キース・アウト
(キースの逸脱)

2009年 4月

by   キース・T・沢木

サルは木から落ちてもサルだが、選挙に落ちた議員は議員ではない。
政治的な理想や政治的野心を持つ者は、したがってどのような手段を使っても当選しておかなければならない。
落ちてしまえば、理想も何もあったものではない。

ニュースは商品である。
どんなすばらしい思想や理念も、人々の目に届かなければ何の意味もない。
ましてメディアが大衆に受け入れられない情報を流し続ければ、伝達の手段そのものを失ってしまう。

かくして商店が人々の喜ぶものだけを店先に並べるように、 メディアはさまざまな商品を並べ始めた。
甘いもの・優しいもの・受け入れやすいもの本物そっくりのまがい物のダイヤ
人々の妬みや個人的な怒りを一身に集めてくれる生贄
そこに問題が生まれれば、今度はそれをまた売ればいいだけのことだ。
















 



2009.04.04

車いす少女の中学入学を拒否
…奈良・下市町、財政難理由に


読売新聞 4月 4日]


 奈良県下市町の町立小学校を今春卒業した、下半身不随で車いす生活を送る少女(12)が、入学を望んだ町立中学校の設備が不十分として、同町教委から入学を拒否され、養護学校への入学を勧められていたことがわかった。

 両親が4日、記者会見し、「小学校の友達と一緒に入学させてやりたい。普通学級の方が子供のリハビリにもいい」と訴えた。

 地方公務員の父親(51)や町によると、少女は出生時の脳性まひで下半身や右腕などが不自由。自分で車いすを使って少しなら移動できるが、通っていた同町立阿知賀小では介助員2人が付き添い、特別担任の元で学校生活を送った。

 中学入学手続きの前に、医師や教諭らでつくる町教委の諮問機関・就学指導委員会(10人)で審議。斜面に立つ町立下市中の校舎(4階建て)は階段が多く、施設のバリアフリー化は財政的に厳しいことから、下市中への就学は無理と判断、町教委は、3月27日に入学を断る連絡をした。

 両親によると、少女は「なぜ行けないのかな」と話しているといい、8日の入学式までに入学が認められない場合は、訴訟も検討するという。東奈良男町長は「命の大切さを考えればこその判断で、理解してもらいたい」と話している。

 東京都武蔵野市で障害者向けの学習塾「遠山真学塾」を開く小笠毅さん(68)によると、学校施設を理由に就学を拒む例は少なくないというが、「障害者の学ぶ権利と、学校側の監督責任にどう折り合いをつけるかの問題。一度通ってみて、本人や両親と話し合ってから、就学が可能かを判断してもいいのでは」と話している。





 意図のない記事というものはない。たとえ資料集のようなものであっても、資料の選択と配列によって、読む者の心理に影響を与えていく。そのことを前提に、この記事はどのように読めるだろう。

 おそらく、この記事が訴えたいのは生徒と保護者の切ない気持ちと、行政の無慈悲な判断である。
 こんなに切ない思いをしている子どもを、なぜ行政はむげに跳ね除けるのか。
 

 さて、私はこんなふうに考える。

 特別担任というものがどんなものか分からないが、二人の介助員と一人の教員を雇うだけで小学校生活は送れたのだ。いくら中学校が危険で本人の体が大きくなったにしても、必要ならもう一人二人雇うだけで、この子は友だちと中学校生活を送れるはずである。

 
一度通ってみて、本人や両親と話し合ってから、就学が可能かを判断してもいいのでは
 とは言うが、おそらく無理ではないだろう。
 
 もちろん奈良県下市町がそれを行えば、他の市町村も同様の対応を迫られるのは当然である。しかしそれに応えられる自治体は多くない。同様の行政サービスを受けるのに、自分の住む地方公共団体を動かすのは容易ではないのだ。それをするくらいなら、むしろ下市町に居を移すことの方が簡単である。ひとを動かすのではなく、自分の方が犠牲を払って移動する、そのほうが正義でもある。
 孟母三遷の教えというが、教育熱心な親なら当然そこまでやる。新築の自宅を売り払ってでも移住する。
 
