キース・アウト (キースの逸脱) 2011年1月 |
by キース・T・沢木
サルは木から落ちてもサルだが、選挙に落ちた議員は議員ではない。 政治的な理想や政治的野心を持つ者は、したがってどのような手段を使っても当選しておかなければならない。 落ちてしまえば、理想も何もあったものではない。 ニュースは商品である。 どんなすばらしい思想や理念も、人々の目に届かなければ何の意味もない。 ましてメディアが大衆に受け入れられない情報を流し続ければ、伝達の手段そのものを失ってしまう。 かくして商店が人々の喜ぶものだけを店先に並べるように、 メディアはさまざまな商品を並べ始めた。 甘いもの・優しいもの・受け入れやすいもの、本物そっくりのまがい物のダイヤ。 人々の妬みや個人的な怒りを一身に集めてくれる生贄 。 そこに問題が生まれれば、今度はそれをまた売ればいいだけのことだ。 |
愛知県教育委員会が2010年4〜6月に県立学校で勤める教員約1万1千人の勤務時間を調べたところ、国が過労死の危険ラインとする月80時間超の残業 をしていた教員が3カ月の平均で13%に上っていたことがわかった。同県教委が全教員を対象に勤務時間を調べ、残業時間の割合を把握したのは初めて。 調査対象は、県立高校151校と特別支援学校27校(分校含む)の計178校に勤務する教員約1万1千人。 その結果、残業時間が80時間超だった教員の割合は、4月15.6%、5月11.5%、6月12.0%。新年度を迎えた4月が高かった。最も超過時間の割合が高かった県立高校では、教員のほぼ半数が月80時間を超えていた。 残業時間は09年度も調べたが、集計方法は学校に任せていた。10年度からは県教委による統一の書式で全教員に記入させたため、09年度に把握した人数より5倍近く増えた。10年夏以降の調査結果も集計を進めている。 県教委は10年3月、各校に対して負担軽減を呼びかけるための通知を出し、定時に退校する日を設定することなどを呼びかけた。だが、現場では超過勤務が続いていた。土日に部活動を指導したり、検定や試験に向けて指導したりしているためとみられる。 調査結果について、県教委福利課は「少ない数ではない。厳粛に受け止めている」としている。 これに対し、県高校教職員組合の稲垣美樹夫副委員長は「実際は宿題などを自宅に持ち帰り、仕事をするケースも多く、本当はもっと多いのではないか。教員の定数を増やすなどして負担軽減をするべきだ」と訴えている。(相原亮) 月80時間以上の残業が13%もいるから問題だと言えば、民間企業の人には怒られるかもしれない。 俺たちはもっと働いていると。 しかし教員にはそれ以外に、持ち帰り仕事というものを持っている。13%というのは月80時間以上を学校内で時間外労働する教員の割合であって、持ち帰り教員の数は入ってこない。退勤時刻と同時に帰宅する(例えば幼稚園児を迎えに行く主婦などの)教員で、持ち帰り仕事ゼロという人はまずいないだろう。 おまけに教員の場合、残業は何時間やっても一銭にもならない。教職調整手当といって、あらかじめ本給の4%(8時間の残業手当に相当する)を与えられているため、何時間やろうとも払う必要はないのだ。 しかしこの超過勤務、何とかならないだろうか。 教員の過重勤務見直しというとすぐに出てくるのが「教員の職務の見直し」「会議の簡素化」「行事の削減」「ノー残業デイの設定」といった話である。しかしいくらいくら見なおしたところで教員の仕事が減るはずはない。 当然だ。平成23年度以降は万引き指導と不登校指導はしなくてよいとか、進路指導はしなくては良いとか、教科教育はしなくていいとか、そんなふうには絶対にならない。それどころか、 学力向上が望まれる、道徳教育の充実が望まれる、結局キャリア教育の充実によって乗り切るしかないといったふうに、むしろ増える一方なのだ。 教員に残業手当はないので、仕事は無制限に増やせる。 会議や行事を減らしても時間外労働は減らない。 午後7時まで学校で仕事をして家で2時間、ほとんど教員はそんな生活を送っている(主婦を兼ねる教員なら学校で5時まで家絵で4時間といったふうにスライドするだけで、日々の仕事がないわけではない)のだ。