キース・アウト
(キースの逸脱)

2008年10月

by   キース・T・沢木

サルは木から落ちてもサルだが、選挙に落ちた議員は議員ではない。
政治的な理想や政治的野心を持つ者は、したがってどのような手段を使っても当選しておかなければならない。
落ちてしまえば、理想も何もあったものではない。

ニュースは商品である。
どんなすばらしい思想や理念も、人々の目に届かなければ何の意味もない。
ましてメディアが大衆に受け入れられない情報を流し続ければ、伝達の手段そのものを失ってしまう。

かくして商店が人々の喜ぶものだけを店先に並べるように、 メディアはさまざまな商品を並べ始めた。
甘いもの・優しいもの・受け入れやすいもの本物そっくりのまがい物のダイヤ
人々の妬みや個人的な怒りを一身に集めてくれる生贄
そこに問題が生まれれば、今度はそれをまた売ればいいだけのことだ。
















 



2008.10.5

学力テスト結果を学校別開示
鳥取・南部町、全国初


産経新聞 10月3日]


 鳥取県の南部町教育委員会が、住民の請求を受けて昨年度の全国学力テストの学校別平均正答率を開示していたことが3日、分かった。文部科学省によると、市町村教委の判断で学校ごとの成績を開示するのは初めてとみられるという。

 鳥取県では学力テストをめぐる別の開示請求で、県教委が市町村別、学校別結果の非開示を決めていた。

 南部町教委によると、開示したのは、児童数が少ない小学校1校を除く小中学校それぞれ2校の計4校分。9月16日に町民が学校別データの開示を請求。永江多輝夫教育長らは請求者と面談、「得られた情報をどう活用するのか」などの理由を聞いた。

 その後、9月30日の定例委員会で「教育は地域とともに考えるべきだ」と全会一致で開示を決めた。

 永江教育長は「情報公開条例がある以上、原則公開。隠す情報ではないと判断した」と話している。



 これでもう、全国学力学習状況調査の命運は決まったのかもしれない。

 鳥取県南部町にできることが他の市町村にできないはずはない、と考える人は多いだろう。そうして学校別の成績を公表する自治体がひとつ、ふたつと増えていくうちに、市町村が学校別の成績を公表することは認めないとする文科省の実施要領は完全に踏みにじられることになる。

 文科省は全国学力学習状況調査を廃止することでしか、それを阻止することはできない。もともと60億〜70億円もかかる学力テストは一刻も早く止めたい財務省からも賛成の声が上がるだろう。学校現場ではその金で教員を雇う方が、どれほど学校教育に寄与するかと、思っている人が多い。
 
 しかしそれにしても、橋下知事をはじめ、
なぜそれほど点数を知りたがるのか私には分からない。
 各学校、といっても実際にテストを受けているのは1学年だけだから、単年度の成績はその学年の学力を示すに過ぎない。4年5年と続ければその学校の実力と言うことになるが、1年や2年で一喜一憂するような内容でもないと思うが・・・。

 ある人は「くそ教委」と言い、別の人は「日教組をぶっ潰す」と言う。
 いずれにしろ学校を直接支配し、自分の思い通りの教育をさせたいと思う人は少なくない。そのあたりにヒントがあるのかもしれない。







 



2008.10.6

橋下知事「朝の15分授業やりたい」


産経新聞 10月5日]


全国学力テストの順位が2年連続で低迷している大阪府の橋下徹知事は5日、寝屋川市内で開かれたフォーラムで講演し、基礎学力の定着を図るため、朝に10分から15分間、計算や漢字の書き取りに取り組む「モジュール授業」を府内の小・中学校で導入したいとの意向を示した。

 橋下知事は「一けたの計算でつまずくと、先に進めなくなり、授業についていけなくなる」などと語ったうえで、それを防ぐためには毎朝、基礎的な計算や漢字の書き取りなどに取り組む「モジュール授業」が必要、と訴えた。

 フォーラム後、橋下知事は、「大阪の教育の現状を打破するのは、モジュール授業しかない」と述べ、府教育委員会が検討を進めていることを明らかにしたが、「やってくれるかは学校次第。僕が『やる』と言うと現場の反対があるだろうから、教育委員の先生方に進めてほしい」と述べた。


 弁護士になったくらいだから橋下氏も昔は頭が良かったはずだが、それがこの体たらくだ。
 政治は人間を馬鹿にするのかもしれない。
 「大阪の教育の現状を打破するのは、モジュール授業しかない」
 その程度で済むと言ったら、学力日本一の秋田県に申し訳ないだろう。

 県民所得で40位にも入れない貧乏県秋田は、教育のためにたいへんな血(税)と汗を流してきた。それをあざ笑うように、15分の授業増加で事態を打破しようというのだから、開いた口がふさがらない。
 秋田県がどういう県なのか、少しは学んでおくべきだ。

 犯罪件数46位、犯罪増加率(平成19年1〜3月→平成20年1〜3月)全国44位(−19.0%)、不登校率47位、教員採用試験27.7倍の秋田に、

 犯罪件数日本一、犯罪増加率6位(+1.5%、増加したのは7道府県のみ。大阪はそのひとつ)、不登校率全国19位、教員採用試験の倍率2.8倍の大阪が、追いつくには、
 学力テストの成績開示やモジュール授業ではとても無理だろう。

 非行・不登校・学力と、同時多発テロみたいに一時に対処しなければならないことが多数ある場合、必要なのはマン・パワーなのだ。、一人の教員がやっている二つ以上のことを、人数で割っていくしかない。
 簡単に言えば
大量の教員をつぎ込んで打破するしかない

 それができないとしたら(当然できない。橋下府政は財政再建府政なのだから)、せめて現有の教員・教委を大切にし、彼らの意欲を支えていくしかない。
その
大切な教員・教委の意欲を、橋下知事は惜しげもなく、給与カットと「バカ教委」発言で潰してしまった。
なんとも剛毅なことである。






 



2008.10.7

息子の通う中学校長に暴行容疑、市職員を逮捕 広島県警


毎日新聞 10月6日]


 息子が通う中学校の校長に暴行し、けがを負わせたとして広島県警は6日、同県府中市栗柄町、同市職員の宮岡忍容疑者(57)を傷害容疑で逮捕した。容疑を一部否認しているという。

 県警によると、宮岡容疑者は9月25日午後9時過ぎ、自宅の居間で校長の男性(58)に対し、尻をけったり引きずり倒したりする暴行を加え、打撲などのけがを負わせた疑いがある。宮岡容疑者は「子どものことで頭にきた」と話す一方、「尻はけっていない」と話しているという。

 同市などによると、宮岡容疑者は7月中旬、息子が学校で他の生徒から暴言を吐かれたなどとし、それ以降、学校側に数回説明を求めた。9月25日午後7時ごろ、校長と教頭ら4人が宮岡容疑者宅を訪れて2時間ほど事情を説明したところ、帰り際に暴行を受けたという。



 学校も親を警察に訴えることがある、といったニュースかと思うが、訴えられた方が市職員なら訴えた方も市教委に管轄される学校職員なのだから、なんだかできレースのようなものだ。

 これが民間人相手だったら、こうもやすやすと訴えられなかったかもしれない


 さて、記事だけで本当のことは分からないが、事の発端は
息子が学校で他の生徒から暴言を吐かれたなど
である。

 そんなことは、学校では日常茶飯事だ。
 男の子の世界である。この程度のことで親が出て行ったらとんだ恥さらしだ・・・と、昔の人なら考えた。

 しかし今は違う。
 
子どもが暴言をはかれたかどうかは、校長・教頭をはじめとするいい年をした首脳が4人、雁首をそろえてに出かけ、2時間も説明しなければならないこと
 なのだ。

 学校は今、こんな状態にある。
 それで学力を上げよ、道徳教育を充実させよと言ったって、どこにその余裕があると言うのか。

 笑止千万である。







 



