キース・アウト
(キースの逸脱)

2009年 9月

by   キース・T・沢木

サルは木から落ちてもサルだが、選挙に落ちた議員は議員ではない。
政治的な理想や政治的野心を持つ者は、したがってどのような手段を使っても当選しておかなければならない。
落ちてしまえば、理想も何もあったものではない。

ニュースは商品である。
どんなすばらしい思想や理念も、人々の目に届かなければ何の意味もない。
ましてメディアが大衆に受け入れられない情報を流し続ければ、伝達の手段そのものを失ってしまう。

かくして商店が人々の喜ぶものだけを店先に並べるように、 メディアはさまざまな商品を並べ始めた。
甘いもの・優しいもの・受け入れやすいもの本物そっくりのまがい物のダイヤ
人々の妬みや個人的な怒りを一身に集めてくれる生贄
そこに問題が生まれれば、今度はそれをまた売ればいいだけのことだ。
















 



2009.09.03

数字・すうじ 40ヵ月
おむつ離れの平均月齢
自然な成長重視、時期延びる


日本経済新聞 9月2日]


 乳幼児のおむつ離れの時期が遅くなっている。プロクター・アンド・ギヤンプル・ジャパン(神戸市)の調べでは、おむつが外れる平均月齢は1990年が28ヵ月だったのに対し、2007年は40ヵ月になった。自然な成長にまかせ、無理に急がせる必要はないとの考えが浸透したためだ。

 紙おむつはまたを包んで腰部分をサイドテープで留めるテープ型とパンツ型の2種類に分かれる。成長につれ前者から後者に移るのが一般的。テープ型の国内販売金額は過去10年間で6割減ったが、パンツ型の販売金額はおむつをする期間が延びたことなどが寄与して同4割近く増えた。

 とはいえ、08年度の国内の紙おむつ市場は98年度比2割減の1944億円。いくらおむつをする期間が延びても、少子化を補うまでには至らないようだ。




 かつて
おむつ離れという言葉はなかった。おむつは外すものだったからおむつ外しといったのだ。
 
 下って
トイレット・トレーニングという言葉もあったが、そこには排便の習慣はトレーニングするもの、という概念があり、けっして自然な成長にまかせ、無理に急がせる必要はないなどといったヤワなものではなかった。

 ところで、私は1年ほど前、ブログの方に次のように書いた。

 保育参観、トレパンという名の、簡易紙オムツをはいている子があまりにも多いのにびっくりしました。そん な子が年少クラスに2〜3人もいると、なんだかやり切れない気持ちになります。障害のあるお子さんなら別ですが、定型発達の子どもが3歳を過ぎてもトイ レットトレーニングが済んでいないのは、絶望的な話です。

 昔は、そんな子はいませんでした。
 何しろ昔の布オムツといったら一日に20枚近くも必要で、その洗濯は大変なものでした。子どもにしても1回でビショビショになってしまう布オムツなんて 最低で、一日も早く捨ててしまいたいものだったに違いありません。つまりオムツを外すことに関して、母子ともに強烈なモチベーションがあったのです。

 しかし今は違います。紙オムツは布よりずっと快適で、性能の上昇とともに、どんどん安価になってきています。何しろ8時間分のオシッコを全部吸収してしまうというのですから、その気になれば日に3枚で足りるのです。しかしそれでいい訳がありません。


 オムツを外すにはひとつの確立された方法があります。それは親が子どもの排泄のパターンを知るところから始まります。排泄しやすい時刻を知り、それに合わせて子どもをオマルに座らせるのです。そしてその上で、励まし、元気づけ、がんばらせます。

 うまく排泄ができたら、限りなく大げさに喜び、オマルで排泄できたことを誉めます。大げさであればあるほど次の段階は簡単になります。それによって、オマルに座ると排泄する、という生理的な習慣づけができるからです。

