キース・アウト
(キースの逸脱)

2012年3月

by   キース・T・沢木

サルは木から落ちてもサルだが、選挙に落ちた議員は議員ではない。
政治的な理想や政治的野心を持つ者は、したがってどのような手段を使っても当選しておかなければならない。
落ちてしまえば、理想も何もあったものではない。

ニュースは商品である。
どんなすばらしい思想や理念も、人々の目に届かなければ何の意味もない。
ましてメディアが大衆に受け入れられない情報を流し続ければ、伝達の手段そのものを失ってしまう。

かくして商店が人々の喜ぶものだけを店先に並べるように、 メディアはさまざまな商品を並べ始めた。
甘いもの・優しいもの・受け入れやすいもの本物そっくりのまがい物のダイヤ
人々の妬みや個人的な怒りを一身に集めてくれる生贄
そこに問題が生まれれば、今度はそれをまた売ればいいだけのことだ。


















2012.03.01

橋下市長、学力テストの学校別結果公表へ


[読売新聞 3月 1日]


 大阪市の橋下徹市長は1日の市議会代表質問で、市立小中学校での全国学力テストの学校別結果を2014年度をめどに公表する方針を明らかにした。
 文部科学省によると、自治体が自主的に学校別の結果を公表するのは初めて。学校別公表には教育現場で「学校がランク付けされる」と反発が強く、波紋を広げそうだ。
 市教委は同年度に小中学校の校区を越えて学校を選べる学校選択制の導入を目指しており、橋下市長は「保護者に(学校を選ぶために)学校ごとの必要な情報を提供するのは当然」と答弁。「(学校別で)公表すれば地域間格差が生じるというのは行政者側の言い分だ。制度設計はこれからだが、基本的に開示する」と述べた。
 07年度から実施している全国学力テストで、文部科学省は都道府県別の結果は公表しているが、市町村別、学校別は明らかにしないよう、自治体に求めている。知事時代の橋下市長の意向を受け、大阪府教委が昨年から始めた大阪版学力テストで市町村別結果は公表しているが、学校別結果は「学校序列化につながる」などとして非公表になっている。



 
 学力テストの学校別結果公表によって学校が序列化するとは思わないし、序列化したところでどうということはないと思っている。

 実際、私はで市内15校中最低の成績の学校を、わずか1年で上から2位に昇らせたことがある。最下位といったって一番との差はわずかだし、受験者は毎年総入替になる。さらに全国学力学習状況調査のテストは訓練しやすいので、平均点を10点程度上げるのはそう難しいことではないのだ(これが暗記中心だったらかなり苦しいのだが)。
 学校ごとの成績を発表すれば下位の学校は慌てて受験対策を始めて翌年上位に食い込み、そのとき下位はさらに翌年がんばる、ただそれだけのことだ。
 しかし学校選択制の方はそうは行かない。これは取り返しのつかないパンドラの箱だ。地域を壊し人間関係を壊し、学校を消滅させる。

 具体的に説明しよう。
 学校選択制がしかれた場合、児童生徒そして保護者は、何を基準に学校を選択するのだろうか。
 これには経験的な知がある。
 
 それはまず
学校までの距離と子どもの持つ友人関係である。
 続いて
学校が良い地域にあっていじめや不登校が少なく、しつけのしっかりしている学校、つまり「荒れた学校」からの回避選択がある。

 中学校ならやりたい
部活動があるか、強いかも大事な選択理由となる。
 あとは
校舎が新しくきれいかといった問題で、成績を理由に学校を選ぼうとするものは3割にも満たない。

 この基準にしたがって選択が進むと何が起こるかというと、まず○○町とか○○地区とかいった古くからある地域共同体から、一部の子が漏れ出す。地区の辺境にいる子どもたちが「友だちと一緒に」「より近い」別の学校に集団移動するのである。

 荒れた学校からは「良い子」が脱出を始める。校内で我が物顔に振舞える「悪い子」たちは、自分たちが転校しても何のメリットもないから同じ学校に居座る。そのことは相対的に「悪い子」比率を高め、「学校の荒れ」はさらに加速する。

 別の子は、同じ少年サッカーチームの子と連れ添ってサッカー部に定評のある学校に移ってしまう。小規模で部活動の種類そのものが少ない中学校からは、もっと多くの生徒が大きな学校に流れる。小規模校の部活は、こうしてひとつひとつ存続が危うくなり、試合でも勝てなくなる。
 
 
小学校では全校児童100人、中学校では50人を切ると、今度は親が音を上げ始める。1学年20人を切ると、PTAの役員が繰り返し回ってくるのだ、これはたまらない。

 そのころ改めて周辺を眺めると、予想していなかった光景が広がっている。同じマンションの、たとえば5人の子どもが、全員違う学校に行っているのだ。そうなるとマンション内で学校に関する情報交換の場が完全になくなる。
 面倒くさいと思っていても
情報のために繋がっていた親同士のつながりがなくなる。もちろんそれ以前に地域子ども社会はなくなっているから、子どもを使った活動というものもなくなる。そうした環境で育った子たちは大人になったとき「幼馴染」というものを持たない。したがって地縁を利用した地域社会の構築といった可能性も少なくなる。

 さらに児童生徒数が減ると今度は学級そのものがあやしくなる。一部の学年は複式学級(2学年で1クラス)が始まる。そうなるともうその学校に居続けるのは困難になるだろう。離島や山奥ではないのだ。少し足を延ばせば、複式ではない学校がいくらでもある。かくして最後の数十名が移動し、地域の学校がひとつ潰れる。

 さて、そうしたデメリットを負っても果たさなければならない橋下市長の理想とは何か。
 それは「大阪の子どもの学力」ではない。
 
経済効率の悪い市内の小規模の学校をいくつも潰すことによって生じる、財政の健全化である。
 
 私たちもマスコミも「自由」という言葉が好きだ。「自由」と言われるとたいていのことを受け入れてしまう。その結果何年後かに直面するのは、
歩いて通える場所に学校がないという極めて不自由な現実なのだ。








