キース・アウト (キースの逸脱) 2011年12月 |
by キース・T・沢木
サルは木から落ちてもサルだが、選挙に落ちた議員は議員ではない。 政治的な理想や政治的野心を持つ者は、したがってどのような手段を使っても当選しておかなければならない。 落ちてしまえば、理想も何もあったものではない。 ニュースは商品である。 どんなすばらしい思想や理念も、人々の目に届かなければ何の意味もない。 ましてメディアが大衆に受け入れられない情報を流し続ければ、伝達の手段そのものを失ってしまう。 かくして商店が人々の喜ぶものだけを店先に並べるように、 メディアはさまざまな商品を並べ始めた。 甘いもの・優しいもの・受け入れやすいもの、本物そっくりのまがい物のダイヤ。 人々の妬みや個人的な怒りを一身に集めてくれる生贄 。 そこに問題が生まれれば、今度はそれをまた売ればいいだけのことだ。 |
児童生徒が避難した鵜住居小(左奥)と隣接する釜石東中は3階まで津波が達し、体育館(手前)も崩壊した(2011年3月20日撮影) 「津波が来るぞ」。ただならぬ激しい揺れが収まると、大声を上げながら最初に走り出したのは、部活動などでグラウンドに出ていた生徒たちだったそうです。 3月11日午後2時46分、マグニチュード9の巨大地震による激しい揺れで、岩手県の釜石市立釜石東中学校の校内放送は停止したため、「逃げろ」という先生たちの指示は伝わりませんでした。 しかし、先頭切って駆けだした生徒たちを追うようにして、校内にいた生徒たちも避難場所に指定されていた高台のグループホームを目指して走り出しました。 隣接する鵜住居(うのすまい)小学校の児童たちも、校舎の中にとどまってはいませんでした。これまで何度も合同避難訓練に取り組んできた中学生たちが高台を目指す姿を見ると、階段を走り降り、校舎を飛び出してその後を追ったのです。 そして、互いに励まし合いながら、高台を目指して子どもたちが走り去って間もなく、釜石東中、鵜住居小の校舎は津波の直撃を受けました。間一髪だったのです。 釜石東中、鵜住居小にとどまらず、釜石市内では約3000人の小中学生のほとんどが押し寄せる巨大津波から逃れて無事でした。この「奇跡」を支えたのが、「想定を信じるな」「最善を尽くせ」「率先避難者たれ」の「避難3原則」。同市で防災教育の指導にあたってきた群馬大学教授の片田敏孝さんが提唱し、小中学校の先生たちと一緒に子どもたちに教え続けてきました。 片田教授の元々の専門は土木工学。防災教育と本格的に向き合うきっかけとなったのは、2004年のインド洋津波の被災地調査に参加した時に目の当たりにした光景だったそうです。 犠牲者約23万人という数字だけでは表すことができない惨禍に戦慄し、思ったそうです。「日本で起きると、大変なことになる」。そして、「子ども たちを決して死なせてはならない」という片田教授と先生たちの思いが、子どもたちの頑張りにつながり、「奇跡」を起こしたのです。 世界で起きるマグニチュード6以上の地震の約2割が、国土面積が世界の0.25%に過ぎないこの島国に集中しているという現実から、私たちは逃れることはできません。専門家の知恵と知見が、全国にくまなく張り巡らされた教育というパイプを通じて地域に注がれれば、地域の、そして日本列島全体の防災 力は、着実に向上していくはずです。 「奇跡」を起こした教育を、一刻も早く全国に広げ、「奇跡」の「日常化」を図っていかなければなりません。 (編集委員 堀井 宏悦) 教員たちは何をやっていたのか。 この記事を読んでまず疑問に思うことはそれだろう。 教師たちが児童生徒を置いて勝手に車で逃げたとしたらそれは大問題である。そうではなく、子どもたちの自主的避難のあとを追って、一緒に高台へ向かったとしても問題だろう。なぜ誰も指示しなかったのか。何をしていたのか。 釜石市立釜石東中学校の校内放送は停止したため、「逃げろ」という先生たちの指示は伝わりませんでした。 