キース・アウト
(キースの逸脱)

2012年6月

by   キース・T・沢木

サルは木から落ちてもサルだが、選挙に落ちた議員は議員ではない。
政治的な理想や政治的野心を持つ者は、したがってどのような手段を使っても当選しておかなければならない。
落ちてしまえば、理想も何もあったものではない。

ニュースは商品である。
どんなすばらしい思想や理念も、人々の目に届かなければ何の意味もない。
ましてメディアが大衆に受け入れられない情報を流し続ければ、伝達の手段そのものを失ってしまう。

かくして商店が人々の喜ぶものだけを店先に並べるように、 メディアはさまざまな商品を並べ始めた。
甘いもの・優しいもの・受け入れやすいもの本物そっくりのまがい物のダイヤ
人々の妬みや個人的な怒りを一身に集めてくれる生贄
そこに問題が生まれれば、今度はそれをまた売ればいいだけのことだ。


















2012.06.08

校庭からボール、蹴った少年に2審も賠償命令


[読売新聞 6月 8日]


 愛媛県今治市で2004年、オートバイに乗った80歳代の男性が、小学校から飛び出たサッカーボールを避けようとして転倒し、この時のけがが原因で死亡したとして、大阪府内の遺族らが、ボールを蹴った当時小学5年だった元少年(20)の両親に計約5000万円の損害賠償を求めた訴訟の控訴審判決が7日、大阪高裁であった。
 岩田好二裁判長は、1審・大阪地裁判決に続いて元少年の過失を認定し、両親に計約1180万円の賠償を命じた。
 岩田裁判長は「校庭からボールが飛び出すのは珍しくなく、注意しながら走行すべきだった」と男性の過失を新たに認定し、賠償額を約320万円減額した。
 判決によると、04年2月、元少年が校庭で蹴ったボールが道路にまで転がり出て、男性がオートバイごと転倒。足の骨折などで入院し、その後、生活状況の変化で体調が悪化し、翌年7月、肺炎で死
亡した。


 これだけだとさっぱりわからないのでさらに調べると、少年の蹴ったボールはサッカーゴールを越え、さらにその先にあった高さ1mの門扉を越えて道路に出たことが分かる。また
80代の男性は足を骨折して入院した直後から認知症が進み、そのため約1年半後に、脳の機能低下から“食べ物が誤って気管に入って起きる誤嚥性肺炎”によって亡くなっている。
 ただしここまで調べても80代の男性の損害賠償額が5000万円と高額なこと、学校の管理責任が問われていないこと、また小学校5年生のごくありがちな普通の行為に対して、裁判所が1180万円もの賠償金を命じた背景など、分からないことは山ほどある。
 こんな判決が次々出るようでは、とてもではないが子どもなど持てない。

 さて、まず5000万円の件だが、これには理由がある。
 裁判ではいったん係争のテーブルに損害額や慰謝料の一切が乗せられるのだ。その上で全損害額・慰謝料から本人の過失分(この件だと80代の男性がオートバイに乗っていることの可否など)、また(この裁判では訴えられていないが)道路管理者の過失分、学校の過失分などが引かれ、残った金額が被告の支払うべき金額ということになる。
 したがって原告も最初から5000万円を獲得できるものとは考えていないし、老人とはいえ、一人の人間の死に対して5000万円は決して高すぎる金額ではない。

 事故と1年半後の死亡との因果関係は、難しくなるのでここでは省く。

 その上で、学校などの責任が問われていない件については以下のような説明がある。
 
遺族側は「少年側の責任は明らか。学校の責任を問うことで争点を増やし、審理が長期化するのは避けたい」として、裁判の被告を少年と両親に限定(2011年7月8日 読売新聞)
したのだ。
 しかし実は、背景には
審理が長期化するのは避けたいとは違った別の理由があった。それは、
 訴訟関係者によると、少年側は他人に損害を与えた場合に備えた保険に加入しており、保険会社と男性の遺族間の示談交渉が折り合わず(2011年7月8日 読売新聞)というのだ。

 つまり
被害者遺族と保険会社の間で、事態がこじれてしまっていた。そこで遺族は保険会社を訴えるわけにはいかないので、加害児童の保護者を訴えるというかたちをとったということになる。

 強欲な遺族といった見方もあったが、この人たちも普通の家庭を訴えたわけではなく、裁判になる前に保険会社との心理的軋轢があってこうなったのだ。ここに至ってようやく、事件全体が納得できるものに落ち着く。
 
