キース・アウト (キースの逸脱) 2009年1月 |
by キース・T・沢木
サルは木から落ちてもサルだが、選挙に落ちた議員は議員ではない。 政治的な理想や政治的野心を持つ者は、したがってどのような手段を使っても当選しておかなければならない。 落ちてしまえば、理想も何もあったものではない。 ニュースは商品である。 どんなすばらしい思想や理念も、人々の目に届かなければ何の意味もない。 ましてメディアが大衆に受け入れられない情報を流し続ければ、伝達の手段そのものを失ってしまう。 かくして商店が人々の喜ぶものだけを店先に並べるように、 メディアはさまざまな商品を並べ始めた。 甘いもの・優しいもの・受け入れやすいもの、本物そっくりのまがい物のダイヤ。 人々の妬みや個人的な怒りを一身に集めてくれる生贄 。 そこに問題が生まれれば、今度はそれをまた売ればいいだけのことだ。 |
2009.01.04
子供も参加の授業評価制度導入へ
大阪、学力向上5カ年計画全容
[産経新聞 1月 4日]
全国学力テストの成績が2年連続で下位に低迷したことを踏まえ、大阪府教育委員会が平成21年度から実施する学力向上のための5カ年計画の全容が3日、明らかになった。児童生徒らによる「授業評価制度」を府内の全公立小中学校で導入するほか、府教委の指導主事らによる「モデル授業」を教員向けの専用ホームページで公開することなどが柱。関連経費を21年度予算案に計上する。
授業評価制度は、授業の分かりやすさなどに関してアンケート調査を行い、集計結果を教員へ通知、授業の改善ポイントの自覚につなげる。回答者には子供と保護者のほか、教員も加わり、教員間の相互評価も取り入れる。府教委が質問項目案を示し、最終的には学校ごとに作成する。
学校は結果をもとに、各教員に「指導案」を作らせたり、校内で「授業研究会」を開いたりする。府教委担当者は「授業改善に向けた機運を高めることが一番の狙い」としており、給与や能力評価には結びつけない。こうした評価制度について文部科学省は「都道府県単位で、全小中学校で行うケースは把握していない」としている。
モデル授業は、教員経験のある府教委の指導主事が学校に出向いて行う“お手本”の授業を動画で撮影、教員がパスワードを入力すれば閲覧できる専用ホームページにアップする。小学校の国語と算数、中学校の国語、数学、英語について、22年度末までに60例を掲載する。
また、全国学力テストの生活実態調査で、家で全く勉強しない小学生が8・1%(全国4・5%)、中学生が11・5%(同7・7%)に達したことを重視し、宿題や放課後学習で使うプリント「ワークブック」を独自に開発、22年度末までに5000枚を作成する。専用ホームページとは別に府教委のホームページにも掲載し、各家庭で自由に印字することも可能になる。
このほか、学習定着度を単元ごとに把握するため学校で行っている「単元別テスト」についても、総問題数を現行の20倍以上の4500に増やす。さらに、今年度から小4〜中3の各学年5%を抽出して実施している「大阪府学力テスト」を21年度以降も継続し、一連の学力向上策の検証や改善に役立てる。
教育改革と言ってもおよそ考えられそうなことはたいてい出切っているため、さほど新しいものはない。
産経新聞記者氏にすれば
児童生徒らによる「授業評価制度」
などは目新しく見えるかもしれないが、文部科学省の『「学校評価ガイドライン」の改訂について』(平成20年1月31日)に、
自己評価を行う上で、児童生徒や保護者、地域住民を対象とするアンケートによる評価や、保護者等との懇談会を通じて、授業の理解度や保護者・児童生徒がどのような意見や要望を持っているかを把握することが重要である。
とあるように、すでに行われてきたことである(私の勤務校では、平成17年度から行い、本年度で4回目となっている)。
学校は結果をもとに、各教員に「指導案」を作らせたり、校内で「授業研究会」を開いたりする。