 また、そうしたことを何度か繰り返すと、今度は子どもの方からオマルにまたがり排泄しようとします。排泄のためではなく、親を喜ばせ、誉められるためです。

 こうして「親に誉められる」という高い価値のために、オマルに座るという面倒を我慢できる子どもが誕生します。

 しかし本当に大切なのは、

 こうしたトイレットトレーニングを通じて、親が子どもの躾け方を覚える
ということです。
 @子どもをよく観察して、その生活パターンを知る。
 A生活パターンに合わせて、無理のないレベルで行動を強制する、がんばらせる。
 Bできたら誉める、喜ぶ、限りなく大げさに喜び誉める。
 Cそれを繰り返す。


 3歳にもなってオムツが取れていない子たち、この子とその保護者は最初の3年間に学ぶべきことを学んでいない可能性があります。
 だから絶望的なのです。

 その考えは今も変わらない。

 かつておむつは2歳前後の夏に外すものとされていた。
 実際、私の娘は1歳6ヶ月で外したし、成長の少し遅い息子の方も、2歳2ヶ月の時にはすでに外していた。月齢で言えば18ヶ月と26ヶ月である。それで何の問題もなかった。
 性格が歪んだわけでも身体的に問題があったわけでもない。
 
 それが今や、40ヶ月(3年4ヶ月)もかかるのだ。しかも40ヶ月は平均だから、およそ半数はそれ以降もおむつを続ける。

 さて、排便ですら自然な成長にまかせ、無理に急がせる必要はないということであればあとは推して知るべしである。
 箸の使い方も食事の仕方も、服の脱着も、人の話を黙って聞くといったことさえも、
自然な成長にまかせ、無理に急がせてもらえかった子たちが、小学校に上がってくる。

 しかし
文字の習得や計算について、自然な成長にまかせ、無理に急がせる必要はないという保護者はいないから、ここで行き詰る。

 
学習の基礎はガタガタなのに、その上に積みあげるものは他の子と同じように積み上げるべきだ、教師だったらそれくらいできて当然だと信じて疑わない親たちが驚くほどたくさんいる。

 これで学校がうまく行くはずがない。

 ところで、自然な成長にまかせると、人間の赤ん坊はサルになってしまうと思っているのは、私だけだろうか?






 



2009.09.10

教育支出:日本、最低の3.3%
GDP比、28カ国中ワースト2位−−OECD調査


毎日新聞 9月9日]


 日本の06年の公的財源からの教育支出の対国内総生産(GDP)比は前年比0・1ポイント減って過去最低の3・3%となったことが、経済協力開発機構(OECD)が8日公表した「図表で見る教育09年版」で分かった。OECD加盟国の平均は4・9%(前年比0・1ポイント減)で、加盟30カ国のうちデータが比較可能な28カ国中、最高はアイスランドの7・2%、日本はトルコに次ぎワースト2位。前回05年と03年は最下位、04年と02年はワースト2位と、低迷が続いている。

 対GDP比は、大学など高等教育に限ると前年と同じ0・5%(OECD平均1・0%)で28カ国中最下位。政府の支出全体に占める教育支出の割合は前年と同じ9・5%で、OECD平均の13・3%を大きく下回り、データ比較が可能な27カ国の中ではイタリアと並んで最下位だった。

 日本は少子化が進んでいるため、1人当たりの教育支出(公私負担の合計)はOECD平均とほぼ同程度の8872ドル。しかし、私費負担の割合は33・3%と韓国に次いで2番目に高く、OECD平均15・3%を大きく上回っている。
 OECDは「日本の教育を支えているのは私費負担割合の高さ。経済危機によって進学を断念する若者が増えるとみられ、奨学金を中心とする公財政支出の役割が期待される」としている。

 教育への公財政支出の対GDP比を巡っては、民主党が衆院選前に公表した政策集で「先進国の平均水準(5%)以上に引き上げる」と目標を掲げた。日本のGDPは約500兆円で、民主党が掲げる高校無償化の費用(年4500億円)が教育支出に加われば、対GDP比は0・1ポイント程度の上昇が見込まれる。子ども手当(年5兆3000億円)は教育支出の対象外とされる可能性が高いが、仮に全額算入しても5%には届かない。【加藤隆寛】




