ホンダが2年連続トップ、業種では電気・ガスが首位
「なかなか思うように有給休暇が取れない」。そうお嘆きのビジネスパーソン諸姉諸兄も多いのではないだろうか。自社と比較したいこともあり、よその会社の有給休暇取得状況は気になるところ。従業員に優しいとも言われるCSRに積極的な企業の実態はどうなのか。『CSR企業総覧』2013年版の掲載企業のうち、3年間の有給休暇取得率を回答、開示している768社を対象に、有給休暇取得率をランキングしてみた。
ランキング首位はホンダで、前年に続く連覇となった。3年間平均取得率は102.4%(取得日数に前年繰越分を含むため100%超となる場合もある)。09年度102.1%、10年度98.9%、11年度106.1%と、毎年付与日数をほぼ完全に消化している。年末に有休残が20日以下になるよう計画的な取得への取り組みが実を結び、前年に引き続きトップとなった。
2位は神奈川地盤の鉄道大手である相模鉄道が中核の相鉄ホールディングス。3年間平均は101.2%。09年度113.7%、10年度90.8%、11年度99.1%とこちらも毎年高い取得率となっている。5日分(10回)を上限に、半日単位の有給休暇制度を導入するなどで成果を上げている。
3位は2社が96.7%で並んだ。1社がトヨタ自動車。もう1社がホンダ系部品メーカーで電子燃料噴射関連のケーヒンだ。続く5位もホンダ系部品メーカーのテイ・エス テック。こちらは4輪シート部品メーカーだが、94.7%と高水準。6位関西電力94.3%、7位中国電力93.4%と電力大手が続き、8位ダイキン工業92.9%、9位旭硝子91.4%、10位豊田自動織機91.1%という顔ぶれとなった。
厚生労働省「平成24年就労条件総合調査」によると、民間企業の年次有給休暇取得率は49.3%だった。それに対して、今回のランキング対象768社の平均は51.0%。集計値のみ公表する官庁統計とは異なり、個別の会社ごとのデータを掲載する『CSR企業総覧』に具体的数値を回答する分、対象会社は有休取得促進に積極的とも考えられる。それでも、結果は大きくは変わっていない。
(中略)
一方、最も低いのは小売業31.2%(43社)。ほかに建設業32.1%(41社)、倉庫・運輸関連業32.6%(10社)、不動産業36.0%(15社)といった業種が下位となった。
全体的な傾向として、非製造業の取得率が低い。ただし、業種によっては集計対象社数が少なく、一概にその業種の傾向を表しているとはいえないこともあるので注意が必要だ。
長々と引用したが教員の場合はどうか。いろいろ調べたがなかなか見つからなかったので、本校の取得率を聞いた。実は毎年県教委に報告を上げているので数値が事務室にあるのだ(その数値、何に使っているのだろう?)。
それによると本校の取得率は31.2%、小売業と全く同じである。
しかも小売業と違って教員は無給の時間外労働を月平均35時間もやっている。
劣悪な労働環境なのに、だれもそのことを話題にしない。
不思議な話である。
文部科学省は、道徳教育を学校の正規の教科とする時期を、2018年の学習指導要領改定時から前倒しする方向で検討する。
いじめ問題解消につなげる狙いがあり、4月上旬に設置する有識者会議「道徳教育の充実に関する懇談会」で具体的な時期などを詰める。
懇談会は13年度中に提言をとりまとめ、下村文科相に提出する。文科省内には、15、16年度には教科化すべきだとの意見も出ている。
道徳を巡っては、政府の教育再生実行会議が今年2月、「他者への理解や思いやり、規範意識」などを育むために教科化が必要であるとした提言を安倍首相に提出。文科省はこれを受け、10年に1度の学習指導要領改定にあわせて道徳教育の教科化を目指すとしていた。
道徳の教科化に関する議論のすさまじいところは、誰も「道徳の教科化」の意味を理解していない点である。
ある者は
「道徳に成績をつけるなんてありえない」と批判し、別の者は
「今まで学校の授業に『道徳』の時間がなかったこと自体が異常。すぐに始めるべき」と支持する。
「昔はあったのに、なぜなくなったのか」とか
「日教組が『道徳』の時間をつぶしてしまった」とか
「教職免許の取得時にも必須として欲しい」(義務教育の免許では実は必須)とか、何が何だか分からなくなってくる。
そこで教育再生実行会議が何を見て「道徳の教科化」を考えているか、彼らが判断の基礎にした資料を探してみた。するとこんなものが出てきた、
教育再生実行会議第二回会議(平成25年2月15日)の文部科学省提出資料
それを読むと「道徳の教科化」という概念はすでに平成19年12月25日の教育再生会議第三次報告の中にあることが分かる、実行会議の提案はその範囲を越えない。
これを読んで何がどう変わるか説明できる人はいるだろうか。
点数での評価はせず、専門の免許も設けない。小学校、中学校とも学級担任が担当する。
少なくとも見た目は現在とまったく変わらない。
授業内容、教材を充実し、授業時間を確保して、年間を通じて計画的に指導する
