前期と後期の「2学期制」を採用した公立小中学校で、元の3学期制に戻す動きが相次いでいる。2学期制を採れば、3学期制に比べて始業式や終業式、定期
テストなどの回数が減り、その分を授業に回せるメリットがあるとされてきたが、実際にはさほどの効果がなく、逆に「前期の中に長い夏休みが入るなどしてメ
リハリがつかない」と不評を買う結果に。一時のブームは冷めた格好だ。
1年を前期と後期に分ける2学期制では、9〜10月に数日間の秋休みを置いて境目にすることが多い。学校週5日制が完全実施された2002年ごろから、 授業時数を増やそうと導入する学校が急増。文部科学省によると、導入した公立小の割合は04年度の9.4%が07年度は20.2%、公立中学校も04年度 の10.4%から07年度は21.9%に増加した。ただし、右肩上がりだったのはここまで。直近の09年度の調査では小学校21.8%、中学校23.0% とわずかに増えてはいるものの、現場に目を落とすと評価する声は減っており、中止する学校が続いている。
「年間で20〜30時間増やせると期待したが、実際にはその半分以下だった」。09年度から3学期制に戻した大阪府四條畷市教育委員会の担当者は言う。 05年から一部で2学期制を試行した兵庫県尼崎市の中学校でも、増えた授業時数は「年10時間ほど」。市教委の担当者は「この程度なら3学期制でもやりくりでひねり出せる」という。同市は昨年11月、全校導入を見送ることを決めた。
横浜市では04年度までに約500の小中学校のほぼ全校が2学期制を導入したが、今年度、計11の小中学校が3学期制に戻した。中学校の校長の一人は 「長い夏休みの前に通知表がなく、何を目標に勉強してよいのか戸惑う生徒がいた。期末テストを終えて、通知表をもらって夏休みに入るという3学期制のほう が、気持ちの区切りになる」と明かす。
徳島市教委も今春、全46の市立小中学校で05年に導入した2学期制をやめて3学期制に戻した。ここでも「けじめが付けにくい」「学習や運動に最も適した時期に秋休みを置くのはよくない」といった不満が現場や保護者から上がっていたといい、市教委が実施したアンケートでは小学校長の7割が「3学期制が良い」と答えたという。
群馬県太田市は04年度以降、全体の3割にあたる12の市立小中学校で2学期制を試行したが、09年度までに中止した。通知表の回数が年2回に減ること に対する保護者の反発が特に強かったという。学校側には教員の負担減に期待もあったが、保護者からは「年に3回あったほうが努力目標が増える」との声が上 がり、一部の学校では、本来の2回の通知表に加えて夏休み前と冬休み前の2回、通知表に近い「振り返りカード」を作成。事務負担が逆に増えるという皮肉な結果になった。
学校のカリキュラムに詳しい八尾坂修・九州大学大学院教授(教育行政学)は「2学期制だと学期当たりの期間が長くなり、より継続性のあるカリキュラムを 組める利点もある」と指摘する。「学習の達成状況や生活態度の連絡表を渡すなど、保護者とのコミュニケーションを密にできるのであれば進めていく価値はある」と話す。(花野雄太)
二学期制のメリットがどこにあるのか、最初からわからなかったが今もわからない。
2学期制だと学期当たりの期間が長くなり、より継続性のあるカリキュラムを 組める利点もある
しかし間に夏休みや冬休みが間に入れば結局カリキュラムは切らなければならないから、2学期制では5分割されることになる(夏休みと冬休みの中間に終業式・始業式が入るため)。いやそもそも「継続的なカリキュラム」自体が意味不明で、2学期制であろうと3学期制であろうとはたまた5学期制であっても、カリキュラムが継続制を失ったらおしまいだ。普通はどんな場合も、継続性を失わないよう努力するはずだと思う。
さて、最初のうちは2学期制で授業時数が30時間も増えたといった生きのいい話が飛び交ったが、どう増えたのかはだれも語らなかった。終業式と始業式の1回減で2時間、テストとテスト返却で10時間、それが普通考えられる時間増だ。これは、
2学期制を試行した兵庫県尼崎市の中学校でも、増えた授業時数は「年10時間ほど」
にほぼ一致する。
一方、テストが一回減った分、教師は学習刺激を与えるチャンスを一回失ったと考える。その上テスト一回分に匹敵する授業を「増えた」10時間で補う強制されているように感じる(1教科あたり2時間だ)。子どもの側からすると、年5回のテストが4回に減るわけだからテスト範囲が平均5%増えることになる。平均5%は決して軽い数字ではないだろう。
2学期制の困難は他にもある。普通の中学3年生が進路の最終決定をするのは12月の中頃の保護者懇談会の席である。3学期制の場合、その席で担任は2学期通知票を渡しながらさりげなく内申点を暗示する。2学期通知票の評定は内申点にほぼ一致できるからである。ところが2学期制の学校では、9月末に渡された通知票の評定しか親は知らない。10月からの3ヶ月間のがんばりがどう評定に反映しているか分からないまま進路を決めなくてはならないのだ。そんな不合理が長く続くはずがない。
教育改革には、とにかくこれまでと違ったことをすればいいのだという面がある。その人が健康であろうがあるまいが、手術をしてどこかを変えれば何とかなるという思い込みがあるのだ。
(植木裕香子)
調査は昨年12月下旬から今年1月末に、東京、神奈川などの小中学校計13校に在籍する児童・生徒の保護者2380人に調査を依頼。このうち1752人から回答を得た。
その結果、これまでに学校に苦情などを申し出たことがある保護者は全体の21.6%に上った。苦情・要望の内容は「先生の指導全般について」が断トツ(23%)。教師の指導に口を出す保護者が増えている最近の傾向が表れた。
一方、調査では、苦情・要望を申し立てたことのある保護者の意識を調べるため、「わが子と不仲な子供が同じクラスになったのでクラス替えしてほしい」「わが子の写真が1枚もないのでアルバムを作り直してほしい」といった“極端”な要求について、どのように思うかを質問。
