キース・アウト (キースの逸脱) 2014年 1月 |
by キース・T・沢木
サルは木から落ちてもサルだが、選挙に落ちた議員は議員ではない。 政治的な理想や政治的野心を持つ者は、したがってどのような手段を使っても当選しておかなければならない。 落ちてしまえば、理想も何もあったものではない。 ニュースは商品である。 どんなすばらしい思想や理念も、人々の目に届かなければ何の意味もない。 ましてメディアが大衆に受け入れられない情報を流し続ければ、伝達の手段そのものを失ってしまう。 かくして商店が人々の喜ぶものだけを店先に並べるように、 メディアはさまざまな商品を並べ始めた。 甘いもの・優しいもの・受け入れやすいもの、本物そっくりのまがい物のダイヤ。 人々の妬みや個人的な怒りを一身に集めてくれる生贄 。 そこに問題が生まれれば、今度はそれをまた売ればいいだけのことだ。 |
中学校での運動部活動のあり方について検討していた長野県教委の有識者委員会が昨年11月、「朝の部活動は睡眠不足や授業への影響も懸念される」として原則やめるべきだとする報告書をまとめた。長野県ではほとんどの中学校で朝練が行われているが、報告書を受けて県教委は各中学校へ示す指針の作成を進めている。朝練禁止は妥当なのか、部活動はどうあるべきか。教育ジャーナリストの渡辺敦司氏と、教育評論家の石井昌浩氏に見解を聞いた。(溝上健良)
◇ ≪渡辺敦司氏≫ 問題提起の意義大きい −−朝練禁止方針が注目されている 「新聞の見出しでは『朝練禁止』となってそこだけ注目されがちだが、平日の部活動は2時間をメドとするとか週2日、完全休養日を取るといったことも報告書に盛り込まれている。長野県の場合、中学生の平均睡眠時間が全国より短く、家庭学習時間も少なく、部活の時間が長い割に効果が出ているとはいえない、といった調査結果もあり全県的な問題であるなら県教委が一定の指針を示すことはあっていい。ただ個々の学校や生徒の事情もあり、一律に制限するのは行き過ぎだろう」 −−長野県教委の方針をどうみるか 「部活動のあり方を問い直す問題提起として、報告書の意義は大きかったといえる。適度な朝練であれば問題はないのだが、生徒の27%が(『どちらかといえば』を含めて)『疲れて1時間目の授業に集中できなかった』と回答している調査結果は無視できない。こうしたデータをもとに問題点を示した点は評価できる」 −−朝練禁止を打ち出すことで「他県の中学校に勝てなくなる」との反論が予想されるが 「長野県内の競技団体は県教委の方針に反対しているようだが、伝統的に日本のスポーツは学校体育に依存し過ぎており、そのことを考え直す必要がある。いま、学校単位での運動部活動は限界にきており、新しい考え方をしていかねばならない。報告書で指摘されているように、中学を卒業したら燃え尽きて、その競技を離れてしまうといったことを招いてはいけない。最近は小学校でも遊びの中で体を動かすことが減っており、いろんな競技を意図的にさせる必要があるだろう。中学校では、学期ごとに競技を変えるようなことをさせてもいい。学校体育に依存し過ぎた競技スポーツのあり方は東京五輪を前に問い直すべきだ」 −−部活動が制限されることで、学校外のスポーツクラブに通う子供が増えそうだ 「いい傾向だと思う。何でも学校で抱え込んでいいのか、という問題提起があって学校も週休2日になったわけで、地域のスポーツクラブと学校との役割分担を考えていくべきだろう」 −−他の都道府県でも長野のような試みは広がりそうか 「部活動は生徒指導上、効果があるのも確かで、教師の負担が大きいのも事実だが、どこの自治体でもなかなか減らせないというのが本音だろう。部活動では経験的な指導が幅をきかせているが、指導の専門性を高めるためには教師に余裕が必要。朝練を禁止すれば教師の負担が軽くなるという面はある。部活動をめぐっては鳥取市教委も昨年『平日の練習時間は2時間以内が適当』とする指針を出しており、後に続く自治体も出てくるのではないか」 ≪石井昌浩氏≫ 筋が違うし行き過ぎだ −−朝練原則禁止をどう評価するか 「疑問だ。学校生活全体を見ないでもっぱら医学的見地から朝練の弊害が指摘されているが、朝練のマイナス面のみが強調されている。こうした指針が必要なら市町村教委が示すのが筋であり、それを飛び越えて県教委が指示するのはいかがなものか。朝練はやめるべきではない。