キース・アウト
(キースの逸脱)

2008年11月

by   キース・T・沢木

サルは木から落ちてもサルだが、選挙に落ちた議員は議員ではない。
政治的な理想や政治的野心を持つ者は、したがってどのような手段を使っても当選しておかなければならない。
落ちてしまえば、理想も何もあったものではない。

ニュースは商品である。
どんなすばらしい思想や理念も、人々の目に届かなければ何の意味もない。
ましてメディアが大衆に受け入れられない情報を流し続ければ、伝達の手段そのものを失ってしまう。

かくして商店が人々の喜ぶものだけを店先に並べるように、 メディアはさまざまな商品を並べ始めた。
甘いもの・優しいもの・受け入れやすいもの本物そっくりのまがい物のダイヤ
人々の妬みや個人的な怒りを一身に集めてくれる生贄
そこに問題が生まれれば、今度はそれをまた売ればいいだけのことだ。
















 



2008.11.02

愚か者の誓い:忘れ物した生徒に書かせる
足立の中学校


毎日新聞 11月1日]


 東京都足立区立第九中学校で、数学を担当する2年生の学年主任の女性教諭(52)が授業中、宿題などを忘れた生徒に、「愚か者の誓い」というプリントを渡し、「私が愚か者でした」などと何度も記入させていたことが分かった。

 区教委によると、教諭は4年ほど前から、忘れ物をした生徒に「私は、愚かにも(○○○)を忘れました」と書かれたプリントの空欄を埋めさせたうえで、「私が愚かでした。もう○○○を忘れません」と7回書かせていた。さらに繰り返し忘れる生徒の名前を「○○○未提出の愚か者」として教室内に張り出していた。

 10月30日、区教委に教諭の行動を問題視する匿名の手紙が届き、教諭に事情を聴いて発覚した。教諭は「忘れ物をしてほしくないと思って指導した。『ばか者』より『愚か者』という言葉の方がソフトだと思ってしまったが、配慮に欠けていた。反省している」と話しているという。

 鈴木啓一校長は「熱心な教え方ではあるが、まずい方法だ。私も校長として見落としており反省している」と話している。区教委も「教育の仕方として適切ではなかった。対応を都教委と相談したい」と、保護者への説明を検討している。【町田徳丈】



 
愚か者を愚か者と言って何が悪い、昔はこれくらい当たり前だった、と言ってもしかたない。時代は確実に変わってしまった。

 教育の仕方として適切ではなかった
 確かに適切とは言いがたいが、
だったらどうすれば良かったのか
 それに答えてくれる人はいない。

 子どもの心に爪跡ほどの傷もつけてはいけない
 それはよく分かった。

 しかし
その上で社会に通用する強い心と高い学力をつけるにはどうしたらよいのか、
誰もしらない。

 
子どもたちが喜んで宿題をやりたくなるような、分かる、楽しい授業をやればいいのだ。
それも分かる。

 しかしそんな授業を年間に105時間も用意できる教師は見たこともないし、仮にいたとしても、97万人の小中高校教師の、ほとんどができることとはとても思えない・・・、

 そして結局、教師は子どもに宿題をやらせ切ることを諦めてしまう。
 歯を食いしばってもやるべきことはやる、必要最低限の学力をしっかりと身につけていく・・・そうした子どもは、もう学校では育てられない。






 



2008.11.04

「PTAは解体」を謝罪
橋下知事「表現間違えた」


毎日新聞 11月3日]


