キース・アウト (キースの逸脱) 2010年11月 |
by キース・T・沢木
サルは木から落ちてもサルだが、選挙に落ちた議員は議員ではない。 政治的な理想や政治的野心を持つ者は、したがってどのような手段を使っても当選しておかなければならない。 落ちてしまえば、理想も何もあったものではない。 ニュースは商品である。 どんなすばらしい思想や理念も、人々の目に届かなければ何の意味もない。 ましてメディアが大衆に受け入れられない情報を流し続ければ、伝達の手段そのものを失ってしまう。 かくして商店が人々の喜ぶものだけを店先に並べるように、 メディアはさまざまな商品を並べ始めた。 甘いもの・優しいもの・受け入れやすいもの、本物そっくりのまがい物のダイヤ。 人々の妬みや個人的な怒りを一身に集めてくれる生贄 。 そこに問題が生まれれば、今度はそれをまた売ればいいだけのことだ。 |
公立学校の「民間人校長」の数が伸び悩んでいる。00年度の制度開始から順調に増え、05年度は全国で92人とピークに達したが、その後は頭打ちに。06年度からの5年は80人台で推移、10年度は86人だ。公募・推薦が一般的で「効果あり」と評価する自治体がある一方、トラブルに見舞われたり導入をためらう県もある。ブームが落ち着いた今、任用方法の見直しを提言する経験者もいる。【遠藤拓】 民間人校長は、01年度に全国で6人が誕生。「学校現場に外部の風を吹き込む」と全国に広まった。今年度は30都道府県と6市が制度を導入しており、内訳は小学校20人▽中学12人▽高校50人▽中等教育学校1人▽特別支援学校3人だ。 自治体の対応は分かれる。横浜市は05年度から導入し、今年度は新任4人を含む10人を任用した。神奈川県と並び全国最多だ。「検証は今後だが、一定の成果はあったと思う」と同市教委は言う。 一方、秋田県は06〜09年度にかけて県立高に任用したが、今年度はゼロ。「いなければ困るというほどではなかった。今後のことは検討する」(県教委)。宮崎県は、これまでに一度も迎えたことがない。「民間人校長で何でもうまくいくなら、各地でもっと増えていいはず。他の自治体を見ていると、登用は慎重にならざるを得ない」(県教委) 広島県では03年、市立小の民間人校長が学校運営の悩みから精神疾患となり自殺。対応に追われた市教委次長も自殺した。大阪府では06年、府立高の民間人校長が、教員らとのあつれきから辞職したこともあった。 文部科学省の担当者は、民間人校長数の伸び悩みについて「一定の需要はあると思うが、学校統廃合で校長ポストが減るなか、民間人にしなくてもよいと判断した自治体や、経済団体に推薦された校長の評判が悪く、やめたところもあったという。しばらくはこの程度で推移するのでは」と話している。 【ことば】民間人校長 教員免許がなく、養護教諭や事務職など教育に関する職に就いたことがない校長。幅広く優秀な人材を任用する目的で、00年に学校教育法施行規則を改正して誕生した。 【関連記事】 <給与カット響く?>民間人校長応募もゼロ 大阪府の公立中 日本の教育問題をアメリカのビジネス・モデルで解こうという試みはそろそろ終わりにしないと、ほんとうに日本をつぶしてしまうかもしれない。 アメリカのビジネス・モデルというのは、簡単に言えば人間は放っておけば怠けるという人間不信に基づいた考え方だ。人間はつまるところ金と地位のために働いている。だからこの部分を刺激し続ければ必ず教員も働く、そのために副校長・主幹といった階層をつくり、その階層を順次登らせるようにすればいいのだが、普通の教員は普通の社会組織に慣れていないからそこで民間人をトップに入れ、学校の合理化をはるとともに出世と生存競争を旨とする民間の競争原理に慣れさせよう、それが民間人校長導入の趣旨である。しかしどうであろう? そうした方針を打ち出した文科省官僚は自身が出世と金のために働いているのだろうか。これを強烈に支持したマスコミの人々も、出世と金が目的で記事を書き続けているのだろうか。そこには本気で日本の教育を良くしたいとか、誰よりもよい仕事をしたいとか、誰も思いつかないすばらしいアイデアで日本を変えたいとかいった生真面目で誠実な願いはかったのだろうか。 おそらくそうした誠実さと真面目さこそ本音だろう。人は、少なくとも日本人は(というのは私の周辺には日本人しかいないからだ)、金と地位とのために働いているわけではない。 他の人々と同様に、教師も目の前の子どもを成長させたいという純粋な愛情が活動の主たる動力源だ。人は、自分たちが誠実な動機から仕事をしているにもかかわらず、他人はそうではないとすぐに思いたがる。しかし教師も同じに日本人なのである。 そんな教師を地位と金で釣るということがどれほど彼らの誇りを傷つけたか、教員以外には分からないことだろう。また、「児童生徒に対する純粋な愛情」という高度に非合理な情熱を主軸とする学校に、企業的合理化を持ち込むことがいかに愚かなことか、学校の教育力の崩壊というかたちで、今まさに証明されようとしている。 学校マネジメントしかり、教員評価しかり、全国学力学習状況調査しかり、民間人校長しかり・・・もっとも幸いなことに民間人校長については、学校教育全体に悪影響を与える前に停滞しやがて衰退していく。 「検証は今後だが、一定の成果はあったと思う」 教委に聞けば効果がなかったとは絶対に言わない。 「やってみたがダメでした」は民間企業なら言えるが、税金を使い生身の人間を相手にしている(しかもやり直しがきかない)教育の世界では許されないのだ。したがって必ず「成果はあった」という。そして終了するときはだれも責任を取らず、静かに消えていくはずだ。しかしそれでいいのだろうか。 幅広く優秀な人材を任用する目的でと、人材は校内にいないと宣言することで多くの教員を傷つけ、いくつかの混乱と2名の自殺者を出し、自治体によっては教頭を二人にして素人を支えるといった予算措置までとって支えた民間人校長、平成12年の法改正からちょうど10年たった今、再検証する必要があるはずだ。