「図表で見る教育09年版」はOECD東京センターのホームページから見ることができる。しかし気の重いページである。

 公的財源からの教育支出の対国内総生産(GDP)比はトルコに次いで下から2位。

 1人当たりの教育支出(公私負担の合計)はOECD平均とほぼ同程度だが、それとて、世界第二位の私費負担率に支えられてのこと。

 
教育支出の成長率 (1995−2006)はアメリカの実に15分の1、イギリスの18分の1にあたるわずか3.1%。同じ12年間に、イギリスは教育費を55.8%も伸ばしたのだ。

 教員の法定勤務時間はイングランドの1.5倍。しかし法定時間で収めている教員など日本には一人もおるまい。

 
学級規模は小学校で28人、中学校で33人とダントツで、OECDの平均(小学校21人、中学校24人)をはるかに上回る。

 その給与は平均以上とはいえ、日本全体の給与水準は現在も世界のトップクラスで、
新聞記者もデパートの売り子も工場の機械工も建設会社の社員も、全員が高給取りなのだから教員だけが恵まれているわけではない

 教員の授業時数は705時間で決して多いとは言えず、子どもの授業時数も774時間とこれも少ないように見えるが、この数字、いったいどこから導き出されたものなのか。
(指導要領に示された基準時間は980時間。これを50分の授業時間と考えて1時間=60分換算しても、867時間はやっているはずだ。おまけに980時間で収めている学校などそうはなく、例えば私の学校の場合、45分授業の1230時間である《1時間=60分換算でも923時間になるはずだ》)
 だからこそ、法定勤務時間も1960時間と膨大に必要となるのだ。

 これだけの悪条件の中でも世界トップに近い成績を築き上げているのだから、日本の教員もしくは教育システムはべらぼうに優秀で、コスト・パフォーマンスは異常に高いといえる。

 しかしそれにも関わらず、日本の公教育は死んだ(だから教育再生が必要だ)といわれる日本の教員。

 自民党はメンテナンスが必要だと自費で研修を受けさせる免許更新制をつくって現職教員のプライドと意欲を傷つけ、
 民主党は教職課程を6年間にして教員志望者の絶対数を減らそうとする。


 この国の政治家は何を考えているのだろう。





 



2009.09.10

不登校:中学で最高、
岡谷5.08% 最低は茅野で1%
/長野


毎日新聞 9月11日]


 県教委は10日、08年度の小中学生の不登校の状況を、県内の市郡別に初めて公表した。矢崎和広委員長は「自治体が問題としてとらえ、解決するきっかけになる」と説明。市町村教委など行政と地域が連携する必要性を強調した。長野は、小中学生全体に占める不登校の割合が全国都道府県でも上位で、問題が深刻化している。

 中学校で不登校の割合が最も高かったのは、市部では岡谷市の5・08%。大町市が4・84%、長野市3・97%で続いた。また郡部では東筑摩郡の4・50%が最も高く、続いて上水内郡3・56%、北佐久郡3・43%だった。

 逆に割合が最も低かったのは市部は茅野市の1・00%、郡部は小県郡1・55%だった。

 小学校については、市部は安曇野市が0・77%で最も高く、次いで駒ケ根市0・76%。郡部の最高は東筑摩郡の1・21%で、続いて北安曇郡0・76% だった。最も低かったのは塩尻市0・21%、諏訪郡0・21%だった。県教委は不登校対策検討委員会を設け、現状や課題を協議する。

 08年度の長野の小学生の不登校の割合は0・5%(632人)で、全国ワースト1位。中学生は3・22%(2091人)でワースト5位。小中学校の合計は2723人で1・42%となり、全国ワースト2位だった。【福田智沙】




 不登校はかつて過酷な受験体制と管理教育のせいだと言われた。ゆとり教育の一面は確実に不登校対策だったし、緩みすぎた管理教育は「新たな荒れ」と呼ばれるほどの学校荒廃をもたらした。しかしさまざまな犠牲を払って「過酷な受験体制」と「管理教育」を是正したにもかかわらず、それでも不登校は増え続けた。