会議がひとつなくなれば、それまで持ち帰っていた仕事を学校でやればいいということにしかならない。 こんな状況でノー残業デイが徹底されれば、今度は4時間分の仕事をすべて家に持ち帰るしかない。おまけに情報の持ち出しは厳禁となれば、今度はノー残業デイにいったん学校を出てから隠れて戻ったり、休日出勤したりするしかなくなってしまうのだ。 昨年の12月24日の毎日新聞に 京都市職員残業とがめられ激高、上司に体当たり という記事が出た。 京都市の課長が係長に帰宅を促したところ「あほ、ぼけ、いてもうたろうか? 半殺しにしたろか」などと言って体当たりしたというものである。 他職員の長期病欠で負担が増えているところに「早く帰れ」と言ったので切れたらしい。 学校で同じことが起こらないのは、ノー残業デイをまじめにやっていないからに他ならない。 教員が産休・育休や病気・介護休暇に入った際、代わりの教員が間に合わないケースが、各地の公立小中学校に広がっている。朝日新聞が全都道府県・指定市の教育委員会に取材したところ、昨年度、全国で約800件に上っていたことがわかった。 調査したのは、2009年度に(1)教員が産休、育休に入った際、その当日に代わりの教員が着任できなかった件数と、(2)病気や介護休暇で欠員が出ても代わりの教員が1カ月以上来なかった件数。 その結果、大阪府を除くと(1)は304件、(2)は486件に上った。 大阪府は1年間の合計件数ではなく、毎月1日現在ごとの件数を合算した形で回答した。産育休の代替が間に合わなかったのはのべ66件、病気・介護休暇で代わりが来なかったのはのべ258件。 大阪府以外で多かったのは、産育休が北海道29件、横浜市28件、栃木県22件。病気・介護休暇は静岡県78件、大阪市が49件、兵庫県が38件、福岡県が35件、栃木県が30件だった。 こうした数字は文部科学省も把握しておらず、実数が明らかになったのは初めて。 代替の教員は教員免許を持つ人の中から選ばれる。人数の多い50代の教師が退職期を迎える中で、各教委が新採用を増やしたり、少人数教育などのため非正規教員を多く雇ったりした結果、代わりの教員に充てられる「予備軍」の層が薄くなっているのではないか、と文科省はみる。大阪府も「03年度以降、小中学 校の新規採用が千人超と拡大したのが最大の理由とみている」と話す。 一方で国立大学の教員養成課程は長く入学定員が抑制されていたため、養成が採用の急増に間に合っておらず、需給のバランスが崩れているとみられる。文科 省の担当者は「各地の教委は、教員免許を持つ大学院生ら、予備軍になりうる人材を発掘する努力が求められる」と話している。(編集委員・氏岡真弓) 現場はほんとうに困っているというのに こうした数字は文部科学省も把握しておらず、実数が明らかになったのは初めて というのは驚いた。 その上で、 人数の多い50代の教師が退職期を迎える中で、各教委が新採用を増やしたり、少人数教育などのため非正規教員を多く雇ったりした結果、代わりの教員に充てられる「予備軍」の層が薄くなっているのではないか、と文科省はみる。 という分析にも呆れる。そんなことはないだろう。 新規採用を増やしたのはごく一部の教委にすぎない。 少し古い数値で恐縮だが、年齢別教員数の分布(都道府県別)を見てもらおう。 見れば分かるとおり、現在大量退職を迎えているのは東京・神奈川・埼玉・大阪などのごく限られた大都市だけで、他の道府県のピークは別のところ―産育休の補充が全国で2番目にうまく行かなかった北海道の場合は30代後半〈鹿児島も同じ〉、秋田・長崎では40歳代半ばに―にあるのだ(グラフは2004年のものなので6年ずらして考える)。 また、教員採用の面からみると、巨大都市を抱える関東・中部・近畿地方ではここ10年余り爆発的な教員採用数の増加が見られるが、その他の地域は横ばいあるいは減少の傾向にあるのだ。(国立教員養成学部主流の時代から一般学部との並立の時代へ──学校教員の供給構造の変化──中段のグラフ) 志望者を大量に採用してしまったから人数が足りなくなったなどということがあるわけはない。 教員採用試験は地方では今でも難関である(小学校で青森県が25・2倍、中学で秋田県が35・5倍など)。楽だと言われる都会でも2〜3倍の倍率があるのだ。