2008.10.11

【集う】「道徳教育をすすめる有識者の会」発足記念の集い
(8日、東京都港区の虎ノ門パストラルホテル)


産経新聞 10月9日]


 「道徳教育をすすめる有識者の会」発足記念の集いで講演する義家弘介氏。(右端から市田ひろみ氏、松平康隆氏、左端は渡部昇一氏)=8日午後、東京都港区虎ノ門(撮影・荻窪佳)
 日本人は何を失ってしまったのかを確認する2時間だった。
 「感動できる美しい話を子供に伝え、『徳目』を教えることが道徳教育だ」。会の代表世話人である渡部昇一・上智大名誉教授は、会場を埋めた約500人の参加者にそう呼びかけた。
 子供を一人前に育てるには何が必要か。現在の道徳教育にはしつけや人生訓、生きる指針が欠けていると訴えた。だからこそ、平成22年秋をめどに中学生向けの道徳教科書を作成し市販すると意気込みをみせた。
 会には保守系の有識者約160人が世話人や賛同者に名を連ねる。この日も、岡崎久彦・元駐タイ大使や中山成彬・前国土交通相、石井公一郎・元ブリヂストンサイクル社長、漫画家のさかもと未明さんと多士済々がそろった。安倍晋三元首相からも会の発足を祝うメッセージが寄せられた。
 3人のパネリストは三者三様の道徳観を披露。「ヤンキー先生」として知られる義家弘介参院議員は、携帯電話の登場以降、子供は有害な情報に直接さらされていると指摘。「道徳は子供を健全に育て、守るためのもの」と語った。日本バレーボール協会名誉会長、松平康隆氏も「今の日本はルールさえ守られていない」と厳しい。
 ともすれば重くなるムードを和らげたのは服飾評論家、市田ひろみさん。「昔は親だけやなく、近所のおっちゃんも怖かったもんです」とはんなり話し、笑いを誘った。それでも「今の子供ががまんできないのは親が教えないから。道徳は人に迷惑をかけない生き方のルール」と引き締めた。
 誰の言葉からも日本人の心の荒廃への危惧(きぐ)がのぞく。コーディネーターの八木秀次・日本教育再生機構理事長は「日本人の劣化」と表現、「社会を建て直すには学校の道徳教育から始めるしかない」と締めくくった。(福田哲士)




 
先生が言えば子どもは何でもいうことをきくと、本気で信じている人がたくさんいる。
「先生! 学校は、なぜ勉強の大切さを教えないんですか?」
「学校は、イジメがいけないことだと、なぜ教えないんでしょう?」
は、みな、そういう人たちの言葉だ。

 先生が言えば子どもは何でもいうことをきく。それなのに子どもが勉強の大切さが分かっていなかったり、いじめがなくならないのは、きっと教えないからに違いない、そう信じて疑わないのだ。無邪気なものである。

「道徳教育をすすめる有識者の会」の
おっちゃんやにいちゃんの頭にあるものも、こうれとまったく同じだ。


先生が言えば子どもは何でもいうことをきく。それなのに
今の日本はルールさえ守られていない
のは、きっと
現在の道徳教育にはしつけや人生訓、生きる指針が欠けている
からにちがいない。だからこそ、
中学生向けの道徳教科書を作成し市販する

 自分たちの好みに合う教科書をつくって、それを先生がきちんと教えれば「日本人の劣化」は防げると信じているのだ。


 前述の「勉強の大切さ」や「イジメが悪いことだと分かっていない」子どもの母親たちに、私はこんなふうに答える。
「もちろん教えています。しかし教えても身につく子とつかない子がいるのです。それは漢字やかけ算九九を教えても、忘れてしまう子がいるのと同じです」
 すると母親たちはキョトンとした表情になる。
 同じことを「道徳教育をすすめる有識者の会」の人々に言ったらどう反応するだろうか?
 

 さて、
 映画「マトリックス」のモーフィアスは「道を知っていることと歩くことは違う」と言った。
 歌謡「スーダラ節」で植木等は「分かっちゃいるけど、やめられない!」と歌った。

 それが人間だ。分かっていてもできない、道を知っていても、生活の中に生かすことができない、それが人間なのだ。
 では、そんな「人間」に、分かっていることをやめさせ、知っている道を歩ませるためには、どうしたらよいのか。

 答えは簡単である。
具体的活動を通して経験していくしかないのだ。

 子どもたちは、週一時間の「道徳」の時間で、「かく、ありたい」自分の姿を学ぶとともに、学校生活全体をつかって、経験的に学んでいく。
 清掃を通して奉仕や忍耐を、係や班、当番や委員会の活動を通して社会の仕組やルールを、運動会や文化祭を通して大きな仕事を成し遂げる喜びを学んでいくのである。日本の学校には、そうした仕組みが山ほどある。


 ただし、今やそうした学校の機能は、社会から見捨てられようとしている。そんなことより15分間のモジュラー授業(ドリル学習)の方が絶対大事だと信じる知事がいる。

 総合的な学習の時間といった子どもの活動より、理数の授業時間増、成績アップの方が大切だと考える人たちがいる。

 
「社会を建て直すには学校の道徳教育から始めるしかない」と本気で考えるなら、少なくとも(今は担任が片手間にやっている)「道徳」を教科担任制にし、専門の教員をおくとともに、地域に奉仕活動に出かけたり地域の人々と働いたりするための予算、あるいはさまざまな教材を購入するやめの予算くらいはつけなくてはならない。
 金で解決できることは金で押さえておかねばならないとおもうのだが、政府・国会議員のだれもそんなことはしようとしない。

彼らのやることと言えば、
『金は絶対に出さない! オレの作った教科書を使えば、日本は絶対に良くなる!』
そう叫んで旗をふるくらいのことだけだ。

 滑稽なことである。






 



2008.10.12

ノーベル賞に沸くが…日本の大学、トップ10入りなし


朝日新聞 10月10日]


 英タイムズ紙別冊高等教育版などは9日、08年世界トップ200大学を発表した。日本からは東京大の19位が最高で、100位以内には4校。ノーベル賞の4人受賞にわく日本だが、大学では米英に水をあけられているようだ。
 04年から始め、研究者による評価、論文の引用数など研究力を中心に、教育力、企業からの評価、留学生比率などで総合ランクを付けている。1位は米ハーバード、2位は米エール、3位は英ケンブリッジで、20位までに米国が13校、英国が4校入った。
 日本勢では東大のほか京都が25位、大阪が44位、東京工業が61位。トップ200入りは計10校で昨年より1校減った。先日発表された上海交通大学高等教育研究所のランキングでも、100位以内は東大、京大、阪大、東北大の4校だった。
 政府の教育再生会議は昨年6月の第2次報告で、10年以内に、国際ランキングで日本の大学が上位30校に5校は入ることを目指すとしている。
 ノーベル物理学賞受賞者の江崎玲於奈・茨城県科学技術振興財団理事長は「欧米の大学では研究者は実力で評価される。研究力の違いが、ランキングにも反映したのではないか」と話している。(杉本潔)
■日本の大学の順位(英タイムズ紙別冊高等教育版などの「08年トップ200大学」から)
東京(19)、京都(25)、大阪(44)、東京工業(61)、東北(112)、名古屋(120)、九州(158)、北海道(174)、早稲田(180)、神戸(199)




 残念な数字である、とでも言いたげな記事である。しかし日本の悪口を言い弱点を声高に叫ぶことがマスメディアの仕事だといったやりかたは、もういい加減にしてほしい。
 わが東大(別に出身者でもないけど)が19位であろうと京大が25位であろうと、それが何ほどのことか。

 そもそも「世界大学ランキング」というのがどういうものか、マスメディア諸氏は分かっているのだろうか?
 「欧米の大学では研究者は実力で評価される。研究力の違いが、ランキングにも反映したのではないか」
 とは、江崎さんも科学者らしくないことをおっしゃる。
 素人の私だって、何かを言うときは、少しくらいは調べてから言おうとするものだ。

