キース・アウト
(キースの逸脱)

2011年10月

by   キース・T・沢木

サルは木から落ちてもサルだが、選挙に落ちた議員は議員ではない。
政治的な理想や政治的野心を持つ者は、したがってどのような手段を使っても当選しておかなければならない。
落ちてしまえば、理想も何もあったものではない。

ニュースは商品である。
どんなすばらしい思想や理念も、人々の目に届かなければ何の意味もない。
ましてメディアが大衆に受け入れられない情報を流し続ければ、伝達の手段そのものを失ってしまう。

かくして商店が人々の喜ぶものだけを店先に並べるように、 メディアはさまざまな商品を並べ始めた。
甘いもの・優しいもの・受け入れやすいもの本物そっくりのまがい物のダイヤ
人々の妬みや個人的な怒りを一身に集めてくれる生贄
そこに問題が生まれれば、今度はそれをまた売ればいいだけのことだ。


















2011.10.05

中学教頭、380万円入りバッグ置き忘れる


読売新聞 10月 5日]



 千葉県袖ケ浦市は4日、市立昭和中学校(生徒481人)の男性教頭(52)が、市内の郵便局に給食費など約380万円入りの手提げバッグを置き忘れ、紛失したと発表した。木更津署は窃盗事件として捜査している。
 発表によると、男性教頭は3日午後1時50分頃、生徒から集めた給食費や校外学習の積立金など約380万円を手提げ バッグに入れ、近くの信用金庫の口座に振り込むために外出。同2時25分頃、私用で立ち寄った郵便局のATM(現金自動預け払い機)コーナーにバッグを置き忘れたという。学校に戻った同3時頃、忘れたことに気がつき、郵便局に電話したが、すでにバッグはなくなっていた。バッグには振り込み用の通帳6通も 入っていた。
 同市教育委員会は、「今後このような事態を起こさないよう、現金を持ち歩く際には、複数の職員で対応する」とコメントした。




 信用金庫に行くつもりで学校を出て、私用で郵便局ATMの前に立ったら本来の目的を忘れてしまった・・・・・・たぶんそういうことなのだろう。
 教頭という職は激務だから、ままそういうこともあるかもしれない。

 もちろん許されていいことではない。
 しかし
 今後このような事態を起こさないよう、現金を持ち歩く際には、複数の職員で対応する
って、いったい誰がついていくのか? 

 学校運営の要である教頭が学校を空けなければならないのは、他に信用金庫に行ける職員がいないからだ。
 市教委としてはそう言わざるを得ないのかもしれないが、給食会計の事務など、本来は教員の頭(かしら)である教頭の仕事ではないと思うが。







2011.10.19

小中3校通知表ミス 小田原で延べ83人…神奈川


読売新聞 10月15日]



 
評定欄が空白/◎が○
 神奈川県小田原市内の小学校2校と中学校1校で、通知表の評定や所見などの記入ミスがあり、昨年度と今年度で児童、生徒延べ83人について評価の一部が誤っていたことが分かった。
 いずれも担任のパソコンの操作ミスによるもので、既に訂正した。市教委は「あってならないこと」として、改めてパソコン操作などの指導を強化するという。
 市教委によると、記入ミスがあったのは昨年度前期に小学校2校、今年度前期に中学校1校。
 小学校の1クラスでは延べ28人について、◎、○、△の3段階の評定で、◎が○になったり、○が◎になったりする誤記入があった。教科は体育と図工だった。別の小学校では1クラス40人の家庭科と外国語活動の評定欄が空白になっていた。
 中学校では、15人について係名と所見欄の誤記入があった。同校の別のクラスでは、受賞欄の記入ミスが2人分あったが、担任が通知表を渡す直前に気づき、書き直したという。
 3校はいずれも、教頭と担任らが各家庭を訪問し、謝罪したうえで正しい通知表を渡した。3校とも、記入ミスに気付いた後、市教委に報告書を提出していた。
 市教委によると、通知表の記入でのパソコン使用は、各校、各教諭の判断で行われており、最近増えているという。今回、3段階評定で誤記入した小学校の担任はパソコンでの記入は初めてだったといい、同校の校長は「指導と確認作業を強化していく」と話している。




