キース・アウト
(キースの逸脱)

2009年11月

by   キース・T・沢木

サルは木から落ちてもサルだが、選挙に落ちた議員は議員ではない。
政治的な理想や政治的野心を持つ者は、したがってどのような手段を使っても当選しておかなければならない。
落ちてしまえば、理想も何もあったものではない。

ニュースは商品である。
どんなすばらしい思想や理念も、人々の目に届かなければ何の意味もない。
ましてメディアが大衆に受け入れられない情報を流し続ければ、伝達の手段そのものを失ってしまう。

かくして商店が人々の喜ぶものだけを店先に並べるように、 メディアはさまざまな商品を並べ始めた。
甘いもの・優しいもの・受け入れやすいもの本物そっくりのまがい物のダイヤ
人々の妬みや個人的な怒りを一身に集めてくれる生贄
そこに問題が生まれれば、今度はそれをまた売ればいいだけのことだ。
















 



2009.11.03

きょういく特報部2009
「副校長」「主幹教諭」…「肩書先生」2年目の宿題


朝日新聞 11月2日]


 改正学校教育法で、08年度から「副校長」「主幹教諭」「指導教諭」という新たな職を学校に置けるようになった。指揮系統をはっきりさせて運営を効率化させるためだが、朝日新聞が全都道府県と政令指定都市の教育委員会にアンケートしたところ、導入2年目の今年度までに配置した自治体は1年目の2〜3倍程 度に増えたことが分かった。制度が次第に広がる一方で、アンケートからは課題も浮かぶ。

■導入自治体2〜3倍に
 アンケートは郵送で行い、47都道府県と18政令指定都市のすべてから回答を得た。
 それによると、09年4月1日現在で小中高校や特別支援学校のいずれかに副校長を配置した自治体は30都道府県市に上った。主幹教諭は49都道府県市、指導教諭は17府県市に上った。
 文部科学省が昨年実施した08年4月1日現在での調査では、副校長を導入していたのは10都県市、主幹教諭は20都府県市、指導教諭は8府県市だった。制度開始から2年目に入り、副校長を導入した自治体は3倍、主幹教諭と指導教諭はそれぞれ2倍強に増えたことになる。
 副校長は管理職として校長をサポートする。主幹教諭はいわば中間管理職。校長や副校長、教頭を補佐して校務を担い、教壇にも立つ。指導教諭は教育活動面でほかの教諭を指導する立場だ。
 この三つの職のうち一つでも導入した自治体は50都道府県市ある。半数以上の27都府県市はその効果を挙げた。
 「副校長に専決権限を与えたことで、迅速な事務処理ができるようになった」(岩手県)、「会議に出す提案事項の調整により、時間短縮や回数の削減が図られた」(滋賀県)、「指導教諭を導入し、校内研修の充実が図られた」(徳島県)などだ。
 一方で、約4割にあたる18府県市は課題も挙げた。目立つのは業務分担に関する事柄で、8府県市が寄せた。「主幹に業務が偏ると役割が十分に果たされない」(愛知県)、「役割が明確でなく、管理職と教諭との連携がスムーズにいかず試行錯誤している」(北九州市)などだ。
 小中学校に主幹教諭を配置したときだけ認められる教員加配についても4県市が挙げた。「県立学校への加配制度が整っていない」(宮城県、徳島県)、「配当は小学校のうち一部分のみだった」(大阪市)などと指摘している。
 「昇任に意欲的な職員が少なく人材確保に苦慮している」(横浜市)、「配置校が少なく登用した教員の異動が硬直化する恐れがある」(島根県、佐賀県)など人事に関する課題も挙げられている。

■組織管理に抵抗感
 北九州市立徳力小学校の中村武彦教諭は、指導教諭になって2年目になる。
 期待されているのは、教育活動でほかの教員をリードすること。校内で月に2回ほど研修会を開く。専門は音楽だが、テーマは「学校経営について」「若年教師の役割」など幅広い。
 これまでも同僚の授業方法などについて率直に意見を言ってきたが、閉鎖性も実感してきた。「肩書がついてからは、指摘をちゃんと聞いてくれる場面が増えた」と手ごたえを感じている。
 「他校の先生からの相談も増えました。授業のやり方にはどの教科にも共通する部分がある。そんな思いを込めて返答しています」
 同市内の中学校で今年、主幹教諭になった男性教諭は戸惑い気味だ。校務の一部を担う分、授業の負担は減らすのが建前だ。非常勤講師に週4時間サ ポートしてもらうことになったが、この限られた時間では任せられる授業は見つからず、問題作りなどを手伝ってもらうにとどまっているという。「せっかくの制度なのでうまく機能させたいが、今は試行錯誤」と打ち明ける。
 主幹教諭の授業軽減分をどう穴埋めするかは難問だ。定数より多い教員を配置する加配制度が整っている小中学校でも人手は足りない。文部科学省によると、08年度に全国の小中学校に配置された主幹教諭が約1万人だったのに対し、実際についた加配はわずか651人だった。

