キース・アウト
(キースの逸脱)

2013年 1月

by   キース・T・沢木

サルは木から落ちてもサルだが、選挙に落ちた議員は議員ではない。
政治的な理想や政治的野心を持つ者は、したがってどのような手段を使っても当選しておかなければならない。
落ちてしまえば、理想も何もあったものではない。

ニュースは商品である。
どんなすばらしい思想や理念も、人々の目に届かなければ何の意味もない。
ましてメディアが大衆に受け入れられない情報を流し続ければ、伝達の手段そのものを失ってしまう。

かくして商店が人々の喜ぶものだけを店先に並べるように、 メディアはさまざまな商品を並べ始めた。
甘いもの・優しいもの・受け入れやすいもの本物そっくりのまがい物のダイヤ
人々の妬みや個人的な怒りを一身に集めてくれる生贄
そこに問題が生まれれば、今度はそれをまた売ればいいだけのことだ。


















2013.01.14

<大阪・高2自殺>体罰の暴走、止まらず 顧問の「王国」で


[[毎日新聞  1月13日]


 大阪市立桜宮(さくらのみや)高校バスケットボール部主将の2年男子生徒(17)が顧問の男性教諭(47)から体罰を受けた翌日に自殺した問題では、この顧問はチームを何度もインターハイ出場に導き、熱血的な指導が評価されていた。その一方、日常的に体罰を繰り返した。生徒が追い詰められるまでに何があり、体罰は止められなかったのか。背景にスポーツ強豪校の閉鎖的な体質が浮かび上がる。

 3年生が引退した後の昨年9月、生徒は立候補して主将になった。顧問からリーダー論の本を借り、意欲を燃やしていた。だが12月に入り、両親は異変に気づく。同月18日、帰宅した生徒の口に血がついていた。「10発ぐらい殴られた」。練習試合でのミスを理由に平手でたたかれ、主将を続けるかどうか悩んでいた。

 翌日、母親が顧問に相談すると「主将は無理そうだ」と告げられた。自殺前日の22日の練習試合。「なぜボールに飛びつかない」「なぜ言ったことをやらない」。ビンタが飛んできた。生徒が練習後、教官室で「しんどい」と打ち明けると顧問にただされた。「何がしんどい。殴られることか」「主将を辞めるならBチーム(2軍)行きや」。生徒が続投を希望すると「殴られてもええねんな」と念押しされた。

 夜、帰宅した生徒は妙に明るい表情だった。「30〜40発殴られた。できない俺が悪い」。遺体が見つかったのは翌朝だった。

 桜宮高は五輪選手を輩出してきたスポーツ強豪校だ。顧問は94年度に採用され、男子バスケ部を19年間指導。部は目に見えて強くなり、過去5年間で3回インターハイに出場した。他校の監督は「王国のようなものを築いていたのでは」と話す。

 自殺前日、指導を手伝う講師2人が体罰を見たが、止めたり高校に報告したりしなかった。2人は顧問の教え子で「恩師に口出しできなかった」と市教委に説明。同校関係者は「顧問が推薦するOBらを講師に採用していた」と言う。

 市教委は同一校での勤務を原則10年までと定めるが、同校は職員42人のうち体育科を中心に13人が勤続10年超。元校長から何度も異動を勧められた顧問は「学校に貢献したい」として残留し続けた。

 大学にも顔が利いたという顧問。市教委の調査に「保護者から全国大会に連れて行ってほしい、大学進学の道筋をつけてほしいと期待されていた」と語った。

 同校では一昨年9月に体罰で停職処分を受けたバレーボール部顧問の男性教諭(35)が昨年11月に再び部員に体罰を加えていた。しかし校長は市教委にも、自殺を受けて開かれた保護者説明会でも隠蔽(いんぺい)。「若い教員に重い処分が下ることを案じた」と内向きの説明をした。この時、徹底調査していれば自殺は防げたのでは−−。報道陣にただされ、校長は「今回のことに結びつかなかったことは考えられる」と認めた。

 大阪府警はバスケ部顧問について暴行容疑で捜査し、目撃者の聴取などを進める方針。市も橋下徹市長直轄の外部監察チームが調査を進める。【津久井達、林由紀子、村上正】



 この件に関して橋下市長は10日の段階で、
「常識的に因果関係がある。体罰が(自殺の)原因だ」
 などと発言しているが、そんな簡単な話ではないだろう。
 殴られるのが嫌だから自殺しました、では故人が浮かばれない。小学校の低学年でもあるまいに、話があまりにも拙速だ。