こうした“極端”な要求を「当然」と考える割合が多いのは「あまり学校に行かない」という保護者で、「学校によく行く」という保護者は、こうした要求に否定的な傾向が強かった。
佐藤教授は「保護者ごとにさまざまな事情があるが、学校を頻繁に訪れ、教師とコミュニケーションをとるほうが、学校に対する理解が深まって当事者意識を持つようになり、極端な苦情や要望をしなくなるのではないか」と分析する。
学校に自己中心的な要求を繰り返すモンスターペアレントについては、現場の教師の大きな負担になっており、文部科学省も危機感を強めている。現在議論が進められている少人数学級も、モンスターペアレントに対応する教師の負担を軽減することが目的の1つだ。
モンスターペアレントは教育への悪影響も指摘される。久米井孝夫・大阪市PTA協議会長は「先生を先生とも思わない態度をとる保護者もいる。そういう態度に影響を受けた子供たちは、先生の指導を聞かなくなる」と指摘する。
しかし、モンスターペアレントになるかならないかは保護者自身の意識の問題だけに、問題解決は難しい。久米井会長は「こうした保護者には、PTAの活動に加わってもらうことが大事だと思う。不思議と、身勝手な文句を言うことがなくなる。先生とふれあったり、ほかの保護者と話したりすることで、相手の立場を理解し、身勝手な見方をしなくなるのではないか」と話している。
学校に苦情などを申し出たことがある保護者は全体の21.6%
というのは数字としてはやや大きすぎるような気もする。基本的に保護者の多くは誠実でまじめだから自分のちょっとした依頼やお願いも「苦情」という形で申告されているのかもしれない。現場ではそんなにたくさんの要求を突きつけられているわけではない。学校に深刻な要求を突きつけるのはほんの一握り、いや指先でつまめるほどわずかな一部であって、しかしその破壊力はメガトン級なのである。
しかしそれにしても、
“極端”な要求を「当然」と考える割合が多いのは「あまり学校に行かない」という保護者で、「学校によく行く」という保護者は、こうした要求に否定的な傾向が強かった。
という調査結果、どのように調べたのだろう。
実際、授業を妨害するなどの問題を抱える子の保護者ほど学校に来ず(心情的には理解できるが)、学校の様子も学校における子どもの様子も分からないまま日を送っているケースが少なくない。学校に関する情報源は当の子どものライン一本しかないのだが、その子ども自体がしょっちゅう学校で怒られているとなると、情報の内容には極端なバイアスがかかってくるだろう。
つまり学校や担任に関するネガティブ情報だけがひたすら保護者のところに届くようになる。これが普通の保護者をモンスターに変身させる魔法なのだと私は思う。
「わが子と不仲な子供が同じクラスになったのでクラス替えしてほしい」「わが子の写真が1枚もないのでアルバムを作り直してほしい」といった“極端”な要求
は、いきなり保護者の頭に浮かんでくるのではない。それが出てくるまでの間、保護者は何度も何度も、繰り返し繰り返し、何度も何度も、我慢してきたはずなのだ。そして我慢するたびに不満や怒りは高まっていき、実際に学校に要求が発せられるときにはメガトン級の要求となって学校を驚かせる。また巨大な爆弾を振りかざしてしまった以上、当の保護者も容易に要求を取り下げられない。それがモンスターの誕生と闘争の始まりなのだ。
保護者ごとにさまざまな事情があるが、学校を頻繁に訪れ、教師とコミュニケーションをとるほうが、学校に対する理解が深まって当事者意識を持つようになり、極端な苦情や要望をしなくなるのではないか
まったくその通りである。
こうした保護者には、PTAの活動に加わってもらうことが大事だと思う。不思議と、身勝手な文句を言うことがなくなる。先生とふれあったり、ほかの保護者と話したりすることで、相手の立場を理解し、身勝手な見方をしなくなるのではないか
ほんとうにその通りである。
しかしPTA活動に積極的に参加してくれるような人なら、最初から問題など生まれるはずもなかったのだ。
埼玉県では平成16年度から、特別支援学校の児童・生徒や保護者が希望した場合、地域の小中学校にも通う制度を導入。だが、21年度で、実際に小中学校にも通ったのは、全2999人のうち2割に満たない 388人だった。
しかも、学校の行事に参加する程度や、朝の集会などに出席した後、特別支援学校に戻るケースも多く、1年を通して登校時 から下校時まで一緒に授業を受ける児童・生徒はいないという。「カリキュラムも異なるし、学習進度が違う子供もいるから」と県教委は説明する。
保護者からは「地域の学校に通え、大変良かった」という声もあり、いじめなどのトラブルや問題も起きていないという。
ただ、特別支援学校 から教師が1人付き添うなど、ケアを行き届かせるための負担も大きい。埼玉県教育委員会では「すべての子供たちが原則、同じ学級で学ぶとなると、課題が生じることも予想される」としている。
埼玉県では特別支援学校の児童生徒や保護者が希望すれば地域の学校に通える制度をつくって対応しているが、逆戻りさせてしまうケースがほとんどで、1年を通して一緒に授業を受けている生徒はいない。朝の集会など一部の授業に出席することのできた生徒の
保護者からは「地域の学校に通え、大変良かった」という声もあり、いじめなどのトラブルや問題も起きていないという。
だから特別支援学校の児童生徒でも1年を通して地域の学校に通えるようにすべきだ、
という趣旨だろうか。
意図の読みにくい記事である。
さて、最初の行にある、
特別支援学校の子供たちが、小中学校の学級でほかの子供たちと一緒に学べる制度は、「障がい者制度改革推進会議」の意見書に先立ち、一部で実際に導入されている。
には説明が必要だろう。
「障がい者制度改革推進会議」は平成21年12月8日に設置された「障がい者制度改革推進本部」(内閣総理大臣を本部長とする)の諮問機関であり23人の有識者によって構成されている。その推進会議が6月7日に出した「障害者制度改革の推進のための基本的な方向(第一次意見)」に、インクルーシブ教育(統合教育)を強く示唆する表現があったのである。