世の中、常識外れのできごとはそうは起こらない。報道で何かおかしいと思うときは、必ず隠された別の何かがあるものだ。

 しかしもちろん、判決は「保険加入していたので」という限定的なものではない。こうした判決が出た以上、保険の有無にかかわらず、子どもの普通の活動で高額の賠償金が請求される道筋がついたことは確かだ。







2012.06.27

いた!!入れ墨教師…それも小学校
大阪市教委調査 教師1人含む教職員10人彫る


[産経新聞 6月26日]


 大阪市職員113人が入れ墨をしていると回答した全庁調査に絡み、所管の教職員約1万7千人について独自調査を行った市教委は26日、学校園の教 職員10人が入れ墨をしていると申告したことを明らかにした。現業職員9人(管理作業員8人、給食調理員1人)のほか、小学校教諭も1人いた。教諭は人目 に触れる可能性がある部位に入れ墨をしているといい「これまで子供たちに見えないよう留意していた。今後消したい」と話しているという。

 市教委は今後、勤務時間中の留意事項として「身体に入れ墨がある職員は、それを市民にみせないこと」などの規定を追加し、「入れ墨の施術」を禁止するよう改正した23日施行の市職員倫理規則について周知を徹底する。

 市教委による今回の調査は、記名式だった全庁調査とは異なり、各校長らに教職員から自己申告で入れ墨の有無を聞き取って報告するよう求める形で調査を実施した。

 入れ墨をしていると回答した10人のうち、児童生徒の目に触れる可能性がある部位にあるとしたのは、小学校教諭と管理作業員の各1人。目に触れる可能性のない部位に入れ墨をしていたのは職員8人だった。

 市教委の担当者は「10人という数字は予想より多く驚いている。特に教員にはいないと思っていたので残念だ」と話した。

 橋下徹市長は、入れ墨があると回答した教諭については「反省をして消すという態度に出ている」と理解を示す一方、調査について「管理責任者は市教委なのに、校長に(調査を)丸投げしていいのか」と批判した。



 イザヤ・ペンダサンによるとユダヤの立法では100対0の評決は無効である。全員一致はそこに魔力が掛かっている可能性があるからだ。100人いればだれか一人は違っていなければならない。それがユダヤの確信なのである。

 大阪市にはは義務教育だけでも1万人近い教員がいる。その中の0.01%が刺青を入れていたということ、それほど意外でもないはずだ。
いた!!入れ墨教師…それも小学校というほどの問題でもないだろう。
 大阪市の教職員全員で反省するような事柄でもない。

 
大阪市にはかつて背中の全面に観音と蛇の刺青を入れた助役がいた。弁護士の大平光代その人である。1万人に1人の刺青教師、何を理由に入れたのか、聞いてみたいものである。








2012.06.28

英語ブーム 再び 話したいけど話せない…その訳は


[産経新聞 6月28日]


 小学校で英語授業が必修化され、社内公用語を英語にする企業が相次ぐなど「英語ブーム」が続いている。書店に行けば、英語本コーナーがにぎやかだ。英語を学ばなければならないと思いつつも、“英語コンプレックス”なる言葉ができるほど苦手意識を持つ日本人。日本人と英語の愛憎半ばする関係を探った。(磨井慎吾)

TOEIC本が圧勝

 「2000年代以降、第3次英語ブームが続いている」と話すのは、100冊以上の英語本を出版し、『英語ベストセラー本の研究』(幻冬舎新書)の著作もある作家の晴山陽一さん(61)。敗戦後の1940年代を第1次、東京五輪や大阪万博など大型国際イベントが続いた60年代を第2次とした上で、2000年代初頭から現在までを第3次と位置づける。「ただ、ブームは続いているが、大学生の英語力の低下が指摘されるなど、成果が挙がっているとは言いがたい。最近の英語本は、TOEIC(トーイック)関連本の独り勝ちの状況」とみる。
(略)