というのも現在やっていることである。教育再生会議の資料からも、授業時数が確保されているのは事実だ。
小学校から中学校までの子供の発達段階を踏まえ、それぞれの時期にふさわしい内容で、挨拶や礼儀、善悪の判断、思いやりの心、基本的な社会道徳、責任感、自尊感情、社会への貢献などの指導を行う。
も学習指導要領に細かく規定されている。
偉人伝、古典、物語、芸術・文化などを活用し感動を与える多様な教科書を作る
も各教科書会社がかなり質の高いものをつくっている。
ただし「教科」でないために教科書使用は必須ではなく、そのため購入しない学校もかなりある。いやむしろ道徳教育に熱心な学校ほど教科書に頼らず、自作の資料を大量に生み出している。
もしかしたらそこが政府の気に入らないところなのかもしれない。「道徳」をもっと狭く限定し、政府の思惑に沿った授業が行われるようにしたいのかもしれない。
あるいは(あまり考えられない事だが)教科書をもっと売りたい教科書会社が陰で圧力をかけているのかもしれない。
ちなみに小学校学習指導要領の「道徳」は、現在こんな書き出しから始まっている。
学校の教育活動全体を通じて,道徳的な心情,判断力,実践意欲と態度などの道徳性を養うこととする
つまり学校生活のすべての側面で横断的に行うのが「道徳」だと私たちは教えられてきた。
数学の時間でも人の話をよく聞くこと、ルールを守って発言すること、他人の意見を否定する場合にも約束事があることなど、すべて道徳なのだと私たちは考えてきた。
修学旅行や文化祭の目的の中にも必ず道徳的な内容を含め、そうした活動を通して道徳性を滋養しようとしてきた。道徳とはつまり人間性の学びなのだから特別活動は道徳を学ぶ上で恰好な場なのだ。
ところがその道徳が教科の並びまで降りてきて、数学や英語と同じレベルの扱いになってくる。
そう考えると「道徳」の教科化はまさに「道徳」の格下げでしかないのだ。
私は社会科の教員だが、資料の読み取りに際してしばしば「国語じゃないんだから」といった批判を受けた。数学の時間に社会科の内容を教えるのも不可だろう。
道徳が教科となった時、同じ格の社会科や国語の時間に、道徳的な内容を扱うことは越権となるのだろうか。
いずれにしろ何をどうしたいのかだれもわからないまま、何かが前倒しにされるらしい。
文部科学省は、今春から完全実施される高校の新学習指導要領に「英語の授業は英語で行うことを基本とする」という新ルールを盛り込んだ。26日に検定結果が公表された英語教科書も、多くがスピーチやディベートなど「コミュニケーション重視」を前面に出し、日本語の記述を減らしている。だが、教員からは指導の不安や疑問の声が聞かれ、実際には「文法重視」の従来型教科書の人気が高まるという皮肉な現象も起きている。
中学と高校で6年間も勉強してなぜ話せないのか??。危機感を強めた文科省は「英語」「オーラルコミュニケーション」「リーディング」「ライティング」に分けていた科目を「コミュニケーション英語」「英語表現」「英語会話」に再編。英語を使うことを重視し、教科書作りも進められた。
今回の検定で合格した教科書は、文章を速く読んで大意をつかませ、理解度を穴埋め問題などでチェックするスタイルが目立つ。さらに、そのテーマで生徒にスピーチやディスカッションをさせるが、文中の文法事項は、それらの合間に挟み込む形で付随的に学ばせるものが多い。
ある東京都立高の50代の女性教諭は「文法が体系的に学べない。これでは生徒の頭の中に英語の形が整理されない」と危惧する。読む・聞く・話す・書くの4技能を総合的に学べるのが「コミュニケーション英語」の売りだが「すべてがグチャグチャに混ざって中途半端になる」と生徒の混乱を予想する。
高1対象の多くの教科書は11年度に検定を終え、今春から使われる。このうち「英語表現1」(全17点)の採択では、特定の1社の2点がシェアの46%を占めた。従来のタイプに近い文法重視の教科書だ。
この教科書を使うことを決めた都内のある進学校の男性教諭は「レベルの高い大学に生徒を入れるには、特に1年生できちんと文法を教えざるを得ない」。別の教科書会社の編集者は「まるで文法のワークブック。新指導要領の趣旨からかなり外れているように見えるのに、なぜ検定を通ったのか疑問だ」と話す。この会社は、今回も「英語表現2」で1点が検定を通過した。現場の支持が集まれば、追随する教科書会社が出ることも予想されるが、文科省は「各校が最も適切な教科書を選んでいるのだろう」と静観する構えだ。【苅田伸宏、加藤隆寛】
◇教師の意識や力量が問われる
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鳥飼玖美子(とりかいくみこ)・立教大特任教授(英語教育論)の話 会話や文書で英語を使うには文法など言語構造の知識が不可欠。教科書に文法の説明がほしい教師の気持ちは理解できるが、文法を日本語で一方的に解説するだけで生徒が英語を使えるようにならないのも明らかだ。使える英語の習得のために文法を教えるという姿勢が大切で、教師の意識や力量が問われる。
中学と高校で6年間も勉強してなぜ話せないのか?