 私は基本的に自殺した主将が進退窮まったためだと思っている。どう窮まったかというと、その原因は、
「主将を辞めるならBチーム(2軍)行きや」
だ。つまり主将を続けるかBチームへ行くかという二者択一で、両方選択を選べなかった―だから第三の道を選んだのだ。
 もともと非常に誠実な生徒だったらしいから、かなり真面目に主将の仕事に取り組んだはずだ。その結果がよくない。うまくいかない。だからと言って主将を辞めることと引き換えに実力があるにもかかわらずBチームに沈むことはできない―きっとそういうことだったと思う。
 顧問もその子の実力を信じていた。だからこそ主将は辞めさせたくない。辞めさせたくないが今のままでも困る、何とか乗り越えてもらいたい・・・。
 
 教師の仕事は子どもの前にハードルを置き、さあここで跳べというものである。小学校でいえば子どもに「かけ算九九」を学ぶ必然性も必要性もない。中学校でいえば絵の苦手な子が美術を学ぶ必要性も、音楽の嫌いな子が歌を歌わなければならない必然性もない。しかし教師は敢えて子どもの前に課題を置き、さあ乗り越えろと強要する、それが学校の本質なのである。
 放っておいても自然にやる気になるということもないわけではないが、それは極めてまれな例であり普通は意欲も教師が創る。あの手この手を使ってなんとか子どもの状況を乗り越えさせようとする、それが教師の宿命なのである。
 
 ただ、今回の事件についていえば、“顧問”はさまざまな点で見通しを誤った。
 一つには主将が“主将”であり続けることの苦悩の見積もり−顧問はそれを乗り越えられると踏んだが、主将は見かけ以上にまじめで見かけ以上に弱っていた。
 もう一つは、
「保護者から全国大会に連れて行ってほしい、大学進学の道筋をつけてほしいと期待されていた」
 その期待の大きさの見積もり。もちろん体育科のある桜宮高校に進学させるからには、スボーツで名をあげえてくれという願いはあるにはある。しかしわが子がボロボロになる危険を冒してまでも全国へ連れて行けという意味ではなかったはずだ。保護者は普通の口で言うほどには頑迷でなく柔軟性もある。
 
 世間は顧問の体罰を問題にしているが私は立場を異にする。体罰は是か非か、必要悪か否かといった問題にはもう決着がついている。正邪是非を超えて、「体罰」はもはや、やれば処罰される犯罪なのだ。いまさらいろいろ議論していい話ではない。
 
 私はむしろ、教育が常に子どもたちを一定の場所へ追いつめなければならないという性質を持つこと、しかしそれが極めて危険であるということ、その両面を持つことを問題としたい。 








2013.01.16

学校週6日制「完全実施には高いハードル」
教職員の勤務時間ネック


[産経新聞  1月16日]


 文部科学省が学校週6日制の導入検討を始めた背景には、自民党が政権公約に掲げた「世界トップレベルの学力」を実現させる狙いがある。ただ導入には教職員の増員や社会の理解が必要不可欠。省内からも「完全実施にはハードルが高い」との声が出ている。

 現行の学校週5日制は、昭和61〜62年の臨時教育審議会の答申に盛り込まれ、平成4年9月から月1回の土曜休業で始まった。導入趣旨は「ゆとりある中で、子供たちの自ら学び考える力を育むこと」とされたが、一方で一般社会が週休2日制に移行する流れの中で「教職員の勤務時間を改善する目的があった」(文科省幹部)のも事実だ。

 このため、週6日制に戻すためには、まず、教職員の勤務時間の問題をクリアしなければならない。教職員の勤務時間は、法律で週40時間と定められており、土曜授業を実施するには、教職員の増員が不可欠となる。しかし、文科省幹部は「少人数学級実現のための教職員増員でさえ財務省が難色を示す中、これまでやり繰りできた態勢からの増員は容易ではない」と話す。

 また週5日制は長年、社会に定着してきたため、土曜授業の復活には、地域や関連産業にも大きな影響を与える。学校行事や地域でのスポーツ活動、体験学習のほか、学習塾なども土曜日の使い方として一般的になっているからだ。