も、これまで当然行ってきたことだし、
授業改善に向けた機運を高めることが一番
といった言い方は耳にたこができるほど聞いてきた。
ただしそれらはすべて学校単位で行ってきたことだから
「都道府県単位で、全小中学校で行うケースは把握していない」という文科省の言い分も間違いではない。
さて、今回の大阪府学力向上のための5カ年計画の
最もユニークな点は、児童生徒の宿題と単元テストに直接手を出したことである。
これだけは他の都道府県もやっていない。
宿題や放課後学習で使うプリント「ワークブック」を独自に開発、22年度末までに5000枚を作成する。
「単元別テスト」についても、総問題数を現行の20倍以上の4500に増やす。
授業改善といったって採用10年以内の若い教員ならまだしも、20年も30年も教員をやってきながら、まだ伸びしろが十分にある教師などめったにいない。
優秀な教員は限界まで力を伸ばし、力のない人間はどうやってもやはり、力はない。
だとしたら
学力向上のためには、子どもに勉強時間を増やしてもらうしかない
ではないか。
それが現実的なものの考え方というものである。
さすが商都大阪の人間は、考えることが違う。
理想論を言っても時間ばかりかかって今目の前にいる子どもには間に合わないのだ。
大阪。期待して見ていよう。
5000枚の宿題プリントと4500枚のテストのために学力を伸ばした児童生徒と、教師の明るい声が、教室にこだましているに違いない。
「どーしてこんなに宿題出すんじゃ、ワリャー!」
「そんなこたあ、橋下に言えっちゅうんじゃ、アホンダラー!」
2009.01.07
【教育】「道徳」の教科化をJCが文科相に提言
[産経新聞 1月 7日]
日本青年会議所(JC)の小田與之彦(よしひこ)会頭は、文部科学省に塩谷立文科相を訪ね、小中学校の学習指導要領で「道徳」の教科化を求める提言書を手渡した。
提言書では、現状の「道徳」授業について「授業時数が確保されず、教える内容も担保されていない」と形骸(けいがい)化への懸念を示し、「検定教科書の不在が教師の混乱を招き、教師の勉強不足や能力による格差が生まれている」と指摘。
教科化の壁とされる点数評価については「国語と同じように行う」とし、検定教科書には偉人伝や天皇の歴史、武道・茶道など「道」を盛り込むべき−などとしている。
小田会頭は2041人の賛同署名も提示。JCによると、塩谷文科相は「道徳教育の重要性は認識している。教科化は一つの手法に過ぎないが、提言をきちんと検討したい」と話した。JCは「道徳の授業はどうあるべきかという議論を国民の間に広げていきたい」としている。
世の中の人たちは、道徳というものをどのように捉えているのだろう? ご自身は、どのように道徳的資質を育ててきたのだろうか?
そしてまた、「道徳の教科化」というものをどのように考えておいでなのだろう?
私にはまったく分からないのだ。
さらにまた、
「授業時数が確保されず、教える内容も担保されていない」とか、
「検定教科書の不在が教師の混乱を招き、教師の勉強不足や能力による格差が生まれている」
とかは、果たして事実なのか、それも分からない。
現在、各出版社からかなり良質の「道徳の教科書」が出ているが、検定を通ると何が変わるのだろう? 各出版社の教科書のどこに問題があるのか、具体的に聞かせてもらいたいものである(とりあえず、小田会頭は各社の教科書を読んだことがあるのだろうか?)。
教科化の壁とされる点数評価については「国語と同じように行う」
まさか道徳教材の漢字の読み書きや、文法について問うわけではないだろう。だとしたら文章読解ということになるが、
文章を読み取れる子が道徳の成績をかっさらっていくとしたら、読みの苦手な子はどんなに心優しい子でも「1」がついてしまう。
国語や算数が「1」でも人格に関わりないが、道徳が「1」だとどう生きていけばいいのか。そうしたことを考えたことがあるのか?
