キース・アウト
(キースの逸脱)

2012年2月

by   キース・T・沢木

サルは木から落ちてもサルだが、選挙に落ちた議員は議員ではない。
政治的な理想や政治的野心を持つ者は、したがってどのような手段を使っても当選しておかなければならない。
落ちてしまえば、理想も何もあったものではない。

ニュースは商品である。
どんなすばらしい思想や理念も、人々の目に届かなければ何の意味もない。
ましてメディアが大衆に受け入れられない情報を流し続ければ、伝達の手段そのものを失ってしまう。

かくして商店が人々の喜ぶものだけを店先に並べるように、 メディアはさまざまな商品を並べ始めた。
甘いもの・優しいもの・受け入れやすいもの本物そっくりのまがい物のダイヤ
人々の妬みや個人的な怒りを一身に集めてくれる生贄
そこに問題が生まれれば、今度はそれをまた売ればいいだけのことだ。


















2012.02.05

ドクターZ/東大秋入学への期待と課題、そして不安


[現代ビジネス(週刊現代) 2月 5日]


 学部の春入学を廃止し、秋入学に全面移行する---東京大学が発表した素案が波紋を呼んでいる。国立大学の4割、私立でも早稲田、慶應など10大学が秋入学移行を検討しているそうだ。
 世界の大学は9月入学が主流で、国連加盟193ヵ国中、約6割の116ヵ国で採用されている。それに対して4月入学は日本、インドなど3%にすぎない。
 かつては日本も1872年から1920年までは9月入学だった。ところが、国から補助金をもらうためには国の会計年度と合わせたほうがいいという理由で4月入学になったようだ。では、なぜ国の会計年度は4月スタートなのかと言えば、秋は稲刈りで忙しく、年末年始は慌ただしいので相応しくなく、沖縄を除くと田植えが4月下旬に始まるから新年度として適当、ということだったらしい。
 そんな国の台所事情に合わせて、官僚養成を主な目的とする国立大学が春入学を採用したのだが、今回、官僚養成の大親分と言うべき東大が秋入学に変えると言い出した。これは、教育関係者にとって大事件だ。
 いまは東大も国際的な競争を強いられている。学部生に占める留学生の比率は米国ハーバード大10%、韓国ソウル大6%に対し東大は2%。要するに海外からの人気がないのだ。9月入学制度のある国際基督教大では留学生が増えたという。
 秋入学については、実は過去にも検討された。'87年には中曽根康弘内閣の臨時教育審議会が提唱し、'07年にも安倍晋三政権の時に政府の教育再生会議が大幅促進という方針を示した。
 だが、実現には至らなかった。社会的な環境が必要なのだ。例えば、高校が3月卒業のままであれば、9月入学までの半年間(ギャップターム)をどうするか。素案では多様な体験・活動を積むことで「寄り道」を求めている。企業の4月一括採用が変わらなければ、8月卒業から翌年4月就職までの間、学生側の経済的な負担が増すことになる。対策としては、経済界も通年採用の導入を進めるなど採用時期の柔軟化が必要だ。また、国家試験日程も4月入学が前提になっている。100年近く続いた制度・諸慣行を直すのは容易ではない。
 ただ、4月入学がお上に補助金をすがる体質の象徴とすれば、9月入学への移行はお上依存を脱するためのチャレンジと言える。秋入学移行で世界の有力大学と同じ条件になり、本当の競争に晒されることになるからだ。結果として東大は、留学生獲得競争で惨めな思いをするかもしれない。
 1月7日付で興味深い人事があった。文部科学省の局長が東大に現役出向し、理事に就任したのだ。局長と言えば定年を控えた大幹部。現役出向とは名目で、事実上の天下りだろう。'04年の国立大学法人化で文科省の内部組織から独立した東大だが、この人事は大学経営の専門家がいないことを白状したのも同然だ。
 もっとも、官僚出身者が効率的な大学経営を行うのはまず無理。これで国際的な競争の場に打って出るというのだから心許ない。
 '90年代初め、東大の完全民営化が可能かどうか、専門家に聞いたことがある。答えは「官僚が支配し、教師・職員も官僚のような組織で、不良人材(教師)も多いので、買い手はなかなかつかない。ただし、東京都文京区に土地を持っているのは評価が高い」というものだった。
 その後、地価はすっかり下落。完全民営化はますます遠のいた。秋入学への移行は5年後という。体質改善は間に合うだろうか。
「週刊現代」2012年2月11日号より




 何か新しい制度がつくられたり施策が行われる時、その真意が隠されることがある。
 東大の秋入学についてNHKは「世界大学ランキングにおける日本の大学の地位の低下」と「大学生の学力低下」を上げていたがそれは本意ではない。

