キース・アウト
(キースの逸脱)

2009年12月

by   キース・T・沢木

サルは木から落ちてもサルだが、選挙に落ちた議員は議員ではない。
政治的な理想や政治的野心を持つ者は、したがってどのような手段を使っても当選しておかなければならない。
落ちてしまえば、理想も何もあったものではない。

ニュースは商品である。
どんなすばらしい思想や理念も、人々の目に届かなければ何の意味もない。
ましてメディアが大衆に受け入れられない情報を流し続ければ、伝達の手段そのものを失ってしまう。

かくして商店が人々の喜ぶものだけを店先に並べるように、 メディアはさまざまな商品を並べ始めた。
甘いもの・優しいもの・受け入れやすいもの本物そっくりのまがい物のダイヤ
人々の妬みや個人的な怒りを一身に集めてくれる生贄
そこに問題が生まれれば、今度はそれをまた売ればいいだけのことだ。
















 



2009.12.06

不登校の子どもたちが「権利宣言」
価値観の尊重訴え


朝日新聞 12月5日]


 「子どもの権利条約」の国連採択から11月20日で20年を迎え、東京のフリースクールに通う子どもたちが「不登校の子どもの権利宣言」をつくった。学び方を選ぶ権利を求め「共に生きやすい社会を」と大人に呼びかけている。
 前文と13の条文から成る権利宣言は、「東京シューレ王子」(東京都北区)に通う10代の子どもたち15人がつくった。
 前文は「私たち子どもはひとりひとりが個性を持った人間です」と始まり、「子どもの声に耳を傾け、個々の価値観を尊重してください」と訴える。第1条にうたったのは「学校へ行く・行かないを自身で決める権利」。他にも「競争に追いたてたり、比較して優劣をつけてはならない」などやめてほしいことを挙げたほか、「他者の権利や自由も尊重します」と自分たちの気構えも盛り込んだ。「まずは権利の存在に気づかなければ」と、最後の第13条には「子どもの権利を知る権利」をうたった。
 23日に「東京シューレ葛飾中学校」であったシンポジウムでは、権利宣言にかかわった13〜16歳の4人が思いを語った。
 きっかけは昨年春。ユニセフの活動や子どもの権利条約を紹介する施設を見学した際、「君たちは幸せだ。ご飯を食べられ、学校に行けて戦争にも駆り出されない」と言われたことだった。
 重い言葉だった。自分たちを見つめ直そうと権利条約について勉強し、話し合いを重ねた。学校が合わなくて苦しんだ自分たちはどうしたらいいか。「甘えている」「わがまま」といった言葉にどうこたえればいいのか。
 今年は全国の不登校の子どもが交流する合宿も20年の節目を迎えるため、自分たちの気持ちを宣言にまとめることにした。40時間の討議を重ね、最後は「へとへとだった」という。
 参加した千葉県松戸市の工藤健仁(けんと)さん(16)は「他のフリースクールの生徒ともやりとりしながら自分たちに合うようさらに編み直し、広めたい」。宣言の全文は東京シューレのサイト(http://www.tokyoshure.jp/)で見られる。(上野創)



 朝日新聞がどのような立場から記事を書いているのか、なかなか読み取りにくい文である。

第1条にうたったのは「学校へ行く・行かないを自身で決める権利」。
確かにそう書いてあるが続く
「義務教育とは、国や保護者が、すべての子どもに教育を受けられるようにする義務である。子どもが学校に行くことは義務ではない。」
を、朝日新聞は意図的に落としている。(「不登校の子どもの権利宣言」

 ほんとうか?
 憲法の規定は
「すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ」(26条第2項)

「受けられるようにする義務」「受けさせる義務」では意味が異なる。
「受けさせる義務」からは、「子どもが学校に行くことは義務ではない」は出てきようがない(子どもには親に憲法違反を行わせる権利があると解釈しない限りは)。
 
 常に護憲を訴える朝日新聞も、こうした改憲には理解があるらしい。

 さて、私もいい加減疲れてくると、子どもの主張を全面的に引き受けていいような気になることがある。
 すべての子どもは自分の望むように人生を選択し、生き、休んでかまわないと思うときがある。