 さて、最新版が見当たらないので昨年のもので申し訳ないが、2007年度の世界十傑と日本国内十傑は次のようになっている。

【世界十傑】

順位 大学名 PR REC SFR CIT INTF INTS TOT
1 ハーバード大 100 100 100 96 93 91 100
2 ケンブリッジ大 100 100 99 83 98 91 97.6
2 オックスフォード大 100 100 100 82 97 96 97.6
2 エール大 100 98 100 91 84 75 97.6
5 ロンドン大学インペリアルカレッジ 99 99 100 81 98 100 97.5
6 プリンストン大 100 94 95 97 83 75 97.2
7 カリフオルニア工科大 100 55 100 100 100 91 96.5
7 シカゴ大 100 97 100 86 71 90 95.3
9 ロンドン大学ユニバーシティカレッジ  96 97 100 82 91 98 94.6
10 マサチューセッツ工科大  100 99 85 98 34 94 94.5


【国内十傑】

順位 大学名 PR REC SFR CIT INTF INTS TOT
17 東京大学 100 92 96 88 25 44 91.1
25 京都大学 99 89 83 90 29 24 87.2
48 大阪大学 83 75 88 91 17 29 80.0
90 東京工業大学 67 86 59 91 34 42 70.5
102 東北大学 53 59 96 84 40 32 68.0
112 名古屋大学 53 74 83 85 25 30 66.1
136 九州大学 50 68 80 82 17 31 62.8
151 北海道大字 49 69 76 82 19 21 61.1
161 慶應義塾大学 52 88 91 45 25 16 59.9
180 早稲田大字 68 92 64 25 26 23 57.7


その指標であるPRとかRECとかが、何を意味するかというと、次のようである。
PR …Peer review score 研究者の評価 40%
REC…Recruiter Review score 雇用者の評価  (採用したい学生の出身大学) 10%
「どの大学の学生を自分の組織の一員として採用したいか」という質問の回答1482件より評価。
SFR…Student Faculty Ratio 教員数と学生数の比率 20%
CIT…Citations per Faculty 教員一人あたりの被論文引用件数 20%
INTF…International Faculty Ratio 外国人教員比率 5%
INTS…International students Ratio 外国人学生比率 5%
TOT…最終評価


 このことを知って改めて見てみると、日本の大学が決定的に劣っているのはSFRとINTFそしてINTSであることが分かる。
この三つさえ改善すれば、大阪大学くらいまでが世界ランキング10位以内に入ってくる可能性がある。つまり、

教員の数を増やし(しかも高給と高額の研究費でできるだけ外国人教員を釣り上げ)、留学生に強力な便宜を与えれば、あっという間に日本の大学のランキングはアップする

はずなのだ。
 さらに、出身大学を問わない傾向を深める現在の企業の採用傾向に歯止めをかけ、出身大学を指定する方針を企業に求めれば、REC(雇用者の評価:採用したい学生の出身大学)もアップする。

 しかしそれだけでは十分ではない。
 そのことは東大が19位に転落した2008年版「世界大学ランキング」のトップ20を調べてみれば分かる。

 それによると大学の国別内訳は、

  アメリカ合衆国 13大学
  イギリス     4大学
  オーストラリア  1大学
  日本       1大学(東大)
  カナダ      1大学。

その下にアメリカ、イギリス、イギリス、スイス、日本(京大)と続く。

 つまり、20位以内に非英語圏の大学は東大ひとつしかなく、25位まで下ってもスイス大学、京大が加わるのみである(さらにその下はホンコン、アメリカ、フランス、イギリス、シンガポール)。

 
日本語で講義をしている限り、外国人講師も留学生も集まってくるはずはなく、外資系企業も進んで採用しようとは思わないだろう。研究論文も最初から英文で書かれるべきである。

 日本語で聞き日本語で答えられる現在の大学を、私は好ましく思っている。しかし東大ですらランキングを下げる現状を憂えるなら、それもすべて捨ててしまうといいだろう。
日本の全大学が英語で講義するようになれば、世界ランキングは飛躍的にアップするはずだ。
 朝日新聞記者氏とともに、是非そのことを社会に訴えていこう。


* 時事通信によれば、同じ「タイムズ・ハイヤー・エジュケーション・サプリメント(THES)」で
日本の総合的な高等教育力は世界6位
だそうである。
 かなり良い数字だと思うが、こうした素晴らしい数字については、各メディアはほとんど扱おうとしない。






 



2008.10.17

<教員>「教頭から教諭へ」など希望降任が過去最多106人


毎日新聞 10月17日]


 07年度に自ら望んで教頭などから降任した公立学校の教員は、過去最多の106人(前年度比22人増)に上ったことが、文部科学省の調査で分かった。一方、生徒と信頼関係が築けないなどとして「指導力不足」と認定された教員は3年連続で減少し、371人(同79人減)だった。

 47都道府県と17政令市の64教育委員会を調べた。希望降任制度があるのは59教委。降任の内訳は、教頭から教諭が70人と最多で、校長から教頭が1人、校長から教諭が4人、その他(主幹教諭から教諭など)が31人だった。39教委しか制度を設けていなかった03年度は計66人で、制度の普及もあり4年間で約1.6倍に増えた。

 理由は「健康上の問題(精神疾患含む)」が53%、「職務上の問題」が27%など。文科省は「主幹教諭に業務が集中するなど、割り振りがうまくいっていないケースがある」としている。

 指導力不足教員は小学校193人、中学校88人、高校62人など。在職20年以上のベテランが228人と61%を占めた。06年度からの継続認定が241人で、07年度に新たに認定されたのは130人(前年度比82人減)。文科省は減少の理由に、学校で予防的研修を行うなど早期対応の取り組みが進んだことなどを挙げた。

 指導力不足教員のうち07年度に研修対象となったのは268人。うち87人が現場復帰したが、依願退職85人、免職5人、他職種への転任2人の計92人が現場を離れた。休職は16人。定年退職と育児休業が各1人で、71人が研修を継続している。

 また、試用期間(1年)の後で正式採用とならなかったのは過去最多の301人(前年度比6人増)。うち293人(同12人増)が依願退職し、103人(同19人増)は病気が理由。死亡した5人のうち1人は自殺だった。【加藤隆寛】



 かなり若い頃、とても尊敬していた先輩教師に「校長になりたいと思ったことありますか?」と尋ねたことがある。教育に全情熱を傾けているような人なので、当然「思ったことはない」という返事を期待してのことだった。
 ところが意外なことに、
「思いますよ、今だって。だって、自分の教育理念を十全に発揮しようと思ったら校長になるしかないじゃないですか」
 私はなるほどと思った。そして、そういうことなら校長になってもいいな、とも思った。

 世の中にはさまざまな教員がいるからとんでもない思い違いをした校長もいると思うが、校長になりたいという欲望のひとつは、これである。そうした欲望に従えば、教頭、副校長といった殺人的な仕事にも耐えられた。しかし、今は違う。
 
現在の校長というのは自分の理念で学校を運営するようにはできていない。文科省、教委、保護者、地域といった外部からの圧力に激しく揺すられ、説明と弁明に明け暮れる毎日、そんな職に堕してしまった。

 教員を指導しろ指導しろと言われるたびに一般職との間の溝は広がり、次々押し寄せる無理難題を(かなり薄めて)下におろすと、ただ憎まれる。まったく割に合わない仕事なのだ。
 校長職に魅力がなければ、つらい教頭職に耐えられるはずがない。希望降任制度をつかって教諭に戻る教頭・副校長はこれからも増え続けるだろう。


 ところで、
 東京都を含むいくつかの自治体は、その
副校長・教頭の下にさらに主幹教諭を置いて、校長になるためのハードルをふたつにしてしまった。当然なり手はいない。