2012.03.03

<給食費>大阪市で未納4890万円 法的措置は4%


[毎日新聞 3月 3日]


 大阪市立の全297小学校で10年度末現在、保護者に支払い能力があるのに未納となっている給食費が計約4890万円に上っている。催促しても、保護者が「ケータイの支払いが先」「義務教育なので無料のはず」などと渋るケースが続出。市教委が支払い督促の申し立てなど法的措置を取ったのは4%の約215万円にとどまっており、市の外部監査を担当した公認会計士は積極的に請求するよう求めている。

 市教委によると、02〜10年度の累計未納者(児童)数は延べ2447人。市教委は、生活保護受給世帯など経済的に困難な家庭に対しては給食費の支払いを免除しており、未納者には支払い能力があるとみられる。しかし実際には、電話や文書で督促しても応答がない▽督促に対し「学校に行く」と返事したのに現れない▽夏休みに職場まで行ったが払わない−−などの例が相次いでいる。

 市では10年度に市税などの滞納者への徴収を強化するチームを結成し、給食費の滞納についても法的措置を取るようになった。市教委のガイドラインでは、3カ月以上の未納で校長が保護者と面談して請求。応じない場合は督促状を交付し、未納期間が6カ月を超えれば「校長意見書」を市教育長に送付して法的手続きを求める。

 だが、保護者との関係悪化を恐れる校長のところで手続きがストップしているのが現状。「給食制度に反対」だとして拒む親もいるという。市内のある小学校長は「子ども手当の支給日に支払いを催促したり、目の前で計算機をたたいたりしたこともある」と苦労を打ち明ける。

 10年度末現在で支払いを督促された保護者は13人(最高額で約46万円=延べ7年分)。監査報告書で「納付している保護者の納得が得られずモラルハザードの温床になりかねない」と指摘された市教委は「法的措置のハードルを下げるなど対策を考えたい」としている。

 民法は、債権は請求しなければ原則10年で消滅すると規定。例外的に1〜5年の短期消滅時効を定めており、「生徒の教育や衣食にかかる債権」は「生産者や商人が販売した商品についての債権」などと並んで2年で時効になる。【林由紀子】

 ◇05年度は全国で22億円

 文部科学省が給食を実施している全国の国公私立小中学校約3万2000校を対象に行った06年の調査では、05年度の給食費の未納は約1万4000校で発生し、総額は約22億3000万円に上った。

 このうち、提訴や差し押さえ、支払い督促の申し立てなど法的措置に踏み切ったのは全体の約2%に当たる約280校。10年に全国の公立小中学校610校を対象に行った抽出調査では5.3%となっており、法的措置を取る例は増加傾向にあるとみられる。

 近畿の政令市では、大阪市の他、神戸市も09年度から法的措置を取っており、10年度までに発生した未納給食費754万円のうち、81万円について支払い督促を申し立てた。京都市と堺市は法的措置を取っていない。


 大阪市長はこうした事態にどういった手を打ってくるのか、期待しながら見ていよう。

 さて、
 催促しても、保護者が「ケータイの支払いが先」「義務教育なので無料のはず」などと渋るケースが続出。
のこの
「催促」、世の人はいったい誰がしていると思うのだろう。
 市教委の担当者とか給食センターの職員・・・いやそうではない、実は学級担任がしているのだ。しかも「子どもの食った飯代を払え」という内容なのに、腰を低くして頭を下げてお願いしている。
 それでダメなら副校長がやる、それでもだめなら校長が出ていく。
 しかし担任ですら恐れない保護者が、校長など恐れるはずもない。
 学校中がひたすら頭を下げてお願いする、その何んという惨めなことか!

 なぜ頭を下げなければならないかというと、それがまさに
保護者との関係悪化を恐れてのことなのだ。ここでまた誤解されて、
「保護者との関係が悪化して、教育委員会などに言いつけられるのが怖いのだろう」とかいった話になりかねないが、そうではない。
 
保護者との関係が悪化するとその子の指導ができなくなる、それを恐れるのだ。親と教師がともに同じ態度で接してこそ子は育つ。それができなくなることを恐れる。

 まことに、教師は保護者に、子どもを人質に取られているわけだ。

 私はこえれまで「学校に雑用というものはない。あるのは修学旅行をはじめとする学校行事や児童生徒会行事、部活の計画や授業準備といった学校教育に必要なすべての仕事だけだ」と言ってきたがそうでもない。給食費の督促など、最悪の雑用だ。

 教育という気高い仕事をしている者に、学年費や給食費の督促をさせるのも考えものだ。これで誇り高い仕事といえるだろうか。







2012.03.12

大学生学力低下論の落とし穴 京都大大学院教育学研究科准教授・佐藤卓己


[産経新聞 3月11日]


