キース・アウト
(キースの逸脱)

2009年 5月

by   キース・T・沢木

サルは木から落ちてもサルだが、選挙に落ちた議員は議員ではない。
政治的な理想や政治的野心を持つ者は、したがってどのような手段を使っても当選しておかなければならない。
落ちてしまえば、理想も何もあったものではない。

ニュースは商品である。
どんなすばらしい思想や理念も、人々の目に届かなければ何の意味もない。
ましてメディアが大衆に受け入れられない情報を流し続ければ、伝達の手段そのものを失ってしまう。

かくして商店が人々の喜ぶものだけを店先に並べるように、 メディアはさまざまな商品を並べ始めた。
甘いもの・優しいもの・受け入れやすいもの本物そっくりのまがい物のダイヤ
人々の妬みや個人的な怒りを一身に集めてくれる生贄
そこに問題が生まれれば、今度はそれをまた売ればいいだけのことだ。
















 



2009.05.15

【教育動向】≪生きる力≫は大丈夫?
技術・家庭科の「学力調査」


産経新聞 5月14日]


 今年の全国学力・学習状況調査(全国学力テスト)も先月に終わり、お子さん自身や学校全体の成績が気になって、結果の返却を心待ちにしている保護者のかたも多いと思います。さて、全国学力テストは国語と算数・数学の2教科に限った調査です。もちろん、学力はこれだけでは測れません。しかも、主要教科だけでなく、実技系教科にだって求められる「学力」があるのです。その一つとして国立教育政策研究所が、中学校の技術・家庭科についての学力調査(特定の課題に関する調査)を行いました。今時の子どもの「生きる力」につながる学力は、果たして大丈夫なのでしょうか。
 調査は2007(平成19)年秋、全国の中学校から約500校を抽出し、3年生約1万6,000人を対象に実施しました。実技系教科だけに、ペーパーテストだけでなく実技、コンピューター画面、ビデオ映像と、さまざまな方法を使って、授業で扱った内容が身に付いているかどうかをテストしています。技術・家庭科の学力調査は41年ぶり、実技調査は初めての試みです。
 調査結果を見ると、生活感覚で理解できるような問題はおおむね良好であるものの、必ずしも正確な理解の下で、実生活に結び付けられている、とまでは言えないようです。一例を挙げてみましょう。家庭科で、適切な洗剤の使用量として「めやすの量」と回答できたのは約80%、洗濯の際には排水による「環境汚染」への影響を考えるべきだと回答できたのも約90%と高率でしたが、洗剤を2倍にしても「汚れの落ち方はほとんどかわらない」と答えられたのは30%を割りました。これでは、いくら環境問題が大事だとわかっていても、無意識のうちに環境に悪い行動を取ってしまうことにもなりかねません。
 同様に、技術の「情報」に関して、「インターネットを利用して情報を検索し、適切に利用することができた」と回答したのは80%に上っています。しかし、実際にデータベースから検索させてみたところ、一つの検索語で検索することはできても、目的に応じて検索語や検索方法を工夫することには、課題があることがわかりました。
 この4月から小・中学校で移行措置が始まった新しい学習指導要領は、学力向上を主眼にしていると言われています。しかし、そこで言う学力とは、「生きる力」です。生きる力を身に付けるためには、基礎的な知識や技能を「習得」するだけではなく、それらを「活用」して考えたり、新しい課題を「探究」したりすることが求められます。そのためにも、知識・技能と実生活とを結び付けることに、意を用いているのです。
 学校の勉強というと、どうしても入試に関係のある教科や、ペーパーテストの点数ばかりに目がいきがちになります。しかし、学んだ知識が社会に出た時に本当に役立つ知識や技能となるためには、「習得・活用・探究」の学習がバランスよく行われる必要があります。新指導要領が目指すのは、まさにその点です。主要教科でも実技系教科でも、目指すところは実は同じなのです。



 例えばある自治体が市町村の施設建設費や道路補修費を減らして福祉予算に回すとしたら、それは福祉行政を充実させ、建築関係での充実を犠牲にするという宣言をしたことだろう。歳入を無制限に増やすことができない以上、こちらを増やすと言う宣言は、別の部分を減らすということと裏腹でなければならない。
 
 評判の悪い「ゆとり教育学習指導要領」で授業時数が減らされたとき、アホなな文部省係官、寺脇某は「学力は下がりません。学校の先生が維持します」などとぬかしたが、誰が考えたって時数や内容が減って学力が下がらないわけはない。