 ただ、土曜授業復活を求める声は保護者の間で強い。東京都小学校PTA協議会が22年に実施した調査では、保護者の86%が土曜授業を「必要」と答えた。

 文科省によると、23年度には公立小の5・7%、公立中の6・4%が土曜日などに保護者や地域住民向けの公開授業を実施。東京都は22年度から、月2回を上限に土曜授業を実施しており、国語や数学など通常の授業をしている学校もあるという。

 ゆとり教育を見直し、授業時数を増やした学習指導要領が導入されたことにより、週5日制では平日のほとんどが6時間授業となり、学校現場では「教員が放課後、多忙になっている」との声が少なくない。

 元公立中学校長で東京学芸大教職大学院の今井文男特任教授は「平日の放課後に、いじめや不登校、保護者対応などに使う時間がなくなっており、土曜授業を月2回程度復活させて平日の負担を軽減させることが望ましい」と話している。



 まずこの記事を見てカチンとくるのは次のくだりである。
 導入趣旨は(中略)一般社会が週休2日制に移行する流れの中で「教職員の勤務時間を改善する目的があった」(文科省幹部)のも事実だ。
 冗談ではない。言いがかりもいいところだ。

 
学校週5日制は、企業の週休二日制を推進するために、政府が仕組んだ一種の対外政策なのだ。

 月一回の学校5日制が始まったのは平成4年9月、まさにバブル経済の最終局面でのことだ。
 それまでの日本経済は絶好調で世界の市場を席巻しつつあった(それがバブルであると気づく直前のことである)。それに対して欧米、特にアメリカは日本のアンフェアを言い立てた。とにかく労働者の労働時間が違う。日本の労働者は同じ給与で際限なく働く。
 そこから
OECDやILOを通じ、あるいは独力で「労働者の労働時間を短縮しろ」という圧力加えてきた。それに対して政府自民党も官公庁を土曜閉庁にするなどしてなんとか年1800時間労働を実現しようとしたが、民間企業の労働時間短縮は一向に進まなかった。そこで編み出した秘策が「学校週5日制」である。

 どこかに知恵者がいた。
 学校を5日制にすれば母親の一部はパートに出られなくなる。超人手不足の時代にあって、企業は土曜休みにしなければ必要な労働力を満たせない。そして週休二日制度は進む―。
 この作戦はまんまと当たった。今日多くの企業が週休二日であるのは、まさに学校週5日制のおかげなのである。

 自民党が(当時の)文部省に任せず、党文教委員会で学校週5日制を決めたのも、そして年度途中の9月という中途半端なところから始めざるを得なかったのも、バブルがはじけそうな予感の中で何とか欧米の理解を取り付けようと急いだからに他ならない。文部省に任せたりしたら、何年かかるかわからないのだ。

一般社会が週休2日制に移行する流れの中で「教職員の勤務時間を改善する目的があった」
 それは歴史の歪曲だ。
 5日制導入の際、本来は
週休二日制を要求していた日教組でさえ「性急な5日制導入は困る」と苦言を呈したほどたった。しかし何が何でもやらなければならなかったのだ。それを学校や教員のせいにされては困る。


 ところで、学校を週6日制に戻すことについて、教員は反対するだろうか? もちろん賛成なんかしない。しかし押し付けてしまえば、案外抵抗し続けないかもしれない。特に6日制の時代を知っている教員たちは、土曜日の使い勝手の良さを覚えているからすんなりとはまっていくかもしれない。
 弁当を持たせ、土曜日の午後も子どもを残して、学級の仕事をさせたり居残り勉強をさせたり。あるいは中学校では午後の時間をすべて使って部活をすることもできたし生徒会の仕事を進めることもできた。けっこう牧歌的な、楽しい時間だったのである。
 
教員は子どもが伸びるためなら、たいていのことは我慢してくれるし、そもそも子どもの成長を見続けることは大好きなのだ。

 しかしそう言いながらも、時代が変わっている以上それは無理かもしれないと思う面もある。
 教員は週6日制でもいいが事務職員や施設監理員(校務員・用務員と呼ばれる人々)は6日制にはならない。人のそろわない学校はやっかいだ。

 6日制となれば社会も再び変わる。リトル・リーグや少年サッカーの規模は縮小される。観光地は土曜日の集客に苦労し、泊を伴う週末の家族旅行はぐんと少なくなるだろう。親
たちは土曜日の子育てから解放されるから多少は遊びに出るかもしれないが、それほど遠出ができるわけではない。
 そして教員は―、