(「教員採用試験、平均6・2倍 秋田の中学では35倍も」) 昨年の採用試験は受験者数16万6729人、合格者は2万6910人、その差し引き13万9819人(不合格者)がとりあえずの「予備軍」だ。補充できない教員が800人なら14万人弱は決して層が薄くなっているといえるような数ではないだろう。 問題はその「予備軍」が翌年も予備軍のままでいてくれないということだ。14万人はどこへ消えたのか。 言うまでもないだろう。その大半は他の企業や職種に吸収されてしまったのだ。私たちが20代のころのように、アルバイトで食いつなぎながら翌年の採用試験を目指すといった若者がいなくなった。 今の若者は根性がなくなったのか−違う。 今の若者は意欲がなくなったのか―違う。 今の若者は夢を追わなくなったか―違う。 新卒者でないと極端に条件の悪くなる現在の就職状況で、教職はそんな危険を冒してまで追求するほどの職業ではない、ということだ。 それがすべてだ。 * 非正規教員の供給源は、主に三つである。 @上に記したようなアルバイトや他業種で食いつないでいる教員志望者 A子育てが終わって時間に余裕の出てきた元教員・教員免許所持者 B定年による退職教員。 これらの人々が非正規教員名簿に名を載せてくる。この中で最も頼りになるのは経験も体力もあるAの人々だが、それがゆくゆくはほとんどセロになることが分かっている。なぜなら、よほど計画的に現場復帰を考えている人でない限り、教員免許更新制度によって免許を失効するからである。 かくて非正規教員はさらに探しにくくなる。 愛知県豊田市で9日に行われた成人式で、新成人らで作る実行委員会が、市の補助金でアダルトグッズやわいせつなDVDを計約1万3000円分購入、一部の出席者に配っていたことがわかった。 同市の成人式は26会場で開催。アダルトグッズなどは、このうち155人が出席した豊田産業文化センターで、式典後の ビンゴゲームの景品として配られた。市は、同センターの実行委員会に56万円を開催費用として補助。景品代には約20万円が充てられ、新成人の委員らが ディスカウントストアなどで購入した。市がレシートを確認したところ、アダルトグッズやわいせつなDVD計十数点が含まれていたという。各会場の運営には 市職員も携わっているが、景品については「自主性を重んじてチェックしていなかった」(豊田市)という。 要するに市民の税金をアダルトグッズに使うとはなにごとか、それが新成人を祝うこととになるのかということかと思うが、全くその通りである。非常識極まりない。 その上で責任があるのは、購入した実行委員会の新成人なのかチェックしなかった市職員なのかということになるだろうが、これはちょっと難しい。なにしろ若者の自主性を重んじることは、教育の上で最優先とされているからだ。 新成人の代表者たちは自らの自主性において購入し、市職員も彼らの自主性を尊重したからチェックしなかった。それにもかかわらず不適切なことが起きたのはなぜか? ここに実は日ごろは気づかない言葉の落とし穴があるのだ。 実は「自主性」という言葉はすべての辞書に載っているわけではない。しかし「自主的」の方はたいていの辞書に載っているのでこちらで比べみると、 [自主的] 大辞林・・・他人の干渉や保護を受けず、自分から進んで行動するさま 広辞苑・・・他からの干渉などを受けないで、自分で決定して事を行うさま 大辞泉・・・他からの指図や干渉によらずに、なすべきことを自分の意思に基づいて行うさま。「―な活動」 すぐに分かるのは、大辞林と広辞苑には行う内容について何の制約もないのに対して、大辞泉だけは「なすべきこと」という縛りがある点である。 極端に言えば大辞林や広辞苑では「学校をサボろう」と自主的に決めることはできるが、大辞泉の解釈に従うとどうもしっくりこない。学校をサボることが「なすべきこと」であるのはかなり特殊な場合だけだろう。 つまりその差なのである。 豊田市職員は大辞泉的に「干渉や指図をせずとも、なすべきこと(社会的に許容される選択)を自分の意思で」行ってくれるだろうと考えたが、新成人の代表者たちは大辞林や広辞苑の言うごとく「他からの干渉などを受けないで、自分で決定して事を」行っただけのことなのである。 