 週刊現代はその点で真っ直ぐに核心をついてくる。

 学部生に占める留学生の比率は米国ハーバード大10%、韓国ソウル大6%に対し東大は2%。要するに海外からの人気がないのだ。

 ここがすべてである。要するに、
 
秋入試の目的はただ一つ、大学の国際競争の一部「留学生の獲得競争」において優位に立とうということである。それ以外にない。それがすべてだ(留学生の数が大学ランキングの評価項目に入っていることがあるから、ランキングの上昇も見込むことができる)。

 外国の優秀な人材によって日本の大学の研究を高め、その成果で経済を回そうというのである。
 日本の学生の取っては何のメリットもない。
 
 ただし、
秋入学だけで優位に立つことはできないだろう。問題の核心は国際語で授業が受けられるか、なのだからだ。
 世界大学ランキングで東大より上位にあるのはすべて英語で授業を行う大学である。
 
 
旧帝と呼ばれる一流国立大学および早慶・MARCHくらいまでは,すべての講義を英語で行うようにしなければ英米(世界ではない)の大学に対抗できない。

 秋入学の次に来るのはこれだ。

 かくて基本的に、日本人は二〜三流大へ、外国人は一流大へという時代への幕開けが始まる。
 
 
 




2012.02.08

気に入らない先生が…校内で包丁所持、中3逮捕


[読売新聞 2月 6日]


 3日午後3時15分頃、愛媛県東温市内の女性から「中学生の息子が包丁を持ち出した」と110番があった。
 約15分後、中学の教諭が校舎内で包丁(刃渡り約18センチ)を持って歩いていた3年の男子生徒(15)を見つけ、駆けつけた愛媛県警松山南署員が生徒を銃刀法違反の疑いで現行犯逮捕した。
 同署の発表では、生徒は同日午後、進路指導を受け、いったん帰宅。母親に「気に入らない先生がいる」と話していたといい、包丁はステンレス製パイプ(長さ約80センチ)の先端部に巻き付けていたという。



そう言えば、かつて中央大学の教授がこれに似た凶器で刺殺されたことがあった(実際には高枝バサミを分解した槍状の道具)。教員をやるにも命がけの時代だ。

 おりしも大阪府の松井一郎知事は7日の記者会見で、
 適格性の欠ける教職員を分限免職の対象とする教育基本条例案の規定に関連し、生徒や保護者らの申告を反映する仕組みを盛り込む意向を表明した。
 
 記事にあるような生徒の声に、真剣に耳を傾けてもらいたいものだ。

 
教師が刺殺される前に、分限免職でも何でもやって命を守ってもらいたい。
 その方がいい。







2012.02.23

橋下市長:小中学生に留年検討 大阪市教委に指示


[毎日新聞 2月22日]


 大阪市の橋下徹市長が、小中学生であっても目標の学力レベルに達しない場合は留年させるべきだとして、義務教育課程での留年を検討するよう市教委 に指示していたことが分かった。法的には可能だが、文部科学省は年齢に応じた進級を基本としており、実際の例はほとんどないという。
 橋下市長は、市教委幹部へのメールで「義務教育で本当に必要なのは、きちんと目標レベルに達するまで面倒を見ること」「留年は子供のため」などと指摘。留年について弾力的に考えるよう伝えた。
 文科省によると、学校教育法施行規則は、各学年の修了や卒業は児童生徒の平素の成績を評価して認定するよう定めており、校長の判断次第では留年も可能。外国籍の生徒で保護者が強く望んだ場合などに検討されることがあるという。
 市教委も「学校長の判断で原級留置(留年)できる」としているが、実際は病気などで出席日数がゼロでも進級させているという。担当者は「昔は長期の病気欠席などでごくまれにあったと聞いているが、子供への精神的影響も大きい」と話している。
 橋下市長は22日に予定されている教育委員との懇談で義務教育課程での留年について提案、意見を求める予定という。【林由紀子】




 橋下徹という人は喧嘩上手で、十通そうとするときに二十吹っかけて十引くというやり方をよくする。こちらとしては二十を半分にしてもらったわけだから何んとなくホッとしてしまうが、橋下側から見れば完全勝利のようなものだ。もちろん“そうしたやり方をよくする”と分かっているなら最初から十を念頭に勝負すればいいようなものだが、本気で十八くらいまで通せる力を持っているので始末の悪い。

 さて、義務教育での留年についてだが、
「義務教育で本当に必要なのは、きちんと目標レベルに達するまで面倒を見ること」
「留年は子供のため」

という橋下の言い分は正論で、おそらく教職員の中にも賛同者は多いはずだ。何んといっても学問には系統性と階層性がある。1年生の内容をある程度理解していないと次の段階が非常に苦しい。中1の英語がほとんど分かっていないのに2年生になったらよく理解できるようになったというようなことは、めったにおこらない。そこから「留年は子供のため」という論理が出てくるわけだが、現実的運用として果たしてうまく機能するだろうか。

