キース・アウト
(キースの逸脱)

2011年9月

by   キース・T・沢木

サルは木から落ちてもサルだが、選挙に落ちた議員は議員ではない。
政治的な理想や政治的野心を持つ者は、したがってどのような手段を使っても当選しておかなければならない。
落ちてしまえば、理想も何もあったものではない。

ニュースは商品である。
どんなすばらしい思想や理念も、人々の目に届かなければ何の意味もない。
ましてメディアが大衆に受け入れられない情報を流し続ければ、伝達の手段そのものを失ってしまう。

かくして商店が人々の喜ぶものだけを店先に並べるように、 メディアはさまざまな商品を並べ始めた。
甘いもの・優しいもの・受け入れやすいもの本物そっくりのまがい物のダイヤ
人々の妬みや個人的な怒りを一身に集めてくれる生贄
そこに問題が生まれれば、今度はそれをまた売ればいいだけのことだ。


















2011.09.13

いじめ「増加」のワケは……
筆者:渡辺敦司

Benesse教育情報サイト 9月12日]


 夏休みが明けて、もしかしたら中には、学校に行きたがらないお子さんもいらっしゃるかもしれません。先月発表された文部科学省の「問題行動調査」でも、不登校の児童・生徒は減っているものの、いじめの件数が増加に転じたといいますから、心配にもなりますよね。ただ、こうした調査の結果を見る時、少し注意が必要です。
 文科省の発表資料を見ると、いじめ件数の経年変化に関しては、1985(昭和60)〜93(平成5)年度、94(同6)〜2005(同17)年度、 06(同18)年度以降という、三つの表に分かれています。これらを一緒にしたグラフもあるのですが、それぞれの間には、丁寧にも波線が引かれています。 というのも、三つの時期で「いじめ」の定義が違っているため、単純な比較ができないからです。

 1993(平成5)年度までのいじめの定義は、
「(1)自分より弱いものに対して一方的に、(2)身体的・心理的な攻撃を継続的に加え、(3)相手が深刻な苦痛を感じているものであって、学校としてその事実(関係児童生徒、いじめの内容等)を確認しているもの。なお、起こった場所は学校の内外を問わないもの」でした。
 それが、94(平成6)年度以降は、
「(1)自分より弱いものに対して一方的に、(2)身体的・心理的な攻撃を継続的に加え、(3)相手が深刻な苦痛を感じているもの。なお、起こった場所は学校の内外を問わない」に変わりました。
 一見、読み飛ばしてしまいそうな違いですが、「学校としてその事実を確認しているもの」という一文が削除されています。当時、頻発したいじめ自殺事件などで、学校側がいじめの事実を把握していなかったことを反省しての、定義変更でした。

 さらに06(平成18)年度からは、「当該児童生徒が、一定の人間関係のある者から、心理的・物理的な攻撃を受けたことにより、精神的な苦痛を感じているもの。なお、起こった場所は学校の内外を問わない」とされました。これも当時、児童が自殺した理由をいじめとして報告していなかった教育委員会があったこと が発覚したのを受けての措置でした。
 またこの時から、いじめの件数を、「発生件数」から「認知件数」へと呼び方を変えています。個々の行為がいじめに当たるかどうかの判断は、「表面的・形式的に行うことなく、いじめられた児童生徒の立場に立って行うものとする」とされたからです。

 今回の調査では、06(平成18)年度以降、初めて認知件数が増えました。ただ、これは、いじめ自体が増えたというより、去年の文科省通知で、全学校でのアンケート実施などを含めた「総点検」が行われた結果だとみられます。つまり、より丁寧な把握が行われたため、いじめの「認知」も増えたというわけです。
 しかし本当に重要なのは、いじめが「認知」されたあと、学校がどう対応するかでしょう。さらに言えば、いじめが発生しにくい、あるいは、発生しても深刻化する前に問題が解決するような、普段からの人間関係づくりが肝要です。調査結果を、個々の学校がそうした取り組みをも総点検するきっかけとして、受け止めたいものです。


 06(平成18)年度以降、いじめの認知件数が増えたのは、
去年の文科省通知で、全学校でのアンケート実施などを含めた「総点検」が行われた結果ではない。

 渡辺氏が最初に自ら言っているように、
「いじめ」の定義が違っているためである。
 では定義のどの部分によって認知件数が増えたかというと、それはまさに、

「いじめられた児童生徒の立場に立って行うものとする」

 からだ。
 これには注釈もあって、わざわざ
『いじめられた児童生徒の立場に立って』とは、いじめられたとする児童生徒の気持ちを重視することであるとある。

 つまり、客観的状況の如何に関わらず、いじめられたとする(つまりいじめられたと感じた、いじめれたと叫んだ)児童生徒の気持ちを重視して判断しなさいというのだ。「いじめられた」と言う子がいたらその子はいじめの被害者であって、そこには必ず加害者が存在するのである。