たしかにそういった事情はあったかもしれない。しかし ただならぬ激しい揺れが収まると、大声を上げながら最初に走り出したのは、部活動などでグラウンドに出ていた生徒たちだったそうです。 先頭切って駆けだした生徒たちを追うようにして、校内にいた生徒たちも避難場所に指定されていた高台のグループホームを目指して走り出しました。 という事態は賢明な避難というよりはもはやパニックと言っていい。少なくとも校内にいる生徒は走り出してはいけない。 それは危険だと私たちは教えてきた。 隣接する鵜住居(うのすまい)小学校の児童たちも、校舎の中にとどまってはいませんでした。これまで何度も合同避難訓練に取り組んできた中学生たちが高台を目指す姿を見ると、階段を走り降り、校舎を飛び出してその後を追ったのです。 中学生に引きずられて小学生までもが階段を駆け降りる。361人の子どもが階段を走り下るという、地震以上に危険な状況が生まれていた。 しかも記事を見る限り、その間教員たちは何の指示も誘導もしていないのだ。 これを問題にしないほうがおかしい。 釜石東中、鵜住居小にとどまらず、釜石市内では約3000人の小中学生のほとんどが押し寄せる巨大津波から逃れて無事でした。と、全員が助かったからといいという問題ではないだろう。 読売新聞も他社も、子どもたちが自分たちの裁量で逃げなければならなかった過酷な状況を、まったく問題にしなかった。それはなぜか。 実は、教師たちは指示しなかったのではない。 少なくとも釜石東中の生徒はそう言っている(NHK「津波から生き延びる」〜釜石東中学校の報告)。 それによると、 揺れが収まり、先生方が、早く校舎から出なさいと叫んでいました。避難訓練のとおり校庭に行くと、皆が集まってきていました。そして、そこで聞こえた指示は、「点呼はいいから、すぐに『ございしょの里』に走りなさい」ということでした。 (『ございしょの里』についてから) 自分たちが整列点呼をして数分後、校長先生が次のように話しました。「ここは崖崩れがあるかもしれないから危険です。もっと高いところへ避難します。『やまざきデイケア』まで行くので、皆さん立ってください」。私たちも小学生もすっと立ち、 さらに上のやまざきデイケアに避難しました。 (そしてその後) 私たちがあとにしたございしょの里は、このあとに来る津波に完全にのまれました。もし、私たちがあのまま待機していたら、私たちも流されていました。あとから聞いたのですが、崖が崩れて危ないから、もっと上に避難したほうがいいとアドバイスしてくれたのは、近くに住むおばあさんだったそうです。 生徒たちは読売新聞の言うように勝手に避難していたわけではない。教師の指示に従い、地域の人々のアドバイスに従って行動していたのである。階段を駆け降りたわけでもない。避難訓練のとおり校庭に行ったのだ。 その整然と指示に従い小学生をかばいながら逃げる活動は、まさに訓練の賜物である。「津波てんでんこ」とはいえ、生徒たちは教師の指示を聞かなかったり、小学生を見捨てて走るようには教えられていなかった。すべては想定され計画され、それにしたがってきちんとやっただけなのである。 一方、釜石の数十km北の石巻ではまったく異なった事態が発生していた。石巻市立大川小学校の児童108人中74人が、一瞬にして命を落としたのだ。 大川小学校でも地震発生と同時に放送機器が使えなくなった。そのため教務主任が大声で校庭への避難を呼びかけた。避難完了とともに点呼をとり、人員を確認した。 問題はそのあとである。海岸から5kmの位置にある大川小学校の地震対応マニュアルには、二次避難の場所を「高台」としてあっただけでそれ以上のことはなかった。まさかそこまで津波が来るとは、誰も想定していなかったのだ。 それでも地震のあまりの大きさに不安を感じた職員は地元の人に尋ねたが、その人も「津波は絶対にここまでは来ない」という。