その答えは簡単。「必要ないから」である。
必要ない勉強はすべて忘れられる。
英語より深刻なのは算数・数学で小中高12年間学んでも、覚えているのはせいぜいが小学校分。微分・積分が今もできる大人はほとんどいない(必要ないから)。
少なくとも小中学校で一回ずつ学んだ日米修好通商条約と日米和親条約の違いが判らない人がいる。それどころか初耳だと感じる人さえいる(使わないから)。
土星の輪の一番内側の1本を「ベンゼン環」という、と聞いて納得してしまう人がいる(ベンゼン環なんて高校時代以来、一度も使ったことがないから)。
それでいいのだ。学んだことのすべてを覚えていてなおも好奇心をそそられるようでは人生はややこしくなってしまう。
なぜ英語に限って、学んだ人のほとんどが使えるようにならないといけないのか、私には理解できない。
しかしもし、どうしても国民の半数以上に英会話をさせたいのならそれなりの工夫をしなければならない。たとえばテレビの洋画劇場の半数は字幕スーパーだけで放送しなければならない、年間に出版できる翻訳本の数を制限し、ある程度の書籍は英文でないと読めない環境をつくる、外資系のコンビニやファーストフードでは英語しか使えないようにするする、つまり英語ができないと生きにくい国にするのである。
実際それを行っている国もある。たとえばフィンランドがそれで、人口の少ないこの国では、特殊な映画や書籍でない限り、吹き替えや翻訳が商業ベースに乗ってこない。したがって洋画劇場はほとんどが字幕スーパーで大学のテキストも英文がほとんどなのだ。だから英語もうまくなる。
人口の多い日本はそうとう珍しいものでも吹き替えや翻訳が可能になってしまう。そこをまず抑えること。
学校をたたく前にすべきことはそういうことだと私は思う。
ところで、
使える英語の習得のために文法を教えるという姿勢が大切で、教師の意識や力量が問われる。
このフレーズ、どこかで聞いたことがあると思ったら「総合的な学習の時間」の創設の時代にもあったものだ。
「教科書もなければ手本もない。『総合的な学習の時間』は、まさに教師の意識や力量が問われる学習である」
といった使われ方をした。
しかしいかがなものか。
こうした後出しジャンケンのような追加教育で「意識や力量が問われる」と言われても当惑するばかりである。
私たちは子どもの創造的な遊びに詳しかったから教師になったわけではない。(生活科)
英語に堪能だから小学校教師になったわけでもない。(小学校英語)
教科縦断的な問題解決学習を学んできたわけでもない。(総合的な学習)
使える英語の習得のために文法を教える技術にたけていたために高校英語の教師になったわけでもない。(英語で行う高校英語)
技術職で企業に入ったエンジニアが突然営業に回され、「キミの意識や力量が問われる」と言われても素直になれはしないだろう。
私たちは繰り返しそんな状況にさらされ、うまくいかないと「指導力の低下」など揶揄され、見下されているのだ。
「なかなか思うように有給休暇が取れない」。そうお嘆きのビジネスパーソン諸姉諸兄も多いのではないだろうか。自社と比較したいこともあり、よその会社の有給休暇取得状況は気になるところ。従業員に優しいとも言われるCSRに積極的な企業の実態はどうなのか。『CSR企業総覧』2013年版の掲載企業のうち、3年間の有給休暇取得率を回答、開示している768社を対象に、有給休暇取得率をランキングしてみた。
ランキング首位はホンダで、前年に続く連覇となった。3年間平均取得率は102.4%(取得日数に前年繰越分を含むため100%超となる場合もある)。09年度102.1%、10年度98.9%、11年度106.1%と、毎年付与日数をほぼ完全に消化している。年末に有休残が20日以下になるよう計画的な取得への取り組みが実を結び、前年に引き続きトップとなった。
2位は神奈川地盤の鉄道大手である相模鉄道が中核の相鉄ホールディングス。3年間平均は101.2%。09年度113.7%、10年度90.8%、11年度99.1%とこちらも毎年高い取得率となっている。5日分(10回)を上限に、半日単位の有給休暇制度を導入するなどで成果を上げている。
3位は2社が96.7%で並んだ。1社がトヨタ自動車。もう1社がホンダ系部品メーカーで電子燃料噴射関連のケーヒンだ。続く5位もホンダ系部品メーカーのテイ・エス テック。こちらは4輪シート部品メーカーだが、94.7%と高水準。6位関西電力94.3%、7位中国電力93.4%と電力大手が続き、8位ダイキン工業92.9%、9位旭硝子91.4%、10位豊田自動織機91.1%という顔ぶれとなった。
厚生労働省「平成24年就労条件総合調査」によると、民間企業の年次有給休暇取得率は49.3%だった。それに対して、今回のランキング対象768社の平均は51.0%。集計値のみ公表する官庁統計とは異なり、個別の会社ごとのデータを掲載する『CSR企業総覧』に具体的数値を回答する分、対象会社は有休取得促進に積極的とも考えられる。それでも、結果は大きくは変わっていない。