明治から続く課題…

 英語市場が巨大化した割に、日本人の英語力の評判はよくない。なぜ日本人は英語が苦手なのか。常にやり玉に挙げられてきたのは、学校英語教育だった。

 だが、日本の英語教育史に詳しい斎藤兆史(よしふみ)・東大教授(54)の『日本人と英語』(研究社)によると、「学校で習う英語は役に立たない、この状況を何とかしろという不満は、明治中期以降、何度も噴出している」。現在に至るまで幾度も英語教育改革が提唱されてきたが、斎藤教授は同書の中で「日本英語教育史上、中学・高校レベルでの大衆英語教育がめざましい成果を挙げたためしはただの一度もない。それは、文法・読解重視の教育が悪いからでも、受験英語が悪いからでもない。並の日本語話者が、一日一時間程度の授業を六年間受けただけでいっぱしの英語の使い手になるのは、そもそも無理なのである」と、過大な期待のもとに制度いじりを繰り返す改革論を痛烈に批判する。


強烈な学習熱不可欠

 言語学者の鈴木孝夫・慶応大名誉教授(85)も、『日本人はなぜ英語ができないか』(岩波新書)で、(1)英語は日本語とまったく違う言語系統に属し、ヨーロッパ諸語の話者が英語を学ぶ場合に比べ格段の努力が必要(2)植民地にされたことがなく、英語ができなくても社会生活で一切困らない。高等教育もほぼ日本語で行われるので、そもそも学ぶ動機付けが弱い−ことを指摘する。英語教育の成果を真に挙げるには、“英語漬け”になることをいとわない学び手の強烈な学習熱が不可欠なのだ。

 日本の学校英語教育が例外的に成功し、キリスト教思想家の内村鑑三(1861〜1930年)や思想家の新渡戸稲造(1862〜1933年)ら多数の「英語名人」を生んだのは、すべての授業を英語で行った明治初期だった。だが、それは植民地化の恐怖と、経済や文明水準の巨大な格差を背景にした学習熱でもあった。日本語での教育環境が整い、日本の国力が高まるにつれ、学生の英語力は低下していく。日本の国際的地位と英語学習意欲には、密接な関係があった。

 今また、英語ブームが到来している。今後、日本人の英語力が顕著に上昇する日が来るのだろうか。だが、それは日本にとって、必ずしも幸福な時代ではないのかもしれない。

(以下、略)



 韓国の元大統領、金大中氏は日本人記者のインタビューを受けるとき、不思議な通訳の使い方をした。通訳は金大中氏の韓国語を日本語に換えることはするが、日本人記者の言葉を韓国語に翻訳することはしないのだ。

 実は彼は完璧に日本語を使いこなす人で、記者の質問は通訳なしで理解した。しかし韓国国内で公的な立場で話すときは、決して日本語を話さなかったのだ。それが不思議な通訳の理由である。では、なぜ彼はそれほどに日本語に堪能だったのか、そしてしゃべれるにもかかわらず少なくとも韓国国内で話そうとしなかったのはなぜか、それは言わずもがなのことであろう。
 
 現在、一般国民が英語を自由に使いこなす国はイギリス以外にかなりある。合衆国・カナダ・オーストラリア・ニュージーランドについてはよく知られているところである。その他アジアでは、インド・スリランカ・パキスタン・シンガポール・フィリピンなどが代表だが、合衆国やカナダとインド・フィリピンとではだいぶ様相が違う。それは前者がノーマンズ・ランドに近い状態の土地にイギリス人が大量に入植して自らの言語を広げたのに対し、後者はすでに多くの現地人がいたにもかかわらず、米英が直接支配して英語を強制した国々だからである。先の日本と韓国の関係にも似ている。

 ただし韓国はもともと「韓国語」という強い共通語を持っていたので公用語としての日本語はあっという間に廃れてしまったが、インドやフィリピンはそういうわけにはいかなかった。それぞれ国内に数百の言語があり、国内のコミュニケーション・ツールとしての英語は、独立後も残さざるをえなかったのである(インドの公用語のヒンディー語もフィリピンのタガログも、厳密には一地方の言語でしかない)。
 
 記事にもあるが、国民の大半が英語ができるというのはこういう状態なのである。母国語が盤石であって母国語ですべて用が足りると言うのに、外国語を公用語のように高めることは本来不可能である。
 
「猫」という言葉があるのに「cat」を使う理由がない(ただし「キャット・フード」も「キャット・ピープル」も日本にないからこういう場合は使う)。両者を同じ頻度で使うためには、常に英語しか話せないネイティブスピーカがそばにいることが必要なのである。
 
 それにもかかわらず政府や一部の“識者”は、日本人全員の英語力を高めようとする。
教育に無理を差し込めば、そこには必ずひずみが出ることを、この人たちは知らないのだ。