こうした齟齬は教育の世界ではしょっちゅうある。 マスコミや(いわゆる)識者が「子どもの自主性を尊重しろ」と言うときは無意識のうちに「子どもたち基本的に正しい選択と正しい判断をする」という思い込みがある。 しかし教員は「何の仕掛けもなしに自由に選択や判断をさせると、子どもはしばしば間違った選択や判断、あるいは状況に流されて悪い選択や判断をすることがある」と信じて疑わない。だからたいていのことを、子ども任せにはしない。 教師が子ども任せにして子どもが適切な選択や判断をしているとしたら、よほど子たちがよく躾けられているか、選択や判断までの道筋で「なすべきこと」にすべてが落ち着くよう様々に仕組みがある場合だけである。 もう二十歳なんだからそれほど間違ったことはしないだろう、というのは甘い。 いや、甘いというよりはウブだ。 しかし学校はメディアが考えているほど甘くはないし、案外私たちもウブではないのだ。 埼玉県の市立小学校に勤務する女性教諭が、再三クレームを受けて不眠症に陥ったとして、担任する学級の女子児童の両親を提訴していたことがわかった。慰 謝料500万円を求め、さいたま地裁熊谷支部で係争中だ。文部科学省によると、「保護者が学校を訴える例はあるが、逆のケースは聞いたことがない」とい う。 提訴したのは昨年9月。訴状などによると、教諭は1991年に教員になり、昨年4月からこの女児の学級を担任。同年6月、女児と他の女子児童とのいさかいを仲裁した際、母親から電話で「相手が悪いのに娘に謝らせようとした」と非難された。 これを皮切りに、同月末から7月中旬にかけて、児童の近況を伝える連絡帳に母親から「先生が自分の感情で不公平なことをして子どもを傷つけています」などと8度書き込まれた。 さらに、父親や母親から文科省や市教育委員会に対し、口頭や文書で批判されたほか、女児の背中に触れただけで警察に暴行容疑で被害を訴えられたという。 こうした一連の行為により教諭は不眠症に陥り、「教員生活の継続に重大な支障を生じさせられた」と主張している。教諭ら学校側と両親が話し合う場も設定されたが、両親が拒否したという。 小学校側は提訴の翌月、市教委に対し、「モンスターペアレンツに学校や教師が負けないようにし、教諭が教員を代表して訴訟を行っていると受け止めている」という校長名の文書を提出している。 両親は訴訟の中で、連絡帳への書き込みについて「娘は繰り返し嫌がらせや差別をされ、ストレスで体調が悪くなっている。このままでは学校に行けなくなってしまうので、抗議した」と説明。市教委に文書を提出した点については「教諭が話し合いを拒否している。娘が安心して学校に通うための正当な行為」と主張し、訴えを退けるように求めている。 朝日新聞の取材に対しては「娘は担任教諭から、ほかの児童の前で数十分間しかられたり、授業中に手を挙げても無視されたりするなど差別的な扱いを受けた。訴えられるのは心外で、学校側も実態を調べないで自分たちをモンスターペアレンツに仕立て上げた」と話している。 小学校の教頭は取材に対し、「教諭と保護者のそれぞれの人権を尊重しているため、コメントできない」、市教委は「訴訟中なので、何も答えられない」としている。 双方自分の想いを語っているだけなので実際に何があったのか、裁判の過程で明らかにされるのは良いことだと思う。 福田 ますみ著 「でっちあげ〜福岡「殺人教師」事件の真相」(新潮社 2007)という本がある。2003年に公になった福岡の教師による深刻なイジメで、小学校5年生の男児がほとんど死の直前まで追い込まれたという事件である。 このとき事実を部分的にしか認めなかった学校に対し被害者は1300万円の賠償を求め、500人を越える弁護団を結成して地裁に提訴した。 裁判の過程で請求額はどんどん吊り上げられ最終的に5800万円にも膨れ上がったが、一審判決(06年7月28日)は市に220万円の支払いを命じただけ、「体罰やいじめ」の存在は認めたが、原告側が主張した被害児童のPTSDなどは認めなかった。教諭の損害賠償も認めなかった。 高裁では被告は市だけとなり、判決(08年11月25日)は330万円の支払いとなった。これに対して双方とも上告せず、判決は確定。事実上、原告の敗訴である。 