 下市町が迫られるのはそういう覚悟なのだ。より厚い福祉を求めて、親と子が一斉に下市町に移り住む。それを引き受けられるかということだ。

 読売新聞には興味ないだろうが。


*付記
 この話題はその後、4月11日のテレビ番組「報道特集NEXT」でも取り上げられた。ニュース・キャスターの疑問も「小学校でできたことがなぜ中学校でできないのか」ということであった。
 私もそう思う。この子を中学校に入れるのに、スロープ等の設置費用500万円、エレベーターをつけたところで1億円もあれば何とかなる。
 一人の担任と2〜3人の介助員の給与も年間1千万円もあれば十分足りるだろう。それができないのか? 同じような生徒が10人入ってきても、たった1億円。施設設備は半永久的に使える。なぜそれができないのか。

 ところで、ここで新たに疑問になるのは、この生徒の両親はなぜそこまで特別支援学校を忌避するのかということである。

 施設設備の上で、特別支援学校は完璧である。車椅子用のスロープなども最初から合理的に設計の中に織り込まれている。人員配当も問題なく、しかも介助員にあたる人は医療や教育の専門家ばかりだ。京都まで行ってやっているというリハビリも、特別支援学校の中では毎日のカリキュラムとして行うことことができる。

 
普通学級の方が子供のリハビリにもいい
というのは間違いだ。

 それほど素晴らしい環境の整った特別支援学校を拒否するからにはそれなりの事情があるはずだが、新聞もテレビもそのことを伝えない。

 今のこの子も可愛いが20年後のこの子も大切だ。その20年後のことを考えた場合、この子に最も優れた教育を保障できるのは特別支援学校であって、普通学校ではない。何の教育も与えられないよりは多少マシだが、普通の学校の特別支援学級はずっと劣る。小学校時代の友だちなんて、将来を生きていく上で決定的な要素ではない。なぜそれほどに普通学校にこだわるのか。

 テレビを見る限り、この子はついに中学校そのものを断念したように見える。この子の20年後を考えた場合、それでいいのか?







 



2009.04.09

平日に旅行…家族と学校どっちが大事なの?


産経新聞 4月 8日]


 平日に学校を休ませて旅行や遊びに連れて行く家族について、どう思う?(アイシェア調べ)

 平日に学校を休んで旅行やレジャー施設に連れていくという家庭が増えているそうだ。その賛否を巡ってネット上で意見が飛び交い、話題となった。そこで、平日に学校を休ませて子どもを旅行や遊びに連れて行くことについてどう思うか、ネットユーザーを対象に調査を実施し、20代から40代の男女364名の回答を集計した。

 平日に学校を休ませて子どもを旅行や遊びに行くことについては、「良いと思う」は11.3%、「(その日でなければならない)事情があれば良いと思う」が39.8%、「よくないと思う」は48.9%となり、賛否はほぼ半数に分かれた。

 その理由を自由回答で聞いたところ、「良くない」という『反対派』回答者の意見は、「ルールは守らせるべき」「学業が優先」「親は子供に教育を受けさせる義務がある」など、遊びのために学校を休んでもいいと子どもに思わせてしまうことは教育上良くないという考え方が多い。

 「良いと思う」「事情があれば良いと思う」を合わせた『賛成派』でも、「親が平日しか休めない」場合や、「その日しかできないこと」の場合はやむを得ないという、条件付き肯定の回答が目立つなど、基本は学校優先であるべきという考えが根底にある人も多いようだ。一方で、「家族との交流も大切」「自己責任」「学校ではできない体験になるなら」「平日の方が空いている、安い」など、学校よりも大切なことがある、家庭や親の事情を優先させても問題ない、という考え方も少なくない。また、「自分は休ませてまで遊びに行かないけど、価値観は人それぞれ」といった

 ちなみに、回答者自身が子どものときに旅行や遊びで学校を休んだことがあるかとの問いでは、「ある」が11.0%にとどまり、89.0%は「ない」と答えている。大半がそのような経験はないようだ。「ある」と回答した40名のうち、「休んでよかった」「どちらかというと休んでよかった」とする『肯定派』は87.5%。そう思う理由について、自由回答で「40半ばになっても、思い出として残っている」「土日では出会えないような体験や人との出会いがあった」などと肯定的にとらえている。対して『否定派』は、「勉強が遅れる」「出席しなかった時の授業内容が判らなくなった」との経験をあげていた。