 しかしいつもそんな自分を押さえ、奮い立たせ、繰り返し不登校の子どもたちの現場に戻っていくのは、以下のことを思うからである。
  1. 年端も行かない子どもの意思を、その子の生涯の決断として認めてもいいのだろうか。
     現状において学校に行かないことの不利益は莫大なものである。その不利益を進んで背負うという決断を、7・8歳の子どもに任せ、生涯に渡って責任を取らせ続けるのが、果たして賢明な大人のすべきことなのだろうか。
     もちろんフリースクール、フリースペース、ホームエデュケーションといったところに行ってくれれば展望も開ける。しかし
    「おとなは、学校やそのほかの通うべきとされたところに、本人の気持ちに反して行かせるのではなく、家などの安心できる環境で、ゆっくり過ごすことを保障してほしい」(四、安心して休む権利)
    と言っている以上、どこにも行かないという選択肢もあるのだ。

  2. 不登校児はほうっておいても必ず不登校児ではなくなる。それは子どもでなくなった日、あるいは学齢期を終了したときである。いぜれの場合も「不登校」あるいは「児」ではなくなる。
     そのとき、

    「不登校の子どもの権利宣言」に盛り込まれたような特権は瞬間的に消滅し、(旧)不登校児は普通の大人として社会に投げ出される。
    それでいいのか、

ということだ。
 私の中の常識は「否」と答える。
 
 今目の前の子ども望むことが、永遠にその子の望むことと同じであるはずがない。
 かくして私は、再び不登校の現場へ戻っていこうとするのだ。






 



2009.12.16

モンスター保護者、指導不満で「迷惑料」要求


産経新聞 12月16日]



 東京都内の公立小学校で、親が子供に対する学校側の指導に不満を持ち、「迷惑料」などの名目で現金10万円を校長に要求していたことが15日、都教委の調査で分かった。校長は要求を拒否したが、親は給食費の不払いを宣言してトラブルに発展した。理不尽な要求をするモンスターペアレント(問題親)に悩む学校は急増し、校長が鬱病(うつびょう)で休職するケースも出ている。事態を重視した都教委は新たにモンスターペアレントへの対応策を示した手引書を作成し、都内公立学校の全教員に配布することを決めた。

 関係者によると、トラブルを起こした親は今年夏、子供に対する運動指導中に起きた問題で、学校側の対応の悪さを指摘。当初は校長に通信費名目で現金1000円の支払いを求めたが、要求はエスカレートし、最後は「迷惑料」として現金10万円を求めた。校長が拒否すると、親は給食費不払いを宣言した。
 今年5月に都教委が専門家らで設置した「学校問題解決サポートセンター」で対応を協議。「学校側が謝罪することが先」と助言したが、親の理解は得られず、数カ月分の給食費の未払いが続いている。
 都教委の調査では、保護者から理不尽な要求を経験したのは、都立高校の約15%、小・中学校で約9%。センターへの相談は、5月から11月末まで112件、延べ181回に上っている。
 最近では修学旅行から帰宅後、体調の異変を訴え緊急入院した生徒の親が、「刃物を持って担任を刺しに行く」などと猛抗議。担任が家族への危害を恐れるような事態も起きている。
 こうした事態を踏まえ、都教委は、モンスターペアレントへの解決策を示す「学校問題解決のための手引き」を作成した。親への対応や問題解決までの方法を事例ごとに紹介。解決策を書き込むワークシート方式が特徴で、「保護者と接する心得10カ条」も示した。都教委幹部は「教員には苦情を『事実』『推測』『要望』『無理難題』といったように整理して考えられるようになってほしい」と話している。


 この記事は私には理解できるが、一般には案外分からないものらしい。
 まず、
子供に対する運動指導中に起きた問題の内容が分からない。

 学校側の対応の悪さも分からない。

「学校側が謝罪することが先」というくらいだから、悪いのは学校のようだが、だとしたら最初の要求が、通信費名目で現金1000円というのがなんとも分からない。

「迷惑料」として現金10万円
に発展するのも分からない(一気に100倍だ)。

10万円も要求できるような内容なら、親は裁判所に告訴すればよさそうなものだが、それをしなかった理由が分からない。
逆に根拠のない要求だったらこれは純然たる恐喝だから学校の方が告訴すればよいが、こちらもした形跡がない。

 親の方は
給食費の不払いを宣言し、とあり、数カ月分の給食費の未払いが続いているからには、数ヶ月間未払いのまま子どもは給食を食っていたことになるが、なぜ給食が止められなかったのか,そこが分からない。

 とにかく分からないづくしなのだ


 ただ、私にはなんとなく状況が分かる。事件の内容が分からないのは同じだが、発端を別とすれば、あとはそっくりな経緯を何回か経験してきたからである。

 まず初めの
「子供に対する運動指導中に起きた問題」はおそらくそう大したものではなかった。理不尽な親でも請求できる金額が1000円にしか算定されない程度のものだろう。