■降任願う教諭
 かつて管理職といえば校長と教頭だけだった学校組織は「ナベブタ型」と言われた。新たな職を導入してピラミッド型にすることには抵抗感も根強い。
 大阪府は法改正に先行して06年度から「首席」(主幹教諭)を設けた。その肩書を持って4年目になる府立城東工科高校(東大阪市)の田中嗣弘教諭は、導入時は教職員組合の分会長として校長に異を唱えたという。「民主的な職場作りの面から問題があると思った」からだ。
 それでも校長が導入を決めたとき、白羽の矢が立った3人の中に田中教諭も含まれていた。間もなく不安は現実となった。ある日、40代の教諭に仕事を割り振ったところ、「首席として言うとるのですか」と返されたという。
 大阪府ではこれまでに769人の「首席」を小中高校に配置したが、07〜09年度で計19人が自ら希望して一般の教諭に降任した。府教委の担当者は「やってみるとしんどかったのかもしれない。意欲のあった人がこういう結果になったのは残念」と話す。
 文科省によると、全国でも少しずつ希望降任する教諭が出ているという。東京都では今年、約4千人の主幹教諭のうち29人が肩書を捨てた。
 中央教育審議会教育課程部会の委員として導入議論に加わった京都市立堀川高校の荒瀬克己校長は、「学校はナベブタ組織で構わない」と公言してきた。
 「教壇に立てば、みんな一人の教師。誰かに頼る環境を作ることで当事者意識を失うような事態につながらないようにしなければならない」と感じている。(小田健司)



 主幹制度の基本的な考え方は
指揮系統をはっきりさせて運営を効率化させる
というのが表向きの理由だが、背後には
「出世をちらつかせれば教員は働く」という度し難い思い込みがある。学校に民間の活力をというときも、企業の論理を学校に持ち込めば、企業戦士のように教員も働いてくれるはずだという勘違いがあるのだ。

「昇任に意欲的な職員が少なく人材確保に苦慮している」(横浜市)

 教員なんてもともとそういうものだ。社会で出世したいような人は、この職に向かない。
日本の教員は出世のためでなく、子どもとこの国のために、もう十分に一生懸命働いている。


さて、
(副校長・主幹制度が)
導入2年目の今年度までに配置した自治体は1年目の2〜3倍程度に増えたことが分かった
 という記事を読むと、たいていの人が、副校長や主幹といった人が新たに加わったに違いないと思うだろう。しかしそうではない。

 これらは「司書教諭を配置した」「栄養教諭を配置した」「特別支援コーディネーターを配置した」と同じで、
「現場の教諭に資格を取らせて普通の教諭の仕事以外に仕事をかぶせ、あたかも人員を配置したかのように見せかける」お定まりの手法なのだ。学校の人数はほとんど増えていない。

 それがどのくらい増えていないかというと、
08年度に全国の小中学校に配置された主幹教諭が約1万人だったのに対し、実際についた加配はわずか651人だった。
 とあるように、たった6・5%増やしただけ、つまり残りの9350人(93・5%)は、
それまでの普通の教員としての仕事以外に、主幹としての仕事をさせられていることになる。

 中には
 校務の一部を担う分、授業の負担は減らすのが建前だ。非常勤講師に週4時間サポートしてもらうことになった
 という人もいるようだが、週4時間のサポートの代わりにセブン・イレブン(勤務時間午前7時から午後11時)といった過酷な仕事をさせられたのではたまらない。


 そこで、
よくそんなことをやる人がいるものだ、という話になるが、実はやっぱりいない。
 もちろん、
 東京都では今年、約4千人の主幹教諭のうち29人が肩書を捨てた。
 とあるように4千人はいる。しかし、そもそも東京都は本年度(平成21年度)までに6103人の主幹を配置する予定だったのだ。それがたったの4千人。
 受験者が少なすぎて、未だに7割程度しか配置できていないのである。
 
 しかも(少し古い数字だが)、平成18年度の主幹試験の競争率は1・1倍。577人の受験者に対して532人の合格者を出した結果がこれだ。

 
それでも定員割れしなくて良かったと思ってはいけない。
 もともと毎年1000人程度採用して行かなければ追いつかない(5年も経てば最初の合格者は副校長になって主幹の席に穴が空いていく)のに、577人しかこなかったのだから。

 
募集定員1000人のところに577人しか来てくれず、まさか全員合格にするわけには行かないのでしかたなく45人切った、1・1倍はそういう数字なのである。
 

「副校長に専決権限を与えたことで、迅速な事務処理ができるようになった」(岩手県)、
「会議に出す提案事項の調整により、時間短縮や回数の削減が図られた」(滋賀県)、
「指導教諭を導入し、校内研修の充実が図られた」(徳島県)
 
 すでに制度を取り入れたところでアンケートを取れば、悪いことばかりをいうはずはない(悪いことばかりだったら、その都道府県の見通しの悪さを告白することになる)。
 
 しかしメンツにこだわっていたらこの国はどんどん悪い方へ進んでしまう。だれかが「王様は裸だ」と叫ばなければ、この国は終わってしまう。
 

【注】
 主幹制度に対して、副校長制度の方は非常にスムーズに運んだ。これも東京の例を見れば理由が分かる。
 東京都の場合、副校長はいるが教頭はいない。つまり教頭から副校長に名前を変えただけで中身はまったく同じなのだ。だからうまく行く。バカみたいだが。

 
 



 