 土曜授業を月2回程度復活させて平日の負担を軽減させることが望ましい
 それは理想だがそうはならない。今井先生は読み違いをしている。
 
 文部科学省が学校週6日制の導入検討を始めた背景には、自民党が政権公約に掲げた「世界トップレベルの学力」を実現させる狙いがある。
 つまり授業時数を増やすのが目的であって、平日の授業を移したのでは何のための6日制かわからない。平日の忙しさはそのまま残る。
 
 しかしそれにしてもなぜ、
 土曜授業を月2回程度復活
 なのだろう。授業時数が増えるといってもたかだか100時間だ(3時間×35週)。

 リズム感のない生活は学問の敵だ。どうせやるなら毎週同じにしてくれないとさまざまに面倒くさくてかなわない。本来休むべき土曜日の分はすべて夏休みに集め、そこで満喫すればいいだけじゃないか。






2013.01.22

退職金減る…埼玉の教員110人が駆け込み退職


[読売新聞  1月22日]


 埼玉県職員の退職手当が2月から引き下げられるのを前に、3月末の定年退職を待たず今月末で「自己都合」により退職する公立学校教員が、県採用分で89人に上ることが21日、わかった。


 県費で退職手当が支払われるさいたま市採用の教員も、21人が同様の予定という。県教育局の担当者は「例年、定年退職者が年度途中で辞めることはほとんどない。異例の事態だ」としている。該当教員がいる学校では後任の確保の対応に追われている。

 県によると、今年度の県の定年退職者は約1300人(県警を除く)。このうち1月末での退職希望者は教員が89人、一般職員が約30人の計約120人となっている。

 改正国家公務員退職手当法が昨年11月に成立し、総務省が自治体職員の退職手当引き下げを自治体に要請。埼玉県では県議会が昨年末に改正条例を可決し、2014年8月までに平均約400万円が段階的に引き下げられる。改正条例は2月1日から施行され、今年度の定年退職者は3月末まで勤務すると、平均約150万円の減額となるという。2月1日の施行について、県人事課は「速やかな実施が必要」と説明している。



 これだけ読むと、一般職の3倍もの県採用教員が早期退職をする、いかに教員はいい加減かがわかる、ということになりそうだがそうではない。埼玉県の県職は教員が一般職の6倍程度(平成23年度で教員41018人、一般行政職6853人)いるから、89:30というのは、むしろ教員の方が少ないことを示している。

 それにしてもさいたま市採用の21人も含めて、110人もが学校を出て行ってしまうのだから、いかな都会(?)とはいえその補充は容易ではないだろう。教員免許を持っていて、今、仕事がなく、なおかつ2か月間だけ働いてくれる人を110人も探すわけだから、補充しきれないかもしれない。
 ただし110人は41000人余の教員全体からみるとわずか0・27%だから補充が効かなくてもなんとか二か月間、校内でしのげる範囲ともいえる。そのあたりを見越して退職を決めた教員も少なくないだろう。

 今年度の定年退職者は3月末まで勤務すると、平均約150万円の減額となるという。 
 これは誰が考えても愚かな話だ。2月・3月の給与を80万円と見越しても70万円の損になるわけだから。
 逆に70万円を捨ててまでも職を続けようという1200人近くの教員・一般行政職の方が不思議になる。
 
 彼らは誠実な義務遂行者なのか単に迂闊なだけなのか、はたまた大ばか者なのか、私には分からない。








2013.01.22

女児死亡の小学校、9月にも給食アレルギー事故


[読売新聞  1月22日]


 東京都調布市立富士見台小学校で昨年12月、アレルギーのある5年生の女子児童(11)が給食後に死亡した問題で、昨年9月にも1年生の児童がアレルギー原因食材の卵料理を食べ、救急搬送される事故が起きていたことが、同校関係者への取材でわかった。

 学校関係者によると、昨年9月下旬、卵にアレルギーのある児童の給食に誤ってオムレツを出した。この児童はむせるなどのアレルギー反応を起こし、救急車で病院に搬送された。治療を受け、翌日は登校したという。

 同校では通常、アレルギーのある児童には原因食材を除いた特別食を作るなどしていた。児童が2学期に転校してきたばかりで、教職員と調理員の間で児童のアレルギーに関する情報が共有されていなかったという。

 この事故を受け、同校では翌10月に教職員向けの再発防止研修会を開いたが、その2か月後に死亡事故が起きた。市教委は「研修会を開きながら防げなかったのは、教職員の危機意識が低かったと言わざるを得ない」としている。