ほとんど可能性のない(と考えられた)津波のために、ぬかるんで危険な裏山に登らせるのもためらわれた。しかしそれでも不安だったのか少しでも高い場所(二次避難の「高台」)へと、グランドより7mほど高い橋に向かって歩き始めたそのとき、川を遡った巨大津波が正面から折り返して襲ってきたのである。 釜石でも石巻でも学校が取った態度は同じだった。 マニュアルに従い、地元の人の意見を聞き、その上でよりよい道が探られた。しかし結果は残酷に明暗を分けたのである。 大川小学校の教員にアドバイスをした地元の人が悪かったわけでもない、すべては想定外であり、もし間違いがあったとするとその想定の自体が悪かったということになる。片田教授は「想定を信じるな」というが、例えば東京の八王子で「津波避難」の訓練をするのは愚かだろう。どこかで津波の限界を想定しなければ何もできない。 そこにこそ語り合うべき重要な問題がある。 読売新聞をはじめ「釜石の奇跡」を讃える新聞記事には残酷な粉飾がある。 片田教授の先見の明と児童生徒の自主性を際立たせようとするために、新聞は意図的に学校の存在を消していく。 その結果定着してしまったのは、 学校の指示に従わず逃げて助かった釜石の子どもと、指示に従ったばかりに死ななければならなかった石巻の子どもという対比である。 読売新聞の記事は、子どもたちが学校の指示に従う愚かさを強く印象付けようとしている。しかし今後の防災教育を考える上で「教師の指示に従うな」は正しいメッセージなのだろうか。 読売新聞社の見識を問う。 【参考】 *なお、大川小学校については主として「なぜ大川小学校だけが大惨事となったか」(中央公論 7月20日)を参考にした。 静岡県と市町の教育長らによる「県・市町教育委員会代表者会」の会合が19日、初めて県庁で開かれ、各市町の不祥事対策の現状が報告された。 この日の協議で、来年度以降も定期的に会合を開き、教育問題について話し合うことが決まった。 代表者会には、県教委の委員長、教育長のほか、静岡、浜松、沼津市などの教育長ら10人が出席した。 出席者からは「不祥事を起こした先生は『とてもいい先生だ』と言われていたりする。これまでも研修を行ってきており、今後、何をやっていけばいいか見えない」と戸惑う声や、「教員たちには『これがセクハラにあたる』『あたらない』といった感覚のズレがある」などと問題点を指摘する意見が相次いだ。 一方、富士市の佐野武男教育委員長は「企業では、競争の中で危機感を持って仕事をしているが、学校は倒産することがない。競争心を持って『学校を良くしよう』という意識を取り入れては」と提案した。 県教委の安倍徹教育長は「教員は圧倒的優位の人間関係の中で、自分が優れているという誤解を持ちやすい。至らないところを自覚しながら生徒に接することが一人ひとりを大切にしていくことにつながる」などと話した。 何が違っているような気がする。 そもそも、 教員は圧倒的優位の人間関係の中で、自分が優れているという誤解を持ちやすい というのは何時代の話かと思う。 私が知っているのは、生徒に気を遣い保護者に気を遣い、給食費を払ってくれと頭を下げ、今日は学校に来ていませんがどうしましたかと電話口で尋ねる、本来はそうであってはならないほどに惨めな教師の姿だ。もちろん高飛車に出ることもあるが、それは十分に根回しをした上でのことであって、何の用意もなくそんなことをしても誰もいうことをきかない。 いったいこの世の中に6歳児を「さん」付けで呼ぶ人間がどれほどいるか、怒る時も「さん」付けという滑稽は学校の中にしかないと思う。
