滋賀県大津市で昨年10月、市立中学2年の男子生徒=当時(13)=が飛び降り自殺した問題で、男子生徒へのいじめについて学校側が直後に在校生徒に実施したアンケートで、教諭が「見て見ぬふり」「一緒になって笑っていた」などといじめを放置していたことを示す回答が少なくとも14人分あったことが4日、関係者への取材でわかった。アンケートには男子生徒が自殺の練習をさせられていたとの回答があったことがすでに判明。市教委は「自殺の練習」と同様に、事実確認できないとして公表していなかった。
教諭の放置を示す回答は記名8人、無記名6人で、直接見聞きした内容が1人、伝聞が13人。「先生も見て見ぬふり」や「一度、先生は注意したけれどその後は一緒になって笑っていた」と記されていた。また「先生もいじめのことを知っていたけどこわくて言えなかったらしい」などとするものもあった。
一方、男子生徒が先生にも泣きながら電話でいじめを訴えたが、あまり対応してくれなかったらしい、と指摘する回答もあり、教諭が男子生徒へのいじめを認識していながら、適切な対応をとっていない可能性があることが明らかになった。
市教委は昨年11月、記名で生徒が実際に目撃し、事実確認できたアンケート内容のみを公表し、死亡した男子生徒がいじめを受けていたことを認めたが、いじめと自殺との因果関係は不明としていた。
しかし「自殺の練習」や教諭の放置を示す回答は、追加調査しても事実確認できないとの理由で、公表を見送っていた。
大津市の澤村憲次教育長は4日市役所で記者会見し、「自殺の練習」のアンケート結果を公表しなかったことについて「隠したとは思っていない。(回答した生徒が)直接見たわけでなく、事実として確認しきれず、公表しなかった」と釈明した。
当初「自殺の練習」と回答したのは15人とみられていたが、大津市教委は4日、16人と発表した。
事件は昨年10月に滋賀県大津市の中学2年生(男子)が、自宅マンションから飛び降りて自殺したことに始まる。翌11月、市はいじめのあったことは認めたものの「いじめと自殺の因果関係は分からない」ということで責任を取る姿勢を示さなかった。そこで本年2月、両親が大津市といじめの加害者3名、その保護者を相手に、総額7700万円の損害賠償を求める訴えを地方裁判所に出したのである。今回はその第二回口頭弁論に提出する原告側の書面の一部が洩らされたものであり、生徒のアンケートから学校側の不誠実が明らかとなって、マスコミやネット上で騒がれているのである。
問題となっている具体的な中身はまず、「自殺の練習」という極めて猟奇的なことが繰り返し行われていたこと。
第二に、学校がいじめの事実を知りながら放置したということ(「先生も見て見ぬふり」「後は一緒になって笑っていた」「先生もいじめのことを知っていたけどこわくて言えなかったらしい」「泣きながら電話でいじめを訴えたが、あまり対応してくれなかった」)
第三に大津警察署も三度にわたる父親の被害届を受理しなかったことなどである。
ただ上の記事を見てもわかるように、
こわくて言えなかったらしい
あまり対応してくれなかったらしい
といった伝聞ないしは推測部分が多く、「自殺の練習」に至っては想像することも難しい。何度もベランダの外に立たされたとか、首吊りの縄に首を入れさせられたといった事実があれば、これを大人社会に通報しなかった子どもの責任も重いだろう(自殺教唆の目撃者なのだから)。
そこから
「自殺の練習」や教諭の放置を示す回答は、追加調査しても事実確認できないとの理由で、公表を見送っていた
ということになるのだが、やはりそれは姑息な手段であったと言わざるをえない。少なくとも保護者には事実確認できなかった情報についても知らせ、調査の届かなかった経緯についても話しておく必要があった。
子どもが自殺したとなると親は必死になる。気づいてやれなかった、なんでも相談できるような親子関係を築いておかなかった、もう一歩突っ込んで学校に抗議しておけばよかったと、自責の念がエネルギーとなり、親は容赦しない。
社会も注目する。メディアは公務員に最高の道徳を要求し、わずかな瑕疵も許さない。鵜の目鷹の目でのその不正を探っているのだ。
そうである以上、学校や教委は全力で調査を行い、徹底的にやりつくすべきだった。
「自殺の練習」について記名で語った生徒は何名で誰で、それを実際に見たならどんな様子だったのか、伝聞なら誰に聞いたのか、それを伝えた子は実際見たのか誰かから聞いたのか―いずれその連鎖は途切れるにしても、分かる範囲の一番先まで行ってくる必要があった。
男子生徒が先生にも泣きながら電話でいじめを訴えたが、あまり対応してくれなかったらしい
というのは誰から聞いた話なのか、
一度、先生は注意したけれどその後は一緒になって笑っていた
というのはどういう状況でどんな注意の仕方をしたのか。笑いながらずっと見ていたのか、その後どうなったのか・・・。