「自治体が問題としてとらえ、解決するきっかけになる」
 矢崎委員長には、地教委や学校が本気で立ち向かえば不登校はなくなる、少なくとも減らせるという判断があるのだろう。裏を返せば、これまで地教委・学校は本気で不登校をなくそうと思っていなかったということである。
 これはある意味正しい。

 不登校はかつて過酷な受験体制と管理教育のせいだと言われた。
 ゆとり教育の一面は確実に不登校対策だったし、緩みすぎた管理教育は「新たな荒れ」と言われるほどの荒廃を学校にもたらした。しかしさまざまな犠牲を払って「過酷な受験体制」と「管理教育」を是正したにもかかわらず、それでも不登校は増え続けた。

 それとともに不登校に関して強く主張されたのは
「登校刺激を与えてはいけない。登校を強いると不登校は長引く」というものである。
 それは後に「先生たちは勘違いしている。不登校の初期には登校刺激を与えていい場合もある。それが有効な場合がある」と、あたかも私たちがマヌケであったかのような言葉とともに訂正され緩和されたが、それでも根強く残っている主張である。

 一方、かつて夜討ち朝駆け、手紙攻勢・電話攻勢、ときには拉致まがいの強制収容といった、現在の医者やカウンセラーが聞けば気絶しそうな方法で不登校を解決して来た教師たちは、まったくアプローチしてはいけないという強烈なストレスに苦しんだ。学校に来ることには価値がある、学校に来てさえいれば何とかなると教師は信じているから(そうでなければ自己矛盾だ)、不登校の子がそのまま卒業して行くことに耐えられなかったのだ。

 どちらが正しいのか?
 答えは簡単だ。これはどちらも正しい。
 
 適切な登校刺激で学校に来るようになる子もいれば、登校刺激がひたすら恐怖にしかならない子もいる。それがいいか悪いかはケース・バイ・ケースであって、一律に何が何でも学校に出そうとしたり、「無理をさせない、エネルギーの蓄積を待つ」といってすぐに休ませたりしてしまったことに問題があるのだ。


 長野県は不登校全国第1位だそうである。そこで怒った矢崎教育委員長が郡市別の不登校率を公開し地教委を追い詰めた。しかし
それは矢崎委員長が学校に示した、「遠慮しなくていい、子どもを学校に出させろ」という重要なサインなのだ。
 
 不登校率の高い郡市・学校の教員は、否応なく不登校の児童生徒に働きかけ、あるいは不登校に向かおうとする子どもたちを引きとめようとするだろう。そこには「エネルギーの溜まるのをじっくり待つ」といった思想は、ほとんど生きる余地がない。

 そして、これによって多くの子どもたちが学校に戻り、あるいは学校から逃れることをやめるだろう。

 若干の子どもたちは、教師や教委の働きかけに苦しむことになる。しかしそれもいたしかたないだろう。

 私たち教師も経験を積んだ。以前とは違い、間違って働きかけてしまう子どもの数は、図と好くなくなっているはずだからである。


 


 



2009.09.21

学校と私:イヤなら行かなくていいよ=作家・中村文則さん


毎日新聞 9月19日]


 僕は学校というものが好きじゃなかった。暗い性格で、殻に閉じこもっているのが好きなんです。ただ、それではいじめられるから、表面だけ明るく 繕っていました。いじめられない工夫? うまく笑わせることです。笑いの技術も磨きました。イヤな子供でしょ。ちょっとしたけがをして学校には行けるの に、行けないふりをして休んだり。円満な不登校とでも言うのかな、そんなことを繰り返し中学、高校を乗り切った感じです。