(中略)
一方、最も低いのは小売業31.2%(43社)。ほかに建設業32.1%(41社)、倉庫・運輸関連業32.6%(10社)、不動産業36.0%(15社)といった業種が下位となった。
全体的な傾向として、非製造業の取得率が低い。ただし、業種によっては集計対象社数が少なく、一概にその業種の傾向を表しているとはいえないこともあるので注意が必要だ。
長々と引用したが教員の場合はどうか。いろいろ調べたがなかなか見つからなかったので、本校の取得率を聞いた。実は毎年県教委に報告を上げているので数値が事務室にあるのだ(その数値、何に使っているのだろう?)。
それによると本校の取得率は31.2%、小売業と全く同じである。
しかも小売業と違って教員は無給の時間外労働を月平均35時間もやっている。
劣悪な労働環境なのに、だれもそのことを話題にしない。
不思議な話である。
2013.03.16
決まらぬ「民間校長」 教員全体の人事異動にも遅れ
[産経新聞 3月15日]
行き詰まる学校刷新
体罰問題があった大阪市立桜宮高校をめぐる人事が難航している。現在、市教委幹部が兼任している同校の校長について、市教委顧問で前バレーボール全日本女子代表チーム監督の柳本晶一氏が民間校長の人選を進めているが、内定には至っておらず、教職員の入れ替えの案策定にも遅れが出ている。21日には管理職を除く全高校の人事異動の内示が予定されており、市教委では同校の指導体制刷新に向けギリギリの作業を迫られている。
「校長は学校運営の最高責任者。改革の意思を示すためにも民間人を据える」。永井哲郎教育長は、産経新聞の取材に対しこう強調した。
市教委では同校改革に向け外部人材を積極登用する方針を決め、校長については当初、柳本氏を最有力候補に位置づけていた。橋下徹市長も「最高の人選」とラブコールを送ったが、多忙の柳本氏は「常勤は困難」と固辞したため、同校改革担当の顧問職を新設して迎え入れた。
市教委は応急策として、暫定的に大継章嘉指導部長が校長を兼務する異例の人事を発令。市教委内では「柳本氏の顧問就任で外の空気を入れるという当初の目的は果たせた。校長は市教委内部の人間でもいいのでは」とする声もあったが、事務方トップの永井教育長は民間校長の実現にこだわりを見せた。
永井教育長は「船頭が2人にならず、柳本氏と連携できるように」として、柳本氏に人選を一任。市教委では4月上旬から新校長を就任させ、大継部長の兼任を解く日程を描くが、「具体的な候補者名は事務方には伝わってきていない」(市教委幹部)。
例年なら固まっている時期
桜宮高の体罰問題は教員人事全体にも影響を及ぼしている。
教員の希望などをヒアリングした各校長の報告をもとに市教委が教員人事案を計画、例年は3月の中旬には固まっている。だが今年は年明けに桜宮高校の体罰問題が表面化して前校長が対応に追われ、ヒアリングを行えないまま更迭。同校の作業遅れが影響し、他校を含めた教員の人事案がまとまっていないという。
橋下市長は当初、市教委に同校の教員の「総入れ替え」を求め、その後も「体育系クラブの顧問の総入れ替えは絶対に譲れない。もし平成25年度もいるとなれば人件費は執行しない」と迫っていた。
しかし、市教委では「全員一斉に異動させては学校運営が成り立たなくなる」と否定的だ。橋下市長が体罰を生む一因と指摘してきた同一校での長期在籍教員についても、当初は在籍10年超の教員を原則として4月に一斉異動させる方針だったが、内示を直前に控えて「対象者全員を動かすとはかぎらない」(市教委幹部)とトーンダウンしている。
市立高は23校と学校数が少なく、担当教科も細分化されていることなどから、これまでも異動が滞ってきたといい、「体育系顧問の総入れ替えや長期在籍教員の一斉異動は現実的には難しい」(同)としている。
橋下氏の要望とは乖離(かいり)した人事案策定。だが、策定には橋下市長が信頼を寄せる柳本氏が携わっており、市長も13日には「柳本さんに任せる」と述べ、静観する構えを見せている。
◇
【用語解説】大阪市立桜宮高の体罰問題
昨年12月23日、当時のバスケットボール部主将の2年の男子生徒が自宅で自殺。顧問の男性教諭の体罰に悩んでいたことが判明し、市教委は今春の体育系2科の募集を中止。定員120人分を普通科に振りかえて入試を実施した。弁護士で構成する外部監察チームが自殺と顧問の暴力との因果関係を認め、市教委は2月13日に顧問を懲戒免職処分とした。
民間人校長が問題解決のカギとならないことは、すでに証明済みだと思う。
2001年から登用され始めた民間人校長はその後順調に数を増やしたが100人を超えるか超えないかの状況で停滞している(「民間校長」もう増えない!?)。