そういったことはすべて旬な仕事であって自殺事件直後でないと取材できないものである。時間がたてばたつほど記憶は曖昧になり他の情報に動かされ、保身に走るべき者は口をつぐみ、一部の子の「注目されたいばかり捏造もしくは誇張した話」も撤回させることができなくなる。
結論的に言えば、相当に突っ込んで調査しても、今回の大津市教委および学校の結論と大差ないものに終わったと思う。しかしそうした徹底的な調査をしておけば、今回のように「自殺の練習」や「あまり対応してくれなかったらしい」についても、いちいち
「その件については書いた生徒の錯誤でした」
「この件についてはここまで追求したがそこから先は調査しきれませんでした。捜査権のない学校の限界はここまででした」
「そちらの件は無記名で書かれたもので、重要な内容だから直接話したいと繰り返し呼び掛けたが以後申し出るものがありませんでした」
とかいった説明ができたはずである。それが誠意というものだろう。学校として可能なことのすべてをやり尽くしたと、そう感じてもらえれば親も裁判に訴えるまではしなかったはずだ。
これは学校に取って誠意の問題ではない。危機管理がなっていなかったということである。
河原裁判長は判決理由で「計画的で執拗(しつよう)かつ残酷な犯行。アスペルガー症候群の影響は量刑上、大きく考慮すべきではない」と指摘。その上で「十分な反省がないまま社会に復帰すれば、同様の犯行に及ぶ心配がある。刑務所で内省を深めさせる必要がある」と述べ、殺人罪の有期刑上限が相当とした。
判決によると、大東被告は小学5年のころから約30年間引きこもり状態で、生活の面倒をみていた姉に逆恨みを募らせ殺害を決意。昨年7月25日、市営住宅の自室を訪れた姉の腹などを包丁で何度も刺し、死亡させた。
山本譲二は著書「累犯障害者」の中で「こういう人たちを刑務所に入れておくことにどういう意味があるのか」という刑務官のつぶやきを拾っている。
必要なのは懲罰ではなく、支援あるいは教育なのだ。
家族が同居を望んでいないため障害に対応できる受け皿が社会になく、再犯の恐れが強く心配される
教諭の放置を示す回答は記名8人、無記名6人で、直接見聞きした内容が1人、伝聞が13人。「先生も見て見ぬふり」や「一度、先生は注意したけれどその後は一緒になって笑っていた」と記されていた。また「先生もいじめのことを知っていたけどこわくて言えなかったらしい」などとするものもあった。
一方、男子生徒が先生にも泣きながら電話でいじめを訴えたが、あまり対応してくれなかったらしい、と指摘する回答もあり、教諭が男子生徒へのいじめを認識していながら、適切な対応をとっていない可能性があることが明らかになった。
市教委は昨年11月、記名で生徒が実際に目撃し、事実確認できたアンケート内容のみを公表し、死亡した男子生徒がいじめを受けていたことを認めたが、いじめと自殺との因果関係は不明としていた。
しかし「自殺の練習」や教諭の放置を示す回答は、追加調査しても事実確認できないとの理由で、公表を見送っていた。
大津市の澤村憲次教育長は4日市役所で記者会見し、「自殺の練習」のアンケート結果を公表しなかったことについて「隠したとは思っていない。(回答した生徒が)直接見たわけでなく、事実として確認しきれず、公表しなかった」と釈明した。
当初「自殺の練習」と回答したのは15人とみられていたが、大津市教委は4日、16人と発表した。
事件は昨年10月に滋賀県大津市の中学2年生(男子)が、自宅マンションから飛び降りて自殺したことに始まる。翌11月、市はいじめのあったことは認めたものの「いじめと自殺の因果関係は分からない」ということで責任を取る姿勢を示さなかった。そこで本年2月、両親が大津市といじめの加害者3名、その保護者を相手に、総額7700万円の損害賠償を求める訴えを地方裁判所に出したのである。今回はその第二回口頭弁論に提出する原告側の書面の一部が洩らされたものであり、生徒のアンケートから学校側の不誠実が明らかとなって、マスコミやネット上で騒がれているのである。
問題となっている具体的な中身はまず、「自殺の練習」という極めて猟奇的なことが繰り返し行われていたこと。
第二に、学校がいじめの事実を知りながら放置したということ(「先生も見て見ぬふり」「後は一緒になって笑っていた」「先生もいじめのことを知っていたけどこわくて言えなかったらしい」「泣きながら電話でいじめを訴えたが、あまり対応してくれなかった」)
第三に大津警察署も三度にわたる父親の被害届を受理しなかったことなどである。
ただ上の記事を見てもわかるように、
こわくて言えなかったらしい
あまり対応してくれなかったらしい
といった伝聞ないしは推測部分が多く、「自殺の練習」に至っては想像することも難しい。何度もベランダの外に立たされたとか、首吊りの縄に首を入れさせられたといった事実があれば、これを大人社会に通報しなかった子どもの責任も重いだろう(自殺教唆の目撃者なのだから)。
そこから
「自殺の練習」や教諭の放置を示す回答は、追加調査しても事実確認できないとの理由で、公表を見送っていた
