%しかない。だから日本の教員は恵まれていると言いたいのだろうが、
日本で教員が高給取りとして有数の職業だという話は、つとに聞いたことがない。どうしてだろう?

 ここに数字のマジックがある。
 同じ06年のOECD統計で、日本の「ひとりあたりのGDP」はOECD30か国中18位の34252ドル、それに対してルクセンブルグはダントツ1位の89840ドルもあるのだ。
日本の2.6倍もの「ひとりあたりのGDP」で割ってしまえば、そうとうな給与をもらっていても、「その割合」は低くなってしまう
 同様にアメリカの「ひとりあたりのGDP」は43801ドル、日本の1.3倍である。

 数字上日本より「高給取り」であるドイツ、韓国、ポルトガル、トルコのうち「ひとりあたりのGDP」が日本よりも高いのはドイツだけで、それもわずか1116ドル差(1.03倍)で韓国もトルコも、あまりに小さな「ひとりあたりのGDP」によって、数字が高く出ているだけなのだ。

 実は、日本は「ひとりあたりのGDP」において、西暦2000年から06年まで、3位、5位、7位 9位、12位、15位、18位とすさまじい凋落傾向を重ねている。しかし、教員に限らず、日本人の給与はそれに合わせて低下したわけではないから、取り残される形で「給与」が伸びた形になっただけのことである。
 まとめて言えば、
「日本の教員給与は世界でも有数の高級だが、他の日本人もすべて高給取りなので、さっぱり高給取りの感じがない。日本の教員は自分たちが優遇されているとは思っていないし、実際に大切にもされていない」
 という、それだけのことである。
 毎日新聞記者氏も調べてみるといい。きっとあなたは「新聞記者として」は世界最高水準の給与をもらっているはずである。
 
 
 さて、もうひとつの数字のマジック、
 それは授業時間774時間である。
 
 私はこの数字がどこから出てきたのか分からない。
 学習指導要領によれば小学校5・6年生の授業時数は年間935時間である。全国のすべての学校が935時間はやっているはずなのだ。それが774時間とは・・・・。
 
 そこで考えられるのは、この「時間」が「授業時間(45分)」ではなく、「実質時間(普通の1時間)」ではないかということである。774を3/4で割ってみると、答えは1032時間。指導要領の935時間に余剰の時間を加えて1032時間はほぼ妥当な線だろう(ただし私の学校は授業日数時数ともに多く、年間の指導時数は1109時間である)。
 
 そして同じ方式で計算すると、フランスは1080時間、イギリス1200時間、オランダは1330時間になる。
 
 ところで、そうした時間を、いったい何日で消化しているのか?
 
 資料が十分でないが、日本の学校の登校日数はほぼ200日、オランダが200日、中国が230日であるのに対して、アメリカの2/3の州は180日に留まる。それぞれの国について総時数を総日数で割ってみると、日本は1日平均5.16時間、オランダは6.65時間、アメリカがイギリスフランス並だと仮定すると6.6時間となる。
 つまり
欧米諸国は毎日6〜7時間の授業をやっているのにも関わらず、日本だけが5〜6時間しかやっていない
 ことがわかる。ここに授業時数の少なくなる秘密があるのだ。
 
 私の学校では午後4時に子どもを家に帰す。それにあわせるとアメリカやオランダの学校は5時まで学校にとどめておくということになるが、そうではないだろう。ことに高緯度のオランダなどは、冬は真っ暗な中を子どもが帰っていくことになってしまう。
 では、どこで1時間の差が生まれたのか・・・。
 
 そこで私は思いつく。日本の場合、給食と清掃が邪魔をしているのだ。私の学校の場合、二つをあわせるとちょうど一時間半になる。清掃をやめて給食を弁当に代えれば、1時間の授業を生み出すのはまったく簡単である。
 
 日本の教員は欧米の学校が授業をしている時間に勉強もせずに、給食指導と清掃指導をしている。しかもそれを食育や勤労教育といった、道徳養育の一環だと思っている
そこが問題のだ。

 どうしても外国並みにしたければ、この二つをまずやめるべきだろう。

諸外国がそうであるように、道徳教育をやめて教科教育に切り替える、それが「日本の教師は仕事をしていない」という誤解を解く唯一の鍵

なのかもしれないのだ。
 
 ところで、私たちはなぜいつまでも格下のアメリカやイギリスと張り合わなければならないのか?
 学力の国際比較で日本より上位にあるフィンランドも韓国も、日本よりずっと授業時数が少ないというのに・・・。、
 
 





 



2008.09.27

男性教諭が隠し撮り(広島)


読売新聞 9月26日]


 三次市の市立吉舎中(前田篤秀校長)で、男性教諭(39)が、同校玄関にビデオカメラを設置して下校生徒の様子を隠し撮りしたことがわかった。生徒から「靴箱から靴がなくなった」と届け出を受け、監視のために設置したという。市教委は「不適切な行為で誠に遺憾。厳しく指導をする」としている。
 市教委などによると、男性教諭は今月9日、1年生の女生徒から届けを受け、11日午後4時ごろ、玄関の傘立て(高さ約70センチ)の上に同校備品のビデオカメラ1台を靴箱に向けて設置し、ぞうきんをかぶせて隠した。約40分後、不審に思った男子生徒が別の教諭に連絡し、隠し撮りが発覚した。男性教諭は「生徒や保護者らの信頼を損なう行為だった」と生徒や保護者らに謝罪しているという。
 前田校長は「指導熱心さのあまりとはいえ行き過ぎた行為。大変遺憾で申し訳ない」と陳謝した。