 学校に対する考え方やワークスタイルが多様化しているという背景もあり、レジャー目的で学校を休むことへの抵抗感は薄れつつあるといえそうだが、教育上の観点や自身の経験から、あくまで学校を優先すべきという考えも根強く、その賛否は今後も分かれそうだ。

 調査はブロガー向け情報サイト「ブロッチ」などネットマーケティングを展開する株式会社アイシェアが、同社の提供するサービス会員をパネラーとして行った。




 もはや学校がすべてだという学校神話は崩壊しようとしている。
平日に学校を休ませて子どもを旅行や遊びに行くことについては、「良いと思う」は11.3%、などという記事を読めば軽いめまいを感じるが、それも仕方ないだろう。

「家族との交流も大切」「自己責任」「学校ではできない体験になるなら」「平日の方が空いている、安い」など、学校よりも大切なことがある、家庭や親の事情を優先させても問題ない、という考え方も少なくない。

 なるほど、そういう時代なのだ。


 ただ、私には気がかりなことがひとつある。それは、
 家族旅行や遊びに行くために休める学校を、苦しいことがある日に休めないのはなぜか、という子どもの問いに、親たちはどのような答えを用意しているのかということである。

 苦しいマラソン大会の日が、大嫌いな水泳の授業のある日、友だちとうまくいかなくてみんなから無視される日。悪いことをして担任の先生に土砂降りのように怒られそうな日、そんな日でも学校に行かなければならないのはなぜか(ディズニーランドに行くときは休めるのに)。

 
 もちろん、マラソンは大事だとか、勉強は大切だといった言い方はある。しかしそれで子どもは十分に納得しない。右の手で「学校がすべてではない」と教えた後で、左手で「学校が何より大事」と教えても子どもの気持ちに入って行きようがない。

 今の子どもたちはわずかな苦しみでもすぐに回避してしまう。その時になって「先生の教え方が悪い」「もって生き方が悪い」「子どもは学校がつまらないと言っている」だのと言わないでもらいたい。なぜこの子は学校に生きたがないのでしょうなどと、聞かないでもらいたい。

 その子にとって、学校はもともと、何が何でも行かなければならないところではないのだから。






 



2009.04.15

大阪府に30代校長も、
橋下知事改革で制度見直し


読売新聞 4月 15日]


 大阪府教委は2010年度から、若手の教諭を、教頭などを経ずに、校長に登用する人事制度を府内の公立小・中学校や府立高校などで導入することを決めた。

 「教育改革」を掲げる橋下徹知事の意向を受けた制度の見直しで、橋下知事と同世代の30歳代の校長が誕生する可能性が出てきた。さらに、府立高校では初めて教員免許を持たない行政職から校長に起用する仕組みを取り入れ、民間人枠の拡大も検討。多様な人材を確保することで、学校現場の活性化につなげる。

 府教委の現行制度では、校長になるには原則として任用試験に合格することが必要になる。受験資格は、府立高校で「57歳以下で教頭経験3年以上」、公立小・中学校で「40歳以上57歳以下で教頭や指導主事の経験が必要」と定められている。校長や教委の推薦も条件で、平均年齢は公立小・中で54・4歳、府立の高校などで55・6歳になっている。

 新たな人事制度では、年齢や経験年数の制限を緩和。「推薦」の条件も改め、原則として自ら手を挙げれば受験できるようにする。

 府教委特別顧問の藤原和博氏が「教員の意識改革のために象徴的な人事が必要」と提案。橋下知事も「学校運営は校長のマネジメントにかかっている」と同調し、府教委幹部らに「現行の制度では、府民感覚に沿った教育現場にならない」と見直しを主張してきた。

 庁内には「手を挙げる若手が出るか疑問」との声もあるが、府教委は「能力のある若手を積極登用することで、教員の意欲向上に結びつけたい」としている。



 繰り返し言っているように
、教員の仕事の大部分は職人芸である。
 職人芸である以上、基本的に、まじめに努力すれば誰でも腕を上げ、使い物になる日が来る。
 しかし職人芸である以上、決定的にこの仕事に向かない人だっている。
 そして職人芸だからこそ、一握りの天才たちの活躍の場も多い。