 大阪府の橋下徹知事は3日、大阪市で開かれた日本PTA近畿ブロック研究大会であいさつし、9月に表明した「PTAは解体する」との発言について「表現の方法を間違えた」と謝罪した。
 橋下知事は「今までのやり方では立ち行かない時代。全部白紙に戻してPTAの在り方を考えてほしいという思いだった」と釈明した。
 一方で「大阪の(教育の)ひどい状況は全部家庭の責任。学校に責任をなすり付けるのではなく、保護者が自覚を持って学校運営に当たらないといけない」とも発言。「PTAは絶対必要。子ども全員の親に参加してもらう組織にするために皆さんと考えたい」と述べた。
 橋下知事は9月に「教育非常事態宣言」を出した後、大阪府枚方市で開かれた会合で「今のPTAが機能していないからこういう状況になった」と批判。「PTAは解体する」と発言し、後に撤回していた。


 昔は、ものごとが今よりずっと曖昧でふくらみがあり、ゆとりも豊かさもあった。映画「三丁目の夕日」の世界と合理性は相容れないものであって、理を尽くせば人情は失われる。日本のPTAはそうした人情のたっぷりあった時代に育ったものであり、その意味でたくさんの不合理や不条理を含んでいる。

 たとえば、そこでは
「義務教育なのに、なぜ親が学校のために働かなければならないのか」とか
設置者である市町村が当然税金から捻出すべき資金を、なぜPTAの資源回収で賄わなければならないのか」とか、あるいは
「警察が行うべき通学路パトロールを、なぜPTAが行わなければならないのか」

とかいった本質的な問題はすべて封印されている。

 学校の立場からすれば、資金も人も圧倒的に不足する中で、PTAは打ち出の小槌のごとくそれらを用意してくれるありがたい組織であり、その代わり、学校も合理を超えて児童生徒に尽くしてきた。それがPTAである。
 それを白紙にして見直そうというから橋下という人は剛毅である。

 
この合理と正義と冷徹の時代にPTAを白紙に戻せば何が起こるのか、橋下知事には見えていないのだろう。だから私が教えておく。
 
 
PTA組織の最大の不合理は、学校に籍を置く児童生徒の保護者と教職員が「全員加入を強制される任意団体」ということである。任意団体である以上、教職員がどれほど働いても、時間的金銭的手当てはまったくない。保護者にしてもPTA活動から得るものは何もない(心理的な満足感や達成感を別とすれば)。

 したがって、PTA活動を根本的に見直すとき、最初の現れる要求は、PTAへの任意加盟である。アメリカの学校のほとんどがそうであるように、
 やりたい人、やれる余裕のある人だけがやればよい。
 
 そしてその要求はほぼ確実に通る。「加盟を強制される任意団体」という不合理は、現代社会では許されないからだ。
 橋下知事は「PTAは解体する」と言った。しかし知事が叫んだくらいでは解体するはずがない。
PTAは絶対必要。子ども全員の親に参加してもらう組織にするために皆さんと考えたい
全部白紙に戻してPTAの在り方を考えてほしい

 こうした中途半端な理解ある発言によって、PTAは解体される。

 そして一度つぶれたものは絶対に元に戻らない。
PTAに入らなくてもいいという甘い汁を吸った保護者は二度と苦いものを飲まない。保護者も汗を流しているんだからと我慢してきた教職員だって、仕舞いには我慢しなくなる。
 休日に学校に出てきて、PTA作業やら資源回収やらを、教職員だけでやらされるのはたまらないのだ。







 



2008.11.06

 
横浜市立学校、トイレ清掃復活へ/10年度から全校実施/教職員から賛否両論


神奈川新聞 11月5日]


 横浜市教育委員会が、特別支援学校を除く全市立学校計五百校で、児童・生徒によるトイレ清掃をおよそ三十年ぶりに復活させることが四日、分かった。対象は小学三年生以上の予定。今月中旬以降、モデル校の小中学校十校前後に順次導入し、二〇〇九年度を試行期間と位置付けた上、一〇年四月から全校で本格実施する。教職員からは「身の回りのことを自らできるようになるのは重要」「感染症など衛生面に問題がある」など賛否両論が出ている。