教師の体罰は認められた、というのがこの裁判の微妙なところだ。 少なくとも体罰はあった、そして訴状にあった内容の大部分が否定された。 とりあえず被告の「殺人教師」という汚名は濯がれたわけだが、つねにこうなるとは限らない。 裁判が教師の悪を暴くことになることもあるだろう。 しかしそれでもいい。 昨年は5458人の教員が精神疾患によって休職に追い込まれている。現実の学校で何が起こっているのか、裁判にでもならない限り何も世間には出て行かないからである。 昨年10月の新聞報道によると、平成21年度に自ら降任を希望した公立小・中・高校の校長や教頭などの数は、データのある12年度以降で最多の223人(前年度比44人増)にのぼったという。 数はそれほど多いようには思えないが、問題の本質は深刻である。民間企業であれば、管理職が意欲を失って自ら降任を希望するような状況が続けば、衰退あるいは倒産という事態になってもおかしくない。 学校の現場では、かなり以前から心配な兆候が現れていた。私が校長だった10年ほど前にも、昇任試験を受けようとする教員は極端に少なく、受験を勧めても、「平の教員の方が気楽でいいです」と臆面もなく言う教員がほとんどだった。 そんな状況の中で管理職になった先生たちであるだけに、志もやる気も十分にあったはずである。その彼らが、なぜ自ら降任を望むようになったのか、いや、望まざるを得なくなったのか。世間の人たちには訳が分からないに違いない。 記事によると、降任を希望する理由として、文部科学省は「校長や現場との板挟みになり、負担が重いと感じたのではないか」とみているとのことであるが、「板挟み」の状況は何も学校に特有のものではない。一般企業や役所の中間管理職でも普通に見られることである。それにこれは校長が降任を希望する理由の説明にもなっていない。私は、彼らが降任を望むのは、学校管理職の立場がいわば「閉塞(へいそく)状況」に置かれていることに一つの原因があると思う。 「学校の常識は社会の非常識」とよく言われるように、学校というところは一般社会の常識で は計り知れない、いわば特殊な社会である。管理機構が極めて単純で、文字通りの管理職は校長一人と言ってよい。「学校は良識の府であり、誰も悪いことはしない」という建前と「教員は法令等を守り校長の職務上の指示命令に従う」という法制上の前提があってこのような管理機構になっていると思われるが、そのような建前や前提は、とうの昔に崩れてしまっている。数十人あるいは百人を超える教職員を校長一人で管理することなど、本当はできるものではない。 教頭は校長の補佐役であり、単独で職務命令が出せる立場にないため、このいびつな管理機構の本質は変わらない。実際には管理できないのに建前ではできることになっているため、さまざまな形で無理が生じ、本音と建前の間で校長や教頭などの学校管理職が追い詰められてしまうのである。これが、私の言う「閉塞状況」である。私は、この状況を打開しない限り、降任を希望する校長や教頭などが今後も増え続けることは止められないのではないかと心配している。 このような学校管理機構の問題は、これまで現職関係者から直接語られることはほとんどなかった。今もない。私の経験から言えば、校長や教頭がこのことを語れば単なる愚痴と受け止められかねず、また、自分の無能力をさらけ出していると指弾される恐れもあるからである。 管理機構をピラミッド型のものに替え、信賞必罰制を確立し、実質的な勤務評価制を整えるなど、民間企業では当たり前のことを学校にも導入することがもはや喫緊の課題ではないか。抵抗があっても毅然と行うべきだと思うが、どうだろうか。 ◇ 【プロフィル】一止羊大 いちとめ・よしひろ(ペンネーム) 民間勤務を経て大阪府の公立高校校長など歴任。著書に『学校の先生が国を滅ぼす』など。 「風が吹けば桶屋が儲かる」論、というより途中から桶屋を儲けさせるために筋を曲げているような論だ。とにかく 管理機構をピラミッド型のものに替え、信賞必罰制を確立し、実質的な勤務評価制を整えるなど、民間企業では当たり前のことを学校にも導入することがもはや喫緊の課題 という結論に持っていくために、論にならないもの論に見せかけている。 そもそも校長の希望降任は大産経新聞が問題にするような重要課題なのだろうか? 私には、そこからして理解できない。