 さて、その職人の世界に橋下人事をおろせばどういうことになるのか。
 それは例えば
大工の世界に「試験に受かれば誰でも棟梁にする制度」を下ろすようなものである。
 大工志望のまともな若者なら絶対に手を上げない。挙手する者は、職人の世界がまったく分かっていない若者、空気の読めない者、そのくせ試験にはめっぽう強いヤツ、そんな若者はけっこういそうな気もする。
 
 もともと教科教育や生徒指導は、学校マネジメントとはまったく異なる世界である。教育のプロでも経営にはド素人だった教員の一部が、教頭に登用され、校長の指導の下で次第に学校運営に慣れていく、それが私たちの世界だった。棟梁が組頭を育てるようなものだ。

 しかし橋下府政下では、現場の教員がいきなり学校運営の中心に立ってくる。現場の教員でいるうちから、マネジメントの勉強をしておかなければとてもではないが間に合わない。授業のことを考える暇に、現場の教員をどう動かすかを本気で考えている若者・・・考えただけで空恐ろしい気もするが、そうでなければいきなりの校長は務まりはしない。
 
 まあ、いい。私は大阪府の人間ではない。
 他の都府県が冒険をするのは一向に苦にならない。
私は黙って、大阪の教育が死んでいくのを、見ていよう。
 いつか私の県に、他山の石として役に立つはずだから。
 
 

 しかし、民間人校長の試みももう10年の歴史をもつ。そろそろ民間人校長がどう学校を活性させたか、総括しても良い時期ではないだろうか。






 



2009.04.28

最高裁が「体罰」認定破棄
熊本の損害賠償訴訟


朝日新聞 4月 28日]


 小学校2年の時の「体罰」をめぐって熊本県天草市の男子生徒(14)が同市に損害賠償を求めた訴訟の上告審判決で、最高裁第三小法廷(近藤崇晴裁判長) は28日、「体罰」があったと認定して市に賠償を命じた一、二審判決を破棄し、生徒の請求を棄却した。第三小法廷は、臨時講師が注意を聞かない生徒の胸を つかんで体を壁に押し当てて怒ったことを「許される教育的指導の範囲を逸脱せず、体罰にはあたらない」と判断した。
 最高裁が民事訴訟で教員の具体的な行為について「体罰でない」と判断したのは初めて。学校教育法は体罰を禁じているが、どのような行為が体罰にあたるかの具体的な例示はない。どの程度の指導が許されるのかが学校現場で議論になっているなか、幅広い影響がありそうだ。
 第三小法廷は、講師の行為が「有形力の行使」で「やや穏当を欠く」と認めたうえで、「指導するためにしたことで、悪ふざけの罰として肉体的苦痛を与えるために行われたのではない」と指摘。目的、態様、継続時間などを考慮すると体罰にあたらず、違法ではないと判断した。
 判決によると、生徒は小2だった02年、休み時間中に廊下で友達と一緒に通りかかった女児をけり、さらに、注意した講師の尻をけった。講師は追い かけて捕まえ、洋服をつかんで壁に押しつけ、「もう、すんなよ」としかった。生徒は講師から怒られた後に食欲が低下するなどして通学できず、03年2月に 病院で心的外傷後ストレス障害(PTSD)と診断された。その後、回復して元気に学校に通うようになったが、生徒の母親は学校側の説明に納得せず、学校や 市教育委員会に極めて激しく抗議を続けた。
 生徒は05年に提訴。約350万円の賠償請求に対し、一審・熊本地裁は市に65万円の賠償を命じた。二審・福岡高裁はPTSDとの診断結果を否定 したものの、講師の行為が体罰に当たるとして約21万円の支払いを命じたため、市が「教育的指導の範囲内だ」として上告していた。(中井大助)




 この問題を扱うに際して、どの新聞社の記事を取り上げるか迷った。というのは、各社微妙に表現が異なったからだ。

 例えば問題の児童が何をやったのかを並べてみると、

 教員は14年11月、休み時間に女子児童をけっていた男児らを注意。職員室に戻ろうとしたところ、男児に尻をけられた。教員は男児の胸元をつかんで(産経新聞)