 学校でイジメや犯罪が起きた場合、学校はどんなことをしても解決しなければならない。
 それは被害者を救済することになるとともに、加害者救済の意味もある。
イジメも犯罪も必ずバレる、やればきっとひどい目に会うという経験を積ませてこそ、悪くなっていく子どもは止めることができるのだ。

 靴隠しは最も初歩的な、ありふれたイジメ(ないしは犯罪)である。この段階で犯人を暴き適切な指導をしておけば、それ以上のことは絶対におきない。被害者も靴隠し程度で深く傷つくことはないし、加害者も取り返しがつく。したがって絶対に犯人を見つけ出したいのだが、これがなかなか難しい。犯罪の実行と発覚の間に時差があるから発見しにくく、発見しにくいからこそ加害者はやめることをしない。

 子どものことを真剣に考え心配するから、隠しカメラで発見しようという教師が出てきても不思議はない。

 男性教諭は「生徒や保護者らの信頼を損なう行為だった」と生徒や保護者らに謝罪しているという。
 前田校長は「指導熱心さのあまりとはいえ行き過ぎた行為。大変遺憾で申し訳ない」と陳謝した。
 
 その通りかもしれない。しかしものには軽重があるはずだ。
 私は、ひとりの子どもが傷つき、もうひとりの子どもがどんどん悪くなっていくことに比べたら、隠しカメラが何事だと思う。しかし、世の中そんなにふうにはなっていないようだ。

 いじめは絶対に許すな、ただし他の子が嫌な思いをしない範囲でやれ、
 そういうことか。 






 



2008.09.28

学校選択制:東京・江東区が見直し
小学校は学区内を原則


毎日新聞 9月26日]


 東京都江東区は、区内全域から希望校を選択できる「学校選択制度」を一部見直し、来年度から小学校については、住所で決まる通学区域の学校への入学を原則とすることにした。選択制で地域と子供たちのかかわりが薄れてきたとの住民の指摘を受けた措置で、選択制度が全国に広がる中、議論を呼びそうだ。
 区教委によると、小学校は「徒歩で通える学校」を原則とする。しかし、親の希望などに配慮して選択制は残し、通学区域外への入学も認める。中学校はこれまで通り、全区域から選ぶことができる。
 区教委は02年度、「学校ごとに特色を出し合い、教師の意識改革や学校の活性化につながる」などの理由で学校選択制を導入した。他区域を選ぶ割合が徐々に増え、今年度の新1年生は小学校では22%、中学校では37%が通学区域外に入学した。しかし、一方で、区民から「地元の学校に地域の子供が少なくなっている」などの意見が寄せられるようになったという。
 区教委は「制度を6年間やってきたが、地域と子供の関係が希薄になっている。子供たちが、地域とのかかわりを強めることを重視したい」と話している。【吉永磨美】


 政治と言うものはどれほどの覚悟を持って行われるものなのか、私には分からなくなるときがある。

 学校選択制の結果、
 子どもと地域の関係が希薄になるのは分かりきっていたことだし、
 ひいては子どもを通した地域の親たちの関係も薄くなる、
 そしてやがてそれは地域社会そのものを破壊していく、

 そんなことは最初から織り込み済みではなかったのか。
 都会ではもう地域社会自体が存在しないからそれでいい、と江東区は割り切ったのだと思っていたのだが、それが今頃になって………。

 私は生まれたところと育ったところと、現在暮らしているところがすべて違う人間である。そして今暮らしている町で、生涯を終えようと思っている。しかし困るのは地域にほとんど足がかりのないことだ。

 町の役員を受けて出かける会合で、実際に動いているのは小中学校時代の先輩後輩の関係、誰かに何かを頼むにしてもそうした関係で人を探すしかない。私のような新参者はそれができないから、しかたなく人を介して人を探すのだが、そんな時頼りになるのは子どものPTA活動を通して知り合ったお父さんやお母さんたちである。学校選択制の時代になると、それもなくなる。

 新しく町に来たものは挨拶を交わした向こう三軒両隣以外には、地域への足がかりを失うだろう。
学区をなくして地域の活性化というのは、土台無理な話である。


* 注:
 学校選択制を、児童・生徒の自由や選ばれる側の学校の資質向上といった教育問題だと捉えている間は、本質を見誤る。これは優れて政治問題なのである。
 東京23区のように小規模の学校を多数抱えるところでは、選択制にして児童生徒の流動性を高め、その結果見捨てられた学校を廃校にして財政的に楽になる、というのが本質的な狙いである。したがって必要な統廃合が終了すれば、学校選択制はむしろ邪魔になる、という面がある。毎年どこの学校に何人入学するか分からないような状態では、長期的な設備拡充や教員配置ができないからである。

 しかし、住民にとって自由の代償は非常に大きいものであった。