一部では「期待はずれ」の声もあるが、民間人校長の側から出される「何を期待されているのかわからない」の方が説得力がある。そもそも民間人校長のアイデアが出た瞬間から、だれもその具体的なイメージを持っていなかったのだ。電電公社がNTTになり国鉄がJRとなってそれぞれ成功したように、民間人に学校を任せれば何かやってくれるのではないかと漠然とした期待を抱いたに過ぎない。
校長も結局は教員の仲間だから大胆な改革ができない、だから民間人校長なのだといった話もあったが、それも結局「何をやらせるか」という話に戻ってしまう。
ある民間人校長は給食の牛乳をビン詰から大型容器による配分方式に代えることで単価を下げた。しかし社会が期待したのはそういうことではないだろう。学習塾と提携して夜の課外授業を行うというアイデアも華々しく報道されたが、その後まったく広まらないところを見るとたいしたものではなかったのだろう。
大阪市立桜宮高校の場合もそうだ。民間人の校長を登用して何をさせたいのか、そこに明確なメッセージがない、だから誰も応募しようとしない。とにかく今までと別なことをすれば何とかかなるかもしれない、といった程度の話では怖くて手を上げられないのだ。
教員の「総入れ替え」というのも現場を分かっていない人間らしい発想だ。
橋下氏の要望とは乖離(かいり)した人事案策定
というより、
学校人事とはかい離した橋下氏の要望
という側面が強い。
具体的に言おう。
これがもし市役所や県庁の人事なら何の問題もない。水道課の職員が教育委員会事務局へ移っても総務課へ異動しても基本的に差支えがあるわけではない。
しかし同じ発音の「課」でも学校の「科」は異なる。「体育科」から「数学科」への異動などできるはずがない。
しかも一人の教員は“体育科教師”という属性のみを持っているわけではない。
年齢、経験年数、経歴、家族持ちかそうでないか、担任が持てるかどうか、部活は何を指導できるか・・・一人の教員は様々な属性を持っていてその組み合わせは非常に微妙である。
総とっかえの結果、全員が新卒となっても困るし、バスケットボール部顧問が8人、バレー部・水泳部・野球部・卓球部・柔道部・・・ゼロでも困る。
それでも“何が何でも総とっかえ”ならもう一つ体育科のある高校との総とっかえしかないが、それでは桜宮高校が隣の学校に移るだけで意味がない。
おそらく橋下氏の希望はかなわないだろう。民間人校長も(よほど間の抜けた人でない限り)引き受けてはないはずだ。
もちろん“できもしないことを平気で迫る”という橋下市長の恐ろしさは確実に職員の記憶に残るはずだ。
体罰問題があった大阪市立桜宮高校をめぐる人事が難航している。現在、市教委幹部が兼任している同校の校長について、市教委顧問で前バレーボール全日本女子代表チーム監督の柳本晶一氏が民間校長の人選を進めているが、内定には至っておらず、教職員の入れ替えの案策定にも遅れが出ている。21日には管理職を除く全高校の人事異動の内示が予定されており、市教委では同校の指導体制刷新に向けギリギリの作業を迫られている。
「校長は学校運営の最高責任者。改革の意思を示すためにも民間人を据える」。永井哲郎教育長は、産経新聞の取材に対しこう強調した。
市教委では同校改革に向け外部人材を積極登用する方針を決め、校長については当初、柳本氏を最有力候補に位置づけていた。橋下徹市長も「最高の人選」とラブコールを送ったが、多忙の柳本氏は「常勤は困難」と固辞したため、同校改革担当の顧問職を新設して迎え入れた。
市教委は応急策として、暫定的に大継章嘉指導部長が校長を兼務する異例の人事を発令。市教委内では「柳本氏の顧問就任で外の空気を入れるという当初の目的は果たせた。校長は市教委内部の人間でもいいのでは」とする声もあったが、事務方トップの永井教育長は民間校長の実現にこだわりを見せた。
永井教育長は「船頭が2人にならず、柳本氏と連携できるように」として、柳本氏に人選を一任。市教委では4月上旬から新校長を就任させ、大継部長の兼任を解く日程を描くが、「具体的な候補者名は事務方には伝わってきていない」(市教委幹部)。
例年なら固まっている時期
桜宮高の体罰問題は教員人事全体にも影響を及ぼしている。
教員の希望などをヒアリングした各校長の報告をもとに市教委が教員人事案を計画、例年は3月の中旬には固まっている。だが今年は年明けに桜宮高校の体罰問題が表面化して前校長が対応に追われ、ヒアリングを行えないまま更迭。同校の作業遅れが影響し、他校を含めた教員の人事案がまとまっていないという。
橋下市長は当初、市教委に同校の教員の「総入れ替え」を求め、その後も「体育系クラブの顧問の総入れ替えは絶対に譲れない。もし平成25年度もいるとなれば人件費は執行しない」と迫っていた。
しかし、市教委では「全員一斉に異動させては学校運営が成り立たなくなる」と否定的だ。橋下市長が体罰を生む一因と指摘してきた同一校での長期在籍教員についても、当初は在籍10年超の教員を原則として4月に一斉異動させる方針だったが、内示を直前に控えて「対象者全員を動かすとはかぎらない」(市教委幹部)とトーンダウンしている。