こんな状態で圧倒的優位もあったものではない。 さらにまた 企業では、競争の中で危機感を持って仕事をしているが、学校は倒産することがない。競争心を持って『学校を良くしよう』という意識を取り入れては それで、具体的にどうする。 教員が金や地位では動かないことは東京都の主幹制度を見れば分かる通りだ。近々小学校の副校長までなり手がいなくなるという。教員は出世も金もそんなに欲しくはないのだ。 あるいは、民間企業の競争活力を導入するために、全小中学校・高校を民間委託することができるか。 競争心を持って『学校を良くしよう』という意識を などとできもしないことを言って現場を混乱させることもないと思うが。 さて、結論を言おう、すでに事態は 競争心を持って『学校を良くしよう』という意識を取り入れては 至らないところを自覚しながら生徒に接することが一人ひとりを大切にしていくことにつながる などといった「教師の精神に期待」論ではどうにもならないところに来ている。 教師の地位をここまで落としておいて高い道徳性というわけにはいかないのだ。 ここまで来たら、教師を叩けば叩くほど、その弱い部分からボロボロと崩れていく。つまり教員の不祥事はなくならない。 もうすでに「万策尽きた」状況なのだから。 香川県東かがわ市の引田中学校(松木国彦校長)が1年生の宿泊学習で、入浴後全裸の生徒に教諭が体を拭けているかを確認する「水滴チェック」と呼ばれる指導を実施し、これに対し保護者の一部が近く学校側に「行き過ぎた指導」などとして、来年度以降の取りやめを文書で申し入れることが20日、分かった。 同校によると、本年度の宿泊学習は1年生50人が参加し、9月28日〜10月1日に五色台少年自然センター(高松市)で実施。夜の入浴時に、男子、女子 生徒とも同性の教諭が立ち会い、入浴のマナーなどを指導した。浴室の出入り口に教諭が立ち、入浴を終えた生徒の体を目視し、水滴が体に付着していればタオルで拭くように指示した。 申し入れを行う予定の保護者たちは、教諭がほぼ全裸状態の生徒の体を至近距離から見る行為を問題視し、思春期を迎えた生徒への配慮不足を指摘する。この指導は以前から行われており、宿泊学習に参加したがらない女子生徒もいるという。 松木校長は「入浴マナーの指導の一環と認識しているが、保護者から取りやめの申し入れがあれば、指導のあり方の見直しを検討したい」と話している。 説明不足なのか何なのか・・・、 保護者も「文書で申し入れ」などと物騒な話しにせず、何のための水滴調査か訊ねればよかったのだ。 保護者の一部というからには一人や二人ではないだろうが(一人二人でも“一部”には違いないが)、だれも理由を質さなかったのだろうか。それにそこまで思いつめ守らなければならない“思春期を迎えた生徒”というのも理解できない。 さて、 何のための「水滴調査」かというと、これは一度、何の指導もしないで入浴させて、そのあとの脱衣場を見ればすぐに分かる。脱衣場はとんでもない水浸しになっているのだ(指導してもそうなることがあるが)。 現代の子どもは公共の浴場の経験がほとんどない。したがって家庭で入浴するのと同じように風呂から出る。つまりずぶ濡れ状態で脱衣場に出てくるのだ(浴室から出るときはきちんと身体を拭いてくるんだよという指導を丁寧に受けてきた子どもが、どれくらいいるだろう)。 家庭だったら問題はない。足ふきマットの上でバスタオルを使えば、水滴を振りまくこともないからだ。しかし公共の浴場はそうではない。彼らは浴室のドアから自分の場所まで水滴を滴らせながら歩いて行く。その数400人だ(五色台少年自然センター最大収容人員)。そんなものが10人も20人も出てくれば、脱衣場の床はすぐに薄く水を張ったようになる(家庭の足拭きマットですらたった2〜3人でビショビショになるのだ)。 また施設(五色台少年自然センター)は最大400人が泊まれるから、引田中のあとの入浴者がかなわない。 いくら聞き分けのない保護者だって、「他の人がいくら迷惑をしてもかまわないからウチの子の肌を見ないでくれ」とは言わないだろう。これは説明をすれば済むことなのだ。 (もっとも松木校長も「入浴マナーの指導の一環と認識しているが、保護者から取りやめの申し入れがあれば、指導のあり方の見直しを検討したい」などと言わず、「だって脱衣場が水びたしになっちゃうんだから、しゃあないじゃん」と本当のことを言えばよかったのだ) しかし問題は保護者でも学校でもない。 