 平成19年度の資料によると、東京都の主幹教諭は、小中学校で4551人の必要に対して3199人。わずか70.1%の充足率である。平成16年から始まって19年度には100%になるはずだった計画が頓挫したのは、言うまでもなく希望者が少なかったからだ。その競争率、わずか1.1倍。しかも募集人員900名に対して577人の応募しかなく(18年度は1000名募集だったのを減らした)、全員を合格にするわけにもいかないので532人だけを合格にしてようやく競争率1倍を確保したのである。

 教職というのは、もともと出世して金持ちになろうという人は選ばない職業である。そうした人たちの目の前に、何の魅力もなくなった校長や教頭をぶら下げても誰も飛びつかないばかりか、どんどん辞めてしまう。

 東京都では高校に続いて小中学校でも副校長不足が深刻になってきたと聞く。しかしマスコミは、ほとんど危機感を持っていない。






 



2008.10.18

「指導力不足」先生371人も、8割が40〜50歳代


読売新聞 10月18日]


 授業や学級運営ができず、各地の教育委員会から昨年度中に「指導力不足」と認定された公立学校の教員が371人いたことが17日、文部科学省のまとめで分かった。

 教員としての適性に疑問符のついたケースが目立ち、8割を40〜50歳代が占めた。

 文科省によると、371人の7割は男性で、40歳代が46%、50歳代が37%だった。85人は依願退職したという。

 指導力不足と認定された理由は「生徒の反応を確かめずに一方的に授業を進めていた」「板書が乱雑で筆順の間違いが多い」−−など適性を疑われるものが目立った。ベテランが多い理由について、同省は「詰め込み式の授業で何とかしのいできた教員が、考えさせる授業への転換といった環境の変化に対応できなくなっている表れでは」と分析している。



 確かに20代後半から30代の教員は平成不況のすさまじい競争を勝ち抜いてきた人たちだから優秀なのは間違いない。しかし教員の仕事は基本的に職人芸であり、多少制度が変化したところで、そう簡単に
環境の変化に対応できなくなっているなどといったことはないはずだ、というのが私の直感である。

 それにしても、大学出たてのほやほやができる仕事が、なぜ40代・50代に出来ないのか・・・そう考えているうちふと思い出すことがある。昨日の毎日新聞の記事だ。

 また、試用期間(1年)の後で正式採用とならなかったのは過去最多の301人(前年度比6人増)。うち293人(同12人増)が依願退職し、103人(同19人増)は病気が理由。死亡した5人のうち1人は自殺だった。
 
 指導力不足教員は371人だが、それに近い301人もの新人教員が正式採用にならずに捨てられている。
 つまりそういうことである。
20代30代の教員は、すでに選別を受けている世代なのだ、だから指導力不足教員が少ない。

 
職人の世界で古い人間はダメだと言ったらその世界は終わる。
 文科省もマスメディアも、自分のしていることを知らないのかもしれない。






 



2008.10.19

新人教員300人、教壇去る
5年で2.7倍、07年度


朝日新聞 10月18日]


 採用されて教壇に立ったものの、1年のうちに学校を去った新人教員が301人に及ぶことが17日、文部科学省の07年度の調査でわかった。5年前の2.7倍に増えており、うち3人に1人が精神疾患を中心にした「病気」を理由にしていた。文科省は「教育現場を取り巻く環境が厳しくなっているのが一つの要因」としている。
 教員は最初は「条件付きの採用期間」で、1年後に正式に採用される。07年度の調査では、全採用者2万1734人のうち1.4%の計301人が依願退職などで1年のうちに学校を去った。5年前は111人(0.6%)で増加ぶりが目立つ。原因をみると「病気」という人が103人で、5年前の10人から10倍以上に急増。このほか、自己都合、理由不明などを合わせた「その他」が178人いた。
 文科省によると、病気で辞めた人の多くがストレスから来る神経症やうつなどの精神疾患だという。1年目から担任を持って対応しきれず追いつめられたケースや、親や社会のニーズが複雑化している中でうまく適応できないケースがあるという。
 一方、子どもたちと適切な関係が築けないなどとして都道府県や指定市の教育委員会から「指導が不適切」と認定された07年度の教員の数は371人。認定されると教壇を離れて研修を受けねばならないが、こちらはピークだった04年度(566人)から減少傾向にある。ただし、文科省は実際の人数が減ったとはみておらず「先手を打って市町村教委や学校が独自の研修などをすることが多くなった」と分析している。(上野創)



 他にももっと離職率の高い職業はある、といったふざけたことを言う人がいたら殴り倒す。教員は特別なのだ。

 彼らは教師になるために苦労して大学に進み、そこで何年も専門の勉強をしてきた人たちだ。採用試験も難しいところでは今も30倍近い。そのため何年も繰り返し試験を受けてきた人たちがいる。その
志ある若者が、300人もこの世界を去っている。しかもそのうち100人あまりもが「病気」による退職なのだ
 その恐ろしさ、その不幸を、なぜメディアは大きく扱わないのか。

 病気で辞めた人の多くがストレスから来る神経症やうつなどの精神疾患だという。1年目から担任を持って対応しきれず追いつめられたケースや、親や社会のニーズが複雑化している中でうまく適応できないケースがあるという。

 その重みを、なぜ取材しないのか。

 100人の校長・教頭が希望降任のステージにのぼり、300人のベテラン教員が「指導力不足教員」として消され、300人が本採用とならず300人の若者が自ら消えているのだ。

 こうした話を聞くたびに
「フリーメイソンが陰謀によって日本を潰そうとしている。その手始めにマスコミを手なずけ、日本の教育を潰そうとしている」といったヨタ話が、本当のことのように思われてくる。



* 上記「フリーメイソン」が気に入らない人は、その部分を「テンプル騎士団」でも「ユダヤ」でも「北朝鮮工作員」でも「アルカイダ」でも好きな言葉に変えてくれていい。私は正直言って、どれも詳しくは知らない。








 



2008.10.22

【教育動向】先生にも「残業代」?
仕事が大きく変わる可能性も


産経新聞 10月20日]


 文部科学省は、教員の給与制度を見直すよう、中央教育審議会に諮問することを決めました。教員については免許更新制などさまざまな改革が実施されていますが、給与制度は仕事の在り方や労働意欲などと直接的に関係してくるため、審議次第では教員に関する最大の改革になるかもしれません。

 文科省が教員給与の見直しを始めた理由は、財務省が財政再建のために一般公務員よりも高い教員給与の引き下げを求めたことです。文科省は適正なものであると反論しましたが、結局、政府は教員給与を2.76%削減する方針を決めました。財務省は本給を下げるよう求めていますが、文科省は、本給を引き下げると教員全体の意欲を低下させ、優秀な人材も集まらなくなるとして、手当などの見直しで対応しようとしています。それを中教審で検討することになったわけです。

 焦点となっているのが、「教職調整額」の扱いです。知らない人も多いかと思いますが、教員には時間外勤務手当(残業手当)がありません。その代わりに教職調整額として、本給の4%分が一律に支給されているのです。

 文科省は当初、教職調整額の一律支給をやめ、個人の勤務実態に応じて支給額にメリハリをつける方法を考えていました。しかし、政府内の法律の監視役である内閣法制局が、教員の職務全体に与えられる教職調整額にメリハリをつけることは法的に不可能との見解を示したため、断念しました。そうなると、残業手当を払うしか方法がありません。ただ、公立小・中学校教員の残業時間は月平均34時間にもなり、このすべてに残業手当を払うと、給与の引き下げどころか、逆に全体額がアップしてしまいます。もっとも、その場合には時間外勤務時間の上限が設定されたり、その認定が校長など管理職によって厳密に行われたりすることが必要になると考えられます。