 休み時間中に廊下で友達と一緒に通りかかった女児をけり、さらに、注意した講師の尻をけった。講師は追いかけて捕まえ、洋服をつかんで壁に押しつけ(朝日新聞)

 教師は02年11月、校内の廊下で悪ふざけをしていた男児を注意したところ、尻をけられたため、男児の洋服の胸元を右手でつかんで(読売新聞)
 
 教員は02年11月26日、休み時間に自分のおしり付近を2度けって逃げようとした男児の洋服の胸元を右手でつかんで(毎日新聞)
 
 
女子児童をけっていたという産経新聞を読めば、これは明らかにいじめであって教師は何をおいても止めに入らなければならない。

  • 「弱い者をいじめることは人間として絶対に許されない」との強い認識に立つこと
  • いじめられている子どもの立場に立った親身の指導を行うこと
  • いじめの問題は,教師の児童生徒観や指導の在り方が問われる問題であること
(「いじめの問題に関する総合的な取組について」―今こそ,子どもたちのために我々一人一人が行動するとき―文科省「児童生徒の問題行動等に関する調査研究協力者会議・報告」:平成8年7月16日)


 といったいじめ問題への取り組みの原則に従えば、教師は相当に強い立場から指導ができるし、そうしなければならない。
 
 それに対して、
 休み時間に自分のおしり付近を2度けって逃げようとした男児の洋服の胸元を右手でつかんで(毎日新聞)
 となると、これは殆どヒステリックな教員による一方的な暴力だろう。軽いいたずら心から先生のおしり(尻ではなく「おしり」だ)付近を、ちょんちょんと蹴ったらいきなり壁に押し付けられた、こんな教師が許されていいはずがない。
 
 ここに各新聞社の問題に対する立場が見られる。
 産経は判決を妥当なものと考え、毎日は不当と考えているのだ。そして読者はその時手にした新聞によって、判断を誘導される。産経はともかく、
毎日や読売を読んだ人々は学校と最高裁への不信を募らせるだろう。
 マスメディアはこうして世論、ひいては国家を動かそうとしているのだ。

 部外者が学校について手に入れる情報がこんなふうに歪められていることを、私たちは常に心していなければならない。
 
 
 さて、それにしても
休み時間中に廊下で友達と一緒に通りかかった女児をけり、さらに、注意した講師の尻をけったその子が、
怒られた後に食欲が低下するなどして通学できず、03年2月に 病院で心的外傷後ストレス障害(PTSD)と診断された
とは。
 
 他人の痛みや苦しみにはまったく無頓着・無感覚なのに、自分の心の傷には異常に敏感な子がいる。それも相当な割合でいる。

 私は、秋葉原で7人もの人を殺し10人に重軽傷を負わせながら、警官に銃を向けられるとわが身可愛さにナイフを捨てたあの卑怯者を思いだす。人の痛みはいくらでも我慢できる、でもボクの痛みは指先の傷さえ我慢できないのだ。
 


 *参考
「力の行使」限定的に認める…“体罰”訴訟の最高裁判決
 熊本県天草市の小学校で、児童の胸元をつかんだ教師の行為の是非が争われた訴訟で、最高裁判決は28日、教育的配慮があれば、教師が児童生徒に一定の「力」を行使しても、やむを得ない場合があると判断した。
 文部科学省の調査では、近年、児童・生徒や教師に暴力を振るう子供たちが増えている。判決は、体罰批判を過度に恐れ、遠慮がちに子供と接している教師に、毅然とした対応をちゅうちょする必要はないことを示したと言える。一方、判決は、体罰に当たるかどうかを判断する指標として、行為の目的と態様、継続時間を挙げた。極めて限定的に「力の行使」を認めたもので、体罰を容認したものではない。
 男児の母親は教師を刑事告訴しており、判決も「男児の母親が長期にわたり、学校関係者に対して極めて激しい抗議行動を続けた」と言及、訴訟の背景 に保護者の過剰なクレームがあったことを示唆した。同じようなケースが起きた時、「力の行使」が妥当なものだったか学校側が説明を尽くすとともに、保護者 側も冷静に耳を傾ける姿勢が求められている。(足立大)
(2009年4月28日14時48分??読売新聞)