 しかし問題が些細であったがために学校は対応を間違った。
 1000円は払えないにしても、被害者意識にパンパンに膨れ上がり気合を入れて学校に乗り込んだ保護者に対して、もっと丁寧に、もっと誠意を持って、さらに言えば最大のゴマすりを弄しても、持ち上げて気持ちよく帰っていただくのが最善の策だった。そこれを粗略に扱ったから相手は怒ったのだ。

 世情に言うとおり教師はサービス業だと本気で信じている保護者がいる。公務員は“公僕”なのだから市民たる自分の僕(しもべ)であると信じて疑わない人がいる。そうした立場から見れば、自分が軽く扱われるのは心外でもあり侮辱でもある。これはお子っても当然だろう。

 本当に欲しかったのは10万円ではなく、客として、主人として当然支払われるべき「敬意」だったのである。

「学校問題解決サポートセンター」が、「学校側が謝罪することが先」と助言したというのもそうした事情を察してのことだ。

 とにかく粗略に扱ったことについては謝罪し、怒りを静めてもらう。もともとが1000円相当にもならない事件なのだから、ことの本質はいまさら問わない。とにかく落ち着いてもらわなければ話にならない。

 しかしここまで来ると、なぜそこまで卑屈にならなければならないか、今度はその理由が分からなくなる。

 答えの鍵は、
時間子どもである。学校は子どもと時間という決定的に重要なものを、親によって人質に取られているのだ。

 まず
「時間」だが、これは説明の必要はないだろう。学校はサービス業だといわれながら、デパートや大企業のような「お客様係」を持っているわけではない。日常の仕事でいっぱいになっている状態から、さらにモンスター的保護者との対応に追われるとなると、それだけで疲弊しきってしまう。そもそもが疲弊状態にあるのだ。

 第二の
「子ども」は、その親自身の子たちである。
 学校と決定的に対立してしまった親は、子どもを学校に出さない。こうしたかたちで子どもが学校に来なくなって困るのは親ではない。学校が困る。なぜなら子どもには罪がなく、
大人の事情によってその子が学校にこられないという状況は、教師にとって容易に耐えられるものではないからだ。

 あるいはその親が「子どもを出さない」という方法をとらなかった場合も、対立関係を引きずった状態で、学校と保護者が協力して教育を行うことなど不可能になってしまう。現代にあって、学校だけで健やかに子どもを育てることなど不可能だ。教師は子どもを愛する以上、どんな卑屈な思いをしても親との協力関係を良好に保っておく必要がある。繰り返すが、
どんな惨めな思いをしても、その子のよりよい育ちを考えれば引き下がらざるを得ない、それが学校なのである。

 だから普通は告訴もできない(告訴するのは、学校の安全が脅かされるか、実際に傷害事件などに発展しその犯罪を隠匿できない場合か、その親と一緒にいないことの方がその子の利益になる場合だけである)。

 さて、大半のなぞについては答えてきた。
 最後に残るのは、教職費の未払いに対して、なぜ給食を止めなかったかという問題であるが、これについてはすでに話したことがある。

 
その子の給食を止めた場合、給食の時間に食事が摂れなくなるのはその子ではない。その子の担任教師が食べられなくなる。なぜなら担任は自分の分をその子に回してしまうからだ。これは誰が担任であってもそうなる。少なくとも人間である限り、クラスの中にただひとり食事のない子を残し、自分が平気で給食を食べることなどできるはずがないからだ。

 そのことをモンスター・ペアレントたちは十分に知っている。
「止められるものなら止めてみろ」
というのはそういう意味である。






 



2009.12.26

教員の精神疾患が過去最高
16年連続で増加


産経新聞 12月25日]