児童や生徒が自殺しても教育委員会や学校が事実を認識していないケースが多発していることから、文部科学省は2日、いじめの事実関係などを調べる「調査委員会」の設置・運営方法の指針を作成し、教委などに配布する方針を固めた。教委などに児童や生徒の自殺をはっきり認識させ、調査委員会の設置を促すのが狙い。 群馬県桐生市の女児自殺では、遺族が「いじめが原因」と訴えたのに対し、学校側は把握しておらず、双方の見方が対立する形となっている。文科省ではこうしたケースの解消も目指したい考えだ。 文科省によると、指針では、メンバーに医師や弁護士ら専門家を加えるなど調査委員会設置の手順を明記。警察との情報交換や家庭環境の調査など運営方法について手引を示し、自殺や原因の把握を進めさせる。 指針の中では、学校側に不都合な事実も明らかにしたうえで、「事実を知りたい」という遺族の希望に応えるように求める。平成22年度中の作成と、各自治体への配布を目指す。 小中学生や高校生の自殺については、警察が確認しても、教育委員会や学校側が自殺と認識していないケースが少なくない。自殺認知件数は警察側が306件(21年)としているのに対し、文科省の調査では165件(21年度)。しかも、約6割の原因が「不明」とされている。 これまで教育現場では自殺について事実確認があまり行われず、調査委員会もほとんど設置されていなかった。文科省によると、自殺原因の報告書をまとめた教委は18〜21年度でわずか13教委だという。 教育現場からは「自殺調査を好まない遺族が多い」「警察からの情報提供が少ない」という声も上がったが、文科省は再発防止には事実把握が不可欠との認識を示した。 群馬県桐生市の女児自殺事件もそうだが、いわゆる「いじめ=自殺事件」において遺族がいじめ問題の究明を求め、学校側が「いじめ=自殺」を認めるに躊躇するという図式が定着している。 こうなると世論は「なぜ学校は認めないのだ」「なぜ逃げるのだ」という話になり、その次にでてくるのが「校長の保身」「教委の保身」という話である。ちょっと考えれば別の理由も思いつきそうなものだが、それ以上は進まない。 もちろん明確な答えがあるにもかかわらず学校も教委も理由を明かさないのは、まさにそれが現在進行形であって、答えることがどういう影響を与えるか読めないからである。 ただ現在の私はとりあえず当事者ではない(明日は分からないが)から、今は言える。 それはまず、いじめが自殺の原因だと認めた場合そこに損害賠償請求の可能性が生じるからである。校内の事件については基本的には担任あるいは校長の個人的責任は問われないから、損害賠償の支払いは税金からなされる。住民から集めた血税をそんなに簡単に差し出して良いものか、というのが最初の理由である。 しかしそれよりも圧倒的に大きな理由は、学校が「いじめがあった、そしてそれが自殺の原因だ」と認めることは、そのまま加害児童生徒を「間接的に殺した殺人者」と認定することになるからだ。もちろん無視・仲間はずれといったその程度で少年法の適用になることはないし、世論も加害児童生徒の処罰を必ずしも望んでいない。しかし「殺人者」の烙印を押された子はその町では生きていられない。家族とともに家を離れ、どこか知らない土地で生涯「殺人者」の重荷を背負っていかなければならい。 (いや、もしかしたらそうならないかもしれない。それ以前に、拙速な調査のまま「いじめが自殺の原因だ」(お宅の子どもが犯人だ)と発表されたら “加害者”の親たちは絶対に黙っていない。岐阜県瑞浪市の「いじめ=自殺事件」では“その子たち”の実名はネット上に上げられ、顔写真とともに今も晒されているのだ。保護者として子に応分の責任を取らせることにはやぶさかではないという人もいる。しかし親として、過剰な罰を進んで受け入れるわけには行かない、それも当然である。) 実際に深刻ないじめがあってそれが自殺の主因だったとしたら、加害の子にもある程度のペナルティは必要だろう。けれど結果の重大性を考えれば、十分な調査もせず「はい、いじめがありました。それが自殺の原因です」とは言えないのである。 第3の理由は、普通の意味での友人関係トラブルと「いじめ」の間に明確な線を引くことは難しく、自殺の原因が“いじめ”ひとつだと断定することも困難だということである。 前者について言えば、学校内に人間関係のトラブルは常に存在している。仲間内のケンカから一人がはじき出されることもある。独特の挑発的な言葉づかいから常に友だちと衝突し、誰からも相手にされない子もいる。係の仕事がいつもいい加減で、業を煮やしたクラスメイトから激しく罵倒される時だってある。“いじめ”は、そうしたものとほとんど紙一重のところにある。 例えば不良グループの中心人物が、ある日配下のパシリたちに総スカンを食らって仲間外れにされた場合、これは「いじめ」と言えるだろうか。「やられた本人が“いじめだ”と言えばそれは“いじめ”だ」といった極端な定義からすれば、もちろん“いじめ”である。しかしこの“いじめ”にいち早く担任が介入し、原状を回復して元の番長とパシリに戻すのはいかにも不公平だ。暴君はたまには干され、しばらく反省してもらうことも時には必要だ。 私は極端な例を上げているのではない。この手の事件を“いじめ”だと訴えて不登校で対抗するようなケースはいくらでもある(というよりはかなり多い)。 そうした検証の上に立って“いじめ”の事実が認められたとしても、さてその“いじめ”が自殺の中心的原因であったかどうかとなると、そこにも解決すべき大きな問題が残る。いじめは引き金になっただけで別に原因がある場合も原因が複合的である場合もある。1986年に東京の中野区で起こったいわゆる「富士見中学校いじめ自殺事件」(葬式ごっこで有名になった)のように、明らかに「ここまでやられれば自殺の原因になるな」と思われる事件もあるが、多くはこれほどはっきりしてはいない。 いずれにしろ自殺の原因を特定するのは容易ではないはずだ。 学校が非を認めて校長が責任をとるなど簡単なことだ。どうせ定年退職までそう長い年月が残っているわけではない。非を認めて辞めて済むなら、さっさとそうしてしまいたいと思う校長はきといるはずだ。マスコミにつけまわされ突き上げられ、連日都道府県教委や市町村教委と会合を繰り返し、たくさんの書類を作成し、保護者会や児童生徒総会で説明を重ねる。その間、自分の学校と自分の名が何十回となくテレビ画面や新聞紙上に流される。 そんな苦難を背負いながらなおも、校長が簡単に“いじめ”を、引いては自殺の原因がその“いじめ”であるのを認めないのは、そうした事情があるからである。 ところで、 小中学生や高校生の自殺については、警察が確認しても、教育委員会や学校側が自殺と認識していないケースが少なくない。