障害の有無にかかわらず、すべての子どもは地域の小・中学校に就学し、かつ通常の学級に在籍することを原則とし、本人・保護者が望む場合のほか、ろう者、難聴者又は盲ろう者にとって最も適切な言語やコミュニケーションの環境を必要とする場合には、特別支援学校に就学し、又は特別支援学級に在籍することができる制度へと改める。
記事はこのことを前提に、改めて特別支援学校の状況を調べたらすでにインクルーシブの制度は存在していた(しかし部分的でしかない)、ということなのである。
「障害者制度改革の推進のための基本的な方向(第一次意見)」は私たちの間でも非常に評判となった。なぜならこれまで特別支援学校あるいは校内にある特別支援学級に通っている児童・生徒を積極的に教室に戻そうという画期的な方向が示されたからである。さらに意見書の中に終始流れている「特別支援学校や特別支援学級に通わせることは差別である」という匂いに一種の衝撃を受けているからでもある。
正直に言って、我々にはそれが差別だという発想は全くなかった。
特別支援学校および特別支援学級の定数は8人である。担任ひとりにつき児童生徒は8人しか置けず、それ以上になった場合は2クラスに分けなければならない。しかも制度上は8名だが、現実には全国平均で3名ほどにしかならない。それほどに手厚い教育が受けられるのだ。1クラス40人(実際には平均26名)の普通学級に置くのとは全く待遇が違う。
事実、たとえば1学年120名ほどの中学校で、特別支援学級の生徒が下から5番目胃内に入っている可能性はほとんどない。成績の最下位グループは、常に普通教室で、訳もわからない授業を受け燻っているのである。
特別支援学校になるとさらに充実していて各障害に応じた教材・教具がある、専門の教育を受けた教員がいる、ノウハウの蓄積がある、そして何より専用のカリキュラムでの授業を毎日受けることができる。
特別支援学校で教育を受けることは、その子が自立するための最良の教育を受けることだと、私たちは長く信じてきたのである。
それが差別であって、障害のある子どもたちに普通教室で授業を受けさせることが正義だとしたら、正義とは弱者に過酷なものとなるだろう。
もちろんそうした心配があるからこそ産経新聞は県教委の
「すべての子供たちが原則、同じ学級で学ぶとなると、課題が生じることも予想される」
という発言を紹介しているし、
「障がい者制度改革推進会議」の「第一次意見」も、
障害者が小・中学校等(とりわけ通常の学級)に就学した場合に、当該学校が必要な合理的配慮として支援を講ずる。当該学校の設置者は、追加的な教職員配置や施設・設備の整備等の条件整備を行うために計画的に必要な措置を講ずる。
との意見も入れている。
現在、特別支援学校あるいは特別支援学級に在籍している児童生徒には3人に一人の割合で教員がついている。それを別々のクラスに戻す以上、3人に一人というわけにはいかなくなる。それぞれに一人ずつの教員をつけてやらなければ同等の教育は保障できなくなる。肢体不自由の子どののためにはすべての学校に専用のエレベーター(もしくはリフト)を設置する必要も生まれる。段差の解消や手すりの設置、バリヤフリートイレの設置も必要となる。その費用は最大で18兆円と試算されている。
それ以下だと、障害を持った子どもたちの教育は、質の低下を招くのだ。
平成22年度の国家予算は94兆円ほどである。絞りに絞った予算である以上、ここから新たに18兆円をひねり出すことはできないだろう。現在の「文教および科学振興費」5兆5860億円の3倍以上にあたる18兆円を国債よって賄い正義を通すか、それとも障害を持った子どもの教育の質を極端に下げても「差別」をなくすのか、政府の対応を見てみたいものである。
でも、この20年で学校は、教育は、本当に変わったのだろうか? 神戸市内の中学校に2人の息子を通わせている一保護者として、疑問に思うことは多々ある。神戸の公立中では、登校時に校門前に教諭らが立ち、遅刻や服装の指導を続けている。梅雨時で標準服のシャツが乾かず、代わりに指定の体操服で登校させようとすれば、学校に「異装(いそう)届」を出さねばならない。「人間が生きやすいように規則があるのであって、規則のために生きるのは本末転倒」と息子たちに言ったら、「逆らうなんて無理やし」と一蹴(いっしゅう)された。
学校が大変なのも理解できる。11日の石田さんの追悼集会で講演した峯本耕治弁護士は「虐待や親からの過度のプレッシャーで、自尊感情の低い子が増えている」と指摘。食事や睡眠を家庭で十分にとれない子も増え、しつけの一部を学校が担わざるを得ない現状にある、という。
それでも、問い続けたい。子どもへの過度な管理・指導が、教師の「仕事」であるような国は豊かですか?(阿久沢悦子)
さて、一部の映画にあるように、いかにもヤンキーといった姿で大勢の中学生が登校するようになったら、普通の子どもたちの生活はどうなるだろう。あるいは一部の女子中学生が1点数万円もするような超ブランドを大量に身につけて登校するようになったらどうだろう。
「人間が生きやすいように規則があるのであって、規則のために生きるのは本末転倒」
全くその通りだ。
異形異様な子どもが来ないように服装に関する様々な校則ができるわけだが、どこから違反でどこからが合法なのか、その線引きは意外に難しい。
標準服以外はすべて異形という校則を阿久沢女史は過度な管理・指導というが、それでは過度ではない管理・指導あるいは適度な管理・指導というものはどのようなものか、
それは
梅雨時で標準服のシャツが乾かず、代わりに指定の体操服で登校させよう
という時の指定の体操服での登校までということか(どうしてこんな特殊な例を思いつくのだろう?)。
それとも標準服・指定の体操着どちらでもよいというレベルまで認めよ、ということなのか。
あるいは標準服や制服というもの自体が「過度な管理」の中に入ってくるのか。
私服でいいとして、暴力的な印象を与えるものはどうか、パジャマでの登校はどうか。
どこに線を引いたところで、みんなが納得できる基準など生まれるはずがない。