2009.11.05

<教員>試用期間のうちに退任315人
…08年度、過去最多


毎日新聞 11月5日]


 1年の「試用期間」のうちに、教壇を去った公立学校の新人教員が08年度は過去最多の315人(前年度比14人増)に上ったことが、文部科学省の調査で分かった。うち約3割の88人は精神疾患を理由に退職していた。文科省は「イメージと現実とのギャップで自信を喪失し、うつ病などになるケースがある」とし、相談相手となるべき先輩教員らの支えや目配りを求めている。

 教員は、一般の地方公務員(半年)より長い1年の「条件付き採用期間」を経て正式採用が決まる。08年度は小中高校、特別支援学校などで2万3920人が採用され、このうち1年後に正式採用に至らなかった315人は1.32%(前年度比0・06ポイント減)を占めた。10年前(98年度)は0.27%の37人で、8.5倍に達している。

 315人のうち依願退職者は304人(前年度比11人増)。病気が理由だったのは93人で前年度より10人減ったが、5年前の10人、10年前の5人と比べると急増ぶりが際立つ。文科省が今回初めて精神疾患の人数を調べたところ、「病気」の95%を占めた。

 このほか、わいせつ行為や飲酒運転を理由に懲戒免職となったのが5人。不採用決定を受けたのは4人。死亡退職は2人だった。

 また、自ら望んで降任した教員も過去最多の179人(同73人増)に上った。主幹教諭からの降任が89人、副校長・教頭からの降任が84人。望んだ理由は、精神疾患を含む「健康上の問題」が95人と半数を超えた。

 教育委員会から「指導力不足」と認定された教員は4年連続で減少し、08年度は306人(同65人減)。指導力不足と認定され、研修後に復帰し、再度認定された教員8人も含まれる。【加藤隆寛】





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わいせつ、覚せい剤乱用…先生は何やってるんだ

読売新聞 11月5日]



 酒気帯び運転や生徒へのわいせつ行為などで懲戒免職になった教職員が、今年4〜10月の7か月で98人に上ることが4日、読売新聞のまとめでわかった。

 覚せい剤の乱用もあったほか、神奈川と千葉では10人を数えるなど、各教育委員会は対策に頭を痛めている。

 「『先生は何やっているんだ』とみんなに思われる状況。横浜の教育を揺るがしかねない」。政令市で最も多い6人の懲戒免職者を出した横浜市の田村幸久教育長は、今年9月に開いた緊急校長会で、市立小中高など513校の校長に厳しい口調で語りかけた。

 同市教委は8月、不祥事を防止するため全教員を対象に半日以上の研修を実施するよう各校に求めていたが、書店で女子中学生の下半身を触ったとして5人目の逮捕者が出た。

 10人が懲戒免職になった千葉県。鬼沢佳弘教育長も9月、55の市町村教育長を集めた緊急会議で、「極めて異常な事態。繰り返し粘り強く指導してほしい」と訴えた。10人のうち8人は、懲戒理由が女子高生とみだらな行為をするなどわいせつ事例だった。

 教員の薬物使用も出ている。東京都では中学副校長(53)が、熊本県では高校教諭(33)がそれぞれ覚せい剤を使用した疑いで逮捕され懲戒免職に。大阪市でも10月、小学校教諭(34)が友人から覚せい剤を購入し、使用した疑いで逮捕されており、市教委は懲戒免職を含め処分を検討している。




 この二つの記事は別のものではない。

せっかく採用されながら教壇を去る新人教員、
やっと昇任したのに降りてしまう管理職、
犯罪に走り不名誉な退職に追い込まれる者たち。


 教職に価値を感じ、生きがいを持ち、周囲からの十分な支えがあれば、この人たちは今でも、現場で戦力として働いていたのかもしれない。


 文科省は「イメージと現実とのギャップで自信を喪失し、うつ病などになるケースがある」とし、相談相手となるべき先輩教員らの支えや目配りを求めている。

という。しかしその相談相手となるべき先輩も、
(降任を)
望んだ理由は、精神疾患を含む「健康上の問題」が95人と半数を超えた。
という惨状だ。

 多くの教員が「もう、やってられない」と感じている。
 真面目にこの職を全うすることに、嫌気を感じている。
 そしてそんな教員の状況を理解する人は少ない。

「極めて異常な事態。繰り返し粘り強く指導してほしい」

 しかしベースとなる現状を変えない限り、この傾向は深まりこそすれ薄れることはない。

 現場で何が起きているか、しっかりと見据えることから始めること、それだけが解決の道だ。






 



2009.11.13

授業崩壊「小1プロブレム」
都教委が教職課程調査


産経新聞 11月13日]


小学校に入学したての児童が担任教諭の指示に従わなかったり、勝手に教室を出ていくなどの「小1プロブレム(問題)」が深刻化する中、現在の大学の教職課程が教員育成に実効性があるかを調べるため、東京都教育委員会が全国の国公私立大学の教職課程の独自調査に乗り出すことが12日、分かった。都教委の調査では、公立小の4校に1校で小1プロブレムが発生していることも同日判明。都教委は近く検討会を立ち上げ、官学連携で優秀な教員輩出への対策を講じる。