意図的に世論をミスリードしようとしている四国新聞だ 取材に行って「水滴チェック」の意義を聞かないはずはない。 本来は学校が入浴の仕方まで教えなければならないという現実をこそ、問題にすべきなのだが、それでは「面白くない」と思ったのだろう。学校はこんなアホなことをやっていると、敢えて 全裸の生徒だの教諭がほぼ全裸状態の生徒の体を至近距離から見る行為だの生徒の体を目視だのといった言葉を使って煽る。 記事は面白くなくちゃあいけない。そのために香川の教育が滅びたって、そんなこたあ知ったことじゃないと、そんなところなのだろう。 今ごろ某巨大掲示板あたりでは、「変態教師の考えそうなこと」「どこまでスケベだ」などと書かれているのだろう。 宿舎で休んでいればいい時間を公共と生徒のために入浴指導に出て、その上「変態教師」呼ばわりでは、この仕事、なかなかやっていられない。 もっともこうしたアホな指導(バスタオルを身体に巻いて風呂に入るな、湯船に入る前に身体を洗え、髪を湯船に入れるな、タオルも入れるな、シャワーは他人にかからないように注意しろ、上がるときは一度十分に温まり、洗い場では固く絞ったタオルで身体を拭いてから脱衣場へ出ろ、そこでもう一度足の裏を拭け、濡れたタオルは洗面台で絞り、床や椅子を濡らさないように、それから身体をバスタオルで拭け・・・)を学校がしてきたからこそ、日本人は東日本大震災の際に世界に誇れる態度を取れたのだが。 *それでもなお息子の肌を見られたくない保護者がいるかもしれない。そうなったらもう、 @宿泊学習をやめる。 A入浴だけやめる。 B親が付き添いできてその後の脱衣場の掃除をする。 ・・・その中から選んでもらうのだな。(「教師が掃除やればいいジャン」の声が聞こえそうだけど) 2010年度にうつ病などの精神疾患で休職した公立学校の教員数は5407人で、18年ぶりに減少したことが22日、文部科学省の調査で分かった。病気休職者全体は8660人で、過去最多を更新した。 同省は「精神疾患休職者の減少は相談窓口設置や復職支援プログラムによる効果が出たとみられるが、依然として高い水準で、今後も対策を検討したい」としている。 公立の小中高や特別支援学校の教員約91万9000人を対象に休職者や処分者について調査した。 言うまでもなく休職者も、年を経るごとに延々と増加し続ければいつか教員総数を越えてしまうわけで、いかな過酷な職場とはいえいつか頭打ちになることは分かっていた。ここ数年、毎年300人、400人というレベルで増加し続けた精神疾患が昨年は58人増に留まったので、そろそろ頭打ちだろうと思っていたがやはりそうなった。そういうことだと思う。 精神疾患休職者の減少は相談窓口設置や復職支援プログラムによる効果が出たとみられる それはない。相談窓口設置や復職支援プログラムなどずっと以前からのことだ。特に「復職支援プログラム」は『最終処分』と陰口を言われるように、一種のイベントとなっている。これを終えて一度現場に戻り、そこでダメで退職に追い込まれる、そのための通過儀礼なのだと。しかもその復帰プログラムまでたどり着けない者もある。それほど心の傷は深いのだ。 希望に燃えて教職に就き、ズタズタにされてボロ雑巾のようになり、普通の人間としての生活もできない。 げに教職とは恐ろしいものである。
*1 08年から09年にかけて、全休職者および精神疾患を理由とした休職者の数が一気に十分の一程度に落ちている。いかに対応が整ったといってもこんなことがあるのだろうか。通常、統計上の異常な変化は基準の変更、または対象自体の変更によることが多い。調べておきたいことである。 *2 休職以外に療養休暇というものがあり、療休を使い果たした者だけが休職に追い込まれる。心を病む教員は休職者だけでなく、その数倍におよぶ療休者の中にもいる。恐ろしいことだ。 |