 2月25日、新聞各紙は日本数学会が文部科学省で発表した「大学生6千人調査」を大きく報道していた。
 産経には、「大学生4人に1人『平均』理解できず」「数学力 止まらぬ低下」「『ゆとり』脱却 頭悩ます大学」の見出しがあった。この記事に関しては各紙とも同工異曲で比較は不要である。
 さて、「マークシート入試が中心で論理的思考力が低下している」という総括は、共通一次入試の第1世代としては、いささか聞き飽きた俗論である。マークシートという制度を悪者にしておけば、まあ誰も傷つかないからいいということだろうが、おそらく論理的思考力の低下とマークシートの因果関係はないだろう。数学者がそう主張するなら、その方がよほど論理的思考力に問題があるといえる。
 私の知る限り、学生のマークシート得点と論理的思考力は比例する。それを逆相関だと主張するなら、マークシート高得点者が多い難関大学ほど論理的思考力が低くなるというデータを示す必要があるだろう。しかし、そうした結果にはならないはずだ。
 なぜなら、学力低下の主要原因は学力試験を課さないAO入試、指定校やスポーツなどの推薦入試だからである。世間一般で知られていないかもしれないが、私立大学に限れば「学力試験なし」で入学する学生は半数に達する。だからこそ、入学後に「小学校の計算問題を解かせる大学もあるという」わけなのだ。
 だが、この記事を読んで思ったのは全く別のことだ。それは、「大学全入時代」という認識枠で教育を論じることの危険性である。
 「大学全入」という言葉は大学経営の少子化対策として作られた業界ビジネス用語である。大学卒を採用の前提とする新聞社では、大学進学率が5割を少し上回る程度という事実が忘れられているのだろうか。各紙とも学生の低学力をゆとり教育「世代」の問題としているが、大学に進学しない「世代」の半数には関心を示していない。
 大学生の「平均」概念の正答率76%を深刻な問題と書く記者は、大学に進学しない半数を含む「平均」学力に思いを寄せただろうか。
 私は正答率76%には驚かないが、この「平均」学力を考えて大いに不安になった。残念ながら、その懸念を共有する記事は見いだせなかった。
 「大学全入時代」という言葉をまず紙面から追放すべきだろう。それは「せめて大学ぐらいは…」という俗情を刺激するばかりで、大学はどうあるべきかを真剣に考える意欲を人々から奪う呪文となるからである。
                   ◇
【プロフィル】佐藤卓己
 さとう・たくみ 昭和35年広島県出身。京都大大学院修了、文学博士。専門はメディア史。



 たとえ京大大学院修了の文学博士であろうと、大学生の学力低下の原因を、
主要原因は学力試験を課さないAO入試、指定校やスポーツなどの推薦入試だからであると言ったらその時点でおしまいだ。

 大学入試の学力試験を受ければ、『平均』が理解できるようになるわけではない。大学入試に『平均』は出ない。それとこれとでは話が違う。

 私立大学に限れば「学力試験なし」で入学する学生は半数に達するのは事実にしても、この「私立大学」の中には“とにかく入学生がいてくれれば何とか存続できる”といったギリギリの大学も相当に含まれる。早慶を初めとする一流私大のAO入試や推薦枠はそれほどあるわけではない。
 さらにAO入試や指定校推薦を禁止すれば学力が上がるというものでもないだろう。それらが禁止になっても特定の大学は「入試得点ゼロ」で合格させればいいだけで、いずれにしろ
「どんな生徒でも大学を志望すればどこかに行ける」という現実は解消しない。その現実がある限り、大学生の学力など上がるはずはない。
 AOや指定校推薦に罪はない。

 では、なぜ学力は低下した(ように見える)のか。それは一言でいえば、
「少子化にも関わらず、大学が十分に定員を減らさなかった」ため
なのだ。
 
 一例を示そう。
 平成4年、全国の高卒人口はおよそ180万7千人であった。この年の東京大学の定員は3586名であって高卒に対する比率は0.20%である。それが平成20年には高卒人口108万9千人に対し東大定員は3053名。
高卒人口が4割近くも減ったのに、東大は定員を15%しか減らさなかったのである。
 平成20年の高卒人口に対する東大の定員は0.28%、つまり
わずか16年間に1.4倍も入りやすくなったのだ。
 
 ところでもしそうではなく、東大が定員を高卒人口に合わせて順調に減らした場合、余剰分(40%)の受験生はどうなったか。
 いうまでもなく彼らは2番手校に進学する。2番手校もすでに順調に定員を減らしていたとすると、現在入学している学生の8割が3番手校に移動せざるを得ない。3番手校は総員入替でさらにお釣りが出る。
 そうやって最終的に6番手校あたりで大学進学の可能性を断てば、学生の学力は飛躍的にのびるはずだ。何しろ成績の低い子は大学に入れないのだから。
 
 それが
論理的思考というものだ。
 少子化にも関わらず大学がバタバタと倒産していかない不思議を解消しない限り、大学生の学力は絶対に上がらない。
 
 
* ただし、
 東京大学を始め多くの大学が秋入学の方針を出してきた。グローバル化に沿ったものだというが、要するに外国人留学生を多く招き入れようという配慮である。そうなると当然、各大学の日本人枠は減る。グローバル化によって授業が英語で行われるようになると大学そのものを敬遠する学生も出てくるだろう。
 大学生の学力向上は、意外とこんな方向から達成されるのかもしれない。
 

 





2012.03.15

大津市長、いじめ体験を涙の告白「2回死にたいと思った」


[産経新聞 3月13日]


 滋賀県大津市で昨年10月、市立中学2年の男子生徒=当時(13)=が転落死し、その後、男子生徒が同級生からいじめを受けていたと市教委が発表した問題で、男子生徒が通っていた中学校で13日、卒業式があり、女性最年少市長の越直美・大津市長(36)が出席し、小学校3年と高校1年のときにいじめを受けていたと涙ぐんで告白、「いじめのない社会をつくる責任がある」と力説した。

 市によると、越市長は、「今までに2回死にたいと思ったことがある」と打ち明け、小学3年生のころに交換日記に暴言を書かれ、高校1年のときには、同級生に昼食の仲間に入れてもらえないなどのいじめを受けていたと告白。通学しようとすると腹痛が起こったことも明らかにした。

 一方、越市長は「卒業し、海外でも生活し、いろんな人に支えられてきた」と、その後弁護士活動や留学を通して世界が広がったことも伝えた。

 男子生徒のいじめをめぐっては、いじめが自殺の原因だったとして、両親が加害生徒3人やその保護者と市に、約7720万円の損害賠償を求める訴訟を大津地裁に起こしている。



 人生というものは苦しい時も楽しい時もある。禍福はあざなえる縄のごときものであり、人生すべて塞翁が馬だと私は思っている。

 大人になってからは周囲に対する目も肥えて、今自分がどんな立場にいるか、周囲からどんなふうに見られているか、嫌われているとしたら何が原因かその修復の方法は何か、そういったことが自然に分かるようになり、自然にふるまえるようになってきた。