結局学校が悩んで決めたのが「標準服のみ(他は異形)」なのである。
それが過度だというなら、どのから適度な管理・指導なのか、阿久沢女史は明らかにすべきだ。
代案のない批判からは何も生まれない。
退職理由など詳しい状況は不明だが、久冨善之・一橋大名誉教授(教育社会学)は「子どもや保護者らとの関係に悩み、事務作業なども増える中で『やめたい』という気持ちに傾く教師が増えているのではないか。成果主義による教員評価の導入なども背景にある」とみている。
2005〜09年度の状況を調査。愛知、徳島両県と浜松市は「データが残っていない」などとして05、06年度分については回答がなかった。
調査結果によると、中途退職者の総計は05年度1万2542人、06年度1万3865人、07年度1万4484人、08年度1万3445人、09年度1万2732人。全教員に占める09年度の退職率は1.51%だった。
地域別では関西や首都圏の退職率が高く、09年度に最も高かったのは堺市(3.14%)。大阪市(2.62%)、京都市(2.78%)、千葉市(2.27%)、東京都(2.12%)なども高い。一番低いのは秋田県の0.53%で、人口が少ない地域は退職率も低い傾向があった。
他業種のデータが乏しいため比較が難しいが、文科省が06〜08年に外部委託した調査では、公立小中学校の教員で「仕事に意義・やりがいを感じる」と答えた人が9割を占める一方、「勤務時間以外でする仕事が多い」という回答も9割を数え、いずれも一般企業の2倍に及んだ。「気持ちが沈んで憂うつ」という教員は27.5%で一般企業の約3倍に上り、精神面の負担が大きいことがうかがえる。
調査では、在職中に死亡した教員の人数も質問。05年度612人、06年度594人、07年度642人、08年度602人、09年度650人で、計3100人がこの5年で亡くなっていた。
なんともよく分からない記事である。
退職率1.51%は他の業種の離職率に比べたらお話にならないほど小さいし、統計上この5年間に増えてきている様子もない。やはり公務員は美味しい仕事なのだ、そう思わせる数字である。
しかし見方を変えると、多くの企業人はA社を辞めてB社に移り同じような仕事をするということはできるが、教員なんて辞めてしまったら行き場所はない。その意味では1.51%は大きな数字なのかもしれない。
また、地域別では関西や首都圏の退職率が高く(中略)人口が少ない地域は退職率も低いのも当たり前で、秋田あたりで教員を辞めてしまったらほんとうに行くところがなくなってしまうのだ。
それにしても、退職理由など詳しい状況は不明だがとなれば調べれば良さそうなものを、安易に「識者」を呼び出してインタビューして終わりというのはどういうことか。
子どもや保護者らとの関係に悩み、事務作業なども増える中で『やめたい』という気持ちに傾く教師が増えているのではないか。
は誰でもいえることだ。
全都道府県・指定市の教育委員会への朝日新聞の調査
と、何かの目算があってやった大掛かりな調査だったようだが、各局大したものは出てこなかった。でもやった以上はもったいないから書いておこう、その程度の記事なのかもしれない。
唯一驚くのは中途退職者の数を文部科学省が把握していなかったという点であるが、もっとも教員は消耗品くらいにしか思われていないから、辞めていく人間のことなど気を配っていられなかったのかもしれない。
記事県教委によると、先月17日午後1時50分ごろ、教室で男子生徒がリハビリ訓練中、男性教諭(47)が、近くにあったペンチを持ちながら「このペンチで乳首挟んだら痛いやろうなぁ」などといったほか、足で下半身に触れた。
また、別の男性教諭(35)は先月中旬ごろ、リハビリ訓練中に「ほら頑張れよ」といいながら足で下半身に触れた。このほか、41歳の男性教諭は給食のスープに生徒が嫌がっていた一味唐辛子を入れ、54歳の男性教諭はペンチを前歯に当てるなどしたという。
幼・小・中・高あわせて教員と呼ばれる人たちは97万人もいるから中には変態としか言いようのない人が混ざることもある。
しかしそれにしても、1校に
ペンチで乳首を挟もうとした上に「下半身」に触れる者1名、
足で「下半身」に触れて励ます者1名、
給食にいたずらをする者1名、
ペンチで歯を折ろうとする者1名
などという、痴漢とサディストの集合体みたいな学校がそうあるはずはない。しかもほとんどが分別盛りの教員ばかりだ。
私はこういう場合、何かの根っ子のところで大きな誤解があるか、どこかに重大な情報落ちがあるはずだと考える。変態がウジャウジャといった説明より、その方がはるかにしっくりくるだろう。
たとえば分かりやすい41歳の男性教諭は給食のスープに生徒が嫌がっていた一味唐辛子を入れを例にとれば、41歳にもなる教員が何の意味もなく生徒の嫌がる一味唐辛子をスープに入れたりはしない。そこには何らかの理由があったはずだ。
それは「学校になじめない雰囲気があったので、和ませようと思った」などといったあいまいなものではないはずだ。しかしそレが何だったかは語られない。
また、この程度のことで県教委に訴えを出す親も子も普通はいない。これで訴えが出るなら私たちの仲間は片っ端から訴えられているだろう。
にも関わらす訴えられたということは、紙面には現れない別の要素があったということだ。
また普通、このくらいのことで県教委が処分をすることもあり得ない。しかしそれにもかかわらず処分を下したということは、そこにも事情がなければならない。そうでなければ怖くて食育など、誰もできなくなってしまう。
さて、この事件について、今後私たちが新たに何かを知る可能性はほとんどないだろう。これまでの経験から、よほど別の要素が加わって事件の新たな展開のない限り、このニュースの後日談が語られることはない。
かくてこの記事を読んだ人の心には、「やっぱり教員は変だ」とか「教師の中には恐ろしいヤツがいる」とか、「日本の学校は狂っている」とか「学校を信じると危険」とかいった印象だけが残って終わる。
またひとつ学校不信が深まる。