2009年度、校長から希望降任で教諭に下った人はわずか9人しかいのだ。 教員としての最後は現場教師で終わりたいといった奇特な人や、教委・社会あるいは保護者との軋轢に疲れて一般職に戻りたいと決意した校長がみんな合わせて9人程度いても不思議はない。なにしろ校長と呼ばれる人は全国に3万5000人もいるのだから。 しかもここ数年、校長の希望降任は5〜9名の間で安定していて別に増加傾向にあるわけでもない。 それに引き換え副校長・教頭の希望降任は制度が始まった04年に71名だったのが翌05年には60名まで落ち、そこから、62人→69人→84人と増加し09年度には90人と、05年度の1・5倍にもなってしまっているのだ。 さらにそれより問題なのは06年度に初めて数値として表れた主幹教諭からの希望降任であり、06年度が12人だったのが翌07年27人、08年度89人と増えて09年度にはついに121人にもなってしまった、つまり4年間で10倍にもなってしまったのである。 文科省が 「校長や現場との板挟みになり、負担が重いと感じたのではないか」 というのはそのためだ。 しかし一止羊大氏にとっては90人の教頭や121人の主幹教諭よりたった9人の方が重大なようで、標題も『「校長になりたくない」理由』。 3万5000人の現職校長のうち9人もが希望降任人事のテーブルに乗った、大変だ、 管理機構をピラミッド型のものに替え、信賞必罰制を確立し、実質的な勤務評価制を整えるなど、民間企業では当たり前のことを学校にも導入することがもはや喫緊の課題ではないか とは、何んとも大げさではないか。 ちなみに副校長・教頭や主幹教諭が降任を希望するのは、セブン・イレブンと呼ばれる職の過酷さのためである。 もちろんどれほど過酷であっても、それがやりがいのある仕事であり、意味ある業務であれば耐えていける。 あるいは職務に見合う報酬があったり、さらに上の出世に魅力があるなら私たちだっていくらでも頑張る。 しかし副校長・教頭や主幹教諭の主たる仕事は、創造的なものでも主体的なものでもない。 水道やトイレの修理や管理、信じられないくらい大量で不毛な文書処理と苦情処理、時数管理、児童生徒数管理など・・・。 ここ数年は文書処理と苦情処理が爆発的に増えてきた。 年間わずか数十万円の収入増と引き換えに、好んでやれるものではない。 もっとも教員の中途退職者は4285人(07年度「定年(勧奨)のため」「病気のため」「死亡」を除く)もいて、これは9年前の3011人の1・4倍強である(*)。それに精神疾患で療休に入った教員が5500人ほど。それを考えると220人ほどの希望降任などむしろ可愛いと言っていいような数値であろう。 *朝日新聞は昨年夏、中途退職者の数を1万2000人としたが、この数値には相当数の定年勧奨を含んでいると思われるためここでは採らなかった。 国際的な学習到達度調査・PISA(ピザ)のトップ常連で「学力世界一」とされるフィンランドは、「16歳までは他人と比べるテストがない」など独特な 教育を続け、小中学校で新聞を活用した授業も行われている。具体的に新聞はどう扱われ、新聞活用の意義はどこにあるのか。フィンランドの教育を長年にわたって研究している都留文科大学(山梨県)の副学長の福田誠治さんに聞いた。 ■都留文科大・福田誠治副学長に聞く フィンランドは日本とほぼ同じ面積に約500万人が暮らします。携帯電話メーカーのノキアのような国際的企業もある。驚くのは毎日56種類の新聞が発行されていること。15歳の60%は「雑誌や漫画だけでなくいつも新聞を読んでいる」と答えています。 日本の小中学校にあたるのは9年制の「基礎学校」で、たいてい1クラス20人前後の少人数です。私が視察した小学2年の理科の授業では、先生が新聞を取り出し、「新聞の天気図にある記号を三つ選んでノートに描きましょう」という課題を出しました。 お天気欄が新聞のどこにあるのか、わいわい言いながら新聞を一人ひとりがめくり始めました。家庭で新聞を読む習慣をつけている子供もいるかもしれないが、自分のテーマや関心に基づいて種々雑多な記事の載っている新聞をめくり、そしてお目当ての項目を探し出す訓練を教育現場で始めるわけです。 