 小1プロブレムは、新入生が集団生活になじめず、教室で騒いだり席を立って歩き回るなどして授業が成立しない状況を指す。幼稚園や保育園からの生活の急変や、家庭などのしつけの不足が原因とされる。

 都教委では、小1プロブレムに加え、通常の学習・生活指導にも対処できない教員が増えていると分析。大学の教職課程が授業の進め方だけでなく、「人間力」や「指導力」の形成を含めた教職員の育成にふさわしいカリキュラムかどうかを見極めるとしている。

 昨年度、教職課程を持つ大学は国立77大学、公立46大学、私立459大学で、教員免許取得者数は22万2768人(大学院含む)。都教委では可能な限り、各大学の教職カリキュラムを比較検討して授業の視察を行い、各大学に「都の望む教員像を提示する」(幹部)としている。

 また、都教委が平成19年から、都内の教職大学院と一緒に作成している共通カリキュラムも、各大学の授業内容に組み込んでもらうよう提案。「教育現場で必要な心構えや行動力を身につけてもらえれば」との狙いもあるという。

 都教委が独自調査に乗り出す背景には、都内全公立小の校長のうち約24%が小1プロブレムの「経験がある」と回答した調査結果がある。1年にわたって収束しないケースも目立った。

 問題が発生したクラスの担任教諭は「採用30年以上」が約24%で最多。次いで「20年以上30年未満」が約22%と、ベテラン教員ほど対処できないことも明らかになった。



 これが文章といえるのか、その時点から検証しなくてはならない。
 小1プロブレムは(中略)幼稚園や保育園からの生活の急変や、家庭などのしつけの不足が原因とされる。
 そうか子どもの生活の急変や家庭のしつけの問題が語られるのか、と思っていたら、  
 小1プロブレムに加え、通常の学習・生活指導にも対処できない教員が増えていると分析。

 あれ、教員の能力低下の記事なのか?

 それにしてもいきなり
「対処できない教員が増えている」というのは、いかにも乱暴な話だ。

 しかし社会の問題が複雑になり、子どもが複雑になって教員が対応しきれなくなっているのは事実には違いないから、と先を読み進む。
 小1プロブレムに対して都教委がどう対応するするのか・・・

 ところが、
 生活の急変や家庭などのしつけ不足はほったらかしで、いきなり
 大学の教職課程が授(略)「人間力」や「指導力」の形成を含めた教職員の育成にふさわしいカリキュラムかどうかを見極める
 となる。これはどういうことなのか。


 問題が発生したクラスの担任教諭は「採用30年以上」が約24%で最多。次いで「20年以上30年未満」が約22%と、ベテラン教員ほど対処できないことも明らかになった。(*1)
 ふーん、なるほど。
 しかしそのことと、大学のカリキュラムはどういう関係にあるのだ? 
 
ベテランがかなりダメだから、大学に入れて再教育をしてくれるということなのか。
 記事を読んでもさっぱり理解できない。

 この混乱は産経新聞記者の混乱なのか、そもそも都教委がむちゃくちゃなのか、その両方なのか、それも分からない。
 

 そう思って読んでいくと、
 都教委では可能な限り、各大学の教職カリキュラムを比較検討して授業の視察を行い、各大学に「都の望む教員像を提示する」(幹部)としている。
 などという文に出会う。
 
 東京都教委、いつからそんなに偉くなったか。

 
東京都の教員採用試験の倍率はわずか2.6倍。それではどうしようもないから今年は30年ぶりに追加試験までやって人材を確保しようとしていたはず(*2)なのに、「都の望む教員像を提示する」のだそうだ。
 
 その教員像に合わない学生は来ないでかまわないといった横柄な態度。
  それで東京の教育はもっていくのだろうか?
 


*1
 「東京都の教員の大量退職」という話を聞いたことのある人は多いだろう。
 現在、首都圏の教員は異常に高齢化が進んでいる。
 ということは、40代50代の担任が圧倒的に多いということである。
 ベテラン教員ほど対処できないのではない。そもそもベテランの人数が多いのだ。

 
現代の子どもはベテランでも対処できない、という意味では問題だが、ベテランほど悪いという問題ではない。
 産経新聞記者はそんなことにも気がつかない。
 あるいは、気づいていながら、わざとベテランを潰しにかかっているのかもしれない。


*2
「東京で先生になって」不人気の都、異例の追加採用試」 [朝日新聞 2009年10月22日]
 小学校の教員採用試験の低倍率に困った東京都がこの秋、東北と九州で、2度目の試験を行う。追加の採用試験は30年ぶりという異例の対応だ。東京の受験倍率は2倍台と低く、都教委は「これでは優秀な人材が確保できない」と嘆く。必死に、先生集めに走る東京都の思いは、地方の学生たちに通じるか。

 都はここ数年、教員の大量採用を行っている。60〜70年代に第2次ベビーブームで子どもが増え、それにあわせて大量採用した世代が一斉に退職を迎えているためだ。

 99年度の公立小学校の教員採用枠は200人、倍率は10.2倍だった。それが09年度は採用枠が1473人に増え、倍率は2.6倍にまで下がっている。10年度も前年並みになりそうという。2回目の採用試験は今月23日(当日消印有効)に受け付けを締め切り、11月15日に仙台市と福岡市で1次試験を行う。