1年を前期と後期に分ける2学期制では、9〜10月に数日間の秋休みを置いて境目にすることが多い。学校週5日制が完全実施された2002年ごろから、 授業時数を増やそうと導入する学校が急増。文部科学省によると、導入した公立小の割合は04年度の9.4%が07年度は20.2%、公立中学校も04年度 の10.4%から07年度は21.9%に増加した。ただし、右肩上がりだったのはここまで。直近の09年度の調査では小学校21.8%、中学校23.0% とわずかに増えてはいるものの、現場に目を落とすと評価する声は減っており、中止する学校が続いている。
「年間で20〜30時間増やせると期待したが、実際にはその半分以下だった」。09年度から3学期制に戻した大阪府四條畷市教育委員会の担当者は言う。 05年から一部で2学期制を試行した兵庫県尼崎市の中学校でも、増えた授業時数は「年10時間ほど」。市教委の担当者は「この程度なら3学期制でもやりくりでひねり出せる」という。同市は昨年11月、全校導入を見送ることを決めた。
横浜市では04年度までに約500の小中学校のほぼ全校が2学期制を導入したが、今年度、計11の小中学校が3学期制に戻した。中学校の校長の一人は 「長い夏休みの前に通知表がなく、何を目標に勉強してよいのか戸惑う生徒がいた。期末テストを終えて、通知表をもらって夏休みに入るという3学期制のほう が、気持ちの区切りになる」と明かす。
徳島市教委も今春、全46の市立小中学校で05年に導入した2学期制をやめて3学期制に戻した。ここでも「けじめが付けにくい」「学習や運動に最も適した時期に秋休みを置くのはよくない」といった不満が現場や保護者から上がっていたといい、市教委が実施したアンケートでは小学校長の7割が「3学期制が良い」と答えたという。
群馬県太田市は04年度以降、全体の3割にあたる12の市立小中学校で2学期制を試行したが、09年度までに中止した。通知表の回数が年2回に減ること に対する保護者の反発が特に強かったという。学校側には教員の負担減に期待もあったが、保護者からは「年に3回あったほうが努力目標が増える」との声が上 がり、一部の学校では、本来の2回の通知表に加えて夏休み前と冬休み前の2回、通知表に近い「振り返りカード」を作成。事務負担が逆に増えるという皮肉な結果になった。
学校のカリキュラムに詳しい八尾坂修・九州大学大学院教授(教育行政学)は「2学期制だと学期当たりの期間が長くなり、より継続性のあるカリキュラムを 組める利点もある」と指摘する。「学習の達成状況や生活態度の連絡表を渡すなど、保護者とのコミュニケーションを密にできるのであれば進めていく価値はある」と話す。(花野雄太)
二学期制のメリットがどこにあるのか、最初からわからなかったが今もわからない。
2学期制だと学期当たりの期間が長くなり、より継続性のあるカリキュラムを 組める利点もある
しかし間に夏休みや冬休みが間に入れば結局カリキュラムは切らなければならないから、2学期制では5分割されることになる(夏休みと冬休みの中間に終業式・始業式が入るため)。いやそもそも「継続的なカリキュラム」自体が意味不明で、2学期制であろうと3学期制であろうとはたまた5学期制であっても、カリキュラムが継続制を失ったらおしまいだ。普通はどんな場合も、継続性を失わないよう努力するはずだと思う。
さて、最初のうちは2学期制で授業時数が30時間も増えたといった生きのいい話が飛び交ったが、どう増えたのかはだれも語らなかった。終業式と始業式の1回減で2時間、テストとテスト返却で10時間、それが普通考えられる時間増だ。これは、
2学期制を試行した兵庫県尼崎市の中学校でも、増えた授業時数は「年10時間ほど」
にほぼ一致する。
一方、テストが一回減った分、教師は学習刺激を与えるチャンスを一回失ったと考える。その上テスト一回分に匹敵する授業を「増えた」10時間で補う強制されているように感じる(1教科あたり2時間だ)。子どもの側からすると、年5回のテストが4回に減るわけだからテスト範囲が平均5%増えることになる。平均5%は決して軽い数字ではないだろう。
2学期制の困難は他にもある。普通の中学3年生が進路の最終決定をするのは12月の中頃の保護者懇談会の席である。3学期制の場合、その席で担任は2学期通知票を渡しながらさりげなく内申点を暗示する。2学期通知票の評定は内申点にほぼ一致できるからである。ところが2学期制の学校では、9月末に渡された通知票の評定しか親は知らない。10月からの3ヶ月間のがんばりがどう評定に反映しているか分からないまま進路を決めなくてはならないのだ。そんな不合理が長く続くはずがない。
教育改革には、とにかくこれまでと違ったことをすればいいのだという面がある。その人が健康であろうがあるまいが、手術をしてどこかを変えれば何とかなるという思い込みがあるのだ。
2010.07.05
保護者5人に1人が学校へ苦情や要求
「クラス替え」「アルバム作り直し」…来ない親ほど理不尽
[産経新聞 7月 5日]
(植木裕香子)
調査は昨年12月下旬から今年1月末に、東京、神奈川などの小中学校計13校に在籍する児童・生徒の保護者2380人に調査を依頼。このうち1752人から回答を得た。
その結果、これまでに学校に苦情などを申し出たことがある保護者は全体の21.6%に上った。苦情・要望の内容は「先生の指導全般について」が断トツ(23%)。教師の指導に口を出す保護者が増えている最近の傾向が表れた。
一方、調査では、苦情・要望を申し立てたことのある保護者の意識を調べるため、「わが子と不仲な子供が同じクラスになったのでクラス替えしてほしい」「わが子の写真が1枚もないのでアルバムを作り直してほしい」といった“極端”な要求について、どのように思うかを質問。
こうした“極端”な要求を「当然」と考える割合が多いのは「あまり学校に行かない」という保護者で、「学校によく行く」という保護者は、こうした要求に否定的な傾向が強かった。
佐藤教授は「保護者ごとにさまざまな事情があるが、学校を頻繁に訪れ、教師とコミュニケーションをとるほうが、学校に対する理解が深まって当事者意識を持つようになり、極端な苦情や要望をしなくなるのではないか」と分析する。