記号をきちんとノートに写す女子もいれば、お絵かきに熱中する子供もいる。「切っちまおうぜ」と切り抜きを始める男子もいました。新聞という素材を自分たちで自由に変えていた。 フィンランドでは、学習とは単なる知識の詰め込みではなく、自分の人生に必要な知識を自ら求めること。その知識も、学ぶ者が事実を調べ、自分なりに作り あげるものと考えられている。たとえば歴史年表をやみくもに覚えるのではなく、自分にとって重要な歴史を理解し、それを自分で年表にしていくことが知識であり、学習です。 問題点を自ら見つけ出すことが学習の第一歩ともいえ、それが新聞活用授業でも実践されていました。年長になれば新聞は文章の読み解き訓練の素材ともなる。中学1年ではフィンランド語の授業で使われていました。 小学校の校内では、廊下の一角の児童の集まる場所に新聞コーナーがあり、その日の新聞がいつでも読めます。フィンランドは図書館利用率が世界一。国民の77%が毎日1時間読書し、家族の「読み語り」も多い本好き・活字好きのお国柄の背景に、こうした工夫もあります。 学力といえば、日本では「何を学んだか」が重視されますが、フィンランドはじめヨーロッパでは「これから何ができるか」が問われます。様々な文化・言語 を持つ多民族が共存する社会を発展させるためには、問題点を見つけ、周囲と協力して解決する能力を一人ひとりが持たねばならないから。 グローバル化の波に洗われる日本にも、受け身で覚えるのではなく、積極的に自分から使う学力が必要な時代が来ている。フィンランドに学ぶことは多いと思います。(永持裕紀) ◇ ■PISA 経済協力開発機構(OECD)が2000年から3年ごとに実施。09年は世界65カ国・地域から15歳 の約47万人が参加し、日本では高1の約6千人(0.5%)が参加。読解力、数学的な応用力、科学的な応用力の3分野が調べられ、09年に日本の低落傾向 が止まった「読解力」では、書き手の意図をくみとった上で自分の知識と経験も活用して内容を判断する力が問われた。 学力世界一のフィンランドの教育は様々な視点から検討された。そしてそれぞれが自分に都合の良い点だけを引き出して「これが学力世界一の原因」だと叫ぶ。 例えば、
そして今回は「フィンランドの子どもは新聞を読むからだ」ときた。 しかし問題はなぜそうなのか、ということだ。 学力といえば、日本では「何を学んだか」が重視されますが、フィンランドはじめヨーロッパでは「これから何ができるか」が問われます。 なぜそうなのか。 15歳の60%は「雑誌や漫画だけでなくいつも新聞を読んでいる」 なぜそうなのか。 記事にその答えはない。 しかし、いくら学習の目的を変えましょう、漫画をやめて新聞を読みましょう、そうしなければフィンランドに近づけませんと叫んでも何の解決にもならない、それは当り前のことだ。 研究者である以上、でフィンランドにはに何があるのか、それをまず説明しなければならないはずだ。 福田誠治先生は教えてくれないのなら、私が答えてしんぜよう。 それはフィンランドでは新聞や本を読んでいないと学校のテストができないからなのだ。 以下は実川真由 /実川元子 著「 受けてみたフィンランドの教育」(文藝春秋 2007からの引用である) フィンランドのテストはほとんどがエッセイ(作文)なのである。英語、国語はもちろん、化学、生物、音楽までもエッセイ、つまり、自分の考えを文章にして書かせるのがフィンランドの高校の一般的なテスト形式である。 したがって、 エッセイがメインなので、当然彼らはテスト前にそれを書くだけの知識を詰め込まなければいけない。 日本のテストでは暗記がカギだとしたら、フィンランドのテストは知識の詰め込みが前提となる。 そのため、テスト前学校で見る生徒の多くはやたら分厚い本を抱えていて、それらを読んで、読んで、知識を詰め込むのである。 これは「毒書収監」でも引用してある部分だが、だから知識の集合体である新聞には常に目を通しておく必要が生まれる。そうして多面的な知識を詰め込んでおかないと、学校に対応できないのである。 ではなぜ日本でも同じことをやればいいのではないのか、日本では同じことができないのか。 ここでフィンランドの特殊性、あるいは日本の特殊性が見えてくる。 