 都教委は「優秀な人材を集めるのに、最低3倍の倍率はほしい」と話す。教員採用試験の予備校「東京アカデミー」などによると、09年度の小学校の採用試験は首都圏は2〜3倍台と低いのに、秋田22.8倍、青森19.7倍、宮城7.4倍、福岡7.3倍、長崎13.7倍など、東北、九州地方は難関だ。

 また、高倍率の地域の受験者は、首都圏と併願するケースが多い。両方とも合格すると、ほとんどが地元を選ぶ。各地の合格発表が出そろうこの時期、東京では、ごっそり200人前後の辞退者が出る。臨時採用の先生で対応するのではなく、「きっちり採用すべきだ」という方針から、2度目の試験を実施することになった。

 都教委は「高倍率の地域は、優秀なのに不合格になった学生が残っているはずだ」として、試験場所に東北と九州を選んだ。春の試験の不合格者は対象外にするなど、人材確保に必死だ。


■学生「地元で目指す」
 一方、「誘われた」地方の学生たちの反応はどうか。

 地元の試験で不合格となった秋田大の女子学生(23)は来年もう一度、「秋田一本」で挑戦する。「先生にはなりたいが、生まれ育った秋田で教師になりたい」

 都の採用は知っているが、周りで東京を受験する学生はほとんどいない。「怖いイメージがある。それに、あまりにも倍率が低いので、逆に大丈夫なのかなと不安になる」と二の足を踏む。別の男子学生(21)も「東京の子はみんな塾に通っていそう。秋田人の僕が育った環境と違いすぎる。先月、東京へ遊びに行ったら、3日で疲れた。働く場所とは思えない」。

 こんな学生たちに、都教委は「都会の子どもは生意気そうとか、親もうるさそうというイメージを持たれているが、東京といっても都心だけではない。多摩や離島もあり、田舎と環境は変わりませんよ」とアピールしている。

 地方の学生は「できれば地元で」という思いが強い。とはいえ、長期的に見れば地方も安穏としてはいられない。

 受験会場となる宮城県。試験の実施について、都から連絡はなかった。県教委は「こうした試験が続けば、東京の草刈り場になる。地元の優秀な人材が吸い上げられそうだ」と危機感を募らせる。「こちらは逆に、宮城出身で首都圏の大学に通う学生に『戻ってきて』と積極的にアピールしていきます」

 福岡県も同じだ。倍率は8.3倍と高いが、あと5年ほどで福岡にも大量退職・大量採用の時代が来るという。「その時は、私たちも、東京から、優秀な人材を獲得する方法を考えなければならないでしょう」と話した。(中村真理子)








 



2009.11.22

教員養成「6年制」に波紋
負担増、志願者減る恐れも


朝日新聞 11月21日]


 教師の新たな質向上策として、文部科学省の政務三役が導入を表明した「教員養成6年制」。マニフェストでうたった民主党肝いりの政策で、学部の4年だけでなく大学院の修士課程もセットで義務づけ、手厚い体制で教師を育てようという考えだ。しかし、教育関係者からは早くも多くの疑問符が投げかけられている。
 教員養成で大学院も必修にするという考え方は、前々から教育関係者の間で浮かんでいた。世の中が複雑になって子どもへの対処や学校運営が難しくなり、4年間では教育期間が足りないという見方だ。民主党から乗り込んだ文科省の政務三役が旗を振る理由もここにある。
 もう一つ、関係者の間で語られている理由がある。大学院修了という肩書が、保護者や子どもへの「箔(はく)づけ」になるという考えだ。
 中央教育審議会の委員の一人は「昔の親は『大学出』の先生に一目置いていた。それがここまで高学歴の社会になると、『世間を知らない』などと軽んじる親も出てくる」。民主党の国会議員も「先生が先生というだけでは尊敬されない時代になった。うつになる人も多い。修士をとってもらってきちんと育てる必要がある」と力説する。
 しかし、すべての教員志望者に6年間の勉強を義務づける制度は、うまくいくのか。まず浮かぶのが、先立つもの――お金の心配だ。
 今年、東京都の教員採用試験に落ちた私大の4年生の女子(22)は「いずれそんな制度になるなら私も大学院に行った方がいいかも」と思う。しかし、今の大学で修士に進めば学費は2年間で230万円以上かかる。「親にはもう迷惑をかけられない」「でもバイトと勉強を両立できるだろうか」。具体的に考えると二の足を踏んでしまう。
 私立よりましとはいえ、お金がかかるのは国立も同じだ。入学金と授業料で約135万円が必要で、他にも教科書代、研究費と出費はかさむ。社会に出て働き、2年間収入を得ることを考えれば、負担感はなおさらだ。
 薬学部では、修業年数が延びた途端に人気が落ちた前例がある。薬剤師の資格取得にかかる年数が延びたのに伴い、06年度の入学者から6年制を導入したが、その初年度の入試の志願者は国公私立合わせて約10万1千人。前年から一気に3割強、5万人近く減った。その後も不振は続き、今春の志願者は約8万8千人に。私大では4割が定員割れになっている。
 教員は免許を取ってもすぐに採用されにくい。地方の競争率は10〜20倍と特に狭き門で、非常勤講師をしながら本採用を目指す人も多い。
 大手予備校・河合塾の近藤治・教育情報部長は「こんな状況で6年制にすれば、最初から教員をあきらめる高校生が増えるだろう」とみる。「教師の仕事は忙しく、親からも多くのものを求められる。一方で収入はさほど多くないとなれば、魅力を感じる人は少なくなる」
 民主党の有力な支持団体の一つ、日本教職員組合(日教組)は、6年制について現時点では反対していない。ただ、現場の教員には批判があり、今月17日にあった中央委員会でも、地方の参加者から「教育実習期間が延びたら受け入れる学校側の負担は大変なものだ」といった声があがった。これに対して執行部は「反対ありきのスタンスはとらない」としつつ、「民主党には制度の課題を一覧にして送っている。学校現場が混乱したら反対する」と述べた。