確かに早起きは眠くてつらいかもしれないが、それを乗り越えれば達成感が得られ、忍耐力が身に付くのは何にも代えがたいプラス面だ。そのときはつらくても、後で経験が生きてくる。中学生の時期に何かに全力を尽くすというのは必要なことで、心と体を鍛えるまたとない機会が朝練だといえる」 −−現在の朝練に問題はないか 「問題はあると思うが、原則禁止というのは行き過ぎだ。勝利至上主義に陥らないよう歯止めをかける必要はある。朝練の結果、睡眠不足や成長の妨げとなっては本末転倒で、朝5時に家を出て練習とか、朝から何時間も練習するような過熱した朝練には制限をかけねばならない。長野県教委の方針を全否定するつもりはない。ただ、スポーツで競争自体を否定するのは間違いで、節度をもってやれば、朝練は決してマイナスにはならないはずだ」 −−部活動の教育効果について 「中学時代最大の思い出は部活、と多くの子供は答える。クラスや学年を超えた生徒の交流があり、人格的成長が期待でき、教育的意義は非常に大きい。ただ学校教育の中で、部活動の位置づけは非常にあいまいだ。部活は正規の教育課程に属しておらず、生徒の自発的・自主的な活動とされていて、極言すれば放課後に生徒が勝手にやっている活動ともいえる。実際には顧問教師が指導しているが、顧問の情熱頼みで見返りは限りなくゼロに近い。教育課程の中にきちんと部活動を位置づけねばならない。その意味で長野県教委の問題提起が、部活動の根幹に触れる論議に進むことを期待したい」 −−報告書によると、朝練の結果、1時間目の授業に疲れて集中できない生徒が27%、逆にすっきり臨める生徒が69%いる。この結果をどうみるか 「眠いのは本当に朝練のせいか、疑問だ。むしろネット依存による睡眠障害のほうが深刻な問題ではないのか。69%対27%という数字をみれば、朝練が授業に集中できない理由だとはいえないように思う」 −−現在、長野県の中学校では平日3〜4時間、部活動を行う学校が多い 「それが長いかどうかは、一概にはいえない。基本的には学校の判断に任せるべきだ。長野でも地域差があり、学校の通学圏によっても部活ができる時間は異なってくる。子供たちの生活実態をつかんでいるのは学校であり、校長が指示を出せばいいことだ」 ◇ 【プロフィル】渡辺敦司 わたなべ・あつし 昭和39年、北海道生まれ。49歳。横浜国立大教育学部卒。日本教育新聞社の記者を経て、平成10年からフリーの教育ジャーナリストとして、専門誌などでの執筆活動を続けている。 ◇ 【プロフィル】石井昌浩 いしい・まさひろ 昭和15年、山形県生まれ。73歳。早稲田大法学部卒。都立教育研究所次長、国立市教育長、東京造形大講師などを歴任。日本教育再生機構副理事長。著書に「丸投げされる学校」など。 勝利至上主義については「デイ・バイ・デイ」2013.02.20に一度書いた。私も部活顧問として負けたくない人間だったが、決して全国大会だとか県制覇といった大それた望みを持ったわけではない。ただ、自分の部員たちに惨めな負け方をさせたくなかっただけだ。 同じ3年間を同じ競技にささげた者同士が戦って、こちらは私に指導されたばかりに惨敗し、あちらは優秀な顧問に指導されたので勝利の美酒に酔う、それはたまらないことだった。 繰り返すが、私の生徒がコート上で惨めな思いを味わい続けることは絶対に避けたかった。それは例えばバレーボールの21対3という試合、バスケットボールなら48対6といった試合だ。それはもうなぶり者にされるとしか言いようがない。 相手が地区の最強のチームでも、せめて半分の点数は取りたい―そう考えると、練習はハンパではないものになってしまう。それが部活動の現実なのだ。 その部分を押さえると、 中学校では、学期ごとに競技を変えるようなことをさせてもいい。 といった渡邊氏の意見が、いかに浮世離れしたものか分かるだろう。才能ある中学生を将来のオリンピック選手に育てるために、様々な競技スポーツを経験させるといったレベルの高い話をしているのではない。私たちが抱えているのは、普通の学校の平凡な子どもたちなのだ。それを無様に負けないアスリートに育て上げるのは容易なことではないのだ。 しかし部活顧問の情熱は、そうした「無様に負けない」に由来するだけではない。 部活を通して子どもがどれだけ大きな成長を遂げるか、私たちが経験的に知っているからである。 ひとつには石井氏がいう、 そのときはつらくても、後で経験が生きてくる。