 しかし子どものころはまるでダメで、友だちがさりげなく出してくれたイエローカードを見落とし、いきなり馬鹿だと言われたり、仲間外れにされたり、時には何日も口を聞いてもらえなかったり、そんなことは再三あった。
 しかし
すべてはイエローカードに気づかなかった私が悪いのであって、レッド・カードが出るときはそれまでに無数のイエローカードが出ていたはずだと、そんなふうに振り返る程度の節操は、子ども時代の私にもあった
 さらにその程度のことで“死にたい”と思ったこともないし、死んでいいとも思っていなかった。
 
 しかし時代は変わったのだろう。
 交換日記に暴言を書かれ、高校1年のときには、同級生に昼食の仲間に入れてもらえない
その程度のことで“
死にたい”と思う子がいて一部はそれを実行してしまう。

 市長を初めとする私たちには
「いじめのない社会をつくる責任がある」のであり、子ども同士のトラブルを子ども同士が解決するのを待っていてはいけない。そういう時代に入っているのだ。

 卑しくとも教員なら、

子どもの交換日記は常に取り上げ、そこにいじめの芽はないかいつもチェックしなければならない。
どんなイヤな子でもケンカをしても、昼食はニコニコと楽しく一緒に食べなければならないと子どもたちに強制する義務

を負う。

 私たちにとっても生きにくいが、子どもたちにとっても本当に生きにくい時代になった。








2012.03.24

日本の学校教育は間違っていなかった!?


[産経新聞 3月22日 元はBenesse教育情報サイト] 


  近年、日本の子どもの学力は低下したと見なされていました。「だから学習指導要領を改訂して、教える内容も元に戻したんじゃないか」と思っているかたも、少なくないと思います。しかし、そんな国内での大方の見方とは、ちょっと違った角度から日本の教育を見つめている海外の機関があります。何を隠そう、国内では「学力低下」の根拠とされた「生徒の学習到達度調査」(PISA)を実施している、経済協力開発機構(OECD)です。

 3年に一度実施されるPISAをめぐっては、第1回である2000(平成12)年調査の国・地域別順位が「数学的リテラシー」で1位、「科学的リテラシー」で2位だったのに対して、前の指導要領(小・中学校は02<同14>年度から全面実施)に替わった直後の03(同15)年調査ではそれぞれ6位と2位、06(同18)年調査では10位と6位になり、国内では「『ゆとり教育』で学力が低下した証拠だ」と言われました。それが2009(平成21)年調査では9位と5位となり、新聞などでは「学力低下に歯止め」などと評されました。しかし、このほど刊行された日本の教育に関する報告書では、「一般的には日本の成績は低下しているという認識があるかもしれないが……日本は一貫して高い平均得点を維持することに成功している」と断言しています。
PISAは決して国別の順位や点数を競うテストではありません。各国の「強み」や「弱み」を客観的に知り、その国や他国の教育政策に生かしてもらうために実施するものです。外から見れば、やはり日本の教育は「うまくいっている国」であり続けているのです。

 OECDが先頃東京都内で開催したフォーラム「PISAから得る教訓」でも、事務総長教育政策特別顧問を務めるアンドレアス・シュライヒャー教育局次長は、日本の教育について「パフォーマンス(成果)が高いだけでなく、クリエーティブ(創造的)に問題を解決する創造力も増大している。学習のモチベーション(動機付け)も高くなっており、教師と子どもの関係も良くなっている」と絶賛しました。国内では先生の質についても批判が絶えませんが、シュライヒャー次長は「日本の教員は非常に大きな魅力を持っており、自信を持つべきだ」とさえ言っています。ずいぶん違うものですね。
 シュライヒャー次長は東日本大震災の被災地を訪れ、その思いを強くしたそうです。危機に直面した時こそ「強み」が発揮されるというわけです。OECDはまた、10か国・地域の優れた取り組みを紹介するビデオの一つとして日本を取り上げ、日本が目指している教育が、震災復興はもとより今後のグローバル経済で必要とされるスキル(技能)を身につけさせるものだと高く評価しているのです。

 一方でシュライヒャー次長は、学校間格差が広がっていることや、一クラスの人数を減らすより教員の質をいっそう向上させる必要があるなど、課題も指摘しました。日本人以上に日本の教育を知る専門家の忠告として、耳を傾けるべきでしょう。「学校と家庭のつながりが強いのも、日本の資産だ」という指摘も、かみしめたいものです。(筆者:渡辺敦司)




 私は終始一貫して
日本の教育水準は世界最高水準のものだと主張してきたし、30年前と比べても総量としては発展し続けていると主張してきた。部分的に衰えてきたように見えるのは、最近でも原子力に関する教育を充実せよ、防災教育の拡充をと言われるように、生活科・総合的な学習の時間・その他特別活動に織り込まれて行く膨大な「追加教育」によって手を広げすぎたからだと思っている。

 教員の質だけを見ても、平成不況以来の教員採用試験の難しさを考えれば、今日の給与・待遇ではこれ以上望めないほどの優秀な人材を集めてきた。
これでダメならそもそも学校教育に期待されることが限界を越えているのだ。
 
 こうした考え方は、海外では研究者の間でも民間でも一致している。シュライヒャー次長が
東日本大震災の被災地を訪れ、その思いを強くしたというように、東日本大震災で見せた日本人の秩序・落ち着き・勇気などを日本の教育の成果だと捉えるのが普通だ。
 これひとつをとってもいかに日本の学校教育が優れているか理解できそうなものだが、国内の研究者は「日本人のDNA」といった不可思議なものを持ち出してきて
成功からは何ひとつ学ぼうとしない