 大きな問題は、それによって教員の仕事の性格自体が変わってくることです。現在、教員の時間外勤務は、教員個人の自発的な意思に基づく行為とされています。残業手当がつけられると、子どもの指導に必要だと思ってやっていることが、管理職に「勤務」と認定されないという事態も起こり得ます。そうなると教員の間に、残業手当がつかない時間外勤務はしない、という雰囲気が生まれてくることも心配されます。

 職務内容の精選も避けられないでしょう。中教審に先立って文科省の検討会議は、部活動の指導は「勤務時間内」で行うべきだと提言していますが、実質的には困難ですから、部活指導が教員の仕事ではなくなる可能性もあります。日本に比べて欧米の教員は、給与が安い代わりに授業以外の仕事をほんどしません。やがて日本の教員もそうなるのでしょうか。
 このように教員給与の引き下げは、実は日本の教員の在り方そのものにかかわってくる問題です。しかし、そもそも教員の給与を引き下げる必要が本当にあるのでしょうか。



 教員給与に手をつけるな、という産経新聞の主張は実に賢明だと思う。

4%の調整手当ては8時間の超過勤務手当てに相当する。

その8時間分の手当てで、平均34時間も働いてくれる教員の給与をいじっても、何のメリットもない。


 メリットがないだけならまだしも、おそらく確実に、日本の教育にダメージを与えるだろう。

 いまのところ8時間分の手当てで34時間も働いているというカラクリに、教員自身が気づいていない(彼らは忙しくて給与明細さえ見ていない)。下手にいじって、寝た子の目を覚ますようなことはしないほうがいいと思うが・・・

 まあ、しかし学校選択制によって地域社会にダメージを与え、免許更新制によって教員の誇りに平気で傷をつけた政府のすることだから、わずかな財政支出削減のために教員の意欲を潰すくらい屁とも思わないかもしれない。







 



2008.10.23

<学校選択制>大きな格差、男女比にも偏り…都内28市区


毎日新聞 10月22日]


 学区外の小中学校にも通える学校選択制度を巡り、毎日新聞が東京都内28市区の教育委員会を調査したところ、今春の各校の入学率(校区内で住民登録している就学者数に対する入学者数の割合)に、8.1〜326.7%と大きな格差があることが分かった。人気校と不人気校の固定化が進み、区部では新入生が1けたの学校が7校、10人以上20人未満が23校ある。男女の希望者数も偏り、男子が3割未満の中学も出ている。【山本紀子】

 選択制は00年に「個性的な学校づくり」を目標に東京都品川区が取り入れてから都市部に広まり、東京では19区と9市が導入。全国で最も普及している東京の実情を調べた。

 入学率は、その学校が児童・生徒にどれほど選ばれたかを示す。各校の今春の数値を尋ねたところ、品川区では初の小中一貫校となった旧第二日野小が326.7%に達した一方、近隣の小学校は27.8%に落ち込んだ。江東区では、統廃合がうわさされた中学校の入学者が7人となり、わずか20.6%。小規模校を避ける動きは、どの地域にも共通している。

 文教地区にあってクラブ活動が盛んな学校には志願者が集まりやすい。一方、小規模校では廃部やチームを結成できない部も相次ぎ、他校に流れる子も少なくない。

 「荒れている」「いじめがある」のうわさで生徒が減る学校もあり、調査には「風評の影響を受けやすい」(武蔵村山市)との声も出た。

 選択制の課題については、小規模校化が助長される(多摩市)▽学校間の生徒数の格差の広がり(練馬区)−−など、生徒数の偏りを懸念する声が出た。一方、メリットとして「魅力があり開かれた学校づくりが進む」と学校の活性化をあげる教委が多かった。かつて新入生がゼロだった品川区の中学校が、学力強化策を掲げ小中一貫校となってスタートしたところ、今春の新入生は65人に回復した例もある。

 男女比をみると、野球部やサッカー部のない江東区の中学で、男子の割合が29%まで減る一方で、部活の盛んな他校で男子が57%になるなど、一部でアンバランスが生じている。

 選択制については前橋市が、生徒数の偏りなどを理由に、11年度から原則廃止を決めている。江東区も地域と学校の関係希薄化を理由に、小学校での選択は徒歩で通える範囲に限る見直しを行う。

 ◇学校選択制度

 規制緩和のため、97年に旧文部省が通学区域の弾力的運用を認める通知を出し、03年の学校教育法施行規則改正で各教委が選択制を導入できるようになった。06年の文部科学省調査では、小学校で240自治体(14.2%)、中学校で185自治体(13.9%)が導入している。しかし、東京都内のように、行きたい学校を選べる自治体は金沢市や長崎市など少数派。山村の小規模校の活性化のため学区外から入学を認める限定的な選択制が多い。

 ◇解説…「ひずみ」冷静に検討を

 学校選択制度のメリットは、学校が学力強化や生徒指導に工夫をこらすようになることだとされる。確かに導入した地域では、保護者や地域も巻き込んで体験重視型の教育を行ったり、進んで情報公開するなど、変化がみられる。

 一方で、選択制は著しいひずみも生んでいる。少人数の学校は「切磋琢磨(せっさたくま)が難しい」と避けられ、「問題児がいる」とうわさがたてば新入生は激減する。いったん生徒が減りだすと部活動も停滞し、人数の回復は難しくなる。校舎が新しいというだけで生徒が集まる学校もあり、「教育内容で選んでほしい」という教育委員会の思惑は空回りしがちだ。

 小規模の中学では、理科の教員が数学を教えたり、陸上の不得手な生徒が区の陸上大会に引っ張り出されるなどの事態も起きている。江東区や品川区は対策として、小規模校に特別の予算を組んでいる。こうした対策も大切だが、選択制の功罪を冷静にとらえ直す時期に来ているのではないか。【山本紀子】




 学校選択性は大きななぞだ。まず、
 学校選択制度のメリットは、学校が学力強化や生徒指導に工夫をこらすようになることだとされる。
というところからして分からない。学校は、と言ったって実際に仕事をするのは一般の先生たちなのだが、児童・生徒数が増えると、先生たちにどういうメリットがあるのか理解できない。なぜ、先生たちは児童・生徒数を増やそうとがんばるのだろう?
 私立学校じゃないのだから、
児童生徒数が増えても収入が増えるわけではない。人数が減って学校が潰れても、失業するわけではない。なのに、子どもの数を増やすために先生たちががんばるだろうと考えるのはどうしてなのだろう?

 第二、

「個性的な学校づくり」と選択制は必ずセットである。学校も選べないのに妙に個性的なことをやられたら、住民がかなわない。「個性的な学校づくり」をする以上は、その学校の個性を回避する道も開けておかなければならない。そして、まさにその「個性」によって、人数格差は生まれる。
 それは当たり前だろう。誰も見向きのしないような「個性」など、何の意味もないのだから。
 つまり
「個性的な学校づくり」と選択制と人数格差は最初からワンセットだったはずなのだ。
 それがなぜ今頃になって問題になるのか?