 医学部が6年制でも人気を博しているのには理由がある。
 言うまでもなくステータスと高収入だ。
 翻って薬剤師はどうか。
教員はどうか。
 6年もの修養期間を経てまで、就くべき仕事だろうか?

 
 朝日新聞記者は
 
入学金と授業料で約135万円が必要で、他にも教科書代、研究費と出費はかさむ。社会に出て働き、2年間収入を得ることを考えれば、負担感はなおさらだ。
 と書くが、それは違う。
 
 2年間余計に学ぶことで失う収入は、「社会に出て働き、2年間収入を得る」その2年分ではない。

 就職が2年遅れれば定年までの終了年数が2年減る。ストレートで4年生大学を出て定年まで働く人は28年の就労だが、6年制の学校を出た場合は26年。
手に入らない給与は27年目と28年目の給与であって初任とその翌年の分ではない

 その額ざっと2000万円くらいにはなろうか(25年以上のちの時代だとして)。それに合わせて退職金も年金も違ってくる。

 さらに2年間余計に勉強していた時期の生活費も加算し、授業料を含めると3000万円ほどにもなろうか。
 教員はそれだけの犠牲を払っても、手に入れなければならないほどの職業なのか(医者だったらすぐにも回収できる金額だろうが)。
 
 いや、フィンランドをみろ、フィンランドでは教員が修士取得を義務づけられても人気があるというではないか、収入も普通程度だ、そういう人がいるかもしれない。
 しかしフィンランドにはフィンランドの事情がある。
 
 まずフィンランドの教師には2ヵ月半という膨大な夏休みが保障されている。週日も4時になれば自由に帰宅できる。

 仕事は教科教育が中心で面倒な生徒指導や道徳教育といったものもないから、帰宅後の時間は自分のためにふんだんに使える。

 子どもも実におとなしく勉強する。

 一クラスの生徒数も20名ほどだから、成績処理などの負担も少ない。

 そこから生まれる余暇は、もともと学問の好きな教員にとって最大の魅力だ。

 夏休みも遊ばぬよう研修詰めにして管理される日本の教員とは、待遇が根本的に違う。
 
 さらに、
勉強のできる子は教員になるという伝統があるため、この点でも教員のステータスは著しく守られているといえる。
 
 またフィンランドの教師が修士を義務付けられてもまったく困らない理由がある。それは
フィンランドの場合、大卒は全員が修士だという事情だ。

 修士課程が義務付けられているのではない。日本と同じように大卒が義務付けられていて、大学を出たものは全員修士になるのだから「修士号が義務付けられている」のと同じ結果になってしまうのだ。
 
「教師の仕事は忙しく、親からも多くのものを求められる。一方で収入はさほど多くないとなれば、魅力を感じる人は少なくなる」
 いや、もはや「少なくなる」といった段階ではないだろう。少なくとも各地区の
トップエリート高校でアンケートをとれば、教員志望など数えるほどしかいないはずだ。彼らは教員や公務員などはなから馬鹿にしてなろうとしない。
 どこの大学でも教育学部がもっとも入りやすい現状をみればおのずと知れようというものである。
 
 学部の4年だけでなく大学院の修士課程もセットで義務づけ、手厚い体制で教師を育てよう
 冗談じゃない。

 6年制にすれば入学してくるのは金持ちで頭の悪いヤツばかりになる。そんな学生を手厚く育ててもたいしたものになるはずがない。
 
 
*フィンランドの大学進学率は86%で世界最高水準だという統計があり、それを信じる人は多いが実際は違う。高校卒業段階で大学に進む者が30%、ポリテクニクと呼ばれる実学学校へ進む者が35%、それ以外の教育機関へ進むものがあってその総計が、86%なのである。
 ちなみにポリテクニクは4年制であって、ここを卒業すると学士、5年制の大学を卒業すると自動的に修士号を授与される。フィンランドでは今でも大卒はエリートなのだ。


 




 



2009.11.30

仕分けで英語ノート「廃止」、教師から反対殺到


読売新聞 11月30日]


 小学校英語の必修化を前に文部科学省が無償配布している補助教材「英語ノート」の予算が、政府の「事業仕分け」で廃止になり、全国から困惑の声が殺到している。

 教科書がない小学校英語では貴重な教材だけに、校長代表らが同省に「継続」を直訴、350件の廃止反対意見なども寄せられている。

 「ノート」は、ほとんどの公立小で英語教育の先行実施が始まった今春、約250万冊を配布した。多くの教師が英語導入に不安があり、指導法も確立していないため、不安の解消と教える内容の地域格差を小さくする狙いがあった。