 最近読んだ本の中では
農耕民族の伝統だとか武士道の影響だと書いた話も出ているが、そうしたものが発祥だとしてもそれを組織的に維持し、高めることができたのは日本の場合学校しかない(海外ならキリスト教会・モスク・仏教寺院あるいは党思想局といったところが組織的な教育をやっている例もあるかもしれない)。
 
 そうした最高級の学校教育を、数値化できるものしか信じない人々によって“教育改革”の名のもとにどんどん崩されていく、その様子を海外の人々ははらはらしながら見ているのだ。
 
 タイトルの最後に「!?」とあるように、日本のマスメディアは自国の教育を最悪のものと見なして疑わない。とにかく素晴らしい教育は国外にあると信じて、やれサッチャーの教育改革だのアメリカの学校マネジメントだの言いだすが、これらの国は学力だけを見てもかなり格下だということも忘れている。

 産経新聞も同様で、学校の歴史教育に触れるたびにやれ「自虐史観」だのと言って噛みつくが、
一度として自らの自虐教育観を反省したことはない


参考:「岩手滞在について」

「岩手滞在について」(2011年7月30日) アンドレアス・シュライヒャー

 危機への対応を見れば、その社会の本当の姿や骨組みが見えてくるということもあるように感じた。わずかな数秒で自然が人間の作った全てのものを破壊できること、しかし、人間の強さや地域のリーダーシップに加え、人々が力を合わせれば、とても乗り越えられないような困難を乗り越え、社会の復興していくことが可能であることを目撃した。

 海岸沿いを車で移動したが、村の全てが押し流された地域がどこまでも続き、そこでは、住宅の土台以外は何も残っていないような状況だった。なかには、円と赤十字のマークの付いた残骸が多く残っている地域もあった。それは、単に住居を失ったというだけでなく、愛する家族をも失ったことを意味するものだった。

 仮設住宅や公的なインフラの整備がスピディーに進められているが、地域社会の再生は、はるかに難しい課題であるようだ。岩手県大槌町では、津波により町長が亡くなられ、多くの公的サービス、役場の記録やこれまでの行政の蓄積も津波に押し流された。この町は、周辺の自治体よりも復興への歩みが遅くならざるを得ない。それは、地域の行政機能とリーダーシップが重要であることを示している。岩手県山田町役場の方と一時間近く話をしたが、彼は地域のリーダーシップそのものだった。彼が話すとき、うっすら涙を浮かべながらも、その姿は新しい日本を創るという強い意志に満ちていた。東京はあまりに遠く、現場からかけ離れているように感じられた。彼は、西洋人が抱くような、上からの指示を待っている典型的な日本の官僚のイメージとはまったく正反対の人物だった。

 これと同じ印象を受けたのは、山田町船越の「陸中海岸青少年の家」(校舎が被災した山田町立船越小と大槌町立大槌小が一時的に校舎として利用している施設)を訪問し、その校長先生達に会ったときのことだ。日本が力を発揮した時の力強さと創造性は計り知れない。被災前、船越小は長い廊下、学級ごとの教室、階上の職員室など、一般的な小学校であった。しかし、現在の「陸中海岸青少年の家」は異なる。体育館のなかで、同時に3つの授業が行われ、その反対側に2校分の職員室が置かれていた。生徒と先生は学習環境をより良くするように一緒に考え、お互い配慮しながらも授業を継続している。ひとつの学級で音楽の授業を行う場合には、他の学級は外で運動するのである。また、学校図書館の図書の多くは残っていなかったが、支援団体が本のほかにも必要なものは何でも寄附してくれし、何でも段ボールで作ることができるように感じられた。さらに、日本全国そして世界の子ども達が、この学校に思いやりを示し支援を申し出てくれた。届けられた数多くのハガキや手紙の類は壁に貼りきれないほどであった。いわば、未来のために学ぶ学校環境に変化を遂げたのだ。

 最も印象に残ったのは、やはり先生達のお話だった。震災がなくとも、日本の先生には仕事とプライベートの線引きはないようなもので、学校の成績だけでなく、先生たちは生徒が学校と家の両方で他人との関係や気持ちの上で大丈夫かどうか強く責任を感じている。今回の震災では、先生達は物資や心理又は気持ちの面での支援がほとんどない中で、さらに強く責任を感じて行動していて、非常に驚いた。
 何よりもまず、津波が襲ってきたとき、多くの先生達が本当に命懸けで自分の生徒を救おうとしたという話を聞いた。ある高校の先生からは、あと数センチところだったのに流されてきた人の手を捕まえることができず、津波にさらわれてしまったという話を聞いた。また、ある小学校の先生は地震の後で全ての子ども達を高台に避難させたものの、子どもの親がわが子を迎えに来て帰宅させてしまったのだという。その先生はそれが正しいかどうか戸惑いつつも、止めることができなかった。そして、その子どもと家族は町に戻る途中で津波に襲われてしまった。

 多くの意味で、これはその後起きた出来事の始まりだった。一時的な避難所から自宅周辺に戻ってはじめて、生徒とその家族は津波の凄まじさを理解する。それは、家族、親戚又はご近所の方を失ってしまったことだったり、仕事の多くがなくなり、生計を立てられなくなることだったりする。後者の場合には、経済の再建とともにこれまでと違う能力や技術を要する仕事が求められ、人々はそれに順応していかなければならないかもしれない。疑いようもなく、子ども達とその家族が受けた傷の跡は復興の後もずっと先生達の仕事と生活に大きな影響を与えるだろう。単に教育者としてだけでなく、ネイション・ビルダー(未来を担う子ども達の教育に直接携わり、国を創っていく人々)として大きな困難に立ち向かう先生達を日本は誇りに思ってもよいはずだ。しかし、先生達には強力かつ持続的な支援を必要となるだろう。

 そして教員組合がある。政府組織の職員として、ともすると教員組合は教育改革に反対する組織と私は考えがちである。しかし、津波に被災した地域では、日本教職員組合も含めてボランティアに参加する日本労働組合総連合会の組合員は延べ数で1万2000人を超えており、深く感銘を受けた。そして、日本教職員組合の高橋さんと岩手の組合の仲間ほど日本の子供達の未来の教育と福祉に責任を感じ、心配に思っている人はいないとも感じた。