 あのとき、教員はいわゆる
「読み」「書き」「計算」といった学力は下がってもいい、その代わり「生きる力」をつけるのだ、というメッセージとして受け取った。そしてそれはその通りになった。
 
 今回の学習指導要領改訂により、授業時数は増え総合的な学習の時間は減らされた。それとともに学校が自由に学校行事だのに使っていた余剰の時間は大幅に減らされていく。どこの学校も真剣に考えているのは「いか行事を精選し(減らし)、算数や理科・国語の授業時間を増やすか」という問題である。

 それはとりもなおさず、
算数や理科・国語の力は伸ばせ、生きる力や集団生活の関わる能力、人間関係を円滑に行う能力の育成は手を抜いてもいいということである。
 文科省は、学力向上の一方で道徳教育の充実ということも言っているが、時数を減らして「先生が頑張ります」は、「ゆとり教育学習指導要領」の時と同じだろう。今後10年間に、道徳的能力や生きる力は確実に弱体化する。
 
 そういう意味を持つ新指導要領の移行措置元年の今、
 ≪生きる力≫は大丈夫?
 はないだろう。
 
  こちらが進めばあちらはどうかと訊き、あちらに進めばこちらはどうなってると振り戻す。
 そのたびに学校教育は激しく揺す振られる。
 
 
この国の政治家やマスメディアは、日本の教育の将来にどのようなビジョンを持っているのだろう。
 ただひたすら左右に振って、皆で弄んでいるとしか思えない
のだが。






 



2009.05.22

マスクは予防に役に立つのか
日本と海外では使用法全く違う


J-CAST 5月21日]


 高城剛さんのブログ日記から
 新型インフルの広がりで、大阪などの一部では通勤客の8割がマスク姿とも報じられている。ところが、海外では感染地でも健康な人はマスクをしないというのだ。マスクに予防効果は、期待できないのか。

■ニューヨークや香港などでは、マスク姿はほとんど見ない

 海外の人が見たら、どう感じるだろうか。朝日や産経の一両日中の記事によると、感染者が相次ぐ大阪などの一部で、通勤ラッシュ時に約8割の人がマスクをしていた。

 朝日の2009年5月20日付記事では、品切れでマスクを買えなかった会社員女性(44)が、こうぼやいていた。

  「非常識と思われているようで...」

 この女性は、感染者ではないが、通勤電車内で肩身の狭い思いをした。

 通勤時などのマスク姿は、首都圏でも増えそうだ。新型インフルエンザへの感染例が同日中に分かったからだ。感染者の住所に近いJRなどの駅では、駅員がマスクをつけ始め、乗客にも着用を呼びかけるなどしている。

 ところが、海外では、マスクをしているのは日本人ばかりらしい。感染地の米ニューヨークや香港などでは、マスク姿はほとんど見ないと報じられている。

「マスクをしていると記者会見の会場に入れてもらえない」

 日経コンピュータ編集長は、日経ビジネスの21日付サイト記事で、アメリカに派遣した女性記者が在米の通訳にこう言われたエピソードを紹介した。マスクをしていると、「私は重症です。近づかないでください」と誤解されるというのだ。そして、それまでマスクをしていた記者は、このときばかりは外した。

 海外でもマスクをすることに、日本人自身から批判も出ている。女優の沢尻エリカさんが妻の高城剛さんは、自らのブログの11日付日記で、英ロンドンの空港では、「日本人だけマスクマン」だったとして、「礼儀的にもマスクはとった方がいい」と指摘した。ただ、日本人は「集団ヒステリー」などと書き込んだこともあって、ネット上で逆に批判もされた。

■むしろ手洗いなどで感染防ぐべきとの指摘も

 海外の人たちがマスクをしないということは、インフルエンザの予防効果がないためなのか。

 厚労省の結核感染症課では、「していれば大丈夫ということではありませんが、人込みで使用すれば、それなりの予防効果があると考えています。飛まつが付いた手などが口にいかないメリットもあります」と言う。

 一方、インフルに詳しい元北海道小樽市保健所長の外岡立人さんは、こう指摘する。

 「医学的に、マスクをすれば感染しないと裏付ける海外の文献はほとんど聞いたことがありません。WHOのガイドラインにもマスク着用は書いておらず、本当に役立つか何とも言えないということです。欧米では、感染者がほかの人にうつすのを防ぐためにマスクをするので、健康な人はマスクをしないわけです」