学校に自己中心的な要求を繰り返すモンスターペアレントについては、現場の教師の大きな負担になっており、文部科学省も危機感を強めている。現在議論が進められている少人数学級も、モンスターペアレントに対応する教師の負担を軽減することが目的の1つだ。
モンスターペアレントは教育への悪影響も指摘される。久米井孝夫・大阪市PTA協議会長は「先生を先生とも思わない態度をとる保護者もいる。そういう態度に影響を受けた子供たちは、先生の指導を聞かなくなる」と指摘する。
しかし、モンスターペアレントになるかならないかは保護者自身の意識の問題だけに、問題解決は難しい。久米井会長は「こうした保護者には、PTAの活動に加わってもらうことが大事だと思う。不思議と、身勝手な文句を言うことがなくなる。先生とふれあったり、ほかの保護者と話したりすることで、相手の立場を理解し、身勝手な見方をしなくなるのではないか」と話している。
学校に苦情などを申し出たことがある保護者は全体の21.6%
というのは数字としてはやや大きすぎるような気もする。基本的に保護者の多くは誠実でまじめだから自分のちょっとした依頼やお願いも「苦情」という形で申告されているのかもしれない。現場ではそんなにたくさんの要求を突きつけられているわけではない。学校に深刻な要求を突きつけるのはほんの一握り、いや指先でつまめるほどわずかな一部であって、しかしその破壊力はメガトン級なのである。
しかしそれにしても、
“極端”な要求を「当然」と考える割合が多いのは「あまり学校に行かない」という保護者で、「学校によく行く」という保護者は、こうした要求に否定的な傾向が強かった。
という調査結果、どのように調べたのだろう。
実際、授業を妨害するなどの問題を抱える子の保護者ほど学校に来ず(心情的には理解できるが)、学校の様子も学校における子どもの様子も分からないまま日を送っているケースが少なくない。学校に関する情報源は当の子どものライン一本しかないのだが、その子ども自体がしょっちゅう学校で怒られているとなると、情報の内容には極端なバイアスがかかってくるだろう。
つまり学校や担任に関するネガティブ情報だけがひたすら保護者のところに届くようになる。これが普通の保護者をモンスターに変身させる魔法なのだと私は思う。
「わが子と不仲な子供が同じクラスになったのでクラス替えしてほしい」「わが子の写真が1枚もないのでアルバムを作り直してほしい」といった“極端”な要求
は、いきなり保護者の頭に浮かんでくるのではない。それが出てくるまでの間、保護者は何度も何度も、繰り返し繰り返し、何度も何度も、我慢してきたはずなのだ。そして我慢するたびに不満や怒りは高まっていき、実際に学校に要求が発せられるときにはメガトン級の要求となって学校を驚かせる。また巨大な爆弾を振りかざしてしまった以上、当の保護者も容易に要求を取り下げられない。それがモンスターの誕生と闘争の始まりなのだ。
保護者ごとにさまざまな事情があるが、学校を頻繁に訪れ、教師とコミュニケーションをとるほうが、学校に対する理解が深まって当事者意識を持つようになり、極端な苦情や要望をしなくなるのではないか
まったくその通りである。
こうした保護者には、PTAの活動に加わってもらうことが大事だと思う。不思議と、身勝手な文句を言うことがなくなる。先生とふれあったり、ほかの保護者と話したりすることで、相手の立場を理解し、身勝手な見方をしなくなるのではないか
ほんとうにその通りである。
しかしPTA活動に積極的に参加してくれるような人なら、最初から問題など生まれるはずもなかったのだ。
2010.07.19
希望者に対応も「逆戻り」多く 埼玉
[産経新聞 7月18日]
埼玉県では平成16年度から、特別支援学校の児童・生徒や保護者が希望した場合、地域の小中学校にも通う制度を導入。だが、21年度で、実際に小中学校にも通ったのは、全2999人のうち2割に満たない 388人だった。
しかも、学校の行事に参加する程度や、朝の集会などに出席した後、特別支援学校に戻るケースも多く、1年を通して登校時 から下校時まで一緒に授業を受ける児童・生徒はいないという。「カリキュラムも異なるし、学習進度が違う子供もいるから」と県教委は説明する。
保護者からは「地域の学校に通え、大変良かった」という声もあり、いじめなどのトラブルや問題も起きていないという。
ただ、特別支援学校 から教師が1人付き添うなど、ケアを行き届かせるための負担も大きい。埼玉県教育委員会では「すべての子供たちが原則、同じ学級で学ぶとなると、課題が生じることも予想される」としている。
埼玉県では特別支援学校の児童生徒や保護者が希望すれば地域の学校に通える制度をつくって対応しているが、逆戻りさせてしまうケースがほとんどで、1年を通して一緒に授業を受けている生徒はいない。朝の集会など一部の授業に出席することのできた生徒の
保護者からは「地域の学校に通え、大変良かった」という声もあり、いじめなどのトラブルや問題も起きていないという。
だから特別支援学校の児童生徒でも1年を通して地域の学校に通えるようにすべきだ、
という趣旨だろうか。
意図の読みにくい記事である。
さて、最初の行にある、
特別支援学校の子供たちが、小中学校の学級でほかの子供たちと一緒に学べる制度は、「障がい者制度改革推進会議」の意見書に先立ち、一部で実際に導入されている。
には説明が必要だろう。
「障がい者制度改革推進会議」は平成21年12月8日に設置された「障がい者制度改革推進本部」(内閣総理大臣を本部長とする)の諮問機関であり23人の有識者によって構成されている。その推進会議が6月7日に出した「障害者制度改革の推進のための基本的な方向(第一次意見)」に、インクルーシブ教育(統合教育)を強く示唆する表現があったのである。
障害の有無にかかわらず、すべての子どもは地域の小・中学校に就学し、かつ通常の学級に在籍することを原則とし、本人・保護者が望む場合のほか、ろう者、難聴者又は盲ろう者にとって最も適切な言語やコミュニケーションの環境を必要とする場合には、特別支援学校に就学し、又は特別支援学級に在籍することができる制度へと改める。
