キース・アウト
(キースの逸脱)

2011年4月

by   キース・T・沢木

サルは木から落ちてもサルだが、選挙に落ちた議員は議員ではない。
政治的な理想や政治的野心を持つ者は、したがってどのような手段を使っても当選しておかなければならない。
落ちてしまえば、理想も何もあったものではない。

ニュースは商品である。
どんなすばらしい思想や理念も、人々の目に届かなければ何の意味もない。
ましてメディアが大衆に受け入れられない情報を流し続ければ、伝達の手段そのものを失ってしまう。

かくして商店が人々の喜ぶものだけを店先に並べるように、 メディアはさまざまな商品を並べ始めた。
甘いもの・優しいもの・受け入れやすいもの本物そっくりのまがい物のダイヤ
人々の妬みや個人的な怒りを一身に集めてくれる生贄
そこに問題が生まれれば、今度はそれをまた売ればいいだけのことだ。


















2011.04.09

緊急連載 学校と震災(11) 避難所運営に教員奔走


読売新聞 4月 9日]


 今回の震災では多くの学校が避難所となった(3月21日、宮城県気仙沼市で)=武藤要撮影
 大津波に襲われ、約650人が避難した宮城県東松島市立矢本第二中学校。地震発生から丸一日たっても水が引かず、救助も来なかった。菅野英一校長(54)は、地震発生時から学校にいた教職員28人を「衛生・安全」「物資」「食料」の三つの班に分けた。
 衛生・安全班は、避難者がいる教室を回り、健康状態を確認した。2階の視聴覚室に「救護室」を設け、養護教諭らが、けが人の応急処置にあたった。 低体温の高齢者にはカーテンを巻いて見守った。教職員と相談して、トイレ用に泥水の上澄みをくんだり、トイレットペーパーは流さないように周知したりし た。
 発生から3日後、ようやく食料などの物資が届いたが、数日間は圧倒的に不足していた。「申し訳ありませんが、食パン1枚を3人で分けてください」。物資、食料班は、市職員がボートで運んできた少ない物資を避難者の人数分に分け、避難者に配って回った。胸まで泥水につかって市との連絡役も果たし た。避難者から「食べ物はこれだけか」など不安な気持ちをぶつけられたこともあったが、「どこも大変のようです。もう少しがんばりましょう」と冷静に説明 を繰り返した。
 校舎1階の水没は、結果として10日間も続いた。
 水が引いた頃、学校側が食事の配給などのボランティアを募集したのを機に、避難者により自主的に運営されるようになった。教職員は補助的な役目となり、泊まり勤務は交代制にした。菅野校長は「教職員は地域の人のことをよく考えて避難所の運営に頑張ってくれた」と話す。

 同県石巻市立青葉中学校も避難所になり、約4000人が避難した。近くにいた市職員らが駆け付けたが、教職員も泊まり込んで、昼夜を問わず避難者の救護などの世話にあたった。
 各自治体は、災害時、地域住民らが避難所運営を行えるようにと、地域の自主防災組織などに力を入れてきた。しかし、今回は、地域のまとめ役が命を落とすなどして、自治組織が動き出すのに時間がかかった所もあったという。
 阪神大震災では、学校避難所は最長7か月間開設され、管理運営に多くの教職員が投入された。結果、学校の早期再開などに支障が出た。兵庫県教育委 員会は、学校は日頃から地域と連携し、災害時には、避難所の運営管理は後方支援として携わるなどの対応をマニュアルにまとめた。
 宮城県教委の小林伸一教育長は、「教員が通常業務を超えて献身的に尽力していることに敬意を表したい。今後、学校避難所の運営のあり方を市町村と見つめ直し、災害時の学校の対応力の強化につなげていきたい」としている。(矢子奈穂)
(2011年4月9日??読売新聞)



 学校の教職員には、いざというときにはこういう仕事もする、ということで取り上げた。ただし記事を見て驚くのは、矢本第二中学校の場合、菅野英一という優秀な校長の下で組織が臨時に編成され、機能したという点である。
 
各自治体は、災害時、地域住民らが避難所運営を行えるようにと、地域の自主防災組織などに力を入れてきた。
 つまり本来は、学校が避難所として施設を提供し、地域の自主防災組織が運営を行うというシステムだったのである。全国、どこもそうなっているのだろうか。
 
 私のところは違う。
 学校では4月に新学期が始まると同時に校内の防災組織が編成されるが、そのとき同時に学校が避難所として供用に付される場合の組織も作っておくのだ。その場合、基本的に校内防災組織を援用する。
 つまり自動的に校長が避難所の責任になり、校内防災本部が渉外やら計画立案などを行うようになっている。給食室はそのまま炊き出しの本部になるため栄養士が係長を行う。保健係は養護教諭を中心に簡単な医務室をつくって運営し、警備係や消火係・搬出係といった係は避難民の振り分けやお世話をし、火の始末などの簡単な警備を行う。