 市教委によると、県内の公立学校では、横浜市の児童・生徒だけが全くトイレ清掃をしていない。トイレという共有スペースの便器や床、ドア、ノブなどを掃除することで、物を大切にする心や規範意識を養おうという狙い。少子化の影響からか、個人中心の考え方をしがちな子どもが増えているため、「公共の精神」を育てる目的もあるという。

 学校関係者のひとりは「トイレへの落書きや破損を含む暴力行為の件数が、〇五年度に過去最高に達したことも影響しているのではないか」と指摘する。

 過去に児童・生徒がトイレ清掃を実施していたこともあったが、一九七〇年代後半以降は「校務員の業務」と位置付けられてきたという。現在、小学校は昼休み、中学校が放課後にトイレを除く掃除を行っており、トイレ清掃もこの時間帯に行う予定。

 トイレ清掃の復活は教職員の反応を二分。反対派は「公共心が育つのか疑問」「ノロウイルスやO―157などに感染しない対策が取れるのか」と指摘。賛成派は「トイレをきれいに使うようになる」「身の回りのことを自らできるようになるのは重要」と主張する。

 モデル校となった中学校の男性校長は「トイレ清掃を通して、自ら社会を良くしていこうという心を養いたい。衛生面には細心の注意を払っていく」と話している。



 児童生徒が学校の掃除をするのは、貧しい国と旧社会主義国と日本だけだ、という話を聞いたことがある。

 古来、日本では武道や芸能の世界において、清掃が修行の一部だった。どんな世界に入門しても、最初にさせられるのは清掃だった。寺に入っても、落語家の弟子になっても、有名作曲家の家に住み込みで入る場合も、すべて修行の入り口は清掃だったはずだ。

 一方、欧米では児童生徒は学校に勉強しに来ているのであって、それ以外は行わないのが普通。ボランティア活動に出るにしても、それはカリキュラムの中にあるものであって、日本の学校の空き缶拾いのような自主的なものではない。
そして
欧米の子どもたちは、自分たちが使った学校を掃除する黒人やプエルトリコ人の姿を見ながら、差別を学ぶのだ。
 
 さて、
 横浜市教育委員会が、特別支援学校を除く全市立学校計五百校で、児童・生徒によるトイレ清掃をおよそ三十年ぶりに復活させることが四日、分かった。
 と聞いて、ショックを受けない教員が日本全国で何人くらいいるか調べてみたいものだ。

 復活することにではない、
30年間も児童生徒にトイレ掃除をさせない学校がこの日本にあったことに驚くのだ。

 しかもそれを校務員にさせていたというのは、どういう発想から出た制度なのだろう。横浜の子どもたちは大人になってから、誰に自宅のトイレの清掃をさせていたのだろう?
 本当に一軒一軒、しらみつぶしに訪ねて聞いてみたいものである。

 さらに、
 
トイレ清掃の復活は教職員の反応を二分。と、教職員の半数が反対というのも驚きの結果である(本当に半分も反対しているのか?)。しかもの理由が、
 
「公共心が育つのか疑問」
 「ノロウイルスやO―157などに感染しない対策が取れるのか」
 
とは!
 
 
公共心が育つかどうか疑問、と言ってしまったら道徳の授業も、公共心を育てる目的で行うすべての活動も一切できない。心を育てる「保障された活動」というもの学校には一つもないのだから(あれば日本人はすべて公共心にあふれた人間になっている)。
 
 また、
「ノロウイルスやO―157などに感染しない対策が取れるのか」と言い出したら、今もトイレ清掃をやらせている日本中の学校がアホ学校になってしまう。
 そもそもそこまで気を遣う横浜の学校が、日本一安全で清潔な学校だという話は寡聞にして聞いていない。
 
 いずれにしろ、
 児童生徒のトイレ掃除をなくしたという時点で横浜はアホなのであり、
 今月中旬以降、モデル校の小中学校十校前後に順次導入し
 などとアホな手続きをとって復活するというアホな教育行政を、さも問題ありそうに扱う神奈川新聞もこれまたアホというしかない。

 
 清潔が最優先で病原菌が怖いなら、一箇所に子どもを集める現在の学校を見直し、全員家から外に出さないのがベストだ。巨大な学校群を維持するより、そのほうが財政的にも楽に違いない。

 横浜、そうしなさい!






