キース・アウト
(キースの逸脱)

2012年12月

by   キース・T・沢木

サルは木から落ちてもサルだが、選挙に落ちた議員は議員ではない。
政治的な理想や政治的野心を持つ者は、したがってどのような手段を使っても当選しておかなければならない。
落ちてしまえば、理想も何もあったものではない。

ニュースは商品である。
どんなすばらしい思想や理念も、人々の目に届かなければ何の意味もない。
ましてメディアが大衆に受け入れられない情報を流し続ければ、伝達の手段そのものを失ってしまう。

かくして商店が人々の喜ぶものだけを店先に並べるように、 メディアはさまざまな商品を並べ始めた。
甘いもの・優しいもの・受け入れやすいもの本物そっくりのまがい物のダイヤ
人々の妬みや個人的な怒りを一身に集めてくれる生贄
そこに問題が生まれれば、今度はそれをまた売ればいいだけのことだ。


















2012.12.07

発達障害61万人:クラス平均2〜3人、教員の研修不可欠


[毎日新聞 12月 5日]


 発達障害の可能性がある公立小中学生は推計61万人余り??。文部科学省調査の結果に、杏林大医学部の岡明教授(小児神経専門)は「実感としてその数字は理解できる。潜在的に困難を感じる子供はさらにいるのではないか」と話す。

 小学校長の経験もある愛知県の中学校長(58)は、学校では他の生徒との間でトラブルが起きないように注意を払っているという。「生徒や担任、保護者が理解を深めれば、子供も周囲に適応しやすくなる」という。

 中には、授業が理解できなかったり叱られたりして不登校になったり、いじめや学級崩壊など問題行動を起こしたりする子供や、逆にいじめの対象になる子も。知的障害がない場合は普通学級に通うが、岡教授は「一人一人の特性を見ながら大人がそばで対応する必要がある」と指摘する。

 文科省は教員の増員を進めているが、公立小中学校の教員で発達障害の研修を受けたのは4分の3(04?11年度の実数)。どのクラスにも平均2?3人がいるのなら全教員の研修は不可欠だ。教師の理解不足は状況の悪化を招きかねない。

 発達障害者や家族を支える支援は、放課後児童クラブの運営や生活介護などが法律によって提供されている。だが自治体で支援に差があるのが実情だ。

 NPO法人「文化学習協同ネットワーク」が07年に設立した特別支援教室「コスモアミークス」(東京都三鷹市)には、週1?2日、放課後に発達障害を持つ小学2年から高校2年までの10人が通う。遅れがちな勉強を教えるとともに、安心を与える場所にもなっている。職員の佐々木亨さんは「学校では『叱られるかもしれない』と緊張して教室を出ていく子供がいる。友達や大人から認められているという安心感があると、彼らの行動も落ち着く」と話す。【石丸整】



これは、「発達障害:小中学生61万4000人 文科省調査・推計」(毎日新聞 2012年12月05日)
の後付として出てきた記事だ。
 前触れとなる記事は次のようなものである。

 普通学級に通う公立小中学生の6.5%に発達障害の可能性があることが5日、文部科学省の調査で分かった。40人学級で1クラスに2?3人が「読む・書く」が苦手、授業に集中できないなどの課題を抱えていることになる。(略)
 「文章の要点を読み取れない」「簡単な計算ができない」などLDがあり、学習面で著しい困難がある小中学生は4・5%。「教室で離席する」などのADHDが3.1%。「周りの人が困惑することを配慮せず言う」などの高機能自閉症は1.1%。一部はこれらが重複していた。(略)
 また、38.6%は「個別指導」などの支援は受けておらず、学校内で支援が必要と判断された児童生徒(18.4%)でも6%が無支援だった。
(略)