 厚労省の新型インフルエンザ専門家会議が2008年9月22日に書いたマスク使用のまとめでは、マスクをしても顔とのすき間から空気が入るため感染を完全には防げないとしている。

 海外では、むしろ手洗いなどで感染を防ごうとすると外岡さんは言う。

「ウイルスは、そんなに空中に飛んでいるものではありません。せきで出た飛まつがドアの取っ手やテーブルなどに着き、そこから感染することの方が多いです。欧米では、接触感染防止を重視しており、手洗いで6割が防げるとされています」

 日本人がマスクをすることについて、外岡さんは、「日本では、公衆衛生の習慣になっているからでしょう。日本独特のもので悪くはありませんが、それで防げると信じるのは危険です。手洗いは十分でないようなので、それを徹底させるべきでしょう」と言う。

 また、海外でもマスクをすることについては、こう指摘する。

「そもそもマスクをずっとしているのは難しいのでは。アメリカに行った人からは『マスクをしてスーパーに入ると、警官が呼ばれる』と聞きました。マスク姿だと、強盗か、よほど重症かと思われてしまうようですからね」



 教育や子育て以外の記事には言及しないのが基本的な姿勢だが、それでもしばしば我慢ならなくなるときがある。マスメディアは自分で問題を発生し、複雑にかき混ぜてまた記事にする。今回もその例だ。
 
 さて、
 今回のインフルエンザ騒動の初期、熱のある患者が次々と発熱相談センターに電話し、一般病院も受診を拒否して発熱センターに相談するようにしたころ、マスメディアは何をしたか。

 受診拒否をした医師を糾弾し、厚労省から「発熱相談センターに相談するのは海外渡航暦のある人だけ」という言質を引き出し、それを全国に広めた。それが一連のメスメディアの行為だったと記憶している。

 その
「新型インフルエンザを警戒するのは海外渡航経験者だけ」という方向が、結局、兵庫や大阪の爆発的感染を引き起こした。
 メディアは阪神の爆発感染に対し、明らかに責任がある。

 ただし阪神の爆発感染があったからこそ、マスコミの記事は豊かになった。いつまでも水際作戦だけでは読者のストレスもたまろうというものである
 

 さて、ここ数日のマスコミの流行は「マスクは無意味」「そんなアホなことをしているのは日本人だけ」である。しかしそれでいいのだろうか?
 
 
マスクをしても顔とのすき間から空気が入るため感染を完全には防げない
 そんなことは百も承知だ。しかし
「完全に防げない」と「完全に無意味である」とはイコールではない。口から入るウィルスが半分になっただけでも感染の機会は大きく減ると考えるのが普通ではないか。
 

 
海外では、むしろ手洗いなどで感染を防ごうとすると外岡さんは言う。 

 ではマスクと違って手洗いなら
「完全に防げる」のかと記事を読めば、
 
欧米では、接触感染防止を重視しており、手洗いで6割が防げるとされています
 なんだ4割はすり抜けてしまうではないか。
 
 
マスクと手洗いとうがいとを組み合わせて初めて、かなり高い感染防止が図られるだけで、それでもなお「完全に防ぐ」ことなどできるはずもないそう考えるのが常識というものだろう。
 
 ところで、
 欧米では、感染者がほかの人にうつすのを防ぐためにマスクをするので、健康な人はマスクをしないわけです
 が本当であって、
 マスクをしていると、「私は重症です。近づかないでください」と誤解されるというのだ。
 というのも本当だとすると、
欧米では「他人にはうつしたくない」と本気で考える良心的な患者でない限り、マスクをして外出することはないことになる。少なくとも、重傷者でなければマスクをしなくていいらしいのだ。逆に言えば、欧米では感染者がマスクもせずにうろうろしている。
 
 
感染地の米ニューヨークや香港などでは、マスク姿はほとんど見ないと報じられている。
 それが推定感染者10万人超といわれ、正確な数さえ数えるのをやめてしまったアメリカの今の姿だ。
 
 健康なマスクマンの中にまぎれて、感染者や感染の危険のある者までマスクをしていられる日本の方がよほど良いと思うがマスメディアはそうは思わない。

 もっとも、
みんながマスクをやめ、さらにインフルエンザが蔓延すれば、それで記事が豊かになると考える記者は多いのかもしれないが。
 
 