 



2008.11.15

 
暴行の元高校職員に無罪??
「指導は体罰に当たらず」


共同通信 11月13日]


 神奈川県立湘南高校の食堂で食器を片付けさせようとして当時1年の定時制の男子生徒=当時(15)=にけがをさせたとして、傷害罪に問われた元非常勤職員で技能員だった男性(38)に、横浜地裁が12日に無罪(求刑・罰金15万円)を言い渡していたことが13日、分かった。
 大島隆明裁判官は「軽度とはいえ、暴行によって傷害を負わせたが、生活指導の一環で体罰には当たらない」と認定。「この行為が処罰対象となれば、指導に従わない生徒が体に触れただけで教職員を警察に告訴する風潮を生み出しかねない」と指摘した。
 判決によると、男性は昨年6月、男子生徒が食堂でカレーライスをテーブルにまき散らし、片付けずに外に出ようとしたため「食器を片付けろ」と首をつかんで押し戻し、1週間のけがを負わせた。男子生徒は「ばかなやつだ。学校にいられなくしてやる」「首だ」などと発言していた。




なんとも釈然としない記事である。
本当にこんなことがあったんだろうか。

食堂でカレーライスをテーブルにまき散らし、
片付けずに外に出ようとした
「食器を片付けろ」と首をつかんで押し戻し、

たら、
1週間のけが
(かすり傷?)
で、
男子生徒は「ばかなやつだ。学校にいられなくしてやる」「首だ」などと
大騒ぎ。

本当にこれで教員が処罰されるようなら、もうだれも教師などやっていられない。


この行為が処罰対象となれば、指導に従わない生徒が体に触れただけで教職員を警察に告訴する風潮を生み出しかねない

裁判所の判断は、極めて、極めて妥当なものといえる。

しかし、そもそも
こんなアホなことで裁判が起こせるかも知れない、賠償金が取れるかもしれないと考えたこと自体が驚きである。

 家族も親戚も隣近所も、あるいは同級生の保護者や話を持ちかけられた弁護士も、誰もこれをなだめ、押しとどめようとはしなかったのだろうか?


 無罪にはなった。ただしこれで学校や教師に何の実害もなったわけではない。
 私たちにとって、裁判を起こされることはそれ自体が懲罰なのだ。起こされた時点で教師は教壇から外され都道府県教委の指導下に入る。
 裁判のために大量の資料を用意しなければならないが、その大半は校長や教頭や同僚の仕事である。
 裁判のたびに出かけていて、どうでもいいような細かな過去が暴かれるのを聞かなければならない。
 
  さて、今後
当該の教員も周囲で見ていた教師たちも、同じ状況で同じ行為に出ることはないだろう

 食べ物を撒き散らした生徒はそのまま見過ごされ、あとのテーブルは教師たちが黙々と片付ける。それを見ていた他の生徒たちが学校を馬鹿にしても、それはしかたない。
 
 仕事とは言え、他人の子どものために自分や自分の家族、同僚や上司を犠牲にしてはいけないのだから。






 



2008.11.16

 
【神田高校問題】
「校長先生を戻して」「服装で合否、正しい」
保護者や生徒が嘆願書


産経新聞 11月15日]


 神奈川県平塚市の県立神田高校が入試で服装や態度がおかしい受験生を不合格とした問題で、更迭された渕野辰雄前校長(55)を学校現場に戻そうと保護者や生徒らが16日までの予定で署名活動を実施、週明けに松沢成文県知事と山本正人教育長あてに嘆願書を提出する。前校長は教頭時代から同校建て直しに取り組み、信頼を得ていた。多数の中退者など生徒指導に悩む学校現場。同校だけの問題ではない。(中村智隆、鵜野光博、福田哲士)