検定教科書には偉人伝や天皇の歴史、武道・茶道など「道」を盛り込むべき
小田会頭たちJCのメンバーは、年間35時間しかない道徳の時間に武道や茶道を学ぶことで道徳的資質を育ててきたのかもしれない。しかし私のような普通の子は、彼らほど賢くないのだ。言葉だけで道徳的資質を育てられるほど頭が良いわけではない。
どうしてこんな厄介なことを考えつくのか・・・・・。
*道徳の教科化というと、私の頭に真っ先に浮かぶのは「中学校で、道徳が学級担任の手を離れ、専門の教科担任がつく」ということである。教科化で良いのはその点だけであるが、果たして財源はどこから持ってくるのだろう。
2009.01.09
【正論】社会学者・加藤秀俊
「競争」なくして何の教育か
[産経新聞 1月 8日]
≪本心では大好きなのに…≫
このところスーパーでは一円きざみで商品の価格競争がはじまっているという。東京銀座では格安品のデパートが大繁盛で老舗が苦境に立たされているという。その現場をみたわけではないが、なるほどそんな時代になったのか、とおもう。
もともと現代社会は競争で成り立っている。自動車、電器など各社はその機能やデザインで競争しているし、テレビ局は視聴率競争に懸命である。建設、機械、食品、化粧品などなど、どんな業界をとってみても競争のないところはない。
世界中があれだけ熱中するスポーツの世界はまさに「競争社会」のお手本である。勝ちたい一心、選手たちは訓練怠りない。野球、サッカー、水泳、テニス…。テレビのアナウンサーは興奮した口調で優勝、2位、3位、と競争の結果を絶叫する。それほどにわれわれは競争が大好きなのである。
人生もまた競争の連続である。まもなく入学試験シーズンが始まる。受験生諸君はひたすら合格をめざして勉強中であろう。合格するひともいるし、不合格になるひともいる。さいわい入学できても学期ごと、科目ごとに試験があって点数がつく。優劣が判定されるのである。
さらに、優秀な成績で大学を卒業したからといってすぐにどこにでも就職できるわけではない。一流といわれる会社の入社試験は数百人の受験者のなかから数名がえらばれるだけ。
≪学力テスト反対に豹変≫
会社や官庁にはいってもやがて人事の淘汰(とうた)がおこなわれる。能力しだいで昇任して課長、部長、といったふうに出世する人物がいるいっぽう、万年ヒラ、という凡々たる人生をおくるひともいる。そんなことをしているうちに、リストラという名の人員整理ではじき出されることもある。いや、それ以前に就職できないひともいる。世の中、まことにきびしいのである。
学校の先生になるのもたいへんだ。大学で教職課程を履修しておけば小中学校の先生になる「資格」はあたえられるが、じっさいに教職につくためには地方自治体の「採用試験」に合格しなければならない。各都道府県別の採用試験の倍率をしらべてみると、バラツキはあるけれども4倍から12倍、という厳しい現実がある。これだけの競争率を突破しなければ先生にはなれないのである。
ところが、それだけの競争に勝ち残った有能な秀才が、いったん教職につくと、突如、豹変(ひょうへん)して「競争」に反対なさるのがまことにいぶかしい。たとえば「学力テスト」に反対する。テストが終了し集計がおわるとこんどはその結果公表に反対する。いずれも「競争心を煽(あお)る」「序列化につながる」というのがその理由である。
世界のなかで、日本のなかで、じぶんが勤務する学校のこどもたちの学力がどのていどなのか、それをたしかめるのは教師として当然のことである。だいたい、それをもっとも知らなければならないのは当事者たる先生たちではないのか。それなのに反対する。「競争原理」はイケナイとおっしゃるのである。
≪「裏口」ならじょうずに?≫
わたしはこのあいだ、大阪でおこなわれた橋下府知事をかこむ「府民討論会」の議事の一部を読んでガク然とした。知事が大阪のこどもたちの学力の低さにふれて発言すると「競争させるな」というヤジが参加していた教員たちから飛ぶ。