 平成20年度に学校を病気休職した教職員は8578人(全体の0・94%)で、そのうち63%に当たる5400人を精神疾患が占め、いずれも昭和54年の調査開始以降、過去最高となっていることが25日、文部科学省の調査で分かった。精神疾患を理由とする休職は16年連続の増加だった。
 調査の対象は公立小中学校と高校の教職員ら計約91万6千人。
  教員の精神疾患について各教育委員会は(1)生徒指導や教育内容への変化に対応できない(2)教員同士のコミュニケーションが減少し、相談相手がいない (3)多忙によるストレス(4)保護者や地域の期待や要望が多様化し、対応が困難−などを挙げている。文科省では「各要因が複雑に関係しているのでは」と 分析している。
 年代別では50代以上が36・8%で最も多く、40代の36・1%、30代の20・6%が続いた。教員全体の年齢構成比では50代以上は32%、40代は36%で、50代以上で発症比率が高い。
 年々増える精神疾患に対し、文科省は今年1月、教員が気軽に周囲に相談できるような環境作りや、休職者が円滑に職場復帰できるよう支援を求める通知を出して対策を指導している。
 同調査では懲戒処分の状況も調べ、わいせつ行為などで処分を受けた教員は過去3番目に多い176人に上った。
 わいせつ行為などで処分された176人のうち、行為の対象が自校の児童生 徒だったケースが49・4%でほぼ半数を占め、行為が行われた場所は保健室、生徒指導室などが多かった。文科省によると、「指導の際に教員が子供と一対一 にならないよう指導している県もある」という。
 懲戒処分を受けた教員の総数は、訓告などを含めると4020人。最多は交通事故の2502人、次いで体罰376人だった。




 この話題も毎年扱っているが、数字が下がるということがない。

平成20年度に学校を病気休職した教職員は8578人(全体の0・94%)で、そのうち63%に当たる5400人を精神疾患が占め、いずれも昭和54年の調査開始以降、過去最高
5000人超は初めてのことである。

その5400人の
精神疾患による休職は、10年前に比べると3.15倍(朝日)であり、うつ病の症状を訴える教員の割合は一般企業の2・5倍(読売)にあたる。
いかに教育現場が過酷な状況を呈しているか、わかろうというものである。

 そうした状況に対して、政府・文科省は何をしようとしているのか。記事によれば、
教員が気軽に周囲に相談できるような環境作りや、休職者が円滑に職場復帰できるよう支援を求める通知を出して対策を指導している。

 平たく言えば、仲間同士、自分たちで何とかしろ、ということだ。



  教員の精神疾患について各教育委員会は
(1)生徒指導や教育内容への変化に対応できない
(2)教員同士のコミュニケーションが減少し、相談相手がいない
(3)多忙によるストレス
(4)保護者や地域の期待や要望が多様化し、対応が困難−などを挙げている。


 原因がわかっているなら、
生徒指導や教育内容への変化を抑えるようにするとか、
多忙によるストレスをなくすようにするとか、あるいは保護者や地域の期待や要望が多様化し、対応が困難な状況に人員を差し向けるようにするとか、何らかの工夫をするのが筋と言うものだろう。

 それらすべてを横において、教師同士支えあえといっても無理である。

教員同士のコミュニケーションが減少し、相談相手がいないのはなぜか。

 それは多忙だからだ。
 学校にいる間中、教員同士がゆとりを持って話し合う時間などない。教材研究や会議で居残る教員が多く、帰る時間もまちまちだから一緒に飲み屋にいくということもない。
 同僚の様子がおかしいと感じても、手を差し伸べるだけの時間的精神的余裕がないのである。

 もしがついて手を差し伸べれば、同僚支援のための
多忙によるストレスでこちらが潰れかねない。

 教師の代わりなんていくらでもいるのだから、勝手に休めば、と言ってはいけない。
 代わりの教師はおいそれとは見つからないし、そもそも
休職で学校を去る日まで、子どもたちは病気の教員に指導されているのだ。

 そのことに恐怖し手を打とうとしない社会の感覚が、私には理解できない。






 



2009.12.3

組み体操 小6骨折 
学校側に賠償命令「保身図りうそ」


朝日新聞 12月28日]



 名古屋市立柳小学校(同市中村区)で運動会で披露する組み体操の練習中に けがをしたのは、学校側に過失があったとして、当時6年生の男子児童が市に 慰謝料188万円の支払いを求めた訴訟の判決が、名古屋地裁であった。 長谷川恭弘裁判長は「教員らの保身のために、虚偽の事実を主張するなど誠意の ない対応をとった」として、110万円の賠償を命じた。判決は25日付。

 判決によると、児童は2007年9月、学校の運動場で4段ピラミッドと呼ばれる組み体操の練習中、高さ約2メートルの最上部から落下し、左腕を骨折した。
 児童側は弁論で、「落下に備えて補助する教員を配置すべきだった」と市側の 過失を訴えていた。

 長谷川裁判長は、学校側が報告書に「3段タワーの練習をしていた」と事実と 異なる記載をしたり、教頭が事情聴取で児童を誘導したりした点を踏まえ、「一連の 対応は原告の精神的苦痛を増大させた」と認めた。