 OECDには、震災の直後に必要となった消防士、医者や技術者が居ないことを承知の上で、私が何かできることはないかと聞いた時の答えがほぼ同じものであることも印象的だった。もちろん、彼らは、公的インフラの再建方法は知っており、先生や学校を支援するために一生懸命頑張ると話している。そして、ほぼ全員が「(人生を)生きる力」という日本の教育目的を達成する教育制度を構築するために、OECDが持っている世界の知恵と経験を教えてほしいと答えたのだ。そして、津波が「生きる力」に全く新しい意味を与えた。教育内容を単に再生産する教育からコンピテンシー(単なる知識や技能だけではなく、技能や態度を含む様々な心理的・社会的なリソースを活用して、特定の文脈の中で複雑な要求(課題)に対応することができる力)を高める教育へ、国民国家のための教育から地域社会の市民のための教育へ、日本社会とグローバル社会、試験地獄で競争するための教育から社会統合と社会技能を強化する教育へ、その場限りの教育(その場の状況が許せば(将来の結果を考えずに)何でもするし何度も作る)から持続可能な教育へと。

 地域のリーダーと教育関係者は、世界の各地域で自分たちと同じ失敗を犯さずに将来の自然災害の被害を減らせるように津波の被害の経験を生かしていきたいという思いも強かった。
 被災地でのやりとりの多くは、同じ言葉で締めくくられた。「我々を忘れないでほしい。」

 





2012.03.24

<東日本大震災>大川小の校長が依願退職へ
宮城・石巻


[毎日新聞 3月23日]


 東日本大震災の津波で児童74人、教職員10人が死亡・行方不明になった宮城県石巻市立大川小学校の柏葉照幸校長(58)が31日、依願退職する。県教委が23日、教員人事の発表に合わせて明らかにした。8日付で退職願を提出し県教委が受理した。

 柏葉校長は震災発生時、娘の卒業式のため石巻市外にいた。今月18日、遺族との話し合いで訓練の不備などを指摘され、「危機管理意識が低かった」と謝罪した。県教委によると、遺族らが求める震災発生時の避難対応などの検証には「退職後も必要な協力はする」と話しているという。【宇多川はるか】



 校長にはどのような人が選ばれるのだろう。
 その答えの第一は“運の良い人”である。
 どんな世界でもそうだと思うが、どれほど実力があろうとも“運のない人”は世に出ることができない。
 そして“運”を差し引いた上で改めて「どのような人が校長になって行くか」と問われると、これは
教員として力のある人というのが答えになる。教師としてある程度以上の実力がないと、やはり選ばれていかない。

 しかしここで注意しなければならないことは
“教員としての力”の中には、必ずしも危機管理能力や危機対応能力は含まれていないということだ。校長の多くは子どもを愛し、熱心に授業を行い、誠実に職務を遂行してきたから校長になった。

 私は震災後の柏葉校長の対応を見ていて、かつての“酒鬼薔薇事件”加害者の在籍校校長のことを思い出した。このひとも柏葉校長同様、大きな事件・事故に巻き込まれなければ普通の校長として職務を全うし、いつかは孫を持って好々爺として生涯を終えた人だ。しかし運命はそうした平和をもたらさなかった。
 

 柏葉校長は震災当日、数十キロ離れた大崎市で娘の卒業式に出ていた。そのこと自体は咎められない。校長は子どもが学校にいる間は校舎を離れてはならない、ということになったら何もできない。
 避難マニュアルに「津波の際は高台に」といった程度の記述しかなく、具体的な避難場所指定がなされていなかったこともさほど問題ないと思う。かりに書かれてあったとしてもせいぜいが「新北上大橋たもとの三角地帯」程度であったろう(実際に職員・児童が向かった場所で、完全に津波に流された地点)。
“高さ十数メートルの津波”というのはまったくの想定外だったし、大川小は海岸から4kmも離れており、津波が川を溯って溢れ、怒涛となって引きかえす、といったこともおそらく知らなかった。
 何と言っても当日学校にいた11名の職員のうち9名が亡くなり、一人が行方不明になっているのだ。その重い事実が、すべては不可抗力であったことを証明している。
 では何が悪かったのか。

 
悪かったのは事後対応である。

 柏葉校長はなぜ保護者の先頭に立って泥にまみれ子どもを探さなかったのだろう。保護者の前で、あるいはマスコミの取材に対して、なぜ涙を流さなかったのか。家族の想いに心を寄せ、その悲しみに限りなく寄り添い、自分にできるすべてのことを迅速に行おうとしなかったのか。
 
保護者はその不誠実に苛立ち、そこから天災は人災になって行ったのだ。

 なぜそうしなかったのか―それは柏葉という人が“そういう資質だから”というしか言いようがない。
 抑えても自然に次から次へと涙が溢れてくるような熱血漢でもない、かといって危機管理上の必要から泣いて見せたり人一倍働いて見せたりするような狡知があるわけでもない。

 未曽有の危機にただオロオロとし、茫然自失し、何の有効な手段も打てない、そういう普通の人なのだ。
その凡庸が故に責任を取らなければならない。そういうこともあるのである。


(参考)証言3・11:東日本大震災 児童、泣き叫び嘔吐 学校最多の犠牲者、石巻市立大川小
 







2012.03.25

我田引水目立つ「外国の教育」


[産経新聞 3月24日]