あんなバカなこと、およしなさい。そうおっしゃる先生たちご自身がはげしい「競争社会」を生き抜いて名誉ある教職におつきになった模範なんじゃありませんか。
だれでも先生になれると思ったら大マチガイ、先生になろうとおもったら猛勉強をして、難関を突破し、競争に勝たなければダメなのよ、とみずからの経験を生徒にむかって誇るのが教育というものであろう。そういう艱難(かんなん)辛苦を語ることによって、こどもたちは、そうか、ボクも先生みたいにしっかり頑張らなくっちゃ、と納得するはずなのである。
もちろん「競争原理」によらず、手軽に教員になる方法もある。例の大分県の事件のように県会議員などはもとより、組合などのコネを使い、贈収賄で教職を「買う」のである。なるほど、これなら「競争」しなくてすむ。それじゃ、出世するには正々堂々と「競争」するのでなく裏口を利用してじょうずに立ち回りなさい、と教えるのが教育なのか。それではどうもオカシイ。
なお、誤解のないようつけくわえておくが、大分事件、大阪でのヤジなど、組合員にはいっさい関係ない、と日教組はおっしゃっている。念のため。(かとう ひでとし)
社会学者というのはこれほど頭の悪い人でも務まるのか、唖然とさせられる。
ところが、それだけの競争に勝ち残った有能な秀才が、いったん教職につくと、突如、豹変(ひょうへん)して「競争」に反対なさるのがまことにいぶかしい。たとえば「学力テスト」に反対する。
私たちは「学力テスト」の公表には反対するが、「競争」自体に反対しているわけではない。
まさか加藤先生の耳には、教員が高校野球に反対しているとか、各種陸上競技会に反対しているとかいった情報が入っているわけではないだろう。運動会で子どもたちが手を繋いでゴールするといった都市伝説を除けば、私たちはいたって競争好きである。
中学校ではいつだって部活が盛んだし、合唱コンクールだの理科展出品だの、美術作品展だの、子どもが競い合う場面はいくらでもある。
私たちは、一度だって競争を否定したことはないのだ。
私たちが反対しているのは、すべての児童生徒を国語と算数・数学というふたつの教科のみで競い合わせること、そのことによって他の教科や人間形成に関わる教育が犠牲になることである。
自動車、電器など各社はその機能やデザインで競争しているし、テレビ局は視聴率競争に懸命である。
野球、サッカー、水泳、テニス…。テレビのアナウンサーは興奮した口調で優勝、2位、3位、と競争の結果を絶叫する。
一流といわれる会社の入社試験は数百人の受験者のなかから数名がえらばれるだけ。
それらはすべて事実だ。しかしこれらの競争のプレーヤーは、選択的にその場にいるのである。
加藤先生は偉大な人らしいから、自動車や電器などの機能やデザインにかかわり、テレビの視聴率に関わり、プロスポーツのプレーヤーとして競ったり一流会社の入社試験に望んだりもしたかもしれない。
しかし私は自動車や電器開発の競争にも視聴率競争にも、ましてやプロスポーツの世界で競争に参加したことだの一度もない。
同じように私の教え子たちも絵が得意な子は絵画コンクールに出品し、野球が得意な子は野球で活躍し、音楽の得意な子は音楽の世界で生き生きとすればいいのであって、国語と算数・数学競争に全員が参加する必要はないはずだ。
それはすべての生徒に野球を強制し、甲子園を目指せとせきたてるのと同じくらい愚かなことだと思うがいかがか。
加藤先生に改めて問う。
なぜ現代の子どもたちは全員が国語と算数数学でのみ競争を強いられなければならないのか。国語も数学もだめだが、理科は大好きとか、家庭科が好きといった子どもは、現代ではだめなのか。
* 社会学者・加藤秀俊という人が、いかに何も知らずこの問題を扱っているかということは、次の一文を見ても分かる。
世界のなかで、日本のなかで、じぶんが勤務する学校のこどもたちの学力がどのていどなのか、それをたしかめるのは教師として当然のことである。だいたい、それをもっとも知らなければならないのは当事者たる先生たちではないのか。それなのに反対する。
全国学力学習状況調査は世界における日本の学力の地位を表すものではない。