自殺認知件数は警察側が306件(21年)としているのに対し、文科省の調査では165件(21年度)。しかも、約6割の原因が「不明」とされている。 警察には自然死でないすべての死が集められる。その中で事故死ではない、他殺ではない、のた怪しい死ではないとなれば自殺が疑われる。 しかし学校が把握できる自殺は、まず学校職員または児童生徒が直接の発見者である場合、そうでなければ保護者または警察からの連絡ということになる。それが十分こない。 「自殺調査を好まない遺族が多い」「警察からの情報提供が少ない」 というのはそういう意味だ。 それはそうだろう。学校に原因が疑われる場合は別だが、そうでなければ家族があえて自殺を公表する必要なない。。それを隠して突然死としてあつかう場合も少なくない。そうなると学校も突然死としてあつかわざるを得なくなる。 したがって警察の把握した“自殺”は学校の掴んだ“自殺”より当然多くなる。 また、こうした自殺について、学校は家庭内に踏み込んで深く追求することもしないし、警察もプライバシーに関わることをべらべらとしゃべり、抗議を受けるような危険は犯さない。 警察は、状況から自殺と判断されれば記録に残しそれ以上のことはしない。自殺の原因追及は、犯罪がらみでなければ基本的に警察の仕事ではないのだ。 学校は違う。自殺となれば調査をしないわけにはいかない。少なくとも市町村教委、都道府県教委への報告はなされなければならない。 そうした調査をした上での約6割の原因が「不明」。不自然な数字だろうか。遺書でもあれば別だが、人の自殺の理由はそんなに簡単に分かるものではないと思うが。 特別支援学校で学ぶ知的障害者らと、そのほかの子供を同じ学級で授業するように求める内閣府の意見書に慎重論が相次いでいる問題で、高木義明文部科学相は11日、参院文教科学委員会で「多様な学びの場が必要という観点で中教審(中央教育審議会)で議論しており、さらに議論を深めたい」と述べ、意見書に対して慎重姿勢を示した。公明党の草川昭三議員の質問に答えた。 今年6月にまとめられた内閣府「障がい者制度改革推進会議」の意見書は、障害者が学ぶ特別支援学校について「地域の子どもたちから分離される要因ともなっている」と批判。「地域の小・中学校に就学し、通常の学級に在籍すること」を原則にするように求めている。 内容を尊重するように閣議決定も行われているが、教育関係者らから「障害に応じた教育ができない」「現実的ではない」などという批判が続出。11日の委員会で、高木文科相はこうした慎重論に配慮した答弁をした。 全国的に特別支援学校や支援学級の児童生徒数が増加している。平成元年に760校だった知的障害特別支援学校(かつての知的障害学校)は平成18年度には831校、通っている児童生徒数は54976人から71453人へと増加した。少子化によって全体の児童生徒数が減少している中で、知的障害特別支援学校やその児童生徒数が増加の一歩をたどるのは、何らかの理由で知的障害者が年々非常な勢いで増加しているか、特別支援学校へ進学を強制する何らかの政策乃至指導が毎年強まっているか、本人および保護者が進んで特別支援学校を選択するようになったか、そのいずれかである。 前2者にそれらしい理由が見つからない以上、原因は「本人および保護者が進んで特別支援学校を選択するようになった」しか考えられない。そしてそれは私の実感に一致する。 特別支援学校における教師対児童生徒数の比は最大1:8である。それにたいして普通学校のそれは最大1:40だ。特別支援学校の職員の大半は専門の教育を受けた特別支援学校教諭免許取得者で、教具などの設備も普通学校の比ではない。要するに将来の自立を視野に入れた場合、特別支援学校の方が圧倒的に有利なのである。そのことが次第に保護者の常識になりつつ、それが現状なのだ。 私はかつて特別支援学級に在籍する子について、専門家にこんなふうに叱られたことがある。 特別支援学級在籍とは言え、こんな子を普通学校に入れておくことは罪だ。この子は普通学校にいる限り「学校みんなから『面倒を見てもらう子』のままだ。しかしこの子は特別支援学校に行けば『面倒を見る側』になれる子なのだ」 面倒を見てもらうだけの子と面倒を見る側の子では将来が全く違ってくる。親にしても教師にしても、良かれと思ったことが実際にはその子の将来をつぶしていたのである。 「人は他人の役に立ってこそナンボ」である。将来が見えななくなるだけでなく、現在をも生き生きとは生きられない。 今年6月にまとめられた内閣府「障がい者制度改革推進会議」の意見書は、障害者が学ぶ特別支援学校について「地域の子どもたちから分離される要因ともなっている」と批判。「地域の小・中学校に就学し、通常の学級に在籍すること」を原則にするように求めている。 内閣府は自分たちがどれほど恐ろしい決定をしたか、おそらく理解していない。障害者にとって有利な条件を根こそぎ抜いてしまおうというのだから。 もっとも教師対生徒1:8という潤沢な教員配置を考えると、障害児童生徒を「地域の小・中学校に就学し、通常の学級に在籍すること」にすれば大変な財源上の余裕が出てくる。本当の目的はそちらかもしれない。 (もっとも普通の学級に在籍させた上で障害児童生徒一人ひとりに補助の教員をつけるという方法もありえる。しかしその場合単純計算で71453人必要となる。その予算は低く見積もってもざっと2800億円。とても現実的な額とは思えない) “カリスマ家庭教師”として、教育法や子育てに関するベストセラーを連発している松永暢史(のぶふみ)さん(53)が新刊『男の子を伸ばす父親は、ここが違う!』(扶桑社、1260円)で“イクメンのススメ”を呼びかけている。松永さんの持論は、14歳まで本格的な勉強は必要なく、自然の中で思い切り遊ばせて好奇心を育てること。男児の場合、そこへ導くのは父親の役割。手始めに「たき火」に連れ出そう、という。(喜多由浩) 少々危ないことも 松永さんは約3年前から教え子の子供たち(小学生から高校生)と主にその父親を連れ出し、千葉県内の土地を借りて毎月、「たき火の会」を開催している。ルールは「最低限の安全を守ること」だけ。子供たちの自主性に任せて、肉や魚を焼いて食べるのも自由だ。 「子供は“火遊び”が大好き。火をつけたり、うまく燃やし続けることは案外難しいが、その中でいろんな興味がわいたり、工夫をしたりするでしょう。たき火なら簡単にできるし、心を癒やす力もある」と松永さん。 