市立高は23校と学校数が少なく、担当教科も細分化されていることなどから、これまでも異動が滞ってきたといい、「体育系顧問の総入れ替えや長期在籍教員の一斉異動は現実的には難しい」(同)としている。
橋下氏の要望とは乖離(かいり)した人事案策定。だが、策定には橋下市長が信頼を寄せる柳本氏が携わっており、市長も13日には「柳本さんに任せる」と述べ、静観する構えを見せている。
◇
【用語解説】大阪市立桜宮高の体罰問題
昨年12月23日、当時のバスケットボール部主将の2年の男子生徒が自宅で自殺。顧問の男性教諭の体罰に悩んでいたことが判明し、市教委は今春の体育系2科の募集を中止。定員120人分を普通科に振りかえて入試を実施した。弁護士で構成する外部監察チームが自殺と顧問の暴力との因果関係を認め、市教委は2月13日に顧問を懲戒免職処分とした。
民間人校長が問題解決のカギとならないことは、すでに証明済みだと思う。
2001年から登用され始めた民間人校長はその後順調に数を増やしたが100人を超えるか超えないかの状況で停滞している(「民間校長」もう増えない!?)。
一部では「期待はずれ」の声もあるが、民間人校長の側から出される「何を期待されているのかわからない」の方が説得力がある。そもそも民間人校長のアイデアが出た瞬間から、だれもその具体的なイメージを持っていなかったのだ。電電公社がNTTになり国鉄がJRとなってそれぞれ成功したように、民間人に学校を任せれば何かやってくれるのではないかと漠然とした期待を抱いたに過ぎない。
校長も結局は教員の仲間だから大胆な改革ができない、だから民間人校長なのだといった話もあったが、それも結局「何をやらせるか」という話に戻ってしまう。
ある民間人校長は給食の牛乳をビン詰から大型容器による配分方式に代えることで単価を下げた。しかし社会が期待したのはそういうことではないだろう。学習塾と提携して夜の課外授業を行うというアイデアも華々しく報道されたが、その後まったく広まらないところを見るとたいしたものではなかったのだろう。
大阪市立桜宮高校の場合もそうだ。民間人の校長を登用して何をさせたいのか、そこに明確なメッセージがない、だから誰も応募しようとしない。とにかく今までと別なことをすれば何とかかなるかもしれない、といった程度の話では怖くて手を上げられないのだ。
教員の「総入れ替え」というのも現場を分かっていない人間らしい発想だ。
橋下氏の要望とは乖離(かいり)した人事案策定
というより、
学校人事とはかい離した橋下氏の要望
という側面が強い。
具体的に言おう。
これがもし市役所や県庁の人事なら何の問題もない。水道課の職員が教育委員会事務局へ移っても総務課へ異動しても基本的に差支えがあるわけではない。
しかし同じ発音の「課」でも学校の「科」は異なる。「体育科」から「数学科」への異動などできるはずがない。
しかも一人の教員は“体育科教師”という属性のみを持っているわけではない。
年齢、経験年数、経歴、家族持ちかそうでないか、担任が持てるかどうか、部活は何を指導できるか・・・一人の教員は様々な属性を持っていてその組み合わせは非常に微妙である。
総とっかえの結果、全員が新卒となっても困るし、バスケットボール部顧問が8人、バレー部・水泳部・野球部・卓球部・柔道部・・・ゼロでも困る。
それでも“何が何でも総とっかえ”ならもう一つ体育科のある高校との総とっかえしかないが、それでは桜宮高校が隣の学校に移るだけで意味がない。
おそらく橋下氏の希望はかなわないだろう。民間人校長も(よほど間の抜けた人でない限り)引き受けてはないはずだ。
もちろん“できもしないことを平気で迫る”という橋下市長の恐ろしさは確実に職員の記憶に残るはずだ。
文部科学省は、道徳教育を学校の正規の教科とする時期を、2018年の学習指導要領改定時から前倒しする方向で検討する。
いじめ問題解消につなげる狙いがあり、4月上旬に設置する有識者会議「道徳教育の充実に関する懇談会」で具体的な時期などを詰める。
懇談会は13年度中に提言をとりまとめ、下村文科相に提出する。文科省内には、15、16年度には教科化すべきだとの意見も出ている。
道徳を巡っては、政府の教育再生実行会議が今年2月、「他者への理解や思いやり、規範意識」などを育むために教科化が必要であるとした提言を安倍首相に提出。文科省はこれを受け、10年に1度の学習指導要領改定にあわせて道徳教育の教科化を目指すとしていた。
道徳の教科化に関する議論のすさまじいところは、誰も「道徳の教科化」の意味を理解していない点である。
ある者は
「道徳に成績をつけるなんてありえない」と批判し、別の者は
「今まで学校の授業に『道徳』の時間がなかったこと自体が異常。すぐに始めるべき」と支持する。