 「発達障害」で一括りにされる「学習障害(LD)」と「注意欠陥多動性障害(ADHD)」そして「高機能自閉症」は中身が相当に異なる。特に“組織としての学校”という観点から見るとき、
LDの場合、本人は非常に困っていても集団は困らない(したがって発見も遅れる)。それに対してADHDや高機能自閉症は時に集団を激しく揺さぶるのですぐに見えてくるのだ。
 例えば「周りの人が困惑することを配慮せず言う」高機能自閉症の隣に、衝動性が中心的課題であるADHDがいれば間髪を入れず喧嘩である。殴った方は自分を抑えきれないし、殴られた方はなぜ殴られたか理解できない。自分が種を蒔いたということをすぐには分からない。そんなことが日常茶飯になる。

 したがって発達障害をいっしょくたに扱うことは無用な誤解を生じる。メディアの人々もよく分かっていない。例えば、
 中には、授業が理解できなかったり叱られたりして不登校になったり、いじめや学級崩壊など問題行動を起こしたりする子供や、逆にいじめの対象になる子も。
 これだとまるで勉強ができない子が叱られて問題を起こすみたいな書き方だが、そんなことはない。LDで授業を理解できない子はいてもLDのために叱られる子はいない。LD単独(ADHDや高機能自閉との重複障害がない場合)だと学級崩壊や問題行動を起こすこともない。いじめの対象ということもない。
 しかしいADHDや高機能自閉の子は、問題行動の原因になったりいじめの対象になることも少なくない。いきなりキレたり空気を読まずに行動する子はトラブルメーカーになり易いし、本人もつらい。
 近頃「不登校の2割(人によっては4割とも)は発達障害がある」といった言い方がされるが、この場合の「発達障害」はほぼ「高機能自閉」に一致する。人間関係が分からない、人の気持ちが測れない、となると学校にいるのは苦しいのだ。

 学校では『叱られるかもしれない』と緊張して教室を出ていく子供がいる。
 ここにも混乱がある。ADHDの子が出歩くのはこうした心理の綾を経てのことではない。教室を出たくなったから出ただけなのだ。衝動性というのはそういうものである。「叱られるかもしれない」と先を読んで行動をコントロールできるような子は、ADHDでも高機能自閉でもない。

 この問題が教師の理解で解決すると考えるならそれも間違いだ。
 
どのクラスにも平均2〜3人がいるのなら全教員の研修は不可欠だ。教師の理解不足は状況の悪化を招きかねない。
 地域によって落差は大きいようだが、10年前と比べると学校の“理解”は格段に進んでいる。研修も毎年のように行っている。それでも解決できないことがある。

 ポイントは、岡教授の言う、
 「一人一人の特性を見ながら大人がそばで対応する必要がある」と、38.6%は「個別指導」などの支援は受けておらず、学校内で支援が必要と判断された児童生徒(18.4%)でも6%が無支援だった。である。
 

 端的に言おう。何らかの事情でADHDや高機能自閉の子がパニックを起こし、あるいは喧嘩をし、あるいは一方的に拗ねてしまったとき、その時こそ
「一人一人の特性を見ながら大人がそばで対応する必要がある」のである。
 したがって
担任はその子を連れて教室を後にする。外に出てその子を落ち着かせる。その間教室はほったらかしなのだ。そこに問題がある。
 発達障害の子がようやく落ち着いてクラスに戻るとき、教室はすでに先ほどまでの静けさを保っていない。子ども、特に小学生は、担任が20分も留守にしている間、静かに自習しているという訳にはいかない。かくしてせっかく落ち着いた発達障害の子の心にも波立つ。そんなことの繰り返しなのである。
これでは発達障害の子もクラスもよくなりようがない。
 

 38.6%は「個別指導」などの支援は受けておらず、学校内で支援が必要と判断された児童生徒(18.4%)でも6%が無支援だった。
 それは当たり前だ。教室には原則的に一人の教員しかいない。だとしたらどう個別指導したらいいのか。授業中、声をかけてもらわなければならない子は発達障害の子だけではない。
 