 無辜の小学生が亡くなっているのだから学校の弁解など聞く必要もないようなものだが、なぜこんなことが起きたのか。
 市教委は「研修会を開きながら防げなかったのは、教職員の危機意識が低かったと言わざるを得ない」としている。
というが、
原因を「意識」の問題に還元している間は事故はなくならないだろう。なぜならそれは毎日のことであり、担任は他にも仕事をしているからだ。
 ・・・と、そういう言い方をすると、各所から一斉に非難の狼煙が上がるだろう。命に関わることは最優先なのだから、他にも仕事があるなどと言っている場合ではないだろうと。
 しかしその最優先のことを最優先にできないところに学校の厄介さがある。

 例えば給食の準備ひとつをとっても、担任が気を遣わなくてはならないことは山ほどある。当番の服装はきちんとしているか手洗いは済んだか、時間通りの行動をしているか、盛り付けは全員に行きわたるよう考えて行われているか、全員に机の上にきちんとナフキンが広げられコップが置かれているか、運び方が不安定でこぼしそうな子どもはいないか、給食を食べながら見ることになっている宿題はそろっているか・・・その中で最優先であるべき“命の問題”がスコンと落ちてしまう。
 1年200回の給食のうち、199回までは集中力を保てたのに、何かの拍子で1回落ち、その落ちたときに事故が起こる。事故とはそういうものだ。
 教職員の危機意識が低かったのは事実にしても、意識を高め、それを保つのは容易ではない。

 ではこうした事故を防ぐ方法はないのか。
 実はある。教員の人数を増やせばいいのだ。ひとつの教室を二人の目で見れば、アレルギー対応ばかりでなく、すべての面で行き届くはずである。
 
 ただしもちろん政府はそんなことはしない。予算の関係で、これ以上は人は増やせないのだ。
 
 太平洋戦争のさなか、米軍の重爆撃機にたいして竹やりで戦いを挑むような精神論が盛んに繰り広げられた。
 あのころと何も変わっていない。







2013.01.26

フランスを二分する宿題廃止論争

■宿題は家庭教育の自由を侵害?


[プレジデント・ファミリー  1月24日]


 フランスで今、小学生の宿題をめぐる論争が盛り上がっている。その発端は、フランス最大の保護者団体が2012年3月に行った、2週間の「宿題ボイコット」。宿題は子供にとって苦痛なだけで効果が薄く、しかも移民の子は親に勉強を見てもらえないなど、家庭による教育格差をも拡大するというのがその主張だった。

 さらに同年10月、フランソワ・オランド大統領も、教育改革の一環として公立小学校での宿題廃止を提言した。じつはフランスの公立小学校では、記述を伴う宿題が法で禁じられているが、最近は学力向上をめざす教師が、独自の判断で宿題を出すことが増えていた。

 宿題が家庭学習の要とされる日本から見ると、こうした議論は奇妙に思える。だがその背景には、フランス革命以来の公教育に対する考え方があると、中央大学文学部の池田賢市教授は指摘する。
「フランスの公教育の大原則は、『公私の明確な区別』と『知育中心主義』です」と池田教授は言う。学校は公的領域、家庭は私的な領域であり、それぞれの場での教育は別のもの。その結果、学校の宿題が家庭の時間に侵入するのは、公による私の自由の侵害ということになる。また、知育は教師という専門家が行ってはじめて質を保証できるもので、家庭は家庭でしかできない徳育に集中するべきだ、とも考えられている。

 こう説明されると、宿題廃止論もそれなりに筋が通っている気がしてくる。とはいえ、高所得層や高学歴層を中心に反対の声も大きく、ある世論調査では回答者の68%が大統領の提案に反対だった。フランスを二分する宿題廃止論争、どんな結果に落ち着くのか。



 鉛筆の持ち方から箸の使い方まで、人間として生きていく術のすべてを学校で教える日本では絶対に起らない論議。
 日本では、宿題もかつては教師が勝手に出してやってこないと罰を与えたものだが、今日では「やってこないのは教師の十分な指導や支援がないからだ」とまで言われ、「宿題の仕方」といった冊子の作成にまで心を砕いている始末だ。

 フランスといえば初等教育から落第のあることで有名な国だ。十分な学力もついていないのに上の学年に上げさせられてしまうのは人権の侵害だというこれも日本では全く考えられない(しかし視点を変えれば全く真っ当な)人権思想のある国である。宿題に対する考え方も全く違う。