●「苦渋」の選択
 神奈川県教委が問題を公表したのは先月28日。翌日、渕野前校長を今月1日付で県立総合教育センター専任主幹に異動させる人事を発表した。
 その後、県教委などには1300件を超える意見が寄せられ、その9割以上が「校長の判断は正しい」「風紀の乱れを事前に守ろうとした校長がなぜ解任されるのか」など前校長を擁護するものだ。
 週末には同校PTAのOBや卒業生らが14〜16日の予定でJR平塚駅北口で署名活動を実施。
 卒業生の女性(19)は「渕野先生は常に生徒のことを考えている」。署名した女性(69)は「親の育て方が悪い。渕野前校長は悪くない」。30代の主婦は「外見などは基本のことで選考基準になくても当然。自分の子供を入れようとするときに金髪の生徒などがいるのは嫌」とした。
 在校生からも「校長先生を戻してください。これは生徒みんなの願い」(1年女子)。保護者からは「渕野前校長は現場にいるべき人間」「大事なお父さんを連れて行かれた感じ」との声もある。
 PTAなどはすでに県教委に渕野前校長の人事の撤回を求める要望書や陳情書など3通を提出。内容は、(前校長を)神田高校の生徒指導派遣に出してほしい▽神田高校でなくとも校長として現場に戻してほしい▽これ以上の処分はしないでほしい−などだ。
 渕野前校長は産経新聞の取材に「ルールから逸脱しているという認識はあった」とした上で「先生たちの物理的、体力的な限界というものがあり、負担を軽減させたかった。苦渋の決断だった」と話す。

