大震災から12日が過ぎた3月23日午後。宮城県東松島市立大曲小学校の教員たちは、市内の遺体安置所にいた。
掲示板の前に行き、収容された遺体の性別や身長、服装などが記された一覧表をじっと見つめている。同小の児童らしき子どもがいれば、安置所の担当者に教員であることを話し、中に入って本人かどうかを確認するためだ。
自分のクラスの児童2人が行方不明だった高田景子教諭(32)は、「子どもが奇跡的に無事で発見されてほしいと思う気持ちと、駄目かもしれないと いう気持ちが入り交じり、とても落ち着いていられない。家族と一緒に、私たちも子どもを捜してあげなければ」と、涙をこらえながら話した。
3月11日午後、巨大地震の発生当時、同小の児童は教室にいた。教員らは、災害マニュアル通り、保護者が学校に迎えに来た順に子どもを引き渡して帰宅させた。その直後、大津波が同小を襲った。学区内には海に近い地域もあり、多くの児童が家族と逃げる途中に津波にのみ込まれた。
地震の翌日、電話などの通信機器はまだ使えず、児童数424人のうち約100人の安否が確認できなかった。
「子どもの安否確認は学校の役目」。熱海隆一校長(60)(3月末で退職)の判断で、教員らは数班に分かれ、各避難所を徒歩や自転車で回り始めた。「大曲小の子どもを知りませんか」と聞き、情報を集めた。
しかし、地震から10日過ぎても、行方不明の子どもが4人いた。市街地の6割以上が浸水した上、沿岸など広域で水が引かない状態が続き、遺体の捜索も難航していた。22日からは、行方不明の子どものクラス担任らが中心となり、最悪の事態も考えて遺体安置所も回り始めた。
高田教諭は31日、行方不明だったクラスの男児と、遺体安置所で対面した。あの日着ていたジャンパー姿で見つかった男児に、「やっと会えたね」と 心の中で語りかけた。帰宅後、最後にもう一度だけ男児の顔を見たいと思い、翌朝、安置所に行き、男児に小さな花束をささげてきた。
「子どもと毎日触れ合いながら、命を守り、成長を見守ることが一番の仕事だと強く感じた。この責任の重さを忘れず、教師を続けていきたい」。高田教諭は力を込めた。
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被災地では、教員たちが子どもの安否情報を求めて避難所を回ったり、チラシを配ったりする姿が各地で見られた。教え子についての情報を求める貼り紙も、多くの避難所にあった。
災害時の安否確認は、法で学校に義務づけられているわけではない。それにもかかわらず、地震発生直後から走り回る教員たちの姿があった。子どもたちに生きていてほしいとただ願う気持ちが伝わってきた。(矢子奈穂)
学校についてあまり知られていないことのひとつは、教員は本気で子どもたちを愛しているということである。親に比べると「愛しているからきちんと育てたい」という“鍛える”側面が強いので案外理解されないが、それでも教員は子どもを愛している。親と同じように愛している。
もっとも誤解は教員の側にもあって、彼らは世間の人々も自分たちと同じように子どもという存在を愛していると思い込んでいる。親ほどではないにしても目に映るすべての子どもは大人から愛されていると信じている。しかしそんなことはない。
子どもを大真面目で愛している教員の一人としてこの記事を読むと、
災害時の安否確認は、法で学校に義務づけられているわけではない。それにもかかわらず、地震発生直後から走り回る教員たちの姿があった。
はむしろ新鮮である。
児童生徒の安否確認が法的に義務かどうかなどということは本来、頭の隅にも浮かばないことだからだ。
熱海隆一校長の
「子どもの安否確認は学校の役目」
というのも教員として当たり前といった程度の意味であって、別に職務だからというわけではない。
教員らは数班に分かれ、各避難所を徒歩や自転車で回り始めた。「大曲小の子どもを知りませんか」と聞き、情報を集めた。
この人たちがどんな思いで地域を回ったのか、私には容易に想像ができる。
子どもが奇跡的に無事で発見されてほしいと思う気持ちと、駄目かもしれないと いう気持ちが入り交じり、とても落ち着いていられない。
ああ、ほんとうに切なかっただろうなと、私は思う。