教師がどれほど意識を高め理解を進めても、40人を同時に教えながらクラスに2〜3人の発達障害の子につき切りになることはできないのである。
 個別指導ができない理由は、実はそんな単純なところにある。



*この問題が混乱するのは、メディアや一般の方々の不勉強のせいばかりではない。発達障害の専門家や教員の中での言葉の定義が揺れているせいでもある。
  1. 医師の一部は「高機能自閉症」の中身を「高機能自閉症」と「アスペルガー症候群」に分けるべきだと考え、別の一部はそんなに細かく分けてもしかたない(あるいは分類自体が無意味だ)と考えている。
  2. 教育現場では「発達障害」の3つのグループがその様態も対応の仕方もまったく異なるため、「発達障害」というくくりで考えることが年々難しくなってきた。そのため「発達障害」というカテゴリーからLDがまず外され、続いてADHDが別のカテゴリーとして外に出て、それぞれ異なる問題として対処されるようになった。
    その結果「発達障害」と言えば「高機能自閉(アスペルガー症候群)」と考えるようになった側面がある。
    例えば上記の「不登校の2割(人によっては4割とも)には発達障害がある」も、念頭にあるのは高機能自閉のことであってLDやADHDではない。
    もちろん、だからといって広義の「発達障害」がなくなったわけではなく、今でも「発達障害」は、公式には「LD」「ADHD」「高機能自閉」を含んだ概念である。







2012.12.19

二審も賠償請求棄却=中2「いじめ」自殺訴訟−名古屋高裁


[時事ドットコム 12月19日]


 岐阜県瑞浪市で2006年、いじめを苦に自殺したとされる市立中学2年の女子生徒=当時(14)=の両親が、遺書に名前が記されていた元同級生4人と保護者らに計約5700万円の損害賠償を求めた訴訟の控訴審判決で、名古屋高裁は19日、訴えを退けた一審岐阜地裁判決を支持、両親側の控訴を棄却した。
 渡辺修明裁判長は「遺書にはどのような行為でどのような精神的苦痛を受けたのか、具体的事実に関する記載がない」と指摘。学校側がいじめを認めたとする両親の主張について「教育界では本人が身体的、精神的に苦痛を感じていればいじめと見なされるが、それが直ちに民法上の不法行為に該当するとは言えない」と述べた。



 ネット上ではおそろしく不評だが、私は妥当な判決と思う。
 裁判所が斟酌するのは責任の多寡である。計上された損害額5700万円をどう分担するかという問題だと言ってもいい。

 元同級生4人と保護者に全責任があるとしたら5700万円はすべてこの人たちに支払ってもらわなければならない。本人の資質に2割の責任があると判断されれば5700万円から2割分が差し引かれる。娘の異常に気づかなかった両親にも5割の瑕疵があると認定されれば5割が差し引かれて残りが被告に負わされる、それが裁判なのだ。そして今回の場合、
元同級生4人と保護者の“責任が証明できない”、だから賠償請は求棄却だというのが論旨である。

「遺書にはどのような行為でどのような精神的苦痛を受けたのか、具体的事実に関する記載がない」
という部分に目が奪われがちだが、遺書以外にいじめの深刻さを証明できるものはほとんどなかった。あとは学校がいじめを認めたという事実が残るが、これも文科省の定義、
 本調査において、個々の行為が「いじめ」に当たるか否かの判断は、表面的・形式的に行うことなく、いじめられた児童生徒の立場に立って行うものとする。
「いじめ」とは、「当該児童生徒が、一定の人間関係のある者から、心理的・物理的な攻撃を受けたことにより、精神的な苦痛を感じているもの。」とする。
 なお、起こった場所は学校の内外を問わない。

に従ったものであり、
 それが直ちに民法上の不法行為に該当するとは言えない
 つまり民法上の概念とは一致しない、という意味なのである。
 これも理解できる。
 そもそもこの定義はムリなのだ。
 