●建て直しの矢先
 同校保護者らによると、以前の同校は校内に飲食物が散乱し、喫煙やいじめ、盗難などが絶えなかった。近隣の公民館やコンビニエンスストアなどには「神田高生の立ち入り禁止」の張り紙が出され、アルバイトを断られたり、バスに乗せてもらえなかったことも。
 中退者は全校生徒約350人に対し、年間100人。謹慎処分を受ける生徒も絶えなかった。しかし、平成15年になるとこの状況に変化が見え始めた。教頭だった渕野前校長と前任の校長が「まじめな生徒が下を向いて歩いているようではいけない」と具体的な対策を取り始めたのだ。
 学校と生徒・保護者の緊密な連絡と親身な対応▽ごみ拾いを兼ねた校内の見回り▽部活動・同好会の奨励▽学校便りの地域での回覧−など。PTAや地域も賛同、教職員と取り組んだ。
 その結果、校内からごみが消え、生徒たちはあいさつをするようになってきた。地元の警察は「指導件数が減った」と舌を巻き、大学や専門学校に進む生徒が増えてきたという。部活動も活発になり、チームが組めないほどだった野球部は、18年には公式戦で10年ぶりの勝利を飾った。
 渕野前校長は生徒と食事をともにするなど率先して指導に取り組んだ。「学校全体の担任という思いで生徒たちに接してきた」といい、全校生徒の顔と名前を覚えているという。
 今回の問題の発端となった入試での身なり調査も学校建て直しの中で平成17年度入試から設けられた。
 「改革が軌道に乗り始めた」という矢先。渕野前校長は「異動は致し方ないこと。しかし道半ばでこうなってしまったことは非常に無念」と話す。
 身なりや態度について、そもそも選考基準に明記すべきものなのか。同校関係者は「常識まで明文化を求めるのか…」と話す。
 元教育再生会議委員で神奈川県教委の教育委員を務める渡辺美樹・ワタミ社長は「神田高は3、4年前は非常に荒れており、入った生徒が半分以上辞めてしまう大問題の学校だった。(渕野前校長は)県教委が送り込んだ校長で非常にがんばってくれ、みるみるうちにいい学校にしてくれた」と高く評価する。
 県教委の説明では、渕野前校長は「ピアスや金髪、丈がおかしいスカートなど、『この高校に入りたくない』という態度を前面に出しているような生徒をなぜ入れなければならないのか」と話したという。
 それでも県教委が更迭したことについて渡辺氏は「校長職を解いただけで、更迭の認識はない。むしろ処分してはだめだと主張した。選考基準に服装や態度を盛り込んでいなかったのは単なるミスであり県教委側にも責任はある。校長だけが責められるべきではない」と話す。
 ■入試時、「問題あり」とされた例
まゆをそっている▽髪を染めている▽つめが長い▽態度が悪い▽胸ボタンが外れている▽服装がだらしない▽ズボンを引きずっている▽スカートが短い▽落ち着きがない▽軍手をつけたまま書類を受け取る…
 服装や態度が悪い生徒を不合格にした神奈川県立神田高校の対応について、生徒指導の問題を抱える学校で指導経験がある教員らはどうみているか。
 「公表基準以外で不合格にしたことが問題視されているが、では面接で落としていればオーケーなのか。この問題をそんな話に矮小(わいしょう)化しない方がいい」
 こう話すのは、私立北星学園余市高校(北海道余市町)の幅口(はばぐち)和夫校長だ。
 積丹半島の付け根の町にある同校は高校中退者を積極的に受け入れ、テレビドラマにもなった。生徒約300人のうち不登校経験者が6割、高校中退経験者が4割弱を占める。
 幅口校長は「渕野氏のやり方をいいとは言わないが、気持ちはよく分かる」とした上で「教育しやすい生徒だけを学校に入れ、あとは切る。高校のあり方としてそれでいいのかという問題が根底にある」と指摘する。
 一方、同校出身で同校教師“ヤンキー先生”として指導部長を務めた経験がある参院議員の義家弘介氏は渕野前校長を擁護。「志望校に行くのにきちんとした格好で行くのは当然。社会では外見で判断されることも多い。廊下を歩いているときもすべてが面接の時間だという意識を持つよう指導していた。内申書は情報公開請求で開示されるようになってから9割9分、生徒に都合のいいことしか書かれなくなった。受験時の態度は生徒の合否を判断する貴重な情報だ」とする。
 そして「惜しむらくは、神田高の先生には生徒に『なぜそんな格好で来たのか』と声をかけてほしかった。『まずかったですか』と恐縮する生徒なら高校でもやっていけたかもしれない」
 また元中学教師で日本教育大学院大教授の河上亮一氏は「学校を混乱させる生徒を試験で落としたいのは学校の本心だ」とし、「公表した入試の合格基準を守らないで不合格にしたのはフェアじゃない」としたうえで、神田高にやや批判的な見解を示す。
 河上氏は2つの処方箋(せん)をあげる。1つは入試基準を変え、服装や態度などの要素を入れること。もう1つは入学後の退学や停学について基準を明確にし、スムーズに行える仕組みを作ることだ。
 神奈川県内の元高校長は、年間140人の生徒が中退していたという校長時代を振り返り、「教師には無力感が広がり、それでも定員いっぱい受け入れようと主張するグループと、ある程度切り捨てるべきとするグループに教師が二分化していた」と話す。
 「切り捨てるのは簡単だが、入ってきた子供を学校になじませ、教え育てるのも公立高の重要な役割。外見で合否を判断する基準が公立高にあっていいのか」と指摘する。

