キース・アウト
(キースの逸脱)

2011年5月

by   キース・T・沢木

サルは木から落ちてもサルだが、選挙に落ちた議員は議員ではない。
政治的な理想や政治的野心を持つ者は、したがってどのような手段を使っても当選しておかなければならない。
落ちてしまえば、理想も何もあったものではない。

ニュースは商品である。
どんなすばらしい思想や理念も、人々の目に届かなければ何の意味もない。
ましてメディアが大衆に受け入れられない情報を流し続ければ、伝達の手段そのものを失ってしまう。

かくして商店が人々の喜ぶものだけを店先に並べるように、 メディアはさまざまな商品を並べ始めた。
甘いもの・優しいもの・受け入れやすいもの本物そっくりのまがい物のダイヤ
人々の妬みや個人的な怒りを一身に集めてくれる生贄
そこに問題が生まれれば、今度はそれをまた売ればいいだけのことだ。


















2011.05.02

都が教員不足の宮城県に教員68人派遣へ


産経新聞 5月 1日]


 宮城県と東京都の両教育委員会は1日、被災した宮城県に都が教員68人を派遣することで合意した。大半は連休明けの9日付で着任し、来年3月末まで県内18市町の小中高と特別支援学校の計48校で勤務する。
 都教委の担当者は「宮城への第2陣や、岩手、福島両県への派遣も検討する」としている。都教委によると、都から被災地への教員派遣は初めて。都教委が被災地で働く意思のある人材を公募したところ、140人超が応じたという。
  宮城県教委によると、沿岸部からの転校生を受け入れた学校で学級数が増加。複数の校舎に分散して授業を行っている学校もあり、教員数の不足が続いている。 県教委の担当者は「子どもの心のケアのためにも、手厚い人員が必要な状態」と、引き続き全国から臨時教職員や非常勤講師を募集する。
 宮城県では、約1万7千人の教職員のうち、震災で15人が死亡、3人が行方不明となった。



 教員は真面目だから自分が役に立つと思えばどこへでも行こうという気になる。私の住む貧乏県だって募集をかければ応募しようという教員は少なくないはずだ。しかしおいそれと手を上げられない事情がある。
 それは
自分のクラスの担任教師がいなくなってしまう、という問題である。中学校の英語科教員だったら、いくつかのクラスの英語科の教科担任がいなくなってしまう、それでいいのか。
 いいわけはない。
 
 東京都の募集に対して応募した140人というのはどういう立場の人たちなのだろう。あるいは抜けた68人の枠を、都が臨時教員の採用で埋めてくれるという約束があってのことだろうか。
 いずれにしろ世界の小国の国家予算をはるかに上回る東京都の財政では、そういうことも可能だということなのだろう。

 いくら教員数・学校が多いとはいえ、日本の教育の水準を東京中心に考えられると困ると思うのは、こういう時である。

 
*5月4日になって次のような記事が出た。
 派遣先は、小学校35人、中学校19人、高校11人、特別支援学校3人。現地で住むアパートや炊飯器、洗濯機といった生活用品も都教委側が用意する。欠員が出た東京の学校は、教員免許を持った人を期限付きで採用するなどして補充するという。

 とりあえず問題となるのは派遣教員の給与を誰が払うのかということである。派遣先の県が払うとしたら高価な正規教員を出して安価な期限付きの教員を雇うということになり、結局は利益が出る。
 アパートや炊飯器、洗濯機といった生活用品も都教委側が用意する
 というのもその差額を利用してのことかもしれない。
 しかし世界に冠たる大東京、そこまで世知辛いことはしないだろう。
 全額、東京都が支出すると思う。

 さて、わが貧乏県でも5月2日の登校日には校長から東北へ行く気があるかどうかというご下問があった。最低一学期間、できれば1年間ということだが、クラスや教科を捨てて行けるはずもない。

 県教委としても、東北の教員不足にまるっきり反応もしないのもまずいから一応聞いてみて、その上で「調査したが希望の職員は一人もいなかった」と、まるで本県の教員に公徳心のかけらもないような発表をして済ませるしかないのだろう。

