キース・アウト
(キースの逸脱)

2014年 2月

by   キース・T・沢木

サルは木から落ちてもサルだが、選挙に落ちた議員は議員ではない。
政治的な理想や政治的野心を持つ者は、したがってどのような手段を使っても当選しておかなければならない。
落ちてしまえば、理想も何もあったものではない。

ニュースは商品である。
どんなすばらしい思想や理念も、人々の目に届かなければ何の意味もない。
ましてメディアが大衆に受け入れられない情報を流し続ければ、伝達の手段そのものを失ってしまう。

かくして商店が人々の喜ぶものだけを店先に並べるように、 メディアはさまざまな商品を並べ始めた。
甘いもの・優しいもの・受け入れやすいもの本物そっくりのまがい物のダイヤ
人々の妬みや個人的な怒りを一身に集めてくれる生贄
そこに問題が生まれれば、今度はそれをまた売ればいいだけのことだ。


















2014.02.10

いじめ防止や「市民性」も 道徳の教科化で‐渡辺敦司‐


[Benesse 2月 6日]


文部科学省の有識者懇談会が道徳の時間を「特別の教科 道徳」(仮称)とする方向で検討していたことは以前の記事で紹介しましたが、正式な報告書(外部のPDFにリンク)が2013(平成25)年末にまとまっています。これを今後どう具体化するかは学習指導要領の改訂を検討する中央教育審議会に委ねられることになりますが、指導要領の全面実施が東京オリンピック・パラリンピックに合わせた2020(平成32)年度からとなる見通しであるのに対して、文科省は提言内容を前倒しで実施したい考えです。道徳教育がどう変わるのか、報告書を見てみましょう。

報告書は、道徳教育を「国や民族、時代を越えて、人が生きる上で必要なルールやマナー、社会規範などを身に付け、人としてより良く生きることを根本で支えるとともに、国家・社会の安定的で持続可能な発展の基盤となるもの」と位置付けたうえで、道徳教育の現状について、

▽歴史的経緯に影響され、いまだに道徳教育そのものを忌避しがちな風潮がある
▽道徳教育の目指す理念が関係者に共有されていない
▽教員の指導力が十分でなく、道徳の時間に何を学んだかが印象に残るものになっていない
▽他教科に比べて軽んじられ、道徳の時間が、実際には他の教科に振り替えられていることもあるのではないか

といった課題を指摘。一方で今、グローバル化や情報通信技術(ICT)、少子高齢化の進行、自然災害の発生など、正解のない社会状況に対応しながら一人ひとりが自らの価値観を形成して人生を充実させるとともに、国家・社会の持続可能な発展を実現することが求められるとして、道徳教育の役割に改めて期待を掛けています。

充実すべき内容としては、

(1)いじめの防止や生命の尊重
(2)困難に屈しない心、自律心
(3)家族や集団の一員としての自覚
(4)多様な人々が共に生きていく上で必要な相互尊重のルールやマナー、法の意義を理解して守ること
(5)社会を構成する一員としての主体的な生き方
(6)グローバル社会の中での我が国の伝統文化といったアイデンティティに関する内容や国際社会とのかかわり

を例示しています。また、子どもの発達段階に合わせて、自分自身も社会に参画して役割を担っていく立場にあることを意識させたり、社会の在り方について多角的・批判的に考えさせたりする「シチズンシップ(市民性)教育」の視点に立った指導も重要だとしています。

懇談会では現行の道徳教育教材『心のノート』の全面改訂作業も進めており、名称も『私たちの道徳』と改めて2014(平成26)年4月から全国の小・中学生に配布し、学校で使用してもらうことにしています(近く公表予定)。新しい道徳教育の本格的な実施には中教審の答申を待たなければなりませんし、正式に教科化が決まっても検定教科書の発行までに最低3年かかります。文科省は、それまでは『私たちの道徳』を教科書代わりに使ってもらうことで、実質的な前倒しを図るものと見られます。また、2014(平成26)年度予算(外部のPDFにリンク)にも先生方に道徳教育の指導方法を研究してもらうなどの予算案を計上しています。
以前紹介したように過去に受けた授業を「覚えていない」というのではなく、後々まで心に残り、人生にも大きな影響を与える道徳教育を期待したいものです。



 道徳の教科化についての文は何度読んでも分からない。
 この問題には世間の誤解があって、
「オレが子どものころは週一回の道徳の授業があっていろいろ偉い人の話聞かされたのになあ、なんでなくなっちゃったのだろう」
 そんなふうに考える人には、記事はよくわかるらしい。

 しかしすでに9教科(小学校では8教科)の上に君臨する「道徳」という形で特別扱いすることに慣れている教員にとっては、それはいつまでもなぞなのだ(よくわからないから疑心暗鬼になって「やはり個人に点数をつけるらしい」といった、こちらも誤解にまみれてしまう)。
 総合的な学習と道徳、体育、食育の四つは教科の上に立っている。だからこそ教科の中で横断的に指導できるのだ。道徳が国語や数学と横並びになったら、隣の領域に侵入できない。数学の時間に国語をやってはいけないように、国語の時間に道徳の要素を扱ってはいけないということになりかねない。