●“荒れる学校”変質
 昭和50年代後半を中心に、校内暴力など荒れる学校や高校中退が社会問題化した。授業が成立しない、退学者が多い学校は「教育困難校」などといわれたが最近はあまり使われない。
 東京都ではここ数年、都立高校の中退者数が激減している。退学者への取り組みに課題があるとみられる約50校に対して改善計画を求めるなど指導が中退者減につながっているという。
 都教委は「現在は、子供たちの受け皿になるような多様なスタイルの学校が増えており、目に見える形での問題校は減った」(都教委担当者)。
 しかし、約10年前、教育困難校として知られた茨城県立鹿島灘高校で教壇に立ち、建て直しに力を注いだ教育コンサルタントの笠井喜世氏は「今の子供たちは昔とは質が変わっており、確かに荒れることはない。しかし、『学力低下』や『やる気の不足』。そういう意味で教育困難校は存在する」
 笠井氏は新学習指導要領で授業数が増えることにも触れ、「教員の負担はますます大きくなり、やる気のない子供たちは手に余ってしまう。まず入学前の時点で、ある程度選別せざるを得ない」と話す。
 北星学園余市高校の幅口校長は、不登校や中退する生徒について「人間関係をうまく作れないという共通点がある」とし、「そうした生徒に対応できる教育をどこかでつくる必要がある。現在、主な受け皿となっている通信制や単位制の高校では、しっかりした人間関係をつくることは難しいのでは」と話す。

 神田高校問題 同校の平成17、18、20年度入試で願書受け付け時や受験日に「まゆをそる」「ズボンを引きずる」など髪形や服装などを独自にチェック、「入学後の生徒指導が困難」と判断した計22人を合格ラインを超えていたが不合格としていた。県教委は「非公表の選考基準で選抜したことはルールを逸脱している」として謝罪会見した。同校は21年度から五領ケ台高校と統合され平塚湘風高校になる。


河上亮一の言う
「公表した入試の合格基準を守らないで不合格にしたのはフェアじゃない」
は正論である。これが前提であって、それがすべてである。

 ただし、私は入試基準を変え、服装や態度などの要素を入れることにも賛成はしない。服装や態度というもの荷は必ず主観が入るし、主観が入る以上は必ず係争になる。
 それが受験生としてふさわしいかどうか、
本当に『この高校に入りたくない』という態度を前面に出しているよう
に見えるかどうかといったことが、いちいち裁判所で争われるようになったら、私たちがたまらない。

 また、
切り捨てるのは簡単だが、入ってきた子供を学校になじませ、教え育てるのも公立高の重要な役割
というのも正論であって、私はどんな子であっても高校へは入学させるべきだと思う。彼らを高校が受け入れなければ、そのうちの何人かはやがて社会的にお荷物となって私たちに圧し掛かってくるからである。
 
 今や組織的に子どもの教育をできるのは学校だけである。そうである以上、
まゆをそっている▽髪を染めている▽つめが長い▽態度が悪い▽胸ボタンが外れている▽服装がだらしない▽ズボンを引きずっている▽スカートが短い▽落ち着きがない▽軍手をつけたまま書類を受け取る…
そういった子どもこそ学校は引き受け、徹底的に教育すべきなのだ。

 ただし問題は、
それを行うのに、現在の日本の学校はあまりにも人手不足だということである。
 3年間で22人なら一年に7〜8人。この子たちのためのクラスをつくり、8人を2〜3人で見ればいいだけのことだ。
 金で解決することなら、金を使えばいい。金を使うのがいやなら、そうした子を内に抱えて行う高校教育が、ボロボロになっていくのをただ見ていれば良いだけのことである。







 



2008.11.28

 
「人生が変わってしまった」/22人の1人の保護者が心情を吐露
/神田高校不適正入試問題


神奈川新聞 11月26日]


「子どもの可能性の芽が摘まれてしまった。謝罪されても、もう時間は戻らない」―。県立神田高校(平塚市)が入試で選考基準を逸脱し、本来なら合格していた二十二人の生徒を服装の乱れなどを理由に不合格にしていた問題で、突然届いた県教育委員会からの手紙に当該の生徒やその保護者は戸惑っている。ある保護者は「(こうした事態を招いた)関係者が処分されないのは甘い」と怒りをあらわにした。