 みんなで一緒に何かをするというのが苦痛でしょうがなかった。集団生活がイヤなので、学校になじめるはずがない。一つの部屋に40人を押し込めて クラスを作るのは、管理しやすいからだ。クラスでくくって一つの共通項を作り出そうとするような、一元化されていくような窮屈さを感じていました。中学、 高校は、勉強しませんでした。将来の夢はなく、寝ころんで生きていたいと漠然と思っていました。ただ、本を読みながら考えることが好きで、人間とは、世界 とは、宇宙とはなんてずーっと考えていました。

 どうしても学校がイヤな子がいたら、行かなくていいよ、と言ってあげたい。子供にとって学校は生活のすべてになってしまう。例えばいじめを受けているのにそれでも学校へ行けとは言えない。生活のすべてが苦痛に満ちたものにしかならないから。

 僕は大学へ行ってから救われました。クラスはゆるいつながりで、自由を感じた。周囲には、ふまじめな変わった人が多く、楽しかった。みんな自分の 夢や目標に向かって好き勝手に、けれど一生懸命やっていた。足を引っ張ったり、引っ張られることもなく、周りを気にせず生きていけた。僕も、かなり心を開 いて話せるようになった。

 学校での教育って、ひたすら問題を与えて、これを解け、の繰り返しという印象が強い。しかし社会に出ると、自分で問題、課題やテーマを設定し自分 で答えを出していくことになる。中学、高校という思春期の多感な時期、学校教育にもっと自由な空気を吹き込めないか。個人の自由な発想をもっと大切にできたらと思う。【聞き手・松本正】
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■人物略歴

 ◇なかむら・ふみのり

 1977年愛知県東海市生まれ。福島大学行政社会学部卒。05年「土の中の子供」で芥川賞。最新刊に「世界の果て」。10月、「掏摸(すり)」(河出書房新社)を新刊予定。




 芥川賞受賞者なら言葉の危険性や影響力にもっと敏感であるべきだし、ものごとを深く考えてもよさそうなものだが、識者の中にはこのテの軽薄なアドバイザーがゴマンといる。

 例えばいじめを受けているのにそれでも学校へ行けとは言えない。生活のすべてが苦痛に満ちたものにしかならないから。

 そんなことは当たり前であって、深刻なイジメを受けている子まで学校へ来いとは、私たちだって言わない。
 しかし、
 ちょっとしたけがをして学校には行けるの に、行けないふりをして休んだり
 といった子どもまで、
 
行かなくていいよ、と言って家に引っ込めてもいいものだろうか?

 ちょっとしたけがでも、どうしても学校がイヤな子というものは山ほどいるのだ。
 

 中学、 高校は、勉強しませんでした。将来の夢はなく、寝ころんで生きていたいと漠然と思っていました。
 それで国立大に合格し、芥川賞を取れるような人が、世の中の全てではない。不登校の大半はやがて勉強に困難を生じ、状況が5年6年と続くと、かけ算九九ですら覚束なくなってくる。不登校でなくても、まったく勉強しない高校生の一部も、すでに九九ができなくなっているのだ。

 それでもコミュニケーション能力さえあれば、企業や団体の中で生き生きと生きていくこともできるが、
 
みんなで一緒に何かをするというのが苦痛でしょうがなかった。集団生活がイヤなので、学校になじめるはずがない。
 となるともうアウト。
 
 特殊な才能もない、コミュニケーション能力もない、その癖に将来の夢はなく、寝ころんで生きていたいと漠然と思っている、そんな子を、放置していてよいものだろうか?


 もう一度言う、そんな普通の子どもに対しても、
 どうしても学校がイヤな子がいたら、行かなくていいよ、
 ということができるのか?
 
 こんないい加減な”識者“に紙面を与え取材料まで支払う。
 毎日新聞は日本をどういう方向に引っ張ろうというのだろう?
 