中学生の時期に何かに全力を尽くすというのは必要なことで、心と体を鍛えるまたとない機会 という側面。そしてもうひとつは道徳的な面である。 サッカー日本代表のザッケローニ監督はかつて、日本とイタリアの一番の違いを聞かれてこう答えたことがある。 「文化・・・空港で選手たちは iPodを耳にバスのソファに身を投げ出すのではなく 荷物カウンターに並び、係から荷物を受け取り彼ら自身が移動のバスに運ぶ。そんな光景見たことがない。試合後のロッカールームでは汚れものを隅に投げるのではなく、きちんとたたんで 1カ所にまとめ、彼らのうちの1人が持って行く。ソックスはソックス、ユニフォームはユニフォームといった具合に。それも優勝したあとでもそうなんだ」 (2011年1月31日 ラ・レプッブリカ(La Repubblica)紙より抜粋) では日本の選手はどこでこうしたことを学んできたのか。 ヨーロッパの選手たちはすべてクラブチームから出てくる。子どもの頃からのエリートなのだ。エリートが荷物もちをしたり洗濯物を洗ったりすることはない。しかし日本の場合、すべての選手は基本的に部活の中から出てくる。 彼らはグランドやコートに出入りする際に“場”に対して一礼し、用具は自ら手入れし、荷物は自分で整理し、対戦相手に敬意を表し、美しく戦うことを教えられてくる。 多くの部活顧問が言う。礼儀をわきまえない者は優秀な選手になれない。道徳的に高められない者は通用しない、と。 鹿島アントラーズの柴崎岳も言う。 ――柴崎選手が10代の頃に取り組んでいたこと、考えていたことで、今にもつながっているものはありますか? 柴崎岳 今思えば、「サッカーだけではない」ということですかね。サッカーの練習をすればうまくなるのは当然ですが、サッカー以外の面を伸ばしていくこともサッカーがうまくなるための一つの要素だと思います。自分の考え方や、人とどう接するかという人間性の部分が非常に大事だと考えていますし、人として成長することがサッカー選手としての成長につながると思います。 ――部活時代は人間的な成長も意識していたということですね。 柴崎岳 そういう環境で育ってきました。礼儀作法を大切にするサッカー部でしたし、その中で自分の人間性を磨くことが、プロになれた一つの要因でもあると思います。 部活動が制限されることで、学校外のスポーツクラブに通う子供が増えそうだという質問者に対して、即座に 「いい傾向だと思う。何でも学校で抱え込んでいいのか、という問題提起があって学校も週休2日になったわけで、地域のスポーツクラブと学校との役割分担を考えていくべきだろう」 そう答える渡辺はその点でも分かっていない。 政府も道徳の教科化などと言っておらず、学校教育のこうした側面に注目していくべきだ。 しかし、学校の部活動が今のままでいいはずがないことも事実だ。 もっとも問題なのは、 部活は正規の教育課程に属しておらず、生徒の自発的・自主的な活動とされていて、極言すれば放課後に生徒が勝手にやっている活動ともいえる。 というまさにその位置づけである。 実際には顧問教師が指導しているが、顧問の情熱頼みで見返りは限りなくゼロに近い。教育課程の中にきちんと部活動を位置づけねばならない。 部活動は生徒指導上、効果があるのも確かで、教師の負担が大きいのも事実だが、どこの自治体でもなかなか減らせないというのが本音だろう。部活動では経験的な指導が幅をきかせているが、指導の専門性を高めるためには教師に余裕が必要。 部活動が教員を窮地に追い込んでいるのは事実である。部活が過熱しているというよりは本業の方が多忙になった。私が部活動に熱中していた頃は総合的な学習の時間もキャリア教育もなかった。教員評価も学校評価も、免許更新もなかった。通知票や会計報告も今ほどの厳密さを求められなかった。学校にしぶとく食らいつく保護者もいなかった。不登校もいじめも体罰も、現在ほど厳しく対応を迫られはしなかった。 ではどうすればよいのか。どうすればこの切羽詰まった状況を打破し、指導の専門性を高めることができるのか。 答えは簡単である。 定数の決まっている教員社会ではすぐに「多忙だ」という言い方をするが社会一般には別の用語がある。 「人手不足」だ。だったら人員を増やせばいい。 せめて学級担任は部活顧問をしなくて済む程度の増員はできないものか。道徳の重要性を本気で考えるなら、それくらいは安いものだろう。 |