「昔はあったのに、なぜなくなったのか」とか
「日教組が『道徳』の時間をつぶしてしまった」とか
「教職免許の取得時にも必須として欲しい」(義務教育の免許では実は必須)とか、何が何だか分からなくなってくる。
そこで教育再生実行会議が何を見て「道徳の教科化」を考えているか、彼らが判断の基礎にした資料を探してみた。するとこんなものが出てきた、
教育再生実行会議第二回会議(平成25年2月15日)の文部科学省提出資料
それを読むと「道徳の教科化」という概念はすでに平成19年12月25日の教育再生会議第三次報告の中にあることが分かる、実行会議の提案はその範囲を越えない。
● 教育再生会議第三次報告 (平成19年12月25日)
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これを読んで何がどう変わるか説明できる人はいるだろうか。
点数での評価はせず、専門の免許も設けない。小学校、中学校とも学級担任が担当する。
少なくとも見た目は現在とまったく変わらない。
授業内容、教材を充実し、授業時間を確保して、年間を通じて計画的に指導する
というのも現在やっていることである。教育再生会議の資料からも、授業時数が確保されているのは事実だ。
小学校から中学校までの子供の発達段階を踏まえ、それぞれの時期にふさわしい内容で、挨拶や礼儀、善悪の判断、思いやりの心、基本的な社会道徳、責任感、自尊感情、社会への貢献などの指導を行う。
も学習指導要領に細かく規定されている。
偉人伝、古典、物語、芸術・文化などを活用し感動を与える多様な教科書を作る
も各教科書会社がかなり質の高いものをつくっている。
ただし「教科」でないために教科書使用は必須ではなく、そのため購入しない学校もかなりある。いやむしろ道徳教育に熱心な学校ほど教科書に頼らず、自作の資料を大量に生み出している。
もしかしたらそこが政府の気に入らないところなのかもしれない。「道徳」をもっと狭く限定し、政府の思惑に沿った授業が行われるようにしたいのかもしれない。
あるいは(あまり考えられない事だが)教科書をもっと売りたい教科書会社が陰で圧力をかけているのかもしれない。
ちなみに小学校学習指導要領の「道徳」は、現在こんな書き出しから始まっている。
第1 目標 道徳教育の目標は,第1章総則の第1の2に示すところにより,学校の教育活動全体を通じて,道徳的な心情,判断力,実践意欲と態度などの道徳性を養うこととする。 道徳の時間においては,以上の道徳教育の目標に基づき,各教科,外国語活動,総合的な学習の時間及び特別活動における道徳教育と密接な関連を図りながら,計画的,発展的な指導によってこれを補充,深化,統合し,道徳的価値の自覚及び自己の生き方についての考えを深め,道徳的実践力を育成するものとする。 |
学校の教育活動全体を通じて,道徳的な心情,判断力,実践意欲と態度などの道徳性を養うこととする
つまり学校生活のすべての側面で横断的に行うのが「道徳」だと私たちは教えられてきた。
数学の時間でも人の話をよく聞くこと、ルールを守って発言すること、他人の意見を否定する場合にも約束事があることなど、すべて道徳なのだと私たちは考えてきた。
修学旅行や文化祭の目的の中にも必ず道徳的な内容を含め、そうした活動を通して道徳性を滋養しようとしてきた。道徳とはつまり人間性の学びなのだから特別活動は道徳を学ぶ上で恰好な場なのだ。
ところがその道徳が教科の並びまで降りてきて、数学や英語と同じレベルの扱いになってくる。
そう考えると「道徳」の教科化はまさに「道徳」の格下げでしかないのだ。
私は社会科の教員だが、資料の読み取りに際してしばしば「国語じゃないんだから」といった批判を受けた。数学の時間に社会科の内容を教えるのも不可だろう。
道徳が教科となった時、同じ格の社会科や国語の時間に、道徳的な内容を扱うことは越権となるのだろうか。
いずれにしろ何をどうしたいのかだれもわからないまま、何かが前倒しにされるらしい。
文部科学省は、今春から完全実施される高校の新学習指導要領に「英語の授業は英語で行うことを基本とする」という新ルールを盛り込んだ。26日に検定結果が公表された英語教科書も、多くがスピーチやディベートなど「コミュニケーション重視」を前面に出し、日本語の記述を減らしている。だが、教員からは指導の不安や疑問の声が聞かれ、実際には「文法重視」の従来型教科書の人気が高まるという皮肉な現象も起きている。
中学と高校で6年間も勉強してなぜ話せないのか??。危機感を強めた文科省は「英語」「オーラルコミュニケーション」「リーディング」「ライティング」に分けていた科目を「コミュニケーション英語」「英語表現」「英語会話」に再編。英語を使うことを重視し、教科書作りも進められた。