 かつて大阪府知事だった横山ノック氏はセクハラ疑惑で新聞記者に追求された時、大声で「お前ら、大阪府知事をいじめて楽しいんかい!」と叫んだ。

 当時はアホな発言だと思ったが、06(平成18)年度定義ではこれは新聞記者たちによる明らかないじめである。定義から外れているのは「児童生徒が」だけであって、他の点ではすべて定義に合致するからだ。
 ちなみに「児童生徒」を「者」に置き換えると次のようになる。

 個々の行為が「いじめ」に当たるか否かの判断は、表面的・形式的に行うことなく、いじめられた者の立場に立って行うものとする。「いじめ」とは、「当該者が、一定の人間関係のある者から、心理的、物理的な攻撃を受けたことにより、精神的な苦痛を感じているもの」
 ノック氏の事件は明らかにこれにあたる。
 しかしそれでいいのだろうか?

 また、注釈には、
けんか等を除くとあるが客観的にけんかであっても、一方が「いじめられたとする児童生徒」になった(つまりいじめられたと言った)場合はいじめになる。とにかく「いじめられた」と叫べばそれで勝ちなのだ。

 さらに注釈は
「物理的な攻撃」とは、身体的な攻撃のほか、金品をたかられたり、隠されたりすることなどを意味すると普通なら刑事事件になるべき恐喝や窃盗まで「いじめ」に入れてしまうから、これでいじめが増えないわけはない。

 渡辺氏は重ねて言う。
 しかし本当に重要なのは、いじめが「認知」されたあと、学校がどう対応するかでしょう。
 マジか?

・「物理的な攻撃」とは、身体的な攻撃のほか、金品をたかられたり、隠されたりすることなどを意味する
・起こった場所は学校の内外を問わない


 渡辺氏の説によれば、
家庭で起こったことであろうと地域で起きたことでろうと、恐喝事件であろうと窃盗であろうと、すべては学校の責任において解決を図らなければならない、それが現代のいじめなのである。

「いじめでは、いじめる側といじめられる側が一夜にして入れ替わることがある」というのは良く知られた事実であるが、この場合も先に「いじめられた」叫んだ方が被害者で叫ばなかった方が加害者なのだ。

 世界は恐ろしく単純化されていく。







2011.09.15

日本の先生、働き過ぎ? 事務作業長く OECD調査


朝日新聞 9月14日]


 日本の先生は先進国の中で勤務時間が長いことが、経済協力開発機構(OECD)が13日に発表した調査結果から明らかになった。ただ、長いのは授業ではなく、事務作業の時間。負担が重い一方で給与は減る傾向にあり、教員の質を確保する手立てが課題になっている。
 調査によると、日本の小学校の先生の勤務時間は、2009年の時点で年間1899時間。データのある調査対象国21カ国の中で米国に次いで2番目に多 かった。ただし授業に費やす時間は707時間で、OECD加盟国の平均を72時間下回っており、授業以外の事務作業などの時間が勤務時間数を押し上げていることがうかがえる。
 一方で給与をみると、05年の水準を100とした場合、平均は7ポイント上昇していたのに対し、日本は5ポイント下がっている。OECDの調査担当者は「日本は仕事の負担は重いが、報酬は恵まれていない。優秀な人材が集まり教員の質を上げるような対策が必要」と話す。



「図表でみる教育(Education at a Glance)OECDインディケータ」は毎年出される統計だが私は毎年首をかしげている。
 まずその一点目だが、
 
授業に費やす時間は707時間
 これはどこから導き出される数字なのだろう。

 学習指導要領の規程では、小学生の授業時数は1年生から6年生までそれぞれ850時間、910時間、 945時間、980時間、 980時間、 980時間となっている。これを平均すると941時間である。ただしこれは45分授業における時間数なので、
普通の1時間に換算すると706時間となり、だいたい数字としては合ってくる。しかしそれでも問題は残る。

 小学生は1日何時間の授業を受けているかご存知だろうか? 私の学校の場合1年生は週24時間、2年生が25時間、3年生が28時間で、4年生以上は29時間である。平均すると27.3(授業)時間である。普通の時計に換算すると20.5時間になる。
 ここから、日本の小学生は1年に何週間登校しているか計算してみる。

 先ほど年間の授業時数は706時間と計算した。これを週の時数20.5時間で割ると答えは34.4週間。つまり8ヶ月なのである。計算上、日本の子どもは8ヶ月勉強して4ヶ月休んでいることになる。
 しかしそうではないだろう。
 実は制度上「これだけはやりなさい」と決められた時数は706時間だが、実際にはそれ以上の時間を授業として行っているのだ。

 私の学校の場合、実際の授業時数は1年生から6年生まで、977時間、1025時間、1153時間、1199時間、1172時間、1190時間。平均で1119(授業)時間となる。普通の時間で838.5時間だ。
 確認のため、これを先ほどの週の平均授業時間20.5時間で割ると40.9週間。こうなると現実の、10ヶ月学校に通って2ヶ月の長期休業に、ほぼぴったり合ってくる。
 