 



2009.05.24

新教育の森:増える問題行動に「力で指導」の迷い


毎日新聞 5月23日]


 ◇クレーム恐れ教師萎縮、一方で体罰減らず
 熊本県の小学校で起きた「体罰」をめぐり最高裁は4月、一定の力の行使を指導として認めた。文部科学省は体罰を禁止しながらも、問題行動に毅然とした対応を求める。とどまることのない児童の問題行動にどう向き合うのか。現場の迷いは消えていない。【井崎憲、井上俊樹】

 ◆力行使を最高裁追認
 「悪ふざけをしないよう指導するためで、『体罰』ではない」。熊本県本渡市(現天草市)で02年、男性の臨時教員が、自分をけった小学2年の男児の胸元をつかんで壁に押し当て、怒った行為が、「体罰」に当たるかどうかが争われた上告審判決。最高裁は4月28日、市に賠償を命じた1、2審判決を覆して、男児側の請求を棄却した。

 判決を学校現場はどのように受けとめたのか。栃木県内の中学校の男性校長は「決して褒められた行為ではないが、中には言うことを聞かずに暴れたりする子供もおり、指導のために体を押さえたりすることはあり得る」と言う。判決によると、問題となった行為の直前、この男性教員が廊下で上級生の女児にいたずらをしていた男児を注意したところ、男児が教員のお尻をけって逃げ出した。

 徳島県内の小学校に勤務する40代の男性教諭は、保護者からのクレームを恐れて教師たちが必要以上に萎縮(いしゅく)していると感じている。「以前よりも無理な注文が増えた。『体罰』と訴えられるのが怖いから、『触らぬ神にたたりなし』とばかりに指導せず、学校現場がうつむきがちになっているようだ」。それだけに判決には「ほっとした」と話す。

 実は文部科学省も一定程度の「力の行使」を認めている。07年2月、各都道府県教委に通知した「懲戒・体罰基準」=表参照=の中で、「問題行動が起こったら毅然とした対応を」と呼びかけ、「目に見える物理的な力の行使により行われた懲戒の一切が体罰として許されないというものではない」という判断を示した。根拠が「有形力の行使が一切許容されないとするのは学校教育法の予想するところではない」(81年・東京高裁)、「状況に応じ一定の限度内で有形力行使が許容される」(85年・浦和地裁)とした過去の確定判決。今回は最高裁が上級審として改めて追認した格好となる。


 ◆小中学生の暴力増加
 文科省の調査によると、07年度に小中高校で認知された暴力行為は5万2756件(前年度比18・2%増)で過去最高となった。高校は前年度比4・7%増にとどまっているのに対し、中学校20・4%増、小学校37・1%増と低年齢化しているのが特徴で、教師に対する暴力も増加傾向にある。小学生の胸ぐらをつかんだ行為を、多くの教師たちが「許容範囲」とみなした背景には、体罰すれすれの線で指導せざるを得ない実態があるからだ。

 もっとも、明らかに「指導」を逸脱した「体罰」が依然残っているのも事実だ。06年8月、宮崎県内の市立中学であった体罰事件では、遊んでいた傘で女子生徒に軽いけがをさせた男子生徒2人を男性教諭がそれぞれ20回以上殴り、鼓膜破裂や打撲を負わせた。保護者らは「他の教諭は目撃しながら止められなかった」と主張し、校長は「体罰を見逃す体質があった」と謝罪した。

 被害生徒の親族の一人は「若い先生が『キレた』状態になり、何度も殴られたようだ。昔から体罰はあったが、しつこく殴られることはなかった」と言う。さらに「子供は学校の問題を親に言いたがらないし、学校でもこういう先生を生徒指導上、頼りにする風潮があって見て見ぬふりをする。表面化していないケースはかなりあるのではないか」と振り返った。


 ◆先生処分は年400人
 文科省のまとめでは、体罰を理由に懲戒などの処分を受けた教職員数は、98〜07年度の10年間、年に400人前後の横ばい状態が続いている。さらに98〜04年度に限って調べた「体罰が疑われる件数」は年間800〜1000件に上った。