こんなとき、母親は「危ないことはダメよ」と過度に口出しをしたり、先回りをして“大人の段取り”をしてしまいがちだが、それでは子供の好奇心や想像力は育たない。「少々危なっかしいことやバカなことをやるから面白いし、アイデアも生まれる。そんな力をはぐくむのは父親の方がたけています」 多くの体験を積む 現代社会では、厳しい受験戦争のために小学校低学年から毎日のように学習塾に通わされている子供も少なくない。遊びも、コンピューターゲームやパソコンなど「機械相手」ばかり。松永さんは、そうやって“心が壊れてしまった子供”を何人も見てきた。 「『機械と同調する遊び』をやりすぎると、人間の気持ちを理解できなくなる。コミュニケーションが苦手で声が小さく、話すときも相手の目をみなくなる」。“受験勉強漬け”の子供も同様だ。「ある一定の方向性の作業」は得意になるが、想像力や判断力は欠けてしまいがち。 松永さんは「子供のときは自然の中で、仲間と群れて遊ぶことこそが何よりも大事。いろんなことに興味を持ち、多くの体験を積むことで“伸びしろ”が大きくなり、成績もどんどん伸びます」。 オール電化の時代、実際の火を見たことのない子供も少なくない。父子でたき火を囲み、語りあってみては? もちろん場所と消火には気をつけて。 産経新聞は 廃棄物の処理及び清掃に関する法律(昭和四十五年十二月二十五日法律第百三十七号)という法律を知っているだろうか。
この法律を根拠に、ダイオキシン問題華やかしころ、各都道府県で様々な廃棄物の焼却を禁止する条例が生まれた。 東京都の都民の健康と安全を確保する環境に関する条例 (平成一二年一二月二二日 条例第二一五号) はその代表的な例だ。 そこにはこうある。
ダイオキシンの心配があるので、簡易焼却炉による焼却や、伝統行事等の場合を除く野焼きは、一切まかりならんということだ。 野外焼却・野焼き禁止と打つだけで、これだけのサイトが拾える。 野外焼却・野焼き禁止 日野市のサイトにあるのはその典型的な例で、
これは当時のマスコミの「反ダイオキシン運動」の大きな成果だった。 私は、自分の唯一の趣味である焚火が禁止され、さらに家庭から出る大量の枝払いの木をいちいち数十個の可燃物袋に入れて出すようになった(これがけっこう大変な費用になった)ため、ある種の恨みとともによく覚えているのだ。 ダイオキシン問題はある時期を境にパタッと誰も何も言わなくなった。しかし条例は生きている。 それを 父子でたき火を囲み、語りあってみては? もちろん場所と消火には気をつけて などと、のんきなことを言っていて良いものだろうか。 生涯有効とされてきた先生の免許に期限を付ける「教員免許更新制」の第1回修了確認期限が、 いよいよ来年3月末に迫ってきました。その日までに35歳、45歳、55歳になる先生は、1月までに、大学などで計30時間の講習を受け、更新手続きを行う必要があります。ところで、講習は本当に、当初期待された効果を上げているのでしょうか。中央教育審議会は現在、更新制を含めた「教員の資質能力向上」 について、特別部会を設けて検討していますが、そこに提出された委託調査には、心もとない数字が上がっています。 その前に、そもそも更新制とは何を目的としていたか、改めて確認しておきましょう。文部科学省の説明によると、 (1)その時々で教員として必要な資質能力が保持されるよう (2)定期的に最新の知識技能を身に付けることで (3)教員が自信と誇りを持って教壇に立ち (4)社会の尊敬と信頼を得ることを目指すも のであり (5)不適格教員の排除を目的としたものではない……ということです。 特に(5)は今でも誤解している人が少なくないので、注意していただきたい と思います。 さて、聞き取り調査の結果では、目的の(2)に当たる「最新の知識技能の習得」について、効果が「あった」(「とても」「やや」の合計、以下同じ)と回答 した教員の割合は、40%にとどまりました。ただし、受講した教員の上司である校長の評価は51%、人事管理者である教育委員会は61%なので、本人が感じる以上に効果はあるのかもしれません。 しかし、(3)に当たる「教員としての自信と誇りの高まり」は、教員で16%、校長で23%、教委でも27%にとどまっています。(4)に対応する「社会 からの教員に対する信頼・尊敬の念の高まり」になると、教員9%、校長15%、教委18%しかありません。同じ質問を保護者にもしているのですが、それで も信頼が高まったと見る人は31%止まりです。 なお、本来の目的ではない(5)に当たる「不適格教員の排除」は、教員7%、校長14%、教委12%に対して、保護者は30%ですから、やはり温度差は隠せません。 とはいえ以前の記事で 見たように、受講した教員は、講習自体を無駄だと思っているわけではありません。今回の調査でも、「専門性の高い内容だった」(64%)、「新たな視点を 持つことができる内容だった」(58%)などと評価しています。ただし、「学校における教育活動に、すぐ生かせる内容だった」かどうかになると、32%に まで落ちてしまいます。勉強にはなったけれども、忙しい校務の合間を縫って受講した割には、応用面でいまひとつ、というのが実感のようです。 民主連立政権は当初、更新制自体を見直す方針を示していましたが、「ねじれ国会」で法律改正が難しくなり、制度は来年度も今の形で続く見通しとなりまし た。効果を上げる形で存続を図るのか、あるいは、別の形でやるべきなのか。きちんと「仕分け」をして、今後の議論を急いでほしいと思います。 どんな場合も研修がまったく無意味ということはない。もしこれが学校を週4日制にして1日をまるまる研修に当てなさいということだったら皆喜んで出かけるはずだ。 問題は、忙しい合間を縫って、時には児童生徒を自習にし、3万円も自腹を切って出かけていくほどの研修がどれほどあるか、ということである。 しかも医師や看護師や弁護士・保育士といった人たちは10年おきの研修を受けなくても「必要な資質能力が保持される」のに、教員はそれがないとバカになるという見方、教育に関するに「最新の知識技能」は学校の外にあるという考え方、「社会の尊敬と信頼」は大学の研修を受けることで得られるという権威主義、それらが教員を傷つける。ここまで教員をクソミソに言っておきながら、その上で「教員が自信と誇りを持って教壇に」立てるように、というのは筋の通らない話である。 