 高校入試の調査書の場合、成績の公正を証明するためにさまざまな方法が取られている。しかし通知票については厳格な基準がない。極端に言えば
校長の裁量によって通知票そのものをつくらなくてもいいのだ。
 中学校の場合は最終的に調査書と符合しないと生徒や保護者に謝ったメッセージを与えるので、早い段階からテストの成績などが厳密に反映するように作成する。しかし小学校の場合は教師の意図がかなり入り込み操作が行われる。そうしなければ子どもは育たないからだ。
 全30項目のうち△が25項目といった成績を持ち帰り、それでも傷つかずにいられる子どもは少ない。その意味で通知票は評価ではなく、子どもを伸ばすための(それもかなり有効な)手段なのである。
 その程度のものがこれほど重大にあつかわれていいものだろうか。
 
市教委は「あってならないこと」として、改めてパソコン操作などの指導を強化するという。
 
 子どもが自殺しても市教委は「あってはならないこと」というだろう。佐世保事件のように児童が同級生を殺しても「あってはならないこと」だというに違いない。
 通知票のご記入はそれと同等の大罪なのか全国に発信すべき罪悪なのか。「間違えましたすみません、書き直します」では許されないことなのか。
 
 国会では平野大臣の
 「私の高校の同級生のように逃げなかったばかなやつもいる。彼は亡くなったが」
 という発言が問題視されている。
 もちろん良いことではない。
 しかしそこに込められた痛恨の思いは、普通の日本語を話すものならすぐに理解できよう。
 その言葉を、自分の肉親をバカにしたものとして聞く人がいる可能性に心が向かなかった点は、確かに感心できるものではない。しかし国会を停めて追及し、辞任を迫るほどのものではないだろう。国会にはもっと大事な、そして喫緊のしごとがあるがはずだ。
 
 しかしこの国はいよいよ偏狭になりつつある。他人のどんな些細なミスも許さない。常に一罰百戒でたたかなければ気のすまない国になってしまったようだ。
 
* しかしそれにしても、いくらでも操作の効く通知票の誤記入がなぜばれたのか? そう思って記事を読み直したら、何のことはない、学校が自ら市教委に報告書を提出しているのだ。
「◎が○になったり、○が◎になったり」など黙っていれば分からないのに。
「教師は世間知らず」という言い方にいつも抵抗してきた私だが、こういう記事を見るとほんとうに「世間知らずだなあ」と思ったりする。

 ところで教師の気づかなかった誤記入は、今どうなっているのだろう。







2011.10.22

<教員免許>国家資格化を検討 文科省が今年度中に方向性


毎日新聞 10月21日]



 文部科学省は、都道府県が発行している教員免許について、医師などのように国家試験を経て取得する「国家資格」へ見直す検討を始める。教員の資質と能力 の最低基準を国が保証し、信用を高める狙いがある。中央教育審議会(中教審)の特別部会に設置する有識者のワーキンググループ(WG)で実現の可能性を探り、今年度中に方向性をまとめる。

 現行の教員免許は、小学校や中学校など学校種別に区分。学生が教育の基礎理論や教育実習の教職課程(小中高は59単位以上)を履修すると、都道府県教委から免許状が授与され、採用試験に合格すると教壇に立てる。

 教職の単位認定は各校に任されているため、教育内容や履修の実態が見えにくい。さらに、08年度に小中高の教員免許を取得した学生らは計13万4470 人(文科省調べ)に上ったが、09年度に教員に採用された新卒者は1万1951人(同)にとどまり、免許状の形骸化も進んでいる。国家資格になれば、教員免許を取る学生の質の向上が見込まれる一方、現行の免許との整合性や試験のレベル、実施の財源などハードルもある。

 WG座長の横須賀薫・十文字学園女子大学長(教育学)は「国家資格にすることで、教員の資質と能力の基準がよく見えるようになる」と指摘。医師など既存の国家試験を参考にし、全国共通の資格試験のあり方を探る。【木村健二】



 誤解がないように言っておくが、国家資格とは「法律に基づいて国や国から委託を受けた機関が実施する資格」である。したがって教育職員免許法(昭和二十四年五月三十一日法律第百四十七号)よって定められた教員免許は国家資格であり運転免許同様、全国で通用する。