 
 


 



2009.09.25

「ジーンズ、ジャージー禁止を」
=教師の服装で橋下大阪知事


時事通信 9月24日]


  大阪府の橋下徹知事は24日、府内の市町村議会議員との懇談会に出席し、教師の服装や食育などについて意見交換した。市議からの「ジャージー、Tシャツ、 ジーンズの先生がいる。地域からも先生の服装がなっていないというクレームがある」との訴えに橋下知事は、「何とかならないのか。教育の自由をはき違えている」と批判し、「公務員である以上、服装まで教育の自由なんてあり得ない。(ジーンズやジャージーは)禁じないといけない」と話した。



  ジーパンはまだしも、ジャージー姿の数学教師とか背広で授業をする体育教師というのも考えにくいから、これは小学校を中心とした教師の話だろう。たしかに小学校にはジーパンの教師やジャージー姿の教師がたくさんいる。

 しかし
お洒落をしたい年頃の若い女教師や、とてもアスリートには見えない腹周りの中年教師が、それでもジャージー姿にこだわるとしたら、そこにはそれなりの理由があるはずだと、そんな頭の回し方を橋下知事はできないらしい。

 たしか子沢山の知事と聞いたはずだが、学校の生活にはとんと不案内なのかもしれない。

 小学校教師の1日は中学校に劣らず多忙である。
 
 教室移動が少ないとの理由で、普通の休み時間は5分。20分を越える長い休み時間は子どもと遊ぶ時間なので、やはり個人で使える時間はほとんどない。つまり着替えの時間などない。
 朝の会の時間、
子どもの前に立ったときの服装がその日1日の服装なのだ。

 私は中学校の教員時代から背広が好きだった(何しろコーディネートがいらない)。だから、背広で1日を始める。体育も背広でやる。農作業も背広の上着を脱いだ姿でやる。バカみたいだが、着替える時間がないので仕方がない。一度校長から注意を受けたが、ジャージー姿になって醜い肉体を晒すより、背広を犠牲にした方がよほど幸せだというダンディズムがある。

 一方、最初から小学校に勤めてきたような同僚たちは、平気で老醜を晒す。ある日突然腹が出てきたわけではないのだ。いつの間にか膨れてきた腹をジャージーに押し込んで、しかたなく1日を過ごしているに過ぎない。

 つまり服装を中心とした小学校教師の分類は三つしかない。
@ 私のように1日住背広で過ごし、体育も農作業も清掃も背広でやる。(超少数派)
A 1日を作業着(ジャージーやジーパン)姿で過ごし、算数や国語もそれで行う。
B 児童の授業時間を少しずつ削り、必要に応じてそのつど着替える。


 事実、さすがの私も就業中に着替える事がある。それは水泳の授業だ。こればかりは背広というわけには行かない。その時は体育の授業時間を前後5分ずつ削った。まさか私が着替えている間は自由に泳いでいていいというわけにはいかないのだ(安全確保)。


 教師は服装を正すべきだということが絶対となれば、たいていの教師は国語算数をスーツ、体育や清掃、農作業はジャージーということになるだろう。その際の着替えの時間は、児童の大切な授業時間を削って生み出すことになる。それしか方法がないからである。
 学力向上を最高の価値とする橋下知事に許容できるだろうか?
 
 
 さて、実を言うと、私は敢えて第4の可能性を隠した。あまり実現性のないことだからである。
 しかし実現不可能を承知でいえば、その最良の方法とは、
 
正装でありながら作業もできる教師専門の制服を作り、政府が支給すれば良いというものである。

 その際の
制服は、是非とも自衛官か刑務官をモデルにしたものにしてもらいたい。

 私たち自身も子どもたちも、ピシッと引き締まること間違いない。
 
 
 
 

 



2009.09.26

<学力テスト>鳥取県7校で「予習」
県教組調査


毎日新聞 9月25日]


 鳥取県教職員組合は24日、同県の少なくとも公立小学校6校と公立中学校1校が、今年4月の全国学力テストの実施前に、類似問題や前年度の問題を使って 「予習」をしていたと明らかにした。同県は今年度から、全国学力テストの市町村別と学校別の平均点を開示しており、県教組は結果開示が学校の指導に影響したとみている。昨年はこうした事例はなかったという。