 この110万円の内訳はどうなっているのだろう?
「落下に備えて補助する教員を配置すべきだった」
という市側の過失に対しての110万円なのか、
「一連の 対応は原告の精神的苦痛を増大させた」
ので、その精神的苦痛に対して支払うべき110万円なのか。

 後者だったらそれでいい。学校側の不誠実が児童・保護者を深く傷つけたというなら慰謝料も止むを得まい。

しかし問題が前者だったとしたら、これを素直に受けるのは難しくなる。なぜなら、
4段のピラミッドといったありふれた技にたいして、落下に備えて補助する教員を配置などできるはずがないからだ。

そこまで配置するには、学年所属の教員はあまりにも足りない。どこの都道府県教委だって組み体操を前提に、教員配置などしているはずがないのだ。そして教員の数が足りない以上、「補助する教員を配置すべき」は「その種目はやってはいけない」と同義になってしまう。

 しかし危険を避けていたら収穫も少ない。
 学校はテーマ・パークではないし、教育は保育ではない。そこはまさにハイリスク=ハイリターン、ローリスク=ローリターンの世界であって、危険を片端とりされば、教育の成果も失われてしまう。

 骨折を恐れていたら鉄棒も跳び箱も魔と運動もできなくなるし、包丁を使う調理活動や、キリやノコギリを持ち出す図工だって続けられなくなる。
それでいいのだろうか。

 何十年たってもわれわれが組み体操を手放さないのには理由がある。それは
組み体操に大変な教育的意義があるからだ。
 だからこそ教師も必死になってピラミッドを完成しタワーを立ち上げようとする。

 しかしそうしたことも、いちいち説明しなければ理解してもらえない時代になったということなのだろう。

 

(注)
どうして組み体操をしなければならないのか。それに対して私は、2008年9月に「デイ・バイ・デイ」に書いた、次の文で応えようと思う。

組体操という道徳 

 組体操の最中に本部付近がざわついたとき、私は何が起こったのか分からないでいました。養護の武藤先生が飛び出していってK君を引き出してきて、その顔が知で真っ赤なのを見て初めて、鼻血を出していることに気づいたのです。両手も真っ赤でした。

 治療している間中、K君は目に涙をいっぱいにためて耐えていました。しかし泣くほどのこともないだろうと、私は少し冷ややかな気持ちでした。

 K君の抜けた後を萱野先生が埋めようとしましたが、激しく移動し組を変える中では、本人ではないのでとてもついていけるものではありません。K君の入るべき組はしばしば演技が遅れます。そして一番大切なピラミッドの時間になったとき・・・

 治療を終えたK君が素早く走り出て、二段目の角によじ登ったのでした。振り返ると武藤先生がニコニコして見ていました。その時になって初めて、私はK君の涙のわけを理解したのです。

 約3週間の練習を経て、子どもたちは組体操の中でかけがえのない自分を獲得していきます。それぞれの演技で、下になるものは痛みに耐え、上になるものは 不安定と恐怖に耐えながら自分の責任を果たしていきます。どの一つの駒が欠けても演技は成立せず、3週間もの苦しみに耐えてきた仲間が空しくその場に座り込まなければならないのです。K君はそれに耐えられなかった、たぶんそうです。

 後から聞けば、かなり早い時期に鼻を打って出血したようです。その様子を見て友だちが「座れ」「座れ」と言っているにもかかわらず、彼は鼻を押さえながら移動し、ボタボタと血を流しながら演技を続けたのです。先生が気づいて本部に連絡し、武藤先生が引きずり出すまで。

 学校の道徳というのは人間関係を学ぶことです。それぞれが世の中にとって必要であること、人は他人の犠牲の上に立って生きているということ、お互いに 補って生きているということ、人は信じるに足るということ、どんなに苦しくても人のために働かなくてはならないときがあるということ、そして人とともに働 くことは人間にとって無限の喜びであると言うこと・・・道徳で学ぶべきことはそういうことです。

 組体操を始め、運動会の競技や運営の大部分に「道徳」が深く食い込んでいます。単に運動能力を高めるだけなら、もっと合理的で簡単な方法はいくらでもあります。

 運動会を始めさまざまな行事・特別活動はすべてそうした要素を持っています。それによって子どもの心性を育てようというのです。

 今回の経験を通して、私は「組体操という道徳」という言葉を思いました。こうして作り上げられたクラスの人間関係が、さらに高まっていくといいですね。