また、全国学力学習状況調査について、学校ごとの成績表は渡されているのであって、じぶんが勤務する学校のこどもたちの学力がどのていどなのか、
は私たちはよく承知している。
また、全国学力学習状況調査の始まる前から、私たちは自分の学校の子どもたちの学力を測る物差しをもっており、その物差しを使って常に学力は検証してきた。CRTとかNRTとかいったテストがそれであるが、全国学力学習状況調査とは異なり、かなり普遍的で偏りの少ないテストである。
2009.01.11
日本の「恐ろしい数字」
「心の病」で休職中の「学校の先生」15年連続で最多更新
〜原因は多忙? ストレス?〜
[週刊新潮 1月 15日号]
かつては学級運営できない教師を「M教師」と言ったものだが、当今は「心病む先生」が激増。文部科学省の調査によると、平成19年度に精神性疾患で休職した公立学校の教社長は、4995人。15年連続で最多記録を更新した。
問題教師を略して「M教教師」。意欲もないのに、テストの成績が優秀というだけで教師になり、いざ教壇に立ってみると、生徒たちを良導できず学級崩壊――。
日本教職員組合(日教組)が活発だったころは、M教師発生の原因は日教組にある、なんて議論もかまびすしかったが、現代のM教師は、「心病む先生」だろう。
文科省初等中等教育局の担当官は、「教育職員の精神性疾患による休職者数は、年々増えています。病気休職者に占める割合は平成18年度に6割を超え、19年度には過去最多を記録しました」
調査対象の公立学校の教職員は約92万人。19年度は4995人が精神性疾患により病気休職した。大半はうつ病である。文科省はその原因について、「言われているのが教育職員の多忙化です。生徒数は減っているのに、保護者や地域からの期待や要望が多様化しており、対応に追われています。職員同士でコミュニケーションがうまくとれず、相談相手がいなくて孤立化する。いわゆる″燃えつき症候群″になる職員もいると思われます」
教育委員会からの調査なども増え、教師の多忙化に拍車をかけているという。
「病気休職する教職員のうち40代以上が7割を占めています。指導内容の変化に対応できない、従来の教育指導法が今は通じない、と「モンスターペアレンツに悩まされ、心の病に陥るケースも多い」と言うのは日本家庭教育再生機構理事長でエデュケイションライターの長田百合子氏。
「ある不登校児の親が、しょっちゅう学校に電話をかけてきて、担任の先生と話がしたいという。居留守を使っても執拗に電話をかけてくる。先生は病院でうつ病の診断書をもらって長期休職したのです」
首都圏のさる中学校に勤務する事務職員によれば、
「30代前半の女性教師が同僚の男性教師に片思いをしていたんです。その男性教師が結婚をすると、がっくりし、職場で彼女だけが知らされていなかったことから、疎外感を抱くようになりました。自律神経失調症で1年間休職しています」
体罰や猥褻行為などで問題を起こした「M教師」が病気休職するケースも。
「教室に戻すわけにもいかないし、辞めさせることもできない。“政治的判断”により、うつ病で休ませることもあるんですよ」(同)
先の長田氏の話。
「うつ病の兆しのある教師には、周囲が、“病院へ行きなさい””休んだらどうか”としきりに勧めるんです。長期病欠となれば、代わりに臨時講師が来てくれるし、同僚の先生たちにも負担になりません。休職期間中でも給与の8割が保証されるといいますから、呆れるばかりですね」
甘やかされた職場環境も、「心の病」の増加と関連があるのかもしれない。
同じ日本に住み、同じ教育問題を語りながら、ここには私とまったく異なる世界がある。
私は「心病む先生」が生まれる日本の教育状況を問題にするが、新潮社にとっては「心病む先生」は問題教師でしかない(現代のM教師は、「心病む先生」だろう)。
しかも児童生徒や保護者にとって「問題教師」なのではなく、私たち教員にとって「問題教師」なのだという(長期病欠となれば、代わりに臨時講師が来てくれるし、同僚の先生たちにも負担になりません)。