 県教組は4〜5月、県内のすべての公立小中学校(小学139、中学60)と特別支援学校4校を対象に調査を行い、85校から回答を得た。

 小学校5校では類似問題を使った授業を行い、別の1校は宿題に出していた。中学1校は前年度の問題を授業に使っていたという。調査では、教育課程への影響▽子供や教職員への負担▽学力テストの問題点▽保護者や子供の反応−−なども記述式で尋ねており、「本来の学習の妨げになった」「学習に影響がでた」な どの声も寄せられたという。

 県教組の細砂直書記長は「開示が続けばテストを意識した授業が行われる」と指摘。中永広樹県教育長は「県教組の調査でありコメントは控えたい」と話した。【遠藤浩二】




 アンケートの回収率42.9%。鳥取県といえば組織率50%を誇る組合大国なのに、それでもこの程度の回収率。日教組の力も落ちたものである。

 さて、この記事が指摘する問題点は二つ。
@ 全国学力府学習状況調査に際して、テスト対策をするとは何事か。
A しかも正規の授業時間を裂いて(=学習指導要領に準拠した授業を潰して)行うとは何事か。

 そしてその先にあるのが
全国学力テストの市町村別と学校別の平均点を開示しており、県教組は結果開示が学校の指導に影響したとみている
ということだ。しかしこれは鳥取県教組の方が間違っている。
 
 全国学力学習状況調査は、指導要領に則った学習を丁寧に積み上げればできるというようなものではない。きちんと過去問問に当たるのが正しいやりかたなのだ。

 非常に長い文を短時間に読まなければならないという速読の能力、『図を読む』という国語の授業ではめったに出ない出題内容。「説明しなさい」「あなたならどう発表しますか」といった、実践的ではあるものの普段のテストではお目にかからない質問形式。
 算数では、生活体験を重視した問題が非常に多く出されること、答えよりも答えに至る筋道自体を問う問題が多いこと。これらはこれまでのテストとはまったく異なったものだ。
 
 
本当は日常の授業を組替え、全国学力学習状況調査に合わせた授業を続ける必要があった。しかしそうした問題が出るといった出題の方針や授業内容の改定といった話はどこからも出ていなかったのだ。

 全国のほとんどの学校は仕方ないので、誠実に基礎基本を高める授業を行い続けた。しかし秋田県などはいち早く本質を見抜き、正しい道を選択し実施した。つまり、こうした出題形式に慣れておくことが必要だと考えたのである。
 
 「秋田県の学力の状況と主な取り組み」(平成20年度版)を見れば、いかに秋田県が過去問の学習に熱心だったかわかろうというものである。(
「H19全国学力・学習状況調査の調査問題を授業の中で活用しましたかの回答、小学校で全国平均+43.0%、中学校で+44.9%

 教師がすべき指導を怠っていながら、子どもの学力が低いといわれたのではかわいそうである。

 政権交代で、悉皆テストとしての全国学力状況調査はもう終わるだろう。しかしこのことを教訓に鳥取県も秋田県に学ぶべきである。

 またPISA、TIMSSといった学力の国際比較で早く世界一を奪還できるよう、一日も早い教科書のPISA・TIMSS対応化を急いでもらいたい。

(注)
 私は、フィンランドと日本の国語の教科書を比較検討したことがあるが、学習の向かう方向がまったく異なることに驚いた。
 例えていえば、
 日本の国語で「主人公は夕日を見ながら、どんな気持ちになったでしょう」と問うところで、フィンランドは「主人公は夕日を見ながら悲しくつらい気持ちになりましたが、それはなぜでしょう」といった言い方になる。
 問題が常に解析的であって、答えが非常に明確であり、その分、情緒とは非常に縁遠い内容といえる。PISA、TIMSSで勝つためには、そうした価値の転換が必要である。
 

 
 


 



2009.09.28

「店が悪い!」 万引現場に“モンスターペアレント

産経新聞 9月26日]