第三
 少人数の学校は「切磋琢磨(せっさたくま)が難しい」と避けられ、
 「問題児がいる」とうわさがたてば新入生は激減する。
 校舎が新しいというだけで生徒が集まる学校もあり

 これはすべて親として当然のことであり、想定内の話だ。
 それがなぜ今頃になって問題になるのか。
 「教育内容で選んでほしい」といったって、同じ学習指導要領で指導している日本では、そう異なった学習内容があるわけではないと思う。
 

 最後、
 学校選択制は、児童生徒数に格差を生み、
 
いったん生徒が減りだすと部活動も停滞し、人数の回復は難しくなる。
 実際には、どんどん減って最後は統廃合やむない状況に追い込まれ、学校がひとつ潰れれば行政の財政負担は一気に軽くなる(単純に、校長・教頭・養護教諭など、学校がひとつあれば必ず一人いる職がなくなるだけで、どれだけ人件費が浮くことか!)。

 そうした行政側のメリットはあるにしても、それ以外の人々にはほとんど利益がない(しいて言えばサッカー・エリートがサッカーで有名な学校に進め、学習エリートが勉強に熱心な学校に進むメリットはあるだろう。どちらにしても、庶民にはなんの良さもない)。
 選択制の功罪を冷静にとらえ直す時期に来ているのではないか。
 
 「いやまだその時期ではない、学校がもっと潰れてからだ」
 きっと行政は、そんなふうに考えるだろう。

 私も、最初から分かっている事態が進行しているだけの段階で、見直す必要もないと思う。






 



2008.10.24

社説:妊婦受け入れ拒否
事実究明し安心の体制作れ


毎日新聞 10月23日]


 またも悲劇が繰り返された。妊娠中に脳内出血を起こした東京都内の女性が都立墨東病院など七つの病院に受け入れを断られ、最終的に搬送された同病院で手術を受けたが、3日後に死亡した。
 都から24時間態勢でリスクの高い妊婦と新生児のトラブルに対応する「総合周産期母子医療センター」に指定されていた墨東病院がなぜ、妊婦を受け入れなかったのか。まず、徹底的な調査を行って事実関係を明らかにし、その上で早急に対応策を立て直してもらいたい。
 体調不良を訴えた女性がかかりつけの産婦人科医院に救急車で運ばれた。脳内出血の疑いがあったため、医師は墨東病院に受け入れを要請した。しかし、当直の産科医が1人しかおらず、受け入れを断られたという。その後、同病院から紹介された他の病院などに連絡したが、断られた。このため、かかりつけ医師が再び墨東病院に連絡、病状が悪化したと判断した墨東病院は当直以外の産科医1人を呼び出し、帝王切開と脳の手術を行った。胎児は無事に生まれたが、女性は亡くなった。
 墨東病院によると、常勤の産科医に退職者が出て現在は4人に減り、慢性的な不足が続いていた。このため土、日曜と祝日の当直医を本来の2人から1人とし、救急搬送の受け入れを制限し周辺病院に協力を求める文書を配布していた。
 妊婦の死亡と搬送が遅れたことの因果関係が解明されていない段階で、断定的なことは言えないが、今回の問題の背景には、救急医療のあり方や地域の医療機関のネットワークの整備、そして産科医不足という問題があるという点については指摘しておきたい。
 救急搬送の受け入れ拒否の問題が起きるたびに、対応が叫ばれていたが、今回は東京でも同じことが繰り返された。総務省消防庁によれば、妊婦の受け入れ拒否は大都市圏で多発している。医療機関が多いはずの大都市で、なぜ拒否が起きるのか。墨東病院と周辺地域の病院との協力体制についても検証し、医師のネットワークの再点検を行い、地域住民の不安を取り除いてもらいたい。
 産科医不足も深刻だ。墨東病院の場合、当直医が2人そろっていれば、受け入れができたとみられる。「総合周産期母子医療センター」の指定病院が産科医不足で妊婦の受け入れを制限する事態になっていたというのだから驚きだ。
 過酷な勤務状況や、常に訴訟のリスクをかかえた産科医は減少傾向にある。結婚や育児などで離職する女性医師も多く、厚生労働省の検討会が医師不足対策の提言を行っている。
 医療に対する信頼を取り戻すために、何が必要か。悲劇を二度と起こさないためにも、この問いに答えを出さなければならない。



 教育関係の記事以外は取り上げないように努めてきたが、明日の教育環境と同じものがここにあるので敢えて取り上げた。
 個人の責任や義務、背負うべきリスクをすべて公的なもの、自分以外のものにかぶせようとする甘えた社会のツケが、ここに表れている。
 
 連続32時間にも及ぶ加重労働を強いておきながら、どんな些細なミスも許さないといった厳しい態度が結局、リスクの多い産婦人科医を追い詰めてしまった。
 
「ミスをするような医者ならいらない」と言っているうちに、「医者」自体がいなくなってしまったのだ。
 

 同様に「問題教師はいらない」「指導力不足はいらない」「地に落ちた日本の教育」「学力崩壊」などと言って、学校評議員制だの学校の自己評価、教員自己評価、教員免許更新制など、次から次へと網をかければ「教員」自体がいなくなってしまう。

 
一部の教員は「もう、やってられない」とばかりに非行に走り、他の一部は辞めていく。いやそもそも教員になろうといった奇特な人がいなくなってしまう(都会では、このところ採用試験の倍率が3倍を切ってしまった。2倍を切れば採用試験などフリーパスも同じだ)。
 
 ただし教員の場合は、医者のように産婦人科がだめなら婦人科と言うわけにはいかない。したがって退職しない限り、教員のままでいてくれる。
 しかも免許取得者は医者よりはるかに多いから、実際に教員の数そのものが不足するということはそうなないだろう。しかし質は相当に下がる。
 
 また、言うまでもなく医者のようにひとつの過誤で相手を殺してしまうこともない。まったく
質の下がりきってしまった教員によって、児童生徒は社会的に、ゆっくりと殺されていくだけである。

 それだけが、医療と教育の現場の違うところだ。
 
 





 



2008.10.25

授業分割 学力アップ 福岡・梅林中
1コマ25分 集中力持続


毎日新聞 10月24日]


学力の二極化が深刻化するなか、福岡市城南区の梅林中学校(田村茂校長、374人)が一部の授業で1コマ50分を半分にする短時間授業に取り組んでいる。生徒の集中力を保つとともに、増えたコマを割り振って主要教科をほぼ毎日設け、基礎学力の定着を目指す試み。理科の実験では、分割分を足してゆとりを持たせるなどメリハリもつけた。文部科学省によると2分割授業は全国的に珍しい取り組みで、学校側は学力がアップしたと説明している。

■主要教科 ほぼ毎日学習

 1年の教室で、授業開始のチャイムの少し前に数学が始まった。生徒は教諭の計算問題に答え、方程式を解く。開始から25分。教諭が授業を切り上げると、代わりに英語教諭が入室。終了のチャイムまで単語学習やリーディングを進めた。

 短時間授業は昨秋導入した。全国と同様、学力の低位層が増える傾向があり、集中力が続かない生徒もいたため、それぞれ週3コマだった1年の数学と英語の1コマを半分に分割。増えたコマを授業のない日に回して各週4コマにし、基礎内容の反復学習に充てた。

 一方で、2年は、数学の1コマを25分授業にして理科実験に充当。75分あると3つの実験も可能で、失敗してもやり直しがきく。穴田篤志さん(14)は「ゆっくり学べて、化学式も覚えやすい」と話す。

 学校のアンケートに、生徒には「授業の進み方が遅い」などの意見もあったが、6割は評価。「50分授業は飽きることもある」と言う2年の東歩佳さん(14)のように、多くは集中力が増す効果を実感している様子だ。

 9月に実施された民間主催の5教科テストで、同校2年の平均点が福岡県の平均を上回った。1年前よりその差が拡大し、学校側は学力向上の手応えをつかんでいる。

 同省によると、このような時間割の弾力的な運用は「モジュール学習」と呼ばれ、取り組んでいる学校はあるが、1コマを2分割する試みは「聞いたことがない」(教育課程課)。福岡市教育委員会は研究指定して効果に注目する。

 同校教務主任の古賀成幸教諭(48)は「時間割作成は大変だが、生徒が分かりやすい授業をさらに進めるため改善を加えたい」と話している。




 
ここで言う
「時間割作成は大変だが」
の意味を理解する一般の人はほとんどいないだろう。小学校の教員だって分からない。あまり表に出てこないが、中学校の時間割作成は、答えのない巨大パズルなのだ。