実は日本の教員は、OECDの統計(形式的授業時数)の1・58倍も授業をしているのである。
 
 第2に、
 授業以外の事務作業などの時間が勤務時間数を押し上げている
の「事務作業」の問題である。事務作業の中身について、十分な説明ができていない。

 一般の人はこの「事務作業」にどんなイメージを持っているのだろう?
 成績処理、学年だよりの作成、学年費の会計……もちろんそういうものもある。しかしそれ以上に大きいのが
会議と行事計画と授業準備なのだ。
 
 会議が学校の最重要な要素である。
 学校は職員の合意の上に成立している。
例えば問題を抱える児童生徒について、担任一人が承知していればよいというわけにはいかない。全職員がその子について知り、ことあるごとにバックアップしアイデアを出すようにしなければ子どもは育たない。そこで必然的に、会議は増え長引く。
 職員会議、学年会議、生徒指導会議、学校運営委員会、教科会、授業研究会、各種係会(東日本大震災があった今でも「防災委員会などいらない」という人はいないだろう)………。
 上からは「会議を減らせ」としつこく言ってくるが、実際に減らしてみるとあちこちで不都合が出てくる。
 
 行事の計画も教員の特殊な仕事だ。
 学校の行事のひとつひとつにはすべて教育的意義がある。例えば運動会ひとつとっても、去年と同じものを同じようにやればいいというものではない。ダンスの曲選びや振り付け、綱引きの工夫などやることは山ほどある。
 修学旅行計画と下見、社会見学の計画、講演会の準備や、学校園の管理、外部指導者との折衝・・・・・・。中学校では部活の練習計画、引率計画、大会参加等が加わる
 行事の計画をなくしてしまうと学校は何もできなくなるし、事務長といった新しい職をつくって果たせる内容でもない。

 もちろん授業準備が重要なのは言うまでもないことだ(実はこの「授業研究」が最も時間を食っているという場合が少なくない。特に小学校の場合は何科目も同時に教えているため予習に時間がかかる。理科などはいちいち予備実験をしないと授業に入れない)。
 
 こうしてみると
「事務作業」は教育内容のそのものだと言える。これを削減すると内容が減ってしまう。
 しかしそれでもなお事務作業を減らし、授業時数を増やせという考え方はあるだろう。

 あんな大げさな運動会や音楽会、修学旅行をやっている国などいったいくつある? 心の教育、健康教育、生きる力だの、学校は教えることが多すぎる。
「津波てんでんこ」などと言って釜石の防災教育をもてはやすのではなく、避難訓練を5回も6回もやるのはやめて、もっと算数や国語をやるべきだ
・・・といった威勢のよいことを主張するマスメディアはないものか


「日本は仕事の負担は重いが、報酬は恵まれていない。優秀な人材が集まり教員の質を上げるような対策が必要」
 ここにのみ、私は賛成しよう。







2011.09.22

死ねば宿題せずにすむ」…中国で小学生3人が宿題を苦に自殺未遂


サーチナ 9月21日]


 宿題が終わらず学校で罰されるのを苦にして、中国・江西省の小学生3人が19日、一緒に飛び降り自殺を図った。病院に運ばれ一命は取り留めたが、骨折や 打撲など大けがをして入院している。地元紙の江南都市報などが報じ、「今の中国の教育に問題がある」など全国的な反響を呼んでいる。
 江西省九江市廬山区賽陽鎮で19日、地元の小学校に通う5年生と6年生の女子児童3人が、宿題が終わらなかったため学校で罰を受けるのを苦にし て登校せず、民家の2階から一緒に飛び降り自殺を図った。3人は救急病院に運ばれて一命を取り留めたが、背骨や足を骨折したり内臓を損傷する重傷を負って 入院している。
 「死ねば宿題をしなくてすむ」――それが自殺の動機だった。児童の1人は、「実は死ぬのは怖かったが、学校の先生に叱られるのはもっと怖かっ た」と話す。児童によると、毎日大量の宿題が出され、していかないと教師にぶたれたり、罰として教室の外か校門の外に立たされるという。
 3人が通う小学校の校長は、「偶発的な事件」だとの見方を示し、「体罰」も否定した。宿題の量については、「1日あたり1時間で終わる量で、週末だったので3時間分出されていた。多いとはいえない」と説明した。
 地元紙の報道がネットを通じて伝わると、「社会への警鐘だ」「何がそこまで子どもを追いつめたのか」「問題は今の中国の教育と教育制度にある」など全国的な反響を呼んだ。
 ニュースサイトの鳳凰網は、「小学生の価値観は混乱しているが、こうした認識を持ってしまうことが今の教育の問題だ。宿題だけで評価を決めるのは、児童にとって心理的に大きなストレスとなっている」と中国の“スパルタ教育”を批判した。(編集担当:阪本佳代)



 恐ろしい国である。

 中国がではない。こんな中国と学力で勝負しようという日本が、である。