 神田高で基準点を超えながら不合格になったのは二〇〇四年度、〇五年度実施の入試でいずれも六人、〇七年度は十人。

 現在十八歳になる長男が〇五年度の後期選抜を受けた小田原市内の母親(53)は今月半ば、県教委から「お話したい」と手紙が届いた。その数日後の二度目の手紙に「合格圏内に入っていたにもかかわらず不合格にされていた」と理由が示されていた。

 母親は事態をのみ込んだ。「息子もあの時入学していれば違った人生を歩んでいたはずなのに」と悔しさを隠さない。

 長男は「俺だって高校生をみるとうらやましいし、高校に行きたかったよ」と話すが、進学した同級生は高三。「ようやく仕事を見つけ車の免許も取った。今さら三年間通う気にはなれない」

 中学生時代、茶髪にしたことが原因で教室に入れてもらえず、中二半ばから不登校になった。再起をかけ中三から横浜市内の公立中に転校。親類の家に下宿し、塾に通って個別指導を受け高校受験に備えてきた。

 塾の先生とも相談し、小田原市内の実家から通える距離も考慮して神田高を選んだ。母親は当時、「お母さん、受かったと思うよ」と長男が明るく話していたことを覚えている。ピアスの跡もあったが、髪を黒染めして受験に挑んだ。「息子は外見とは違い思いやりのある子。周りに迷惑をかけるようなことをする子ではない」(母親)。

 入学した通信制高は続かず、交通事故でけがしたことをきっかけにふさぎ込み、うつ状態になったこともある。ことし夏前からハローワークに通い、とび職の仕事を見つけて働き始めたところに、手紙が届いた。

 神田高の前校長の復帰を求める嘆願書が提出されたことを、母親は報道で知った。複雑な思いをにじませた。「不合格にされた息子のことも理解してほしい。(外見という)偏見で二十二人の人生を変えたのだから」

 県教委は不合格にされた受験生とその保護者に手紙を出して当該者と伝えている途中。「生徒や保護者と直接会って謝罪し、今後の対応を相談したい」(高校教育企画室)としている。




 言葉というものは、文法的に合っていれば内容も正しいというものではない。
たとえば、
「犬は空を飛ぶ」
は文法的には間違いはないが、内容は荒唐無稽である。

「息子もあの時入学していれば違った人生を歩んでいたはずなのに」
 仮に違った人生だったとしても、今より良いかどうかは疑問だ。
 夏前からハローワークに通い、とび職の仕事を見つけて働き始めた今のほうが、よほど良いかもしれない。

 
茶髪にしたことが原因で教室に入れてもらえず
 これも「人を殺したことが原因で逮捕され」と同じで、「ああ」なると分かっていることをして「ああ」なっただけのことである。
 教室に入れてもらえないなど、学校と大変なトラブルになると承知の上で茶髪にしながら、問題の原因があたかも学校にあるように言うのは、いかがなものか。
 さらにまたそういう経験がありながら、なぜ受験直前までピアスの穴を開け、髪を染めていたのか。茶髪やピアスは学校が喜んで受け入れる要因でないことを、いつになったら理解するのか。
 
その子が外見にこだわるように、学校もまた外見にこだわるのだ。

 ところで、
 ピアスの跡もあったが、髪を黒染めして受験に挑んだ。
 そのピアスの穴はいくつあったのか。穴の空いていたのは耳朶だけだったのだろうか?
 黒染めにした髪はどんなヘアスタイルにまとめられていたのか。話を聞く態度や行動はどうだったのか。
 神田高校はいかなる理由でその子を忌避したのか、さらに突っ込んで調べなければ、記事としてフェアとは言えないはずだ。

 繰り返すが、
 
「息子もあの時入学していれば違った人生を歩んでいたはずなのに」
 それは分からない。
 しかし
 小さな頃からもっと良い育ちをしていれば、今とは違ったより良い人生を歩んだいたは間違いない。