たとえば、1学年4クラス、特別支援学級2クラス、全14学級の学校にはおよそ30人の教員がいる。そこで時間割をつくる条件は、ぱっと思いつくだけで、以下のとおりだ
@ 週29×14学級のこまの授業時間を、すべて埋めなくてはならない。生徒が何もしないで遊んでいる時間があってはいけない(当たり前)。
A 2年生の場合、1週に国語3時間、数学3時間、音楽1時間といった基準の時間があるから、それがきちんと入らなければならない。もちろん、3時間ぶっ続け国語、などということはしてはならない。
B 同時に4クラスで国語をやってはいけない。国語の先生は3人しかいないから。同様に、美術の先生も音楽の先生も技術の先生も1人しかいないから、同じ時間に2クラスで美術、2クラスで音楽、ということはありえない。
C 各クラス、できるだけ「今日の授業は国語、数学、理科、社会、英語」といったことがないようにする。一日中座ったままだと、一部の子は死んでしまう。
D それぞれの担任に一日一時間以上の空き時間を確保しなければならない。それがないと日記や宿題を見る時間がない。
・ ・・etc ・・・etc


 1単位時間50分の授業でもこれだから、片方に25分の授業がありながら他方に75分の授業があるというのは、むちゃくちゃ難しい時間割作成となるはずだ。
 記事には
開始から25分。教諭が授業を切り上げると、代わりに英語教諭が入室。終了のチャイムまで単語学習やリーディングを進めた。
と軽く書いているが、授業を切り上げた数学の先生は残りの25分を空き時間にせざるを得ず、後から来た英語の先生も、始まるまでの25分間を空き時間にせざるを得ない。間に休み時間がないので、移動時間が取れないのだ。

増えたコマを割り振って主要教科をほぼ毎日設け
が本当だとすると、国・社・数・理・英の先生は、実質的に一日の半分があき時間になってしまう。普通の学校で6授業時間中1時間か2時間しか空き時間をとれない中で、梅林中だけが半日空き時間にできる秘密はどこにあるのだろう?

さらに、文中に現れる数学・英語・理科の三科目は、いずれも年105時間と決められているから融通が利きやすいが、1年生の国語(年間)140時間とか、中3社会80時間、中3理科80時間とかが絡んでくると、どこかで計算が合わなくなるはずだ。それを梅林中はどうクリアしているのだろうか?考えれば考えるほどなぞである(もちろん教員が2倍もいれば可能だが)。

いずれにしろそうした点にまで踏み込まない報道は、教育に対する不信感をあおるだけだ。

福岡市梅林中にできることをしない他の学校は、「時間割作成は大変だが、生徒が分かりやすい授業をさらに進めるため改善を加えたい」覚悟のない学校なのだということになる。






 



2008.10.28

【見つけた! みんなが輝く教育】
国際的に金も人も足りない現場
子供を責める前に指導法を振り返る


産経新聞 10月21日、28日]


【見つけた! みんなが輝く教育】国際的に金も人も足りない現場 
2008.10.21 08:16
 最近、教育関係者や教育に関心が高いという政治家の方々から、立て続けにこんなご意見を賜りました。
 「あなたの話は理想論。金も人も足りないなかで、教育現場にだけ苦労を強いるのはおかしい」
 「注意集中や対人関係が苦手、読み書きができないなど、できない子に合わせろというのはクラスの他の子たちを犠牲にすること。課題のある子は別室で指導すべきだ」
 月の半分は各地に出張して教育現場を取材していますが、この2つは必ずといっていいほど耳にする意見です。
 「金も人も足りない」については異論はありません。
 OECD教育局のアンドレアス・シュライヒャー指標分析課長が出している「図表で見る教育2008 日本に関するブリーフィング・ノート」という報告書によれば(以下抜粋)、日本の公財政教育支出の対GDP比はデータが存在する28加盟国中最低の3・4%。教育段階別では、初等中等教育段階への公財政支出の対GDP比は2・6%と29加盟国中27番目、高等教育段階では0・5%と28加盟国で、これまた最低です。
 また、2005年の日本の一般政府総支出に占める公財政教育支出の割合は9・5%。OECD各国平均が13・2%ですから、わが国はデータが存在するOECD加盟国の中ではイタリアに次いで2番目に低いのです。
 さらに、初等教育の平均学級規模は1クラス28・3人です。これもOECD平均の21・5人を大きく上回り、韓国と非加盟国チリに次ぐ水準ですし、日本の初等中等教育段階における教員の法定勤務時間の合計は1952時間で、比較可能なデータのある17カ国のうち最も多く、OECD各国平均(初等教育1662時間、前期中等教育1651時間、後期中等教育1654時間)を大きく上回っていました。
 国際的に比較すれば、日本の教育現場は“確かに”金も人も足りていないのです。以下、次回で。(教育ジャーナリスト 品川裕香)



【見つけた! みんなが輝く教育】子供を責める前に指導法を振り返る
2008.10.28 08:19
 国際的に比較してみたら、“確かに”日本の教育現場は金も人も足りていないといえるでしょう。とすると、「金も人もない」全く同じ条件下で、すべての子供たちがワクワクするような指導を実践し効果をあげている自治体や学校、学級があることはどう考えればいいのでしょうか?
 それは、その地域が恵まれていて保護者も協力的だから? いいえ、いわゆる教育困難校で素晴らしい実践を上げている学校はいくらだってあります。教育委員会主導だから? 教育委員会よりも校長が中心となって戦略的に学校経営しているところは少なくありません。校長を筆頭に管理職が熱心だから? いいえ、校長室から出てこない校長のもとで自分の学級だけは、と頑張っている先生を私は何人も知っています。
 そんな学校を取材していて気づくのは、注意集中やコミュニケーション、読字書字が苦手という子供たちがわかるように授業は視覚化、聴覚化され、体を動かすなど運動機能もフルに活用、思いつくままアイデアを出していく問題解決法を教えたり、協働学習や放課後学習なども導入したりしていること。
 結果、ほかの子供たちの理解も従来の指導法より深まり、学習意欲や自信が向上していたのです。
 しかも共通するのは、不登校の児童生徒が非常に少なく、保健室登校の子供もほとんどいないこと。休み時間も子供たちの間に独特の緊張感がなく、校庭や教室でぽつんと一人でいる子がいない。なにより、教師たちが快活で熱気に溢(あふ)れている…。
 「勉強ができない理由は教える側にあるかもしれない。子供を責める前に指導法を振り返ろう。ティーチング・ディスアビリティー(教え方が原因で起こる障害)にしてはいないか」−。CHADD(全米ADHD児者支援者協会)の大会で、ハーバード大のR・ブルックス教授が問いかけた言葉です。
 「できない子に合わせるのは、他の子を犠牲にする」との主張にはない発想では?
 (教育ジャーナリスト 品川裕香)


 現状でできる人がいるのだからやれ、というのは危険な発想である。

 注意集中やコミュニケーション、読字書字が苦手という子供たちがわかるように授業は視覚化、聴覚化され、体を動かすなど運動機能もフルに活用、思いつくままアイデアを出していく問題解決法を教えたり、協働学習や放課後学習なども導入したりしている

 確かにこういうことのできる教員はいる、それも少なからずいる。しかしだからといって誰にでもできる技ではない。
 普通の教員が
思いつくままアイデアを出してなどとやり始めれば、際限なく意見が出て収拾つかなくなるか、誰も何も言わず、先生だけが「思いつくまま自由にアイデアを出しなさい」と叫び続けてしまうことになる。

 子どもたちが「自由にのびのびと思いつくままにアイデアを出す」ためにはさまざまな仕掛けや魔法があって、それらは世間の人々が思うより、はるかに困難で解明できないなぞなのだ。
 教員というのは一種の職人芸だが、職人として盗める部分もあれば、絶対に真似のできないこともある。したがってできないからといって、それは直ちに怠惰につながるものではない。