 「問題教師」の行為が学校に対する保護者や社会の不信感を招き、その結果、教育現場がますます萎縮しているとすれば不幸だ。千葉県内の小学校の50代男性教諭は今回の最高裁判決について、「訴えられた教員は『きちんと指導しなければ』と追いつめられていたのかもしれない。子供や保護者との関係、他の教員との人間関係や増え続ける仕事量など、若い先生を追い込んでしまう教育現場の問題に目を向けるのが先決だ」と訴える。


 ◇先進各国、無条件で体罰禁止の流れ 規律維持に他の方策考えては
 海外の体罰問題に詳しい元国立教育政策研究所総括研究官の結城忠・上越教育大教授(学校法制)によると、先進国では、学校での体罰を無条件で禁止する方向にある。

 ヨーロッパ大陸では18〜19世紀、フランスやオランダで教育現場での体罰が禁止され、「教師には体罰による懲戒が認められている」との慣習論が根強かったドイツでも、刑法上は暴行罪になるとの主張から、60〜70年代に多数の教師が訴追され、多くの州が体罰を禁止した。

 一方、英米は子供には悪性が宿るという「子供原罪論」から、体罰はそれを正すものとして容認され、教師の体罰は「親から委託されたもの」と受け止められてきた。

 しかし、欧州人権裁判所が82年、英国の体罰状況は欧州人権条約に違反と判決。英国政府は4年後に公立校での体罰禁止を打ち出した。米国も70年代は連邦最高裁が体罰を容認する判決を出していたが、80年代から多くの州が禁止へと転換し、現在は全50州のうち、「親代わり」論などが根強い南部を中心とした州以外の30州が禁止している。

 容認時代の英米でも、何が体罰に当たるのかは判例として蓄積され詳細な基準があり、体罰を行う場合も校長の許可が必要だったり、決められた部屋で手の甲や尻をたたくなど、教師が感情的にならないような手続きが定められていることが多い。

 日本は形式的には明治期の教育令(1879年)から体罰禁止を打ち出したが、事実上、空文化した。

 現在の学校教育法も体罰を禁じているが、結城教授は「日本は建前で禁止しながら、戦後も条件付き容認だった。最高裁判決もその追認に過ぎず、『指導なら体罰でない』となると、歯止めがかからなくなる恐れがある。体罰に頼らず学校の規律を維持する方法が必要で、例えばドイツでは義務教育期間での退学もある。権利保障と同時に、子供の年齢に合わせてもっと責任を問うような制度にすべきだ」と話している。




 最後の一行が実にいい。
 権利保障と同時に、子供の年齢に合わせてもっと責任を問うような制度にすべきだ
 まったくその通りだ。

 体罰なんて悪いに決まっているし、普通の状況で他人のお子さんを殴って気持ちのよいわけもない。普通でない状況で殴ったとしても後悔は必ず残るし、そもそも他人の子どものために職をかけるのは馬鹿げている。にもかかわらず体罰がなくならないのはなぜか。

 これは一も二もなく、日本の学校に「罰」というものがないからである。

 義務教育の場合、留年も落第も退学もない。出席停止は形式上あるものの敷居はやたらに高く、保護者を呼び出しても学校が叱責できるわけでもない。苦痛になるほどの反省文も居残り清掃もすべて体罰に含まれるから結局は「説諭」という、極めて不確実な方法で指導する方法しかないのだ。

 保護者に預けるのも警察に差し出すのも、すべて「学校による教育の放棄」であり、子どもの問題は一から十まで学校内で解決すべきものとされている。これである程度人員が整えば、一日でも二日でも指導ができようものの、基本的に担任一人がすべてを行わなければならない。生徒指導主事という者もいるが、各校一人ではじっくりと腰をすえた指導などできるはずもない。

学生の胸ぐらをつかんだ行為を、多くの教師たちが「許容範囲」とみなした背景には、体罰すれすれの線で指導せざるを得ない実態があるからだ。

 体罰をすれば首がかかると知りながら体罰すれすれのところで指導しなければならない教員の危うさを、人は理解できないだろう。なぜそこまで追い詰められるのか分からないに違いない。

米国も70年代は連邦最高裁が体罰を容認する判決を出していたが、80年代から多くの州が禁止へと転換し、現在は全50州のうち、「親代わり」論などが根強い南部を中心とした州以外の30州が禁止している。