「お前らはバカでアホで、放っておけばどんどん能力の減衰する愚か者だ、そこで研修を受けさせて、『大学で学んだ』というハクもつけてやるから3万円用意して出て来い。そうすればお前たちだって自信と誇りを持って教壇に立てるだろう」 受講した教員は、講習自体を無駄だと思っているわけではありません。今回の調査でも、「専門性の高い内容だった」(64%)、「新たな視点を 持つことができる内容だった」(58%)などと評価しています まだ受講していない教員に言わせると「すでに受けた人たちが肯定的な評価をするからなくならないんだ」と言ったりするが、肯定的になるのもしかたないだろう。なんといってもアンケートは研修の現場で取られているのであって、あまり否定的に書くのは研修を準備してくれた人たちに対する無礼だ。また、自腹を切っての研修を無駄だと断ずるのは心理的にも難しい。そして基本的にまったく無駄な研修というのもそうはないからだ。 もっともこのアンケート、「機会があったらまた3万円払って受けるだけの価値ある内容でしたか」と問えば、肯定的な答えはほとんどなくなるはずのものである。 北上市立黒沢尻北小学校では、朝の自主学習の10分間を、全国学力調査の「復習」に充てている。 今年度の全国学力調査で説明力を問う問題の正答率が低かったことを教員同士が共有し、同じ問題をもう一度解き直させたり、過去の問題から類似した問題を探して解かせたりしている。 「授業では毎時間扱う余裕はないけれど、普段から慣れていないと解けないので」。朝の授業前の時間を使うことについて、同校の佐々木修・研究主任(45)は説明する。 ◇ 同小での学力調査の活用は、復習にとどまらない。 ある日の6年1組では、児童を半分に分け、二つの教室を使って算数の授業が行われた。「習熟度別授業」だ。 教科書よりも難しい内容を解いて、板書して説明するグループと、教科書の問題をじっくりと解くグループ。児童が好きな方を選ぶシステムになっている。 「算数は個人差が大きい教科。じっくり考える時間も確保できるし、分けることでの効果は大きい」と担任の高橋由紀子教諭(39)はいう。 黒沢尻北小では、4〜6年生の算数の授業で、単元によって、習熟度別授業と複数の教員が一つのクラスに入る「チームティーチング(TT)」を使い分けている。 取り組みが始まったのは、3年前。当時、同小の学力調査の結果が北上市の中でも低かったことがきっかけだ。 ◇ 学力調査と並行して実施されるアンケートの結果などから、生活習慣や授業内容と学力との相関関係の分析を始めた。その結果、斎藤卓也副校長は「学力の上位層は足踏みし、下位層にはきめ細かい指導が足りていないことが分かった」という。 今年度からはさらに、給食前の10分間を「特訓」の時間に充てている。3〜6年生の特に算数が苦手な子どもを会議室に呼び、九九などの基礎となる問題 を、斎藤副校長らが、3〜4人の少人数を相手に指導している。たとえば、「3年生で習ったはずだけど、今さら聞きにくい」というような問題を4年生に取り組ませることもできる。 つまずいたところまでさかのぼる。そこには、「もちろん正答率を上げることは必要。でも、一人でも多くの子どもの『できた』という気持ちを大事にしたい」(斎藤副校長)という思いがある。 「効果が出るのは、1年先か2年先かは分からない」と始めた学力向上への取り組みは、着実に実を結んでいる。07年度は、国語と算数の正答率が県平均よりも下だったのが、今年度はともに約10ポイント上になったという。 ◇ 〈説明力を問う問題〉 今年度の算数の学力調査で黒沢尻北小の正答率が低かったのが、「なぜその答えに至ったのか」を 説明させる記述問題。例えば、今年度の算数B(活用)で出された「三つの商品のうち、どの商品に割引券を使うと、値引きされる金額が最も大きくなるか。その商品を選び、理由を書きなさい」という問題だ。この問題の同小の正答率は32.8%(県平均45.9%)だった。 経済協力開発機構(OECD)が15歳を対象に、2006年に実施した国際的な学習到達度調査(PISA)で、日本の学生は自ら課題を設定し、説明する力に弱点があることが分かった。その結果を踏まえて、全国学力調査では「説明する力」を問う問題が盛り込まれている。 結局行き着くところはここ、「テスト対策」だ。それなしに「全国学力学習状況調査」で好成績を上げることはできない。 たとえば例に挙げられたこの設問、 「三つの商品のうち、どの商品に割引券を使うと、値引きされる金額が最も大きくなるか。その商品を選び、理由を書きなさい」 を観れば一目瞭然だが、日本の子どもはこうした設問自体に慣れていない。私たちが学んできた、あるいは教えてきた算数では、 「1250円の商品を1割引で売ったところ売れ行きが良くないので、売値のさらに1割引にして販売することにした。実際の販売価格はいくらか」 といったものである。これなら見覚えがあるだろう。 「授業では毎時間扱う余裕はないけれど、普段から慣れていないと解けないので」 というのはそういう意味である。 しかしこの 「授業では毎時間扱う余裕はないけれど、普段から慣れていないと解けないので」 よく考えてみるとおかしくはないだろうか。 授業は文科省の作成した学習指導要領に則り、文科省の検定を通過した教科書を使って行うのだ。その授業をしていては文科省の作成した全国学力学習状況調査に立ち向かえないというのだ。 そこに学力問題の度し難い本質がある。 ところで、今示した「全国学力学習状況調査の問題」と「旧来の問題」、より高い価値があるのはどちらだろうか。 私は間違いなく後者だと思う。なぜならこの知識は買い物をするにも販売をするにも、ともに役立つからだ。大切なのは説明できることではなく、よりよく生活することだ。 事実、PISAでトップの成績をもつフィンランドの人々は基本的な買い物すらできない。 合計が24ユーロ22セントだったので、私は54ユーロ72セントを払ったら、スーパーの人は、嫌な顔をした。 そこにホストプラザーが慌てて来て、4ユーロ72セントを取ってしまった。50ユーロで支払ったので、おつりが大量にきて、私の財布が重くなった。 (中略) それほどフィンランド人は暗算をしようとしない。レジではじめて自分の買った品物の合計金額を知るらしい。 (実川真由 /実川元子 著 「受けてみたフィンランドの教育」(文藝春秋 2007) 985円の買い物をするのに1085円をだして100円のお釣りをせしめるということがどれほど高度の計算能力に裏づけされるかは、アメリカあたりで買い物をすればすぐに分かる(*1)。いやそれ以前に、私などは985円の買い物に1万円札と85円を出してもレジの販売員がたちどころに「10085」と打つ手さばきに驚いてしまう。1万85円は間に「0」が二つつくということに何のためらいもないのだ。 さて、しかし政府も国民も日常の買い物で複雑な計算のできる日本人よりも、世界一の説明力をもtめる教育を選択してしまった。愚かなことだ。 もっとも有能な日本の児童生徒と教員は、この愚かな選択も軽くクリアできるだろう。 「効果が出るのは、1年先か2年先かは分からない」と始めた学力向上への取り組みは、着実に実を結んでいる。07年度は、国語と算数の正答率が県平均よりも下だったのが、今年度はともに約10ポイント上になったという。 そうなのだ。文科省の指示の通りにやっていてはできない「全国学力学習状況調査」の問題、ちょっとしたテスト対策で簡単にできるようになる。そのくらい子どもたちの基礎学力は高いということである。 もちろん私たちが育てたからだ。 (*1) 分かりやすいように日本円で設営するが、アメリカ式会計というのはこうなる。 985円の買い物をするのに1085円をだして100円のお釣りをせしめようとすると、ます85円が返され、1000円札の隣りに10円玉2個と5円玉そして商品が置かれる。そして1000円と(25円+商品)が同価値であることが示されてから(25円+商品)が差し出されるのだ。 群馬県桐生市立小学校6年の上村明子さん(当時12)が自宅で自殺し、学校側が「いじめがあった」と認めた問題で、学校が調査して市教育委員会に提出した報告書の内容が明らかになった。それによると、明子さんのクラスは、児童が担任の女性教諭に逆らい、暴言を吐くなど「学級崩壊」が深刻な状態に陥り、明子さんはそのなかで孤立を深めていった様子がわかってきた。 ◆担任へ暴言、汚い教室 学校が教職員や児童、保護者からの聞き取りなどをもとに作成した報告書からは、学級崩壊が次第に深刻化していった様子が見て取れる。 報告書によると、明子さんの学級はクラス替えをした直後の4月当初から、すでに落ち着きがなく、姿勢の悪い児童が目立った。 学校側が事態を把握したのは7月。担任が生徒指導主任に「担任が席を決めても従わない児童が増え、担任に暴言を吐くなど態度の悪さが見られるようになってきた」と報告した。 報告書によると、担任の報告を受け、生活指導部会で対応を検討し、校長や他の教諭も加わった「チーム・ティーチング(複数指導)」で学級の運営に当たることなどを話し合った。 しかし、夏休みをはさんだ2学期、状況はさらに悪化する。8月下旬、女子児童の一部が、担任に対して反抗的な態度をとったり、担任の発言に対する揚げ足取りをするようになった。 ある保護者によると、担任に「うるせえ、くそばばあ」と暴言を吐く児童や、同級生に静かにするように注意されると文句を言う児童がいた。授業中に鏡を出して髪を整えたり、授業参観の時に教室の外に出て行き、担任に注意されたりするなど落ち着きのない様子も見られたという。 報告書によると、9月に入ると教室が非常に汚く、乱れていることが多くなり、数人の児童が5年生の時の担任に「授業にならないことがある」と相談に行くほどになった。市教委の説明では、18日の運動会後は興奮からか、さらに落ち着きがなくなったという。 報告書によると、学校側は9月から立て続けに対策を打った。8日の生活指導部会で委員会活動や他学年との交流など6年生の活躍の場を増やすことを決めた。 27日には校長や教頭、隣の学級の担任も指導に乗り出した。28日から机を8列から6列に減らして隣の席との間隔を広げた。授業中の私語をなくすためだ。 10月5日から、複数指導が本格始動した。市教委によると、国語の授業は別の教諭が担当し、担任は4年生の算数の授業に回った。体育の授業には別の教諭が加わった。 その後、学校は明子さんが泣いて訴えた「1人で給食を食べている」状態の対応に追われることになる。学級崩壊の状態は、明子さんが亡くなるまで続いた。 ◆私は給食を1人で食べている 報告書によると、明子さんはクラスでは友達の輪に入らず1人で過ごすことが多く、休み時間には特別支援学級によく遊びに行き、「自分から仲間に入ってこない」「休み時間は1人でどこかに行ってしまうので、交流を持ちにくい」と話す児童もいた。 「うざい」「きもい」――。落ち着きを失った学級で飛び交う言葉は、普段から孤立しがちな明子さんにも向けられた。「原始人」「臭い」などとも言われた。 市教委によると、明子さんや父親から6月の修学旅行の後、「嫌なことを言われている」と学校に相談があった。担任はクラスで「嫌なことはしないようにしましょう」と指導した。その後しばらくは明子さんからの訴えがなくなり、「いじめ」との認識はなかったという。 学級崩壊への対策が本格化した9月。28日に席替えをした後、明子さんは給食の時に1人になった。 報告書によると、それまで給食は班ごとに食べていたが、28日から何となく机を寄せるようになり、明子さんは1人に。担任が班で食べるよう指導しても児童が従わず、10月14日に再び席替えを実施。だが再び明子さんが1人になりそうだったため、担任が児童に声をかけ、1人が一緒に食べた。しかし週明けの18日、明子さんはまた1人になり、19、20日は欠席した。 21日の校外学習の朝、同級生から「何でこういう時だけ来るんだ」と言われ、明子さんは大声で泣きながら「私は給食を1人で食べている」と訴えた。19日に明子さんがレンタルビデオ店にいるのを見た児童がいたという。 管理職や他の教諭はこの時初めて給食で1人になっていたことを知った。市教委によると、訴えを聞いたのは担任ではない教諭だったという。 報告書によると、その後、明子さんは駅で電車を待っている時に泣いており、電車の中で1人でドアのそばに立ち窓の外に目を向けていた様子を児童が見ていた。昼食は教務主任が隣に座り、会話をしながら食べた。 担任は校外学習後、学校に戻ってきてから「言われた人の気持ちを考えて話そう」と指導し、明子さんの父親にも報告した。 この日、明子さんが給食時に孤立していることが校長の耳にも入り、給食は全員黒板の方を向いて食べさせることにした。翌22日、明子さんは再び欠席。