1クラスに30人から40人もいるクラスで作文指導などほとんど不可能なのである。 私はかつて小学校で作文指導をしたことがある大変さはハンパではなかった。たった32人のクラスなのに。 例えば45分間の授業で、初めの挨拶と学習内容の確認・準備、終了時の確認と挨拶、すべて合わせて5分でやったとしよう。その残りの40分が正味の時間で、その間に32人の作文を読んで指導を入れる。 その間ひとりにつき1分15秒しかない。 逆に子どもからみると、38分45秒間ほったらかしにされていると同じなのである。これが指導と言えるのかどうか。 もちろん放課後にすべての作文に朱を入れてもいい。しかし現段階で日本の教員はフィンランドの教員の2倍近い労働をし、さらに週6時間の持ち帰り仕事をしているのである。とてもそれできたものではない。 フィンランドの教師は20人程度の子どもしか見ていない。しかも午後3時半には退勤してしまい、夏休みは日本の10倍以上だ。 それだけ余裕があればすべての教科をエッセイにすることも可能であろう。 同じことが日本でできるか。 いうまでもなくにできない。 ではどうしたら良いのか。 実は私には腹案がある。しかしこれは別の機会に話そう。 (鳩山さんみたいだが) ■担当教員の配置検討 社会問題化している働く意欲が薄いニートやフリーターの対策として、文部科学省は小中学校や高校で仕事について学ぶ「キャリア教育」を本格推進するため、各学校に担当教員の配置を検討していることが29日、分かった。 平成24年度からすべての公立小中学、高校で月2時間以上のキャリア教育の授業を行うほか、中高では年間5日以上の職場体験やインターンシップ(就業体験)を実施したい考えだ。文科省は「子供のうちから働くことへの意識を養いたい」としている。 キャリア教育では、授業で職場について詳しく教えたり、子供に職場を体験させるためには企業や職場側の協力が必要。文科省では各学校で担当教員を指定し、職場体験に協力してくれる企業を探す、地域の社会人や職人に学校での講義を依頼するなどの業務を担当する。 中学・高校では生徒の進路や就職指導を行う進路指導主事に担当を兼務させることを検討。小学校には指導主事はいないため、新たに担当を指定するという。 キャリア教育は現行でも中高を中心に行われているが、学校側の裁量に任されており、職場体験などは実現しにくいのが現状。学校側からは「企業が協力してくれない」などの声が上がる一方、企業からは「学校からの働き掛けがない」と反論もある。 文科省では、学校で担当教員を決めることで、企業など外部とのパイプ役となり連携強化を深め、こうした問題点の解消を目指している。 文科省によると、21年度に年間5日以上の職場体験を行っている学校は、中学校で19・2%。高校では正確な統計がないが、文科省では担当教員の配置で実施率の向上につなげたいとしている。 文科省は今月中にキャリア教育のための専門家会議を設置。担当教員の具体的な役割などを議論し、23年度中に指針をまとめる。 厚生労働省の調査では、19年3月の卒業者で就職後3年間に離職した人の割合は大卒で31%、高卒で40%に達し、フリーターは21年時点で178万人に上っている。 何度も読んだがこの記事から批判も賛同も見えてこない。産経新聞はこのキャリア教育強化に不賛成なのか賛成なのか、旗色をはっきりさせてほしい。 いうまでもなく、私は産経新聞がキャリア教育重視を批判すると考えている。 ここのところ一貫して教員の資質向上、児童生徒の学力向上を叫び続けてきた産経新聞が、キャリア教育といった国語にも数学にも理科にも社会科にも外国語も寄与しない内容に貴重な授業時間を取られることに賛成するはずがないと思うのだ。 しかしその舌鋒のなんと鈍いことか。 産経新聞よ、分かっているはずだ。私たち教員が学力向上に集中しきれないのは、人権教育だの平和教育だの、あるいは道徳教育・保健教育・性教育・読書教育・環境教育・金銭教育・統計教育・エイズ教育.など、ありとあらゆる人間教育に携わっているからだと。 だとしたら学力向上を最優先に幾百万も繰り返す産経新聞が、なぜこれらの学力に関わらない教育に反対しないのか。 私はそれが解せない。 産経新聞の良識を問う。 |