さらに、うつ病と言っても主な例は、
保護者から逃げるための詐病(先生は病院でうつ病の診断書をもらって長期休職したのです)だったり、
失恋といった個人的事情、あるいは
体罰や猥褻行為などで問題を起こした問題教師を、医者にニセ診断書を書かせた上で休職にするケース
なのだという。
甘やかされた職場環境も、「心の病」の増加と関連があるのかもしれない。
私たちから見れば危機的なほど深刻な職場状況も、初任給31万円、勤務時間9:30〜17:30、社員食堂の昼食は200円(新潮社ホームページより)という新潮社から見れば、まったくの甘やかされた環境なのだろう。
学校をこれほどロクでもないものと考えながら、公教育そのものを否定しない新潮社の態度は、ジャーナリズムとしていかがなものか。
学校なんてどうしようもない、教師はクズだ、しかしネタとしては限りなく面白いし記事にすれば売れるから、公教育はそのまま残そう・・・・・・それが日本を代表する週刊誌のやることなのか。
* 日本家庭教育再生機構理事長でエデュケイションライターの長田百合子氏、そういわれるとピンと来ないが、愛知県で不登校専門の「長田塾」を経営する、あの「名古屋の熱血おばちゃん」である。ペンによって社会を動かそうとするジャーナリズムが、信頼すべき人物として引っ張り出すのにふさわしいかどうか、私は非常に疑問に思っている。
2009.01.21
追跡・発掘:「ホームスクーリング」実践家族
賛否両論、法律に位置づけなし /山梨
[毎日新聞 1月 21日]
◇「子に選択の自由を」「人間関係学べぬ」
子供を学校に通わせずに保護者が家で教育する「ホームスクーリング」。英国などでは制度化されているが、日本にも少数ながら例がある。いじめからの避難、学校教育に価値を見いだせないなど、理由はさまざまだ。県内でホームスクーリングを実践する家族を取材し、教育の「形」を考えた。【沢田勇】
北杜市に住む40歳の母親は長女(7)をホームスクーリングで育てている。地元の市立小学校に1年生として籍を置いてはいるが、学校には一度も行ったことがない。
団体職員の父親は毎日勤めに出る。母親が日々、長女の教育を担っている形だ。
母親自身は公立学校で育ち、特別な思想や信条があったわけではなかった。ただ、幼稚園に行きたがらなかった長女を見て、学校で得るものが少なかった自分の過去を振り返り、悩み抜いた末に考えが変わったという。
「義務教育って、何でしょう。学校に行きたい子供もいれば、行きたくない子供もいる。子供に選択の自由があってもいいのでは」と、母親は語る。
長女は近所の子供たちともよく遊ぶ。母親は「学校に行かないと社交性が育たない」という意見について「不登校の子はたくさんいる。学校でスムーズに人間関係を築けている子がどれほどいるのでしょうか」と疑問を投げかける。
長女は母親による本の読み聞かせや、月100冊以上という自身での読書で「国語力は同年代の子以上」(母親)という。米国のインターナショナルスクールから送られてくる教材で英語や算数を自習し、ピアノやバイオリンの個人レッスンも受けている。
長女は「学校に行かなくても楽しいからいい」と屈託がない。
母親は言う。「与えられたことをこなすことよりも、子供が自分で何を学びたいのかを知ることが大切ではないでしょうか」
◇ ◇
ホームスクーリングへの賛否は分かれる。
甲府市立小学校の男性教諭(46)は「学校で学ぶのは勉強だけではない。人は必ず誰かとの関係を持って生き、大勢の他者の中でしか学べないこともある。それがホームスクリーングで身に着くのだろうか」と懐疑的だ。
スクールカウンセラーとして不登校の子供の支援もしている山梨大教育人間科学部の鳥海順子教授は「学習指導要領に沿って学校で行われているのと同等の教育をホームスクーリングでするのは難しいのではないか。不登校の子供の教育手段の一つではあると思うが、学校教育を経験してみてからの方がいいと思う」と話す。