市教委によると、給食の取り方を変える方針を伝えられぬまま、23日の昼、明子さんが自宅で首をつっているのが見つかった。 市教委によると、明子さんは1〜4年生では1年間に30〜50日前後学校を休んでいたが、5年生では18日間、6年生では6日間と欠席は減っていた。校長は8日の記者会見で「欠席がほとんどなくなり、通常の学校生活を送っていた。小さい子の面倒をみたり、掃除の班長や委員会の仕事など一生懸命やっていた」と話した。 ■明子さんが亡くなるまでの経緯(市教委への報告などから作成) 【4年生】 秋 愛知県から桐生市の市立小学校に転入 【6年生】 7月 クラスの一部児童が担任に暴言を吐くなど態度が悪くなる 8月下旬 クラス全体のまとまりが欠ける状態になる 9月 教室が非常に汚く、乱れていることが多くなる 9月28日 席替えを機に給食時に孤立。担任の指導などで他の児童と食べることもあったが、10月18日には再び孤立 10月19、20日 欠席 10月21日 校外学習に参加し、同級生に「何でこういう時だけ来るんだよ」と言われる。大声で泣き、担任に「私は給食を1人で食べている」と訴える。父親が担任に電話で相談する 10月22日 欠席 10月23日 自宅で首をつって亡くなる 良く分かる説明である。 少なくともクラス全員で一人を無視した、一部の子はあからさまに悪態をついた、担任も校長も見て見ぬふりをした、といったネット上を駆け巡っている推測よりはるかにリアルである。 「■明子さんが亡くなるまでの経緯(市教委への報告などから作成)」は記事の内容を十分に反映していないので、さらに加えて見てみよう。 【6年生】 4月 当初から、すでに落ち着きがなく、姿勢の悪い児童が目立った。 7月 担任が生徒指導主任に「担任が席を決めても従わない児童が増え、担任に暴言を吐くなど態度の悪さが見られるようになってきた」と報告した。 8月下旬 クラス全体のまとまりが欠ける状態になる。女子児童の一部が、担任に対して反抗的な態度をとったり、担任の発言に対する揚げ足取りをするようになった。担任に「うるせえ、くそばばあ」と暴言を吐く児童や、同級生に静かにするように注意されると文句を言う児童がいた。授業中に鏡を出して髪を整えたり、授業参観の時に教室の外に出て行き、担任に注意されたりするなど落ち着きのない様子も見られた。 (9月) 教室が非常に汚く、乱れていることが多くなる。数人の児童が5年生の時の担任に「授業にならないことがある」と相談に行くほどになった。 8日(水) 生活指導部会で委員会活動や他学年との交流など6年生の活躍の場を増やすことを決めた。 18日(土) 運動会後は興奮からか、さらに落ち着きがなくなった。 27日(月) 校長や教頭、隣の学級の担任も指導に乗り出した。 28日(火) 机を8列から6列に減らして隣の席との間隔を広げた。授業中の私語をなくすため。 何となく机を寄せるようになり、明子さんは1人に。担任が班で食べるよう指導しても児童が従わず席替えを機に給食時に孤立。担任の指導などで他の児童と食べることもあったが、基本的には孤立していた。 (10月) 5日(火) 複数指導が本格始動した。国語の授業は別の教諭が担当し、担任は4年生の算数の授業に回った。体育の授業には別の教諭が加わった。 14日(木) 再び席替えを実施。だが再び明子さんが1人になりそうだったため、担任が児童に声をかけ、1人が一緒に食べた。 18日(月) 再び孤立 19日(火) 欠席。レンタルビデオ店にいるのを目撃される。 20日(水) 欠席 21日(木) 校外学習に参加し、同級生に「何でこういう時だけ来るんだよ」と言われる。大声で泣き、担任に「私は給食を1人で食べている」と訴える。この日の昼食は学年主任と食べる。担任が学級で「人の気持ちも考えよう」と指導。父親が担任に電話で相談する 22日(金) 欠席 23日(土) 自宅で首をつって亡くなる こうして見るといくつかのことが明らかになって来る。 ひとつは明子さんの死にいたるまでの1カ月、学校は終始それなりにこのクラスの学級崩壊を食い止めようとしていたことである。 学級崩壊は末期的な段階まで進んでおり、その中では明子さんの孤立も問題の1部でしかなかった、それが第二だ。明子さんの孤立問題は学級崩壊とは有機的に繋がっておい、どちらか一方だけを解決するということはありえなかった。全体の問題解決なくしては明子さんの問題解決もなかっただろうということである。 しかし明子さんの孤立問題と学級崩壊からの両面から進められる対応策は、結局エネルギーを分散させただけで何ら実効的な改善へとは進まなかった。それが学校側の立場である。 一方、クラスの子どもたちの関心も、学級全体に向かっていた。 一部の子は担任に対して反抗的な態度をとったり、担任の発言に対する揚げ足取りをすることに強迫的なエネルギーを注いでおり、他の子は保身に汲々としている(私は『5年生の時の担任に「授業にならないことがある」と相談に行くほどになった』という数人の児童の一部は、学級を荒らしていた本人ではなかったかと疑っている)。その中では明子さんの孤立も主要なテーマではない。 普通の状況なら「自分から仲間に入ってこない」「休み時間は1人でどこかに行ってしまうので、交流を持ちにくい」子にも誰かが手を差し伸べる。誰に気づかなければ担任が指示し、それに従う子がいる。しかしこのクラスの児童の、誰にもそうした余裕はなかったのだ。 そうした中で、明子さんは死を決意し実行する。 私はこの事件が明らかになった最初から、校長がいじめを認め自殺はそれが原因だったと発表して責任を取ることに反対してきた。それは今回明らかになったような複雑な事情を確かめず、「いじめでした、それが原因で明子さんが自殺しました」と言えばクラス全員が、「いじめと加害者」としての責任と社会的懲罰を背負い続けなければならなくなると考えたからだ。あるいは「いじめの首謀者」として何人かが推定され、人民裁判にかけられる。 しかし時ここにいたって、校長が辞職して責任を取る道もあるのかもしれないとも思う。 正直言って、学校は良くやったがそれにしても対応は遅すぎた。 記事によれば学級崩壊は7月に始まったように見えるが、普通はそうではない。5月・6月を乗り切れば通常はそんなに簡単に崩れるものではない。緊張の4月が終わり、ゴールデンウィークが過ぎると不安定なクラスはあっという間に崩壊して行ってしまう。 