男性教諭は27日の授業で、クラスの児童をグループ分けして、黒板に「担任の身柄を確保した。返してほしければ7時、ちびっ子広場に8千円もってこい。 1秒でも遅れると命はないものと思え」などと書き、児童に配布した新聞から必要な文字を切り取り、用紙に張らせ、同一文書を作るよう指示した。
学校側が事態に気づき、事情を聴いたところ教諭は「共同作業で友人と協力する大切さを知ってもらおうと思った」と説明したが、良くない例だったと反省しているという。
ここのところこんな話ばかりだ。何んとかならないか。
* 園児前に「ドは毒殺のド」=幼稚園バス運転手が替え歌―愛知(時事通信)
* 小3担任が算数出題「18人の子供を3人ずつ殺せば何日で全員を…」 愛知 (産経新聞)
* あの殺人算数の教諭、児童に「みんなを殺す夢見た」と明かす (産経新聞)
* 女性教諭が名指しアンケート「直してほしいところ」…渡され小5転校 (産経新聞)
* 「小6は粗大ごみ。卒業式は大掃除の日」 福岡の教諭が暴言を謝罪 (産経新聞)
それは中には「?」と首をかしげるものもあるが、それとて「?」程度のものだ。何も目くじら立ててマスコミに訴えるほどでもないだろう。マスコミもマスコミで、こんなものが記事に値すると本気で考えたのだろうか(本気で考えたからこそ記事になったとは思うが)。
とにかく子どもの心を小指の先ほどにも傷つけてはいけない、死や恐怖から1mmでも遠くに置いておかなければならない、悲しい思い苦しい思いをさせてはならない。それが現代の世間の常識なのだ。
そこには鍛えるとか意図的に傷つけるとか、乗り越えさせるといった発想はこれぽっちもない。
しかしここまで子どもを大切にするなら、
どうか頼む、二十歳になったとき突然大人あつかいをして相応の力を求めたりしないでくれ。
子どもたちがどんなに大きくなっても、
いやな思いや悲しい思いをせず、誰もその子を傷つけず、死も恐怖も苦しみもない世の中を用意して維持してくれ、
子どもは世界がそのようなものだと思いこまされて育っている。
自分が一言訴えれば社会が全力で守ってくれるのだと信じている。
そんな子たちを裏切ることだけはよしてくれ。
11年前の1月、「荒れる成人式」のニュースに憤慨したところからこの「キース・アウト」は始まった。
その日の記事を書いておく。(2000年1月10日)
新しい世界に旅立っていく君たちに、SuperTは心よりの哀悼の意を表する。
可愛そうに君たちの多くは、新成人としての十分な力をつけてもらえることなく20歳を迎えてしまった。
それは君たちの罪ではない。
今日のニュースはどれを見ても君たちの仲間の無作法を嘆くものばかりだ。
式典に似つかわしくない服装だとかいつまでもやまない私語だとか、鳴り続ける携帯だとか……
だがそれは君たちの罪ではない。
君たちは育てられたようにしか育たなかったし、教えられたとおりにしか学ばなかった。
何よりも大切なのは自由であって、何人もそれをさえぎることはできないと、君たちは教えられてこなかったか。
人の話を聞かないのは君たちの罪ではなく、楽しい話をしない相手のせいだと教えられては来なかったか。
大人は常に君たちを型にはめようとする、だからそれに従ってはいけないと言われて来なかったか。
学校で生徒が主役であるように、成人式では君たちこそ主役なのだ。
そうである君たちが、さまざま制約を受けていいはずはない。
ステージにはマイクがありいくらでも声を大きくできるのに、こちらの小声の会話をさえぎるのはあまりに不公平だ。
せっかくかかってきた電話に出るなというのは、「人にいやな思いをさせてはいけない」という原則に違反しないか。
妙な服装にしたって、卒業式に「着ぐるみ」で出席した時は「個性的だ」と新聞でも誉めてくれたじゃないか。
その通りだ。君たちは教えられた通り生きている。
おいしい話をチラつかせた後ですべてを奪うのはサギだ。
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やっと気づいたね。そうだ、サギだ。
しかしだまされた君たちに罪があるわけではない。