 ただ記事によれば文部科学省は「免許取得のための試験がなく教職の単位認定は各校に任されているため、教育内容や履修の実態が見えにくいところに問題がある」と考えたらしい。
 試験がないから免許のレベルが保てない、ということなのだ。

 それはその通りだと思う。免許取得者の底辺はかなり低い。
 したがって、
 国家資格になれば、教員免許を取る学生の質の向上が見込まれる
 というのもたぶんその通りだが、ところで、
 
教員免許を取る学生の質の向上がなぜ必要なのだろう。

 
問題は教員免許を取る学生の質の向上ではなく、教員になる人間の質であるはずだ。


 08年度に小中高の教員免許を取得した学生らは計13万4470 人(文科省調べ)に上ったが、09年度に教員に採用された新卒者は1万1951人
 つまり、
全体の91%にあたる成績の低い免許取得者や教職につく気のない免許取得者は、全員教員になっていないのだ。これで十分質は確保できるはずだとおもう。
 

 しかしそれでも足りない、もっと厳しくすべきだというなら、免許取得者をどの程度にすべきなのか。旧司法試験と同程度の3%ほどか(新司法試験は2011年で23・5%)。

 現在の免許取得者から計算してその3%だとすると4034人。かなり優秀な人材が揃えられる。
 しかしそうなると
採用者は09年度の1万1951人をカバーできない。その差7917人をどうするのだろう。

 
 それでは困るから合格率を10%ほどにする(現在の教員採用試験より2倍も楽だ)と、今度は別の問題が出てくる。
 
苦労して国家試験に合格しても、採用試験で半分以上が撥ねられてしまう。こうなるとアホらしくてやっていられない。

 医師も弁護士も公認会計士も一度の試験でその職につける(医師については医学部受験の段階で大きく選別されるため、国家試験が楽になっている。2010年度末の試験で合格率89・3%)。
 教職だけ厳しい試験を二度もクリアしなければならないとしたら、誰が受験するものか。
 
結局、教職希望者が激減して教員の質は下がる(か成り手がなくなる)。


 そもそも教員に医師や弁護士並みの優秀者が来ないのは、試験がないからではない。
 
人より勉強のできる頭のいい人たちが教職より医師や弁護士、その他の職業を選んでしまうからだ。
 ではなぜ医師や弁護士は人気があって教職はないのか。これは100人に聞けば100人とも同じ答えをだすだろう。
 「だって医者や弁護士は収入もステータスもぜんぜん上だもン」
 
この分かりきった部分に背を向けては何も始まらない


 教員の収入を医者並みに上げれば、それだけで人材が戻って来る。さらに希少性を生みだすために教員の数を今よりグンと減らせば否応なくステータスは上がる。
 
 2008年12月31日の全国の届出医師数は28万6699人、2011年1月1日時点での日本の弁護士数は3万447名である。しかし高校以下の教員(幼稚園を含む)は2007年で102万2205人もいるのである。これではステータスも何も会ったものではない。
 弁護士の並みとは言わない、せめて教員の数を医者並み、今の4分の1にできないか。そうすれば給与もとりあえず4倍にでき、給与とステータスの両方を同時に高めることができる。

 かくして教員の世界は医者や弁護士並みの強力な布陣が整う。
 ただしそのとき、教室には1クラス最大140名(35名の4倍)という大量の児童がうごめくことにはなる。
 
 
 そんなことより今のままの方が、人材を集めるという点でははるかに有利だ。にもかかわらず国家試験をやりたいという。
 中央教育審議会(中教審)の特別部会に設置する有識者のワーキンググループ(WG)の人々の頭の中には何かとんでもないことが浮かんでいるに違いない。
 

*(教員にならない学生も含めて)教員免許を取る学生の質の向上がなぜ必要なのだろう。それが最初の疑問だった.
 そして長々と考えているふと思ったことがある。

 免許の質の保証を求めているのは学校ではない。学校の教員の質は採用試験が担保しているからだ。 
 免許の質が保証されなければ困るのは学校以外で教員免許をあてにしなければならない人たち、つまり予備校や塾に関わる産業の人たちなのだ。
 文科省はそうした業界からの圧力に応えようとしているのかもしれない。

 国家試験によって塾講師の質が保障され、さらに国家試験によって教員志望が減って上位の質が落ちれば、予備校・塾産業の未来は確実に明るくなるのだから。