担任が「担任が席を決めても従わない児童が増え、担任に暴言を吐くなど態度の悪さが見られるようになってきた」と報告したという時点で、もう取り返しのつかないくらい、崩壊は進んでいたに違いない。 だとしたらその時点で担任の一部交代などの手は打たれるべきだった。 そのことについて学校長は責任があるはずだ。 ただし、辞任理由は以下のようなものでなくてはならない。 「いじめと認定しうるものはなかった。明子さんの自殺は学級内における完全な孤立が原因であり、その孤立の原因は学級崩壊にあった。そして学級崩壊の責任は第一に校長である自分にある。したがって辞任する」 もっとも校長が一人辞めるということはどこかの教頭を中途昇任させてこの学校に入れるということである。 その教頭の席を誰かが埋めなければならないから、どこかの学校のどこかの学級から担任教諭をひとり引き上げなければならない。その空いた席を(この時期に本当に存在するかどうか分からない)講師を探し出して埋めなければならない。教頭にしていいほど優秀な担任を取り上げられ、素人同然の講師に置き換えられる無辜のクラスは迷惑至極である。 また、児童の自殺はめったにないが、学級崩壊は日本中のあらゆるところで起こっている。学級崩壊の責任を取って校長が辞職となれば、それが先例となって日本全国で一斉に辞任要求が出されることも考慮しておかなければならないだろう。 いずれにして校長一個人で勝手に決められることではない。 教員の資質向上を目指して設置された国立の教職大学院で定員割れが深刻化している。文部科学省の調査では、08年度は15校中4校、09年度は 18校の3分の1に当たる6校で定員割れしており、このうち4校は2年連続だった。私立大を含めた志願倍率は両年度ともに1.3倍と低迷しており、教員を 目指す学生にとって教職大学院が魅力の薄い存在になっている。大学からは「大学院で学ぶメリットが明確でない」と制度そのものを疑問視する声も上がっている。【篠原成行】 教職大学院は「力量のある教員養成」を目的に08年度以降、全国で開設され始めた。08年度は東京学芸大、京都教育大など国立15校が設置。09年度は国立18校になり、現在は私立を含めた計25校が1学年14〜100人の定員を募集している。 原則、教員免許を取得した大学卒の学生と現職教員に入試資格が与えられ、2年間で修士課程を修了。最高位の専修免許が取得でき、給与は月額2万〜3万円程度加算される。 2年連続で定員割れになった4校の08年度、09年度の定員充足率は▽上越教育大(64%、83%)▽愛知教育大(46%、56%)▽兵庫教育大 (85%、88%)▽鳴門教育大(72%、82%)。09年度に定員割れになった2校の定員充足率は▽北海道教育大(83%)▽宮崎大(82%)。国から は各大学に大学院運営費が助成されるが、6校はいずれも運営費返納の基準となる定員充足率90%を下回った。 2年連続で50人の定員の半数前後しか埋まらなかった愛知教育大は、学部から進学する学生は約1割だけ。大半は県教委からの派遣と、教員養成系で はない他大学の卒業生が占める。学部生の多くが現役で教員採用試験に合格するため、学費を負担してまで大学院に行く必要はないと考えるという。同大入試課 担当者は「教員採用試験に落ちた学生や教職課程が充実していない他大学向けに募集をかけているのが実態で、教員の質向上につながっているとは明言できな い」と話している。 教職大学院は現在、中央教育審議会の「教員の資質能力向上特別部会」で主要テーマとして議論され、教員免許の取得には現在の学部教育に加え、教職 大学院のような教職課程を課すべきだとの意見が大勢を占める。文科省大学振興課は「修了生が少なく成果が出ているかどうかは判断できない。各大学には資質 向上に向けた制度のたたき台となるような実績を期待する」と話している。 2年制の大学院を出るというのは就労が2年遅れるということである。定年が同じであることを考えると、就労年数が2年間不足し、その分生涯収入が減額になるということだ。しかし失われるのは就職1年目と2年目の収入ではない。大卒が28年働くとして、院卒は26年しか働かないわけだから、 彼がもらえないのは大卒就労した同僚の最終年とその前年の分ということになる。その額、最低でも2000万円にはなろうか。 しかも大学院で学ぶ2年間、彼は飯も食えば生活もする、そして学費も払うという大変な出費も覚悟しなければならない。 問題はそれほどの犠牲を払っても大学院に進むメリットはあるのかということ、いやそもそも教職はそこまで魅力あるものなのか、ということである。 教職大学院への進学者が少ないというのは、それが“ノー”であることの明確な証拠だ。 ステータスと収入を保証された医者や弁護士とは違うのだ。教員はそこまで犠牲を払ってやるべき仕事ではない。 そんなことは大半の人が知っている。それにもかかわらず今でも教員志望がなくならないのは、それだけ奇特な学生がたくさんいるということだ。日本もまだまだ捨てたものではない。 さて、 教職大学院は現在、中央教育審議会の「教員の資質能力向上特別部会」で主要テーマとして議論され、教員免許の取得には現在の学部教育に加え、教職 大学院のような教職課程を課すべきだとの意見が大勢を占める。 恐ろしいことだ。 大学と教職大学院をつなげれば大学院の入り口で学生は飛躍的に増える。それはあたりまえだろう。教員志望の全員が入学せざるをえないからだ。しかしそれは「教職はそこまで無理してつくべき仕事ではない」という問題を大学の入口へ移すことであって、教員養成課程への志願者が激減するのは火を見るよりも明らかだ。 08年度は15校中4校、09年度は 18校の3分の1に当たる6校で定員割れしており、このうち4校は2年連続だった。私立大を含めた志願倍率は両年度ともに1.3倍と低迷しており、 といった状況が大学の入り口で起こる。 それでもいいと考える委員が中央教育審議会にはたくさんいるのだ。 彼らは何を考えているのか。 *ちなみに私は専修免許を持っているが、それで給与は月額2万〜3万円程度加算ということはない(教育学系大学院とは言え、“教職大学院”出なかったからダメなのか)。県教委は身分保障をした上に2年間も勉強させておいたのだから感謝されこそすれ余計に給与を払う必要はないと考えており、私もそれでいいと思っている。どうもこうした点でも、表向きと実際は違うようなのだ。 |