 「大阪維新の会」の橋下徹代表の教育改革に多くの意見が寄せられている。見聞きしていると、あら ためて哲学者カントの言葉を思い出す。「この世の中に、もっとも大切で、もっとも難しい問題が2つある。一つは政治であり、もう一つは教育である。前者は 不完全な人間が不完全の人間を支配しようとするからであり、後者は不完全な人間が不完全な人間を教えようとするからである」。いろんな意見はある。橋下氏の改革に見逃せない重要提案があるとも思う。しかし、教育を考える者として、自らが完全な人間だという前提に立ったような傲慢な物言いを橋下氏に感じることもある。
 つい先ごろフィンランドの教育が優れているとして、あたかも夢の教育が行われているかのような報告がなされたことがあった。もちろん学ぶことがあるのは事実だ。謙虚にその良さを認めることもやぶさかではない。ただフィンランドならぬノキアランドとまで呼ばれた、フィンランドの代表的企業、ノキアが業績停滞のため、株主が最高経営者に釈明を求めたところ、問題は教育制度にあると反論された。
 日本のような平等・公平がモットーの教育をフィンランドがやったので、グーグルやアップルのような新しいアイデアを生む人材は育たないと主張したという。結果的にこの経営者は退任し、マイクロソフトなどのIT企業で活躍したカナダ人が後継者に選ばれた。
  デンマーク教育界の大御所、バーテル・ホルダー前教育大臣にお会いする機会があった。ホルダー氏は「デンマークはPISAの数字は低いがそれを問題にする つもりはない。高校卒業後、実習を中心にした実業学校があり、その間生徒各人の将来を考えさせるシステムをとっており、自分も若い頃、ここで勉強した」 と、誇らしく語っていた。人間形成(リベラルアーツ)が重要との意見ではないかとの印象を受けた。
 英国はオックスフォードやケンブリッジなど古典的な大学が教育界をリードしているはずであるが、ここではデンマークとは別に、もっと技術教育に力を入れないと国際競争に勝てないという意見も出ている。(マイケル・サンダーソン著『イギリスの経済衰退と教育』、R・オルドリッチ著『イギリスの教 育』)。
 中国では、一部の有名校が格差どこふく風といった具合にいかに優れたエリートを育てるかを問題としている。前にも書いたように、瀋陽の東北育才高校では驚くばかりの英才教育が行われている。
  米国はオバマ大統領が教育の重要性を強調し、学生時代からの友人、ダンカンを教育相に任命し、落ちこぼれゼロ法(NCLB法)を通し予算も大幅に増やし た。しかし、教育が地方の専管事項とされるこの国の教育政策は実に多彩である。橋下改革を一刀両断するのに一部の反対意見(教員組合が中心)をあたかも米国全体を覆っているかのように使うこともしばしばだ。私はこれにもまた疑問を禁じ得ない。
 世界各国の教育事情を参考にすることに反対はしないが、お手本にする国にはその国なりの悩みをまた抱えている。もっと複眼的に見なければダメだということだ。初歩的な知識もなしに、自らの考えに沿った 部分だけを「外国の実情」として強調している見解が日本では多すぎる。日本の教育改革にとってマイナスが大きく、プラスにはならない気がする。

日本漢字能力検定協会理事長・高坂節三

                  ◇
【プロフィル】高坂節三
 こうさか・せつぞう 経済同友会幹事、東京都教育委員など歴任。平成23年春から漢検理事長。兄は政治学者の故高坂正堯(まさたか)氏。




 フィンランドの教育について、ある人は「教員の資格が修士以上」を採り、別の人は「国民が読書好き」を採用する、またある人は「50人以下の少人数学校(学級ではない)が50%以上」を採り、また別の人は「教育予算が日本の倍以上」を取り上げるといったふうで、自分に都合の良い部分を我田引水的に採用する。

 そのくせ「フィンランドでは“学士”で卒業する人はなく、修業年限5年の大学を卒業すると皆“修士”」だとか、「授業時数はむしろ日本より少ない」とか「生徒は基本的に暗算ができず、授業には高機能の計算機を持ち込んで計算を行っている」とか「国民も暗算が苦手で、たとえば865円の買い物に1065円を出して財布の中の硬貨を減らす工夫はできない」とか、あるいは「体験学習は異常に少なく、学校行事もほとんどない」とか、「大学まで無償なので、そもそも最低年限で学校を卒業するという考え方がなく、就学猶予や留年を権利としてとらえる国民性がある」とか、「教員は3ヶ月に及ぶ夏休みを享受しており、その間長期バカンスに出たり研究したり、あるいはバイトをしてもいい」とかいった話は巧みに隠される―そういった話を私はさんざんしてきた。
 
 マーガレット・サッチャーの教育改革だのアメリカの学校マネジメントだの、やたら真似したがるが、両国とも日本に比べたら学力は格下だし、学校の犯罪も絶えない。日本の教師は生徒指導にあくせくしているが、アメリカやイギリスの教師が生徒指導で苦しまずに済むのは、単にそれが学校の仕事ではないからに過ぎない。

 中国の教育についてはさらに言いたいことがある・・・と、言い始めればキリがない。
 だが、今回この記事を取り上げたのには別の理由がある。
 それは
 世界各国の教育事情を参考にすることに反対はしないが、お手本にする国にはその国なりの悩みをまた抱えている。もっと複眼的に見なければダメだということだ。初歩的な知識もなしに、自らの考えに沿った 部分だけを「外国の実情」として強調している見解が日本では多すぎる。日本の教育改革にとってマイナスが大きく、プラスにはならない気がする。
と、
まったく私の考えと軌をひとつにする記事が、私が常に抵抗してきた産経新聞に載ったことである。

 そう言えば、つい二日前、Benesseからの引用とは言え(さらに“?”マークつきとは言え)「【教育動向】日本の学校教育は間違っていなかった!?」という記事を載せたばかりなのだ。
 安易に外国の教育を導入するな、日本の教育システムは非常に優れているのだから、
 こうした言い方が今日のマスコミ、特に産経新聞から出てきたことに驚く。しかも二件続けて。