 日本では子どもの教育のすべてに学校が関わることが期待されている。子どもの学力向上も道徳性の向上も、未だかつて保護者に責任を取らせるという方向で語られたことはない。常に教師の教育力やカリキュラムの問題として語られてきた。
 
 つまり日本において、学校は「親代わり」どころか「親以上」のレベルの存在として位置づけられているのであり、子どもの成長の全責任を取らされようとしているのだ。にもかかわらず、教育のための武器は「言葉」以外になにもない。
 

 平成不況の中で採用されてきた30代の教員。彼らは20倍30倍といった競争を勝ち抜いてきた凄まじい能力の持ち主たちだ。
 私は凡庸な人間だが、今後時代がどう変わろうとも、現在の30代を上回る才能を手に入れることはできないだろう。そのエリートたちが苦しんでいる。

 彼らにさえできないとしたら、現在の状況で日本の教育を従前にできる教師はいない。
 
 
 




 



2009.05.28

教員獲得、私学も動く 団塊引退備え、東京で合同説明会


朝日新聞 5月26日]


 優れた先生を採用したいと首都圏などで私立の小中高校を経営する15の学校法人の計46校が集まり、東京で31日、合同の就職説明会を開く。団塊世代の教員の大量退職に合わせ、公立校では各自治体の教育委員会が積極的な求人活動を展開しており、「閉鎖的といわれる私学も早めの動きが必要になってきた」(主催者)ようだ。
 主催は、教員採用のコンサルタント会社「ブレインアカデミー」(東京都渋谷区)など。同社によると、これまで私学の教員採用は個々の法人が独自に実施しており、採用試験も秋の実施が多かった。しかし最近は、教員免許取得者の多くが民間企業に就職しており、人材獲得が難航しているという。
 合同説明会開催を呼びかけたところ、鴎友学園女子中高(世田谷区)、独協中高(文京区)、西武学園文理中高(埼玉県狭山市)や、関西の立命館中高(京都市)などが応えた。開催の時期は都教委の採用を意識し、採用試験のある7月より前に設定した。
 参加の対象は、新卒者に限らず教員免許を持つ既卒者も含む。求人規模は合計で200人以上。「公立校の非常勤教師や、転職希望の優秀な人たちにも幅広く参加してもらいたい」という。
 参加する独協中高の渡辺和雄・高校教頭は「私学は公立より自由度が高い。そんな魅力をアピールしたい」と話す。
 会場はベルサール九段(千代田区九段北1丁目)。午前10時〜午後4時。無料。問い合わせは同社(03・5489・1200)へ。(永沼仁)



 しつこいようだが、都会における教員不足は「団塊世代」という人口の厚い層が退職するからではない。その証拠に、地方の競争率は高く、鳥取27・7倍、秋田22・2倍、青森19・7倍、岩手14・7倍、長崎13・7倍といった狭き門のままなのだ(都会の方は神奈川が2・6倍、埼玉は2・8倍、千葉で2・9倍である)。

 ではなぜそういうことになったのかというと、1960年代の高度成長期、地方から都会に出た若者たちが結婚し、子どもを生んでその子たちが学齢期に達したのと、「団塊の世代」の就職期が一致したからである。

 したがって地方では教員の大量採用といった事態は起こらず、教員人口のピークは別のところにある(私の県では50歳前後にあたる)。


 しかし退職者がいくらいようとも、それを上回る供給があればよかったのだが、そこに出てきたのが、
最近は、教員免許取得者の多くが民間企業に就職しており、人材獲得が難航しているという。
という問題である。

 代表的な現場教員の養成大学である東京学芸大学ですら、卒業と同時に教員になる学生の割合は53.3%に過ぎない。これが例えば早稲田大学あたりだと全学部で857名が教員免許を取得したものの、教職についた者は私立公立合わせて約120名(わずか14%)なのである。

 教職は今やまったく人気のない職業なのだ。

 しかも教員にならなかった東京学芸大学の46.7%(230名余)や早稲田の730名余は免許の更新ができないため(教員免許の更新は現職教員と講師名簿登録者のみ)10年後には免許を失効する。
 いや、そもそもこれからは
教員免許を取得する学生自体が激減するにちがいない。いつか役に立つかもしれないという期待がまったく持てないからだ。
 
 
公立校の非常勤教師や、転職希望の優秀な人たちにも幅広く参加してもらいたい

 頑張れ私学!
 今しか教員を採るときはないのかも知れない。