 そもそも現状認識が共有されない。
▽歴史的経緯に影響され、いまだに道徳教育そのものを忌避しがちな風潮がある
 本当か?
▽道徳教育の目指す理念が関係者に共有されていない
 だとしたら現行制度での文科省の指導に不足があるということになりはしないか?
▽教員の指導力が十分でなく、道徳の時間に何を学んだかが印象に残るものになっていない
 それなら数学だって理科だってそうだろう。数学や理科の時間に何を学んだか印象深く覚えている人は少ないはずだ。学んだ印象はなくても技能は定着する。大切なのは何を学んだかではなく、どんな力がついたかだ。
 東日本大震災のとき日本人が見せた道徳性は、授業や人の教えをいちいち思い出してのことではない。 江戸時代の武士だって何かの行動を起こすとき、「師の曰く・・・」とか言っていちいち論語の引用をしたわけではないだろう。
▽他教科に比べて軽んじられ、道徳の時間が、実際には他の教科に振り替えられていることもあるのではないか
「あるのではないか」・・・これは推測である。少なくとも文科省に出された報告では「道徳」は必要時数行われていることになっている(少なくとも私の周辺では基準を上回る道徳の授業を行っている)。証拠より推量を優先する態度はおよそ科学的でも道徳的でもない。

 二言目には、
教員の指導力が十分でなくと他人のせいにするが、政府も自民党もやるべきことをやっていない。

 例えば、優秀な人材を集めたければ特別の待遇をもって饗するしかないという市場の鉄則を守ろうとしない。
平凡な待遇で集めた平凡な人材を叩いて人間がつぶれてしまうだけだ。

 道徳を特別なものにしたければ、道徳免許を用意し、道徳専科の教員を置くくらい当然
なことだろう。中学校を例に考えてみればいい。「数学教育が専門の教員が教える道徳」そうつぶやいただけでも、数学と道徳の軽重が明らかになる。
 教員の指導力の問題より、政府・議員がきちんとした政治を行って経済を活性化し、税収を大きく伸ばしてその金で道徳専科教員を配置する、それが本筋だ。
 
 ▽で示された道徳教育の現状について、あと2項目付け加えておこう。
 
▽政治家の力が十分でなく、道徳専科の教員配置や、やる気の出る教職員待遇の達成ができていまい。
▽徳田何某、猪瀬何某といった不道徳な政治家が、目立つところで不道徳な行跡を残している。







2014.02.16

内外偉人伝など読み物充実 文科省、新教材「私たちの道徳」公表


[産経新聞 2月14日]


 文部科学省は14日、新年度から全国の小中学校に配布する道徳用の新教材「私たちの道徳」を公表した。道徳教育の充実を図るため、現在配布している「心のノート」を全面改定。国内外の偉人伝など読み物を充実し、ページ数を約1・5倍に増やした。全国の国公私立小中学校に無償配布する。

 新教材は心のノートと同様、小学校低学年、中学年、高学年、中学校用の4種類。文科省は新年度から全小中学生の手に渡るよう計約1000万部用意した。作成費は郵送代を含めて約9億8000万円。

 坂本龍馬らの偉人伝、イチローや高橋尚子さんら世界で活躍するスポーツ選手のエピソード、いじめの未然防止につながる題材や情報機器の適正な利用法、日本の伝統文化に関する読み物を盛り込んだ。

 文科省は小中学校で週1回設定されている「道徳の時間」や、家庭や地域での活用を想定している。

 道徳教育をめぐっては昨年、政府の教育再生実行会議と文科省の有識者会議が、現在は正式な教科ではない「道徳の時間」を教科に格上げするよう提言。これを受け、文科省は17日にも、道徳の教科化について中央教育審議会に諮問する。中教審では教科書や評価、教員養成のあり方について検討される見通し。



 校長は教員ではない。ご存じだろうか。
 教育関係の法令を見ていると繰り返し「校長および教員は」という表現が出てくるから間違いなく校長は教員ではない。
 また「学校教育法」28条には、
○3 校長は、校務をつかさどり、所属職員を監督する。
○4 教頭は、校長を助け、校務を整理し、及び必要に応じ児童の教育をつかさどる。
○6 教諭は、児童の教育をつかさどる。
 とあるから、校長は児童「教育」をする存在ではないのだ。

 ここから、
「それではいけない。校長を格上げして、“特別な教員”にすべき」という話が出てきたら人々はどう思うだろうか。
 現在は正式な教科ではない「道徳の時間」を教科に格上げする
はまさにそういうことである。

「道徳の時間」には免許もなく専科の教員が配置されるわけでもない。学級担任が自分の専門教科の傍らでやっているから何となく格下に見えるが、じつは「教科」「特別活動」「総合的な学習の時間」と並ぶ学校教育の4本柱のひとつなのだ。そして「道徳」が「教科」「特別活動」「総合的な学習」のすべての中で行われる以上、「道徳の時間」はさらに一段高いところに君臨するものと考えられるのだ。

 それを教科の中に入れるというのは2段階の格下げに等しいと、誰も知らないのだろうか。いやそうではあるまい。 文科大臣も官僚も、政治家たちも知っている。知っていて国民の誤解(もう道徳の授業はやっていないらしい)を醸成し、それに乗じて自らの価値観を押し付けたいのだ。それが
 坂本龍馬らの偉人伝、イチローや高橋尚子さんら世界で活躍するスポーツ選手のエピソード、いじめの未然防止につながる題材や情報機器の適正な利用法、日本の伝統文化に関する読み物
 から得られるだろうという部分が、あまりにもチンケなのだが・・・。