 「なぜ捕まえた」「通報されて子供がショックを受けている」。少年による万引が全国的に増加する中、子供の万引を通報された保護者が、逆に小売店に理不尽なクレームをつけるケースが相次いでいる。少年の多くが「ゲーム感覚」で万引に手を染める一方、“モンスターペアレント”の出現に、捜査関係者からは「親も『たかが万引』と甘く見る傾向にあり、他の犯罪を助長しかねない」と懸念する声が上がっている。(滝口亜希)

 ■保護者がクレーム
 「なんで捕まえたんですか。万引に気づいたなら、捕まえる前に諭すべきでしょう」
 東京都内の大手書店で店長を務める男性は以前、本をかばんに詰め込んで店を出ようとした男子中学生を呼び止め、保護者に連絡したところ、逆にこう詰め寄られた。
 「万引した自分の子供はしかりもせず、『商品を子供が取れるような場所に置いている店の方が悪い』と言ってきた親もいる。万引を犯罪と思っていない節がある」と男性はため息をつく。
 NPO法人「全国万引犯罪防止機構」(新宿区)には、複数の小売店から悲鳴が寄せられている。
 「万引をした高校生を警察に通報したら、後日、高校生の祖父から『孫が精神的にショックを受けた』と抗議された」
 「トレーディングカードを万引した小学生の親に、『いくらですか? 代金を払えばいいんでしょう』と言われた」
 同機構の福井昂(こう)事務局長は、「こういった親は『万引はちょっとした出来心でやってしまうもの』という程度の認識しかないから、子供にもきちんと指導ができない。実際には、万引を入り口に、ほかの犯罪に走るケースも多い」と警告する。

 ■小売店は大損害
 警察庁の統計では、今年1〜6月に万引で摘発された少年は前年同期比8.2%増の1万3726人。一方、警視庁が1〜7月に都内で摘発した少年は同46.4%増の2565人で、その増加ペースは全国でも群を抜く。
 店舗側の損失も深刻だ。書店などで作る業界団体「日本出版インフラセンター」(新宿区)の試算では、大手書店14社の万引被害額は年間約40億円。実に総売り上げの1.4%に相当する額で、小売店はクレームとの“ダブルパンチ”を受ける形だ。

 特に都内で万引が急増する理由について、警視庁の捜査関係者は「よく分からないが」とした上で、「本で言えば新古書店など、都内には万引した商品を売るルートも多い。そのシステムを悪用して、小遣い稼ぎの手段として万引をしている人も多いのでは」と推測する。
 一方、警視庁が万引で摘発した少年428人を対象に行った意識調査では、26.8%が動機を「ゲーム感覚」と回答。摘発されたことについては、24.5%が「運が悪かった」と答えるなど、罪悪感の希薄さが浮き彫りになった。
 こうした事態を受け、警視庁は今月、万引防止の「アクションプログラム」を策定。今後、小中高校の道徳や倫理の時間に使える万引防止教育用教材を作成するほか、地域での防犯教室などを通じて、子供だけでなく保護者にも万引が引き起こす結果の重大さを訴えていく。
 同庁幹部は「少年だけでなく、保護者を含めたすべての世代に『万引は犯罪』という認識を持ってもらうことで、ほかの犯罪抑止につなげたい」としている。




 学校ではありふれた風景である。

 ただし、
「理不尽なクレーム」という言い方こそ、彼らにとっては「理不尽なクレーム」または「言いがかり」でしかない
こうした要求を突きつける保護者は,、クレームをつけるつもりなどまるでない。

 また、
万引を犯罪と思っていないわけでもない。
 万引きはもちろん犯罪だが、自分たち、つまり
人間の心を傷つけるのは、万引きよりずっと罪深いことなのだと、感じているにすぎないのだ。

 「もともと特別な Only one」の“心”は何よりも尊重されなければならない。

「なんで捕まえたんですか。万引に気づいたなら、捕まえる前に諭すべきでしょう」
 という言い方には、そうした切実な思いがこめられている。
 
 しかしいつから人間の“心”はこれほど重くなったのだろうか?

 人の“命”さえ軽かった太平洋戦争の終結から60余年、どこで私たちは間違ってしまったのか。