ということになるのだが、やはりそれは姑息な手段であったと言わざるをえない。少なくとも保護者には事実確認できなかった情報についても知らせ、調査の届かなかった経緯についても話しておく必要があった。
子どもが自殺したとなると親は必死になる。気づいてやれなかった、なんでも相談できるような親子関係を築いておかなかった、もう一歩突っ込んで学校に抗議しておけばよかったと、自責の念がエネルギーとなり、親は容赦しない。
社会も注目する。メディアは公務員に最高の道徳を要求し、わずかな瑕疵も許さない。鵜の目鷹の目でのその不正を探っているのだ。
そうである以上、学校や教委は全力で調査を行い、徹底的にやりつくすべきだった。
「自殺の練習」について記名で語った生徒は何名で誰で、それを実際に見たならどんな様子だったのか、伝聞なら誰に聞いたのか、それを伝えた子は実際見たのか誰かから聞いたのか―いずれその連鎖は途切れるにしても、分かる範囲の一番先まで行ってくる必要があった。
男子生徒が先生にも泣きながら電話でいじめを訴えたが、あまり対応してくれなかったらしい
というのは誰から聞いた話なのか、
一度、先生は注意したけれどその後は一緒になって笑っていた
というのはどういう状況でどんな注意の仕方をしたのか。笑いながらずっと見ていたのか、その後どうなったのか・・・。
そういったことはすべて旬な仕事であって自殺事件直後でないと取材できないものである。時間がたてばたつほど記憶は曖昧になり他の情報に動かされ、保身に走るべき者は口をつぐみ、一部の子の「注目されたいばかり捏造もしくは誇張した話」も撤回させることができなくなる。
結論的に言えば、相当に突っ込んで調査しても、今回の大津市教委および学校の結論と大差ないものに終わったと思う。しかしそうした徹底的な調査をしておけば、今回のように「自殺の練習」や「あまり対応してくれなかったらしい」についても、いちいち
「その件については書いた生徒の錯誤でした」
「この件についてはここまで追求したがそこから先は調査しきれませんでした。捜査権のない学校の限界はここまででした」
「そちらの件は無記名で書かれたもので、重要な内容だから直接話したいと繰り返し呼び掛けたが以後申し出るものがありませんでした」
とかいった説明ができたはずである。それが誠意というものだろう。学校として可能なことのすべてをやり尽くしたと、そう感じてもらえれば親も裁判に訴えるまではしなかったはずだ。
これは学校に取って誠意の問題ではない。危機管理がなっていなかったということである。
2012.07.30
「発達障害で求刑超え懲役20年判決「社会秩序の維持に」
[産経新聞 7月30日]
河原裁判長は判決理由で「計画的で執拗(しつよう)かつ残酷な犯行。アスペルガー症候群の影響は量刑上、大きく考慮すべきではない」と指摘。その上で「十分な反省がないまま社会に復帰すれば、同様の犯行に及ぶ心配がある。刑務所で内省を深めさせる必要がある」と述べ、殺人罪の有期刑上限が相当とした。
判決によると、大東被告は小学5年のころから約30年間引きこもり状態で、生活の面倒をみていた姉に逆恨みを募らせ殺害を決意。昨年7月25日、市営住宅の自室を訪れた姉の腹などを包丁で何度も刺し、死亡させた。
山本譲二は著書「累犯障害者」の中で「こういう人たちを刑務所に入れておくことにどういう意味があるのか」という刑務官のつぶやきを拾っている。
必要なのは懲罰ではなく、支援あるいは教育なのだ。
家族が同居を望んでいないため障害に対応できる受け皿が社会になく、再犯の恐れが強く心配される
大東一広被告の刑期が延びたのはただこれだけの理由である。
受け皿さえあれば少なくとも4年の刑期延長はなかった。それは大東被告の責任ではない。
いや、障害そのものも被告の責任ではない。
十分な反省がないまま社会に復帰すれば、同様の犯行に及ぶ心配がある。刑務所で内省を深めさせる必要がある
確かに、この人たちの様子を見れば「反省」など微塵もないように見える。しかしそれは「反省がない」のではない。「反省」自体が理解できないのだ。「反省」が何であって、この場合「なぜ反省しなければならないか」は別に学ぶ必要がある。ただ刑務所に置いて「内省」を求めてもまったく可能性はない。
裁判の場で、発達障害がここまで理解されていないとはまったく思わなかった。
受け皿さえあれば少なくとも4年の刑期延長はなかった。それは大東被告の責任ではない。
いや、障害そのものも被告の責任ではない。
十分な反省がないまま社会に復帰すれば、同様の犯行に及ぶ心配がある。刑務所で内省を深めさせる必要がある
確かに、この人たちの様子を見れば「反省」など微塵もないように見える。しかしそれは「反省がない」のではない。「反省」自体が理解できないのだ。「反省」が何であって、この場合「なぜ反省しなければならないか」は別に学ぶ必要がある。ただ刑務所に置いて「内省」を求めてもまったく可能性はない。
裁判の場で、発達障害がここまで理解されていないとはまったく思わなかった。