記事はこのことを前提に、改めて特別支援学校の状況を調べたらすでにインクルーシブの制度は存在していた(しかし部分的でしかない)、ということなのである。
「障害者制度改革の推進のための基本的な方向(第一次意見)」は私たちの間でも非常に評判となった。なぜならこれまで特別支援学校あるいは校内にある特別支援学級に通っている児童・生徒を積極的に教室に戻そうという画期的な方向が示されたからである。さらに意見書の中に終始流れている「特別支援学校や特別支援学級に通わせることは差別である」という匂いに一種の衝撃を受けているからでもある。
正直に言って、我々にはそれが差別だという発想は全くなかった。
特別支援学校および特別支援学級の定数は8人である。担任ひとりにつき児童生徒は8人しか置けず、それ以上になった場合は2クラスに分けなければならない。しかも制度上は8名だが、現実には全国平均で3名ほどにしかならない。それほどに手厚い教育が受けられるのだ。1クラス40人(実際には平均26名)の普通学級に置くのとは全く待遇が違う。
事実、たとえば1学年120名ほどの中学校で、特別支援学級の生徒が下から5番目胃内に入っている可能性はほとんどない。成績の最下位グループは、常に普通教室で、訳もわからない授業を受け燻っているのである。
特別支援学校になるとさらに充実していて各障害に応じた教材・教具がある、専門の教育を受けた教員がいる、ノウハウの蓄積がある、そして何より専用のカリキュラムでの授業を毎日受けることができる。
特別支援学校で教育を受けることは、その子が自立するための最良の教育を受けることだと、私たちは長く信じてきたのである。
それが差別であって、障害のある子どもたちに普通教室で授業を受けさせることが正義だとしたら、正義とは弱者に過酷なものとなるだろう。
もちろんそうした心配があるからこそ産経新聞は県教委の
「すべての子供たちが原則、同じ学級で学ぶとなると、課題が生じることも予想される」
という発言を紹介しているし、
「障がい者制度改革推進会議」の「第一次意見」も、
障害者が小・中学校等(とりわけ通常の学級)に就学した場合に、当該学校が必要な合理的配慮として支援を講ずる。当該学校の設置者は、追加的な教職員配置や施設・設備の整備等の条件整備を行うために計画的に必要な措置を講ずる。
との意見も入れている。
現在、特別支援学校あるいは特別支援学級に在籍している児童生徒には3人に一人の割合で教員がついている。それを別々のクラスに戻す以上、3人に一人というわけにはいかなくなる。それぞれに一人ずつの教員をつけてやらなければ同等の教育は保障できなくなる。肢体不自由の子どののためにはすべての学校に専用のエレベーター(もしくはリフト)を設置する必要も生まれる。段差の解消や手すりの設置、バリヤフリートイレの設置も必要となる。その費用は最大で18兆円と試算されている。
それ以下だと、障害を持った子どもたちの教育は、質の低下を招くのだ。
平成22年度の国家予算は94兆円ほどである。絞りに絞った予算である以上、ここから新たに18兆円をひねり出すことはできないだろう。現在の「文教および科学振興費」5兆5860億円の3倍以上にあたる18兆円を国債よって賄い正義を通すか、それとも障害を持った子どもの教育の質を極端に下げても「差別」をなくすのか、政府の対応を見てみたいものである。
2010.07.20
過度な管理、必要なのか
[朝日新聞 7月19日]
でも、この20年で学校は、教育は、本当に変わったのだろうか? 神戸市内の中学校に2人の息子を通わせている一保護者として、疑問に思うことは多々ある。神戸の公立中では、登校時に校門前に教諭らが立ち、遅刻や服装の指導を続けている。梅雨時で標準服のシャツが乾かず、代わりに指定の体操服で登校させようとすれば、学校に「異装(いそう)届」を出さねばならない。「人間が生きやすいように規則があるのであって、規則のために生きるのは本末転倒」と息子たちに言ったら、「逆らうなんて無理やし」と一蹴(いっしゅう)された。
学校が大変なのも理解できる。11日の石田さんの追悼集会で講演した峯本耕治弁護士は「虐待や親からの過度のプレッシャーで、自尊感情の低い子が増えている」と指摘。食事や睡眠を家庭で十分にとれない子も増え、しつけの一部を学校が担わざるを得ない現状にある、という。
それでも、問い続けたい。子どもへの過度な管理・指導が、教師の「仕事」であるような国は豊かですか?(阿久沢悦子)
さて、一部の映画にあるように、いかにもヤンキーといった姿で大勢の中学生が登校するようになったら、普通の子どもたちの生活はどうなるだろう。あるいは一部の女子中学生が1点数万円もするような超ブランドを大量に身につけて登校するようになったらどうだろう。
「人間が生きやすいように規則があるのであって、規則のために生きるのは本末転倒」
全くその通りだ。
異形異様な子どもが来ないように服装に関する様々な校則ができるわけだが、どこから違反でどこからが合法なのか、その線引きは意外に難しい。
標準服以外はすべて異形という校則を阿久沢女史は過度な管理・指導というが、それでは過度ではない管理・指導あるいは適度な管理・指導というものはどのようなものか、
それは
梅雨時で標準服のシャツが乾かず、代わりに指定の体操服で登校させよう
という時の指定の体操服での登校までということか(どうしてこんな特殊な例を思いつくのだろう?)。
それとも標準服・指定の体操着どちらでもよいというレベルまで認めよ、ということなのか。
あるいは標準服や制服というもの自体が「過度な管理」の中に入ってくるのか。
私服でいいとして、暴力的な印象を与えるものはどうか、パジャマでの登校はどうか。
どこに線を引いたところで、みんなが納得できる基準など生まれるはずがない。
結局学校が悩んで決めたのが「標準服のみ(他は異形)」なのである。
それが過度だというなら、どのから適度な管理・指導なのか、阿久沢女史は明らかにすべきだ。