 しかも共通するのは、不登校の児童生徒が非常に少なく、保健室登校の子供もほとんどいないこと。休み時間も子供たちの間に独特の緊張感がなく、校庭や教室でぽつんと一人でいる子がいない。なにより、教師たちが快活で熱気に溢(あふ)れている…。

 そんな学校が作れれば、金も人もなくても、必ず生き生きとした学習ができる・・・そのとおりだ。
 しかし不登校をなくすための決定的な技術は、日本中どこにもない。あれば不登校13万人などといった異常な事態は発生しなかったはずだ。
 
 品川女史は事象の表面だけ見て、その奥にあるものを解明しない。
 たとえば、どうしたら「校庭や教室でぽつんと一人でいる子がいない」状況が生み出せるのか、何が「なにより、教師たちが快活で熱気に溢(あふ)れている…。」といった状況を作り出しているの、その点についてはまったく興味がないのだ。

 スポーツの世界で、組織も金もないのにジャマイカの選手は陸上100mで世界記録を出した、ボールも満足に買えないブラジルの子どもたちが世界のサッカーをリードしている、なのに日本はなぜオリンピックの100m走で金メダルを取ったり、ワールドカップで優勝したりしないのだと、堂々と怒る人はない。

 しかしこと教育に関しては、「やれる人がいるんだからつべこべ言わずにやれ」という論理は平気でまかり通る。
 こうしたことが続く限り、日本の教育はさらに下降線をたどるに違いない。

 何年も何十年も、ただひたすら「教師の質が悪い」「教師の室さえ上がればなんとかなはずだ」と叫びながら、結局何の手も打たず、何年後かには本当に教育をつぶしてしまう。

 何十年か前、兵士個人個人の能力を高めるだけで、鉄砲に銃弾一個あればアメリカを倒せると信じたバカどもが日本を潰したが、今度も同じことをしようとしている。情けないことである。







 



2008.10.29

高校入試、茶髪・眉そりチェックし不合格
神奈川の県立


朝日新聞 10月28日]


 神奈川県平塚市の県立神田高校(生徒数347人)が入学試験で選考基準になっていない茶髪や眉そりなどをチェックし、該当する受験生を不合格にしていたことが28日、わかった。県教育委員会の発表によると、本来の基準では合格圏内にいながら不合格にされた生徒は、過去3回の入試で計22人にのぼるという。
 県教委によると、この不正なチェックは05、06、08年度入試で校長の指示により行われた。対象項目は、髪の色やピアス跡、つめの長さ、眉そりやスカートの長さなど。こうした「裏基準」に基づき、教員が願書受付日や受験日に受験生をチェックした。
 県教委が公表している県立高の選考基準では、調査書と面接、学力検査を点数化し、合算した上位から合格を決めることになっており、身なりや態度は基準に含まれていない。今春不合格になった10人を含む計22人の不合格者について県教委は個別に事情を聴き、入学希望者がいれば受け入れる方針だ。
 県教委の説明では、同校には指導上の問題を抱える生徒が多く、教員の負担が大きかったという。山本正人教育長は「学校をよくしたいとの思いは否定しないが、ルールにのっとったやり方にするべきだった」と話した。
 県教委は内部通報に基づき、同校の過去5年間の入試に関係した教員ら33人から事情を聴いていた。身なりのチェックは05年当時の校長の発案とされ、教員の間でも異議は出なかったという。県教委は同様の不正がないか、すべての県立高校を調査する。(岩堀滋、佐藤善一)
     ◇
 【合否判定に使われた主なチェック項目】 茶髪に染めた跡がある▽つめが長い▽願書受付日や受験日の態度が悪い▽願書提出時に軍手をつけたままで受け渡しをした▽胸ボタンを外している▽服装がだらしない▽ズボンを引きずっている▽スカートが短い▽まゆをそった跡がある▽化粧をしている


 
学校は子どもの来るところではない。学校に来ていいのは児童生徒(学ぶ意思と姿勢のある者)だけである。

 髪を染め、耳にピアスの穴を空けている、態度の悪い中学生(!)を、何が悲しくて高校は入学させなければならないのか。みすみす他の子に迷惑をかけると分かっていながら、少なくとも教員のエネルギーを大量に他の生徒から奪うと分かっていても、この子たちを学校は受け入れなければならないのか。

 答えはもちろんイエスである。
 
少なくともこの日本において、組織的に子どもの教育にあたれる者は学校を置いて他にない。だから私たちがやるしかないのだ。
 
 願わくば教員の数を増やし、難しい子とそうでない生徒の双方に、同時にエネルギーを注ぎ込みたいものだが、財政難の今はそれどころではない。難しい子に50点、そうでない子に50点、お互いに我慢してもらうしかない。
 悲しいかな、そういうことである。

 
 
 
 



 



2008.10.30

大泉町教委:小中学校3学期制復帰
「2学期制メリット少ない」/群馬


毎日新聞 10月29日]


 大泉町教育委員会(登坂利彦教育長)は28日、来年4月から町立小、中学校計7校を2学期制から3学期制に戻すと発表した。文部科学省が進める「ゆとり教育」を受け、04年度から5年間、2学期制を実施してきたが「児童・生徒に学習意欲の向上などがみられなかった」などと説明している。
 登坂教育長によると、同教委は04年4月から試験的に2学期制を導入し、児童・生徒の学習意欲の変化や教師の指導・勤務状況などを5年間にわたり調査・研究してきた。その結果、「2学期制によるメリットは少なく、一方で3学期制はデメリットが少ないと判断した」という。
 ゆとり教育の下での2学期制では、夏休みを短縮するなどして授業時間を確保したが、児童・生徒間の学力に格差が生じがちだったという。また、保護者にとっても通知表が2回に減り、不安の声が出た。
 3学期制復帰について、PTA役員や教職員には既に通知しているが、今のところ異論は出ていないという。
 2学期制をめぐっては、太田市の小中学校も04年度から導入したが、07年度に3学期制に戻した。このほか、県内では高崎市と玉村町が03年度から段階的に導入、いずれも授業時間が増え、学校行事の日程を組みやすくなるなど「メリットの方が大きい」として、来年度以降も続けるという。【佐藤貢】


 民間人校長と二学期制そして学校の自由選択制、この三つは概念としてもメリットの分からない三大馬鹿計画であった。

 特に2学期制は、授業時数が増えるといっても「学期の途中だから長期休業はいらない」といった、わけの分からない理由で夏休みを削って生み出した時数であって、そんなもの3学期制のまま夏休みを減らせばどうということのない話だった。

 他に、「総合的な学習など、長いスパンで子ども評価することが重要な鍵になる」といった言い方もあったが、総合的な学習に限らず、評価スパンというものは短ければ短いほどよく、「二ヶ月前のあのときのキミの意見、良かったなあ」などといっても何の意味もない。
誉めるも叱るも、1秒だって遅れるのは私は嫌いだ。

 さて三大馬鹿計画を筆頭に、ここ数年の「新たな試み」は次第に消えたり、縮小されたりしている。これがひとつの歴史の答えである。

 今の日本の教育を飛躍的に高める唯一の方法は教員数を最低20%、できれば50%増やして児童生徒の個性に合わせた教育をすることである(個性というのは、この場合、犯罪を犯す者、心病む者、勉強の遅れた者、異常な可能性にあふれた者、それらすべてを含む)。

 しかしそれができないとしたら(無論、財政の逼迫した現在はできないのだが)、何もせず、97万人の教員の意欲と創造力にゆだねるしかない。それはジリ貧の道だが、現在のような姑息な教育改革を重ね、教育本体を叩き潰してしまうよりはるかにましだと思う。

 ニーチェの「ツァラトストラはかく語りき」に次のような台詞がある。
「神は死んだ。神は死んだ。私たちが殺してしまったのだ」

同じように、
「教育は死んだ、教育は死んだ、私たちが殺してしまったのだ」
とならないように。