 
学校というところは集団を動かす仕事ばかりをしているので、こうしたことはおそらくうまい。
 
阪神大震災では、学校避難所は最長7か月間開設され、管理運営に多くの教職員が投入された。
 いかにもありそうなことだ。地域の防災組織などそう簡単に動くはずはない。
 
 ちなみに私の友人は東海地震防災対策強化地域の学校に勤めているが、そこでは「通常の学校火災の係分担」と「警報発令後の係分担」と「実際に被災したあとの係分担」の3種類があるという。
 中でも驚かされるのが「警報発令後の係分担」で、予想される東海地震の場合、判定委員会が地震警報を発令すると地域の機能の大部分が停止し、学校も閉鎖され避難所に宛てられるのである。そこでは教師は行政の末端として避難所運営が任される。そして実際に地震が起こるか、警報がムダになって撤回されるまで延々何ヶ月も家に帰れないのである。
 なんかすごい職業についてしまったと思ったのは、そうした組織作りが始まってからだった。
 
 ただし
宮城県教委の小林伸一教育長は、「教員が通常業務を超えて献身的に尽力していることに敬意を表したい。今後、学校避難所の運営のあり方を市町村と見つめ直し、災害時の学校の対応力の強化につなげていきたい」としている。
はいただけない。

 なぜなら学校の教職員は災害がなくても通常業務を超えて献身的に尽力しているからである。








2011.04.15

緊急連載 学校と震災(13)安置所で教え子と対面


読売新聞 4月14日]


 大震災から12日が過ぎた3月23日午後。宮城県東松島市立大曲小学校の教員たちは、市内の遺体安置所にいた。
 掲示板の前に行き、収容された遺体の性別や身長、服装などが記された一覧表をじっと見つめている。同小の児童らしき子どもがいれば、安置所の担当者に教員であることを話し、中に入って本人かどうかを確認するためだ。
 自分のクラスの児童2人が行方不明だった高田景子教諭(32)は、「子どもが奇跡的に無事で発見されてほしいと思う気持ちと、駄目かもしれないと いう気持ちが入り交じり、とても落ち着いていられない。家族と一緒に、私たちも子どもを捜してあげなければ」と、涙をこらえながら話した。
 3月11日午後、巨大地震の発生当時、同小の児童は教室にいた。教員らは、災害マニュアル通り、保護者が学校に迎えに来た順に子どもを引き渡して帰宅させた。その直後、大津波が同小を襲った。学区内には海に近い地域もあり、多くの児童が家族と逃げる途中に津波にのみ込まれた。
 地震の翌日、電話などの通信機器はまだ使えず、児童数424人のうち約100人の安否が確認できなかった。
 「子どもの安否確認は学校の役目」。熱海隆一校長(60)(3月末で退職)の判断で、教員らは数班に分かれ、各避難所を徒歩や自転車で回り始めた。「大曲小の子どもを知りませんか」と聞き、情報を集めた。
 しかし、地震から10日過ぎても、行方不明の子どもが4人いた。市街地の6割以上が浸水した上、沿岸など広域で水が引かない状態が続き、遺体の捜索も難航していた。22日からは、行方不明の子どものクラス担任らが中心となり、最悪の事態も考えて遺体安置所も回り始めた。
 高田教諭は31日、行方不明だったクラスの男児と、遺体安置所で対面した。あの日着ていたジャンパー姿で見つかった男児に、「やっと会えたね」と 心の中で語りかけた。帰宅後、最後にもう一度だけ男児の顔を見たいと思い、翌朝、安置所に行き、男児に小さな花束をささげてきた。
 「子どもと毎日触れ合いながら、命を守り、成長を見守ることが一番の仕事だと強く感じた。この責任の重さを忘れず、教師を続けていきたい」。高田教諭は力を込めた。

 被災地では、教員たちが子どもの安否情報を求めて避難所を回ったり、チラシを配ったりする姿が各地で見られた。教え子についての情報を求める貼り紙も、多くの避難所にあった。
 災害時の安否確認は、法で学校に義務づけられているわけではない。それにもかかわらず、地震発生直後から走り回る教員たちの姿があった。子どもたちに生きていてほしいとただ願う気持ちが伝わってきた。(矢子奈穂)




 学校についてあまり知られていないことのひとつは、
教員は本気で子どもたちを愛しているということである。親に比べると「愛しているからきちんと育てたい」という“鍛える”側面が強いので案外理解されないが、それでも教員は子どもを愛している。親と同じように愛している。

 もっとも誤解は教員の側にもあって、彼らは世間の人々も自分たちと同じように子どもという存在を愛していると思い込んでいる。親ほどではないにしても目に映るすべての子どもは大人から愛されていると信じている。しかしそんなことはない。

 子どもを大真面目で愛している教員の一人としてこの記事を読むと、
 災害時の安否確認は、法で学校に義務づけられているわけではない。それにもかかわらず、地震発生直後から走り回る教員たちの姿があった。
はむしろ新鮮である。
 児童生徒の安否確認が法的に義務かどうかなどということは本来、頭の隅にも浮かばないことだからだ。
 熱海隆一校長の
「子どもの安否確認は学校の役目」
というのも教員として当たり前といった程度の意味であって、別に職務だからというわけではない。

教員らは数班に分かれ、各避難所を徒歩や自転車で回り始めた。「大曲小の子どもを知りませんか」と聞き、情報を集めた。

この人たちがどんな思いで地域を回ったのか、私には容易に想像ができる。

子どもが奇跡的に無事で発見されてほしいと思う気持ちと、駄目かもしれないと いう気持ちが入り交じり、とても落ち着いていられない。

ああ、ほんとうに切なかっただろうなと、私は思う。