 足掛け5年にわたって戦った天草市に心から敬意を表する。しかしたった一人の親のために学校・教委のすべてが振り回されなければならない、たいへんな時代である。
 
 
 




 



2009.04.28

【新型インフル】児童・生徒10万人の体温記録 
さいたま市


朝日新聞 4月 28日]


 新型インフルエンザの発生を受け、さいたま市教育委員会は、市立のすべての小中高校など計165校の児童、生徒約10万人に、登校前に測定した体温を学校に報告させることを決めた。児童、生徒の体調変化を速やかに把握し感染拡大を防ぐのが狙い。5月1日から実施する。

 市教委健康教育課によると、日付と体温のほか、せきなどの症状がある時に記載する備考欄もある記録表を児童、生徒に配布し、毎日学校に提出してもらう。市教委が独自に策定した新型インフルエンザ対策マニュアルに基づく対応という。


 言いたいことはただ一つ。
 
児童・生徒の体温提出は、日本での爆発感染(パンデミック)が始まってからではダメだったのか、ということである。

 大流行が始まってから開始したことは、大流行が終われば中止できる。しかし平時に始められたものは、新型インフルエンザがこの世からなくならない限り、100年たってもやめる事はできない。
 さいたま市の体温測定は延々と続けられるだろう。

 その間毎日、カードの回収に3分、カードの配布に3分、提出忘れの児童生徒をチェックし指導するのに何分かがかかる。
 回収と配布だけを考えても1日6分、年間200日の登校で1200分=20時間もかかるのだ(ちなみに、あれほど重要性を叫ばれている道徳の授業時間が年間35授業時間。1授業時間は小学校で45分だから、実質年間26時間しかやっていないというのに!)。


 朝の会はその分伸びて1時間目に食い込むだろう。帰りの会はその分延びて、子どもたちは慌しく帰されることになる。担任の話をゆっくりと聞くこともなく、「車に気をつけて帰るんだよ」と声を掛けてやる暇もない。
 そしてしょっちゅうカードを忘れる子と担任の関係は、確実に悪くなるのだ。

 しかしそれでもなお、今から始める体温測定が大事だと考えるさいたま市教委、その見識やいかに。






 



2009.04.30

<中学校>「遅刻しない」誓約書
校長が生徒に母印強要


毎日新聞 4月 30日]


 福岡県うきは市の市立中学校の男性校長(57)が昨年10月、指導に従わない生徒数人に「遅刻はしない」などと書かれた誓約書に署名させた後、母印を押させていたことが分かった。

 校長によると、母印を押させたのは当時の3年生4、5人と2年生3人。ゲームセンターへの出入りや喫煙などの問題行動があったとして、昨年の1学期から2学期にかけて全員の保護者を呼び、生徒とともに注意した。

 その後も問題行動が続いたことから、校長は昨年10月、生徒を校長室に呼び出した。「遅刻はしない」「ピアスやそり込みをしない」「授業をサボらない」などと記した誓約書に署名させ、母印を押させた。誓約書は校長が作ったという。

 翌月に市教委が知り、校長から事情聴取。校長は事実を認め、市教委は口頭で厳重注意した。この後、校長は誓約書をすべて焼却処分したという。

 取材に対し校長は「やりすぎと思いながらも、生徒が問題行動をやめることを期待して、安易にやってしまった。人権上問題があったと認識し、反省している」と話している。

【丸山宗一郎】



 さてこの事件で、校長のやったことの何が悪いのか。
 校長なのに直接指導したことか
 誓約書を出させようとしたことか
 誓約書はいいがそれが校長の書いたものだったからか(本人の自書だったら良かったの)
 母印をおさせたことか(サインまたは印鑑だったらよかったのか)

 恥ずかしながら、私には分からないのだ。

ゲームセンターへの出入りや喫煙などの問題行動、遅刻、ピアスやそり込み、授業サボリ

 こんなことを続けていたら、本来のその子にふさわしい豊で明るい未来は保障できない。それが分かっていながらなんとしてもとめようとしないことの方がよほど人権的に問題があると思う
が・・・。