知育は教師という専門家が行ってはじめて質を保証できるもので、家庭は家庭でしかできない徳育に集中するべきだ、
 逆に言えば道徳的部分で問題があれば保護者の責任を問える国だ、ということだ。犯罪があってもいじめがあってもそれは家庭の責任で、間違っても「事件の現場は学校だから学校に責任がある」とは言われない。

 教師はどこの国にあっても気楽な仕事ではないと思うが、知育に専念できるフランスの教員たちは私たちよりもはるかにレベルの高い(学力を高めるという意味での)教育ができているはずでその点は羨ましい。

 しかしそれでも学力の国際比較でフランスは日本よりも下位なのだから、日本の教師はやはり優秀―そういうことにはならないのだろうか。







2013.01.31

「文科省の指導要領なんか無視していい」
橋下市長、英語教育批判


[産経新聞  1月31日]


 大阪市の橋下徹市長は31日、市の幹部会議で「文部科学省の英語教育は失敗だったという認識に立ってほしい。子どもたちがこれから国際社会に出て苦労することを考えれば、文科省の学習指導要領なんか無視してもいい」と国の英語教育政策を批判した。

 橋下氏は市の教育振興基本計画を討議する会議で市教育関係者に、英語を話せる教育をしてほしいと求めた。



 橋下氏の言葉の「英語」を「音楽」に、「国際社会」を「芸能界」に置き換えてみる。
「文部科学省の音楽教育は失敗だったという認識に立ってほしい。子どもたちがこれから芸能界に出て苦労することを考えれば、文科省の学習指導要領なんか無視してもいい」

 もちろん「ちょっと待て、いったい子どものうちの何%が芸能界を目指すというのだ」というような話だ。しかしそれが「芸能界」ではなく、「国際社会」だとそうならないのはなぜだろう。芸能界ほど少なくはないにしても、国際社会で丁々発止のやり取りをしなければならない人間は、そんなに多いわけではない。

 橋下市長のような人たちの頭からは、私や私の教え子の大部分がそうであるような平凡な人間は、そっくり抜け落ちてしまうのだ。彼らが相手にするのは「将来国際社会に出て活躍できる、ごく一部の子どもたちだけ」なのだ。もしかしたらそれ以外は「子ども」ですらないのかもしれない。

 ところで、当たり前のことだが
私たちが英語を話せないのは英語教育が間違っているからではない

「日本の子どもたちは中高6年間も英語を学びながら、使える子どもがほとんど育たない」と言われるが、
「日本の子どもは小中高と12年間も算数・数学を学びながら、10年後に微分積分ができる人はほとんどいない」
のも事実
だ。英語の2倍の年月も学んでのことだからこちらの方が問題は深刻だともいえる。もちろん微積だけでなく、ベクトルも行列もなにも思い出せない。理科では摩擦係数もベンゼン環もフレミングの法則も、メンデルの法則も何一つ覚えていない。
 なぜか。
 それは一も二もなくその人たちにとってそれが必要ではなく、使わないからだ。私は社会科教師だから「日米修好通商条約」も「ポーツマス条約」も覚えているが、そうでなければ中学校レベルのこんな単語ですら怪しい人はいくらでもいる。
 国語の能力があまり衰えないのは日本の国語教育がよかったからではない。その証拠に現代国語の力は残っていても古文漢文は忘れてしまっている、それが普通だろう。すべて使用頻度との兼ね合いでしかない。
 
 もしどうしても子どもたち全員を
これから国際社会に出て苦労することのないようにするためには、英語の必要な社会をつくるしかない。
 さしあたり日曜洋画劇場のような番組で吹き替えをするのはやめた方がいい。出版物も「ハリーポッター」並みのベストセラーを除き、翻訳すべきではない。書籍と言えば、特に大学で使う専門書は日本語にしない方がいいだろう。外国製品の説明書が日本語で書かれるのも問題だ。
 
 冗談で言っているのではない。学力世界一のフィンランドはそうなっている。
 フィンランドの人口は540万人。そのうちフィンランド語を用いる国民は93.4%のわずか500万人強しかいない。日本人1億2500万人と比べるとわずか4%である。これではもう翻訳や吹き替えは商業ベースに乗ってこない。
 フィンランドの人たちは子どものころから英語に親しんでいる。英語ができなければテレビも本も楽しめないという社会では必然的に英語への親和性が高まる。


 本当に有能な英語づかいを育てたいなら、いじるべきは学校教育ではない。行うべきことは英語ができないと生きにくい日本の創設である。