 たとえば、しばしば
「いじめでは、いじめる側といじめられる側が一夜で代わることがしばしばある」
 と言われる。
 昨日までの熾烈ないじめの主犯が、今日は全員に見限られて苛烈ないじめ(やっている側にとっては報復)の対象になる、これはありがちでありこの時点で、
「いじめ」とは、「当該児童生徒が、一定の人間関係のある者から、心理的・物理的な攻撃を受けたことにより、精神的な苦痛を感じているもの。」とする。
を援用すると100%昨日までのいじめられっ子が悪いということになる。
 それも
いじめられた児童生徒の立場に立って行う
わけだから昨日までの被害者に一片の正義もない。
 そんなバカなことがあるだろうか。

 瑞浪事件の場合は、実際に自殺しなければならないほどの過酷ないじめがあったのかもしれない。しかしそこまでのものはなかったのかもしれない。
 裁判が言っているのは、「それが分からない。だから賠償責任を負わせることはできない」という極めて常識的な話なのである。

 被害者にいじめの事実を細々との残せというのは過酷であるが、それが裁判の限界なのである。







2012.12.25

精神的病気で休職の教員5000人超


[NHK 12月24日]


 昨年度、うつ病などの精神的な病気で学校を休職した教員は、前の年度より減少したものの4年連続で5000人を超え、10年前の2倍の深刻な状況が続いていることが文部科学省の調査で分かりました。

 文部科学省が、全国の公立の小中学校と高校、それに特別支援学校の教員を対象に調査したところ、昨年度、病気で休職した教員は8544人と、前の年度より116人少なく19年ぶりに減少に転じました。
 このうち、うつ病などの精神的な病気が5274人と62%を占め、前の年度より133人減ったものの4年連続で5000人を超え、10年前の2倍の深刻な状況が続いています。
 年代別にみますと、最も多いのが50代以上で39%、次いで40代が33%、30代が21%、20代が8%となっています。
文部科学省によりますと、40代以上は校内の業務が集中することにストレスを感じる傾向が強く、20代や30代は保護者への対応に悩む傾向があるということです。
 一方、昨年度、精神的な病気で休職した教員のうち、年度内に復職した人は37%、休職中の人は43%、退職した人は20%でした。また、いったん復職したものの1年以内に再発し、再度、休職した人は12%でした。
 文部科学省は、学校現場の業務量が増え、教員が多忙になっていることが背景にあるとして、業務の見直しや相談体制の充実、復職プログラムの作成など、必要な対策を今年度中にまとめることにしています。



 毎年クリスマス前後に教員の休職状況と、指導力不足教員の数、処分事案の件数が公表される。そしてそのたびに
深刻な状況と言われながら何も変わらない。

 
学校現場の業務量が増え、教員が多忙になっている
 それはその通りだ。
 昔は生活科も総合的な学習の時間も、小学校英語もなかった。中学校でも社会体育の顧問など教員の仕事ではなかった。不登校の指導もなければ「いじめ」だって放置していた。いやそもそも教師が子どもをいじめていた。
 給食費の徴収などという借金取りみたいな仕事もないし、教員評価などというムダな書類作りもなかった。社会見学に出ることも職場体験も性教育も人権教育すらなかった。
 これだけ仕事を増やしてそれができないと教員の質の低下だという。
 そのすさまじいストレスに教師は耐えられない。

業務の見直しや相談体制の充実、
と言っても、総合的な学習や小学校英語をなくすことはできないだろう。

 昔(私が生徒のころ)、子どもは殴ればおとなしくなった。教室で酒臭くても「先生にも困ったものだ」と子どもが大人の対応をしてくれた。今ではセクハラまがいのやり取りも、子どもの成長としてお互いに喜び合えた。それが、現在はすべて許されない。

 正義が確立すればするほど、教育は貧困になっていく。