今回の検定で合格した教科書は、文章を速く読んで大意をつかませ、理解度を穴埋め問題などでチェックするスタイルが目立つ。さらに、そのテーマで生徒にスピーチやディスカッションをさせるが、文中の文法事項は、それらの合間に挟み込む形で付随的に学ばせるものが多い。
ある東京都立高の50代の女性教諭は「文法が体系的に学べない。これでは生徒の頭の中に英語の形が整理されない」と危惧する。読む・聞く・話す・書くの4技能を総合的に学べるのが「コミュニケーション英語」の売りだが「すべてがグチャグチャに混ざって中途半端になる」と生徒の混乱を予想する。
高1対象の多くの教科書は11年度に検定を終え、今春から使われる。このうち「英語表現1」(全17点)の採択では、特定の1社の2点がシェアの46%を占めた。従来のタイプに近い文法重視の教科書だ。
この教科書を使うことを決めた都内のある進学校の男性教諭は「レベルの高い大学に生徒を入れるには、特に1年生できちんと文法を教えざるを得ない」。別の教科書会社の編集者は「まるで文法のワークブック。新指導要領の趣旨からかなり外れているように見えるのに、なぜ検定を通ったのか疑問だ」と話す。この会社は、今回も「英語表現2」で1点が検定を通過した。現場の支持が集まれば、追随する教科書会社が出ることも予想されるが、文科省は「各校が最も適切な教科書を選んでいるのだろう」と静観する構えだ。【苅田伸宏、加藤隆寛】
◇教師の意識や力量が問われる
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鳥飼玖美子(とりかいくみこ)・立教大特任教授(英語教育論)の話 会話や文書で英語を使うには文法など言語構造の知識が不可欠。教科書に文法の説明がほしい教師の気持ちは理解できるが、文法を日本語で一方的に解説するだけで生徒が英語を使えるようにならないのも明らかだ。使える英語の習得のために文法を教えるという姿勢が大切で、教師の意識や力量が問われる。
中学と高校で6年間も勉強してなぜ話せないのか?
その答えは簡単。「必要ないから」である。
必要ない勉強はすべて忘れられる。
英語より深刻なのは算数・数学で小中高12年間学んでも、覚えているのはせいぜいが小学校分。微分・積分が今もできる大人はほとんどいない(必要ないから)。
少なくとも小中学校で一回ずつ学んだ日米修好通商条約と日米和親条約の違いが判らない人がいる。それどころか初耳だと感じる人さえいる(使わないから)。
土星の輪の一番内側の1本を「ベンゼン環」という、と聞いて納得してしまう人がいる(ベンゼン環なんて高校時代以来、一度も使ったことがないから)。
それでいいのだ。学んだことのすべてを覚えていてなおも好奇心をそそられるようでは人生はややこしくなってしまう。
なぜ英語に限って、学んだ人のほとんどが使えるようにならないといけないのか、私には理解できない。
しかしもし、どうしても国民の半数以上に英会話をさせたいのならそれなりの工夫をしなければならない。たとえばテレビの洋画劇場の半数は字幕スーパーだけで放送しなければならない、年間に出版できる翻訳本の数を制限し、ある程度の書籍は英文でないと読めない環境をつくる、外資系のコンビニやファーストフードでは英語しか使えないようにするする、つまり英語ができないと生きにくい国にするのである。
実際それを行っている国もある。たとえばフィンランドがそれで、人口の少ないこの国では、特殊な映画や書籍でない限り、吹き替えや翻訳が商業ベースに乗ってこない。したがって洋画劇場はほとんどが字幕スーパーで大学のテキストも英文がほとんどなのだ。だから英語もうまくなる。
人口の多い日本はそうとう珍しいものでも吹き替えや翻訳が可能になってしまう。そこをまず抑えること。
学校をたたく前にすべきことはそういうことだと私は思う。
ところで、
使える英語の習得のために文法を教えるという姿勢が大切で、教師の意識や力量が問われる。
このフレーズ、どこかで聞いたことがあると思ったら「総合的な学習の時間」の創設の時代にもあったものだ。
「教科書もなければ手本もない。『総合的な学習の時間』は、まさに教師の意識や力量が問われる学習である」
といった使われ方をした。
しかしいかがなものか。
こうした後出しジャンケンのような追加教育で「意識や力量が問われる」と言われても当惑するばかりである。
私たちは子どもの創造的な遊びに詳しかったから教師になったわけではない。(生活科)
英語に堪能だから小学校教師になったわけでもない。(小学校英語)
教科縦断的な問題解決学習を学んできたわけでもない。(総合的な学習)
使える英語の習得のために文法を教える技術にたけていたために高校英語の教師になったわけでもない。(英語で行う高校英語)
技術職で企業に入ったエンジニアが突然営業に回され、「キミの意識や力量が問われる」と言われても素直になれはしないだろう。
私たちは繰り返しそんな状況にさらされ、うまくいかないと「指導力の低下」など揶揄され、見下されているのだ。