代案のない批判からは何も生まれない。
2010.07.21
退職教員、年1.2万人 成果主義・精神的負担など背景
[朝日新聞 7月20日]
退職理由など詳しい状況は不明だが、久冨善之・一橋大名誉教授(教育社会学)は「子どもや保護者らとの関係に悩み、事務作業なども増える中で『やめたい』という気持ちに傾く教師が増えているのではないか。成果主義による教員評価の導入なども背景にある」とみている。
2005〜09年度の状況を調査。愛知、徳島両県と浜松市は「データが残っていない」などとして05、06年度分については回答がなかった。
調査結果によると、中途退職者の総計は05年度1万2542人、06年度1万3865人、07年度1万4484人、08年度1万3445人、09年度1万2732人。全教員に占める09年度の退職率は1.51%だった。
地域別では関西や首都圏の退職率が高く、09年度に最も高かったのは堺市(3.14%)。大阪市(2.62%)、京都市(2.78%)、千葉市(2.27%)、東京都(2.12%)なども高い。一番低いのは秋田県の0.53%で、人口が少ない地域は退職率も低い傾向があった。
他業種のデータが乏しいため比較が難しいが、文科省が06〜08年に外部委託した調査では、公立小中学校の教員で「仕事に意義・やりがいを感じる」と答えた人が9割を占める一方、「勤務時間以外でする仕事が多い」という回答も9割を数え、いずれも一般企業の2倍に及んだ。「気持ちが沈んで憂うつ」という教員は27.5%で一般企業の約3倍に上り、精神面の負担が大きいことがうかがえる。
調査では、在職中に死亡した教員の人数も質問。05年度612人、06年度594人、07年度642人、08年度602人、09年度650人で、計3100人がこの5年で亡くなっていた。
なんともよく分からない記事である。
退職率1.51%は他の業種の離職率に比べたらお話にならないほど小さいし、統計上この5年間に増えてきている様子もない。やはり公務員は美味しい仕事なのだ、そう思わせる数字である。
しかし見方を変えると、多くの企業人はA社を辞めてB社に移り同じような仕事をするということはできるが、教員なんて辞めてしまったら行き場所はない。その意味では1.51%は大きな数字なのかもしれない。
また、地域別では関西や首都圏の退職率が高く(中略)人口が少ない地域は退職率も低いのも当たり前で、秋田あたりで教員を辞めてしまったらほんとうに行くところがなくなってしまうのだ。
それにしても、退職理由など詳しい状況は不明だがとなれば調べれば良さそうなものを、安易に「識者」を呼び出してインタビューして終わりというのはどういうことか。
子どもや保護者らとの関係に悩み、事務作業なども増える中で『やめたい』という気持ちに傾く教師が増えているのではないか。
は誰でもいえることだ。
全都道府県・指定市の教育委員会への朝日新聞の調査
と、何かの目算があってやった大掛かりな調査だったようだが、各局大したものは出てこなかった。でもやった以上はもったいないから書いておこう、その程度の記事なのかもしれない。
唯一驚くのは中途退職者の数を文部科学省が把握していなかったという点であるが、もっとも教員は消耗品くらいにしか思われていないから、辞めていく人間のことなど気を配っていられなかったのかもしれない。
2010.07.21
「乳首にペンチ…」養護学校4教諭、
生徒の下半身を足でさわり停職
[産経新聞 7月21日]
記事県教委によると、先月17日午後1時50分ごろ、教室で男子生徒がリハビリ訓練中、男性教諭(47)が、近くにあったペンチを持ちながら「このペンチで乳首挟んだら痛いやろうなぁ」などといったほか、足で下半身に触れた。
また、別の男性教諭(35)は先月中旬ごろ、リハビリ訓練中に「ほら頑張れよ」といいながら足で下半身に触れた。このほか、41歳の男性教諭は給食のスープに生徒が嫌がっていた一味唐辛子を入れ、54歳の男性教諭はペンチを前歯に当てるなどしたという。
幼・小・中・高あわせて教員と呼ばれる人たちは97万人もいるから中には変態としか言いようのない人が混ざることもある。
しかしそれにしても、1校に
ペンチで乳首を挟もうとした上に「下半身」に触れる者1名、
足で「下半身」に触れて励ます者1名、
給食にいたずらをする者1名、
ペンチで歯を折ろうとする者1名
などという、痴漢とサディストの集合体みたいな学校がそうあるはずはない。しかもほとんどが分別盛りの教員ばかりだ。
私はこういう場合、何かの根っ子のところで大きな誤解があるか、どこかに重大な情報落ちがあるはずだと考える。変態がウジャウジャといった説明より、その方がはるかにしっくりくるだろう。
たとえば分かりやすい41歳の男性教諭は給食のスープに生徒が嫌がっていた一味唐辛子を入れを例にとれば、41歳にもなる教員が何の意味もなく生徒の嫌がる一味唐辛子をスープに入れたりはしない。そこには何らかの理由があったはずだ。
それは「学校になじめない雰囲気があったので、和ませようと思った」などといったあいまいなものではないはずだ。しかしそレが何だったかは語られない。
また、この程度のことで県教委に訴えを出す親も子も普通はいない。これで訴えが出るなら私たちの仲間は片っ端から訴えられているだろう。
にも関わらす訴えられたということは、紙面には現れない別の要素があったということだ。
また普通、このくらいのことで県教委が処分をすることもあり得ない。しかしそれにもかかわらず処分を下したということは、そこにも事情がなければならない。そうでなければ怖くて食育など、誰もできなくなってしまう。
さて、この事件について、今後私たちが新たに何かを知る可能性はほとんどないだろう。これまでの経験から、よほど別の要素が加わって事件の新たな展開のない限り、このニュースの後日談が語られることはない。
かくてこの記事を読んだ人の心には、「やっぱり教員は変だ」とか「教師の中には恐ろしいヤツがいる」とか、「日本の学校は狂っている」とか「学校を信じると危険」とかいった印象だけが残って終わる。
またひとつ学校不信が深まる。