 要求額は総額8億5000万円だが、事業仕分けでは、「なぜ小学校で英語を教えなければならないのか」と「そもそも論」が仕分け人から噴出。「デジタル化して学校ごとに印刷すればいい」との意見も出て、30分程度で「廃止」とされた。

 この結果に、文科省には当日11日から問い合わせが殺到。意見メールや電話350件のうち300件が「廃止反対」だった。「デジタル化でネット配信にすれば多額の著作権料が必要」という指摘もある。

 「ノート」の存続を求め文科省に意見書を提出した松川礼子・岐阜県教育長は、「小学校英語は深く議論して決まったこと。なぜ必要性から蒸し返すのか」と憤慨。全国連合小学校長会の向山行雄会長も、「英語を教えたことがない教員にはほとんど必須の教材。特に地方での活用度は高い」と廃止しないよう求める。

 こうした意見に、最終判断を行う立場の川端文科相は「今後の予算編成で政治判断したい」と述べている。

 ◆小学校英語=2011年度から必修となる「外国語活動」の一環で、5、6年生対象。教科扱いではないが、言語や文化の理解を深め、会話力の素地を養う。





そもそも
小学校英語は深く議論して決まったことかどうかも疑わしいのだが、それを言い出すと「そもそも論」だと排されるので言わない。

 しかしそもそも大半は小学校英語の訓練を受けて教員になったわけではなく、いくら講習を受けたって年間35時間の授業を有意義なものとして埋めるのは容易なことではない。

「英語ノート」はそうした教員にとって、最低の学力を保証するための有効な指針だった。しかしそれも排して、なおかつ学校がうまく行かないと「教員の指導力不足」と言われるのではたまったものではない。

 つい20年前の教員は総合的な学習の時間なんかやっていなかった。生活科もなければ環境教育、福祉教育といったものもなかった。キャリア教育、情報教育、食育etc。次から次へと教育内容を増やしておきながら、人員は増やすわけでもない、教科書は削減する、もうこれは
政府による組織的な教員いじめとしか言いようがないだろう。


仕分け人ものん気に
デジタル化して学校ごとに印刷すればいいなどとのたまうが、

誰がどの時間に印刷し冊子にし、配布するのか。そのための人員は配置してくれるのか。そのための紙やインク、プリンターのトナー代は出してくれるのか(カラー版でやるとなれば、各校数万円の出費となるはずだが)。

国は
総額8億5000万円も削減できた。

しかしその削減は、仕分け人の一言によってなしえたものではない。

今後毎年数万人の教師が肉体労働で浮かせる8億5000万円なのだ。

 100万人近い教員に「もうやってられない」という気持ちを丁寧に植えつける、重要な決定が次々と行われている。







 



2009.11.30

【正論】京都大学教授・西村和雄
教員課程6年は現実即さぬ愚策


産経新聞 11月30日]


 ≪メルヘンのような行政≫
 民主党政権の長妻昭厚生労働大臣は野党時代から、厚労省が「年金などの現状把握」をしていないと指摘していた。また、理念にとらわれ、現実を見ない、という意味で「厚労省はメルヘンの世界に生きている」ともいった。
 長妻大臣の指摘は、厚生労働省を文部科学省に、「年金」を「教育」にと置き換えても、そのまま成り立っている。
 川端達夫文部科学大臣は、民主党が総選挙のマニフェスト(選挙公約)で掲げた「(大学、大学院の)教員養成課程の6年制への延長」を検討することを明らかにした。この研修は、教員の能力を向上させるために行うという。
 これに対して新聞各紙はおおむね、否定的な反応を示した。
 その理由はいくつかあるが、目についたものを挙げれば、(1)6年がかりで勉強をしても、教職は多忙なわりに収入が見合わない(2)免許を得ても教員採用試験は依然として狭き門で、教員として採用されなければつぶしが利かなくなる(3)延長は教職志望者の意欲をそぎ、また学生の経済負担も増して、優秀な学生を減らすことになる−などの意見である。
 産経新聞は9月21日の教育欄で、「教員養成を6年にするなんて無駄もいいところ」という、ある中学校長の厳しい見方を紹介している。最近の教育現場の状況を考えれば、6年制に延長するよりも、大学卒業後に一般社会人としての2年間の実績を義務づけた方がよほどいい先生が集まる、というのである。