 情けないが貧乏とはそういうことだ。






























2011.05.10

教育と新聞・フィンランドに学ぶ
都留文科大学副学長 福田誠治


朝日新聞 5月 9日]


好きの国民である。南部のタンペレ市立図書館横には、写真のような銅像がある。知的関心が国民の間に広く行き渡っている様子がうかがえる。
 図書館には、その日に出た各地の新聞が何十種類もおかれており、さらにその日に届いた外国語の新聞も閲覧できる。図書館は「国民の居間」とも呼ばれ、くつろぎながら新聞や雑誌やマンガも読める。そんな図書館が人口比にして日本の5〜6倍はあり、国民の利用率も高い。
    ◇
 サービス業を中心にする先進国の仕事には、探究型の人間が求められる。「新聞を使った調べ学習」とよくいわれるが、「自ら学ぶ」とは、問題を自覚し、なぜかと考えながら答えになりそうなものを調べ、調べたことを比べて良さそうなものを選び出し、行動して確かめてみるという、ある種の問題解決にあたる。この力が学力なのだ。
 フィンランドでは、国の教育委員会が作成した教師向け解説書によると、学校で使う教科書は学習の道具のうち「強力なもの」「質のよいもの」と説明してある程度だ。学校では、教科書以上のことを教えてもよく、教科書に書いてあることを教えなくてもよい。教科書に書いてあることを覚えれば勉強が済んだと考えがちな日本とは大違いだ。
 今日では、経済協力開発機構(OECD)も世界銀行も中身の固定した知識は「死んだ知識」として、必要な知識を生み出す力こそを重視している。
    ◇
 1996年に「ヨーロッパ生涯学習年」を設定した欧州連合(EU)は、「いつでもどこでも学ぶ」「自ら学ぶ」という理念を広めている。その先進モデルが フィンランドであるが、この国は94年に学習指導要領を大転換した。「新テクノロジーの利用、自ら勉学することを追求する力、挑戦する心、責任感、協同する心」を育て、生涯学習に向け準備しようとしている。
 教科書のほかに新聞やインターネットを使い、新しい情報を探して自ら学ぶことが重視される。人それぞれ知識が違うのならそれぞれの良さを認め、順位を付けたりしない。義務教育期間には他人と比べるテストをしないというのも、フィンランド教育の特徴だ。
 国際化された現代では人間の多様性が認められ、異質な意見、異質な能力をもった人間が、それぞれのすぐれたところを組み合わせて協力していく社会が望まれている。学年を決めて国中誰でも同じことを学び、一つの正解を覚えるためにテスト競争するというような教育が限界にきていることははっきりしている。




 中曽根内閣の「臨時教育審議会」以来、「教育改革国民会議」だの「教育再生会議」だのさまざまな諮問機関が立ち上げられ次々と審議され提案されてきたが、ついぞ議論の俎上に乗らなかったことがある。それは、
「ほんとうに教育改革は必要なのか」という問題である。

 国際化された現代では人間の多様性が認められ、異質な意見、異質な能力をもった人間が、それぞれのすぐれたところを組み合わせて協力していく社会が望まれている。学年を決めて国中誰でも同じことを学び、一つの正解を覚えるためにテスト競争するというような教育が限界にきていることははっきりしている。
 このての言い分はずいぶん昔にも言われ、その結果生まれたのが「ゆとり教育」」であり「総合的な学習の時間」であったはずだ。ところが10年もしないうちに、「一つの正解を覚えるためにテスト競争」の重要さが叫ばれるようになり、あっというまに全国学力学習状況調査によって都道府県を競わせる仕組みがつくられてしまった。
 福田副学長はそうした事情を知らないのだろうか。

 そしてそれはとりもなおさず、「一つの正解を覚えるためにテスト競争するというような教育が限界にきて」いなかったことを証明しているのと同じである。限界が来ているなら、もうとっくに日本は破滅していなければならない。