一方、フリースクールを運営するNPO「東京シューレ」の奥地圭子理事長は「不登校が増える中、管理された学校以外に選択肢がないのはおかしい。受けたい教育の形を子供が選べる権利が保証されるべきだ」と語る。
奥地さんは公立小学校の教諭を長年務めたが、長男が不登校になったことで考え方が変わったという。東京シューレはホームスクーリング家庭のネットワーク「ホームシューレ」を主宰しており、現在全国の230家庭が交流を深めている。
憲法は保護者に「普通教育」を受けさせる義務を定めているが、奥地さんは「普通教育=学校教育ではない」と話す。「法律でホームスクーリングが位置づけられている英国などと違い、日本では否定も肯定もされていないことが問題」と、まずは議論から始めようと訴えている。
◇ ◇
文科省の07年度「学校基本調査」によると、県内小中学校の長期欠席者数(年間30日以上)は計1591人で、内訳は(1)経済的理由3(2)病気318(3)不登校1197(4)その他73――となっている。
ホームスクーリングは「その他」に分類されるが、海外への長期滞在や保護者の無関心による長期欠席も含まれ、ホームスクーリングを受ける子供の実数の把握は困難という。
言葉の響きの良さは現実の良さとは違う。
子供に選択の自由があってもいいのでは
と言われれば、そういう自由も許さない、とは言えない。そうだな、そういう自由もあっていいと、そんな気にもなる。
だが待て、ほんとうにそうだろうか。
学校に行く人生と行かない人生でどちらが幸せかは分からない。しかし、学校に行く人生と行かない人生とではまったく違ったものになることは確かだろう。
教材で英語や算数を自習し、ピアノやバイオリンの個人レッスンも受けているし、母親による本の読み聞かせや、月100冊以上という自身での読書で「国語力は同年代の子以上」かも知れないが、その子はドッジボールもしなければ運動会の組体操の経験もせず、中学の部活も生徒会も経験せず大人になっていくのだ。
その二者択一の選択を、わずか6歳の子どもにさせていいのか。
私の疑問はそこにある。
もしこれが、
「義務教育って、何でしょう。学校に行かせたい親もいれば、生かせたくない親もいる。親に子どもの教育を選ぶ選択の自由があってもいいのでは」
と言う話ならまだわかる。
親が子の人生を選択し、その選択が誤ったら責任を取ろう、一生面倒を見ていくとか、死ぬまで困らないだけの財産を残すとか、あるいは非常に有力な後見人をつけるとか、何らかの方法でその子の保障をしよう、そういうことだから理解できる。
しかし6歳の子どもに人生を選ばせたら、その子は年端も行かない子ども時代の選択の責任を、生涯、ひとりで背負っていかなければならないのだ。
選択する以上は責任が生じる。
最終的な結論が同じ場所に行くにしても、親子で十分話し合った結果として、半分以上の責任を親が背負ってやらなければかわいそうではないか。
と、私は思う。しかしそれにしたって、6歳では早すぎる。
世の最も物分りの良い親は、しばしば最も残酷な親たちだ。
2009.01.27
ネットいじめなくなった
大田区の中学、授業で「携帯」徹底論議
[産経新聞 1月 27日]
携帯サイトなどによる「ネットいじめ」の被害が深刻化する中、生徒自身に携帯電話との“付き合い方”を考えさせる授業に取り組んでいる中学教諭がいる。「携帯電話は本当に必要か」。生徒にこうした疑問を徹底的に話し合わせたところ、授業を受けた学年ではネットいじめがなくなったといい、授業について教育関係者からの問い合わせが相次いでいる。
東京都大田区立大森第三中学の大山圭湖教諭(53)は3年前、当時担任をしていた2年生で、授業中にぼんやりしている生徒が増えていると感じた。前年に行った携帯電話に関するアンケートを改めて行うと6割近い生徒が携帯を持ち、毎日1〜2時間も友達とメールをするという実態が浮かんだ。中には1日6時間もしている生徒や、掲示板の管理人をしていた生徒も。
生徒の声はもっと切実だった。「携帯がなくなるとどうなるか」との問いに、「本音が言えなくなる」「死ぬか精神がおかしくなる」「世界が終わる」…。「生徒たちも『携帯に依存しているなんて、何かおかしい』と感じていた。だからこそ、その思いをみんなに伝えてもらうことにした」と大山教諭。