 
勉強の苦手な子どもは万遍なく成績が悪いわけではない。算数が苦手な子もいれば国語ができない子もいる。体育がまったくダメな子もいれば運動だけ飛び抜けて優秀な子もいる。したがって“留年”を前提とすると、苦手な一教科のために得意な別教科も再履修することになる(留年制度のあるフィンランドの場合は、8科目中2科目で及第点を取れないと進級できない。したがって不必要な教科も学習しなおしているはずである)。

 例えば小学校2年生で体育の苦手な子は、そこで留年すると得意なかけ算九九まで最初からやることになってしまう・・・。
「いや、そんなことはないだろう。ダメな体育だけやり直せばいい」
 当然そういう理屈は出てくるわけで、そこから次にくるのが“義務教育の単位制”だ。これだと体育だけ下の学年でやり直せばいいことになる。
 Aちゃんは体育と理科が下の学年、Bちゃんは算数と社会科が二つ下の学年・・・というふうにやるわけだ。そして上の学年からもXさんが国語と社会の時間に降りてきて、Yさんは体育と算数だけ参加しに来るということになる。
 問題は、そうなると現在のような“学級”が維持できなくなるということである。
 
 “学級”はひじょうに閉鎖的な空間で、好むと好まざるとによらずそこの人間関係に縛られる。優秀な子もいればそうでない子もいる、好きな子もいれば嫌な奴もいる、そうした
様々な人間の中で多様な活動を行いながら、日本の子どもたちは人間関係を学んでくる。しかし単位制にした場合、そうした人間関係の学びがほとんどできなくなってくるのだ。
(フィンランドの場合、学校の仕事は教科教育をすることで、人間関係の学び《=道徳》は求められない。したがって学校の行事も90%以上は自由参加である。“学級”が必要とされることもない)

 初めに言ったように橋下徹は喧嘩上手で言ったことを100%その通りにしようとは必ずしも思っていない。しかし義務教育の留年制度は禁断の果実だから、いったん多少とも手をつければ、あとには戻れないものなのだ。これに口をつければ私たちの子孫は「日本」という楽園を終われることになる。
 
 東日本大震災で見せた見事な統制や支えあい、いやそれ以前から評価の高かった町の清潔さや寸分狂わない交通システム、常に誠実であろうとする態度や「おもてなし」といった文化は、学校が膨大な特別活動(学級活動や学校行事)によって支えてきたものだ。
 学校に留年制度を導入するということはそうした道徳教育の母体を崩すということである。

 もちろん“学級”は捨ててもいい、「道徳」は別の組織が請け負う、フィンランドや諸外国がそうであるように、学校は“学力”だけに責任を持てばいい、そういった覚悟があれば別だが、
学校から根こそぎ「道徳」のシステム(学級)を奪っておいて、あとから「ところで道徳教育はどうなっているの」と追及されてはかなわない。
 
 別件のようだが、かつて「学校の自由選択制」が全国に広まったとき、これが地域社会を壊すものだという点に誰も触れなかったことを私は不思議に思っている。
 
「地域」はこれまで一貫して“隣組”と“学校”が支えてきた。「ご近所」の煩わしさをできるだけ逃れようとしてきた人も、学校のPTAや地区行事を通して強制的に「地域」に組み入れられ、人間関係をつくらされてきた。そうして活動するうちに、「地域」の良さも分かってくる。
 それが選択制によって「子どもはどこの学校に行ってもいい」ということになると、少なくとも地域の子ども行事には参加しなくて済む。親は地域のしがらみから完全に自由になり、子どもの行事そのもののも次第に消えていく。そんなことは最初から分かっていたことだ。
 
 今ごろになってあちこちの地域から「学校の自由選択制を見直してほしいと」か「安易に区域外通学を認めないでほしい」とかいった要望が頻出し、「選択制」は岐路に立たされているというが、最初から地域社会の破壊を承知で始めたことだ。いまさらやりなおしてみても取り返しはつかない。

 「義務教育で本当に必要なのは、きちんと目標レベルに達するまで面倒を見ること」という橋下の論はごもっともだ。しかしそれは40人の子どもを一人の教師が見るという現行の制度だから難しいのであって、児童・生徒を20人に減らせば、あるいはひとクラスを複数の教員で見て必要に応じて外に取り出し個別学習をすればそれだけで済むことだ。つまり金の問題であって、留年制といった危険な賭けをせずとも果たせる問題である。
 
 学校という組織は非常に有機的な存在で、人間の身体と同じように、どこかをいじれば別のどこかに必ず深刻な影響を及ぼす。その副作用まで十分に見極めないと、本当は手を出してはいけないことがたくさんあるのだ。