 ところが実態はどうか。
 人口が10倍以上もいる中国には抜かれたとはいえ、日本は現在でも世界第3位の経済大国である。2011年3月期の貿易黒字は震災の影響もあって7割減だとも言われるが注意して欲しい「黒字が7割減」なのであって赤字にはならないのだ。
 今回の震災が明らかにしたことのひとつは、中国やアメリカが怒れば日本などひとたまりもないと思っていたのが、実は日本の一部が天災によって壊滅的な被害を受けるだけで、世界のあちこちで工業生産が止まってしまうという日本の底力である。日本は外国を恐れさせるに十分な技術力を今も保持している。
 また、震災当初から言われた日本人のユニークさ、危機への対応力、集団性、規律性、順法精神や思いやり、忍耐力と言ったもの、これらすべては日本の教育が作り上げてきたものである。
 

 小澤一郎は日本の軍備増強にからめて「日本を普通の国にする」と宣言したが、今回の震災を通して分かったように、日本を普通の国にしては絶対にいけないのである。
 
 教育改革はほんとうに必要なのだろうか。これだけうまくいっている日本の本体に深くメスを入れて、何を切り取り何を移植しようと言うのだ。
 






2011.05.26

大阪維新の会、君が代起立条例案提出へ


朝日新聞 5月25日]


 大阪府の橋下徹知事が率いる地域政党「大阪維新の会」の府議団が5月府議会で成立をめざす「君が代条例」の原案が判明した。教育現場での「服務規律の厳格化」を条例の目的に明示。政令指定市を含む府内の公立小中高校などの教職員に対し、学校行事で君が代を起立して斉唱することを義務づける。同会府議団は 25日午後にも議長に条例案を提出する方針。
 条例案の名称は「大阪府の施設における国旗の掲揚及び職員による国歌の斉唱に関する条例」。
 条例案は、1999年制定の国旗・国歌法や06年に改正された教育基本法、入学・卒業式での国旗掲揚と国歌斉唱を義務づけた学習指導要領の「趣旨を踏まえる」と定義。制定の目的には、府民とりわけ子どもが伝統と文化を尊重▽国と郷土を愛する意識の高揚▽府立学校及び府内の市町村立学校での服務規律の厳格化――などを掲げた。




 日の丸・君が代が国旗・国歌に制定されたときから、私は個人的にはこれに反対しなくなった。法律で定められたのだからそれでいい。国旗には敬意を表し国歌も歌う。しかしそれと「君がよ起立条例」は別である。
 私にはなぜ、
とりわけ子どもなのかが分からないのだ。
 それは私が国旗に敬意を表し国家を歌いながら、いつも感じる違和感にも通じることだ。
 学校の重要儀式で日の丸を掲げ君が代を歌うのは大切なことだし、国民をひとつにまとめる上で必要なことだ。しかし
なぜ学校と教職員だけなのだろう、そこが分からない。

「伝統と文化を尊重」「国と郷土を愛する意識の高揚」に学校と子どもだけが取りいくまなければならないのはなぜだろう。

 もちろん大阪府内で行われる儀式のすべて国旗を掲げ国歌を歌えとは言わない。
しかしせめて大阪府議会の開会式には全員で国歌を斉唱すべきではないか。そして歌わない議員は離職させるべきである。まず大人がやって見せるべきだ。
 さらに言えば私はまず、国会がその範をたれるべきだと思う。

 1989年ベルリンの壁が崩壊した瞬間、旧西ドイツの議会はまさに開会中だった。そこに壁崩壊のニュースが飛び込んでくると議員は与野党を問わず立ち上がり、高々とドイツ国歌を歌い上げた。

 国旗・国歌というものはそうでなければならないと思う。

 大人は
「伝統と文化を尊重」「国と郷土を愛する意識の高揚」もする必要はない、しかし子どもは必要だ、では話にならないだろう。大人にやらせられないものを子どもにやらせてはならない。それに「できることから始めよう」というとき、それが「弱いところから叩こう」では極めて不公平ではないか。

 大阪府の子どもたちは今回の件から何を学ぶだろう。
 注目しよう。