 ≪小学校の問題も解けない≫
 学校教育の改革について何をやろうとしてきたか。歴代の政権に共通しているのは、「教員の質」を向上させることに主眼が置かれてきたことである。
 しかし、既存の教員の質を向上させるのは、費用も無視できないし、容易なことではない。それよりも、新しく採用される教員の質を上げるのは養成課程の延長によって可能なはずであり、全体として教員の質を向上させる具体策の一つとなるというわけだ。
 ところが、現在の教員養成学部・大学の学生はおおむね文系の範疇(はんちゅう)に属し、学力も他学部・他大学に比べて、決して高くはない。
 私と戸瀬信之慶応大学教授が10年近く前に、国立の教員養成系の5大学の学生を調査したところ、小学校レベルの問題を全問正解できたのは、24・3%の学生にすぎなかった。
 この学力のついていない大学生の教育を、4年から6年に伸ばしたところで、学力の伸びがどの程度期待できるだろうか。しかも有力な国立大学に限っての調査でも、大学院の学生の学力は、学部生に比べて低い、というのが現状である。もちろん、教員としての適性は学力だけではないが、それで、学力の低い部類の学生たちからのみ教員を採用することを正当化できるわけではない。
 教員を養成する専門職大学院についても、規制改革・民間開放推進会議が2005年に、「本来適切な資質を持つ者をかえって排除する悪しき参入規制そのものであり、…中長期的に教員の資質低下につながる懸念が大きい」と述べて、批判しているのだ。
 現行の新教育職員免許法では、教科専門科目の履修必要単位が従来の半分かそれ以下に削減され、かつての教育原理や教育心理などの専門的な教職科目の必修単位が増やされた。その結果、他学部の一般学生が教員資格を取ることをさらに難しくしている。
 しかも小学校の教員免許を取得する場合でも、国語、算数、理科、社会の小学校における教科専門科目すべてを学ぶことは必要でなくなったのである。

 ≪延長よりも早期の研修を≫
 すでに薬剤師については2006年度から、薬学部の6年課程の修了者でなければ、国家試験の受験資格が得られなくなる改定がなされた。その結果、薬学部を志望するものが減少し、現在、薬学部の約30%で定員割れをおこしているという。
 薬学教育改定の際の中央教育審議会(中教審)答申は「薬学教育の改善・充実」であった。しかし筆者は、大学院学生の質が大幅に低下したきっかけは旧文部省による大学院重点化政策にあると考える。1996年度から5年間の「ポスドク1万人計画」のおかげで、就職先のない大量の博士号取得者が生まれたのである。
 充実や重点化の名の下に、教育年数を延長することで教育の質を大幅に落とした過去の「轍(てつ)」を踏むべきではないであろう。
 では、どうしたらよいかである。既に民主党案の一部に含まれているが、教育学部以外の学部、特に理系の学生でも教員になれる制度に改革すること。これを第一義として、採用試験に合格して仮免許を持つ学生に、現場で研修を受けさせることである。教員になれるかどうか、わからない段階で研修をしても効果は薄い。多数の学生が大学院の2年間をかけて勉強しても、教員に採用されなければ、就職に窮することになるからである。(にしむら かずお)




 正論というからには正論らしいことを書いてもらいたいものである。

 教員課程6年は現実即さぬ愚策
というのには賛成できるが、対案として出されるのが、
教育学部以外の学部、特に理系の学生でも教員になれる制度に改革すること
採用試験に合格して仮免許を持つ学生に、現場で研修を受けさせること

では話にならないだろう。

 西村先生には理系が賢く文系はバカだという思いがあるようだが、理系の一般学部に門戸を広げれば優秀な人材が集まるというものでもない。
 また人は研修を多く積みさえすれば優秀になるとも思っておいでのようだが、採用試験に合格して仮免許を持つ学生に、現場で研修を受けさせてもそう簡単に技能が伸びるとも思えない。現在行われている初任者研修の上に何を積み重ねようというのか。

 そもそもが、
現状で考えうる限りで、学校は最高の人材を確保できているのだ。それは警察官や消防士といった他の公務員でも同じだろう。平成大不況の中で20倍・30倍といったとてつもない競争率を勝ち抜いてきた連中は、それだけでももう十分に優秀だ。改めて研修などする必要もなく、彼らはいくらでも自分から学んでいく。

 したがって、

この時期に教員になった人たちができないことは、日本中誰がやってもできない

 オリンピックの陸上競技100mで日本人が金メダルを取れないのと同じように、誰がやっても絶対できない。
 そうである以上、現状に満足するしかないのだ。



 ただし、それでもなお東大・京大レベルまでターゲットにして教員の質(ここまでくると教員の質ということ自体が何なのか問題になるが)を高めようとすれば、それは
教員という仕事を、今よりずっと魅力的な仕事にするしかない
 

 古代の中国、燕の国の宰相は「
先ず隗より始めよ」()と言ったが、いくら広く呼びかけても教職に旨味がなければ人材は集まらない。店舗の間口をいくら広げても、商品に魅力がなければ客は来ないのと同じだ。ましてや、来たら研修で叩きますと言われて、誰が行くものか。
 それが正論だ。

 教師の人気が高まれば、ほうっておいても教育学部の競争率は高まる。さらに教員採用の窓口に、他の学部からもどんな苦労をしてでも入ろうという生きの良い優秀な人材が集まってくるに違いない。

 例えば教員の収入を開業医並みにすることを想像してみよう。それだけで教育学部の門前に市をなす受験生の様子が思い浮かぼうというものである。
 
 ただし公教育の教員の給与を開業医並みにすることなどとうていできないことは誰の目にも明らかだ。だとしたら他に何があるか。

 答えは案外簡単だと思うが・・・。
 

*まず私を優遇しなさい。凡庸なでも優遇されるとなれば、全国から人材が集まってくるでしょう。(戦国策)