授業で行ったパネルディスカッションでは、10人の生徒に同級生や保護者の前で自分の思いを語ってもらった。しかし、それでも思いが伝わらないと感じた生徒らは自らの体験や思いをつづったパンフレット「中学生の中学生による中学生のための携帯ネット入門」を作成した。
携帯を持っていない生徒は「意識して携帯依存から抜け出して」と呼びかけた。「携帯でないと言えない本音なんてない。本音は直接話してこそ伝わる」と訴える声もあった。一日中メールにはまったという生徒は「終えた後、時間の経過に驚き、後悔した」との思いをつづった。
パンフレットは学年全員に配布。大山教諭は「自分たちで考えたことで、子供たちは自分たちなりの携帯電話との付き合い方を見つけたようだ。少なくとも、この学年ではネットいじめはなくなった」と話す。
昨年7月、新たに担任となった1年生対象のスピーチ会でも、携帯メールに悩む声があった。大山教諭は「家庭でもしっかり教育しているが、それでも子供は携帯にはまってしまう。しつこいようでも毎年繰り返し教えることが大切」。この学年でもパンフレット作成を考えている。
小中学校への携帯電話持ち込みの議論が広まる中、教育関係者からパンフレットへの問い合わせも増えている。今月31日に開かれる教育イベントでもパネリストとして生徒と一緒に参加する。「せっかくの生徒たちの声を多くの人に役立ててもらいたい」
大森第三中でも携帯電話の校内への持ち込みは禁止だ。大山教諭は「学校で必要だとは思わない。ただ頭ごなしに『ダメ』といっても子供は反発するだけ。自分たちで考えさせることが必要」と話す。
内容としては悪くない。絶対に必要な授業だ。
しかしこの記事を読んだとき、教員はおよそ普通の人には絶対に思いつかない疑問をもつ。しかも真っ先にそのことが頭に浮かぶはずだ。
それは、
この授業、何の時間にやったのだ?
ということである。
もちろん数学や体育の時間ではない。道徳でもないだろう。すると残るのは特別活動の時間か総合的な学習の時間だけだ。
特別活動の時間というのは、行事や行事の準備、生徒会や学級の仕事に使うための時間だが、年間35時間しかない。とてもではないが、
生徒にこうした疑問を徹底的に話し合わせたり、
パネルディスカッションでは、10人の生徒に同級生や保護者の前で自分の思いを語ってもらったり、
それでも思いが伝わらないと感じた生徒らは自らの体験や思いをつづったパンフレット「中学生の中学生による中学生のための携帯ネット入門」を作成した。
といった活動をしている暇はない。
そこで考え付くのは総合的な学習の時間である。
これだったら年間100時間近くもある。
これだったらふんだんに使える。
ただし、総合的な学習の時間は長期に渡って何かを追究する場だから、何もかもここに詰め込むと言うわけには行かない。
全体で扱えるのはせいぜいが3〜4項目。
大山教諭はネットモラルで授業を作り上げたが、それを行うと残った時間で扱えるものは少なくなる。
一方私たちが求められている項目は山ほどある。
さしあたって食育はどこかでやらなければならないだろう。
いじめを含む人権問題も疎かにできない。平和教育への言及も必要だし、環境問題も考えなければならない。
その他、福祉教育、国際理解教育、栽培・飼育活動、起業教育、性教育・・・
さての総合的な学習の時間も、中学校の場合で50〜70時間に減らされる。数学や理科の時間は増えるが、これまで扱ってきたような、いわゆる「心の教育」の時間はぐんと狭められる。
これは「心の教育」を重んじて知識を軽視した「ゆとり教育」の裏返しで、あの時はアホな文部官僚(寺脇某)が、
「内容や時間数は減っても、学力は下がりません。先生たちが上げます」
などとまったく現実性のないことを言って逃げたが、今度ははっきりと言っておく必要があるだろう。
子どもたちの道徳的感性は衰えるだろう。しかし学力は世界一に近づける!