 もしかしたらメディアは再び振り子を逆に振り返そうとし始めたのかもしれない。
一年後の新聞記事の見出しはこんなふうなのかもしれない。
「学力偏重に走って日本の国民性を台なしにしてしまった文科省の無策」
「全国統一テスト(全国学力学習状況調査)が、日本をだめにする」
「教員免許更新制によって教職希望者激減。低下する一方の教員の質をどう支えるか」
「未だに学校で47都道府県、県名と県庁所在地を暗記させる愚鈍な教師たち」
「不登校○○万人、いじめ事件○万件。学力偏重が招いた学校の荒廃」
・・・・・・・・

 






2012.03.30

「大外刈り」禁止 中学柔道指針 試合は座った状態で 静岡


[産経新聞 3月30日]


 4月から中学で武道が必修化されることに伴い、県教育委員会は重篤な事故が起きている柔道について、「大外刈り」を禁止し、投げ技を使った試合は行わない、などとする安全指導指針をまとめ、各市町の教委に通知した。県内では平成22年、中学の柔道部で大外刈りを受けた部員が死亡する事故が起きたこともあり、技の種類を制限する全国的にも厳格な内容の安全指針となった。

 県教委の指針は頭部外傷などの事故が予想される大外刈りは行わない▽投げ技を使う試合は行わない▽体格や技能の異なる生徒同士を組ませない−などとなっている。投げ技を使わなければ、試合は座った状態で行うのみとなり、立った状態での試合はできないことになる。

 1、2年生については「投げ技は互いに約束した動きの中で行うだけで、乱取りなどは行わない」と、より厳しい条件を課した。

 名古屋大学大学院の内田良准教授のまとめでは、22年度までの28年間に柔道中の事故により、全国で114人(中学39人、高校75人)が死亡。生徒10万人当たりの死者数も柔道は2・376人と、2位のバスケットボールの0・371人に比べ、突出している。

 県教委では「中学校では柔道の試合を全く行わないこともあり得る。礼に始まり礼に終わる柔道の精神は十分に学ぶことができる」と強調した。

 県教委によると県内の公立中173校(政令市を除く)のうち、柔道を選択したのは約75%。武道の授業は、中学1、2年で計約20時間、選択制となる3年でさらに約10時間行われる。




 映画『アマデウス』の中で、オペラの稽古中に皇帝がやってきて目を白黒させる場面があった。舞台上で歌手たちが無音で踊りを踊っていたのだ。
 皇帝が「これは何だ」と聞くと、舞台監督が「オペラの中にバレエを入れるのは禁じられていますので、音楽を削りました。皇帝陛下のご命令です」と応える。すると皇帝は「ばかばかしい」と言って前言を翻し、オペラ『フィガロの結婚』の第3幕フィナーレ「結婚の踊り」は復活するのだった。
 19世紀初頭の皇帝は、少し偉かった。21世紀の日本の政治家はそうはいかない。


 熱心にマスコミに接し日本の現状を見渡すと、どうも最近の子どもは生っちょろく、根性にかけるらしい。そのうえ外国かぶれで国を愛するとか伝統を愛するといった様子はかけらもないらしい。やっぱこういうときは武道だよなッ!
 と政治家が考え、学校の現実も見ずに教育基本法を変えて指導要領を方向付けする。しかしそもそもが“学校の現実”見ないで言い出したことなので現場に下りてくるととんでもないことが起こる。
中学柔道指針 試合は座った状態では、まさにそういう産物だ。

 学校に持ち込まれることで悪いことはひとつもない。
(2)武道に積極的に取り組むとともに,相手を尊重し,伝統的な行動の仕方を守ろうとすること,分担した役割を果たそうとすることなどや,禁じ技を用いないなど健康・安全に気を配ることができるようにする。
(3)武道の特性や成り立ち,伝統的な考え方,技の名称や行い方,関連して高まる体力などを理解し,課題に応じた運動の取り組み方を工夫できるようにする。     (いずれも中学校指導要領)
という正義と、

「子どもを絶対に傷つけない。ましてや学校教育の中で子どもが死ぬことはありえない」
という正義がバッティングして、
 そこを無理やり調整すると、
中学柔道指針 試合は座った状態で
となる。


これまでもこうした価値の拮抗は学校教育のさまざまな場面で起こってきた。

子どもは苦痛を強いられてはならない
     ←→子どもは学力をつけてもらう権利がある
  =子どもは何の苦労も努力もなしに、学力をつけてもらう権利がある

学校への携帯の持ち込みは禁止する(文科省通達)
     ←→特別な人の携帯については配慮すべきだ
  =携帯の持ち込みは禁止だが、特別な事情のある児童生徒については、申し出をまって校長が許可する。(おかげで、家の近辺の道が寂しいなのど特殊事情によって学校へ携帯を持ち込む子どもの数が増えてしまった。しかも堂々と持ってくる)


 しかしだからといって問題を原点に戻すことはしない。「アマデウス」の皇帝のように前言を撤回することはないのだ。

 指導要領から武道が消えることはない。しかし誰ひとりケガをさせてもいけない。
 したがって中学柔道指針 試合は座った状態でで行くしかないのだ。
 国民が選んだ(当時は自民党)政府が決めたことは、どんなにブサイクなかたちであれ、実現されなければならない。当の政府が引き下がらない限り。


(付記)
 私がこの記事を目にしたときの記事のツイートはわずか30そこそこだった。それが2時間20分後には1500を越えてしまった。どれもこれも「呆れてものが言えない」といった感じだが、「文科省はアホか?」「教委は何を考えてる?」「学校はなぜこうまでして柔道をやりたいのか」というのは方向が違うだろう。政治が「武道」をやると決めた以上、文科省や都道府県教委・市町村教委・学校は「やる」方向で全力を尽くすしかない。

 ほんとうは剣道にしたいのだが予算的に防具の数が揃えられない。女子も共修となれば相撲も選べない。なぎなたや合気道となると指導者の目途がまったく立たない。かくしてアホな教育課程は消えることがない。